南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

都市大坂と非人(塚田 孝)

都市大坂と非人
塚田孝『都市大坂と非人』(日本史リブレット40)、山川出版社、2001年

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【服部 洋介・撰】

 

概要

 塚田孝『都市大坂と非人』の抜き書き。大坂の四ヶ所垣外が近世都市・大坂とパラレルに形成されたもので、中世以前から継続的に存在するものではないということを論じる。後に創案された寛文10(1670)年の天王寺垣外における施行院建立のために提出された由緒書の内容に、自らを非人を管理する立場にあるとする垣外仲間の意識変容を指摘。垣外番株と勧進権の家督化など、自らを所有の主体として位置づけるに至る非人集団の変容を研究するもの。あわせて、塚田「非人――近世大坂の非人と由緒」(『シリーズ近世の身分的周縁3 職人・親方・仲間』吉川弘文館)を参照されたい(内容は本書とほぼ同一)。本記事は、ほぼ同書の内容を網羅しているが、関心のある個所の覚書にすぎないので、あくまで参考に留め、原書に当たっていただくことをお勧めする。  

 

都市大坂と非人 (日本史リブレット)

都市大坂と非人 (日本史リブレット)

 
職人・親方・仲間 (シリーズ近世の身分的周縁)

職人・親方・仲間 (シリーズ近世の身分的周縁)

 

 

所蔵館 

県立長野図書館

 

タイのスクンビットにて

 2014年1月30日のことである。バンコクスクンビット通りのカシコン銀行前で、老夫が二胡を奏するに出会った。となりに婦人をともなっており、夫婦であろう。缶詰の蓋を切って鉢として、誰に聞かせるでもなく、物悲しい曲を奏でている。ここが彼らの乞場なのであろう。少し話して楽器を見せてもらい、一曲やってもらったが、何を話しても微笑んで首を振るばかりで、「喜捨はありがたくいただくが、まあ構わないどくれ」と言わんばかりであった。隣に座っていた老婦人のほうは、私を伏し拝み、表情豊かに感謝の意をあらわしていたが、これは稀なことで、私の会った乞人たちのほとんどは、リアクションする余裕もない人々であった。もっとも、喜捨すれば功徳を積めるのだから、されて当然という思想がないわけではない。わが国でも叡尊などは、非人を文殊菩薩の化身とみて、救済に尽くしたものである。高級街スクンビットの往来では、すりきれた青い服を着た片足のない人が、両手で皿をもって地面を這いずっていた。「いや、本当は歩けるんだろう」という話もないわけではないが、喜捨もほとんど集まってはいない様子であった。

バンコク、カシコン銀行前

 タイの国営通信社TOTの公衆電話は、夜になると、ホームレスの寝床となる。欧米人が夜遊びにくりだして、夜中の3時過ぎまでドンチャンやらかすスクンビット22通りでは、浮浪者が何かを求めて側溝の蓋を開け閉めしている。社会的弱者への施しはタンブン(功徳)になるはずなのだが、どうも喜捨(サイバーツ)の大部分は、霊験あらたかな寺院へ納まるもののようである。藤原時代の如くである。

バンコク、TOT公衆電話

バンコクスクンビット22の入口付近



 

近世都市と非人集団の形成

 塚田孝『都市大坂と非人』を読んだ。大坂の四ヶ所垣外が近世都市・大坂とパラレルに形成されたもので、中世以前から継続的に存在するものではないということを論じている。非人とは何か、ということを述べるのは、非人自体の性格の歴史的変遷もあってむずかしい。上に述べたような無宿の人を、江戸時代は野非人といった。私も学生時代にホームレスたちに混じって奈良公園で寝たものだが、江戸の野非人というのは、無宿であるばかりではなく、無戸籍でもあった。また、非人の中には特定の芸能にかかわる者もあったが、私がタイで出会った胡弓弾きの夫婦は、あるいはラオスから来た人であったかも知れない。英語は勿論、タイ語も通じない人たちで、タイで「ラオス」といえば、「貧しい田舎者」といったものの代名詞である。江戸っ子たちは、信州生まれの者を「しなもの」と呼んで田舎者の代表格のように扱ったものだが、東京というのは田舎者の集積体であって、信州出身者の子孫が全人口の一割を占めるという話を聞いたことがある。出典は定かではない。

 さて、近世の非人は、大都市の形成とともに発生した、とされる。そのことを理解するために、まず「町」とは何か、ということが説かれる。

 

近世都市の町人地に普遍的な基礎組織が「町」であったが、「町」とは町人身分(家持ち)の共同組織であった。年には家持ち以外にも多様な職業の借家層や「日用」(ひよう)層が形成されていた。*1

 

 〈日用〉とは何か。註に曰く、

 

江戸をはじめとする都市域に大量に存在した日雇い労働者の階層。自己の労働力を販売して生計をたてることを特徴とする。鳶口(とびぐち)・手木(てこ)の者などの土木人足、米舂(こめつき)、駕篭舁(かごかき)、飛脚人足などのほか、武家奉公人、商家の台所方奉公人なども含まれる。*2

 

 とのことである。様々な仕事があるものだが、非人の仕事はちょっと違っていて、基本的には乞食である。もともと寺社に付属して清掃に携わっていたこともあって、その名残か、〈庄助しょ〉という芸で銭を得るものもあった。これは、竹箒をもって店の前を掃きながら「庄助しょ、掃除しょ、朝から晩まで掃除をしょしょ」と言いながら歩くだけのものであったが(『江戸商売図絵』などを見よ)、そういえば、タイにもやたらと箒をもった人がいて、何をするでもなく、掃除をする形ばかりして日を送っているのを見た。仕事らしい仕事はないが、それも仕事というのが面白い。これなら失業の心配もないというわけである。もっとも、ベーシックインカムが実現すれば、形ばかりの掃除も無用のものとなるだろう。

