南山剳記

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バルテュス、自身を語る(バルテュス、アラン・ヴィルコンドレ)

バルテュス、自身を語る

バルテュス、アラン・ヴィルコンドレ『バルテュス、自身を語る』、鳥取絹子訳、河出書房新社、2011年

 

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【服部洋介・撰】

 

概要
画家バルテュス(Balthus、1908~2001)のインタビュー本。バルテュスというのは、自分のことをあまり語りたがらない御仁で、そこへきてポーランド貴族の末裔、かなり気むずかしい人だった。息子のスタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラによると、画家の伝記は不要であるとか、絵にタイトルはいらないとか、批評家泣かせのことを言っていたようである。

カトリックに深く帰依する一方、少女をモチーフに意味深なヌードばかり描いていたものだから、今もって眉を顰める人は多い。代表作の一つ『夢見るテレーズ』(1938)をメトロポリタン美術館から撤去せよという署名運動もあった*1。なお、本朝のバルテュスを自認する会田誠(1965~)についても同様の非難があって、森美で開催された『会田誠展: 天才でごめんなさい』(2012)にも抗議の声が寄せられた。京都造形芸術大学における会田の講義を受講した女性が、その内容に精神的苦痛を受けたとして同大を運営する学校法人を訴えるという事件もあった。

さて、バルテュスの場合、ドイツのフォルクヴァング美術館が、バルテュスのモデルとなった少女のポラロイド写真を展示する『バルテュス:最後の写真』展を取りやめるという事件があった(2014年)*2。このドイツでの写真展に先だって、バルテュスの遺族のほか、当のモデル本人からも許諾を得て、ガゴシアンが『バルテュス:最新の研究』展(2013~2014)を開催している。このようなことは、自身の子どもたちを撮影して児童ポルノ製造と児童虐待のかどで非難された写真家サリー・マン(Sally Mann、1951~)についても当てはまる*3。それぞれに言い分はあろうけれど、当時からあったこの種の非難について、バルテュスの言い分が載せられた邦訳本は管見の限りこの一冊であるので、まずはご一読いただきたい。

なお、バルテュス2番目の妻は、日本出身の節子夫人である。東洋美術が中世との断絶を経験せず、その壮麗さを保っていることをバルテュスは絶賛している*4。遠近法の発明以後に急速に進んだ世界の視覚化と概念化にバルテュスは抵抗、シエナ派以前の内的世界への沈潜を標榜していた。この理屈は、自ら「写実から入った神秘家」とうそぶいた岸田劉生の魔術的な芸術観を連想させるものであって、岸田もまた、「自然のありのまゝをありのまゝに写すといふ、自然派流の言は馬鹿気たものである。大事なのは心である。内なる美は深き事である」*5と言っていることに注意されたい。ある種の芸術家がこのような感覚をもつのも頷けることではある。バルテュスのヘタウマな絵も、そのように見なくてはならぬもののようである。なお、バルテュスは、私の知人の師匠の師匠にあたる人物で、まんざら無縁の画家でもないけれど、私自身は、どちらかと言うとバルテュスが拒絶した現代美術にいっそう関心を惹かれるものである。また、文中に引用する図版は、バルテュスの息子スタニスラスのまとめた画集『バルテュス』(スタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラ『バルテュス』、野村幸弘訳、岩崎美術社、2001年)より採った。私見は脚注に記した。

 

バルテュス、自身を語る

バルテュス、自身を語る

 
バルテュス

バルテュス

 

 

所蔵館
市立長野図書館(2階/723・ハ)

 

 

p.11 伝統のみが革命的
アラン・ヴィルコンドレによる序文に「伝統のみが革命的」とある。

 

p.20~21 絵を描くことは祈りであり、現代芸術に絵画はわからない

祈るようにして絵を描く。

「まさにそのことによって、静寂の世界に、この世では目に見えないものにたどりつく。現代芸術と称することをしているのは大半が愚か者で、絵について何も知らない芸術家であるからして、私の言わんとすることにもろ手をあげて従う者がいるのか、あるいは理解されるかは、はっきり言って確信が持てません。しかしそれでかまわないのではないか? 絵を描くことは絵を描くことだけで理解されるものです。絵画に触れるには、言わせてもらうと、儀式のように畏怖の念をもってのぞまなければなりません。絵が与えることのできる、神の恵みのようなものをつかまなければならない。私はここで宗教的な語彙から離れることはできません、私が言いたいことを伝えるにはそれがもっとも近く、これ以上に正しい言葉は見つからない。この世にある聖なるものに自分をゆだね、謙虚に、控えめに、しかし供物のように自分を捧げることによって、はじめて本質に行きつくことができるのです。絵を描くときはつねに、このように精神を貧困にしておかなければなりません。流行の動き、安易で目がくらむようなものは避けなればならない。私の人生はこれ以上ないほどの貧しさのなかで始まりました。自分を厳しく律することのうちに。まさにその意志のうちに」(20~21頁)

