南山剳記

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コンシュのギヨーム「プラトン・ティマイオス逐語註釈」(ギヨーム・ド・コンシュ/大谷啓治訳)

コンシュのギヨーム「プラトンティマイオス逐語註釈」

コンシュのギヨーム「コンシュのギヨーム「プラトンティマイオス逐語註釈」」(上智大学中世思想研究所 編訳・監修『中世思想原典集成8 シャルトル学派』所収)、大谷啓治訳、平凡社、2002年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

西欧における〈十二世紀ルネサンス〉という知的覚醒期に、フランスでその中心的拠点となったのは、シャルトルの司教座聖堂付属学校と、そこで活動した〈シャルトル学派〉の学匠たちであった、とされてきた。本記で取り上げるギヨーム・ド・コンシュ(Guillaume de Conches 、1080ないし90頃~1154。スコラ哲学者)もその一人とされる思想家である。本書を収める上智大学中世思想研究所の『中世思想原典集成8』の「総序」(岩熊幸雄)によると、シャルトル学派の特徴は次のようにいいあらわされるという。

彼らの特徴を成すのは、プラトン主義的思想と古典人文学的素養とである。諸学問の調和を目指し、新たにアラビア語から訳された自然学書にも目を配り、独自のプラトン主義的自然哲学を打ち立てた。そういう意味で、独自の修道院哲学を発展させたサン=ヴィクトル修道院の人々やスコラ哲学の揺籃地となったパリと並んで、シャルトルの地は十二世紀前半期を通じてヨーロッパの知的中心地であった。十二世紀中葉以降には知的中心地は急速にパリに移っていくにしても、シャルトル学派の影響は十二世紀末のアラスのクラレンバルドゥス(Clarenbardus Atrebatensis 一一八七年頃歿)やアラヌス・アブ・インスリス(Alanus ab Insulis 一一一六頃-一二〇二/〇三年)にまで及んでいる。*1

この「シャルトル学派」という語は、19世紀末の思想家プールが用いだしたものとのことであるが*2、1970年代以降、このカテゴリは実質的なものではなかったという指摘がなされるようになり、たとえば、コンシュのギヨームにしても、シャルトルで聖職についていたのは事実だとしても、実際に教授活動をしていたのはパリであったというようなことが指摘されるようになる*3。岩熊氏自身も、〈シャルトル学派〉なる、シャルトルに根差した一貫する学統を想定することに否定的である。

さて、私が本記で抜き書きするのは、ギヨーム・ド・コンシュによるプラトンティマイオス』註釈の冒頭部分、「序言」と「導入」にかぎられる。ゆえに本記においては、中世の人が『ティマイオス』をどのように受容したかについてはほとんど明らかにされないから、その点はご容赦いただきたい。ぜひ原書に当たることをお薦めする。もっとも、『ティマイオス』自体がいかなる書物であるかについては、この抄訳を読んでもほとんど理解できないであろうことを付言しておく。

また、『ティマイオス』の眼目は自然論にあり、シャルトル学派にくくられる人々は、この点に目をつけて、被造物を通じて神の理解をめざした(トマスにおいては「結果からの論証」と呼ばれる方向性である。『神学大全』第一部第一問第七項の主文を見よ)。また、神の創造した被造世界はすべて善なるものであるから、自然の秩序のうちに、本性的な〈自然的正義〉が見てとれると考えられ、そこから一つの法思想が発達を見ることとなった。〈正義〉とは何か? ギヨームは、『ティマイオス』の解題というべき「導入」において、ソクラテスの見解を次のように引用する。

正義とは、最も力のない者にとって、最も役に立つものである。最も力のある者は、自分や自分のものをいかなる正義なしにも維持するが、最も力のない者は、〔正義なしでは〕まったく維持しないからである。*4

