南山剳記

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乞食の変奏(山折哲雄)

乞食の変奏

山折哲雄「乞食の変奏」(日本文学研究大成『中世説話Ⅰ』、藤本徳明編、国書刊行会、1992年)

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【服部 洋介・撰】

 

解題

宗教学者山折哲雄(1931~)の小論。初出は『乞食の精神史』(弘文堂、昭和62年3月)。基本的には網野善彦らの先行研究を敷衍したものではあるけれど、中世における遍歴民・遊行民、なかんづく〈乞食〉というものの社会的位置づけを、著者の着目する新たな史料をもとに、そのテキストや図像にみる表象から読み解こうとするものである。同様の研究に、〈歩き巫女〉や〈遊女〉を対象とするものがあるが、大枠の構図は〈乞食〉研究と同じものである。いずれも、土地生産に拠らない非定住型の遊行民の古態を解明し、その零落の背景と、それらの人々を卑賤視・罪悪視する観念がいかに生じたかを跡づけようとする研究である。

本論ではまず、〈乞食〉の遊行宗教家としての面を取り上げ、古代においては、定住民と非定住民が列島においてパラレルに存在し、両者が拮抗する関係にあったことを指摘する。遊行宗教家としての〈乞食〉は〈ホカイビト〉と称されるが、南北朝から室町にかけての動乱期を境に、定住的農耕民のプレゼンスが高まり、非定住民の周縁化が進行する。このような形で、〈乞食〉から宗教性が剥ぎ取られ、これを蔑視する風潮を生ずる、というのが本論の主張である。このように、単なる無産の流浪民と見られるようになった〈乞食〉は、土地生産以外の方法で食い扶持を得なくてはならなかったから、そこから〈見世物〉としての芸能にたずさわる人たちを分化させる。このようなことが主に網野を引用しながら説かれてゆくのである。

もとより古代・中世に記された文字史料や図像はかぎられているので、果たして中世前期までの〈乞食〉の社会的地位がどれほどのものであったのか、直接の証拠をもって示すことはできないけれど、〈乞食〉という生活様態が卑賤視されるようになったのは、11世紀から13世紀にかけてのことらしく、〈遊女〉の罪業観が定着したのとほぼ時期を同じくすることは注目されてよい*1。ここで示されるのは、〈乞食〉も〈遊女〉も、もともとは社会の最底辺の人々ではなく、ある時期から「化外の民」という烙印を押され、中心から疎外されてゆくという図式である。これは、水田的秩序に属さない人たちに対する卑賤視観というものがもともとの起源を有さないということ、定住民の社会文化の安定とともに新たに創始された神話である、という見方に立つものである。もともと賤民ではなかったものに付与された〈化外の民〉という周縁的なイメージは、一つのシミュラクルであって、社会的な線引きの移動によってこのようなアナクロニズムが惹き起こされ、オリジナル不在の現実が、かえって〈起源〉へと投影されることによって、これを行為遂行的に再生産したものと見てよいであろう。

このような形で〈乞食〉は、マイノリティとして周縁化されてゆくのであるけれど、服藤早苗はこれに〈遊女〉のたどった運命を重ね合わせ、13世紀を通じて、徐々に〈遊女〉への卑賤視観や罪業観が社会に浸透していったと見る。そして、それらを自己の内部からアブジェクシオンすることによって、武士社会における強固な家父長制と家制度が同時的に定立されていったと指摘するのであるが*2、このことについて立ち入るのは、本書が取り扱う〈乞食〉の社会的変容というテーマからいささかそれるので、別の機会に譲りたい。

