南山剳記

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江戸時代、漢方薬の歴史(羽生 和子)

江戸時代、漢方薬の歴史

羽生和子『江戸時代、漢方薬の歴史』、清文堂出版、2010年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

著者は1931年、大阪市船場の生まれ。1952年、帝国薬学専門学校(現・大阪薬科大学)卒業、塩野義製薬勤務を経て、2007年に関西大学大学院文学研究科博士課程を修了、関西大学文学博士。医史学が専門であられるようである。私も書庫の本を待つ間にパラパラとページを繰った程度で、目に留まったあたりを書き留めてみたものである。著者は「薬の町」船場に生まれ、薬剤師としてもご活躍の由で、幕府、諸藩の薬園の設立から、江戸時代における唐薬流通の実態まで、道修町に残されたものを中心に史料を渉猟して詳述されている。

我が国における江戸期の医史学については、まだよく知られていないことも多いようだが、江戸も後期になると、農村にも在村蘭方医と呼ばれる洋方医が相当数いたことが知られており、農村における国学の普及ばかりが注目されてきた従来の常識を疑う人もある。田崎哲郎氏は、平田派の門人帳がよく残っているのに比べ、漢学者のそれは乏しいと言われるけれど、蘭学塾関係の門人帳は医学のそれを含めて割合と残っているようであって、加えて明治7年の調査では、全国の医師における洋方医の数は全体の5分の1にのぼっており、農村洋学無縁説は成り立たないという見解を示されておられる*1。もろもろ興味深いことどもであって、研究の進展が待たれるところである。

 

所蔵館

市立長野図書館(499ハ)

 

江戸時代、漢方薬の歴史

江戸時代、漢方薬の歴史

 

 


p.19~46 同仁堂と胡慶余堂

中国の康熙年間に創立された北京の「同仁堂」、清末に江南一大巨商と称された胡雪岩(1823~1885)の漢方薬店「胡慶余堂」の視察記録。「北に同仁堂あれば、南に胡慶余堂あり」と併称された。あわせて明代に進士であった范欽が、1561年、寧波に一族の図書館として建てた天一閣を紹介。個人の蔵書楼で、珍本、史料が多く、「南国書城」と呼ばれ、現在では30万冊を所蔵。現在は一般にも開放。1982年、国務院から国家重点文化財に指定された。

 

p.148 官製の御薬園、諸藩の薬園

官製の薬園は家光が江戸城の南北(麻布、大塚)に開設したものを統廃合した小石川御薬園、駒場御薬園。長崎、京都に御薬園を設けた。朝鮮人参などの栽培園を下野や佐渡に設けた。上田三平『日本薬園史の研究』によると、江戸中期になると、松代を含め、全国の諸藩に薬園が設けられる。蘭学者本草学者を積極的に採用した。

 

p.149 各地の薬園

幕府や各藩の庇護の元で活躍した裕福な薬種商本草学者などが作った薬園としては、享保7年(1772)に薬種商・桐山太佐衛門が幕府の許可で下総国千葉郡小金原に開設したものなどが知られ、本草学者によるものとしては、寛永14年(1637)の板坂卜斎の薬園は2000種を栽培、文政6年(1823)に江戸参府のシーボルトを驚かせた尾張の水谷豊文の薬園、シーボルトに師事した伊藤圭介が安政5年(1858)名古屋朝日町に開園した「旭園」などが著名。特殊な例としては、長崎代官末次平蔵が密貿易品を植えるために作った「十禅寺薬園」、享保14年(1729)に森野藤助が幕府の御薬草御用係・植村左平次の大和での採薬道中を案内し、報酬に薬草をもらって始めた「森野薬園」がある。

 

p.149 森野藤助

森野薬園は享保14年(1729)に森野藤助(賽郭)が開いた。唐薬が高価で庶民に入手困難であったので、国産の薬物で代用するため、徳川吉宗は諸国に人を遣わした。その一人が幕府採薬使の植村佐平次〔佐の字、原文ママ〕で、享保14年に大和に入り、大和代官の推挙で御薬草見習として藤助が出仕、室生山で薬草採取。

 

p.150 森野薬園

森野はカタクリを発見、以降カタクリ粉製造の端緒をえて、吉野葛の産業化に貢献、幕府は度重なる採薬の功を賞して、官園に栽培されていた貴重な薬草木の種苗を下付した。享保20年(1735)、藤助46歳のとき苗字帯刀、薬園は次第に幕府の補助機関となった。その後、各地の薬園はほとんど廃絶したが、森野薬園のみは250年の長きにわたって継続、往時のままに250種が現存。現在地は奈良県宇陀市大宇陀区上新1880、文化財史跡。

 

p.150~153 薬のメッカ、江戸本町三丁目

江戸本町三丁目は薬のメッカ。当時の川柳にも「得体知れない 物を乾しとく 三丁目」「本草を 道へ並べる 三丁目」「三丁目 匂わぬ見世が 三、四軒」などとある。これら疫病の有効な治療薬と見なされたのが輸入唐薬で、特に江戸後期「江戸八品」と呼ばれていた。白朮、木香、肉桂、檳榔子、麻黄、厚朴、縮砂、酸棗仁の八品。

 

p.173 薬種中買仲間

大阪道修町は江戸中期から昭和20年まで薬業仲間の寄合所で保存された約3万3000点の文書が残されている。道修町船場にあって薬の町として知られ、江戸時代に中国やオランダからの薬を一手に扱う「薬種中買仲間」が店を出し、日本に入ってくる薬は一旦、道修町に集まってから全国に流通。その関係で現在も大手製薬会社の本社が存在する。日本初の薬学専門学校(現在の大阪薬科大学)が設置された。享保年間(1716~1736)に、幕府に公認された薬種中買仲間124軒(本店)以外にも脇店やセリ売商人(大坂市中や近郊の医家、薬店に売る)など数多くの薬種屋があった。和薬種の独占的地位は与えられなかったが、漢方薬(唐薬種)の元卸を独占した(長崎会所→薬種問屋→薬種中買仲間→江戸本町三丁目などへ)。品質と分量を正しく確認し、正当な価格で供給するのが義務で、そのため薬の神様(神農と少彦名命)の神前で気をひきしめてその仕事を遂行したと伝えられている。

 

p.291~300 生薬の写真つき解説

生薬の写真、効能、効能の解説、代表的な漢方薬の処方など。

 

*1:田崎哲郎「在村蘭学の具体像」(『地方知識人の形成』所収)、名著出版、1990年、273~276頁。初出は『三河地方史研究会会報』16号、1989年。