〈正義〉にかんする上の定式を示してから、ギヨームは、正義の二つの区分、すなわち〈実定的正義〉と〈自然的正義〉を比較して、『ティマイオス』の主題が後者にかかわることを説明する。この二分法は、法の次元では〈実定法〉と〈自然法〉としてあらわれる。自然法〔lex naturalis〕にかんしては、ルドルフ・フォン・イェーリング(Rudolf von Jhering、1818~1892、ドイツの法学者)は、『法における目的』において、スコラ哲学の泰斗であるトマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225頃~1274)の法思想を、19世紀の法哲学の水準に匹敵するものと高く評価しているけれど*5、トマスにおいては、自然法は、神の永遠なる世界統治の理念としての〈永遠法〉〔lex aeterna〕の人間における分有として理解されている。一方の〈実定法〉は、私的協約による「同意あるいは共同的合意による正」〔ex condicto sive ex communiplacito〕を〈実定的正〉〔jus positivum〕として確定する人定法であり、あくまで〈自然的正〉〔jus naturale〕に反するものとしては確定されえないものであった*6。問題は、〈自然的正〉として確定されていない〈正〉をいかにして実定的に確定するのか、ということであるけれど、これらの議論はいささか深いものであって、容易に言い尽くせないので、問題の構図だけを挙げるに留めさせていただく。いずれにしても、ギョームらに代表される〈十二世紀ルネサンス〉期は、トマスに代表される十三世紀のアリストテレス受容の前段に位置する知的転換を体験した時代であったことを申し述べておくこととしたい。岩熊氏が引くノジャンのノートル=ダム修道院ギベールの『自伝』(1115年頃)によると、彼が幼年であった頃には都市に行っても知識のある教師はほとんどいなかったが、『自伝』を著す頃になると知識層のありさまは一転し、若者たちは各地を旅して知識を求め、各分野に多くの教師を輩出するようになったという*7

なお、自然的なものと実定的なものという二分法は、美学の分野にも応用され、私の考えるところ、シェリングにおける〈象徴〉は前者、〈アレゴリー〉は後者に属する表現のありようであろう。ロマン主義は前者の芸術であって、その神的なメッセージを受容するに際しては、知識や説明、キマリゴトの理解といったものを要さない。一方のアレゴリーは、図像学的なキマリゴトの世界であって、人定的な規則に支配された表現ということになる。トマスが人間心理における自然本性のあらわれという形で「自然的正」というものを想定したのは、今日からすると本質主義にすぎるものであって、人間をある理念的な様態に規定するものであったけれど、ロマン主義的な芸術理解のありようもまた、一面的なものとして批判にさらされるようになる。シェリングはむしろ自然的なものを実在的なもの、つまり、観念に服さず、そのために尽きることのない〈意味〉をもつ何かとして措定したのであるけれど、私はこのような〈意味〉を〈自然的意味〉、ないし〈ネガティヴな意味〉と呼んだことがある。何かの機会に改めて申し述べたいと思う。

なお、〈シャルトル学派〉とされる人たちは、〈自由学芸〉〔artes liberale〕の復興に寄与したということが言われるけれど、これは三学(文法学、論理学、修辞学)、四科(算術、幾何、天文、音楽)の7科目をいう。ギヨームは『ティマイオス』がこれらの学を用いて著述されていることを指摘する。本記では、参考までに各科の体系図*8を引用して示す。ソクラテスの時代、哲学における本質的なものは音声(パロール)にあり、テキストはそれより劣るエクリチュールにすぎなかったといわれ、この考えは中世にも持続して、大学者と呼ばれる人ほとんど記憶に頼って学問をしたなどというけれど、ギヨームはいささか異なった見解を示しており、「声だけでなく目で見えるもののほうが頭に入りやすく、学知的である」という考えを示している*9。今日では形式科学に含まれる数学だが、この時点ではもっとも視覚に訴える〈学知的哲学〉と呼ばれていることは注目に値するものである。さしずめ、今日では実験再現的な自然科学こそが視覚的な学の代表格ということになろうけれど、当時の段階では、思惟の中で明確に思い描ける数学の方が純粋に〈視覚的〉であった、ということなのであろうか。興味深いことである。数学(マテマティカ)について、ギヨームは次のように言う。