 いずれにしても、こうした都市の発展は、多数の〈非人〉と呼ばれる人々を生み出した、といわれる。大まかに非人とは、さまざまな原因で生活破綻に陥り、乞食=貧人という境遇にある人々のことで、歴史的に見ると、平安末期から京都や奈良などの都市を中心に非人と非人宿(ひにんしゅく)が形成され、中世後期にいたって穢れの清めにかかわる職能分化の中でさまざまな呼称で呼ばれる諸身分に発展したものである。近世の非人は、中世の非人と本質的には共通するものであったが、存在形態は大きく異なっていた、という。*3

 

大坂の「四ヶ所垣外」

 さて、都市大坂の非人は、四ヶ所の垣外と呼ばれる区域に集住していた。天王寺垣外、鳶田垣外、道頓堀垣外、天満垣外の四つである。いずれも大坂三郷(近世大坂は北組・南組・天満組に分けられ、各組に数名の惣年寄がいた)の周辺に位置し、それぞれ天王寺村、今宮村、難波村、川崎村の領内にあった。各垣外には、トップに長吏と呼ばれる者が一名、さらに数名ずつの小頭(あるいは組頭)がいて、「(長吏・小頭)御中」と呼ばれる垣外の指導機関を形成していたという。これ以外の一般の小屋持ち非人たちは「若き者」と呼ばれ、垣外により数十人から百人くらいであったと思われる。以上が小屋持ち非人で、その他に彼らにかかえられた弟子がおり、弟子の中らは町あるいは町人のもとに垣外番として派遣された者もいた。一つの垣外を越える問題には、高原溜(たかはらため)の高原会所で四ヶ所として対処した。その他、摂津・河内・播磨の村々に置かれた在方の非人番も、多くは四ヶ所の支配下だった。*4これは野非人ではなく、定住の抱非人と呼ばれるものであろう。

 四ヶ所垣外は、文禄3(1594)年に片桐市正(且元)の検地に際して地面を与えられたことに始まるという。その後、今宮村領内の荒れ地を垣外屋敷地として与えられたのが鳶田垣外であり、道頓堀垣外は、検地に際して除地(近世の検地において年貢免除とされた土地)とされた荒れ地を、元和8(1622)年に大坂町奉行嶋田越中守・久貝因幡守から屋敷地に下されたことに起こり、天満垣外も除地を垣外屋敷に下しおかれたものであるという。その後の検地で、鳶田・道頓堀・天満垣外は、荒れ地としてではなく、垣外屋敷地として除地を認められたと『悲田院文書』にある。天王寺垣外は四天王寺に対して悲田院と称するので、その史料群は『悲田院文書』と呼ばれている。*5

 

四ヶ所非人の起源

 ところで、道頓堀垣外にいた転びキリシタンのうち、生所のわかる者のうち、大坂の非人集団の中で生まれたという者は一人もいない、という。彼らは三河・伊勢・山城・摂津・紀伊・淡路・播磨・備前などの広い地域の生まれであり、何らかの経緯で道頓堀の非人集団に加わったのである。そこから長吏、組頭や、鳶田の長吏に嫁す者が出ている。垣外の中心を占める者が他国の生まれであることは、彼らが非人となり、集まって道頓堀の非人集団を形成したものと考えられる。*6つまり、大坂の非人集団は、近世以降に形成されたものであって、中世起源のものではない、ということがいえるのである。

 寛永21年の転びキリシタンの詮議の際、天王寺垣外においては、専応という坊主が重要な役割を果たしている。後年、そのことを非人の太兵衛が竹林寺の由緒に書き上げている。専応は、備前岡山の浄土寺という寺で〈納所〉(なっしょ=平僧役)をしていた。その後、非人となって大坂に流れてきて三九郎と名乗って天王寺垣外の長吏・次兵衛の弟子となり、紙屑などを拾って生活していた(紙屑拾いは非人の生業の一つである)。その様子は「新参乞食あわれ不便」と表現されている。こうしたとき、垣外の宗旨改めが命じられ、長吏以下、誰もが無筆で困っていたところ、文字を書くことができる三九郎を召し出し、これにより垣外全員の名前の書付を提出できた。この功により、寺社役与力(大坂町奉行所内の役懸かりとしての寺社役。江戸のような寺社奉行はいなかった)の仰せで剃髪し、専応という名で「中間(なかま)の会所」において念仏を勤めるようにしたという。17世紀前半期には天王寺垣外の構成員も流入してきた非人がまだ多かったと思われ、大坂の非人たちは、〈乞食=貧人〉として生み出されたのは間違いないと、塚田氏は見ている。*7

 道頓堀垣外の孫七家の系図を見てみよう。その子孫の多くは道頓堀垣外(難波村領乞食在所)に暮らして定着したが、孫七の娘たちの夫は奈良や播磨の人で、その頃は、まだよそからの流入が多かったものとみられる。娘婿は20年ほどして福島村に移り、その息子も同村の非人として生涯を終えた。垣外から各地の村々に非人番として移る事例もあった。孫七の子孫は京不動堂の非人仲間に入り、千本通墓所聖(ぼしょひじり。隠亡と呼ばれ、死体の埋葬・火葬と墓所の管理を行なう者たちのこと。大坂の墓所六ヶ所の一つ道頓堀墓所は垣外と隣接して存在していたが、垣外仲間(非人)と墓所聖六坊の者とは関係があった。京都では非人と墓所聖は一体のように見える。なお、不動堂の非人の支配人・田中兵部は「京伏見稲荷御旅所の神主にて候、御旅所境内に乞食共罷り有り候故支配申され候」と言われている。また墓所については「京千本通三品蓮台寺墓所聖」と言われ、田中兵部が「右墓所支配人」であった)を勤めていた。京都の非人集団と大阪の非人集団につながりがあったことがうかがえる。*8

