南山剳記

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コロニアリズムと文化財(荒井 信一)

コロニアリズム文化財

荒井信一『コロニアリズム文化財――近代日本と朝鮮から考える』(岩波新書(新赤版)1376)、岩波書店、2012年

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【服部 洋介・撰】

 

概要 

荒井信一『コロニアリズム文化財――近代日本と朝鮮から考える』の抜き書き。著者は、東京大学文学部卒業、専攻は西洋史国際関係史。茨城大学駿河台大学名誉教授などを歴任。日本の戦争責任資料センター共同代表。主に日本が半島を植民地にしていた時代に、いかなる目的で、どのような文化財調査が行われたかを述べたもの。これを主導した東大建築学科の功罪、総督府統治下の施策について検討する。ある意味で本題は、日本統治時代に日本に流れた文物の返還問題で、日韓合邦以降、合法的に行われたとされる半島文化財の取得の是非が問われる。これらは、当時の特殊な状況下において行われた収奪ではないかという考え方が提示される。これは、法の不当性を問うものであるが、パワハラやセクハラなど、われわれの身近にある植民地的事象の不当性と同じ圏域に属する問題といえるだろう。私見については、脚注に記した。

 

コロニアリズムと文化財――近代日本と朝鮮から考える (岩波新書)

コロニアリズムと文化財――近代日本と朝鮮から考える (岩波新書)

 

 

所蔵館

市立長野図書館(2F/709ア)

 

 

p.ii-iii

埼玉の飯能という地名は「ハンナラ」(わが国)の意だと『埼玉県史』にあって、716年に関東の高句麗遺民1799人を移して高麗郡を置いたとされる。となりの日高市には高麗王若光を祀った高麗神社。日清戦争終結翌年の1896年に高麗郡という地名は姿を消す。

 

p.22~23 東大の学術調査

大韓帝国成立(1897)前後に東京帝国大学による人類学的考古学的学術調査。1886年に制定された帝国大学令の第一条は「国家の須要に応ずる学術技芸を教授し及びその蘊奥を考究するをもって目的とす」とあり、国家的重大事の研究教育組織として設置されたことを物語る。日清戦争の前年、1893年、帝大工科大学(現在の工学部)に人類学教室が開設、この年、はやくも教室の坪井正五郎教授は八木奘三郎(やぎしょうさぶろう、1866~1942)を朝鮮に派遣、京畿道ほかを調査、ドルメン、新羅百済高句麗三国時代古墳を調査。石器時代の遺跡は全く発見できないと報告、朝鮮における近代的な考古学調査のさきがけといわれる。

 

p.23~24 八木の調査と墳墓破壊

1900、1901年にも訪韓。衣食住から冠婚葬祭まで調べる(「韓国探検報告 其一」)。この時期の八木は鉄道建設につよい関心。当時は釜山-漢城漢城-仁川間だけの鉄道しかなかったので、北部は人力に頼っていた。この時期の人類学者の兆社は鉄道を接点とする植民地化の基礎としての地域社会や民俗文化に関する情報提供という性格が強かった。八木は1900年の「韓国通信」(釜山発、10月29日付)で「祝部(いわいべ)朝鮮土器の類は皆、大阪での古物としては最も珍しいとするに足る品です」と述べ、釜山では古物遺跡は見つからなかったと報告。祝部土器は墳墓での祭祀に使われ、日本に多く流入、愛好家たちに珍品扱いされた背景には、鉄道などインフラ整備に伴う墳墓破壊があった。

 

p.24~25 京釜線の敷設

日清戦争の準備として重視され、1891年に参謀次長の川上操六の中国視察旅行の後に必要性が確信された。1892年8月、川上の要請で釜山駐在総領事の室田義文が主管し、参謀本部委員・鉄道技師らにより、可能な路線の秘密調査。朝鮮政府の目をごまかすため、踏査班の測量活動は、スミソニアン博物館に提出する珍しい鳥類標本を採集する学術活動に偽装。日清戦争がはじまった1894年秋には技術者100人の調査団が到着して調査したが、外国資本や朝鮮の政治情勢との関係で手間取っているうちに終戦。戦後に敷設権を獲得。さらに日露戦に備えて1900年3月に北部で精密な調査。1901年には京釜線、翌年には京義線が起工され、2005年までに南北1000キロの鉄道網が作られた。

 

p.26~27 東大の建築調査

東京帝大工科大学は、建築学科の関野貞(せきのただし、1867~1935)助教授を韓国に派遣、1902年に建築調査した。2005年、関野の調査資料を所蔵する東大総合研究博物館が「関野貞アジア踏査――平等院法隆寺から高句麗古墳壁画へ」という展覧会を開催、未公開のものも含め多数の資料を公開。企画にあたった同館の西秋良宏は、「韓国、日本、中国において現在ユネスコ世界遺産に登録されている文化財の多くが、関野が最初に詳細な報告を作成したもの。(…)その修復や保存、公開にまで尽力したいわば東アジアにおける文化財研究の先駆者のひとり」(『東洋経済日報』2005年6月17日付)と述べている。東京駅や日銀本店などを設計した工科大学長・辰野金吾の「韓国建築の史的研究をもってし、なるべく広く視察せよ」との命令で派遣された。大橋俊博は、1901年の京釜鉄道、1902年の京義鉄道が起工され、朝鮮半島での回線の準備が進行、戦場や補給地になる地域について、転用可能になる建築物の情報収集の依頼がそのようなルートからあった可能性は否定できないと述べている(「韓国における文化財保護システムの成立と展開」)。建築学教室に依頼したそのルートとは、大橋の想定では、辰野の前任だった初代大学長の古市公威ふるいちこうい、1854~1934)で、日本の土木工学、土木行政のトップをつとめた人物だった。朝鮮における鉄道建設とも深く関わり、日露戦前の朝鮮半島輸送問題担当官で、その後も鉄道作業局長官、京釜鉄道株式会社総裁、統監府鉄道管理局長官を歴任。元老・山県有朋の庇護で第一次山県内閣(1889~1891)では逓信次官。山県閥は専門官僚やエンジニアにも人脈を広げた点でユニークだったが、古市はその主要メンバーだった。35頁によると、関野は韓国併合前年の1909年に保護国化された大韓帝国の事業として韓国古建築物調査を命じられ、統監府の日本人次官が朝鮮政府の実権を握り、度支部(財政部)の次官・荒井健太郎の依頼で、植民地統治に必要な新官庁の建設、旧官庁の解体に際して文化財の破壊や改築の可能性を調べさせた。36頁によると、先の1902年の建築調査では60日ほどかけて慶州、開城、漢城都城とその付近だけであったが、『韓国建築調査報告書』(東京帝国大学工科大学学術報告、第六号、1904年8月)では、建築以外にも様々な情報を提供。植民地支配のための都市開発という実用的目的の調査で、重要度を甲乙丙丁で評価したために、保存価値が低いとされて破壊されたものも多いとある。

