南山剳記

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秋葉山の信仰(武井 正弘)

秋葉山の信仰

武井正弘「秋葉山の信仰」(鈴木昭英編・山岳宗教研究叢書9『富士・御嶽と中部霊山』所収)、名著出版、1978年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

『山岳宗教研究叢書』の9冊目に収められた小稿。著者の武井正弘(たけい・しょうぐ)は芸能史研究者、藤沢市の辻堂西海岸在住とある。秋葉山の三尺坊といえば、長野では戸隠の行者のように言われているが、この論考中で戸隠に触れる箇所はほとんどない(原註(7)の記述に見られるように、著者は戸隠を含む信州北部の地理にはあまり詳しくないようで、研究の中心は駿遠相の三ヵ国と三河、南信の信仰習俗にあるようである。他に奥三河の「花祭」に関する著書もある)。

秋葉信仰自体、大変に興味深いものではあるけれど、ひとまず祭神ならびに本尊にかんする考察は省略し、南北朝期以降における秋葉修験の動向について、気になる点だけを抜き書きした。いささか古い研究で概略的なものではあるけれど、南北朝の争乱以後に奥地への安全な交易路として行者道が使用され、山上に市が立つことで秋葉山が経済力をつけたこと、また戦国大名と結んで政治活動を担うようになった経緯に触れた箇所などは興味深いものである。なお本稿では、北遠江を領有した天野氏と秋葉山叶坊の去就を通じてこのことを説明しているけれど、いささかわかりにくい記述となっており、叶坊光幡の説得で家康に帰順した天野氏が離反して武田方につき、天野景貫(虎景の孫)の代で徳川方に追われて乾(犬居)を退去し、北条氏のもとに走ったことなどは書かれないから、この地域の歴史に疎い者には、ちょっと誤解を生じかねない記述となっている。なお、このようなことは隣国の駿河にも見られ、富士の村山修験は今川に属したようである。

さて、小田原北条氏のもとで修験触頭であった玉滝坊*1に対抗するために秋葉修験が小田原に移されるなど、当初は徳川氏の関東統治に利用されていたけれど、やがて修験の実践的な教義は抑えられ、幕府の寺社政策の中で統制されてゆくことになるのは、他の修験と異ならない。とはいえ、明治の修験禁止令を経てなお、古道である「あきはみち」(秋葉路)は、第二次大戦前まで信仰の道として命脈を保ったという。

 

所蔵館

市立長野図書館(188サ・9)

 

富士・御嶽と中部霊山 (山岳宗教史研究叢書)
 

 
p.202~203 タマシヅメとタマフリ

古来、葬所を「山」と呼ぶように、死出の旅の果てる他界であり、同時に霊魂が相続され新たな誕生をもたらすという、生命の根源としての山は、はじめ彷徨する荒魂を鎮めるというタマシヅメの地、すなわち鬼神を祀る聖地と考えられていただろう。それを祀ることで、その恐怖的性格を恩寵的性格に替え得るが、しかし、地霊は甦ることがない。霊魂の再生には、生命の復活を意味する天の思想と、それにもとづく儀礼としてのタマフリが必要だった。この二つの儀礼の結合は、たとえば、奥三河の花祭に見られる。天の思想は、山岳宗教―修験道―にもとづく祭祀に採りこまれてあらしい性格を帯びた。

 

p.203 諏訪から秋葉山までの回峰の道、南朝との結びつき

山岳修験道のメッカとして栄えた遠州秋葉山も、中世信濃諏訪から遠山郷和田下の熊伏山、遠江常光山・竜頭山を経て秋葉山・光明山に達する修験回峰の霊地の一つとしても熊野修験に開かれたものと伝えられている。天竜水系の山岳地域では、南北朝の争乱を契機にして、古くからの熊野修験に白山信仰が複合していくのだが、修験のなかでも天台派の人びとは、先の天台座主宗良親王との法縁により、両朝統一後の一世紀、南朝の遺統を推戴して信濃三河遠江の各地を転戦し、多くの者は敗死し、運よく山に逃れた者も、組織への復帰はかなわず、在家の禰宜などになって永らえてゆく(203頁)

