バルテュス(スタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラ)
スタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラ『バルテュス』、野村幸弘訳、岩崎美術社、2001年
【服部 洋介・撰】
解題
バルテュスの息子・スタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラ(Stanislas Klossoeski de Rola)の編によるバルテュス画集。バルテュスについては、すでに『バルテュス、自身について語る』の剳記で書いたので、そちらを参照されたい。
さて、バルテュスが、絵を理解する上で伝記的事実を不要のものと考えていたことは、いくつかの文献に明らかであるけれど、それら事実確認的なことどもは美術史家の仕事のうちなので、不要と言われても問わざるをえないものである。もっとも、作品そのものを理解するということは、客観的に可能なことではないから、もとより、このような科学的な方法論を適用するにも自ずから限界というものがあろう。ガダマーは「芸術作品の経験は理解を含んでいる、つまり、それ自身がひとつの解釈学的な現象であり、しかもその現象は科学的な方法で考えられる意味とははっきり異なっているからである。むしろ、理解は芸術作品との出会いそのものに帰属しており、芸術作品のありようからのみ、この帰属性を解明することができるのである」*1と言っている。
しからば、芸術の経験とは何であり、芸術における真理とは何であるか? バルテュスの見解は神秘的なものだ。すなわち「わかる者にはわかる」というもので、バルテュスと観念的な同一化を遂げた者のみが、彼の作品に描かれた形象の真なる意味を感得することができる、ということになるのである。はなはだ乱暴な説であるが、わからない話でもない。そもそも、バルテュスは「絵に意味が必要なのか」とさえ問うているからである。万人にとって自明な記号は有用な意志疎通のための道具ということになるであろう。極論すれば、この種の芸術は記号としては、はなはだ無能力なものであって、ゆえにバルテュスの作品は時に少女のあられのない姿態を描いた児童ポルノと非難されることにもなるのである。
そこで、そもそもわれわれは、芸術作品を理解すること自体が可能であるのか、という疑問に突き当たることであろう。ガダマーは言う。「われわれが芸術の経験について問い求めているのは、それが自らをなんと考えているかということではなく、むしろ芸術の経験とは本当はなんであり、またそこにおける真理とはなんであるかということである。たとえ、芸術の経験が自らなんであるかを知らず、自らの知っていることを語ることができないとしても、それを問うのである(…)。われわれは芸術の経験の中に、経験する者をもとのままにさせてはおかない真の経験が働いているのを見てとり、そのように経験されるもののありようを問う。おそらくこういう形でわれわれは、そこでわれわれが出会う真理がいかなるものであるかを、よりよく理解できるのである」*2。言ってみれば、何も理解できないということをもって芸術作品の理解としているのであるけれど、ただ、それが〈芸術の経験〉であるためには、そこに人をそのままにはしておかない〈真の経験〉が働くという条件が付帯するのである。なるほど、そういう経験は現にあるであろうけれど、それが万人自明の経験ではないことも容易に理解されよう。
このことからわかるのは、科学的な真理観における真理とは、真理値をもつ、すなわち真偽のある経験的命題(科学的命題)における〈真なる言明〉(現に成立する事態をいう)にほかならず、一方で芸術における真理とは、そのような仕方で真偽の別を立てることのできない、際立って主観的な真理であるということである。したがって、バルテュスの呈示する表象にかんするあらゆる言明は〈真なる思想〉ではなく、フレーゲ流に言えば〈見せかけの思想〉ということになるであろう。そこに何が描かれているのかは表象から文字どおり一目瞭然である。しかし、何を意味しているのかということになると、そのことについての真なる言明は行ない得まい。おそらく、バルテュスが述べていることも含めて、それは虚構のまた虚構であって、いわば神話のようなものへと無限に退き続ける、そうした類の真理なのである。その意味では、バルテュスがただ「絵を見よう」と言ったのは、言語というものが何かしら意思疎通の道具として限界づけられたものであることを考え合わせると、むべなるべしとも思われるのである。