 

p.30 日韓議定書

日韓議定書(1904)により、日本の韓国駐箚軍は手鉄道建設に必要な軍用地を接収し、必要な労働力を徴発できることになった。3月9日には参謀総長が駐箚軍司令官に訓令し、駐箚軍の目的を「帝国の公使館・領事館および居留民の保護、京城の治安の維持、作戦軍の背後のすべての設備〔要塞、軍用鉄道、兵営、兵器弾薬工場など〕の安全の確保」と定め、これによって駐箚軍は軍用地や鉄道の敷設地域で軍律を出し、住民を取り締まれるようになった。

 

p.31 鉄道敷設のために墳墓撤去、祭器が流出

鉄道用地は格国政府から供給させ、韓国人を労役に動員。予定地の墳墓は迂回することに規定されていたが、移葬の祭祀費用を支給して移動させることで妥結されたが、その後も用地の収用過程で問題化、多くは軍事力で強行。特に軍用鉄道として急造された京義線では、土地・建物・墳墓は韓国政府に買収または取り除かせ、費用は韓国政府の借款として日本側が供給。南大門停車場に土地が不法編入された墳墓の場合は、塚ごとに3円しか支給されず、改葬できないほど少額だったので、住民の恨みを買った(『皇城新聞』1903年8月3日雑報)。とくに京義線沿線では補償もなく乱暴に取り除かれ、敷設過程で墓の祭器が夥しく流出した。

 

p.37~38 総督府の古蹟調査

朝鮮総督府は関野を責任者とする古蹟調査を「社会上緊要のこと」として、毎年9~11月に実施。嘱託として谷井濟一(東京帝国大学文科大学史学科1907年卒)、栗山俊一(同工科大学建築学科1901年卒)が参加、毎年韓国に赴き、重点は次第に古建築から古墳へ。楽浪郡遺跡、高句麗壁画古墳、三国時代の王墓など、現在でも評価の高い業績が含まれている。建築学的土木学的な手法や、写真の導入など質的に高い調査は後の本土の古墳調査にも影響。だが、一般人にも楽浪遺物の採集ブームを巻き起こして盗掘を助長したとの見方もある。

 

p.39 高句麗古墳壁画

1931年1月の考古学会定例会で高句麗古墳の発掘報告(「朝鮮江西に於ける高句麗時代の古墳」)。3世紀中ごろから7世紀中ごろまでに輯安(吉林省集安)と平壌に90余基の存在がこれまでに知られている。1912年9月、関野は平壌貫流する大同江下流西岸(江西)の遇賢里(ウヒョンリ)古墳を発掘。精密な実測図、壁画の考証も行き届いていた。埋め戻さずに後日、他の研究者のために総督府に依頼して適当な設備を施した。総督府の係官は大墓、中墓の入口に鉄扉をつけ、全体を鉄条網で囲い、一定の手続きをとれば研究者が自由に出入りできるようにした。

 

p.41 アマチュア・コレクターの情報網

関野の報告によれば、1910年に平壌で三古墳の存在を関野に教えたのは、『平壌日報』の社長・白川正治。1902年には江西郡守が発掘して内部に壁画があることを確認していた。たまたま兵役で江西に滞在していた東京美術学校図案化生徒の太田福蔵(天洋)が石室内に入り壁画をスケッチしていた。関野は郡守の発掘を動員された村人から聞いていた。1910年12月に太田のスケッチを見て、高句麗古墳であることを確信し、1912年に本発掘。その後、大同江河口の鎮南浦南浦)に出張中の専売局長・上林敬次郎から電報で南浦にも壁画古墳があることを通報され、大谷壁画をスケッチさせてもちかえった。アマチュアの情報提供、私掘、記録などは当時の古蹟調査の多くに見受けられる。関野が調査の際に持参したフィールドカードに記載された遺物をもつ個人コレクターは27人、所在地は平壌江華島、公州、慶州、京城大邱など半島全土に及んでいる。軍の庇護も大きく、僻地にも憲兵隊派遣所や出張所があって日本人を宿泊させてくれた。住民が松明で道を照らしたりしたが、人夫賃が払われないので住人が不満をもち、朝鮮人韓国併合の真意を疑わせるのではないかと谷井は告白している(「朝鮮通信(一)」1912年)。かつての九鬼隆一が提唱したような植民地的軍事的統治の枠組みの中ではじめて実現した調査といえる。

 

p.42 小倉武之助コレクション

小倉は朝鮮で電気事業などにたずさわった実業家。没後1982年に1018点が東京国立博物館に寄贈。東洋館の朝鮮考古展示の主要部分を占める。

 

p.43 仏教寺院の略奪、古墳盗掘

仏教遺跡の多い江原道での調査旅行について谷井報告「朝鮮通信(二)」(1912)は、寺院の略奪に言及。江原道南西部の原州付近では、法泉寺(ポプチョンサ)の玄妙塔の盗難事件。高麗時代の智光国師の逝去した寺で、国師の舎利をまつった仏塔。満州を本拠にした遼の時代(916~1125)の逸品だが、「京城の某紳商」に売られ、さらに大阪の「某富豪」が「巨費」を投じて購入したという。これは住友家で、玄妙塔は住友本家の菩提所の飾りとして移築された。しかし、宮内大臣田中光顕が韓国視察の時に高麗時代の石塔をもちかえって問題化し、総督の厳命で返還。そのトバッチリを警戒してか、玄妙塔は返還され、これを売った朝鮮人も横領罪に問われた。現在では韓国の国立超王博物館の国宝101号。谷井報告では、原州では新羅時代の鉄仏、石仏、石塔などがざらにあり、路傍に頭や手を失った石仏がゴロゴロとあったという。盗掘か、義兵運動の戦禍にあったものかも知れない。この頃には日本本土を含む巨大な朝鮮古物市場が形成され、「腹黒い商人」が暗躍してバブルが出現していた。美術品売買の骨董商が多数生まれた。東京帝大院生の今西龍(のちの京都帝大教授)は『新羅史研究』で1906年当時に訪韓した際、古墳盗掘が流行し、遺物は日本商人の手に帰していたと証言している。P.85には、開城付近の高麗墳墓盗掘の大流行につれて、慶州でも盗掘が盛んとなり、その盗掘品を大邱で古物商がたくさんもっていたのを見たと証言。

