南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

『周作人読書雑記5』(周作人)

周作人読書雑記5
周作人『周作人読書雑記5』(東洋文庫892)、中島長文訳注、平凡社、2018年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

魯迅の弟・周作人の読書録。日本に留学し、羽太信子と結婚、英文学ついで日本文学を学んだ知日派。兄とともに雑誌『語絲』を刊行、のちに神格化された魯迅とは対照的に対日協力者として漢奸の扱いを受け、文革の混乱の中で没した。尾崎文昭は『語絲』について、「この小雑誌《語絲》は、一九二〇年代後半の中国において、知的にまた文学的に非常に高い水準を示し、相当に大きな社会的影響力をもった。その編集にまた文章に心血を注いだのが、近代中国が生んだ最高の知性の中に数えるべき魯迅と周作人、世に言う周氏兄弟であり、彼らがこの雑誌の「顔」となった」*1と評している。兄の魯迅とは1923年に絶交したとされ、兄弟不和の原因は、作人の妻・信子にあったといわれているが*2、詳しいことはわからない。けれど、五・四運動以降、ともに思想革命を推し進めてきた間柄で、末弟の周建人の仲介もあって、『語絲』の創刊ということになったらしい。*3

さて、この雑誌は北京で創刊され、作人の北信書局で編集されていたけれど、張作霖支配下の1927年に発禁処分を受け、作人も友人宅に身をひそめることになる。魯迅と北信書局の間には印税不支払いなどのトラブルがあったようだが、『語絲』の編集は上海の魯迅に引き継がれ、北京派とのグチャグチャの挙句、1930年まで続いて廃刊となった。この間、語絲派の江紹原ら北京の人士が『大公報』を魯迅の元へ送っているが、これも反感を買っただけで終わったようだ*4。今回、剳記に紹介する作人の『江州筆談』読書録は、この『大公報』に載せられたもののようである。

さて、周作人は科挙にはスベったものの、大変な読書家であったらしく、今回紹介する『周作人読書雑記』は東洋文庫から5冊が刊行されており、ほとんどどんなものか、今となっては中身もわからないような本がいろいろ載せられていて、読みだしたらきりがないものの、内容はわりと独断的である。いちいち突っ込んでいたらきりがないのでここでは論じない。

『読書雑記5』は「筆記」と「旧小説」を取り上げるものであるけれど、前者は雑記的内容の散文であって、後者の代表的なものとしては『水滸伝』や『紅楼夢』を思い浮かべていただければよい。ここでは、主に『江州筆談』『日知録』などの筆記についての作人の見解を紹介したいと思う。本文の用語については、中国史の知識のない者にはいささか難解なものも含まれているけれど、特に注はつけないので、それぞれに調べて読解せられたい。

なお、『江州筆談』を評する周作人の文章には、科挙にスベった私憤も含まれていると見られ(笑)、科挙において用いられる八股文に対する王侃(おうがん)の批判を大々的に抜き書きしている。なお、王侃の『衡言』に覚えるだけ無駄な難解な文章の例として「周誥(しゅうこう)」と「殷盤」が登場するが、前者は『書経』の「周書」に見る天子の制誥(すなわち詔。「大誥」「酒誥」など)をいうのであろうが、「殷盤」というのは、私にもよくわからない。『大学』に見る湯盤銘のことか、「商書」の「盤庚」の下りをいうのか、何を指しているのかは不明である。なお、湯王の盤銘には「苟(まこと)に日に新(あらた)にせば、日日に新に、また日に新なり」と書かれていたと言われるが、私の母校には、この故事に由来する「日新鐘」という半鐘があって、高校生であった頃は大して興味も惹かれなかったが、応援歌の一つにも『日新鐘の歌』というのがあって、「日に新たなりわが血潮」と歌われていたものであった。今さらながらに思い出される次第である。

また、「旧小説」の部からは、『水滸伝』と『紅楼夢』を比較した文章を拾ったが、それ以外にも興味深い読み物が少なくない。紹介したい雑知識はいろいろとあるけれど、紙幅も時間も限られているので、これくらいにしておきたい。

 

所蔵館

県立長野図書館

 

 

周作人読書雑記5 (東洋文庫)

周作人読書雑記5 (東洋文庫)

 

 

筆記

 

1 『江州筆談』
民国23年6月/1934年6月16日刊『大公報』『夜読抄』

 

p.12 著者

著者は棲清山人王侃(おうがん)で、字が遅士、四川温江の人、州判〔州知事の補佐〕に推薦されたが、職に就かず、乾隆六十年乙卯(1795)生まれ。

 

p.13 内容

彼の一般の書物に対する常識と特識は面白く、随所に明瞭通達な識見がある。『江州筆談』はおそらく江津で書かれたもので、やや雑記的なもの。子どもの勉強について述べたところが面白い。

 

p.13~14 ただ言葉を暗誦させるのは役に立たない

「子どもを教えるのに、その言葉を理解させようとせずただやみくもに暗誦させたのでは、口には出るだろうが、結局何の役に立つのか。まして合点がいけば自然に記憶できるし、一言一事長年忘れず、人に意味を伝えるにもいい加減ではない。これは再三暗誦するだけでできることだろうか」(13~14頁)

