南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

メタロギコン(ソールズベリーのヨハネス)

メタロギコン

 

ソールズベリーのヨハネス「メタロギコン」(上智大学中世思想研究所 編訳・監修『中世思想原典集成8 シャルトル学派』所収)、甚野尚志・中澤務・F・ペレス訳、平凡社、2002年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

本記で取り上げるソールズベリーのヨハネスは、先に取り上げたギヨーム・ド・コンシュにも師事した学僧で、イングランドにおいて王権に対抗して教会の権利を主張して暗殺されたカンタベリー大司教トマス・ベケットに仕えた人物である。われわれ世代にとっては「ソールズベリーのジョン」のほうが馴染み深いけれど、ここではラテン語名に従う。彼の伝記には、アベラール、クレルヴォ―のベルナールなど、錚々たる学匠が登場し、大学時代にこれらの人物について学んだ私にもなつかしく思われるものである。晩年は、若き日に学んだとされるシャルトルに司教として赴任し、そこで没した。

イングランドと大陸を何往復もし、教皇庁へも赴くなど、多忙な外交活動に従事する日々を送ったヨハネスは、そうこうするうちに老年となり、記憶が衰えたことを、ウェルギリウスを引いて嘆いている。この人の文章は雑多な古典の寄せ集めで、独創的でもなければ革新的でもないと非難されることになるのだが、当のヨハネス自身、自分の論述に若い人のもつ鋭敏な才能を求めないでほしいと断りを入れており、理論的にものを書くというよりは、それまでに学び得たことを総合的に叙述したいという動機が強かったのではないかというように、私などには思われるのである。結果、内容が雑文的なものになってしまったのであろうけれど、頭が冴えなくなってくると、どうしてもこうなってくるもののようである。私なども記憶が弱いので、つらつら書いているうちに、書きたいことすら忘れてしまうことがある。どこに何を書いたのかも十分に把握できなくなるから、実に悩ましい。そのうちに資料と書付ばかりがたまってしまい、飽きるのも早くなって、書きたいことなどどうでもよくなってしまうわけである。そして、新しいことに取り組むことができなくなり、若い人に侮られながら生きていかざるを得なくなるのであるけれど、在りし日の名指揮者チェリビダッケのように、新譜をわたされても「もう新しいものを勉強するのは嫌だ」と言えるならよいけれど*1、「それは逃げじゃないですかね」と突き上げられるのが関の山、もうウンザリである。

さて、このような文章には、どこか回顧的な要素が入り込むようなところがあって、普遍的なものというよりは、どこか特殊なものである。なので、他人が読んでもいま一つピンとこないものになりがちであるけれど、普遍的な事柄というのは、誰が書いても同じ内容になって代わり映えのしないものであるから、こうした特殊な書き物にあらわれる余談めいたもののなかに、その時代の貴重な痕跡が遺されていることもあるのであろう。結論だけ言えば済むところを、引用に次ぐ引用を連ねるのは冗長なことであるけれど、書かずにはいられない思いがあったのであろう。ただし、こんにち、ヨハネスの語り口というものは、当時の著述習慣に則ったものであり、彼ひとりの特殊性に還元しうるものではないという再評価がなされているとのことである。つまり、12世紀の学識者は、おしなべて特殊でドメスティックな語り方でものを書いていたのではないかということである。なるほど、一つの発見である。

さて、この人の思想の特質については、教皇ベネディクト16世の一般謁見演説の中で簡潔にまとめられているから、むしろそちらをお読みいただくのが早いと思う。

 

 (ヨハネスは)『メタロギコン』の中で――そこでは教養人の特徴である洗練された皮肉が多く述べられていますが――、ヨハネスは文化に関して否定的な見解をもつ人々の立場を退けます。この人々は文化を空しい雄弁、無益なことばと考えました。これに対してヨハネスは文化と真正な哲学を称賛します。真正な哲学は、明快な思考と、力強いことばによるコミュニケーションとの出会いだからです。ヨハネスは述べます。「理性により導かれない雄弁が粗野で盲目的であるように、表現力のない知恵は弱く、不完全である。ことばのない知恵は、たまには人を満足させるかもしれないが、それが人間社会の福利に貢献するのは稀である」(『メタロギコン』:Metalogicon 1, 1, PL 199, 327〔甚野尚志・中澤務・F・ペレス訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成8 シャルトル学派平凡社、2002年、603-604頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。これはきわめて現代的な意味をもつ教えです。今日、ヨハネスが「雄弁」と述べているもの、すなわち、ますます高度化し拡大されたメディアを通じて情報を伝える力が桁外れに増大しています。しかし、「知恵」をもってメッセージを伝えることもますます必要とされています。つまり、真理といつくしみと美に促されてメッセージを伝えることが必要です。とくに文化、コミュニケーション、メディアのさまざまな複雑な領域で働く人々には、この大きな責任が求められます。そして、こうした領域の中でこそ、福音を力強い宣教をもって告げ知らせることができるのです。*2

 

