南山剳記

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雑兵たちの戦場(藤木 久志)

雑兵たちの戦場

藤木久志『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日選書777)、朝日新聞社、2005年

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【服部 洋介・撰】

 

所蔵館
県立長野図書館

 

 

 

剳記『雑兵たちの戦場』を読んでみた

 
1. 著者の藤木先生と中世の〈自力〉

 本書は、去年亡くなった戦国民衆史の泰斗・藤木久志先生の一般向け教養書で、私が現役の学生だった頃に出版されたもの。そう考えると、当時にしてこの内容はなかなかスゴイ。この人の略歴はWikipediaに詳しいが、新潟の山村に生まれ、新潟大学を経て、33歳のとき、東北大の博士課程を修了、昔のこととて、博士をもらえたのは、23年後、1986年のことだった。『豊臣平和令と戦国社会』で東北大学から文学博士を頂戴した。昔の文学博士ってのは、医学博士と違って、なかなか取らせてくれなかった。ナンかすげえ長い本を学術出版社から上梓してなきゃアカンとか、いろいろめんどくさかったから、博士もとらずに教授なんてのはザラにいた。そこんとこは、戦後しばらく、文系・理系を問わずにそういう感じで、当時の先生なんてのは自由なもんだったが、今日日ときたら、ったく、アカポス減らしてポスドクばっか増やしやがって、アメリカのマネして文科省もまったく権威主義に陥ったもんだと嘆く人もいる。

 それはさておき、この先生、アカポスにつくまではゴーストライターで糊口をしのいでいたって話で、「現代という戦国時代を生き残るには、〈自力〉で何でもやらなアカン」というようなことを仰っていたらしい。もっとも、この場合の〈自力〉というのは、近代の公刑主義によらない中世的な自立社会における〈自力〉にかけたものであって、現代法の観点からすると、まったくのアウトローである。昔は(もちろん、何かしらの制限やルールはあったけれども)、武士は言うに及ばず、民衆も自前の武力・財力をもって実力主義で紛争解決にあたったから、戦国大名は分国法でこれを抑制するようになり、天下統一がなってからは、秀吉の惣無事令によって、いわゆる故戦防戦(私戦)ということは禁止され、少なくとも軍事的な意味での自力救済というものは否定されることとなった。もちろん、こんにちでも私戦は禁止であるから、ISに加勢しようとした北大の学生と、それを仲介しようとしたイスラム法学者のハサン中田考といふ先生が〈私戦予備〉および〈私戦陰謀〉の容疑で公安にとッ捕まって書類送検されたのは、チョットめずらしい事件ではあった。

 

2. 戦国史における民衆の参加

 さて、自力救済を禁じた惣無事令、一見すると良いことづくめのようではあるけれど、このことによって戦場で稼ぎを得ていた人たちは雇用を失い、掠奪も狼藉も禁止ということになって、まったく立ち行かなくなってしまった。本書を読み進めていくと、江戸時代の浪人問題の発端となった「徳川の平和」の意義についても考えさせられる点が多々出てくる。もっとも、引き続き雇用された武士たちにしても、江戸も中期にさしかかると、商人の台頭についていけなくなっちまったせいだから、浪人よろしく傘張りの内職に追われることになるのだけれど、そもそもなんで大名が取り立てた年貢米を売ってただけの商人が、いつしか経済の実権を握り、上方あたりで「武士の千石は60貫の身代、われは家屋敷売買の代物、200貫目の分限、位も職もすぐれたり」(『武道張合大尽』)なんどといって武士の窮乏ということが甚だしくなったのか、平和に伴う問題は、そんなところへもつながっていくから奇妙なものである。本書の射程はそこに及ぶものではないけれど、その前段として、桃山時代に始まる浪人問題の構造を、主家を失った士分にではなく、浪人の大部分を占める武家奉公人(雑兵)に焦点をあてて解明しようとした点は、こんにちなお高く評価されるものである。ともすると、武士の活動ばかりが取沙汰されてきた中世の戦争史に、民衆の参加を認める視点は大変に興味深いもので、今日日、戦国ゲームの幕間に雑兵連中の濫妨狼藉のエピソードが挿入されるのは、まったくもってこの先生の功績である。ゲームの中でどこの大名を滅ぼして領国を拡大したとか、ついでに戦国武将の名前をいくつ覚えたとか、そんなことに夢中になっているよりも、よっぽどタメになる。まったく、われわれの祖先というのは、ムチャクチャなことをして〈自力〉の時代を生き延びてきたわけで、日本にかぎったこっちゃないにしても、根深い問題というほかない。

 

3. 〈雑兵〉とは何か

 そうしたわけで、本書は、先に取り上げた『戦国の軍隊』の後日譚といってもよい内容を含んでいる。戦国の軍隊の9割は下馬して従軍する有象無象の連中で、いわゆる足軽、雑兵といった手合いであった。本書は『雑兵たちの戦場』と題されているけれど、そもそも〈雑兵〉とは何か、ということについては諸説あって、今日日のWikipediaあたりは「戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵」(臨時雇用の傭兵)という簡単な定義で済ませており、対する〈足軽〉は「正式に登録された下級武士」であり、雑兵とは区別されている(Wikipedia足軽」の項)*1。一方の藤木氏は、次のように述べている。

 

 雑兵とは、ふつう「身分の低い兵卒」をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは次の三種類の人々からなっていた。①その武士に奉公して、悴者とか若党・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う「侍」。②その下で、中間・小者・あらしこなどと呼ばれる、戦場で主人を補けて馬を引き、槍を持つ「下人」。③夫・夫丸などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」たちである。

 ①の若党や足軽は戦うことが許された戦闘要員であり、②の中間や小者や③の人夫は、戦闘から排除されるのが建前(侍と下人の差)であったが、激戦の現場でそのような区別が通用したわけではない。いま私が雑兵と呼んで光を当てて見たいのは、これらの若党や小者や人夫たち、それにまだ得体の知れない戦場の商人・山賊・海賊たちのことである。*2

 

 というわけで、この定義でいくと、かろうじて武士のハシクレらしい足軽から、百姓以上武士未満の下人、輜重輸送などに駆り出された百姓まで、すべて括って〈雑兵〉ということになる。それに加えて、ここでは、得体の知れない〈商人〉〈山賊〉〈海賊〉などが〈雑兵〉として想定されている。Wikipedia「傭兵」の項には次のようにある。

 

中世以後の武士は土地との繋がりが密接だったほか、しばしば長期の平和で戦争が途絶えることがあったため、傭兵的要素は次第に失われていく事になるが、規模は小さかったものの南北朝時代には海賊衆と言われる水軍勢力や悪党・野伏・野武士と呼ばれる半農の武装集団や雑兵(広義的な足軽。中には、戦は二の次にして、乱妨取りばかり行うケースが多く存在した。)などが比較的ポピュラーであったほか、雑賀・根来などの鉄砲、伊賀・甲賀の忍術といった特殊技能集団が傭兵的に雇われた。応仁の乱には骨皮道賢に代表される京中悪党と呼ばれる集団は図屏風にも描かれている。*3

 