なお、本書に見られるような語用や表象の比較によって、ある概念が時代ごとにどのように捉えられていたかを分析する方法論は、ジェンダー学やフェミニズムの分野でも応用されるものである。山折はそこからいささか哲学的に踏み込んで、〈乞食〉の社会的役割というにとどまらず、〈乞食〉当人の内面の問題、聖俗の理念的区分が無効化されるところの実在的な〈乞食〉の様態について『今昔物語集』の長増法師を例に考察しているけれど、「無知な物乞い」という他者から押しつけられた表象を限界まで演じ切ることによって、その境域を突破し、仏の化身としてあがめられるようになるという物語の構造は、一種、心理学的な興味をそそられるものでもある。ここでは自己を規定するものとしての自己表象も、他者からの解釈にすぎない他者表象も、ひとしく実在に対する差別にすぎないことが暴露されるのであるけれど、その境界を無効のものとする一切平等の表象が、〈極楽浄土〉であった。長増法師にとって、比叡山を出て、〈乞食〉という存在様態に転落することは、極楽往生を遂げるためにぜひとも必要なことであったのだが、このようなマゾヒスティックな心理は、自らが自我的な中心から疎外され、表象の主体ではなく客体の側へと超え出ることを要請する。すなわち、自らの姿を自らの目で眺めるような、ナルシシズムの視点がそこに形成されるのである。〈乞食〉や〈遊女〉の職場が大寺社の庭やあるいはその近辺に存在していたのは、その〈見世物〉としての性格と無縁ではないようである。

 

所蔵館

市立長野図書館(913.47 チ1)

 

 

p.302 乞食は神の祝言を伝える遍歴の芸能者で、蔑視もされたが畏敬もされた

「本来、乞食は「マロウト」であり「マレビト」であった。かれは流浪から流浪への旅のなかで共同体を訪れ、戸口の前で人々の前で神を演じ、神の託宣を伝えた。かれは共同体の定住民によって異彩の遍歴者であるゆえをもって侮蔑と賤視の対象とされたが、しかし他面で神を演ずる来訪者として畏敬の対象とされたのである。この「異人」としての乞食の面持にはいまだホカイビトとしての、すなわち神の祝言を運ぶ芸能者としての自らを律する矜恃が脈打っていた。万葉集の「乞食者の詠」には、そのような乞食の生き生きとした祖型が刻まれていたといっていいだろう」(302頁)

 

p.302 「乞食」と「神」の分離が始まったのは中世

「その乞食の運命が大づかみにいって中世を境に零落の道をたどっていく。折口のことばでいえば、古代の「巡遊伶人」が諸種の呪術師や芸人などへの分化をとげ「かたい」や「ほいと」としての乞食へと身をおとしていった。「非人乞食」や「乞食法師」の烙印を押された人々の群れが地の底から湧き出てきたのである、乞食のからだに宿っていた隠身の神が姿を消し、侮蔑と賤視をはりつけられた乞食の裸身が剥き出しになっていったといっていいだろう。「乞食」と「神」の分離が進行し、そして畏怖の感情と賤視のまなざしの剥離がはじまったのである」(302頁)

 

p.302~303 南北朝の内乱を期に遍歴・遊行民は没落して賤民の扱いを受けるようになった

「この乞食におけるいわば疎外の現象は、いうまでもなく一般に中世における「遍歴民」の身の上にふりかかってきた状況の変化を端的に反映するものでもあった。そのような状況の変化について、たとえば網野善彦は次のようにいっている。すくなくとも、鎌倉・南北朝期ごろまでの遍歴民は、けっして卑賤視の重圧にしばられることなく、なおそれなりに自由に、ときには奔放に、自らの生活を営んでいたのだ、と。かれら遍歴民は、定住的農耕民や、かれらの水田的秩序に立つ見方にたいして、十分に拮抗するだけの力をもち、ある場合は重大な脅威となり、またあるときは強い魅力をもって、定住民や秩序内の人々をひきつけてやまなかった。その意味において、この時期までの遍歴、遊行民を、体制から「疎外」され、国家的秩序の最下層に「差別」された賤民としてみることはできない、と氏はいう。それが南北朝の内乱期を境にして、遍歴、遊行民が次第に賤民の側に押し込められ、化外の民として過酷な卑賤視を浴びるようになった」(302~303頁)