マテシスとは憧憬をともなった学知であり、憧憬がなければ虚栄となる。それは換称的な意味で学知的と言われている、他の学芸よりも四科における学知のほうが完全だからである。*10

ここでいわれる「憧憬」とは、思うにエロースによるイデアへの憧憬であろうから、つまるところ感覚を介すことのない〈思惟〉としての数学は、その最高の神的模範、神の知を探求する学ということになるのであろう。それは偶有的な現実の事物を対象とする自然学よりも確実な、絶対的な学ということができるのであろう。時代によっていささか定義は異なるが、ギヨームにおける〈理性〉とは、物体的特性を把捉する魂の力であり、〈知性〉は非物体的なものに対するそれであり、プラトンによれば、〈知性〉とは、神とせいぜいわずかな人間のみがもつものとされるから*11、その分有の度合いも人それぞれで、神的な叡知界への憧憬による想起の度合いに比例するのであろう。ドイツ観念論の頃になると、人間の諸力に〈悟性〉というカテゴリがあらわれ、これを〈知性〉と訳す人もあるけれど、むしろ今日、〈理性〉は非経験的な基盤に立つ推論能力という意味合いが強く、〈悟性〉というのは感覚的に得られた経験を統合する認識能力といわれている。シェリングプラトンの〈ヌース〉を〈理性〉と訳すのは誤りで、むしろ〈悟性〉というべきだと述べている*12。創造主の〈悟性〉こそが観念的な仕方で被造世界を生み出したのである。対して、〈理性〉は、すべての人間にほぼ普遍的にそなわっており、これを用いる学は数学と論理学ということになるであろう。ここでは、〈悟性〉の拡張によって、偶有的なものと見える現実世界を必然的なものとして見ること、その極まったところに〈絶対者〉としての神が措定され、神の思惟と世界のありようは絶対的に一致するというになるのである。シェリングはこのことをソクラテスプラトンを引いて説明しているけれど、とにかく用語が錯綜を極めていて、日本人からすると難解である。

私自身は、『ティマイオス』における〈コーラ〉の概念を中世人がどのように捉えたのかについて知りたくて本書を紐解いたのであるけれど、特に得るところはなかった。ゆえに「序言」と「導入」を中心に、ここで述べた事柄にしぼっていささか本文を抜き書きするのみにとどめたけれど、存在論の歴史上、興味深い記述が多々見られるほか、本性の上で善なるものであるはずの世界になぜ悪が生じるのかについての護教学的な見解も述べられているので、関心のある方はページを繰られるがよいだろう。

 

所蔵館

県立長野図書館(132・チュ・8)

 

 

中世思想原典集成〈8〉シャルトル学派

中世思想原典集成〈8〉シャルトル学派

 

 

 

解説(大谷啓治

 

p.406~408 著者と著書について

コンシュのギヨーム(Guillaume de Conches; Willelmus de Conchis 1090頃~1154頃)による、カルキディウス(Calcidius; Chalcidius 400年頃活動)によってラテン語訳されたプラトンの『ティマイオス』の註釈。カルキディウスが冒頭しか訳していないため、ギヨームの註釈もその部分に限られている。『ティマイオス』がキリスト教徒であるシャルトル学派の人々に尊重されたのは、「創世記」とのあいだに親近性があると意識されたため。シャルトルのティエリ(Thierry de Chartres; Theodoricus Carnotensis 1156年以降歿)の「創世記」の註釈と言うべき『六日の業に関する論考』は、「創世記」の有用性は「ひとり宗教的信仰を捧げるべき神を、神によって創られたものから認識することである」としている。ギヨームの『ティマイオス』註釈の「導入」(accessus)を比べてみると、「創世記」と『ティマイオス』の両者に、同じ有用性を認めていたことがわかる。このような意識は、カルキディウスの翻訳と註釈の影響によるところが大きい。ここに抄訳したのは、序言、accessusおよび第一部の27Dから31Aまで。翻訳の底本として、Guillaume de Conches, Glosae super Platonem. Texte critique avec introduction, notes et tables par Édouard Jeauneau(Textes Philosophiques du Moyen Age XIII), Paris 1965, pp. 55-62; 98-118を用いた。