 一方で、百姓となった者もいた。道頓堀垣外、久右衛門の子・五兵衛の系統は、泉州大鳥郡草部村で「乞食」「番非人」となり、定着した。五兵衛の孫・六助は「類族離れ」のため「百姓分ニ致」とされた。草部村には多くの乞食が定着したが、実態は下層百姓に近くなっていたか。しかし転びキリシタンの類族であるかぎり、乞食=非人身分を離れることができなかったのではないか、と塚田氏は考える。それが類族の範囲を越えたので、百姓分となったのだろう(男系五代、女系三代で類族を離れた)。*9

 このように、非人仲間のネットワークは広範なものであったと見え、他国にまで及んでいたらしい。道頓堀垣外の小屋持非人で、弟子のきわ(21)と欠落した治兵衛(43)を近国方々を探索して1ヶ月半後に尾張垣外仲間にいるところを召し捕り、手鎖(てじょう)・預(あずけ)とした事例が紹介されている。のちに治兵衛は赦免、きわは垣外から追放。治兵衛抱えの弟子・久太は親方に怨みなしと言っているので、久太ときわは夫婦だったのだろう。そのまま治兵衛の弟子として残ることに異存はないということのようである。尾張へ行っても大坂の垣外仲間は探索ができた、というわけだ。*10

 墓所聖から医者になった者もあった。道頓堀垣外の長吏だった道味の系統は垣外仲間に定着せず、道頓堀墓所聖の仲間に含まれていた。大阪周辺には道頓堀墓所・鳶田墓所・小橋(おばせ)墓所・梅田墓所・葭原(よしわら)墓所・浜墓所の六ヶ所があり、道頓堀墓所には東之坊・西之坊・南之坊・北之坊・中之坊・隅之坊の聖六坊がいた。道味系統は聖六坊ではないが、到岸・乙松・正龍らは薬師堂に住し、墓所聖らの五人組に含まれていた。垣外との婚姻関係は続いており、正龍、清岸は医者、外科医となった。清岸は大阪町家に移ったという。*11

 一方、『きく系図』によると、きくの孫の鉄心は上安堂寺町吹田屋次郎兵衛店を借り、〈鉢開き〉(鞍馬の願人が札配りや代参と並んで、たたき鉦を掛け、念仏を唱えるものとして挙げられる勧進)で暮らしていたという。しかし、老年になり勧進できなくなって、飢命に及んだため、道頓堀垣外で引き取って養われていた。彼は町家に移っていたが、垣外仲間と断絶していなかった。*12〈鉢開き〉というのは願人坊主のなりわいだが、これは鞍馬寺の配下(江戸では寛永寺の配下)であって、非人とは競合するもので支配系統も異なっていたと考えられるのだが、どうであろうか。鞍馬の願人と垣外仲間が混合していたということであろうか。梓巫女を統率した神事舞太夫は浅草の田村家支配であったが、これも恵比須願人と職能のかぶっているところがあったためか、のちに混合を禁じる触れが出されたことを思い起こさせるものである。

 そのことについて、塚田氏は次のように書いている。大坂には垣外仲間以外にも勧進を生業とする多様な存在が併存していた。京都の鞍馬寺大蔵院末の大坂の願人(がんにん)仲間を研究した吉田伸之氏によると、願人仲間は本組・新組からなり、「正月の鞍馬寺の札配りをはじめとし、金毘羅社・住吉社・秋葉大権現への代参などを名義として、市中家々の軒先・門先を廻り、多少の施物を乞う」存在であった。その一部(新組)には、東寺・竜光寺・壷坂寺などの勧進僧が大坂での勧進のために一時的に参加した者たちが含まれ、修験系や念仏系の乞食坊主・勧進者のグループが競合していたという。願人などの乞食坊主は、それぞれの名義の勧進を行ない、非人は大国舞・節季候(せきぞろ)などの固有の勧進を独占していたわけであるが、実際には類似した行為で競合する局面も見られたであろう。そのような意味で、天王寺垣外から町家に出て、鉢開きをしていた鉄心が思い起こされるというのである。*13

 

非人集団の階層分化

 さて、17世紀後半、村領に四ヶ所以外の〈野非人〉(のひにん)がおおぜい定着してきたので、それらを四ヶ所に組み込むことになり、村に小屋掛けしている非人たちを吟味するということがあった。村役人と垣外の長吏が取り決めて、町奉行所などはかかわっていない。四ヶ所から札をわたして宗旨を改め、管理下に置けば不審な非人ではなくなった。大坂市中の場合は、川端、家はずれにも小屋を建てて、また川辺の蔵の下の傾斜地(納屋下)に住み着いた非人があり、四ヶ所に引き取られたが、垣外屋敷に明地(あきち)がなく、下難波村から畑一反を借りて新垣外とした。新垣外は、東、北、西を塀で囲み、南に門が開かれており、普請費用は北組の惣会所(三郷の各組の惣年寄らの執務する会所)から出された。町奉行所も市中に非人を置かないという方針で、新非人を収容する非人小屋を作り、これが四ヶ所で共同管理する高原溜(たかはらため)になってゆくというのである。*14