 

p.303~304 絵巻物に見る遍歴民の姿の変遷

中世の数多くの絵巻物に登場する遍歴、遊行民(山伏、狩人、釣人、琵琶法師、絵解、市の販女(ひさぎめ)などとならんで乞食や非人たちがつぎつぎと登場)の姿態は生き生きとしており、「理不尽な社会の卑賤視の重圧の中で呻吟などしていないといっていいだろう」(303頁)。蓑帽子をかぶった狩人は、胸を張って従者を連れている。小屋かけをして住み着いている乞食たちも、みじめな姿はしているが、煮炊きをしたり鴉を棒で追う姿からは、たくましい生活の息吹が立ちのぼっている。網野は『一遍聖絵』を取り上げて指摘、「信濃伴野市」の場面では、乞食、非人は生気にあふれている。そこは市庭(いちば)だが、たまたま市は立っておらず、念仏を唱える一遍と従僧の背後に、覆面をした乞食や非人の集団が一遍たちを見つめ、念仏に耳を傾けている。その顔は好奇心にみち、精悍な感じすら受ける。ところが、多少時代が降る『一遍上人絵詞伝』(『遊行上人縁起絵』)になると、そこに登場する遍歴、遊行民の姿ははるかに頼りなく、貧弱。乞食や非人もあらわれるが、長吏と推定される覆面の僧に監督されており、円陣をつくって施行を受けているその姿に、『一遍聖絵』に見られる生気溌剌とした息吹は感じられないという。

そのような時代の変化の意味について網野は、農業社会の成熟という要因を指摘している。それは高取正男にいわせれば、定着社会の成熟による種族文化統合の時期にあたっていたといえるだろう(『日本的思考の原型』)。

遍歴民に対する定着民の優位が確定し、固定化していく時期であった。その画期が網野によれば南北朝期の十四世紀であり、そのとき以降、遍歴民は社会的劣位に立たされるようになる。こうして定住的社会が成熟していくにつれて、さきにのべたように神の領域からは乞食の分身が遊離し、異人としての「まれびと」にたいする畏敬と怖れの念がしだいに不別と賤視のまなざしを分出するようになったのである。(303~304頁)

 

p.304~305 『今昔物語』の伊予の門乞匃

『今昔物語』巻第十五「比叡山の僧長増往生の話、第十五」。昔、比叡山の東塔に長増という僧がいて、師について顕密の奥義を極めた。師が亡くなって、自分も師と同じ極楽に往生したいというようになった。あるとき、厠へ行ったまま姿をくらまし、数十年が経った。長増の弟子・清尋(しょうじん)というのがいて、伊予守の藤原知章に従って四国へ下った。知章は清尋を師と尊び、国の人も彼をあがめて帰依して、彼の庵がにぎわうようになった。そこに真黒な田植え用の笠をかぶった老法師があらわれた。いつ洗ったかもわからないようなひとえものを肌につけ、破れ蓑を腰までたらしている。片足だけ藁沓をはいて、竹の杖を突いて庵に入ってきた。土地の人は「門乞匃(かどかたい)がきた」とののしって追い返そうとしたが、その叫び声を聞いて清尋が障子を開けてみると、乞食は師の長増であった。清尋は長増を板敷にあげて二人で泣いた。長増によると、厠で世間を棄てようという気もちになって、仏法のあまり広まっていないところへ行って乞食になって命を長らえようと思ったという。念仏だけを唱えて極楽に生まれ変わろうと思ったのである。それで山崎へ行って便船をつかまえて、伊予に下ったが、伊予・讃岐と乞食をして過ごすうちに、般若心経すら知らぬ乞食坊主といわれるようになり、日に一度だけ人の家の門の前に立って乞食をするところから門乞匃といわれるようになったという。なつかしさのあまりに弟子のところへ来てしまったが、これ以上、人に知られるのは本意ではないと、庵を去ってまた姿をくらました。清尋はのちに伊予守とともに都に去った。そののち、再び門乞匃が伊予にやってきて、今度は土地の人々の尊敬を得たが、ほどなく西に向かって端座して眠るように極楽往生した。人々は、この門乞匃はかりにこの世にあらわれた仏の化身なのだろうと語り伝えたという。