ヨハネスが〈理性〉という言葉を使うのは啓蒙主義者のごとく頻繁であるけれど、ギリシア語の「ロゴス」が「言語」と「理性」という二つの意味をもつことから、彼は論理学を「言葉の表現と推論の学」と規定した*3。ここで求められるのは、ラテン語の素養とアリストテレス論理学という二本の柱である。彼は「意見」と「判断」を区別して、次のように言う。

 

ここで言う意見と判断の相違は、意見がしばしば誤り、判断が常に真理の側に立つことにある――だがそれも、言葉を精確に使う限りでそう言えるのだが――。というのは、実際には、ある言葉を使うべきところで、その代わりに他の言葉を使うことがよくあるからである。*4

 

「判断」は真理に基づく認識を述べたものである。理性的に説明が可能な蓋然的な認識も、一つの「判断」と言えるのであろう。それ以外の憶測が単なる「意見」である。もっとも、当時は命題を構成するもろもろの言述の事実性を科学的に確認するすべがなかったため、哲学者はひたすら推論するほかにやり方がなかった。確実な真理の対象は科学的なものではなく、より数学的なものであった。これは数学的記法と命題関数というアイディアの導入によって記号論理学を大成し、アリストテレス論理学の乗り越えを決定づけたバートランド・ラッセルにしても同様で、経験的命題における個々の言明の事実性については、科学者に丸投げせざるを得なかった。ゆえに、そのような経験性(真偽を経験的に確認すること)とは無関係に、いかにしても真にしかなりえない命題、すなわちトートロジー(恒真命題、同語反復命題)と、いかにしても偽としかならない矛盾命題こそが論理的な命題ということになるのだが、ヴィトゲンシュタインがいうように、それ自身は何事も語りはしないものである。彼はその『論理哲学論考』の4・431で、次のように述べている。

 

命題は、それが語るところのものを示す。同語反復命題と矛盾命題とは、それが何事をも語らぬことを示す。
同語反復命題は、真・偽条件をもたない。それは無条件に真だからである。そして矛盾命題は、いかなる条件のもとでも真とはならない。
同語反復命題と矛盾命題とは、意味を欠いている。
(それは、反対方向に二本の矢をはなつ一点になぞらえられる。)
(たとえば、わたくしは、いま雨が降っているか、降っていないかのいずれかであることを知っていたとしても、天気について何かを知ることにはならない)。*5

 

天気のたとえを式であらわせば、P∨¬Pということになるが、これは「あるものであるか、または、そうでないかのいずれかである」ということを言っているにすぎないので、そのこと自体は無条件に真であろうけれど、かといって、そこから「そのうちのどちらか」という事実を引き出すことはできない。ゆえに、この命題が示すところの状況を現実に見出すことはできないのである。ヴィトゲンシュタインはこのことを指して「意味を欠く」といっている。続く4・462で、彼は言う。

 

同語反復命題と矛盾命題とは、実在の映像ではない。それは、いかなる可能な状況をも叙述しない。前者は可能な状況すべてをうけいれ、後者はすべてを拒否するゆえに。*6

 

われわれは完全情報のもとに真なる「判断」を下すことができるが、不完全情報のもとでは蓋然的な議論にとどまらざるを得ない。この「われわれが完全情報を握りえない」ということこそが、ヴィトゲンシュタインにとっては、世界の構造的な本質なのであって、それ以外に論理的な根拠といえるものは何もない。6・37において、彼は「ある事件が起こったからといって、それにともない別のある事件が起こらなければならぬ筋合いはない。必然性は論理的な必然性にかぎられる」*7と言っている。そこで注意されなくてはならないのは、たとえ自然法則といえども理性的に考えれば蓋然的なものにすぎない、ということである。その意味で、じつはヴィトゲンシュタインは、まだ〈神〉という哲学原理が機能していた古い時代の哲学の透徹性を高く評価しているのである。昔の人は〈神〉を必然の原理とし、今の人は〈自然法則〉を必然のものと考えるけれど、〈神〉は被造物とは異なり、世界のうちに対象として現れる偶有的なものではなかったから、その意味で、〈必然的なもの〉であった。論理そのものというのは、世界のうちにある対象ではないのである。論理とは、必然的にそうでしかありえないような関係を規定するシステムのことであって、実在する個々の存在者が「いかにあるか」ということよりも、それが「ある」ということにおける基盤としての〈存在〉にかかわっている。ゆえにかえって〈存在〉そのものに触れるというハイデガーじみた一面をもっている。天気が晴れであるかそうでないか、あるいは空間上のある点を二つの色が占めることはできないといった、そうしたことは必然であっても、実際の天気がどうであるとか、ある点を占めるのが現に何色であるかということに必然性はない。

ヴィトゲンシュタインにとって、明日もまた太陽が昇るなどということは一つの仮定にすぎない(6・36311)。なべて科学は経験的なものでなくてはならない。すなわち、現前する対象に対して適応されなくてはならぬものであるから、帰納的な方法から法則を組み立てるという手続きは、いささか胡乱である。この手続きは、少なくとも論理的な、つまりは必然的な根拠にもとづくものではないのである。明日のことは、明日になってからもう一度実験によって経験的に確かめるのが筋なのである。