作品そのものについて何を語っても詮ないことである。けれど、作品に対する批評が無意味で誤解に満ちたものであると非難するのも詮ないことである。作品についての理解が成り立たない以上、作品にかんする言明にも真偽の別は存在しない。憶測であることを隠さずに書かれた文章について、原理的に反論することはできない。もし事実だけを書こうとすれば、それは科学的で事実確認的なもの、すなわち美術史家の筆になる伝記より確実なものはない。この基準からすれば、批評が可能なのは、批評家が無知であるからにほかならないが、画家もそれに劣らず無知ということになるであろう。デュシャンはそのことをよく理解していたようである。そして、無知の上に芸術が成り立っていることを、ガダマーは原理的に示してみせたのであるけれど、この考え方は師のハイデガーに負うところが大きいと思われる。
なお、本文中に引用した図版は、本書『バルテュス』より採った。私見は脚注に記した。
所蔵館
市立長野図書館
- 作者: スタニスラス・クロソフスキード・ローラ,Stanislas Klossowski De Rola,野村幸弘
- 出版社/メーカー: 岩崎美術社
- 発売日: 2001/12
- メディア: 大型本
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序
p.17 ボードレール、批評の問題
「絵を描こうとか、詩を書こうなどとは思わないブルジョワ、そして芸術には批評は何の役にも立たないと、芸術家は非難する。というのも、批評はまさに芸術から生み出されるからである。ところが昨今の芸術家は、その哀れな名声をただ批評にのみ負っているのだ! 批評が真に非難されねばならないのは、その点である」(シャルル・ボードレール)(17頁)
p.18 バルテュスは伝記を不要と考えていた
「1983年、私が本書の初版への序文を書いていた当時、父はまだ、画家に関するこまごまとした伝記的事実は、作品研究にまったく必要ないと考えていた。彼は美術書の饒舌さをきらい、彼の作品についての本なら、それは絵に関する「言葉の本」ではなく、「絵の本」であるべきだと私に語った」(18頁)
p.18~19 バルテュスは伝記不要と電報した
「彼は自分について書かれたものには、いずれも失望していた。というのは、それらはだいたい誤解だったり、まったく無意味なものだったのである。(…)バルテュスはやはり自分の絵が「読まれる」ものではなく、「見る」べきものであると固く信じていた。イギリスの美術評論家ジョン・ラッセルが、1968年にロンドンのテイト・ギャラリーで開かれた回顧展のカタログに文章を書いたとき、バルテュスに細かな伝記的事実を尋ねて困らせたことがあり、後で次のような電報を受け取った。 伝記的事実は必要なし。バルテュスは画家で、彼については何も知られていない。ゆえに絵を見よう。 敬具 バルテュス」(18~19頁)
p.19 バルテュスの代弁者
言うまでもなく、美術批評家や美術史家はそうは考えておらず、伝記的事実から作品を説明する手がかりを得ようとする。絵に描かれた内容をいろいろ勝手に推測することもある。バルテュスが「私の代弁者」と呼んでいた哲学者クーマラスワミーは次のように警告している。
「(勝手な空想を)…『美的反応』と名づけられた好き嫌いの心理分析と混同していけない。芸術研究は、それにもし何らかの文化的価値があるとするならば、そんなことよりはるかに難しい探求が必要されるだろう。まず第一に作品が生まれてくる必然性という視点を理解し容認すること。第二に芸術家が作品を構想し評価するさいの形そのものに生命を吹き込むこと。芸術研究者は観察から観念的な形態のヴィジョンへと内容のレベルを上げることが必要とされる。研究者はテーマについて詮索するというより、それを愛さなければならない」(19頁)
p.19~20 ものを真に見るとは
「ただ見る」と「真に見る」が別物であるとの考え方は昔からある。現代の日常生活では煩雑なことにとらわれ、バルテュスが「惰性」と呼ぶものに屈して、ものを正しく見ることができない。展覧会に行くのは見栄で、説明を読んだり、絵を見て反応したり、気に入ったり入らなかったり、結局、何を見ているのか?