 

p.305 門乞匃の異形の衣装は神仏の象徴だった

定住の生活を送っていた長増が世俗化した比叡山を棄てて辺土で遁世する。「聖」とはもともとそういう遁世者で、聖たちが遍歴すべきフロンティアは荒れ果てた片田舎だった。門乞匃のいでたちは異様で、長増は身分を隠すためにこれを用いたのだが、しかしこのような服装は、異形のものを迎える里人たちからすると、鬼や神や姿を象徴するもので、物語の最後で、村人たちは門乞匃が仏の権の化身だったのかと言い合うことになる。この門乞匃の服装も、鎌倉以降はもしだいに非人と同類の衣装とされ、差別と賤視の烙印を押される対象となっていく。

 

p.305 乞食行為の内的な規定と外的な規定は無効化される

『今昔』のこの話の中で、長増が身をやつす門乞匃は「次第乞食」ともいわれているが、もともとは宗教的な行の一つで、つぎからつぎへと家ごとに食を乞うて歩くことをいった。次第乞食は極楽往生を願う修行であるけれど、門乞匃は反対給付の用意もなく、ただ物を乞う行為であるにすぎない。次第乞食は聖としての長増の自称だが、門乞匃は、たんなる物もらいをののしっていう他称。

次第乞食という自恃の想いが、いつのまにか門乞匃という沈淪の意識へと反転していく。逆にその沈淪の自虐が行乞の至福へとかけのぼっていく。その意味では、さきほどの自称も他称も乞食という行為に外部からはりつけられた限定的な烙印でしかないだろう(305頁)

 

p.306 乞食生活は意外と楽しかった

『今昔』巻第十六「無縁の僧、清水の観音に仕へ乞食の聟となりて便りを得たる話、第三十四」では、身寄りのない若い僧が清水寺の観音にお参りして法華経を唱えていると、美しい女がともの女童をつれて話しかけてきた。僧の身の上を聞くと、女が自分の家に泊まれと言うので、客座敷にあげられて饗応を受けた。何度か通ううちにねんごろとなり、ある夜、ひそかに這い寄ると、女は拒まなかったので、そのまま一緒になって生活した。あるとき、女が魚のご馳走をとりつくろってもってきたので事情を聞くと、実は女はかつて乞食の頭目であった者の娘であり、魚は手下のものから贈られたという。いつしか僧はその家に婿入りした形となり、乞食仲間と交わって楽しく暮らすようになったという。本文に曰く、

よく聞けば、早うこの家は乞食の首にてありける者の娘なりけり。それに伴の乞食の、主といふことしける送物を持て来たるなりけり。聟の僧も人も交らふまじかりければ、それも乞食になりてぞ、楽しくてありける。(306頁)

この話では、まだ乞食という生活形態に陰湿で暗い影はさしていない。色仕掛けと魚で僧の精進を破らせることで法師はほとんど僧の身分を喪失しているが、

しかしそこからは肩ひじはらない解放感が立ち昇っている。市井の一般人との交際は断たれたにしても、乞食の娘の聟になりその乞食の生活にひたることが気どりも屈曲もなく肯定されている。「乞食になりてぞ、楽しくてありける」といわれているのである。人との交際が思うにまかせないところに、「異人」にたいする差別の萌芽がほのみえているが、それはかならずしも乞食の「楽しみ」と矛盾するものではない。賤視の重圧と過激な排除の論理が、その乞食夫婦の身辺にはまだ及んでいないのである。(306頁)

 