 本書のいう〈雑兵〉は、上に述べられたものの大部分を包括するものと見てよさそうだが、なにしろ武士のような者もいれは、そうでないような者もおり、明らかに百姓というものも含まれているから、現代の感覚でイメージするのはむずかしい。なお、いわゆる〈武家奉公人〉というのは、藤木氏の分類する②の下人ということでよいかと思われる。時代によって奉公人という言葉の指すところの範囲は、いささか異なってくるので、その点、いささか注意を要するけれど、本書を読む上では、「武家奉公人=下人」で大過ないように思う。

 

4. 秀吉の惣無事令で浪人問題が発生した

 さて、秀吉の平和令によって国内の戦場が閉鎖されると、主家を失った武士もさることながら、足軽連中や、戦場で武士を助けて働いていた大量の武家奉公人までもが失業、軍事ケインズ路線の修正で、雇用崩壊が起きてしまったというのが、浪人問題の発端である。つまり、軍事行動による資本ストックの大量フローが、武家奉公人の雇用を可能にしたものであって、これが戦国時代の経済成長の一面を支えていたのである。藤木氏は、これを「ベトナム後」に例えている。このあたりの事情について、Wikipedia「傭兵」の項は、次のように書いている。

 

近世になると、臨時雇い兵の雑兵は、足軽が大名に「常勤」による同心の身分として雇われることが多かったのと比較すると、不利な部分が多い下の中間、下人と呼ばれる身分は武家奉公人として必要時だけ雇われる「非正規雇用」の身分となることが多かった。*4

 

 国内の戦場が閉鎖されると、〈足軽〉は正規雇用の下級武士である〈同心〉に、〈雑兵〉は〈中間・下人〉など非正規雇用の〈武家奉公人〉になることが多かった、というようなことであるらしい。本書の内容は、おおむね大坂の陣までを射程とするものであるから、江戸時代のことは戦国のオマケみたいなものだけれど、ひとまず、藤木氏の言う①の足軽から③の夫丸まで、ザックリ〈雑兵〉というつもりでお読みいただけばよろしいかと思う。もっとも、完全に百姓身分の社会的負担とされていた③と、畑を耕さない①と②の区別ということは、のちのち問題になってくるので、注意を要するところである。

 さて、戦場の閉鎖で失業した雑兵のうち、③の夫丸は、もともとマトモな百姓であったから、そもそも嫌な労役から解放されて、農業に専念すればよいという話にもなった(もっとも、江戸時代には、年貢より重いといわれた助郷役が待っていたけれど)。問題は①の足軽と②の下人(武家奉公人)である。少なくとも②の下人については、もとよりマトモに田畑を耕しても食えない離村農民たちが多かったと見られるから、今度は金銀山や都市の普請場へと流入、そこで日雇い仕事に従事することになる。しかし、労働環境は劣悪、もともと戦場で掠奪をして稼ぎにしていた雑兵たちが、戦争気分のまま平和な街角でカッパライを働かれても困るということで、秀吉も治安の維持に苦心したらしい。この当時にあらわれたのが、いわゆる〈かぶき者〉だが、江戸の初めにとッ捕まって処刑された大鳥逸平なんどというのは、有名な一人である。たびたびのWikipediaで恐縮だが、「かぶき者」の項をサクッとググれば、こんなことが書いてある。

 

かぶき者になるのは、若党、中間、小者といった武家奉公人が多かった。彼らは武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定だった。彼らの多くは合戦の際には足軽や人足として働きつつ、機をみて略奪行為に励み、自由で暴力的な生活を謳歌していたが、戦乱の時代が終わるとともにその居場所を狭められていった。そうした時代の移り変わりがもたらす閉塞感が、彼らを反社会的で刹那的な生き方に駆り立てたという側面があった。*5

 

 ここでは「武家奉公人」の範囲を①の足軽・若党から②の下人までと見ているが、ザックリと藤木氏のいう「雑兵」の中核をなす人たちであろう。こうしたあぶれ雑兵の問題は、為政者を悩ませていたけれど、藤木氏は、このような雑兵像に一種の魅力を覚えたもののようである。このあたり、われわれ世代が若い頃に暴走族漫画にハマりまくったのに近いものがあって、この年になって族漫画など読んでみると、「これって雑兵だよなあ」と思うところが多々ある。族といっても幹部連になると、いささか武士臭いところも出てくる。名乗りを上げて一騎討(つーか、タイマン)なんてところは、よく似ておる。一方、下級構成員は雑兵丸出しで、調子こいてチームの名前を出してパンピーを威嚇し、暴力をほしいままにして暴れまわるけれど、いざ強敵相手の合戦になると「こんなチームやめてやる」と逃げ出してしまう場面が戯画的に描かれるわけである。雑兵に貸し出された御貸具足なんてのは、大名の家紋つきで、いわば、チームのネームを刺繍した族の特攻服だった。そんなわけで、歴史に名を残すほどの〈かぶき者〉ともなると、そこらの雑兵というよりは、士分ということになるらしく、先に出た大鳥逸平なんどというのは、歴とした武士身分だと主要していた。

 

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見よ、この正々堂々の名乗り。藤沢とおる先生『湘南純愛組!』⑰巻、147話「男たちの運命」(講談社、1994年)より。

 

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こちらの植草くんも正々堂々の一騎討である。2秒でやられはしたが、武士よのう。前掲書、第152話「FRIENDS AND DREAMS」より。

 

 ところで、こうした血気盛んでヤンチャなのを暴力装置として組織しようということは、戦後しばらくまでの日本ではよくみられたことで、戊辰戦争のときには尾張藩博徒を草莽隊として組織して東上させている。三州博徒の親分・雲風の亀吉なんてのは有名なところで、「士族にしてやる」という甘言に乗せられて、多くの勤王博徒が集まった。むろん、約束は守られなかったので、アタマにきた博徒の中には、お上に反抗して自由民権運動に走っちまッた奴もいた。そうしたことで、明治の博徒といわれるものの中には、ザックリと民権活動家も含まれていたようで、この手の運動が盛んだった群馬・長野・山梨あたりに最も多くの博徒がいたという報告が残っている。じっさい、官のやり方に反撥する任侠の親分が民権運動家を支えていたようなところもあって、板垣退助などもずいぶんとこの筋の人たちの世話になっていた。民権運動が一段落すると、博徒は次の稼ぎを求めて変質し、日清戦争のときには、博徒の親分が朝鮮への従軍を志願するなど、次第に軍部との関係を深めていくことになった。その後も大陸侵攻の動きに便乗して、港湾荷役などの仕事を得ていったという次第である。大陸浪人の起源にも、民権運動の挫折という背景があったけれど、世の中が変わると、どうしてもあぶれてしまう人が出てくるらしい。しかし、こうした人も使いようということで、政党政治が始まってからも、その時々の政権によって博徒たちが動員され、反共や社会運動つぶしに利用された。戦後の愚連隊やヤクザなんてのもそうしたもので、世の中が平和になると、後ろ暗い連中はポイ捨てである。暴走族の起源にも反共右翼らしきものの影がちらつくけれど、こちらはハッキリしない。むしろ、暴走族から右翼への逆路線のほうが明確に知られうるもののようで、族から右翼に改組した国防青年隊が、代表的な事例であろう。昭和50年(1975)ころから、暴走族に対する右翼からのリクルートということが本格化したもののようである。ともあれ、公の暴力装置である正規軍に付属して働いた雑兵稼業の人たちというのは、平和になると問題視され、一部が〈かぶき者〉化して世間を騒がせるということが、後を絶たなかったのであるけれど、そのような人たちの生き方やファッションが一種のカルチャーとなって民衆を惹きつけたのも、事実のようである。