 

p.21 人付き合いを避けていた

フュルステンベルク通りのアトリエで過ごした孤独な日々の中でピカソやブラックと知り合う。「当時の私は型にはまらない若者で、人と違ったことをし、自由気ままで、人づき合いを避けていたのに……。」しかし、二人はバルテュスに好意的だった。

 

p.38 作品に意味などあるのだろうか

私の記憶は年代順ではなく、類似した記憶と逸話と結びついて織りなされている。優れた資質、美徳とは沈黙することではないかと考えていた。

「私は自分の作品を解釈したことは一度もない、というより、作品には必ず何か意味がなければならないのだろうか? そう思ったから、私は滅多に自分のことを話さなかった、話しても無意味だと思いました。自分の考えを表現するより、私がつねに従事している絵をとおして世界を表現する」(38頁)

 

p.53~54 少女の絵はエロティックではない

「人は私が描く服を脱いだ少女たちをエロティックだと言い張りました。私はそんな意図を持って描いたことは一度もありません、少女たちを話のたねにしようと思ったことは決してない。いや、その反対、私は少女たちを沈黙と深遠の光で囲み、彼女たちのまわりに目がくらむような世界を創りだしたかった。だから私は少女たちを天使だと思って見ていました」(53~54頁)

挑発的な絵を描いたのは一度だけ。1934年にピエール画廊が『アリス』、『街路』、『キャシの化粧』を展示してくれた時、『ギターのレッスン』は、あの時代には「大胆すぎる」と判断されてカーテンの後ろに置かれた。熱狂的なキューピストとシュールレアレストは平気で挑発していた。当時のバルテュスはフェルステンベメク通りに住んで快適さや物質的な心配はせずに絵の神秘を理解するために打ち込んでいた。そのとき26歳。

 

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バルテュス『ギターのレッスン』(1934)

 

p.82~83 少女の絵はあくまでエロティックではない

夢見る少女たちのデッサンは厳しい課題。すぐに消えゆく子供時代の優美さ、それゆえにいつまでも癒されない思い出として残るものを見いだす。

「かいま見えるこの優美さ、この祈り。それだから私は、私が描く少女たちがエロチックな想像から来ているという馬鹿げた解釈を耳にすると、いまでも反抗してしまいます。そういう主張は少女たちを理解していないことになる。私が心を奪われているのは、天使から少女になるゆっくりとした変化、私が通過と呼ぶこの瞬間をとらえること……」(83頁)

 

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バルテュス『部屋』(1952~56)

 

p.87~88 魔術的芸術観

「絵を描くとは、見える形をあらわすのではなく、なかに入っていくことです。秘密の中心に行く。内面のイメージを投げ返させる。その結果、画家が鏡にもなって、精神を、内なる光の線を反映する。それには視線と手を一点に集中させる。その人の内面に隠れて見えない形、砕けそうにないものに向けて投げかける。そこから人物の本当のアイデンティティを引き出すのが望ましい。これはとても難しいことで、大変な集中力と、外界への抵抗力が必要な錬金術です」(88頁)

*6

 

p.111~113 傍観者として対象を斜めから見る、自分の存在が入りこまないように

1934年、パリのピエール画廊で個展をしたとき、「なんだ、具象じゃないか!」と何人かの客に言われた。本当を言うと、一般でいう具象と呼ばれることはしたことがなく、反対に重要なのはつねに気候や季節の神秘を絵にすること。人物も同じ。