その点、数学は純粋に論理的なものである。数学が対象とする概念が必ずしも現実に対応物をもたないことは明らかである。ゆえに、数学者に言わせれば、物理学者の論の運び方は時折〈非論理的〉であって、特に〈時間〉という考え方、あるいは〈確率〉という考え方にそれがあらわれているように感じられるようである。自然法則は論理的な意味で必然的なものではないのである。対して、スコラ学における〈神〉というのは、どこか数学的対象のようなものであって、それを実在の被造物、すなわち自然学の対象として扱うことはしなかった。ヴィトゲンシュタインに言わせれば、現代人は、自然法則を犯すべからざる必然のものと見なし、能事終われりとしているところで錯覚を起こしているというのである。対して、昔の世界観は、その解明の限界を明瞭に承認していたという(6・371)。この点は、宗教嫌いだったラッセルも、ある程度認めているところである。

ヨハネスの時代、論証や弁証に不可欠なのは、まず正しいラテン語の使用ということにあったのであろうが、フレーゲ以降は、まず自然言語に含まれる曖昧さを取り除くということから作業を始めなくてはならなかった。それによって、〈意味のある命題〉、〈意味を欠く命題〉、〈ナンセンスな命題〉という三つの区分が生まれることになるが、最後の〈ナンセンス〉は文法違反のことで、そもそも何かを語ることはできないような語の使用を指す。そのようなものにだまされる人はいないであろうから、問題は〈意味のある命題〉と〈意味を欠く命題〉の二つに絞られる。後者はトートロジーと矛盾命題であるから、これらが真偽の別をもたないことは明らかである。トートロジーは常に真、矛盾命題は常に偽であるから、このことは疑いようがない。その時代に横行した詐欺的な詭弁についてヨハネスは、「見せかけだけの知恵」「真実あるいは蓋然的なものに見せかけた〈意見〉」であると告発しているが、論理的なもの、すなわち必然的なものとしての〈真実〉と、蓋然的なものとしての〈科学的事実〉を除いたところにある〈意見〉というものは、私の思うところ、たしかに詐欺的ではあるけれど、人間の〈目的〉にかかわる何かを含んでいるように思われる。必然と蓋然の領域に含まれる〈判断〉は、論理的あるいは事実的なものであって、それ以外のなにものでもない。ヴィトゲンシュタインは、それ以外のすべてを論理空間の外側に追放し、哲学の対象から外してしまった。倫理あるいは審美などといった事柄がそれにあたる(6・42、6・421)。すでに述べたように、〈神〉もまた世界には顕れない(6・432)。

フレーゲは、有意味な命題を構成するために使用可能な名辞を「一意的存在前提を満たすもの」にかぎったから、あるかないかわからないものや、あったかも知れないが現在は間接的にしか存在の知られないものに言及する命題は、有意味なものとはいえない。当然、芸術の美というものも人それぞれの個性に任せて感受されるものであるから、フレーゲにあっては〈虚構〉として解釈された。ゆえに、美についての本質論などというものは存在しないのであるけれど(これこれの作品について人類の何%が美しいと感ずるかというような統計的な事実は提示しうるであろうけれど)、だからといって、その程度のことはどうということもない。けれど、これが地球温暖化問題ということになれば話は別で、少なくとも解決のために蓋然性の高い議論が要請されるところとなるであろう。トランプ氏やプーチン氏の主張する政治的立場が正しいのか、トゥーンベリ氏の提案する方法が正しいのか、地球が温暖化していること自体は事実であっても、どのような対策を取ることが、人類の幸福の総量を増加させることにつながるのか、そのような計算は容易ではない。CO2規制に果たしてどれだけの効果があるのか、あるいは規制によるメリットとデメリットはどうバランスするか、というような問題である。もちろん、南の島々に住んでいる人が水没の危険にあるのを拱手傍観するのはいかがなものかという感情は、人としては至極まっとうなものであるように思える。しかし、これも一つの〈意見〉である。似たような事例は身近にいくらでもあるけれど、効能の外部性を計算に入れるとほとんどすべての活動が成り立たなくなるため、われわれは計算を停止して、目先の目的をどう効果的に達成するかというところに専念せざるを得ない。何とも恐ろしい世界に私たちは住んでいるのである。そして、これらのことは〈意見〉で決めざるをえないのが、おそらくは実情なのだ。現実はそのようなものであるかもしれないが、大いに問題とすべきところである。

トゥーンベリ氏は「恥を知れ」と言った。まさしく、われわれは恥知らずである。しかし、これは典型的な〈意見〉の議論である。〈恥〉という倫理的な語彙は論理とはかかわらないからである。何かを犠牲にしてでも〈善〉を行うべきであるという主張は、なべて〈意見〉的なものであるということは理解しておくべきであろう。しかし、それがただちに誤りであるとか、行為として間違っているということはできない。ラッセルがいうように、〈判断〉可能なことどもはすべて理性的な事柄であるけれど、理性的であるということは〈目的〉に対していかに合理的な手段を講じうるかということを意味しており、理性そのものは〈目的〉にはかかわらないからである。人間の〈目的〉は、〈判断〉の中にではなく、〈意見〉のなかに存するのである。そしてそれは、多かれ少なかれ詐欺的なものとして存せざるをえないのである。