 高原溜について付記しておこう。安永2(1773)年6月20日の町触に次のようにある。これまで無宿の行倒れ非人は、行き倒れていた町で養生させるように命じてきたが、町人たちの難渋となっているので、三郷より小屋建て費用などを、公儀より粥・薬代などを負担して、小屋を建てて収容するという案について、各町の賛否を求めるというのである。この案は実現し、以後、三郷の行倒れを「長吏共小屋」(高原小屋)へ引き渡すことについての請書が提出されている。救済のための小屋は高原に作られ、長吏たちに官吏を委ねた。高原には元禄4(1691)年に新非人を収容する非人小屋が作られ、その後、病・幼囚を収容する〈溜〉という牢屋付属施設が置かれていた場所。最初は明き小屋を利用、のちに新たに小屋を普請、天明飢饉が本格化してくる時点で、高原小屋として拡張されたとい。*15

 享保飢饉では、非人頭の手下にない〈往来非人〉が増えた。大坂に流入しても困るというので、特別に新たな小屋は建てないこととし、市中の病人・老人・幼少・労れた非人は、米一合五勺を渡して非人頭方(四ヶ所長吏)へ小屋を掛け引き取り、他所から流入した者にも同様の措置が取られた。市中からの排除の対象だった往来非人が、長吏の救済の対象になってゆくのである。*16

 そのような中で、17世紀後半から18世紀前半にかけて、垣外周辺に野非人が多く発生、長吏たちは市中からこれを排除し、周辺村領には野小屋を認め、統制・救済の措置を取ることになった。それに伴い、新垣外の者の肩書に「非人」とあるのを除き、宗旨帳面上書きの「乞食仲間」を「垣外仲間」と変えてほしいと難波村庄屋に願い出て認められている。これは、納屋下などに居座った野非人こそが〈非人〉で、それを仲間に組み入れた新垣外は「非人ではない」という主張である。もはや垣外仲間に非人という呼称は普通には使われなくなったのである。*17これは非人意識の一種の転換であろう。すでに寛文10(1670)年に創案された、天王寺垣外における施行院建立のために提出された由緒書に、自らを非人を管理する立場にあるとする垣外仲間の主張が見られることから、塚田氏は垣外仲間の意識変容を指摘しており、垣外番株と勧進権の家督化など、自らを所有の主体として位置づけるに至る非人集団の変容ということを重視している。本書の内容とほぼ同一であるが、あわせて、塚田「非人――近世大坂の非人と由緒」(『シリーズ近世の身分的周縁3職人・親方・仲間』吉川弘文館)を参照されたい。

 

垣外仲間の職分

 さて、垣外仲間が役木戸(やくきど=道頓堀の芝居の木戸番から出た)とともに町奉行所の手先の御用(=警察業務の末端)を勤めていたことと、19世紀には、御用を笠に着た横暴が社会問題化していたことは夙に知られたことである。大坂町奉行所の与力の職務についての資料から、〈定町廻り方〉(じょうまちまわりかた)と〈盗賊吟味役〉(盗賊方)の二つが見出されるが、盗賊方には「火付・盗賊・あはれ者の類、怪しきものの召捕・詮議」と、寺社法会・神事や町中引廻しなど「人立ち多き場所」や不時の「町廻り等に出役」、つまり犯罪の捜査・召捕、犯罪防止のための巡回の二つの職務があった。捜査・召捕は、大坂市中はもとより、摂津・河内・播磨の御料私領に及び、寛政年中からは中国筋も含まれていた。〈定町廻り方〉は、四方へ分かれて毎日定例の町廻りや、寺社法会などの人立ち場への臨機の巡回を職務とし、さらに〈忍廻り〉(ふらり廻りともいい、隠密の巡回)も行なっていた。この時も、与力・同心は「長吏下小頭共」を召し連れた。19世紀の初めの記録に、摂津村々の番非人が四ヶ所長吏の下で御用に動員され、重い負担が村々に転嫁されて困るというものが残されている。盗賊方から、長吏・小頭らが「他国迄聞合せ等」に派遣されるのも、以前は播州路へ年に一、二度あるかないかだったのが、近年は回数も増え、中国・四国・西国・北国路・伊勢路美濃路へと広がったというのである。*18

 ところで、〈若き者〉は長吏と違って、町廻り方の御用は勤めたが、盗賊方の御用に直接動員されることはなかった。しかし、垣外番の者は、盗賊が入ったと聞きつけたら密かにその家に行って様子を聞いて、その方面の長吏・小頭に報告するように位置づけられていた。垣外番は盗賊方の情報収集の末端に正式に位置づけられたので、垣外番がいなかった町にも身元の確かな者を選んで置くようになった。垣外番は市中に散在していたが、そのほうが情報収集に都合がよかったので、盗賊方の下での直接の出役ではなく、長吏・小頭への情報収集役として盗賊方の末端に機能的に包摂された。垣外番は小屋持ち非人である若き者の弟子が起用されたというが、ここでは垣外番機能の担い手はむしろ若き者だと考えるべきだと塚田氏はいう。