 

本文

 

序言

 

p.410 プラトンの註釈について、その方針

多くの人がプラトンについて註釈し、多くの人々が逐語註釈をしたのは疑いのないところだが、注釈者たちは言葉の続き具合を探ることも、言葉を説明することもなく、ただ文章に含まれた意見だけに気を配り、一方、逐語註釈者たちは簡単なることについては多くを語っているのに、むずかしいことについてはきわめて曖昧であることが、少なからず見られるので、あらゆることにおいてわれわれの誠実でなければならない仲間たちの願いに動かされ、上述のプラトンについてなんらか述べてみることにした。その際、他の人たちの述べた余分なことは切り取り、見逃したことは付け加え、曖昧なことは明らかにし、間違ったことは取り除き、正しく述べられたことは真似することにした。

しかし、これだけ大きな仕事を短い歩みで踏破することは不可能であるから、量が多くなることは許していただきたい。友人たちに対して、理解を減らすことよりも、四倍の量を増やすことのほうがよいと思うからである。(410頁)

 

ティマイオスへの導入(accessus)

 

p.411 正義なしには力ない者は自身を維持できない

プラトンがこの著作を著した理由。正しく哲学するすべての人々のあいだで、国家の維持にとって正義が主要な位置を占めることは確かなことであったので、正義の探求が最大の関心事となっていたから。

彼らのなかで雄弁家トラシマクス〔トラシュマコス〕の正義を次のように定義した。「正義とは、最も力ある者にとって、最も役に立つものである」。この定義は、正義を維持するために、最も力ある者に国家の統治が委譲されるということに注目している。トラシマクスのこの定義がソクラテスの学校に伝えられると、〔ソクラテスは〕述べている。「そうではない。むしろ正義とは、最も力のない者にとって、最も役に立つものである。最も力のある者は、自分や自分のものをいかなる正義なしにも維持するが、最も力のない者は、〔正義なしでは〕まったく維持しないからである」。(411頁)

弟子たちの求めに応じて、ソクラテスは正義の一部、実定的正義について論じた。

 

p.412 実定的正義と自然的正義

正義には、実定的正義と自然的正義とがある。実定的正義とは、盗みの禁止などのように、人々によって案出されたものである。一方、自然的正義とは、両親への愛やそれに類したことのように、人間によって案出されなかったものである。実定的正義は国家の制度に関して特に現れるため、それについて論じるにあたって、国家に目を向けることでこの正義を示そうとした。しかし、いかなる国家にも、模範といえるような完全な正義を見出すことができなかったので、アテナイ人の古い国家にもとづいて新しい国家を考え出した。次いで彼の弟子のプラトンが、国家に関する一〇巻の書物を書いた後、自分の師が企てたことを完成させようと望んで、自然的正義についてこの著作を書いたのである。

自然的正義は特に宇宙の創造において現れるため、宇宙の創造に目を向けている。したがって、この本の題材は自然的正義すなわち宇宙の創造である。自然的正義のために宇宙の創造について論じている。(412頁)

 

p.413~414 哲学の区分

哲学とは、存在し見えないものと、存在し見えるものを真に理解することである。哲学には二種類、実践哲学と理論哲学がある。(413頁)

実践哲学には3種類、倫理哲学(エティカ。習慣を教える)、経済哲学(エコノミカ。一人ひとりが自分の家族をどのように管理しなくてはならないかを教える管理哲学)、政治哲学(ポリティカ。国家がどのように支配されるかを教える国家哲学)。理論哲学は3種、神学(テオロギア。神に関する理論)、数学(マテマティカ、学知的哲学。四科を含む。四科の学知のほうが他の学芸よりも完全だから学知的と言われる。他の学芸においては、学知は音声だけで生じるが、四科においては、音声と目によって生じるのであり、著者が述べることを規則が目に見える形で示してくれるから。代数学音楽学幾何学天文学)、自然学(フュシカ。自然、諸物体の結合についての哲学)。