なお、本書の3巻でヨハネスは面白いことを言っている。人間が身体的な存在であるのは明白なことだが、人間が魂であることも真であると、ヨハネスは言う。彼は、「人間が魂であることは哲学者たちによってのみ受け入れられていることで、身体性に比べて自明のことではない」と断りを入れてから、「人間は魂である」という言明は、「人間は身体である」ということを否定しないと説明する。その理由は「否定は肯定よりも強いものだから」というものである*8。これは結局、人間が魂と身体から成っているという考えにもとづくのではあろうけれど、ある独立した命題において言及されないことについては、その命題において言及されたことによって拘束されないという原理をあらわしているようである。ヴィトゲンシュタインは『論考』の2・061で「事態は互いに独立している」*9、2・062で「ある事態の成立ないし不成立から、他の事態の成立ないし不成立を推論することはできない」*10と述べている。なるほど、これは日常言語のやり取りにおける誤解の一因を成している。たとえば、日頃「餅は嫌いだ」と言っている人が餅を食べてしまったとしよう。そこで「君は餅が嫌いだと言っていたじゃないか、どうして食べてしまったのだ」と非難することは果たして妥当なのだろうか。「餅が嫌いな人は餅を食べない」という推論はそこそこ蓋然的なものである。しかし、経験的に根拠があっても、論理的に根拠がない推論は早とちりのもとである。このことは「餅の嫌いな人は餅を食べないか?」(『命題論集』所収の第一命題、2017年、web)*11にすでに書いたことであるけれど、議論をする上で重要な問題を孕んでいる。

以上、ヨハネスにおける雄弁術の問題と、20世紀における論理実証主義の考え方について見てきたけれど、当時も今日のディベートと同じように、「否定の否定は肯定だから」ということで、自分が何度「否定」を使ったかの回数を数えるなどして相手を言い負かしていたようであるから(これは『メタロギコン』に書かれていたことかどうか、私にもちょっと覚束ない余談であるが)、私のように記憶の弱い者には到底不向きな分野としかいいようがない。ただ、ラッセルがいうように、本来、推論とはむずかしい作業なのであって、たいがいは誤った結論を導き出すので、学校では「あまり推論をしないように」と教える方がいいという話もあるくらいで、ジョルダン曲線定理の完全定式化プロジェクトに参加した中村八束博士に言わせると、「平面上に閉じられた曲線を描くと、曲線は平面を内と外に分割するという、直感的にわかるようなことを証明するのに20万行の式を費やした。論証とは本来、このように困難なものなのである」*12ということであるから、ものごとを軽々しく〈判断〉するなどということはできぬものだということを心得ておきたいものである。また、純粋な〈判断〉が成り立つ場面というのは、実際には少ないものであって、たとえ科学的に蓋然性の高い予測が示されていたとしても、そのことをどう評価するかということになると、およそ自明とは言えない、複雑な問題を生ずることが多くある。科学的に定められたとされる基準が往々にして守られないのも同じ理由による。われわれには科学的事実よりも重要な事情というものが何かしらあって、そのことについての問題が解決されることこそが、われわれが〈判断〉を下すための前提条件となっているのであろう。人間社会では、科学的予測を留保して、〈意見〉に従って行動することが暗黙裡に認められていることがあるけれど、それで何か問題が生じると、一転して科学的予測を無視して対策を怠ったことを咎められるという場面がまま見られる。そのような〈意見〉が許容される条件とは何か? それは人間活動を可能ならしめるための条件のある部分を担っているのであろうけれど、いちど人間活動が停止に追い込まれたところでは許容されないもののようである。それまで絶対視されていた当該の人間活動そのものの価値が問われることになるからである。ふだんは問題視されないことでも、問題の後に問題視されることどもというのはそうした性質をもっているように思われる。災害対策や原発問題などはそのようなものに含まれるのであろう。その意味では、いつ大地震が来るかもわからない日本の首都にオリンピックを呼ぼうなどというのは狂気の沙汰のようでもあるけれど、いかに考えるべきであろうか。この疑いを免除する条件とは何か、ということである。一考されたい。

 

所蔵館

県立長野図書館(132・チュ・8)

 

中世思想原典集成〈8〉シャルトル学派

中世思想原典集成〈8〉シャルトル学派

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2002/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

関連項目

コンシュのギヨーム『プラトン・ティマイオス逐語註釈』

 

 

解説(甚野尚志)