この戦乱を機に、天竜川流域の秋葉山も、熊野・白山信仰の併存という形に急速に移ってゆく。

 

p.204 南北朝争乱後、行者道が奥地への輸送路となる

こうして修験道南北朝争乱期以降、熊野(真言派)・白山の融合という新たな形式で、天竜川流域の山岳地域に信仰圏を確立する。修験者たちは争乱の激しい平地をよそに、秩序ある共同社会を形造っていくが、この時期に奥地への必需物資の輸送路が、略奪の危険を伴う従来の交易路を避けて、修験の管理する尾根道を縫って開拓されていく。いわゆる塩の道である。坂道を人の背で担われた物資は、秋葉山上の市で取引され、ここから尾根道を馬の背で峰々の山坊を中継所としながら、遥かな国境いの彼方へと運ばれる。市では篝火が焚かれ、延年の湯立、火渡りが行なわれて、火と水を自在に操る修験の験力が証される。秋葉山における神楽の激しい舞踏―マジカル=ステップ―は、延年を乞い願い生死を越える喜びと、限りなく再生する喜びを象徴してのものだったという(204頁)

 

p.204~205 武田氏、徳川氏の探題・軍僧としての秋葉修験

秋葉山は不滅の浄火の燃える確かな目標として、遠州灘を航行する舟人たちから崇拝されていた。

こうして中世末期の秋葉山には、交易市の経済力を背景に、数多くの山坊が造られ、相互に勢力を競い合うが、各々の坊はその験力や知識、あるいは流派ごとに、帰依する民衆の組織に依拠し、やがて各地の豪族・戦国大名に所属する探題としての役目を自ら担っていく。なかでも甲斐武田氏は、乾城の天野氏を配下にし、一族の天野虎景(後の清水秋葉山開祖日光法印)を庵原郡司に任命するが、虎景は領地の袖師ヶ浦西窪真土山に秋葉三尺坊大権現を勧請し、信仰を通して民心の帰依を図ったという。武田氏はこの他秋葉山叶坊(後の浜松秋葉山)と結んで、遠州への勢力浸透を策したことで知られている。叶坊はこののち三河徳川氏と結び、探題としてのみでなく、軍僧としての役割も課せられているが、徳川氏支配下の大久保氏の帰依した秋葉山一月坊(後の小田原秋葉山)も、たんなる探題ではなく、宗教政策を通しての民心操縦という、政治的役割を担っていた(204頁)

こうした政治への帰属は、秋葉信仰が全国に広まる基礎ともなったが、同時に山岳道場としての秋葉山の衰亡を招いた。

 

p.207 小田原縁起に見る三尺坊

小田原秋葉山量覚院の『秋葉権現縁起』は、三尺坊について、信濃出身で越後の栃尾蔵王堂に属する修験とし、大同四年、秋葉権現に壱千日参籠も火定三昧によって妙力を得、遂に異形の姿になって野狐の背に乗って飛行昇天したので、人々は秋葉山に合祀して、秋葉三尺坊大権現と称するようになったという。

 

p.208~209 三尺坊の小田原移転、北条氏の修験触頭・玉滝坊の壊滅

平安末期以降、秋葉山武家の帰依を得たが、なかでも社頭造営を行なったという足利・新田、越後栃尾三尺坊大権現を造立した上杉謙信、霞引大僧正の位階を得て秋葉山叶坊・天野虎景(日光法印)と結んだ武田信玄秋葉権現に祈念して家康をもうけたという松平広忠らが知られる。三尺坊大権現の出現によって、現世的な救済宗教としての信仰組織が形成され、探題として政治的役割をも担ってゆく。

こうしたなかで、秋葉山の有力坊の一つで泰澄大師の後裔という一月坊竺禅が、天正十八年大久保忠世の小田原統治に際し、徳川家康の命で、北条氏の修験触頭として関東一円に勢力のあった本山派修験玉滝坊の影響力を一掃するため、大久保氏とともに小田原に移住する時、徳川氏の勢力を背景に三尺坊大権現の御本体を持運ぶという事件が起った。秋葉山の各坊では御本体奪還のため、安倍川渡河中の行列を襲撃したが、この襲撃は効果なく、大久保家の軍兵に撃退され、御本体は無事小田原に到着した。しかしこの時、鋳鉄製の御本体が河中に投げ出され、一部を破損するなどの事故があったという(208頁)