「これらのひねりのある不思議なシーンをフロイト風に解釈しようと考えたことは一度もありません(私がいちばん信用していないのが精神分析)、私が描きたいのは夢ではなく、夢見る少女、そして少女を横断するもの。だから横断であって、夢ではありません。シュールレアリストたちが試みたのはこの取り組みでした。彼らは、私が思うに、説明し、言葉にし、解釈した。しかし、そうすることで昆虫の特徴でもある軽さを重くしてしまった。石油ランプの黄金の光の輪に引きつけられるように飛ぶ蛾……。私は夢見る少女たち、うとうとする天使たち、しどけない少女たちに与えた夢を、横で傍観者として探り出しています。私は自分の存在で絵を重くする危険をおかしたくはない、控えめな存在でありたいと願っています。主題とずれ、ある意味で斜めにいることで、別の視点、別の雰囲気をつかむことができます。私の天使たちが目立たないように入りこんでいる場所の雰囲気。しかし、この横断を言葉で暴力的に断言することは画家のすることではありません。このずれ、詩的な隔たりを印象づけられるのは技術のみ。シエナ派の巨匠たちは私にとって大きな助けになっています」(112~113頁)

バルテュスが例として出す「金色や透明を帯びたものをかいまみる」「ひねりのある不思議なシーン」(112頁)は、『蛾』、『昼寝』、『コーヒー・カップ』などの作品だという。イタリアのフレスコ画家たちの作品については、

「ついに時間が克服された印象が生まれています」「克服された時間、たぶんこれが芸術の定義として最良なのではないだろうか?」(113頁)

 

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バルテュス画家とモデル』(1980~81)

 

p.128~129 ポンピドー・センター、芸術の大衆化を批判

ポンピドー・センターについてマルグリット・デュラスと辛らつな会話。彼女は芸術は革命的でなければならず、全員に開かれて街に出るべきだと言い張り、バルテュスは、センターが月に三十人ほどに開かれれば、みんなゆっくり作品と本当の対話ができるとやり込めた。

「私には行列やセンターの大騒ぎが不愉快で、芸術作品が要求する、沈黙や内なる音楽とは完全に逆行するように見えました」(129頁)

デュラスは言い分を認めず、激怒したように思われた。

「現代人はこの何千年もの美徳を知りません。沈黙と仕事、私が神とも呼ぶ見えないものとの深い秘密の対話。絵の上に再構築されたものはじつは遠くから、とても古い場所から来たことを知りません。その代わりに自己を見せびらかし、わいわいがやがや、心のままの衝動的なインスピレーションで、絵は誰でも描けると思わせている。芸術が大衆化し、したがって俗化し、無知な芸術家はおこがましくも自分を創造者(クリエイター)だと思っている。創造者とは、もし私がきちんと理解していれば、神その人です……」(129頁)

 

p.207 カトリックへの帰依

カトリックへの帰依について。

 

p.235~236 絵を描くことは宗教的な冒険である

画家は研ぎ澄ました視線を持つべき。重要なのは内なる視線の重要度。物事の内部に深く入り、想像できないほど豊かな魂を持って生きていることを確認するやり方。絵は宗教的な冒険。

 

「たとえばモンドリアンが、木々をあれほど素晴らしく描いていた風景画を捨て、色だけの小さな四角に走ったことになんと驚いたことか。知性至上主義と、世界を概念化することが結局、絵を枯渇させ、テクノロジーに近づけてしまった。キュービスト派の画家たちや、たとえばヴィクトル・ヴァザルリに代表されるオブ・アート(視覚的な錯覚を利用した絵画作品)の迷走ぶりを見てください……」(235~236頁)

 

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バルテュス静物』(1937)

「花びらの弱さや、猫や少女たちのものうげな様子をつかまえるには信じられないほど忍耐が必要なのは当然で、結果を急ぐ現代生活とはまったく別物です。テレビをつけるだけで、世界がすぐ手の届くところにあると思いこむ悪しき習慣が、たぶん、人間や物事のあり方を歪めてしまったのです。私はときどき昔の幌つき馬車でこの一帯の谷を散策します。ゆっくりした馬の歩みは人間としての私のサイズに合い、まわりをゆっくり見ることができる。この「ほとんど到達した」恩恵を、目まぐるしい動きや騒音の中でどうしてつかみ、完成させられるだろうか? 問題は現代生活を非難することではありません。そうではなく、むしろ過去の遺産に忠実であれということです」(236頁)

画家の使命は世界の旋律に調和すること。

 

p.268 成功や名誉を軽視

「私にとって人さまからの敬意や公の名誉、一般に認知されることや批評は決して目的でも原動力でもありませんでした。私はつねに成功を軽視していました。重要だったのは美の道をひとりで進み、その道から離れないことだった」(268頁)