 

5. 朝鮮出兵兵農分離現象

 さて、話は桃山時代に戻るけれど、惣無事令が出たのも束の間、今度は秀吉の朝鮮出兵が始まり、良質の奉公人を確保することと、農村から入る年貢と夫役の安定した取り立てということを目的として、一連の身分法令や人返令、人掃令などが出されることになる。失業した武家奉公人の帰農を促し、農村から都市への人口移動を規制する一方、大名が確保した奉公人の統制ということも強化されるわけだが、このあたりのことは当時まだ論争の渦中にあったことで、こんにちでは、もう少し研究が進んでいるようである。いずれにしても、時の政権としては、年貢と夫役の確保、戦場で武士を助ける奉公人の確保という二つの課題を同時に解決しなくてはならなかったのであって、前者をマトモな百姓の仕事に割り当てるプロセスのなかで、現象的に兵農分離が進み、江戸時代の農本主義的な基盤が整う前駆をなしたのであろうと見る人もいる。

 ところで、チャンとした武家奉公人の確保というのも、むずかしいことであったらしい。すでに『戦国の軍隊』の剳記*6で見たように、奉公人たちは朝鮮の戦場でも集団脱走をくりかえしていた。もともと所領を安堵された武士でもないので、主を替えたり、逃げ出したりと、戦国時代からトラブルの連続であったらしい。しかし、こうした人たちがいないと、武士たちも戦場で働くことができなかったので、人選を厳格にするように通達が出されている。当時の雑兵連中ってのは困ったもので、主人の槍を担いでいても、休息中にウトウトして槍の金具を盗まれたりと、陣中では雑兵同士の盗難が相次いだらしい。戦闘のさなかでも、後ろから刀装の金銀具をパクられたりと、油断も隙もなかったようで、こうして盗んだパーツを、あとでコッソリ売ッ払って稼ぎにしたのである。このへんは、近代の国民軍とは違うところなので、生きるために私利私欲で強そうな軍にくっついているだけ、武士のように意地を立てても仕方がない。戦国の兵士がみんなマトモな武士だと思ったら大間違いである。

 

6. 雑兵稼業と口減らし戦争説

 ところで、この雑兵稼業、日本では戦国時代に人気を集め、不作の田畠を耕すよりはマシだというので、志願者が後を絶たなかったらしい。そこで、土地生産力の低い地方では、口減らしのために戦争がおこなわれ、他領を掠奪して帰国し、どうにか命をつないだのではないかと、藤木氏は推測する。越後の山村に生まれた藤木氏は、故郷での生活体験から、上杉謙信の関東遠征というものが、じつのところ、関東管領の金看板を掲げて行われた〈口減らし〉目的の大規模な掠奪戦争ではなかったかと指摘する。フロイスは「ヨーロッパでは、都市や村、その富を奪うために戦争がおこなわれるが、日本では食料を奪うために戦争がおこなわれる」という趣旨のことを書いている。藤木氏は、この一節に注目する。もっとも藤木氏は、フランス中世史家のジョルジュ・デュビィの研究を引いて、中世ヨーロッパでも、日本と同じような季節性の飢餓があったことを指摘している(冬を越して春になると死者が増えるという現象である)。また、念入りに中国の史料も比較して、かの国でも18世紀終わりまでは、食料問題を克服できなかったことを引いている。当時、世界のGDPの30%を占めていたともいわれる清国でさえ、このありさまである。だとすると、フロイスの言ってることはなんなんだというような気もしないでもない。オメエの国でも戦争となりゃ食料争いになったんじゃねーの、って疑惑を禁じ得ない部分もある。戦争にくっついていく民衆からすれば、戦争なんてのは、洋の東西を問わず、どこでも食料争奪戦だったのかも知れない。

 藤木氏は、謙信の関東遠征が厳しい冬を乗り切るための〈出稼ぎ掠奪戦争〉であったことを示そうとして季節性飢餓の事例を強調するものであるけれど、どうも論理的によくわからないことになっている。同じように季節性飢餓に見舞われていたよその国では、なぜ「食べるための戦争」が起きなかったのであろうか? 極端な話、もし、謙信の〈口減らし〉のための出稼ぎ戦争説が当たっているとしたら、惣無事令など出て関東への掠奪行が禁止された越後の人たちは、どうやって食べていたということになるのであろうか? 大名が戦争をやめて、手持ちの資金を城下町の普請に向けて、あぶれた武家奉公人を日用で雇うことで問題を解決できるとしたら、それまでの戦国飢餓説はなんだったのかという話になる。

 もちろん、当時の経済成長において、大名の公共事業はほとんど決定的な役割を果たしていたようであるから、失業対策の効果を果たしたらしいことは事実である。当の上杉氏に相当な資力があったらしいという考え方も、あるにはある。上杉氏の後継者争いとして生じた御館の乱の際、景勝から武田方に巨額の賄賂がわたったとする『甲陽軍鑑』の話を鵜呑みにするわけではないけれど、金山・銀山があり、自前の湊をもち、青苧座で儲けていた越後に、わりあい潤沢な資金があったらしいことは、しばしば指摘されるところである。そのようなわけで、じっさい、藤木氏の〈出稼ぎ掠奪戦争説〉を否定する人もある。

 もっとも、いくらカネがあっても、食べ物が採れなければ、食料は他領からの輸入に頼るほかない。越後がコメどころになるのは後年のことであるから、かの地の食糧事情がどうなっていたのかについては、私もよくわからない。謙信の外征が正義のための〈浪費〉だったのか、必要に迫られた〈口減らし〉だったのか、正直、判じかねるところである。もっとも、この地域の人が何かしら出稼ぎをしていたのは事実であって、田植えの時期が他所よりも遅れて始まる善光寺平において、遠くは越中・越後からも田人(とうど)と呼ばれる人夫や早乙女たちが、風呂敷を背負って通って来たという目撃談があるから、近現代にいたるまで、越後には出稼ぎをしなくてはならないような経済事情があったこと自体は事実である。で、田植えが終わると善光寺にお参りして、門前で八幡屋磯五郎を買って、めでたく帰国の途についたというわけである。

 

7. コメはあったのか、なかったのか

 そのような次第で、〈口減らし戦争説〉が全面的に支持されているわけではないけれど、その後も食料不足と飢餓が続いていたとしたら、戦争のない江戸時代、民衆はどうやって生き延びたのであろうか、そこは疑問とされなくてはならない。もっとも「食料がなければすぐ戦争だ」なんてのも早計であって、戦国時代だからこそ、大名もてっとり早く実力行使に訴えて領国の経済問題を解決しようとしたのかもしれないが、平和になってしまえば、別の手があったと考えるほかはない。