 

p.14 むずかしい古代の文章を覚えさせても無駄

その『衡言』巻一に曰く。周誥(しゅうこう)や殷盤の文は意味を考えてもわかるのは数語、ことさらにむずかしく深遠にしたもので、当時の民がどうして理解できただろうか。その時の文体がこういうものを尊んだのか、下吏の手になったものか。こんなものを子どもに教えて無理に読ませたところでいたずらに苦しめるだけで何の効果もない、という。

 

p.15 型や題を最初に決めて詩作をしろというのは無理

また『筆談』巻上では、八股文を憎悪している。また、詩は情を表現し、出逢いに感じて、思いを吐露し、景物は目の前にあるものから採り、あれこれ考える暇などないものだが、詩情がなくて無理やり詩を作ったところで、よしや警句はできても胸中から流れ出たものではない。八股の作法で詩を論ずるに至っては、題を決めてから詩を作るようなもので、それでは詩作がむずかしいと思われても仕方がない、という。

 

p.15 八股文は実用をなさない

八股文はその道の名家でもいくつも作れないし、結局は無用なもの。ちゃんと作ったところで科挙に通らないこともある。昌黎〔韓愈〕のいわゆる「巧みなりといえども世に何の補があるか」というものであるが、それでも事物を記録し、功徳を褒めるには何とかなるというくらいのもの、という。

 

p.16 伝えるべき意味もないのに文飾を連ねて文を書くということ

その『放言』巻上に

「筆を執り文を書くのは意味を伝えるためである。意味を伝えられないばかりか、伝えるべき意味もないのに、いたずらに古人の言葉をこねくり回して、(…)さまざまな醜態を演じ、目くらましの技量を争い、しかも聖賢に代わって言を立てると思っている」(16頁)

という。


17 筆記を語る
民国26年/1937年3月10日作『秉燭談』

 

p.152 清代の筆記について

「最近わたしは前人の筆記を読みたく思う。中国の筆記はもともと多く、以前にもあれこれ少なからず読んだが、今の考えは少し違う。わたしが読みたいのは目下のところ近三百年を基準にする。言葉を換えればほとんどが清代のものである。本来もう少し遡ってもかまわないのだが、晩明にはこの類の著作が多すぎ、集める資力がない。現代も中に含めないが、その理由はこれまたあまりに少なすぎるからで、新式の雑感随筆は別の項目とするしかない」(152頁)

 

p.152 すぐれた筆記は題跋に通う性質がある

「近年わたしは少しばかり尺牘の書を集めた。貴重で得がたいものは結局手に入らなかったが、それ以外にたぶん百二十種ほどあり、気ままに繰っても面白い。よく書けているものとしては自ずと東坡と山谷しか推せないけれども。彼ら二人の尺牘は実にその題跋と同じ根っこで、だから題跋も同様に喜んで読む。そして筆記はたいてい――いや、よいものは多くが題跋の性質がありあるいはその態度で書かれ、たとえば東坡の『志林』などさらに明らかな実例である」(152頁)

 

p.153 筆記の分類

『四庫全書総目提要』巻一一七子部雑家類の分類解説によれば、

「説を立てるものを雑学と云い、弁証するものを雑考と云い、議論をし兼ねて叙述するものを雑説と云い、傍ら物理を極め繊瑣な事を並べるものを雑品と云い、旧文を類輯しさまざまな方法を兼ねるものを雑纂と云い、諸書を合刻して一つのタイトルに名づけられないものを雑編と云い、すべて六類ある」(153頁)

と云う。又巻一四〇子部小説家類では、「その流別を跡付ければ、全部で三類あり、その一は雑事を述べ、その一は異聞を記録し、その一は瑣語を綴ったものである」と云う。

「上の分け方によれば、雑家の中でわたしが評価するものはただ雑説のみで、雑考と雑品ではたまに百に一つぐらいは取るべきものがあり、小説家ではただ雑事を取るだけ。異聞は小さいころは最も好きだったが、今では役に立たず、しばらくこれを高閣に束ねることにする。蒲留仙の『聊斎志異』、紀暁嵐の『閲微草堂筆記』五種は、それらが中国伝奇文と志怪の末代の優れた子孫で、文章も悪くないことは認めるが、今は彼らの出番はない。ここで必要とするのは故事ではなく、散文小篇でしかない。そう、小品文と言ってよいかもしれない。もしこのようにはっきり区別できるなら。わたしはもともとこの名前には賛成でないのだけれども。しばらく妄りにこれを言う狐鬼の話でも本来はかまわないのだが、ただ残念なことに世の中にはそうした優れた人は何人もおらず、中間の多数はとりこにならないにしても要するに信じ込み、応報を語るに至ってはまったく下流であり悪趣味である。『広陵詩事』第九に成安岩の『皖游集』を引いて大平寺に豚が一頭婦人の足を現し、まるで弓なりになっていた(実は婦人が豚のような足をしていただけであるのに、残念ながら男も女もそれが解らない)と云い、そこで品行の悪い妻が豚になるのは決してでたらめではないと信じてしまう」(153~154頁)