 

p.582~584 著者について

ソールズベリーのヨハネス(Johannes Saresberiensis 1115/20頃~80)は、ソールズベリーの郊外にある古邑オールド=セイラムに生まれた。1136年、若くしてパリに行き、12年間、勉学。ちょうどシャルトルに代わってパリが新しい学問の中心地になっていく頃だった。まずサント=ジュヌヴィエーヴの丘へ行き、アベラルドゥス(Prtrus Abaelardus 1079~1142)の講義を聴く。コンシュのギヨームのもとで学んだ三年間はシャルトルにいたと思われるが、ギヨームがシテ島司教座聖堂附属学校で講義したものを聴いたのではないかというサザーンの所説もある。この遊学時代にクレルヴォ―のベルナール(Beruardus Claraevallensis 1090~1153)と出会い、カンタベリー大司教テオバルドゥスへの推薦状をもらい、カンタベリー大司教座に奉職。大司教の代理として教皇庁に滞在、ローマ法の詳細な知識を得たと思われる。1150年代後半にイングランド王ヘンリー二世の不興を買って大司教座の職務から一時離れて著述に専念。1159年に政治社会論『ポリクラティクス』と学芸論『メタロギコン』を書き上げる。その後、カンタベリー大司教トマス・ベケット(Thomas Becket; Thomas Cantuariensis 1120~70頃)がヘンリー二世が聖職者裁判特権をめぐって争いになると、ヨハネスはベケットに先立ってフランスに移り、ランスのサン=レミ修道院に滞在しながら、ベケットを擁護する活動を行った。ベケットはその著作によって12世紀を代表する著作家と見なされているが、同時代のアンセルムスやアベラルドゥスに見られるような思想の革新性や独創性にあるのではない。ヨハネスの重要性は、12世紀の知識人が到達した知識の段階と、この時代の特徴的な精神構造が、鏡のように映し出されている点にある。

 

p.584~585 著作の特徴

『メタロギコン』と『ポリクラティクス』に共通する特徴は、そこに、十二世紀中葉の西欧の知識人が手にできた限りでの、多くの古典からの雑多な引用と、きわめて体系性のない議論が見出されることである。このような思想の特徴については、これまでの研究でもしばしば指摘されてきた。たとえばホイジンガ(Johan Huizing 一八七二-一九四五年)は、ヨハネスを「前ゴシック期の精神」を代表する人物として好意的に描いたが、彼でさえもその論考の中で、ヨハネスによる雑多で過剰な古典の引用については、「古代の先達たちへの敬意を今少し少なくし、より多くを彼自身および彼の時代についてわれわれのために語ってくれたらと思います。彼が自己の姿をコルフィニキウスとかグナトーとかあるいはまたトラソーとかタイスなどの古代の衣裳で変装させたりしなければよかったのです」と批判的に語っている。また『前期書簡集』を編纂したブルックも、ヨハネスの著作がさまざまな古今の雑多な思想を集成してはいても、まったく体系性がないことを指摘し、「ヨハネスには、一つの本を書く能力が欠けている」とまで言う。

だが一方で、M・ケルナー(M. Kerner)やP・フォン・モース(P. von Moos)らによる最近の研究は、こうした混沌とも言えるヨハネスの思想の独自性を見出そうとしている。(…)また、彼の著作における過剰な古典引用については、ヨハネスが独自の論証の作法として、古典の例話を論拠として論証を行う方法をとっていたがゆえに、引用が過多になったという説明がなされ、それもまたこの時代に特有の議論の方法であったことが言われている。(584~585頁)

 

p.591 ベルナルドゥスの教育方法を評価

『メタロギコン』では、ベルナルドゥスの教育方法がくりかえし称讃される。ヨハネスがパリとシャルトルで遊学していた時期には、ベルナルドゥスはすでに歿しており、直接に師事することはなかったので*13、コンシュのギヨームからベルナルドゥスの教育方法について詳しく聞いたのだろう。また、教師が講義を行う際の注意点として次のように言う。

学生には、互いに関係のないものや、まだ理解しえないものを過度に背負わせてはならない。まだ講義では、細かいことに入りすぎたり、あまりに多くの権威的著作を引用するのもよくない。それによって、教師の学識は示されようが、その聞き手は、素材の多さゆえに理解できないからである。講義はできるだけ単純であるべきだ、と(第三巻第一章)。(591頁)

 

p.593 著作の意図

いずれにせよ、ヨハネスが『メタロギコン』を書いた意図には、単にアリストテレスの論理学に対する称讃の念のみならず、知的な専門主義と拝金主義の横行するようになった十二世紀中葉の時代に、いかにして人間が、信仰や倫理を見失わずに、ラテン語能力と理性的な思考法を身につけることができるかという、シャルトル学派的な人文主義の教育理念への強い憧憬があったと言える。(593頁)


本文

 

 

p.600 ヨハネスは多忙だった

(…)友人たちは、たとえ私が言葉の寄せ集めしかできなくても、この著作を書くようにと勧めてくれた。私には、さまざまな意見の細かな分析を行ったり、文体を磨いたりする暇も能力もなかった。私の日常的な業務が、食べたり寝たりする以外の私の全時間を奪ったからである。(600頁)

 

p.600 なぜ雑多な論点を取り入れたか

私は本来、愚鈍な人間で、古代人の言うことの機微を正確に理解してはいない。また、私の記憶力も、かつて習ったことを長く憶えているかどうか疑わしい。私の文体は洗練を欠いている。読者の気晴らしのために書かれたこの四巻に分かれた論考は、『メタロギコン〔論理学のために〕』と名づけられる。なぜなら、私はこの中で、論理学を擁護することを企てたからだ。他の作家たちの書き方に倣い、私は、各読者が自由に、自身の見方によって取捨選択できるように、雑多な論点をそこに入れた。(600頁)