「私としては、知的な概念などではなく、作品を「熟視する」ことをすすめたい。そこでは「見る行為」、「見られるもの」、「見る人」がひとつの状態となる。バルテュスはふだん美を賞賛するなかで、神秘的な伝統の内なる声に従い、その秘儀と聖なる教義をつねに探求している。彼は絵画をいつも「祈り」にたとえるのだが、それはすべてを包み込む「内なる現実」を伝えるものであり、彼を見知らぬ道へ、再発見と再認識の神秘的な旅へと駆り立てるのである」(20頁)
p.20~21 バルテュスは素人で技術がないことに困っていた
「私の父はこれまで巨匠のアトリエで習得されてきた手わざ、技法、奥義といった絵画の基本的な技術がないことをいつも嘆いていた。彼はあらゆることについて試行錯誤を重ねながら独学しなければならなかったとこぼし、修得の困難な技術の必死の探求をよく「絶望的だ」と言ったものだ。彼は自分が未収得の言語で小説を書こうとする人のようだと言っていた」(20~21頁)
p.21 バルテュスは不可視のものにリアリティを見た
バルテュスは未熟な第一歩からいくつかの段階を経て「リアリティ」を重視するようになった。そして、次第に目に視えるものの性質がどんどん遠ざかっていくように思われた。晩年の絵画表面の質感は、不思議にも強烈な聖性を発している。
「ヘルメス・トリスメギストゥスの『アスクレピオス』によれば、「愛によって世界の美を保ち、その美を高める者は、彼自身の作品を神の意志に結びつけ……聖なる高次の自己に導かれることによって祝福されるだろう」。真に宗教的な目的に向かってバルテュスは名声を求めるゲームを楽しんだが、けっしてそれに振り回されることなく、最後まで彼自身の道を歩んだのである」(21頁)*3
p.24 バルテュスはタイトルを付けなかった
「作品タイトルから物語的要素を引き出すべきではない。タイトルは作品を識別する目的で付けられているにすぎず、またバルテュス自身、タイトルを付けたことがほとんどないからである。 ――著者註――」(24頁)*4
*1:ハンス=ゲオルク・ガダマー『真理と方法 Ⅰ』、轡田収・麻生建・三島憲一・北川東子・我田広之・大石紀一郎訳、法政大学出版社、1986年、143頁
*2:ガダマー、同書、142頁
*3:なお、『バルテュスとの対話』の序文に、スタニスラスが錬金術思想のもち主であるある旨が書かれていたと思われるが、読書録にはメモしていない。各自で確認されたし。
*4:(参考)たとえば、抽象表現主義から出発したジョセフ・ピアセンティンは、次のように言っている。「要は、タイトルを付けてしまうと絵の説明になってしまうということと同じことだよ。むしろ、見る人の自由を制限してしまうというか、そういう説明書きは必要なものじゃない。むしろ、その中のプロセスを見てほしいんだ。抽象表現主義の作家が、よく『アンタイトルド』を使うのとあんまり変わらないね。作品の方向性を示すためにタイトルを付けるときもあるけれど、先入観とか説明書きは、ほとんど必要じゃない。そういうことはあまりしたくないね。作品のほうが私よりよっぽり賢いんだ。どう形成されるかは作品が教えてくれる。作品ができあがったことを教えてくれるんだ。美的に構成することよりも、できあがってゆくプロセスがおもしろいものであることを重視しているのだよ」(服部洋介編「ジョセフ・ピアセンティン教授、大いに自作を語る」(南山文庫雑書刊行会編『美術雑誌』第一輯 所収)南山文庫、2019年、4頁)。