 日本で季節性飢餓が克服されたのは19世紀と考えられているが、その間は徳川時代で、いわゆる戦争というものはなかった。代わりに〈百姓一揆〉と〈打ちこわし〉である。しかし、本当に食料がなかったら、一揆をしようが打ちこわしをしようが、何の解決にもならないであろう。暴動の背景には、誰かがカネにモノをいわせてコメを蓄えているんじゃないか、民衆のことも考えずに儲けのためにコメを買い占めてるんじゃないのかというような疑惑があったのである。つまり、コメが商業資本による投機材料になり始めていたのである。

 幕藩にとって、コメというのは税金の代わりなので、財政が傾くと為政者どもは年貢増徴路線に走ったが、物価は上がれど、相対的に米価は上がらず、蔵米を売ってもまったく実入りがよくなかった。もちろん、幕府は利益を出すために米価高を誘導する政策を打ち出すことになったけれど、あまり効果はなかったらしい。それであおりを食ったのが都市の貧困層で、そこへきて不作になれば米価は一気に高騰したから、貧しい人たちはすぐに窮乏、〈打ちこわし〉という〈コメよこせ暴動〉が頻発した。そうでなければ、田舎の〈百姓一揆〉の目的は〈減税〉ということにあった。江戸時代、どれだけコメを作っても暮らしが楽にならないのは、食料の不足というよりは、経済のほうに問題があったようである。いっそ買納制というのもあって、本来はいけないのだが、商品作物をつくって現金化し、よそからコメを買って年貢として納めちまうなんてことも広まった。

 ともあれ、カネさえあればコメは買えたが、コメの大部分はただの税金なので、お上に年貢米を納めたところで対価はもらえない。定免法の採用後は、豊作時の剰余は農民の得分になったから、これを売って蓄えを作ることもできたであろうが、凶作のときには泣きを見た。農具を買うにも現金が必要になり、商品作物も作らなアカンことになった。これが飢饉のときに悲劇を招くことにもなった。このシステム、余裕のある農民にとっては蓄財につながったけれど、小農民はままならなかったらしい。小農民の自立ということが進んだ中世後期に対して、享保の頃になると、地主制が進展して、没落農民の離農が問題になっていたのである。農業生産力は低下、いよいよ農村の荒廃ということが問題となった。たまに豊年でも、豊作貧乏なんどというものもあって、米価は下落、幕藩の財政は打撃を受けちまうのであるが、それでもコメを税収の基盤にするのをやめようって考え方はなかった。挙句、天明の大飢饉のときには、コメを高値で売る絶好のチャンスととらえて、江戸や大坂の蔵屋敷に回米しちまう藩もあらわれ、領内では食料がなくなり、餓死者続出なんてことにもつながった。いわゆるカネ目当ての飢餓輸出である。スターリンのホロドモールのような話である。

 一方、都市ではコメの買い占め、売り惜しみということが問題になり、「人を困らせりゃ高値でモノが売れる」の方式で暴利を得ようとした商人どもが続出、怒った民衆に〈打ちこわし〉でブッ壊されてしまった。天明4年(1784)には、大坂におけるコメ取引の中心であった堂島の仲買商が、コメの買い占めで摘発されている。続く天明7年(1787)に起きた江戸の〈打ちこわし〉では、当初、民衆は、押買ではあるけれどカネを払うと言っており、しばし掠奪ということは起こらなかった。してみると、カネさえ積めば、コメは買えたようである。『戦国の軍隊』の剳記では、朝鮮の蔚山城で兵粮米を売り惜しんだ商人を脅して、武士が押買を強行した事例を紹介したが、どういうことか、人びとが飢餓に苦しんでいても、コメってのはどこかに隠匿されているものらしい。

 ともあれ、このような次第であるから、強欲な商人からすれば、カネがなければモノは売らない。モノはあっても売ってくれない。アタリマエのようだがひどい話である。これも『戦国の軍隊』の剳記で触れたことだけれど、戦国末期は銭不足が深刻化しており、年貢の銭納を前提とする貫高制の維持ということが困難になっていた。そこで物納である石高制への移行が進んだと見られるけれども、農民からすれば、この制度の利点は、年貢米を換金する手間が省け、単にコメさえ収穫すればそれでオシマイという、シンプルさにあった。わざわざ換金したり、ナンかの手数料を取られたり、米価安の市場に振り回されたりせずにすむからである。百姓はコメをつくるのが仕事なんだから、コメさえ作れば仕事は終了、それで十分暮らせるようでなければ、たまったもんじゃない。もちろん、中世農民の自立が進んだ背景には、貨幣経済の果たした役割というものも少なからずあったけれど、江戸の初期まで続く貨幣不足は、米価に対して銭高に作用したから、銭納には不利な面もあったのであろう。ところが、しっかりとコメだけ作ってりゃよかったはずの石高制も、江戸中期には破綻、世の中はカネ社会に移行していたので、いよいよ田沼のように商業資本への課税強化という話になる(とはいっても、効果は存外ささやかなものであったという説もある)。田沼派と反対派の対立のさなかに起きた〈天明の打ちこわし〉は、いよいよ幕府首脳に都市下層民の生活問題と農村再建の重要性を認識させたもののようである。世の中に必要なサービスの総量を確保し、必要なものを必要なところへ行きわたらせるのがご政道というものではあろうけれど、もはや、どれだけ働いてもお上の借金を返すのが精一杯という状態、完璧にシステム設計が失敗していたようである。もっとも、カネというのは、社会的に必要なサービスを提供するための労働に参加したことのいわば証明書のようなものであるから、それを使って自らに必要な量のサービスを他者から購入することができるという面で、直接の生産物をもたない人にとっては便利なものである。ところが、この証明書がなければサービスが受けられないということになると、カネが動かなければモノも動かないようなことにもなって、コロナ騒ぎともなれば、モノ不足というものがほとんど見られなかったにもかかわらず、生活苦に陥る人が続出する始末、まこと、江戸時代の飢饉から学ぶことは多々あると言えそうである。結句、幕府は〈お救い米〉を出すことになった。

 

8. 近世の失業問題

 さて、戦国時代に飢饉が相次いでいたのは確かなことであるようだけれど、戦争以外に解決策がなかったのかどうか、そのようにして考えていくといろいろと興味深い。19世紀まで季節性飢餓を克服できなかったにもかかわらず、徳川時代に食料争奪戦争が勃発しなかったところを見ると、戦国時代の戦争というものが、何が何でも食料争奪のために不可欠のものであったと考えることはためらわれる。もっとも、食料が足りていても、人びとに分配するシステムがなければ意味がない。流通経済によってそれがなされない以上は、戦争によって強制的にこれを強奪するという考え方が生じても無理はないであろう。待てど暮らせど、非攻撃的方法によって経済資源を獲得できない場合、実力に訴えてこれを奪取すべしという理屈が出てくるのは、それなりに自然なことであろうと思われる。なので、戦国時代であれ、江戸時代であれ、現代であれ、そのような状況を作り出してしまうことは、非常にマズイということになる。