 市中の町には弟子が垣外番として置かれていたが、大店などでは、個人で垣外番を置くこともあった。その役割は、町代(ちょうだい=近世大坂で町から雇用されて町年寄の下で実務を担った)から町内の垣外番に「非人政〔制〕道」(非人の支配統制のことで、ここでは野非人の悪ねだりの取締り。江戸では制道、大坂では政道と書くことが多い)を油断なく行なうことを申し渡すよう、町内定で指示。白髪町の垣外番人へも非人乞食を町内に入れないことが申し渡されている。垣外番として町に弟子を派遣する権利=垣外番株は、若き者が所有しており、町からは、株主たる若き者が垣外番と呼ばれた。納屋下非人など、市中から排除されるべき者の一部が弟子となって、残ったのではないかという。本書の59頁に「京坂巨戸豪民家宅之図」というのがあり、「垣外番小屋」が一階の軒下に見える。道側に張り出した屋根、板張りのちょっとした小屋で、くぐって入るような小さな出入口の扉、のぞき窓がついている。詞書として「垣外番小屋、巨戸ニハ別ニ戸辺ニ置之、門戸ヲ守ラシメ、夜ハ挑灯ヲ掛テ兼テ捨児ヲ防ク、毎坊必ズ垣外番一所アリ、巨戸ハ別ニ置之也」とある。盗賊返しのついた塀の向こうから「見越ノ松」がのぞき、巨戸には専らこれを植えるというようなことが書かれているのも興味深い。納屋下非人の図もある。町で犯人を見聞きしたら逃亡しないように隣町の垣外番に見張らせておき、自らは長吏・小頭に報告するという態勢がとられていたようだ。緊急事態の時に番小屋に身柄を拘束しても、町代の執務する町内会所に引き入れるのは厳禁とされていた。弟子にかかえる場合は「墨入れ御払い付の者等」(入墨刑や追放刑に処された者)を抱えないこと、町人に無礼をせず、怪しい者がいても容易に小屋に引き入れないこと、などの決まりがあった。

 一方で、垣外仲間は、盗賊方与力に出願して、天満垣外の非人の処罰に際し、代官所がえた身分の役人村年寄に引き渡そうとするのに反発して訴え出たことがある(57~65頁)。歴史常識として、非人がえたの支配下にあったというようなことを知っている人からすると、このことは奇異に映るかもしれない。しかし、それは江戸の場合であって、大坂の非人組織には当てはまらないことであった。18世紀以降、江戸には浅草の非人頭・車善七をはじめ四ヶ所非人頭がいたが、彼らは関八州えた頭弾左衛門支配下にあった。江戸でも都市形成とパラレルに非人集団が自生的に形成されたが、えた身分の中間組織のもとに組織されていった。関東の場合、弾左衛門支配下は弊牛馬処理の権域である「職場」が変成単位となっており、この職場には勧進の権利も含まれており、非人たちが乞食=勧進で生きていくためには、職場の体制に組み込まれるほかなかった。具体的には、えた身分に対して場役(ばやく。職場内の斃牛馬の見廻りと処理の実務)を勤めることで、職場を範囲とする勧進権を認められ、職場単位のえた小頭の支配の下に非人小屋が設置された。弾左衛門の管轄の職場を勧進場として安堵されたのが浅草の車善七であり、他の三人の非人頭(品川の松右衛門、深川の善三郎、代々木の久兵衛)の勧進場は、それぞれ別のえた小頭の職場を安堵されたものであった。塚田氏によると、大坂では非人集団はえたとは独自に垣外仲間として組織されたものであるという。江戸とは事情が異なっていたわけである。18世紀末に、天満垣外の非人の処罰に際し、えた身分の役人村年寄に引き渡されそうになった時、えたの支配下に置かれることを懸念し、激しく抵抗したというのは、この事情をいいあらわしている。*19

 ここで思い起こされるのが、能役者や歌舞伎役者と弾左衛門の関係である。彼らもまた弾左衛門支配に属するかをめぐっても同様の抵抗を行なったことが知られている。なお、これは余談だが、「えた」の語源については、鎌倉時代に成立した『塵袋』の第五に「キヨメ、エタとはどういう言葉か」という問答があって、根本は餌取(エトリ)というべきかと述べられている。餌というのは「肉」(シヽムラ)で鷹などの餌をいい、それを取る人という意味で、それを早く言っているうちに言いゆがめてエタと言った、という。つまり、エトリの略である。仔細をしらない者はこれを濫僧(ラウソウ)といい、乞食等の沙門の形をしているが、その行儀(立ち居振る舞い)が僧ではないものを濫僧と名づけて、施行(布施を求める)をするのを濫僧具(らんそうぐ=濫僧を供養する)という。非人・カタヒ・エタなどは同じ様のものなので、まぜこぜにして非人(一般の基準に外れた人々)の名をエタにつけた。濫僧(ラムソウ)というところをラウソウというなどはいやはや乱れ放題だ。天竺に旃陀羅(せんだら)というは屠者(トシャ・ホフルモノ)のことで、生きものを殺して売る、エタ体の悪人なり、とある。*20鎌倉時代のえたは僧体であったかと思われ、非人との区別もよくわからぬ体のものであったらしい。

 

貧人から所有主体へと変容する非人

 17世紀中、四ヶ所の者たちは〈乞食〉とか〈貧人〉とか呼ばれていたが、徐々に特定の町内を勧進する権利が固定化されていき、その秩序を垣外番株として四ヶ所の小屋持ち非人たちで分割所有する体制が成立した。内田九州男の研究では、布施米・奉加もの〔四ヶ所札〕・垣外番賃・吉凶祝儀の四種類に分類されるという。〈奉加もの〉〔節季候・大黒舞・鳥追い〕は、垣外番賃の二倍以上の値になったという。非人の勧進には季節ごとに定期に家々を廻るもの(定式(じょうしき)勧進)と、婚礼などの吉事や葬式・法事などの凶事がある家を廻るもの(吉凶勧進)の区別があって、これを収入としていたのである。*21