マテシスとは憧憬をともなった学知であり、憧憬がなければ虚栄となる。それは換称的な意味で学知的と言われている、他の学芸よりも四科における学知のほうが完全だからである。(413頁)

叙述したことは目に見えるようにしたほうが頭によく入るので、哲学自体の類である学問から始めて示す(414頁の図)。

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学問と哲学の分類図(ギヨーム・ド・コンシュによる、414頁)

 

p.415 学の適用範囲

この著作では、実定的正義を要約する際には実践哲学から、宇宙の始動因、形相因、目的因および魂について語られるところでは神学から、数や比例についてのところでは数学から、四元素、動物の創造、原初的質料についてのところでは自然学からというように、哲学のあらゆる分野から何かが含まれている。(415頁)

 

宇宙の四原因および宇宙の創造についての論考

 

p.417 常に在り出生を欠くもの(神の本質)と、生み出され変化するものについて

27D

プラトンは(…)、常に在り出生を欠くものと、生み出されて常にあることのないものの両者について説明をしている。前者についての説明は次の通りである。理性の導きにより知性によって把握されうるもので、常に同一である。後者についての説明は次の通りである。非理性的な感覚のともなう意見によって把握されうるものである。(417頁)

 

p.417 感覚、想像力、理性、知性

27D

このことがよりよく理解されるように、魂の諸力について何かを述べることにしよう。創造主は人間の魂に分解不可能の本質、知識の完成、意志の自由を与えた。しかし、多様な種類の事物が知識の対象となり、また同一の事物がしばしば多様な仕方で把握されるので、多様なものを把握し、あるいは同一のものを多様な仕方で把握するために、人間の魂に多様な力すなわち感覚、想像力、理性、知性を与えたのである。

感覚とは、それによって人間が現存する事物の形や色を把握する魂の力である。この力は、形と色だけをもつものの物体が現存するときでなければ働かない。この力は外から自分にもたらされる情念に始まりを有する。

想像力とは、それによって人間が現存しない事物の形を把握する力である。この力は感覚に始まりを有する。というのは、われわれは想像するものを見たものとして想像するか、あるいはウェルギリウスに出てくるティテュルスが自分の街の類似としてローマを想像したように、すでに見たことのある他のものの類似として想像するかのいずれかだからである。

理性とは、それによって人間が物体の特性や物体に内在するものの差異を判別する魂の力である。この力は想像力と感覚に始まりを有する。感覚するか、あるいは想像するかするものについて識別するからである。

知性とは、それによって人間が、非物体的なものをなぜそのようであるか確かな根拠をもって把握する力である。この力は理性に始まりを有する。人間は理性によって物体の特性を把握したとき、人間の身体〔物体〕が本性的に重力をもつものであり、重力が運動に反することを知る。そこで人間の身体が動くことを見たとき、このことが他のものによることを知る。探求することによって、身体の中にある霊が存在し、それが身体に運動を与えていることを知る。しかし重いことは霊に反するので、あるものの知恵が霊を身体に結びつけ、身体の中に霊を保っていることを知る。しかるにすべて知恵というものは誰かの知恵である。そこで誰かの知恵であるかを尋ねることにより、それはいかなる被造物のものでもありえず、それゆえ創造主のものであることを見出すのである。(417~418頁)

 

 

p.418~419 知性は神とわずかな人間のみがもつことを許されている

27D

そしてこのように人間は理性に導かれて、非物体的なものの知解へと到達する。〔理性は〕原因として〔知性に〕先立っているように、時間によっても先立っている。人間はまず幼児期に感覚、次に想像力、その後理性、そして神がそれを許すならば知性をもつようになる。プラトンが述べているように、ただ神のみとせいぜいわずかな人間が知性をもつにすぎないからである。(418~419頁)

 

p.419 理性と物体的なもの、知性と非物体的なもの

27D

これらの力のほかに素質、記憶、意見といった理性と知性に仕える力がある。素質とは、何かを速く把握するための魂の本性的な力である。素質(インゲニウム)と言われるのは、いわば内に(イントウス)生みつけられて(ゲニトウム)いるからである。記憶とは、認識したものをしっかりと保持する力である。意見とは、疑いをはさみながら事物を把握することである。この把握が物体的なものについて確証されれば理性となり、非物体的なものについて確証されれば知性となる。(419頁)