 

p.48 濫掘、私掘ブーム

東大人類学教室の鳥居は、1909年に満州から朝鮮島北部を調査。磨製石器打製石器を収集し、この地域に二系統の新石器時代が併存したと発表。アマチュアの石器収集ブームに火をつけた。朝鮮半島で初めて見つかった石器は、1905年に仁川の小さな石斧で、発見者の気象観測所技師は所長の和田雄治(統監府気象台長)に贈った。和田は人類学教室に鑑定を求め。日本人が半島で得た初めての石器とされた。これは教室に標本として贈られ、散逸は免れた。和田は鳥居先生が北鮮で多数の石器土器を得られてから、豆満江沿岸の日本人に石器発掘が流行したと証言(「朝鮮の先史時代遺物に就て」)。濫掘ブームを指摘。結果、一文不知の徒まで石器捜索し、資料を得るのも困難になり、会寧方面では石器に加工して販売する者もいたという(木村宇太郎「城津に於ける石器時代遺物遺跡発見始末」)。京都帝大東洋考古学教室教授の梅原末治(1893~1983)は、関野の古蹟調査は一般の関心を高めたが、私掘風潮を著しくし、古墳墓、初期金属器時代の遺跡は出土品を得るための私掘に任され、民間に出土品が死蔵されていたと証言。1912年に東京帝大助教授の黒板勝美は国内では埋蔵物は国有とされているのに、富豪の中には学術的価値がないからと政府が払下げたもののみならず、中には帝室博物館の所蔵品以上の珍品を所蔵している者があり、密掘でなければ、他の密掘者買い入れたものと認めざるを得ないと書いている。これは韓国でも同様で、発掘は総督府の許可制だった。なので、文化財保護の法令がまったくなかったわけではなかった。

 

p.62 総督府博物館

1909年来の古蹟調査の結果、収集された文化財景福宮に収められていたが、1915年に始政五年記念朝鮮物産共進会が開催され、廊下までうずたかく積まれていた遺物は、勤政殿の東に恒久的な建物として西洋式の石造二階建の博物館に展示され、そのまま総督府博物館に移行。原産地には戻されなかった。博物館は美術館を本館とし、総督府が購入したり、古蹟調査で得た埋蔵物などを観覧料5銭で公開。

 

p.66 古蹟・遺物の保存規則と古蹟調査五ヵ年計画

これまで総督府内務部地方局による関野らの古蹟調査や内務部学務局による教科書編纂・資料収集のための調査に鳥居、黒板、今西らが参加していたが、1916年4月にこの二つが統合され、総督官房総務局に移管。内地に先駆けて「古蹟及び遺物保存規則」が発布された。また、古蹟遺物の調査保存を審査するために総督府の諮問機関である中枢院に古蹟調査委員会を設置。委員会の実地調査には道長官・警務部長に連絡し、憲兵・警察がなるべく立会い。行政事務は総督府博物館が管理し、勝手に遺物をもちだせなくなった。この体制で、〈古蹟調査五ヵ年計画〉が作られ、関野、黒板、今西、鳥居、谷井などの東大に加え、梅原、濱田耕作の京大関係の第二世代が参加。東大、京大のスタッフが調査をリードし、総督府博物館の日本人研究者がこれを助けて整理。だが、韓国人は遺跡の発掘保存から事実上排除された。高麗以前の各時代の政治文化の中心地に発掘の重点が置かれ、楽浪郡高句麗(1916年度)、三韓伽耶任那)・百済(1917)、新羅(1918)。総督府の児玉秀雄総務局長は古代の日朝関係史を明らかにしようと力を入れるが、1919年に三・一独立運動が起きたので、最後の二年はほとんど実施されず。

 

p.70~72 津田貞吉と萩野由之、停滞史観と日韓同種説

1899年、津田(1871~1939)が組織した日本歴史地理学会は、一般向けの雑誌『歴史地理』を刊行。1910年に韓国併合を記念して「臨時増刊 朝鮮号」を発行。津田は東京帝大卒業後、文部省の教科書編修官。1912年に南北朝正閏問題で野党に攻撃され休職処分。喜田は並立説に加担したが、明治天皇南朝を正統と決定した。「朝鮮号」には歴史家の萩野由之が「史学上より見たる朝鮮」を書いている。1909年に総督府の古蹟調査の一員で平安南道などを調査。日本史の専門家だが、朝鮮に対する歴史認識を述べ、その衰亡は上流社会の腐敗にあり、両班のために日本に比べて文化が7~800年遅れているという停滞史観をとった。秀吉の出兵をはじめ、朝鮮では日本の対朝鮮政策について嘘が多いので、修史の事業を起こすべきだと提唱した。歴史教育に関して喜田は「韓国併合と教育家の覚悟」という講演筆記の中で、朝鮮諸国は東洋の厄介者で、日本は東洋平和と国民の安寧のためにやむなく兵を用いた、朝鮮は日本と開基を同じくし、民族的に大体同じで、この日韓同種説は朝鮮人大和民族に同化融合させるかすがいであるとする。韓国は日本の分家で、併合によって本家の過程に復帰した。「韓国は滅亡したのではない。朝鮮人は亡国の民ではない。かれらはじつにその本に復ったのである」。喜田は三韓伽耶時代の史実を例証に、日韓同種説(日鮮同祖論)をキー概念として歴史教育を構想。総督府は1916年9月に『朝鮮半島史』の編集を始め、「日鮮の同族たる事実を明らかにすること」を目的に、同化を狙いとした。この性急な同化政策を反映し、朝鮮における調査も任那日本府の存在を証明するものなどに偏っていく。1916年からの五カ年計画の対象が、楽浪など漢の領土と高句麗以外は、伽耶百済新羅など古代日本に密接な地域に限られるのはそのためか。