 そのようなわけであったから、平和になったからといって、すべての人が合法的な手段で食を得ることができたかというと、そうでもなかったらしい。ふつう、秀吉の平和令によって戦場が閉鎖され、雑兵も農村に帰って開墾でもすればいいではないか、これで戦国時代の問題は解決だ、という話になりそうなものだが、現実にはそう簡単でもなかった。新田開発による収穫量の増加は、江戸期を通じて1.5倍以上にのぼっているけれど、戦国時代から続く人口増ということも続いていたから、社会の発展にも限度はあった。オマケに技術の限度もあったので、享保の頃に新技術が導入されるまでは、荒地の開墾ということも簡単ではなかったらしい。食料の増産ということに目途はついたけれど、農業に携わる人すべてが豊かになったというわけでもなかった。江戸幕府の財政が安定していたころはよかったが、そうこうしているうちに税率が上がり、コメ以外の現金収入も必要、ナンだカンだでわりに合わないところが多々あった。しかし、戦国時代が終わった直後の状況を考えると、まだ小農民が自立して営農することのできる条件が整っていたように思える。耕すべき土地もあったから、召し放たれた雑兵・奉公人が百姓に戻ることは禁じられてはいなかった。何もせずに村でサムライごっこなんか続けられたらたまったもんじゃないので、そういうのは追い出せというお達しが出ていたくらいである。

 そうしたわけで、ある程度の人は落ち着くところに落ち着いて、それなりの田畑が耕作されたのであろうとは思われるけれど、にもかかわらず、田畠も耕さず、都市に流出する人は後を絶たなかったということになると、農村の収容人口にも限りがあったということなのかもしれない。そうした人びとがどうやって飯を食っていたかというと、妙な話だけれど、やっぱり食い物があったからということになるのだろう。打ち続く戦争で人が死に、生き残った連中で富を再配分したから、どうにか食えたんだと考えることもできるけれど、戦国時代から江戸中期にかけて日本の人口が急増していることを考えると、あまり説得力はない。この人口増加の要因として、小農民の自立と皆婚化が考えられているけれど、生産力が増して食料の総量がまかなえるようになっていたとしても、食い物を手に入れるためにはカネが必要だったから、田畑をもたない人や、縛りのキツイ農民なんか嫌だという人の間では、てっとり早い武家奉公人や日用ということが流行したわけである。そんなことをせずに田畑でも開墾すれば、食料増産で、もっと多くの人がタラフク食えるようになったかもしれないけれど、くりかえしの通り、簡単に新田を興すこともできなかったから、よそで何か仕事を作らなくてはならなかった、ということのようでもあるが、そこはハッキリしない。また、コメは近世封建制のもとでは税金そのものであるから、食料の過不足というよりも、税収の問題としての側面が多分にあった。つまり、政権の財政運営が傾くたびに、農民はコメの増産を求められることになるわけである。問題は、そのようにして得た年貢米を換金しても、財政難を簡単に解消できないことにあった。農民としては踏んだり蹴ったりである。

 ところで、耕地面積が増えても人があぶれてしまうことは植民地時代の朝鮮半島でも見られたから、これを土地所有の偏りの問題と考えることもできなくはない。日本が植民地経営に膨大な国費を傾けて開発を促進したにもかかわらず、どうしたことか、朝鮮の人びとは、逆に海を渡って賃金のよい日本の労働市場流入することになった。一旗揚げようという人もいれば、経済的に圧迫され、いやいや仕方なしに渡日した人もいた。似たような状況が戦国時代の日本にもあって、戦国大名の一円支配による大規模開発によって、耕地面積や人口の増加ということが見られたにもかかわらず、農村にいられなくなった人は戦場に流れ、戦場がなくなると、今度は都市の普請場へ、そして新天地を求めて海外へと渡ったのである。地主制のもとで没落した江戸時代の零細農民にしても、都市に出たところで貧民になるのは目に見えていたが、年貢はないし、自由でイイヤってんで、チマチマとした家内工業や日雇い、第三次産業などで気ままなその日暮らしを始めてしまったのである。富裕になるのは資本集積の進んだ大企業ばかり、都市貧民の生活など吹けば飛ぶようなものだったから、イザとなったら〈自力〉で暴動、場合によったら掠奪である。天明の打ちこわしのあたりから、さすがに幕府もコメ経済がマズイということに気がついた。まあ、コメがどうのっていうより、民衆の生活を顧みないとマズイということに気がついたわけである。

 そう考えると、失業問題というのは奇妙なもので、富の総量が増加しても、分配が滞ればそれまで、それが労働をめぐる社会不安を引き起こし、何が何でも仕事がなければならないという強迫観念に駆り立てられ、新たな仕事が必要とされるもののようでもある。無理にしなくてもいい仕事に精を出す必要もないと思うが、タダ飯を食わせるのは、まっとうに働いている人からすると腹が立つ。すでに『働かない』の剳記*7で見たとおりである。どっかの大店のアホ旦那が、吉原あたりでカネをバラまいてくれりゃあ働かなくても食えそうなもんだが、ふつう、働かない人にカネをバラまいたりなんかしない。カネをもってる連中にしても、カネを使う口実というものが必要なものらしく、そうでないと、カネというシステム自体がよくわからないものになってしまうからだ。今般のコロナ禍でも、働ける人とそうでない人の分断ということが問題になった。同じ企業にいても、働ける部署とそうでない部署というのがあるけれど、もちろん、残業は禁止、企業活動の縮小ということの中で、同じように数ヶ月の給料保証を受けるにしても、「働いている人とそうでない人の月給が同じって、どういうことよ?」という不満が当然に出てくる。ところが、休業している部署の人を、生産活動を継続している部署に回そうとすると、またいろいろと悩ましい問題が出てくるもので、テレビで報じられるのは一部の成功例のみ、そう簡単にワークシェアリングということにはならないという現実は、一考すべきである。人間、何だかんだと言って、自分のもっている仕事を人に譲りたがらないものなのである。このことについても、『働かない』の剳記で一考した。経済史上、ケロッグ社の事例などが著名である。

 さて、話は昔の日本に戻るけれど、果たして土地が十分にあったのかなかったのかはともかく、結果として、耕すべき田もないのに農村にあぶれ者がいたら、それはそれで困ったことになるのは当然の成り行きである。もっとも、秀吉の頃には、耕す田があるのに村を出て奉公に行っちまう奴もいたので、村としては「そういう奴の田は捨て置いて面倒はみない」と取り決めたようだ。どうも、コメをつくるより、手っ取り早くカネを手に入れたい人が後を絶たなかったようで、けっきょく、そのカネで町の米屋からコメを買うんだから、農民からしたらいい迷惑である。「都市でそんなことしてないで、一緒に耕してくれよ」って話だ。しかし、昭和恐慌の際に都市から帰農者が増えたことで、農村の疲弊が進んだことを考えると、物事にはバランスというものがあるようである。