 

p.600~601 同時代人の記録

私は、ガニュメデス〔ギリシア神話で、鷲に変身したゼウスによって天に連れていかれた狩人〕が自身の本意でない場所にいったごとく、話を本来の話題から逸らせたり、昼夜を問わず強い葡萄酒を飲んで酔っ払ったかのように話をするよりも、軽い気持で話すことを好む。私は、現代の著作家を引用することを恥とは感じなかった。多くの事柄で私は、古代人の意見よりも現代人の意見を躊躇なく好む。私は、後世の者がわれわれの同時代人を尊敬するだろうことを確信する。私は、われわれの時代の多くの者がもつ、すばらしい才能、学習での勤勉さ、驚くべき記憶力、想像力溢れる精神、優れた雄弁術、言葉の知識に対して、深い敬意を払ってきた。(600~601頁)


第一巻

 

p.620 雄弁術と論理学

第九章「論理学を攻撃する者は、人類から雄弁を奪おうとする者であること」より。勉学することなしに、誰が雄弁に話せるようになれるだろうか。雄弁に話す技術のあるものは自然に与えられるが、われわれが必要とする雄弁術は自然が与えてくれるものではなく、すべての民族のあいだで同一のものではないので、自然のみに期待するのは厚かましい。雄弁のための学芸を無用のものとし、論理学を否定する者によると、論理学は多くの人々の自然の才能を無駄にする、饒舌な者のいい加減な技芸であり、哲学研究への道を妨げるものとする。

 

p.620~621 論理学の定義

第一〇章「「論理学」が意味するもの。そしてわれわれは、いかに有益なすべての学芸を身につけるよう努力すべきか」より。論理学とは何か。

論理学とは、最も広い意味では、「言葉の表現と推論の学」である。また、しばしば論理学という言葉は、より限定された意味で、つまりは推論の規則に限定されて使われる。だが、論理学が推論の方法のみを教えるものであろうが、言葉に関わるすべての規則を包括するものであろうが、それが無益だと主張する者は誤っている。これらのどちらも必要なことは、疑う余地がない。

論理学の二重の意味は、そのギリシア語の語源に由来する。なぜなら、ギリシア語で「ロゴス」は、「言葉」と「理性」の両方を意味するからである。ここでは、論理学に、その最も広い意味、つまり言葉に関するすべての教えを含むものとしての意味を与えよう。この広い意味で、論理学全体が、非常に有用であり、必要不可欠なものであることは明らかである。しばしば主張されてきたように――そして誰もそれを否定しなかったように――、言葉の使い方の教育は、それが簡潔であればあるほど、それだけ有益で信頼できるものとなろう。なぜなら、何かを行うとき、容易にすばやくできる方法があるのに、苦労して長い時間を費やすのは、愚かなことだからだ。それは、時間の価値を知らない軽率な人々がよく犯す誤りである。(620~621頁)

 

p.622 理性とは何か

第一一章「学芸の本性。内在的な能力のさまざまな種類。自然の才能は、学芸により陶冶され、発展させられるべきこと」より。

学芸とは、われわれが自然の能力によりものごとをなすとき、われわれの能力を最も近道で働かすために、理性が作った体系である。理性は、不可能なことを可能にしたり、不可能なことができると約束したりしない。だが、理性は、可能なことを行う際、自然に従ったままでは遠回りする道に代えて、簡潔で直接的な方法を与えてくれる。それは、いわば困難なことを成し遂げるための力となる。ゆえにギリシア人は、理性を「方法」(methodon)と呼んだ。つまりそれは、自然の冗漫さを避け、自然の曲がりくねった道を真直ぐにする卓抜な方法で、それによりわれわれは、自身の行為を正しくかつ容易に成し遂げることができる。(622頁)

 

p.623 理性は限定されていないものに輪郭を与える

第一一章「学芸の本性。内在的な能力のさまざまな種類。自然の才能は、学芸により陶冶され、発展させられるべきこと」より。

記憶とはいわば精神の宝庫である。つまり、認知した事物を確実に保管できる場所である。理性とは、感覚や知性で感じた事物を精査し探求する魂の力である。理性は、何がよりよい事物であるかを判断し、類似点や相違点を精査し、輪郭を与えられていない事物に輪郭を与える学芸を作り出す。理性は限定を受けていない種に輪郭を与え、その結果、すべての種は類をもつようになる。理性は、限定を受けていない数すべてを偶数か奇数に分類する。(623頁)