 

p.76~77 黒板・内藤『朝鮮史』に見る当時の史観

のち、斎藤新総督のもとで総督府は1912年の同種説的な同化を目的とする『朝鮮半島史』の修史事業を廃止、13年に朝鮮史編纂委員会規定を公布、委員会を中枢院に設置し、組織的に編纂と資料収集を開始。1925年に政務総監を長とする独立機関として朝鮮史編修会が発足、顧問に黒板勝美内藤湖南(京都帝大)が就任。黒板は日本の古文書学を確立した人物で、朝鮮が中国と日本という強国に影響され北は中国風、南は日本風に混淆されたとする朝鮮史の他律性を強調。内藤は典型的な停滞史観。『朝鮮史』は1938年に全38巻で完成。近代歴史学の方法を駆使したと称され、実証主義的態度が強調されたが、植民地支配のもので日本人による官製歴史叙述としての限界。博物館や古蹟調査の業務は学務局学務課に新設された古蹟調査課が管理することになったが、財政難で1924年までに廃止。その後は総督府博物館があたったが、応急調査が多く、資金も民間からの拠金でまかなうケースが増えた。

 

p.73~75 吉野作造による同化政策批判

東京帝大の吉野は1916年に「満韓を視察して」を『中央公論』に寄稿。朝鮮統治を批判し、異民族に接触した経験が浅く、ややもすると劣等視して反抗心を挑発することのみを能とする狭量な民族が、短期で他の民族を同化できるなどとはありえない旨の限界を指摘。また、教育を批判し、日鮮両民族の人種的近接を強調して日本主義の教育を打ち込んでも、かえって反日的になるのが事実。「そこで、朝鮮人の開発は表向きは大いにこれを計るといいながら、本当に開発を計ったものかどうかということは、だんだん当局者の間にひとつの疑問となったと思わるる」(75頁)という。三・一独立運動後の黎明会での講演で吉野は民族自決的な解決を提唱して参加した朝鮮人留学生から喝采を受ける。差別の撤廃、武断政治の廃止、同化政策の放棄、言論の自由の四項目を当面の要求とし、「朝鮮人に向かってわれわれは生まれながらの日本人同様だ、日本の歴史はおのれの歴史だと思えというのは、これはどうも無理なこと」と断言(75頁)。

 

p.85 金冠塚古墳

総督府五ヵ年計画の最終年度の1921年9月に慶州で鉄道工事中に5世紀末から6世紀初めに築造された古墳が発見され、おびただしい金銀玉類が出土。のちに金冠塚と名づけられた。これは慶州在住の日本人・諸鹿央雄(もろかひでお)による私掘。梅原によると無計画、無造作に掘り荒らし、遺物の出土状況も明らかでなかったという。鍍金の金具、青色のガラス玉、翡翠、出雲石の勾玉、純金の王冠、胸飾り、腕輪等が人体に就けてあったままの位置になって残っていた(梅原)。関野は韓国北部の調査を打ち切って金冠塚について細心の研究をしたという(朝鮮銀行調査部『大正一〇年 朝鮮事情』)。古蹟調査中の濱野、梅原も伽耶遺跡から戻ってバスを乗り継いで慶州に。そこは異様な雰囲気で、警察へ行ってみると、うずたかく積まれた木箱の中におびただしい副葬品と金銀燦然たる装身具が入っていた(梅原)。出土品の整理は1924年までかかった。不用意な発掘で散逸したものもあると梅原は嘆いている。濫掘、密売の対象になったのは明らかで、さらに1926年には慶州の収蔵庫に収められていた黄金の主要物が盗難された。収蔵庫の管理は現地保存会の諸鹿が管理していた画もソウルに行って不在中に事件。盗まれたものはすべて黄金。だが、6か月後のある夜、遺宝は一部破損しただけで警察署の前に置かれていた。梅原は盗品の返却は慶州文化の紹介につとめた大坂金太郎の説得によるものと推定。教師として朝鮮人にも偏見をもたなかった人物。さらに1934年には諸鹿が発掘物故買(盗品と知って買うこと)の容疑で慶州警察に検挙、取り調べが進むにつれ、金冠塚発掘時に硬玉の勾玉類が散逸したり、24年の盗難事件にも関与していたらしいことが確かめられ、斎藤総督らをおどろかせた(梅原)。総督府の禁令にもかかわらず、昭和期になってもおびただしい遺物が日本に流出し、民間コレクターの手に渡った。1927年の大邱の商品陳列所の展示では、小倉武之介、市田次郎ら実業家コレクターの収集品の内容は、慶尚南北道における私掘による任那伽耶、古新羅から新羅統一代にわたる遺品のおびただしいものだった(梅原)。1947年現在で、諸鹿が金冠塚から日本に持ち出した遺宝として、虫の形をした良質な硬玉勾玉が神戸の白鶴美術館、大型勾玉については小倉コレクションに含まれていたと指摘。1982年に小倉コレクションから108点が東京国立博物館に寄贈され、東洋館の朝鮮考古展示の主要部分を占めた。スキャンダル暴露の結果、諸鹿は慶州の古跡委員会の陳列所(のちの総督府博物館の慶州分館、現在の国立慶州博物館)の主任を解職、彼の収蔵品も没収。