 それにしても、コメの価格が上がって農家の収入が増えるのならいいかも知れないが、まあ、けっきょく年貢米というのは税金だから、江戸時代の実態としては、それを売って藩の借金を返して終わりである。江戸時代はたいがい物納だったので、決められたコメを納めればそれでよかったが、藩の借金がかさむと税の取り立ても厳しくなった。生産技術が向上して、いくらでもバンバンと余剰米が取れれば楽になったかもしれないが、さすがにそういうものでもなかったらしい。たまたま生産がうまくいっちまっても、在庫過剰で米価は下落、豊作貧乏なんて話は前にもしたが、モノをカネに変えられなくては立ち行かないってのは面倒なもんで、製造の腕はよくても、経営がダメって話と同じである。モノを売るってのは、面倒くせえものだ。昭和の農村恐慌では、豊作飢饉なんてのもあった。コメはあるのに安くて利益にならないから、それで百姓が貧乏になって飢餓に陥っちまッたというのである。ともあれ、お上としちゃァ、そういう余計な工夫をしなくても、生産者の暮らしが立ち行くようにしてやんねえとダメだ。まあ、蔵米を商人に売らせてんのは武士たちであるから、そのへんはシッカリしてもらいたいものである。もっとも、お上が経済を統制しようという理想が実現したのは、戦後のことであって、この方式で日本は奇跡的な経済再建を遂げることができた。もっとも、今ではスッカリ時代遅れのものとなってしまったが、かといって、世界のどこかに日本よりもはるかに優越した経済体制があるかというと、それもあやしい。貧富の格差がハンパない国はあるし、あまつさえ、よその国の貧困の上に成り立っているような豊かさというものもあって、手放しで称賛できるような経済体制などというのはどこにもない。カネもちのカネっつったって、その中身は他人の借金でできている。江戸の中頃には、淀屋辰五郎って豪商がいて、大名に金を貸して、1億2000万両もの資産を築いたという(これは私が小学生の頃に読んだ本の記述であって、今日日のWikipediaなんか読むと、総資産は20億両(=200兆円)なんどと書いてある)。享保の改革で幕府がどうにか奥金庫に積んだのが100万両程度であったから、とんでもない話である。もっとも淀屋は、適当な言いがかりをつけてお上に取り潰されたから、借金はチャラ、残りの財産も収公されちまったから、非道い話である。淀屋の大名貸は合法だから文句も言えねえが、天下の百姓が貧乏してるってえのに、そりゃどうなんだって話もある。もっとも、百姓を貧乏させることでしか成り立たない経済システムを考え出しちまったのは幕府だから、その分はなんとかしてもらわないと、いよいよ〈打ちこわし〉である。

 なお、蛇足ながら、この淀屋が中之島に開いた米市は、前に出た堂島米市場の起源となり、世界初といわれる公設先物市場の元祖となったものである。『戦国の軍隊』の剳記で見たように、早くから日本では切符や折紙のようなものが紙幣代わりに流通していたから、ここでも米切手という手形がその役割を果たすようになり、ついにはコメもないのに手形だけ振り出す輩も登場、それが不良債権化することもあった。そのツケは幕府にまわってきたから、たまったもんじゃない。ただ、先物の商品取引所の存在は、結果的に市場価格を安定させることにつながると言われるように、米市ってのも、米価安定ということが目的で設立されたものだった。そのうちに堂島では、米先物としての帳合米商が認められるようになるが、どうも帳合米価格が正米価格をリードしていたようで、結果的に帳合米は、米価低落時には米価引き上げに、米価高騰時には引き下げに働くような機能(正米価格平準化作用)を果たしていたらしいと、宮本又郎先生は言っている。ここでも、こんにちの商社が行なう先物大量取引と同じように、反対売買による両建てのリスクヘッジが機能していたらしいことを、この先生は論証されているが、安定した価格で安定した物流を行なうということを考えると、この機能は重要なものである。おおむね、天保の頃まではそれが機能したらしいことを、宮本先生は書いておられる*8。そう考えると、こんにちの日本のように、生活に困らない程度の物資が十分に行きわたるということは(残念ながら、まだ行きわたっていない人もおられるけれど)、大変重要なことであると実感されよう。

 一方、江戸幕府の米価高誘導策に対し、戦国時代の場合、米価は低めに抑えられていたが、これは消費者中心経済を慮ったわけではなく、まったく大名の都合によるものだったらしい。なので、銭経済の貫高制のもとであっても、コメの価格変動が農民の利益になることはなかった。このインセンティヴの低さにもかかわらず、農民が農業を続けてきたのはおどろくべきことのように思われるけれど、それでも生産力は着実に上がっていたので、中世を通じて堅い職業と考えられてきたのかもしれない。しかし、このようにして自立を遂げた小農民も、江戸時代を折り返すころには地主の支配するところとなって没落し、貧富の格差が拡大、農村は分断されていったようである。せっかく太閤検地で土地をめぐる所職を解体したのに、また年貢のほか小作料やらナンヤラを取られる羽目になり、まったく下人か所従に逆戻りである。

 そのようなわけで、江戸幕府が出した田畠永代売買禁止令は有名無実化し、借金で首が回らなくなり、離農した人たちが都市へ流入、大都市のスラム化ということが始まるようになる。せっかく戦争も終わり、耕地面積も拡大、人口も増えたというのに、どこかに根本的な問題があったのであろう。しかし、(今でもそうだけれど)田舎を捨てて都市にいけば、どうにか食えるというのはどういうことなのだろうか? 食い物を作っているのは田舎の人なわけだから、チト不可思議なことである。自分の畑を耕してもで食えないからってんで、そのことに困窮して都市に出てきた田舎の人が、都市で別の仕事をしてカネを稼ぎ、もといた田舎でとれた食料を買って食いつなぐというのは、どうも不効率な気がするが、それでスンナリ済むのだとしたら、そもそも農村の荒廃など問題にならなかったに違いない。「農村は人が足りてますんで、行きたい人は都市へ行って働いてくださいね」で終わりである。わざわざ天保の改革で人返法など出さなくてもよいわけである。まァ、幕藩は年貢米と専売品を売って収入源にしていたわけだから、単に食料が足りないから農業に精を出せということでもなかったのであろう。コメは税金であるから、農村から都市へと人が流れてしまうことは、直接の税収減につながった。おまけに、藩財政は大赤字、借金まみれで札差どもに数年先の年貢米まで差し押さえられていた。戦国大名ならありえない話である。その点は、石高制が裏目に出てしまったともいえる。

 もっとも、逆の例もある。先の戦争の期間にあっては、都市の人が田舎で頭を下げて食料を譲り受けるということもあったから、皮肉な話である。コンナロ、これまで田舎にばっかワリ食わせやがて、バロチキショウってとこだろう。しかし、そう簡単な話でもなくて、江戸時代に人口増加に歯止めがかかってしまったのは、けっきょくは都市の人口収容力が限界に達してしまったかららしく、衛生環境の悪化も見られたというから、都市民の暮らしも、決して快適なものではなかった。未婚化も進んで人口増も頭打ち、まったく現代のワーキングプアみたいな話である。その点、都市に出た方が田舎にいるよりも幸せかというと、何とも言えないものがある。ただ、町人の公役負担は軽かったから、それだけでもメリットだと考えることもできる。