 

p.432 真理が真らしいものより優れているのは必然的なものであるから

29C

Quantoque. 論述の前後関係。創造主については、真実で必然的でない限りいかなる理拠も挙げるべきではないが、宇宙については真らしさだけで十分である。しかし人によっては〈なぜ真理は真らしさに優るのか〉と言うこともありうるので、それに対して答えている。「本質」、すなわち始まりと変化を欠いているもの「が出生において」、すなわち生まれ出て変化するものより「より良いものであればあるほど、真理は不確実なもの」、すなわち宇宙についての理性の不確実性「より優れたものである」。しかし、このことを言わなければならなかったので、この不確実なものの種類、すなわち「評判と意見」を挙げている。すべて人間の理性は評判あるいは意見である。われわれは受け取ったことを話すか、自分で信じたことを話すかであるが、前者の場合は評判であり、後者の場合は意見である。(432頁)

 

p.432 被造の物体については偶有的でも真らしい説明でよい

29C

Quare predico. 宇宙について真らしいが必然的でない理拠で十分であるので、私がかならずしも必然的なことを言わなくても、驚かないでほしい。プラトンによれば、神については真実で必然的なもの以外は何も言ってはならないが、物体については他のありようが可能であるにしても、われわれに真らしく見えることを言ってよいのである。それゆえ、どの場合にも必然的な論証を導入しなくても、われわれは非難されるべきではない。(432頁)

 

p.434~435 神は意志によって世界を創造した

30A

Quam quidem. 今まで述べてきたことの結論は上述の通りである。神は意志のみによってすべてのものを作ったのであるから、もし誰かが神の意志が事物の起源であると言う人があるならば、私はその人に同意しよう。それは神の意志と善性が事物の原因であるということに反対するものではない。(434~435頁)

 

p.435 創造されたものは本性上、善なるものである

30A

Volens, etc. あらゆるものが善であることを欲したので、いかなる悪の後裔も残さなかった。そこで次のようになる。悪い被造物を作りもしなければ、被造物に悪い本性を付与することもしなかったがゆえに、「神はあらゆるものが善として現れることを欲して、いかなる悪の後裔も残さなかった」のである。後になって、自ら堕落した本性が悪を行ったのである。このことは、創造主が善い本性と悪い本性という二つの本性を事物に付与したと言う人々に反対するものである。したがって、人間は罪を犯すといった本性の者なのではなく、こうした堕落をするものであると言わなければならない。(…)われわれの目にする悪は本性からではなく、本性の堕落からであると言ってもよいであろうか。悪魔もまた本性によれば善であるのに、意志と業によって悪だからである。(435頁)

 

*1:岩熊幸雄「総序」(上智大学中世思想研究所 編訳・監修『中世思想原典集成8 シャルトル学派』所収)、平凡社、2002年、11頁。

*2:岩熊、同書、12頁。

*3:岩熊、同書、12頁。

*4:コンシュのギヨーム「コンシュのギヨーム「プラトンティマイオス逐語訳註釈」」(上智大学中世思想研究所 編訳・監修『中世思想原典集成8 シャルトル学派』所収)、大谷啓治訳、平凡社、2002年、411頁。

*5:稲垣良典トマス・アクィナス』、勁草書房、1979年、191頁。

*6:稲垣、同書、193~200頁。

*7:岩熊、前掲書、8~9頁。

*8:ギヨーム、大谷訳、前掲書、414頁。

*9:ギヨーム、大谷訳、前掲書、413頁。

*10:ギヨーム、大谷訳、同書、413頁。

*11:ギヨーム、大谷訳、同書、418~419頁。

*12:ヴィルヘルム・フリードリヒ・シェリング「哲学的経験論の叙述」(岩崎武雄編『世界の名著 続9 フィヒテ シェリング』所収、中央公論社、1974年)、535頁。