 

p.623~624 自然の能力は使用することで育まれるが、酷使すると鈍くなる

第一一章「学芸の本性。内在的な能力のさまざまな種類。自然の才能は、学芸により陶冶され、発展させられるべきこと」より。

勉学は、休養を取りながら、適度になされるべきだ。そうすれば、人の自然の能力は、休養により再び元気を取り戻し、より力強いものとなろう。ある賢人によれば、自然に由来する内在的な能力は、使うことで育まれ、節度ある訓練で鋭敏なものとなる。だがそれは、酷使すれば、鈍くなる。もし自然の能力が適度に訓練され使われれば、人は、諸学芸を習得しうるのみでなく、不可能に思われることを成し遂げる近道を見出すこともでき、またそれによりわれわれは、必要かつ有益なすべてを学び、かつ教えることができるようになる。(623~624頁)


第二巻

 

p.658 論理学は単に推論の学ではなかった

第五章「弁証論の諸部分と論理学者たちの目的について」より。

古典の著作家たちは、論理学を発想の学と判断の学とに分け、その全体が分類と定義と推論に関わると教えた。なぜなら、論理学は発想と判断を扱うのみならず、分類、定義、議論にも深く関与するからである。その結果それにより、職人のように優れた教師が生まれる。(658頁)

 

p.658~659 論理学を欠いては、あらゆる学問は結論を導けない

第五章「弁証論の諸部分と論理学者たちの目的について」より。哲学のなかで論理学は特に二つの特権をもつ。すなわち論理学は第一のものであるという名誉であり、哲学全体にわたる効果的な道具としての役割である。自然哲学者も倫理学者も、論理学者から論証の方法を借りないと、自身の主張を先に進ませることができず、そうでなくて彼らが成功したとすれば、それは、知識によるのではなく偶然による。論理学は「理性的」なものであるという言い方からわかるように、〔論理学を欠いて〕理性を欠く者には、哲学でいかなる進歩もありえない。というのは、哲学の場合、自然の能力として、いかに鋭い理性をもっている人でも、目標を実現するための理性的体系をもっていなければ、多くの障害に出会うだろうから。

 

p.659 理性的体系と学問的な方法

第五章「弁証論の諸部分と論理学者たちの目的について」より。

この理性的体系は学問的な方法であり、目的を実現するための力を生み出し促進させる、簡明な理性的方法である。論理学の諸部分としてすでに言及した諸学科もこの必要に答えたものだ。論証的な論理学も蓋然的な論理学も、また詭弁的な論理学もすべて、発想と判断を含んでいる。それらは対象や目的、あるいはその手続きが異なっていても共通に同じ理性的方法を用いて、区別したり定義したり結論を引き出したりする。(659頁)

 

p.659~660 詭弁は論理や弁証の見かけを応用する

第五章「弁証論の諸部分と論理学者たちの目的について」より。

ここで言う意見と判断の相違は、意見がしばしば誤り、判断が常に真理の側に立つことにある――だがそれも、言葉を精確に使う限りでそう言えるのだが――。というのは、実際には、ある言葉を使うべきところで、その代わりに他の言葉を使うことがよくあるからである。だから、詭弁でさえそうした仕方で理性的なものとなり、それが詐欺的であっても、哲学の諸分肢のなかで自分のための場所を要求する。なぜなら詭弁は、自分のための理性的方法を作り、あるときは論証的な論理学であるかのように見せかけ、あるときには弁証論であると偽る。自分が何であるかをいかなる場合にも告白せず、常に他のものの姿をとる。事実それは見せかけだけの知恵である。それはしばしば真実でも、蓋然的に真なるものでもなく、ただ見せかけだけそのどちらかのように見える意見を生み出す。ときにそれは、真なる議論あるいは蓋然的な議論を使うこともある。それは狡猾な騙し手であり、しばしば細かい質問や他のずる賢い方法によって、明白な事実から疑わしいことや虚偽へと人を導いていく。(659~660頁)

 

p.660 詭弁は無益でもないこと。論理学を知らない人は真理を愛さず、徳も身につかないこと

第五章「弁証論の諸部分と論理学者たちの目的について」より。

論理学を用いる哲学者は真理を明らかにすることに努め、弁証家は蓋然性で満足し、意見だけを確証しようとする。詭弁家は、蓋然性の見かけさえあれば、それで十分満足する。しかしだからといって、詭弁の知識が無益であると簡単には言えない。事実それは精神の大きな訓練となるし、またそれは、詭弁を知らない無知な者を最もたやすく害することができる。(…)結局、弁証的な論理学と蓋然的な論理学を用いない人は、真理を愛することはないし、蓋然的なものを認識しようともしないのである。また、真理を知ることなくして誰も徳を身につけられず、蓋然的なものを軽蔑する者が非難されるべきなのは明らかである。(660頁)

 

第三巻

 

〔序〕

 

p.709 業務多忙で歳をとったので、論述には期待しないでほしい

ヨハネス曰く、自分はイングランドガリアで業務に携わり、多忙であったので、論述には期待しないでほしい。次の道徳詩が私に当てはまる、という。

時の流れはすべてを奪い去る。心さえも。
私は思い出す。子供の頃の私が、日がな一日、歌って過ごしていたことを。
だが、いまや、私はたくさんの歌を忘れてしまった。
声〔旋律〕さえも、すでにこのメリスからは逃げ去ってしまった。*14