 

p.92 京城帝国大学、オロチョン族の調査

1924年に開学、朝鮮帝国大学として設立準備が進められたが、「朝鮮帝国の大学」と誤解されるとクレーム、名称を変えた。総督府が管轄する典型的な植民地大学。1926年から予科生が進学する本科が開設されるが、学部としては法文学部、医学部のみ。日中戦争が始まると理工学部が追加。英国が植民地においた大学も法・医学の二学部制だった。植民地統治の手足となる現地人エリートの育成と、公衆衛生の確保が目的だった。満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと発展する中で、大陸への前進基地である朝鮮の国策大学としての性格を強め、満州国発足の翌1933年に京城帝大に満蒙文化研究会が設置され、人文・自然科学の二部門が置かれた。人文科学には、満蒙の歴史、地理、遺蹟、遺物が研究・調査の対象に。発開式では事前公演会があり、関東軍の将校による「満蒙事情」の講演。満蒙における現地調査は軍の庇護によって可能になった。当時、早稲田大学が設置した熱河の自然科学調査団には、警備担当の将校二名、兵士40名が同行している。京城帝大の秋葉隆(1888~1954)は、満蒙民族学の確立をめざしてオロチョン族に関する民族学的調査を1953年に行なったが、これを検討した全京秀(チャンギョンス)によれば、軍服を着て、腰に拳銃、軍馬に乗って特務機関の工作員とともに興安嶺の山中を踏査したという。ソ連との国境接壌地帯で移動生活を送る射撃上手の彼らを関東軍が手なづけるために宣撫工作。秋葉も関東軍所属の情報員との接触に始まり、工作員の情報報告をそのまま写して報告文を書いた。しかし、当時のオロチョン族は中国文化の影響を受け、漢商人からアヘンを買って経済が崩壊し、関東軍からの特務任務で最低限の生活を送っていたので、その歴史的変動を考慮しない致命的な欠陥のある研究だった。

 

p.94 満州事変と古蹟調査、安倍能成の批判

九鬼隆一はかつて日清戦争を、日本が文化的にもアジアの中心となる好機として歓迎し、軍の庇護と協力のもと、中国・朝鮮の文化財を収集すべきと提唱。近代東洋史学の開拓者とされる白鳥庫吉(東京帝大)は、日露戦争の結果、秘密の帳に閉ざされた満韓の地が国民の前に開放されたと喜び、西洋の東洋学者に劣らない東洋史研究のために絶好の天地が開かれたと喜ぶ。日本の近代学術は戦争のために発展してきた。高句麗古墳の調査も満州事変で新展開。鴨緑江満州川の集安(通溝)は平壌遷都以前に高句麗が都を置いていた。好太王碑、陵墓、壁画墓などがあったが、1920年の関野調査以来、手つかず。「梅原回想録」によると、満州国成立に伴う文化政策の一つとして朝鮮に近接する通化省集安県の遺跡調査。古墳調査は機関銃を装備した一個中隊の援護。集安では特に成果なく、終戦を迎えた。1937年に日中戦争が始まると、総督府の外郭団体として民間有志の資金を受けていた古蹟研究会の朝鮮における発掘調査は一段落、中国の占領地域での遺跡調査が中心になった。1935年に京城帝大の助教授になり、新羅史、高麗史の概説を担当した末松保和は、大学卒業とともに総督府朝鮮史編修会に就職。敗戦後、朝鮮人が横暴をたくましくして、立場の逆転劇に遭遇。東京で一高の校長の安倍能成(あべよししげ)をたずねた。安倍はかつて京城帝大教授、法文学部長を歴任。末松が朝鮮人の横暴を話すと、日本人も立場が逆だったら同じことをしただろうと諭された。安倍は翌年に文部大臣、ついで帝室博物館館長。1927年には「朝鮮所見二三」では内地人はよくも悪くも民族的で、悪い意味では島国的で、非国際的、超民族的世界的なる要素が乏しいと指摘していた。

 

p.98 イタリアによるエチオピア併合の場合

エチオピア併合について、講和条約で、1935年10月3日のエチオピア攻撃後に持ち去られたすべての芸術作品、宗教関連物、文書記録類、歴史的価値のある財は講和条約発効から18か月以内に原状回復と定められた。また、イタリアが20世紀はじめに開いた天津租界についても、租借権放棄、租界当局に「財および文書記録類」の中国政府への引き渡しを命じた(25条)。なお、106頁によると、講和条約でイギリスは1939年を戦争の開始時期としようとしたが、エチオピアは1935年10月を主張。戦争犯罪者の処罰問題を「現在の戦争」に限ろうとした。だが、東京裁判では1928年からの日本の戦争犯罪を裁いており、ほとんどこじつけ。英仏米ソ外相会議はエチオピアの日付を採用した。これは脱コロニアリズムの第一歩として評価できる。

 

p.100 連合国の文化財保護政策

森本和男『文化財の社会史』に詳しい。第二次大戦で問題になったのは、直接にはナチスによる略奪。1942年12月、アメリカの最高裁長官H・F・ストーンは、ルーズベルト大統領に手紙を出し、ヨーロッパの歴史的美術的記念物の保護、枢軸国が横領した美術品、歴史文書を正当な所有者に返還するための組織の設立を支援するよう求めた。そこで43年6月22日に大統領が「ヨーロッパにおける美術的歴史的記念物復旧アメリカ委員会」を承認、軍事作戦に介入することなしに戦争地域における文化財保全を推進するよう命じた。委員長が連邦最高裁判事O・J・ロバーツであったため、ロバーツ委員会と呼ばれた。委員会の提案で陸軍省に「記念物・美術・文書班(MFAA)」がつくられ、連合国軍の民事・軍政局の援助で活動。最終的には13カ国の男女345人が構成員。美術館の管理者、学芸員、美術史家、建築家、教員。戦時中に所在を追跡、戦後に原所有者に500万点の文化財を返還。戦場の拡大とともに文化財の分布地図とリストを作成。パリ陥落後にハーバード大グループやロックフェラー財団の助成を得た専門学会の協力で、ヨーロッパとアジアの主要文化財地図が700枚以上作成、配布。1944年には「戦争地域における美術的歴史的記念物復旧アメリカ委員会」と改称、極東に文化財保護の範囲が拡大。

 

p.102 ランドン・ウォーナー

アメリカの美術研究者ウォーナー(1881-1955)は、ロバート委員会で在米研究者の角田柳作(コロンビア大)らと協力して、1942年ころから日本の文化財リスト。同年7月、軍用便覧として『民事ハンドブック――日本』の分冊「文化施設」「特殊地図」(いわゆる「ウォーナー報告)」)を完成。角田はアメリカにおける「日本学の父」。詳しくは荻野富士夫『太平洋の架橋者 角田柳作』を参照。