p.308~310 説経文学に見る乞食の没落

このような乞食の風景にもかげりが見え始め、『説経』の世界にそのような事例が見える。『説経』というのは「刈萱」とか「山椒大夫」で知られる近世の語り物であり、『説経浄瑠璃』ともいうが、江戸時代の17世紀に盛んにおこなわれた。その物語世界の原型はすくなくとも15世紀の末、安土桃山時代までさかのぼるといわれている。室木弥太郎によると、「説経」を語る人々は当時、簓(ささら)乞食ともいわれたという。簓というのは茶筅を長くしたような形で、竹の先を細かに割って、それで刻みをつけた細い棒(簓子)をこするとサラサラと音がするので、それを伴奏にして説経を語った。説経語りは芸能者であって、ただの乞食ではなかった。江戸時代の記録では、説経の人々は醍醐天皇の第四皇子・蝉丸を祖としていた。蝉丸は琵琶の名手で、盲目であったため逢坂山に捨てられ、山を上下する旅人に乞食して、ひとえに衆生の済度を願った。その本体は妙音菩薩であって、乞食はかりの姿であった。説経の「しんとく丸」の場合、彼は河内の長者の子に生まれ、和泉の長者の娘の乙姫と恋仲になるが、継母の呪いで癩になり、父の命令で四天王寺の西門にある念仏堂に捨てられてしまう。夜、手さぐりで枕を探ると、雨露をしのぐ蓑笠と、道しるべの細杖、袖乞いのための円座と小御器が置いてある。しかし、恥辱から袖乞いはすまいと思って眠りにつくと、清水観音の夢告があり、袖乞いをして命をつなぐことになった。天王寺の七ヶ村の人が弱法師(よろぼし)とあざけった。そののち、再び観音の導きで熊野に向けて旅立つが、途中で乙姫の屋敷に立ち寄って正体を見破られる。恥辱に耐えかねてそのまま四天王寺に逃げ戻るが、侍女から事情を聞いた乙姫が追ってきて、四天王寺でしんとく丸に再開し、二人で袖乞いをして町屋の人の涙を誘うという話。このしんとく丸にとっては袖乞いは恥でしかなく、古典的な乞食たちの自恃や隠士の想いはすでに喪失している。他人の意思によって放棄された者は、ただあざけられる存在でしかない。「をぐり」で小栗判官が蘇って餓鬼阿弥陀仏になった恥辱も同じで、

その恥辱と無惨には解放への回路がどこにも開けてはいない。かれらにとって、袖乞いや餓鬼の状態のなかに一条の光すら射しこむことはないであろう。それだからこそ、かれらの救いは、そのような状態の脱却によってしかもたらされない。そのため〔原文ママ。「の」一時脱落か〕外在的な仕掛けが、清水の観音や熊野権現の「霊験」であった。それは外部から、太陽の光線のようにかれらの身の上にふりそそぐものであったが、しかしその霊威はけっしてかれらのうちに本来的に内在するものではなかったのである。(309~310頁)

 

p.310 病苦から乞食に

13世紀の後半に、無住一円が編集した仏教説話集『沙石集』に、栄西の流派についての記述が出てくるが、かれらのうちには戒律を守って「僧正」となる者もいるが、遁世して頭陀をする聖者たちを、今日の人が「非人」といい「乞食法師」といってさげすんでいると書いている(巻第十末、「建仁寺門徒の中ニ臨終目出事」)。ここでいう今日の人(「末代の人」)のうちには高僧も一般人も数えられていたと見ていいだろう。また『沙石集』には大和の松尾寺の中蓮房が中風にかかってしまい、「乞匃非人」に身を落として命を長らえているという話が出てくる。若いころ修行、学問して弟子も多数あったが、もし妻子があれば自分もこれほどみじめな境涯に落ちずともすんだ、貴僧らも早いうちに妻をもうけた方がよいと僧らに妻帯の勧進をしていたという(巻第四、「上人の妻セヨト人ニ勧タル事」)。遁世と色欲の許容が同時に進行していくありさまがわかるが、時代はすでに色欲を「隠すは聖人、せぬは仏」といわれるところまでいっていた。この中蓮房の意識が『今昔』の長増法師の乞食意識といかにかけ離れているかは一目瞭然。

 

p.310~311 無産の浮浪者が散所で芸能にしたがった

「乞食」が生活の拠点を置いていた現場の一つが「散所」。

散所とは古来、特定の住民が各種の雑役を勤める地域をいい、やがてその住民をさす言葉となった。かれらは地代や様々な賦課を免れるために散所入りをしたのである。その多くは浮浪生活者で、中世になるとかれら散所住民(散所者)は大社寺に隷属して、掃除、狩猟、交通の雑役などに従事する一方、陰陽師や雑芸人として奉仕するものもいた。かれらはこのような雑役に従うことで世間から賤視され、乞食非人とも呼ばれるようになっていった。荘子だけの労役では生活のたつきに間にあわず、物乞いをしなければならなかったからである。(310~311頁)