だから私に、若さのもつ鋭敏さや活発な才能や正確な記憶を期待するのは正当とは言えないであろう。忙しい仕事に没頭しながら、私は歳をとり、肉体の弱さや精神の怠慢、そして罪の火から帰結する邪悪な心が妨げなければ、人が皆、歳をとると関心をもつようになる、より重大なことに関心をもつようになった。実際、徳は、未熟な若さと相容れないように、年とともに衰えたものを見捨てることはない。(709頁)

 

p.712 書物は理解が容易になるように講義されるべき

第一章「ポリフュリオス〔の『イサゴーゲー』〕およびその他の書物は、いかに講義されるべきか」より。

私の考えを述べれば、すべての書物は、書かれている内容ができるだけ容易に理解されるように講義されねばならない。難解さを持ち込もうとしてはならず、むしろいたるところで〔理解の〕容易さが生み出されねばならない。私は、パレの逍遥学派の徒〔アベラルドゥス〕がこの習慣に従っていたことを思い出す。(712頁)

 

p.713~714 講義のあり方について

第一章「ポリフュリオス〔の『イサゴーゲー』〕およびその他の書物は、いかに講義されるべきか」より。

真理は簡潔さの友人である。正当に自分のものではないものを奪おうとする者はしばしば、正しく自分のものであるものさえ失ってしまう。堅実に講義を行う者は、他の書物や神の啓示によって真理が明白かつ確実に知られるまでは、作品の表面が示していること〔字義通りの意味〕を神聖なものとして尊重する。なぜなら、ある著作家が明確に主張することを他の著作家が同じくらいの明確さで主張しないということがあるからだ。だが、よき教師は時と学生に合わせて、その教育を柔軟に行う。(713~714頁)

 

p.714~715 否定は肯定よりも強い

第一章「ポリフュリオス〔の『イサゴーゲー』〕およびその他の書物は、いかに講義されるべきか」より。人間は魂と身体から成るが、それは魂であることより身体であることの度合いのほうが大きいということではなく、むしろある意味では小さいといえる。だが、一般的な語法では、人間は「身体」という名で示される。というのも、こちらの部分のほうが、感覚にはより明白で、疑う余地がないからだ。だが人間が魂であるということも同様に真。だが、このことは哲学者たちによってのみ受け入れられている。だが、このことから人間が非身体的なものであるという結論は生じない。否定は肯定よりも強いものだからだ(「人間は魂である」ということが「人間は肉体をもたない」ということまでは意味しないということ)。

 

p.715 いろいろ読めば理解のむずかしいところもわかるから問題ない

第一章「ポリフュリオス〔の『イサゴーゲー』〕およびその他の書物は、いかに講義されるべきか」より。

もし、ポリフュリオスに限らずどんな書物においてであれ、理解が困難な部分に遭遇しても、講義を行う者も聴講する者も、ただちに進むのを止めてはならず、むしろ先に進むべきだ。なぜなら、著述家たちは互いに互いを説明しており、また一つの著作は別の著作を相互に説明しあっているからである。したがって、多くを読む者にとっては、見逃されるものは皆無か、あるいはきわめて少ない。(715頁)

*1:フリードリヒ・エーデルマン『チェリビダッケの音楽と素顔 元ミュンヘンフィルハーモニー首席ファゴット奏者の回想録』、中村行宏・石原良也訳、アルファベータ、2009年、171頁。

*2:カトリック中央協議会教皇ベネディクト十六世の205回目の一般謁見演説 ソールズベリーのヨハネス』、2009年12月16日、https://www.cbcj.catholic.jp/2009/12/16/7156/、web。

*3:ソールズベリーのヨハネス「メタロギコン」(上智大学中世思想研究所 編訳・監修『中世思想原典集成8 シャルトル学派』所収)、甚野尚志・中澤務・F・ペレス訳、平凡社、2002年、620頁。

*4:ヨハネス、同書、659~660頁。

*5:論理哲学論考』4・461。L. ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』、藤本隆志・坂井秀寿訳、法政大学出版局、1968年、122頁。

*6:ヴィトゲンシュタイン、同書、122頁。

*7:ヴィトゲンシュタイン、同書、193頁。

*8:ヨハネス、前掲書、714~715頁。

*9:ヴィトゲンシュタイン、前掲書、67頁。

*10:ヴィトゲンシュタイン、同書、68頁。

*11:服部洋介「餅の嫌いな人は餅を食べないか?」(『命題論集』所収)、2017年、web(http://dppost.blog.fc2.com/blog-entry-1.html)。

*12:中村博士との対話より。おおむねいつの対話であったか挙げることも不可能ではないけれど、今さら面倒なのでお許しいただきたい。会えばそんな話ばかりしているので、何回もしたような内容の話である。同内容の記事は、かつて信州大学のwebページにも出ていたけれど、今はネットニュースからの引用が、数学系の掲示板に散見される程度である。オリジナル不在のいま、それはそれで貴重な〈痕跡〉というほかない。

*13:先には、ベルナルドゥスの知遇を得てカンタベリーに奉職したとあるので、このあたりのことはよくわからない。

*14:訳註51〔Vergilius, Eclogae 9, 51-54.〕