 四ヶ所は吉凶勧進の方式について申し合わせている。〈囉斎〉(らさい)を受けるケースとして、町年寄就任、普請棟上、結納婚礼、帳切(ちょうぎり。家屋敷の名義の切替え。家屋敷を取得したことを意味)・名前替、死去・年忌法事、宮参り(子供の成長の節目に行われるもの)など16ヶ条が挙げられ、その他の「祝儀不祝儀」を申し請けることは禁止された。祝儀志を聞きつけて四ヶ所の若き者が一人入ったら、他の者は行ってはならない。囉斎に行くときは、木札(身元証明)を持参、先様より町番の者を呼ぶように言われたら、木札を預けて町番の者と立ち会い、祝儀を受け、二割を町番の者に渡すこと、などを決めた。16ヶ条のうち、町年寄になる「年寄成り」ほか「相撲勧進元成り」、「傾城・茶立女請出し(ちゃたておんなうけだし)」(茶立女は、茶屋において遊女商売を黙認された者。これら遊女や茶立女を身請けすること)には別のやり方が規定されていた。傾城・茶立女請出しを聞きつけたら、四ヶ所(会所)に届け、四ヶ所月番と立会いで祝儀をもらい、一歩(1パーセント)は最初に聞きつけたものに渡し、残りは四つ割りにし、四ヶ所に配当し、請取書は四ヶ所から出した。申し合わせは以上の通りだが、実際には出入りの垣外番が最初に聞きつけたということで受理されたのではないかと想定される。しかし、論理の上では最初に聞きつけた者に権利があるということにされていた。以前は祝儀仏事などの前日にあらかじめ祝儀志をもらいうける仕切貰いが認められていたが、それというのも当町の垣外番だからできたと想定されるという。すでに実質はそうなっていたが、申し合わせではタテマエの上で、最初に聞きつけた者が貰えるという規定を盛り込んで、論理の上で仕切を否定した。*22

 ところで、大坂には〈四ヶ所札〉というものがあり、節季候(せきぞろ)・大黒舞・鳥追いの祝儀として、四ヶ所の若き者が銭を確かに受け取るというもので、四ヶ所として差し出したものである。得意先の民戸より銭4、500文を与えたときにこの札をもらって戸内の見やすい壁や柱に貼っておくと、他の者が来て銭を乞わずと『守貞謾稿』にある。「得意ノ町」といっても垣外番をつとめる町があって、実質的には垣外番株を持つ者から四ヶ所札を渡した。悲田院会所(実質、天王寺垣外の御仲と同一のもの)へ若い者が出した請書によると、毎年、節季候に行くものは神妙にすること、くわえ煙管、喧嘩口論、旦中(だんちゅう)への悪口・不満、大勢での連立ちを禁ずるという内容であった。多くは門付芸能としての実質を失い、その町内の垣外番から四ヶ所札を渡されることで名目化していた。しかし、実際に節季候・大黒舞に若き者が廻っていた事例もあり、「大黒舞御伏せ札」という四ヶ所札も出ていて、四ヶ所札のあるところで囉斎を禁じる内部規範があった。節季候・大黒舞は若き者の権利で、弟子層にその権利はなかった。四ヶ所札の実物には「覚」とタイトルがあり、「一、鳥目八百文」と金額、下に「節季候 大黒舞 鳥おひ」と明細、「右為御祝儀、四ヶ所若者共江被下、慥受納仕候、以上」とあり、月日「極月」、「四ヶ所」とあって印が捺してある。*23

 おそらく、このような排外的な特権は、タイにもあって、三日に一度は子連れ乞食があらわれるプロンポン駅の入口を例にとると、とある組織がトラックで拠点に乞食を投下して、夜に回収して帰還する仕組みになっているらしい。現地で聞いた話である。子どもにしても、自分の子ではなくて、観光客の気を引くための仕掛けだという。これも職業とはいえ、暑いタイでは大変なことで、母親役も実際、グッタリしており、お金を置いても目を覚まさない。欧米人からはファック扱いされ、罵倒されたりと、受難の生活であるが、おそらく、勝手にやっているものではあるまい。この場所には「振売禁止」の標識が掲げられているが、幕藩体制では、振売も許可制であった。店舗を構えられない社会的弱者のための職業として認められていたのである。タイでは、そもそもタイ人の雇用を守るということが法的に定められており、外国人の雇用を制限するために、外国人に対しては割高な給与を支払うことが定められていたはずである。タイにおける階層間の横社会については、日本人からするとよく見えない部分がある。彼らは彼らの世界に生きていて、取りつく島もないというのが実際である。円の貨幣価値に守られているおかげで、私なぞは駅からスカイ・ウォークでつながっている高級百貨店エンポリに行けば、入口の白い制服を着たドアマンから敬礼を受けられたものだが、かといって買い物をするカネはない。ただの冷やかしである。

バンコク、プロンポン駅入口

バンコク、プロンポン駅の兵士。軍事クーデター前夜のデモの頃。

バンコク、プロンポン駅。振売禁止。

バンコクエンポリアムデパートメントに続くスカイウォーク。

 