 

p.103 ロバーツ・レポート

1946年3月頃、GHQ民間情報教育局に転送されたロバーツ・レポート「極東における古物、美術品、図書、文書その他文化財の返還のための規則」(『文化の社会史』に全文翻訳)。朝鮮に関して重要なのは、「規則3」。1894年(日清開戦)以降の不平等条約のもと、また日本の極東領域の占領期間中にもちだされたすべての文化財は、強迫による移送と見なされ、特別な要求に応じ裁定される略奪文化財。民間情報局と思われるコメントには、1910年以降の考古学的出土品も含まれ、これは連合国が処理すべき最大規模、かつ長期にわたった公的略奪とある。アーチボルト・ウェンリ(アメリカにおけるアジア美術のキュレーターとして、中国・日本の言語と文化について徹底的な教育を受けた最初の人物で、1925年までに日本に2年滞在、パリの現代東洋語学校と高等中国研究所に留学)のコメントも付されている。そこでは、1931年の満州事変以前に返還を遡及させるのは非現実的で複雑すぎるとする。不平等条約韓国併合も当時は合法だったとする。これは戦後の日韓交渉でも一貫した日本の立場で、日本の植民地支配を否定する「帝国の論理」で、コロニアリズム清算の問題として文化財問題をとらえる視点とは異なる。

 

p.108 アメリカの南朝鮮占領政策

1945年10月、南朝鮮の歴史家団体「震檀学会」が日本の略奪図書の返還要求決議をGHQに提出、12月に略奪図書および宝物目録(書籍212種、美術および骨董品837種)を米軍政庁に提出。12月に軍政庁は「朝鮮内にある日本人財産取得にかんする件」(訓令第三三号)で公私を問わず日本人財産をすべて接収。大韓民国成立後、日本人財産は韓国政府に移譲。韓国は極東委員会のメンバーではなく、賠償は配分されず、日本人が残していった財産で満足すべきと決定された。極東委員会は、植民地をもっていた英仏蘭とインド、フィリピン。脱植民地的な意識は薄かった。アメリカも賠償よりも日本の経済復興に軸足を移していた。P.113によると、GHQの返還政策は次第に縮小され、日本に存在し、出所のはっきりした文化財を被侵略国に返すのを、日本政府が監督するだけになった。GHQは朝鮮に関しては戦争開始時期を最終的に1937年とし、それ以前の流出文化財については返還政策から除外。南朝鮮を占領したアメリカ第24軍は、もともと九州上陸部隊だったが、予想より早く日本が降伏したので、急遽、朝鮮半島へ。そのため朝鮮の実情に暗く、当初は総督府の機構を残して軍政を実施しようとして反発を買った。総督府の多くの法令は1948年の大韓民国の成立まで生き続けた。総督府の日本人のほとんどは罷免。しかし、文化財保存の人材育成を怠ったので、事業の継承は困難化。総督府博物館は軍政下で国立博物館になったが、初代館長・金戴元(キムジェウォン)はドイツ留学者で、韓国での経験に乏しかった。後に京都大学の考古学教室の主任教授となる有光教一は敗戦当時、総督府博物館の主任。米軍の依頼で、一年余り残留し、朝鮮人考古学者を指導、金館長の責任による慶州の壺杵塚、銀鈴塚の発掘を実現し、大きな成果を挙げた。ソ連も、平壌府立博物館で日本人館長と職員を一年間残留させた。

 

p.110 対日賠償と韓国政府

1949年に対日賠償調査審議会を設置、「対日賠償要求調書」全二巻を出した。54年に改めて同書を出した。極東委員会の決定と米国の対日賠償政策の転換に危機感を抱いた韓国独自の対応策。韓国外務部政務局が49年4月7日の調書では、書籍212種、美術品および骨董品837種および地図原版。帝室博物館所蔵のものが圧倒的に多い。文化財リストは後の日韓会談の過程で精密化。

 

p.111 岡倉・ウォーナーの東洋美術収集

1946年4月、GHQの美術記念課の専門家顧問として、ウォーナーが着任。ハーバード大付属のフォッグ美術館の東洋部長をつとめるなど、専門家として有名。美術記念課長はハーバード・グループの一員として、MFAAに加わり、1945年に日本に派遣された美術品保存の専門家、ジョージ・L・スタウト。1933年からフォッグ美術館の保存部長、ウォーナーとは旧知。ウォーナーは若いころ日本に留学し、岡倉天心に師事。岡倉は当時、ボストン美術館東洋部長としてアジア地区、特に日本、中国の美術品収集を担っていた。アメリカの百万長者で美術収集家のチャールズ・ラング・フーリアは「〔中国は〕今まさに戸がひらこうとしている大倉庫である」と1910年に友人に宛てて書いている。ボストン美術館がウォーナー率いる調査隊を龍門石窟に派遣する計画は、岡倉としても「中央支那の原物を入手するに、二つとない機会」だった。1926年、ウォーナーは敦煌莫高窟で320平方センチにおよぶ壁画を特殊な糊を使ってはぎとった。唐代の優れた仏像数体もボストンに持ち去られた。壁画三点は現在もハーバード大付属サックラー美術館に展示されている。アメリカの東アジア史研究者ウォレン・I・コーエンは「かれをはじめとする多くの西洋人、とりわけアメリカの美術館と個人コレクターが、寺院や陵墓の略奪者から大量に購入し、ときには彼らと契約さえ結んだ」と書いている。敦煌以外からも貴重な古文献、美術品が流出、欧米や日本の博物館を満たした。学術調査の名のもとに文化財を略奪する例は、同じ時代の中央アジア、南米、アフリカなどでも広くおこなわれた。帝国主義の文化的コロニアリズムの産物。

 

p.116 梅原とウォーナー

古蹟発掘、文化財保存について有光を指導した梅原によると、既往の調査の経過を知っている進駐軍のウォーナーが1946年に助言を求めて梅原の来朝をもとめたが、米第24軍司令官のホッジ将軍に拒否されたという(「梅原回想録」)。総督府時代の経歴を嫌われたか。もっとも、梅原は侵略の拡大とともに中国、ベトナムにまで発掘を広げ、朝鮮を離れることが多かった。梅原によると、韓国での顧問格に就任したクネッズがウォーナーとの師弟関係にあり、梅原とウォーナーの関係がその後も続いたようなことをにおわせている。1948年にウォーナーが韓国の傑作美術品の展示を提案しているので、その協力を求められたか。ウォーナーの計画はホノルルの美術アカデミーが引き継いだが、朝鮮戦争中の巡回展ということもあって実現しなかった。