この時に白山系の記録は小田原に移り、秋葉山には後期以降の伝承のみが残されることになったという。

玉滝坊はこの後、江戸に入府した家康の大弾圧で壊滅し、一派の人びとは他山に逃れ、あるいは富士信仰の勧請をして世を過ごすようになった。こうして関東修験もまた一つの伝承を喪失することとなった(209頁)

 

p.210 神仏両部の裁可

なお小田原秋葉山は明治五年の神仏分離の際寺として届けたため、社領没収の処置を蒙ったが、明治二十年代の神体仏体改めの折には、秋葉権現修験道なので神仏両部であると主張し、取潰しの宣告を受けたものの、県令野村靖の斡旋で内大臣徳大寺実則を動かし、神仏両部を差許すとの裁可を得て、修験道にもとづく両部の寺院として現在に至っており、修験宗本庁が置かれている(210頁)

 

p.212~213 七十五膳献供式では両口屋の菓子が奉献される

秋葉寺の祭は、12月10日の精進潔斎から始まり、15日に神輿が御旅所まで行列する。17日の午前1時からは、諸々の天狗さまへの七十五膳献供式が燈火を消した漆黒のなかで午前4時頃まで執行されるが、天狗は秋葉三尺坊大権現の眷属と伝えられる。七十五膳献供式は修験道に基づく祭祀では天竜川水系の花祭でも行われる。もろもろの奉仕がなされるが、名古屋市西区の両口屋菓子舗から御百味菓子(百種)の浄菓が奉献される。この七十五膳献供式で秋葉寺の大祭は終了する。

 

p.214 三尺坊は戸隠で修行したという伝承

清水秋葉山の伝承では、三尺坊は「信濃国下伊奈郡千代村」の出身で、観音への願掛けで出生、七歳のとき戸隠山顕光寺で修験となり、十五歳で阿闍梨となり、のち越後長岡の蔵王堂の三尺坊に居住、不動明王の三昧を体得して神通力を得た、とある。

 

p.215~216 あきはみち

中世期を通して、各地で商業交易と結んで活躍した修験の伝承は、熊野を除いては秋葉山のみが、微かではあるが塩のルート、山岳地域を縦走するあきはみちにより、その事蹟を伝えている。(…)今、遠江信濃三河尾張にまたがる各地に、すぎし日のあきはみちが名残をとどめているが、それらの「信濃みち」「三河みち」「遠州みち」を軸とした無数のあきはみちを、秋葉講中、代参、月参りの人びとが、白衣の道者姿で団体をつくり、杖を頼りに越えたのであろう。幅三尺ほどの小路の辻々には、浄火をともした常夜燈や、勧請碑、あきはみちの道標が立てられていて、かつては秋葉の役寮や茶屋・馬宿も配置されていたという。これらのみちの多くは、山の尾根、谷越えに切開かれた古くからの修験の回路で、道行することが、修行であると伝えられてきた信仰のみちである。争乱期には唯一の、安全な物資輸送のルートでもあった。交易路は、徳川期以降里の整備した街道に移ったが、信仰のみちとしては、第二次大戦前まで利用されてきたという。しかし、現在ではほとんど踏み跡が絶えていて、鋭い葉先や汗の匂いに群がる虻に悩まされながら、辿らねばならない(215~216頁)

 

原註

 

p.217 スサノヲの二面性

(3)天(あま)の思想導入後、天と地という二元論的世界観が山岳宗教に普遍する。例を挙げれば、天上で罪を得、冥府に追放されたスサノヲが、ミノガサを着て彷徨する祟り神であると同時に、助厄を約束する地神として位置づけられ、罪業をあがなう〝わざ〟としての芸能に採り込まれて、修験・聖達によって地域に定着し、延年の祭事へと受け継がれたごとくにである。

 

p.217 三尺坊は木島平で生まれたという説

(7)小田原縁起では、三尺坊は現在の長野県下高井郡穂高町木島平〔ママ。木島平村の大字に穂高がある。撰者注す〕の曹洞宗長光寺で出生したという。

*1:小田原市本町にあった本山派の修験寺で、松原神社の別当であった。『北条五代記』巻三之三「関八州鉄炮はしまる事」によれば、堺で購入した鉄炮を初めて関東に持ち帰り、北条氏綱に進上したのは「玉瀧坊」であるという。これは享禄元年(1528)のこととされ、鉄炮は中国から伝来したことになっているので、通説とは異なる記述として注目される。