散所のなかから千秋万歳を演ずる「乞食法師」なるものがあらわれ、『明月記』に芸態が記されている。正月になると「散所の乞食法師」が仙人の装束をつけ小松をもって家々を訪れ、さまざまな祝言を述べるという。季節限定の祝福芸だったが、のちに芸能化して、二人一組の現在の万歳のもととなった。

この祝福芸を演ずる乞食法師には、たしかに神を演ずるホカイビトの面影が揺曳しているといえるであろう。しかしながら彼らの身分は、すでに散所の民として賤視の額縁に凍結されはじめている。神を演ずる乞食が道化を演ずる乞食へとその芸態を変容させていく。乞食の所業そのものが、即自的に芸能の一種と受け取られるような世論がすでに形成されはじめているといっていいのである。そしてそのような非情な世論が、たとえば若き日の世阿弥の身の上にも容赦なくふりかかっていたことは興味あることである。

世阿弥はまだ少年のころ、足利義満の寵童としてその身辺に侍り、人々の注目の的となっていた。あるときかれは義満に従って祇園会におもむき、主人とともに桟敷に坐った。たまたまそれをみた押小路公忠は、その世阿弥の芸能を「散所者乞食ノ所行」であるとその日記のなかに書きつけているのである(『後愚昧記』永和四年(一三六八)六月七日)。(311頁)

 

 

p.311 乞食が見世物であった背景

11世紀から悲田院のような福祉施設の収容人数は大幅に減少、その頃から清水坂などの特殊な地域に病者や乞食が集中するようになった。一種の乞場と見ることができるが、横井清によれば、鎌倉末期になると、交通の要衝や市や町、社寺の近辺に「乞場」が設けられるようになったという。施す側とすれば「施場」で、癩者も重病の非人も、人手に助けられてでもそこにたどりつき、その日の稼ぎをえなければならなかった(『中世民衆の生活文化』)。「乞場」は網野によれば「乞庭」とも呼ばれたという。相撲の行なわれるところも「庭」であり、獅子舞の舞場も「舞庭」、同じように物乞いをする領域が「乞庭」といわれた(『演者と観客』)。乞食の営みが芸能の一種に数え上げられた社会的背景がここに見出される。したがって季節ごとにおこなわれる社寺の祭礼では。その境内や前庭が「乞庭」に変貌するのも当たり前の光景であっただろう。南北朝期のことだが、信濃諏訪神社の祭礼に、白拍子、獅子、田楽、呪師、猿楽、盲聾病者にまじって「乞食非人」が集まってきたという(『諏訪大明神絵詞』)。

 

p.312 乞食と公界

右の網野によれば、祭の場はすなわち公界の場であり、そこに多くの公界者が集まって、芸能が興行されたのである。そしてこのような公界としての乞庭は、乞食がおこなわれる場であるとともに一つの権益、縄張と化す特殊空間ともなったのである(『演者と観客』)。(312頁)。

 

p.312 乞食の身分の画期となった中世

中世は、乞食の身分が社会の変動につれて大きく揺れ動いていく時代であった。よくいわれるように南北朝の内乱期、そしてそれにつづく室町期が、その画期であったといっていいだろう。乞食についてのイメージや観念が、『今昔物語』の世界から『説経』の世界の流れのなかで際立った相違をみせているのも、そのことを明らかにする状況証拠の一つである。そのような乞食の変貌の実態を知る上で、散所や乞場などにおける乞食行動の究明は欠かすことのできない課題であるといっていいだろう。(312頁)

 

*1:服藤早苗『古代・中世の芸能と売買春~遊行女婦から傾城へ』(明石書店、2012年)、235~239頁を見よ。なお、余計な話かもしれないが、どうも昔の絵巻の表現などは、現代人にはよくわからない部分が多くて、室町時代の『結城合戦絵詞』では、切腹しようとする足利持氏(結城氏朝という説もある)を守る弓を構えた武士の顔などは、妙に楽しげであるし、江戸時代の『結城戦場物語絵巻』に至っては、持氏と対面して話す武者はほとんど笑っている。ちょっと何を表現したのかはかりかねるところもある。

*2:服藤、同書、239~243頁。