南山剳記

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リーディングス 数学の哲学――ゲーデル以後(飯田 隆〔編監訳〕)

リーディングス 数学の哲学――ゲーデル以後

飯田隆 編監訳『リーディングス 数学の哲学――ゲーデル以後』、勁草書房,1995年

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【服部 洋介・撰】

 

概要

飯田隆の編訳になる『リーディングス 数学の哲学――ゲーデル以後』の断片的な読書メモ。主にラッセルの記号論理学、ブラウワーの直観主義について述べた周辺の断簡で、導入部だけで肝心な中身が記されていないのが難点だが、ひとまず下記に掲出する。直観主義における排中律批判について付言するならば、平面上に引かれた閉曲線によって示される内部領域が、平面を内と外に分割するというジョルダン曲線定理が成り立つということは、ベン図によって示される集合概念において、排中律がまちがいなく成立することを意味しているということになるのだけれど、これを三次元に拡張すると、トーラスを含む立体において立体上の平面における閉曲線は、平面を内と外に分割せず、ベン図的なアナロジーは通用しなくなる、というような事例は思いつくであろう。直観主義において、無限に対して排中律を適応することはできず、真理値は常に存在具体性の担保にもとづいて計算されなくてはならない。このような考え方は、あるいはフレーゲの意味論においてすでに萌芽しているように思われる。彼の〈概念記法〉において扱われる名辞、述語、文は、すべて有意味な(つまり実在の)ものでなくてはならず、確認不明なもの、実在しないもの(オデュッセウスなどの虚構上の人物)を含む文は、真偽をもたない「見かけ上の言明」とされた。論理実証主義を進めると、言明できることは限りなく少なくなるが、このことは、古典論理に対して直観主義が常に制限を課せられた弱い推論に留まるという事情にも通ずるのであろう。

 

リーディングス 数学の哲学―ゲーデル以後

リーディングス 数学の哲学―ゲーデル以後

 

 

所蔵館

市立長野図書館

 


クルト・ゲーデルラッセルの数理論理学」

 

p.63 記述句は何も表示しない

ラッセルの観点は、記述句はまったく何も表示せず、ただ文脈の中でのみ意味をもつ、とする。記述句「『ウェイヴァリー』の著者the author of the Waverly」「イングランドの国王the king of England」といった句が、表示あるいは意味するものとは何か? “『ウェイヴァリー』の著者”が意味するのはウォルター・スコットという自明な回答には困難がある。「スコット(スコット)は『ウェイヴァリー』の著者(スコット)である」という文は、「スコットはスコットである」という文と同じ意味になる。さらには、すべての重なる文は同じ意味をもつ、という結論になる。これについてラッセルは、「『ウェイヴァリー』の著者はスコットランド人である」のような文は「『ウェイヴァリー』を書いたのは全てスコットランド人である」と定義する。しかし、「『ウェイヴァリー』の著者」を含む句は、スコットについて厳密には何も語っておらず、遠まわしに何ごとかを主張しているにすぎないとする。これについて

(1)記述句は記述される対象が存在しなくても有意味に用いられる(たとえば、「現在のフランス王は存在しない」という文)。

(2)記述句で記述される対象を知らなくても文の意味は理解できるか。一般に当の対象を知らなければ文を理解できないように思われる。

という二つの論拠を挙げている。

 


マイケル・デトゥルフセン「ブラウワー的直観主義

 

p.205 排中律批判

排中律の不完全性と不健全性についての批判は、通常、直観主義者の最重要項目かつ古典的数学に対する彼らの批判の中心点。だが、ブラウワーはこれを過大評価しない。

 


チャールズ・パーソンズ「数学的直観」

 

p.305 数学的対象の直観

「目の前のタイプライターを見ている」という命題には、懐疑論に基づくことなくしては反駁できないだろう。「タイプを見ているかのようにみえる」といった一層弱い言明には懐疑論は手も足も出ない。経験の記述についての確信は、懐疑を超えて生き延びる。だが、数学的対象は異なる。「数7や三角形を直観するという経験が存在するようにみえる」とは明らかなのか? 数学的対象は物理的対象ではない。数学的対象にとって真に本質的なのは、それらが属する構造を構成する諸関係。

 

p.323 何が直観されるかを決める概念

「数3」を直観している人が、「111」を見て「3」を直観しているとは言い得る。3と111を同一視する同定のための概念があり、主体によってその状況に持ち込まれる概念によって、何が直観されるかが決まる。熱と分子の運動は同じものだが、われわれが熱を感じるということは、分子を知らなくても分子の運動を感じていると言える。