 さて、町人としては、出入りの若き者(=垣外番株所有者)だけに祝儀を与えることが一般的であった。そのことは〈町式目〉(家持ちの町人をメンバーとする町の運営のための規則)の規定に見ることができる。町との関係で当事者能力をもつ主体は、垣外番株所有者の若き者であった。非人たちが、町家の者たちの吉凶・宿替え、年回法事などの際に物を乞うので、身分相応に「祝い物或は志」を渡しても立ち去らず、過分の「酒飯鳥目等」を悪ねだりするので「町内に兼て雇置き候非人番」の取り鎮め方が不行き届きであるとして、長吏に申し付けたという町触がある。町人も見かけ次第追い散らし、手向かえば月番の町奉行所に召し連れよとある。町人たちにとって、非人番=垣外番を置くことは、非人たちの悪ねだりを防ぐのが目的だったとわかる。悪ねだりをするのは新非人・往来非人など垣外仲間外の存在が中心と思われるが、その町の出入りの垣外番以外の若き者なども含まれていたのではないか、というわけである。*24

 垣外仲間は家督家屋敷の所有主体であった。老分(ろうぶん)・年行司・月行司(がちぎょうじ)などの若き者たちは、家督家屋敷の所有主体であり、非人が垣外から町家へ移り住み、人別を移すこともあった。家督家屋敷は垣外に預けてあったので、垣外との関係は断絶していなかった。別の垣外に引っ越す際に「家督」はもっていけるが、「家屋敷」はもっていけなかった。「家督」とは「町旦那」のことで、各町の町人(旦那)に出入りして勧進し、町旦那の世話をすることをさした。ゆえに「町旦那」の権利は、各町に垣外番を派遣することができる権利で、実質的な勧進権である垣外番株に等しい。「家屋敷」とは非人小屋の敷地のことで、市中の町屋敷と同じように「家屋敷」という表現がとられていた。この段階で、すべての所有から疎外されていた非人たちは所有主体に変容し、垣外仲間の内部で家督の質入・売買、頼母子講などの金融関係が展開されていく。「中嶋屋弥三郎」のように屋号を持っていて、市中の町人たちと区別できない。垣外番株の売買は垣外内部の売主・買主と御仲の株帳面の切替えで売買が成立し、町人の意向は介在しない。また、町家に移り住むものもいたが、その基盤は家督=垣外番株による得分だったので、若き者は勧進を継続し、非人という認識を存続させていくことに繋がった。*25いずれにしても、「非人=貧人」という前代の図式は必ずしも成立しなくなっていたもののようである。

 こうした変容は、長吏と垣外仲間に、自らを非人(野非人・往来非人)から区別し、非人を管理・統制する役割を担う存在としての位置づけを強めさせた。四天王寺聖徳太子に結びつけた天王寺垣外の由緒の語り方の中にも、自らを「乞食=貧人」の一部に含むものから、非人の救済と統制の主体と位置づけるものに変わってゆく様子を見出すことができる(塚田「非人——近世大坂の非人と由緒」(『シリーズ近世の身分的周縁3職人・親方・仲間』吉川弘文館)参照)。由緒の変化は垣外仲間の変容の反映であり、その変容を促進するものであったと、塚田氏は見ている。町奉行所の盗賊方や町廻りの下での警吏役は肥大化し、長吏・小頭らは手先の御用を勤める存在となってゆくが、これは非人統制の機能の延長上に展開したものであるという。*26前掲書に、寛文10(1670)年の施行院建立に際して天王寺垣外が天王寺悲田院長吏名で天王寺に提出した由緒の全文がある。そこでは、「恐れながら口上書の覚」として、聖徳太子の御綸言をもって、垣外の祖先が「貧人司」の役を賜り、摂州・河州両国の貧人の施行に当たったとのストーリーが展開される。後醍醐天皇もこれを認めたが、後の戦乱で2通の綸旨は焼失、太閤のときに太子建立の霊地として、施行院の跡地に屋敷地を割り当てられたのが、今日の天王寺垣外の起源だと述べられている。*27この由緒というやつは意外と強力なもので、何かあった時にはこれを楯にして幕府にねじこむわけである。甲斐武田氏の由緒などはブランド化していたから、ずいぶん多くのニセの竜朱印状が出回ったらしい。信玄公の由緒なるものは先に出た梓巫女にもあって、武田氏の御親類衆であった望月氏の千代女なる人に与えられた甲信二ヶ国巫女頭の由緒というのは、その筋では知られたものであるが、伝承の域を出なるものではない。かつて原本が伝わっていたとされるが、現在は写しというものが残されているにすぎない。

 このようにして、垣外仲間は「乞食=貧人」から変容していたが、天保改革で身分意識が厳しく問われるようになると、そのことの乖離が浮かび上がってくる。天保13年の町触で、垣外番の長六という者が、垣外番部屋の外、町家に寝泊まりし、「平人非人の身分階級を弁えざる仕方、以ての外不埒の事、(…)非人共身分を顧みず、町家の者共え対し、無作法におよひ候様成行き候基に付」として長吏に厳重取締りを申し付けられている。町人と長吏下のものと混じってはならぬよう「急度相嗜むべく候」とある。ここには理念によって実態を否定する方向が見てとれると、塚田氏は言う。続いて町触は、町方にて定例や吉凶の勧進がある時に見世先に来たり、宮参等、氏神参詣の途中に非人がねだりがましく申し掛けるのを禁止*28、統制がやかましくなったものと思われる。この時代、この手の路上販売的な稼業は厳しく取り締まられたもののようで、天保13(1842)年12月に京都で「往還にてふりくじ又は大弓場にて賭的にまぎらわしき儀など致しまじき旨、当六月にも触れ候につき」云々の触れが出されている(『京都町触集成』)。要するに奢侈禁止と倹約令であるが、歌舞伎役者への弾圧は、身分統制の側面も強かったから、非人への取締りということも、その線上にあるのであろう。