 

p.117 梅原の調査と植民地支配の関係

梅原にもウォーナーにも文化財の取得方法に関する反省が欠けていたと指摘される。韓国の柳美那(ユミナ)は、「梅原は自らの学問的な「熱望」が「植民地支配」という状況の中で朝鮮半島にいかなる影響をおよぼすのか、あるいは朝鮮半島に居住している朝鮮人といかなる相関関係をもつのかに対しては、ただの一度も批判的に検討したことがない」とのべ、「彼の文化財「保護」活動が、結局朝鮮の支配体制を強化するためのイデオロギーとして作用した暴力性に対しても無関心であった」と結論している(117~118頁)。

 

p.119 ウォーナー伝説と矢代幸雄

米軍が奈良・京都を空襲しなかったのは、古都の文化的価値を尊重したためで、ウォーナーが文化財リスト、地図を作製し、ロバーツ委員会を通じて政治と軍の上層部にこれを伝えたからだというウォーナー伝説は、美術史学者・矢代幸雄(1890~1975)が広めたものとされる。ウォーナーはこれを否定、日本政府の生前の叙勲も断った。奈良・京都を空爆から守るように進言したのは清華大学の梁思成という報道もあった(『朝日新聞』大阪版1985年3月29日付)。実際はスチムソン陸軍長官が日本人が反米的になると対ソ政策上不利になるという危惧から進言したもの。矢代は日本の本格的西洋美術史研究の創始者で、国際的にも高い評価。1936年に設立された美術研究所(のちの東京文化財研究所)の所長で、戦時中は軍部の国粋主義と独善的な宣伝工作を批判しつつ、中国に対する文化工作に関連して積極的に発言。「対支文化工作の目標とその方策」(1941)という報告書で北京を「文化芸術の大都市」として中国芸術政策の中心、東アジアの観光資源の絶好な拠点として利用することを提案。美術史家・加藤哲弘の指摘によれば、この発想は戦後の「美術の国、文化の国としての日本の平和的なイメージを形成すること」に横滑りしていく(「矢代幸雄と近代日本の文化政策」)(120頁)。「戦争によって失墜した文化民族としての日本の信用を取り戻す」(矢代)。価値ある文化財によって戦後日本の平和国家、文化国家としての国際的認知と再生をはかろうとした(120頁)。だが、日韓交渉で韓国文化財の返還が問題になると反対に回った(121頁)。1945年の法隆寺金堂壁画の焼失を受け、翌年5月に文化財保護委員会が文部省の外局として設立され、委員長は高橋誠一郎、委員は矢代、細川護立、一万田尚登(いちまんだひさと)、内田祥三。細川と高橋は美術コレクターとして知られる人物で、細川は総督府の古蹟調査に多額の寄付、文化財流出と深く関わっていた。内田は東大総長で、建築学科所属。東大の建築学科には古蹟調査の関野も在籍し、韓国の文化財調査に大きな影響。関野らの収集した遺物を多数大学に所蔵していた。委員会はほとんど独立の地位で東京と奈良の国立博物館がその所管に属し、専門委員の発言権がきわめて強く、外務省も文化財返還について委員を無視できないことは認識、また委員らは植民地期の収集段階から適切に合法的だったと主張。*1

 

p.128 国際世論

1956年12月にユネスコ第九回総会で「考古学的発掘に関する国際規則」を勧告として採択。不法な発掘により奪われた物件の返還のために発掘関係者や博物館が協力し、加盟国は必要な措置をとることなどが規定された。こうした世界情勢の変化も背景にあり、1958年の第四次日韓会談が始まると、東京国立博物館所蔵品106点が返還された。1918年の古蹟調査による三国時代の古墳(慶尚南道昌寧郡校洞)の出土品。これは新人時代の梅原が試験程度に掘ったもので、1921年に金冠塚が掘られて以後は、二級品の価値しかないもの。

 

p.129 外務省の方針、植民地時代に正規に取得されたものという論理

すでに1953年10月23日付文書で両国友好関係の樹立のために国有の文化財を選んで贈与することがよいとして、関係各省との間に事務的連絡を進めていたが、完全な了解を得られていないと指摘している。文部省の文化財保護委員会が「正規の手段を経て入手」したものとして強く反対。1961年の専門家会議では、韓国側は伊藤や寺内の名を挙げて文化財の不法搬出を論じたが、日本側は伊藤も寺内も立派な人物で不法行為などしないと反論、韓国側はその取引自体が植民地内でなされた「威圧的」取引だったと反論(130~131頁)。

 

p.132 文化財の返還

文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」によると、返還対象品目は「考古、美術品」は「東京、京都大学分」「東京〔国立〕博物館所蔵品」にわかれていたが、前者は大学の研究機関は尊重するとして撤回されることになっており、「典籍」は最大限の実物返還が実現するようにするが、壬辰倭乱(イムジンウェラン)の時に奪った貴重図書は「複写提供」、返還されたのは、統監府所蔵分(11部90冊)、第二代統監曾禰荒助献上本(152部762冊)でわずかに宮内庁所蔵のものに限られていた、私有のものは自発的寄贈を勧奨するにとどめた。

 

p.134 歴史学者の反省

「朝鮮で朝鮮人から金銭で「正当に」購入したのだという人もいるだろうし、もらったのだという人もいるかもしれない。しかしそれが、植民地化――朝鮮人の劣悪な生活と教育事情――という条件の下に、日本の研究者の発掘乱掘あるいはその結果それを手本として助長された盗掘が遺跡から引き離した文化財であることを、私たちは銘記しなければならない」(近藤義郎「朝鮮文化財に思う」『考古学研究』1965年6月号)、「これらが金銭で購入されたものであったとしても、植民地ないし半植民地の体制下での取引であったことを想起すべきである」(西川「朝鮮文化財は誰のものか」『考古学研究』1965年9月号)。*2 