 それにしても、大都市に行けば、何かしらの仕事にはありつけるのが事実なのだとしたら、けっきょくは、都市にカネが集積して消費が発達したからだと考えるほかない。もっとも、武士が都市でいらない浪費をするから、農民の税金が上がっちまうわけで、このような消費に発する都市民の経済的向上と、農民のそれというのは、果たして素直にリンクするものかどうか、どうも疑問である。農民としたら、自分の生産物くらい自分で売らせてくれという話にもなるのかも知れないが、代銭納にしたところで、結句、藩の借金を穴埋めさせられるわけだから、結果は同じかもしれない。貧乏しているのは武士も同じだった。こんにちなら、バンバン消費すりゃァみんなが潤うというアタマがあるけれど、この時代のことだから、カネは同じところをグルグルしてたんじゃないのかって気にもなってくる。ゆえに、倹約令ばっかり出されることになったのかもしれない。誰かが贅沢をして農民の暮らしが上向くならそれもよいが、どうもそうなったとは思えないようなところがある。文人気取りの殿さまの交際費がかさんで税金を上げられちまッた領民が起こした〈郡上一揆〉なんてのは有名である。そりゃ、江戸の商人あたりは儲かったか知らないが、田舎の領民はいい迷惑である。殿が質素倹約に励んでくれた方が、どれだけ助かったか知れない。ただ、農民の間で買納制が行なわれたところを見ると、換金価値の高い商品作物を育てた方が暮らしの上では有利だったと見ることもできるから、商品の浪費を促進する奢侈ということが、農民の暮らしを助けた可能性はある。だが、殿さまの奢侈は御免蒙りたいものである。それより早く借金返せよな、という話だ。

 こうなってくると、武士の暴力にひれ伏すのも面白かないが、マネー・システムの前にひれ伏すのもケッタクソ悪い話である。武力かカネかの話で、どちらももっていない庶民からしたら、案外、結果は同じようなものかもしれない。どっかの国の人は「知は力なり」と言って、「マネー教育に無知なままだと経済社会で貧乏するよ」なんて言ってるが、まったくめんどくせえ、もっと、シンプルにできねえのかって話である。農家と非農家の所得格差の問題は昭和になってからも続いたけれど、先の大戦後のように、モノ自体が決定的に不足すると、どんなにゴタクを並べても、いよいよブツの出番である。そうなりゃ、自給自足しているお百姓の勝利である。ところが、それも束の間、平和が回復されると、また国家の経済制度であるカネというものが幅を利かせるようになる。カネを使うのは合法、ブツを使うのは違法とは言えないまでも、ブツ主義はカネ支配に逆らう反主流的な経済システムということになる。これは『働かない』の剳記で見たとおり、ベルナルド・リエターが言っていることであるが*9、江戸時代にあっては、主要な決済手段であった金銀の流出を抑えるため、あるいは、銭の原料である銅の輸出を抑えるために、海産物や工芸品による物々交換が奨励される場合もあった。長崎貿易における代物替がその例である。

 ともあれ、仮に食品ロスが出るほどの生産力があっても、食料問題というのは解決しないのと同じで、経済の場合、すでにブツは足りてるから、それでエエやんけという話にはならない。人間、たとえ余っていたとしても自分の生産物をタダで譲るなんてことはできないのである。それができれば、ブツが枯渇しないかぎり、コロナでも経済は回るのである。しかし、どうも経済とはそういうものではないらしく、我々としてもまんざら働かないわけにもいかないものだから、仕事量を自発的に調整するなどということも困難である。人の善意も期待できないようだから、そこで、どうにかしてカネを稼がなアカン、つまりは合法的な雇用にありつかなアカンということにもなる。それが無理なら〈自力〉である。つまりは、夜討ち・強盗・山賊・海賊といった非合法活動を仕掛けて、無理やり富を分配させようというわけである。足軽・傭兵の一部は、そうした奇襲攻撃のプロ、つまりは専門の盗賊ではなかったかという考え方が、本書では提起されている。戦国大名は、こうした実力集団を積極的に雇用していたらしい。農村を捨てた雑兵たちも、戦場の内部において、平時なら犯罪として糾弾されるような違法行為によって収入を得ていたのである。

 

9. 失業問題のグローバル化

 いずれにしても、16世紀後半のグチャグチャな時点で、食料の再配分であるとか、ワークシェアリングだとかいっても、まったくの不完全情報下で行われる政策であるから、有効な解決に至らなかったのも無理はない。また、人捕りをして召し使ったり、売り払ったりということが行われていたけれど、地域的に激しい飢餓に見舞われると、人を買う方も処遇に困ってしまい、しまいにはポルトガル船に売っちまうなんてことにもなった。ポルトガルとしては、東南アジア方面で労働力を必要としていたらしく、日本人の海外流出ということも続いた。

 しかし、いやいや海外に渡った人もいたであろうけれど、カネ目当てという人も当然いたらしい。山田長政なんてのは有名だが、どうも前職は雑兵っぽい。秀吉が天下を統一した年に生まれた山田が、タイに渡った経緯はよくわからない。どうも朱印船にくっついていったらしい。アユタヤでの活躍は英雄譚のようになっているけれど、タイでの評判はいざ知らず、フィリピンでの日本人の評判は最悪で、有害国民、危険集団として警戒されていたらしい。ともあれ、国内の戦場から締め出されてしまった雑兵は、東南アジアの戦場でヨーロッパ勢力に「使える兵士」として低賃金で雇われており、ずいぶんと重宝されていた。蘭英同盟は日本から軍需物資と兵士を買い入れ、カトリック勢力とのドンパチに投入しようとしていた。さすがにヤバそうだとにらまれて、幕府から禁輸措置が出ることになった。そのうちに鎖国ということになり、国内に収容しきれなくなった非自発的失業者(雑兵のほか、国内で生じた戦争奴隷として海外に売られた人たちもいた)たちは、そのまま海外に棄民として放置され、そのことによって国内の失業問題の一端が解消された、というわけである。昭和になっても、国策で海外に移民に出て苦労を強いられたという人があるが、根本をどうにかしないと、歴史はくりかえすもののようである。

 もちろん、その後も幕府の武断政治で大名の取り潰しということも続いたから、しばらく浪人は増え続け、野盗に走る者なども少なくはなかった。そこでようやく、幕府も本腰を入れて失業対策に取り組むことになるのであるが、これはまったく本書の後日譚である。しかし、近代になって致死率が低下し、いわゆる人口爆発が起こると、日本でも再び失業問題が再燃、今度は大陸や太平洋植民地への雄飛ということが企てられるようになった。まったく他人事ではない話である。マッカーサーに言わせれば、日本の戦争動機は失業対策だったということになる。反対に現在では、少子高齢化ということが進んで、海外から安価な労働力を移入するということが必要となっているけれど、江戸の街でサービス業を支えた農村からの流入者のように、日本社会の過剰サービスを維持するために低賃金・重労働で酷使され、泣きを見ている人もいる。これも、江戸幕府が直面した問題のリバイバルである。都市では失業を免れることができたけれど、かといって生活は安定せず、しまいには〈打ちこわし〉や犯罪による〈自力〉の横行という、治安上の問題が生じてしまった。この頃には、武家や商家に奉公するのも縛りが多くて苦痛だったため、人びとはもっと自由な仕事を志向するようになった。かつての離村者が競って志願した雑兵稼業(武家奉公人)も、すっかり不人気なものになっていたのである。たとえ生活は不安定になろうとも、ブラック企業に務めるのは嫌だ、ということであろう。結果、武家奉公人の賃金が高騰したという話もある。

 

