南山剳記

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法然上人当時の宗教的心性について ―鴨長明『発心集』を中心に―(吉田 淳雄)

法然上人当時の宗教的心性について鴨長明『発心集』を中心に―

吉田淳雄「法然上人当時の宗教的心性について―鴨長明『発心集』を中心に―」(大正大学浄土学研究会編『丸山博正教授古稀記念論集 浄土教の思想と歴史』所収)、山喜房佛書林、2005年

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【服部 洋介・撰】

 

概要

鴨長明『発心集』を平安時代における往生伝の記述と比較、往生観がどのように変化したかを跡づける小論。前代の往生観が根強く残っていた一方で、奇瑞・夢告など、往生伝の時代に顕著な記述が往生譚から消えていくことに着目、捨身行を否定する風潮があらわれ始めたことをうかがわせる記述もあり、そこに価値観の移り変わりが看取されるという。これは『平家物語』の結集が行なわれた当時の宗教的雰囲気を伝えるものでもあって、『平家物語』「灌頂巻」に描写される女院の庵室が、『方丈記』の伝える長明の日野山における「仮の庵」の様子と比較されることは夙に知られる視点である。同時代に生きた『平家物語』筆者群の思想背景を個別に追っていくための一資料としてここに挙げる。なお、参考までに、捨身について慎重な意見を付す『法然上人行状絵図』(四十八巻伝、勅修御伝)における鎮西義の見解を脚注に記す(なお、法然絵伝には奇瑞・夢告の類の話が多く含まれていることを断っておく。公の祖師伝という性格によるものであろう)。

 

浄土教の思想と歴史―丸山博正教授古稀記念論集

浄土教の思想と歴史―丸山博正教授古稀記念論集

 

 

所蔵館

岡山県立図書館

 

p.155 当時の人は往生のために諸行に熱心だった

法然『選択集』第12章「およそ散善の十一人、皆貴しといえども、しかもその中においてこの四箇の行は當世の人、殊に欲する所の行なり。これらの行を以て、殆ど念佛を抑う」と、当世の人が持戒・発菩提心・解第一義・読誦大乗の「四箇の行」を欲し、それらの行がなければ往生できないと考え、為に「念仏を抑」えていると述べる。

 

p.156 諸行と念仏という二つの価値観が並立していた鎌倉初期

しかし『選択集』撰述当時、すでに法然の教説は広く世に受け入れられており、そのため後年には幾度にも亘る法難が惹起されたともいわれている。この時代、法然が嘆くほどにこうした価値観が強固であった一方で、法然の説く念仏が道俗貴賤の別を超えて浸透していった、そういう二面性を有する時代なのである。(156頁)

*1

 

p.157 鎌倉新仏教当時の宗教界の雰囲気を伝える『発心集』

鴨長明(1155?~1216)の編になる仏教説話集で、『閑居友』『沙石集』へ続く中世仏教説話集の嚆矢に位置づけられる。長明は元久元年(1204)に失踪、遁世して蓮胤と名乗り、建暦2年(1212)頃に『方丈記』、建保4年(1216)までに『発心集』を編んだと見られるが、成立の年時・過程は明らかではない。収録される説話は、発心譚、遁世譚、往生譚など多岐。随所に評言がそえられ、『日本古典文学大事典』「発心集」(藤本徳明稿、明治書院、1998年)の項は「文学面においてのみならず、宗教的、思想的にも、鎌倉新仏教の勃興期の宗教界の雰囲気を伝える好個の資料」と評される。

 

p.157~158 前代の奇瑞・夢告がリアル感を喪失、捨身などの否定

先行する往生伝を比較した廣田哲通の論攷「往生譚の変質――往生伝と発心集を視座として」(『文学史研究』一七・一八合併号、1978年。後に同氏『中世仏教説話の研究』勉誠社(1982)に収録)によると、発心集の往生譚は、往生伝に典型的な奇瑞・夢告を中心とせず、作品として変質、それらがリアリスティックな迫真性を失っているという。また、これまで価値あるものとされた事柄が否定されることを示す記述もある。

 

p.158~163 行業は往生の決定的な要因ではなくなる

2巻8話では、天台座主・鳥羽僧正が死後天狗になり、9話では助重という凡夫が死の寸前に一声だけ高声念仏して往生したことが記され、評言で、僧正の年来の功徳と凡夫の愚かなる心とでは、人の徳のほどは計りがたいと感想を述べている。往生伝では往生を決定するものとされた「行業」が、ここでは必ずしも決定的要因として扱われてはいない。


p.159~160 断食往生、燃指供養、身燈

巻3第7話「書写山客僧、断食往生の事 此の如き行を謗るべからざる事」は、円教寺の客僧が断食往生を志し、臨終正念を得て極楽に生ぜんに、いつ最期とも知れないので、健康で妄念のないうちに捨身しようという。だが、身燈、入海は目立つし苦しいので(前代の往生伝の代表的な捨身行を否定する考え)、断食して安らかに往生した、という話。又、この頃には、断食行者について前世で人に食い物を与えなかった報いとか、天魔に心をたぶらかされたのだという謗りがあったことを記している。また、法華経の燃指供養などもけがらわしいと謗られる。だが長明は、「こころざし深くして、苦しみを忍ぶ故に」大きな功徳をもたらすとして、燃指供養、身燈といった行を肯定する主張。また、巻3第8話「蓮花城、入水の事」でも、友人の登蓮法師は入水による捨身を否定する。「あるべき事にもあらず。今一日なりとも、念仏の功を積まんとこそ願はるべけれ。さようの行は、愚癡なる人のするわざなり」と言う。結局、人々が入水の場に結縁しようと集まって、やむなく川に飛び込んで往生できなかった。評言して、人々の心は「勝他名分にも住し、憍慢、嫉妬をともにして愚かに身燈、入海して往生できるとこうした行を思い立つこともあり、外道の苦行に同じ」と、安易な捨身をいましめる。

*2

 


  吉田 淳雄

 

p.167 長明の略歴

長明は下鴨神社の正禰宜惣官・鴨長継の次男。二十歳を前に父を失い、高位神官の将来を失い、猟官活動をしつつ、和歌・琵琶の才で世を渡る。後鳥羽院には目をかけられ、『新古今集』の撰集にも関わる。世間的には不遇で、元久元年(1204)、河合社禰宜の座を逃し(一説に琵琶の秘曲の相承をめぐるトラブルという)、遁世し、大原を経て日野に庵を結ぶ。三木紀人稿『新潮日本古典集成 方丈記・発心集』解説(1976)など参照。

*1:所見)『平家物語』に見る戒浄双修の雑修的な雰囲気はこうしたところにあって、法然も諸行を謗ることは禁じていた。「平家」の作者は作中に法然を登場させてはいるが、専修念仏の原理主義者ではなかった。法然はただの登場人物の一人として描かれている。熊谷直実の発心譚が「勅修御伝」にないことからも、積極的に鎮西義が「平家」に関わったとは思われない。、新潮日本古典集成『平家物語 下』は、百二十句本について「たとえば“戒文”や“六道”が目立って簡略で、浄土教と『平家物語』の関連を重視しようとすれば、物足りなさが感じられる」(427頁)と解説しているが、一考すべきことである。

*2:所見)長明は、諸行・雑行を否定していない。なお、『法然上人行状絵図』第28巻に、津戸為守の自害往生について、末代においては必ずしも勧められることではないとわざわざ断りがあり、聖光房は「自害往生、焼身往生、入水往生、断食往生等の事、末代には斟酌あるべし」と言ったと付言されている。なお、津戸は奇瑞を起こして大往生した。