 

p.143 イラク戦争

2003年1月4日、シカゴ大学東洋研究所の考古学者マクガイヤー・ギブソンが米国防総省を訪ね、「軍事行動から保護すべき遺跡四〇〇〇(のち五〇〇〇)」の所在リストを提供。国防総省は遺跡を破壊しないように命じてあると回答。国防総省には、戦後の復興と人道援助のための民政事務所(ORHA)が設置され、略奪や文化財の損失を避けるために多国籍軍は施設の安全を確保すべきと米軍の上級指揮官たちに書き送ったが、その二週間後にはリストの二番目に挙げられたバグダード国立博物館が暴徒の略奪に。その四日後に博物館からの要請で米軍戦車が到着。被害については、米軍のマシュー・ボグダーノ海兵隊大佐の調査報告がある。格別の名品は売却が難しいので放置されたとみられ、バイヤーが事前に入って現物を調べた可能性を指摘。盗品は仲介業者の手に渡り、国際市場で売りさばく周到な計画があったことを物語っていた。国防総省は米軍に遺跡破壊を禁止したが、同時に、イラクの民間人の略奪を取り締まるのは任務ではないと明言。取材した記者は、米国がした唯一のことは、イラクの石油省を警備することで、国立博物館でも図書館でも保健省でもなかったと書いた。アメリカ占領下のイラクでは、遺跡の破壊や文化財の不法な搬出がおびただしかった。政治的に有力な業者、コレクター、法律家のグループによるアメリ文化政策評議会(ACCP)は、合法的に発掘された遺物の自由な流通の促進を目標とする団体で、イラク情勢が緊迫した2002年10月に結成され、翌年、戦争が始まると、ACCP会長はイラクでの発掘許可の緩和と、ある種の物件の輸出を許可する方向でのイラク文化遺産法の再検討を指示すると表明。ニューヨーク大学の美術史教授ザイナブ・バイラニは、不法搬出された遺物が最終的にはニューヨーク、ロンドン、ジュネーブを本拠とするコレクターの手に集中していると指摘、ACCPを批判。2003年の安保理採択の「イラクの復興支援のための一四八三決議」は、不法にイラクから持ち出された物品の取引・移転を禁止。

 

p.183 朝鮮王朝実録

東大が所蔵すると判明して返還運動が起きた。25代1706巻で、現在は韓国国宝およびユネスコ世界記録遺産。ただし、総督府の影響下に李王職が主管し、李王職長官・篠田治策(のち京城帝大総長)を編纂委員長に、1927年から編纂して35年に完成した『高宗実録』『純宗実録』は除外。編纂を主導したのは篠田と実録監修委員の小田省吾(京城帝大教授)。『朝鮮王朝実録』は1931年に寺内によって東大に寄贈されたが、要請したのは白鳥庫吉。「実録」は江華島ほか四ヶ所に秘蔵されていたが、最も完全とされる五台山の月精寺(ウォルジョンサ)から持ち出した。寺からは総督府の職員の監督で事前の相談なしに住人を使って9日かけて最寄りの港まで運搬。白鳥はソウルに出張して輸送を監督。東大に運ばれたのは794冊(白鳥は787冊とする)は関東大震災でほとんど焼失、残ったのは74冊、うち27冊は32年に京城帝大に移管、現在はソウル大学の奎章閣に。2006年、還収委員会は東大の小宮山宏総長にユネスコ条約を根拠に返還を求めたところ、寄贈という形でソウル大学へ。潘基文(パンギムン)外交通商部長官が「文化協力の象徴」であるとして謝意を表した。

*1:参考)この話は、矢代幸雄「ウォーナーのことども」(『忘れ得ぬ人びと 矢代幸雄美術論集1』所収、岩波書店1984年、8頁)に見える。米国は「戦争地域における美術及び歴史遺跡の保護救済に関する委員会」をつくり、連邦最高裁判事ロバーツ氏を委員長としていた。ウォーナーはそこに京都・奈良の保護を訴えたという。ウォーナー夫人はセオドア・ルーズベルトの姪。ウォーナーはハーヴァード大を出て日本に来て、岡倉天心に目を開かれ、その仕事を手伝ってかわいがられた、とある。なお、矢代の著作では、ウォーナーの名はランドンではなく、ラングドンと表記される。

*2:所見)129頁以降の議論は興味深いところで、このような植民地性はさまざまなスペクトルで日常にも存在する。極言すれば、人が自ら欲せずして生まれさせられるということも、一つの植民地的事例なのである。今日、人を産むということは何ら違法な行為ではないけれど、生まれさせられた側にその論理を適応することは、一つの威圧である。望まずして従事させられるあらゆる事どもは同じ性質をもっているが、そのうちのあるものだけが、現状では植民地的なものとして不法視ないし不当視されている。たとえば、女性の性的自己決定のもとに行われる体のセックスワークについて、「女性の賃金が男性に比べて不当に低い現状で、ほとんど唯一の高賃金を得られる売春を〔職業として〕選んだとして、それは本当に〝自由意思〟による選択と言えるのか」という議論は、その一つの典型である(水島希渋谷知美「性的サービスの提供は「労働」としてどう考えたらいいか」(アエラ・ムック『ジェンダーがわかる』所収、朝日新聞社、2002年)62頁)。金早雪は、この問題を「よしんば〔男性が女性を〕買う自由があるとしても、売る側が同じく自由な経済主体であるとは限らない。古今東西、こと売春業においては、自発的で自由な性労働者だけで売り手が構成されたことは一度もなく、売春業界はなべて古典主義的搾取構造に依拠していると言って過言ではない。末端の「商品」のガラス・ケースの向こう側のこうした事情は、さして見えにくいものではないはずである」(金早雪「解題」(申蕙秀『韓国風俗産業の政治経済学 従属的発展とセクシャル・サービス』金早雪訳、新幹社、1997年)、247頁)と要約する。「もっとも、売春に限らず、私たちが何をおいても働かなくてはならないのは、その〈貧しさ〉のゆえであって、〈労働〉といっても、それは豊かであればしなくてもよい〈苦役〉を正当化するために与えられた美名にすぎない。肥大化した労働によって、私たちは自らを明け渡し、断片化し、画定し、差別する。もし、経済的劣位に置かれた女性がする売春を一つの強制売春と捉えるならば、私たちが好んでするのではないあらゆる労働も、同様に強制労働である。反対に、〈支配-従属〉の関係にとらわれることのない真に自発的な〈性的自己決定〉にもとづいて行なわれる売春を自由なセックスワークと呼ぶならば、同じようにして行われる〈労働〉もまた自由な〈労働〉ということになるであろうが、真の〈自由〉が現前するものか否か、私にはまったく答えようがない」(服部洋介「存在と偽装~超複製技術時代の芸術作品Ⅲ」(『ブランチング25』所収、クマサ計画、2018年))。