 

江戸の非人

 ところで、江戸では、非人頭の囲内に何軒かの非人小屋が集まっていたが、ほとんどの非人小屋は市中の河岸地や自身境内などに散在していた。大坂においては、近世初頭に垣外屋敷が除地として認められ、垣外仲間として集住し、その後に生み出された野非人・新非人は市中から排除することを原則としていた。そのため、市中には小屋持ちの非人はいなかったが、江戸では市中に小屋持ち非人が散在していた。江戸の非人たちも町奉行所の御用を勤めていたが、その中身は溜役・囚人送迎役・牢屋役・川廻り役や御仕置役であり、警吏役は含まれていない。その点、大坂の非人の御用の中心が、町廻りの御供や盗賊方の下での警吏役だったのとは異なる。しかし、江戸においても、非人状態にある者の統制(悪ねだり取締り)や救済の機能は担っており、そのための制道廻りを行なっていた。大坂では、非人統制の機能の延長線上に警吏役が展開したが、江戸ではそうはならなかった。都市の中での非人集団の位置づけが異なっていたからだと塚田氏は結論づけている。*29

 江戸においても、非人たちの勧進は、三日五節句(江戸の非人勧進は「是迄月並三日五節句定式勧進仕り来り候」などと表現される。「月並三日」とは毎月1・15・28日のこと。こうした月々の定例日や五節句などに勧進に廻った)などの季節ごとの定例的な勧進(定式(じょうしき)勧進)と婚礼や葬式・法事などの際に家々をめぐる吉凶勧進の二形態。18世紀後半には、町方・町人とその町内を勧進場とする非人小屋頭との間に仕切関係が結ばれる事態が広く見られた。町方からは、仕切った小屋頭だけに一定の米銭を与え、小屋頭からは他の非人のねだり・勧進を排除してもらうという関係だった。特に定式勧進に対応する月並仕切は、一年分の勧進をまとめて受け取る方式をとっていた。この場合、小屋頭は仕切った相手に仕切札を渡し、それを町や家の入口に貼っておくと、他の非人は勧進に来ないというもので、大坂の四ヶ所に似たものであった。大坂では垣外番株が実質上の勧進権だったが、仕切り買いは禁止、あくまで市中の勧進は四ヶ所の若き者に開かれる論理を有していた。大坂では勧進の名目での株化は行なわれず、大坂の四ヶ所は、江戸の仕切札とほぼ同様の機能を持つものだが、仕切札は、その町内を勧進場としている非人小屋頭が出すものだが、大坂の四ヶ所札は、町内の垣外番株を所有する若き者が出すのではなく、四ヶ所として出した。垣外仲間において垣外番株が勧進権自体として権利化していなかった(これはタテマエとして残ったもので、実質は垣外番株と勧進権は一体のものだった)。*30

 非人の集団化が進展すると、同一の社会状態にあるものに分岐が生じる。かつて塚田氏は、近江・大津の関蝉丸(せきせみまる)神社の別当近松寺(こんしょうじ)が諸国の説教者の組織化を図ったことにより、それまで同じ状況にあった者たちの間に〈正しき説教者〉と〈偽りの説教者〉の分岐が生じたことを指摘したという(塚田「芸能者の社会的位置」(阪口弘之編『浄瑠璃の世界』世界思想社、のち塚田『近世身分制と周縁社会』東京大学出版会、所収)。18世紀半ばに、大坂の垣外仲間が、納屋下の非人こそが非人であり、自分たちの管轄下にあった新垣外の人別帳から非人の肩書を除いてほしいと出願していた。これは非人の存在形態の変容の結果であり、垣外仲間とその管轄下の境界がはっきりすれば、その外側もはっきりするということであるという。*31いわば納屋下非人の周縁化ということが進んだのである。ここに至って〈非人〉というオリジナルは一種、奇妙なアブジェクシオンによって外部へと追放され、垣外仲間にとって、一つの他者として立ち現れることになるのである。

 

終わりに

 以上が本書のあらましである。私の関心のあるところを中心に読み進めたものであるから、すべてを網羅したとは言いがたく、要領を得ないが、こんなところである。

*1:塚田孝『都市大坂と非人』(日本史リブレット40)、山川出版社、2001年、1頁。

*2:同書、1頁。

*3:同書、2頁。

*4:同書、5頁。

*5:同書、6頁。

*6:同書、8~9頁。

*7:同書、10~11頁。

*8:同書、14頁。

*9:同書、15~17頁。

*10:17頁。

*11:同書、18頁。

*12:同書、18~20頁。

*13:同書、87~88頁。

*14:同書、21~28頁。

*15:86~87頁。

*16:同書、28~29頁。

*17:同書、34頁。

*18:同書、46~56頁。

*19:同書、89~90頁。

*20:東洋文庫723『塵袋 1』、大西晴隆・木村紀子校注、2004年、平凡社、288~289頁。

*21:塚田『都市大坂と非人』、66頁。

*22:同書、67~72頁。

*23:同書、72~76頁。

*24:76~84頁。

*25:同書、80~85頁。

*26:同書、85~86頁。

*27:(塚田「非人――近世大坂の非人と由緒」(『シリーズ近世の身分的周縁3 職人・親方・仲間』、吉川弘文館、2000年)、237~239頁。

*28:塚田『都市大坂と非人』、88~89頁。

*29:同書、91~93頁。

*30:同書、91~93頁。

*31:同書、95~96頁。