 

p.157~158 すぐれた筆記とは

「上では各作者の筆記をあれこれ述べたが、たいていは不満足である。それではいったいよいのは何人いるのか、これは一言では言いにくい。ただ簡単に云うと、読める文章があるほかに思想が寛大で、見識が明達、趣味が深く穏やかで、人情物理が解り、人生と自然について巨細を談ずることができ、虫魚の微小、風俗の些細を、生死の大事と同じように見なし、しかもごく普通の話としてみんなに語らなくてはならない」(157~158頁)

 

p.158~159 宗教的な盲信はだめ

なかなかよい筆記はないが、ましなものもある。不思議なのは顧亭林の『日知録』で、顧君の人品と学問には定評あるから、その『日知録』は理屈としては、わたしに好印象を与えるはずだが、そうでもない。部分的にはよいし、見識と思想も朴実で尋常のように見えてそうではない。

「巻十三の館舎、街道官有の樹、橋梁、人の集まりを述べた詩篇などはみなそうである。しかしわたしはどうしても彼の儒教徒の気を感じるのである。わたしは別に他人が儒家になったり法家や道家になることを軽蔑するものではない。しかし宗教の気が合って教徒になるのはだめである。もしそうならお辞儀主義を実行して、鬼神を敬してこれを遠ざけるしかない」(158~159頁)

儒教徒の宗教的な気があって敬遠したいものもある。たとえば、『日知録』巻十五「火葬」の条に、宋は礼教をもって建国したが火葬の俗を改めなかったので、それが滅ぶと楊璉真伽(ようれんしんか)の事が起こったとかいうのは呪い師の言葉のようなものだし、巻十八「李贄・鐘惺」にもはっきりと正統派の凶相があらわれている。その「朱子晩年の定論」の一条は、陽明学派を攻撃してややはっきりしないが、その末節に云う。

「一人を以て天下を変える。その流風が百余年の後まで久しいのは、昔からあった。王夷甫〔衍〕の清談、王介甫〔安石〕の新説、今では王伯安〔守仁・陽明〕の良知がそれである。孟子は言った。天下の生ずるや久しいが、一治一乱、と。乱世を収めて正に返すのは、後世の賢者にかかっていないわけがない」(158~159頁)

 

p.159 『剳記』と『膚語』

また、その巻十九「修辞」の一条の末節に云う。

「嘉靖以後人は記録の文雅でないことを理解して、そこで王元美〔世貞〕の『剳記(さっき)』、范介儒〔守己〕の『膚語』が出て、上は揚子雲を規範とし、下は文中〔王通か、号は文中子〕を法とし、得るところに深浅はあるものの、知言と言うべきであろう」(159頁)

 

p.159 「文人模倣の病」について

次条の「文人模倣の病」と題する文では、のっけから

「近代文章の欠点はすべて模倣にある。たといいかに故人に似ていても完璧にそれに到達してはいない。ましてその神理を放っておいてその皮毛を手にした者においてをやである」(159~160頁)

という。

 

p.160 筆記の効用

これらの文の末節は正しくても、誠意はどこにあるのか信用できず、疑問が残る。わたしには先賢を誹謗するつもりはなく、ただ筆記の得がたさを説明する例としてこれらを挙げただけである。

「わたしは筆記に対してある人々が神聖と認めるいわゆる経に対すると同様に要求し、いささかの滋味と栄養を吸収したく思う。それが手に入る時は経と同様に受け入れ、手に入らなくとも同様に愛惜するところなく傍らに打ち棄てておこう。民国二十六年三月十日、北平にて記す」

 

旧小説


61 『水滸』と『紅楼』
1951年4月6日刊『亦報』『飯後随筆』 文類編第三巻 散文全集第十一巻

 

p.304~305 水滸伝の後半は偽の任侠

水滸伝』『紅楼夢』は旧小説の二本柱だが、評価に軽重ある。比較的に『紅楼夢』に傾く。しかし、読書人はともかく、庶民の眼光を基準とすれば、『紅楼夢』の富裕層の生活感覚はわからない。芝居も『水滸伝』は多いが、『紅楼夢』は滅多にない。

「「黛玉花を葬る」を演じても、知識分子の眼鏡にしか適わない。これは落花によって身世を慨嘆する情緒が労農大衆の中には得がたいからである。話はこうだが、わたしが『紅楼夢』を読むとして全部読み切ることができるが、『水滸伝』は大半でしかない。祝家荘を攻め落としてからは、宋江はしだいに皇帝派の頭目になるようで、まさしく金聖歎の言う偽の仁、偽の義の馬脚が顕れる時かもしれないが、そうなればいつ本を置いてもよいと思われる」(305頁)

*1:尾崎文昭「章廷謙という人、彼と周氏兄弟の関係」(明治大学教養論集刊行会『明治大学教養論集193号』所収、1986年)31~32頁。

*2:尾崎、同書、34頁。

*3:尾崎、同書、47~48頁。

*4:尾崎、同書、60頁の引く「一九三〇年二月二十二日致章廷謙書信」より。