 

p.269 孤独を選び、名誉競争では満たされない欲望を満たす

「絵を描くことは中世的な意味で一つの武勲詩。それなりのやり方で意味に向かって突き進む内面の叙事詩です。どうして世間の騒音で満足でき、それに参加できるだろうか? 私が生きるうえで選択したのは厭世的なものではなく、孤独です。物事の荒々しい中心、神秘がいちばんつまった結び目に行きつくためです。パリの社交界も、名誉競争も、この深い欲望を満たすことはできません。精神をはぐくむ作品を構成するにはシャッスィーの厳しいほどの静けさ、クール・ド・ロアンのアトリエの飾りのなさ、モンテ・カルヴェッロの厳格な誇り、ロッシニエールの穏やかさが必要でした。私は自分の時間の一秒一秒すべてが絵に捧げられたと思っています」(269頁)

 

p.272 ピカソ

バルテュスは、ピカソのことを「養分を補給して根絶する炎の大河」と呼んだ。ピカソバルテュスの『子供たち』を1941年に買ってくれた。バルテュスピカソの「不屈の探究心と、短気で興奮症で伝統破壊的な面」が好きで、ピカソバルテュスの「忍耐力、孤独、私の沈黙、そして彼には遅すぎる前進の仕方」が好きだったという。

「いっとき知性至上主義と無意味な抽象美術で絵の力が弱まり、衰退して死に瀕していたとき、危機感を覚えた彼は絵に必要ならとしわを刻み、命と精気があふれるようにしました」(272頁)

 

*1:後藤美波「バルテュスの絵画は少女を性的対象としている? 撤去の署名に8千人が同意」(『CINRA.NET』2017年12月5日付記事、web)。

*2:こちらのブログ『Bathyscaphe』に詳しい記事がある。

*3:所見)彼女の提示する子どもたちの表象自体よりも、その家族観に関心を寄せる向きもあった。写真評論家の高橋周平は1990年にパリで開催された「フォト・ドゥ・ファミーユ」展に出品されたマンの代表作『12歳のとき』を中心とする娘たちの写真について、「「家族写真」展であったにもかかわらず、マンの作品からは「家族」を感じ取りにくかった」としている。「性器もあらわな娘や息子のヌードなど、マンの作品には他にも誤解を招きやすいものが多い。自然回帰的、そしてやや少女期特有のエロティシズムを喚起するものなど、魅惑的ではあるが、母親写真家として踏み外し過ぎているようにも思えることが度々あった。しかし、それ自体は彼女の作品を否定すべき要因ではなく、つまり、彼女の「家族観」について、僕は釈然としなかったのかもしれない」(「モデルはわが子 サリー・マンの新世代・家族写真」(『芸術新潮』1993年1月号所収)、新潮社、1993年、87~89頁)。高橋によると、この家族観は、マン自身が実現できなかったヒッピーたちのコミューンの理想であると推定される。そして、「子供たちは写真の中で、時に物憂げで、やや羽目を外してセクシーで、そして何よりも一人の人間として独立しているように見える。彼女の写真は、家族というコミューンが、あらゆるものをさらけ出して成立し、深い絆を持っていることを語る」「母親の収めたなにも隠すものがない家族写真は、子供たちにとって「愛」の姿に見えるのだろう」(同書、90頁)と結論されるのである。それだけのことであれば、この写真は家族の人間らしい姿を捉えたものにほかならないが、それがどの審級において非人間的で暴力的なものと理解されるようになるのか、その構造を解き明かすことが必要なのだ。

*4:コスタンツォ・コスタンティーニ編『バルテュスとの対話』、北代美和子訳、白水社、41頁。

*5:岸田劉生「劉生畫集及藝術観」(『岸田劉生全集 第二巻』所収、岩波書店、1972年、378頁。

*6:所見岸田劉生の観念的、魔術的な絵画論を彷彿させる言であろう。岸田は「美術はかくて、形の宗教である」と言い、美術品とは人間の心によって肯定されたものであるとする(岸田、同書、352頁)。一方で、美術は無形の観念や心理を美を借りて表現できるとし、これが文学だけのこととされ、美術から神聖というものが蔑視されるのはあまりに形の芸術と見すぎた結果で、写実の美が重視されすぎたためであると述べている(同書、374頁)。ゆえに岸田は、写実と想像と装飾を混合した路線をとりたいとする。写実主義を主にしているが、装飾を忘れたことはない。「自分の経験から云ふと、写実の中に立派な装飾がある。深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する。それは「神秘」である。実在の感じの奥は神秘である。それは無形の美である。(…)自分は写実から入った神秘派と云はれても苦しくない」(同書、376頁)と言われる。