10. おわりに

 と、本書に関係ないことまでアレコレ書いてきたけれど、戦国時代に離農して雑兵になった人たちが、天下統一後に浪人問題を引き起こし、その後も離村して都市に流入する人が再び現れたことを考えると、失業問題というのはつくづく根深いものだと思わざるを得ない。

 すでに『戦国の軍隊』の剳記で見たことだが、網野善彦氏の見立てでは、織豊政権を通過して、良くも悪くも日本は、農本主義的な体制へとまとめ上げられてゆく、というのであるが、そこで抑圧された〈悪〉の系譜、公界衆が握った商業・流通のネットワーク、そしてゼニの力というものが、江戸時代も中ごろになるとすっかり復活して、大名さえ頭の上がらない状況に陥っていた。戦国時代には必死になって経済政策に力を注いでいたであろう武士たちも、スッカリ身分的に商人から分離してしまったため、蔵米を売らせて儲けさせていた札差商人に、軒を貸して母屋を取られるという始末、武士なんてものが純粋化してもろくなことはないようである。幕府としては棄捐令を出して借金をチャラにさせる一方、2万両を出資して幕臣への札差金融が滞らないようにするなど、武士の生活なんてのは、まったく借金前提のものだった。どうなってるんだという話である。もっとも、武士の借金がかさんだ背景には、札差の詐欺商法もあったから、被害者といえば被害者である。その札差の金主になっていたのが、じつは寺社勢力だったなんて話もあって、信長なら焼き討ちにしちまうところである。戦争と城下町普請という公共事業に負うところが大きかった江戸初期までの経済成長を考えると、当初、経済の主導権は、一向一揆や寺社勢力の商業・流通ネットワークを叩き潰した武士が握っていたのであり、もともと武士にも商人的な素養はあった、といえるのかも知れない。また、商人にしても〈自力〉がなければ戦国乱世で商売などできなかったから、武士と商人の垣根は低かったと言えるのかもしれない。そういう意味では、信長の経済政策を過大評価して、民衆経済を一大活用したかのように考えるのは胡乱であると『戦国の軍隊』の剳記で書いたけれど、現代につながるような意味で、新興商人が貨幣経済を背景に本格的に台頭するのは、もうチョイ後、江戸中期になってからの話である。

 江戸の平和で、雑兵なんてのはスッカリ姿を消しちまッたけれど、失業問題という点では、こんにちにつながるものがあるようにも思われるので、その後日譚にもチョット触れてみたけれど、藤木先生がいうように、平和な現代とはいっても、見方によってはある種の戦国時代であるから、イザ〈自力〉の出番ということにならないように、国民も為政者も油断これあるまじく御座候えと、私などには思われるものである。

                     〈『南山剳記』、2020年5月26日〉

 

本文

 

プロローグ


p.3 日本の戦争は「食うための戦争」だった

フロイスは、中世の西欧の戦争は、領土を広げるのが目的だが、日本では戦争が食うために行なわれている、と書いた。

 

 われらにおいては、土地や都市や村落、およびその富を奪うために、戦いがおこなわれる。日本での戦さは、ほとんどいつも、小麦や米や大麦を奪うためのものである。(3頁)*10

 

しかし疑問もあって、当の秀吉は、日本の戦争もまた領土の奪い合いだと見ていた。しかし、フロイスは戦国末の30年余りを九州や機内で暮らしていたから、これはいわば戦争実感論。彼の目には「食うための戦争」「生きるための戦争」と映っていたのは間違いない。

 

p.5~6 雑兵とは何か

雑兵とは、ふつう「身分の低い兵卒」をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは次の三種類の人々からなっていた。①その武士に奉公して、悴者とか若党・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う「侍」。②その下で、中間・小者・あらしこなどと呼ばれる、戦場で主人を補けて馬を引き、槍を持つ「下人」。③夫・夫丸などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」たちである。
①の若党や足軽は戦うことが許された戦闘要員であり、②の中間や小者や③の人夫は、戦闘から排除されるのが建前(侍と下人の差)であったが、激戦の現場でそのような区別が通用したわけではない。いま私が雑兵と呼んで光を当てて見たいのは、これらの若党や小者や人夫たち、それにまだ得体の知れない戦場の商人・山賊・海賊たちのことである。(5~6頁)

 

p.7 戦国の自力習俗

 一方、濫妨狼藉にさらされた戦場では、村も町も自らの力で生命財産を守る、たくましい試みを重ねていた。ふつう権力の象徴とされる領主や大名の城も、いざという時、領域の民衆の避難所になったし、城から遠い村々は、勝手知った近くの山に、山小屋・山城など自前の避難所をもった。境目の村は、両軍に年貢を半分ずつ納めて中立を確保し、あるいは敵軍に大金を払って村の安全を買った。村自身もふだんから武装し、敗残の落人と見れば、村をあげて襲いかかり略奪もした。戦火を免れ、村や町を守るために、戦国の世は実に多様な自力の習俗を作りあげていた。(7~8頁)


Ⅰ 濫妨狼藉の世界


p.25~27 大名軍と乱取り

天正18年(1590)、家康は小田原攻めのときに、自軍に「下知なくして、男女を乱取りすべからず」と命じた。同じ東海生まれの加藤清正の軍法も、勝手に「陣取り放火」「小屋具乱妨とり」をするなというものだった。ともに部隊ぐるみの組織された掠奪、という気配が濃厚。兵士たちは、放っておけば、勝手に乱妨取りをする。これは作戦の重要な一環だったが、暴発を防ぎ、大名の下でどう有効に作動させるかを「陣中法度」の課題としていた。フロイスも、城攻めをそっちのけにして掠奪に熱中し、戦利品を手にすると、城攻めをやめて引き揚げてしまう兵士たちを見ていた。逆に言うと、作戦や軍律を乱さない限り、敵地での人取りは野放しであった。乱取りは乱妨取りともいい、人の掠奪のほかに戦場の物取りをも意味していた。信長が家康軍とともに初めて上洛したとき(永禄11年=1568)、両軍の兵士は乱取りに熱中し、あげくは古烏帽子一つを奪い合って戦闘を始めたという(『三河物語』)。また、信長が1万余りの大軍を率いて上洛した天正元年(1573)にも、兵士たちの乱妨取りはすさまじく、「京中辺土ニテ、乱妨ノ取物共、宝ノ山ノゴトクナリ」(『永禄以来年代記』)といわれた。『信長公記』には「乱取」と名づけられた信長の愛鷹が登場する。

 

p.27~29 戦国の掠奪戦争

戦場の乱取り・乱妨取りの世界を、ひときわ大らかに活写するのが、『甲陽軍鑑』。戦場の底辺で活躍する雑兵の迫力は、同時期の『雑兵物語』と並んで、他の追随を許さない。川中島合戦は有名だが、その戦場で雑兵たちが演じた乱取りも異様な精気に満ちている。北信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山(新潟県妙高市)を越え、春日山城上越市)近くまで侵入、村々に放火、女性や児童を乱取りし(「越後の者をらんどり仕り」「近所に焼きつめ、らんぼうに女・わらんべを取りて」)、甲斐に連れ帰って召使い(奴隷)にした、という。なお、『甲陽軍鑑』は、この作戦で武田軍は越後を占領こそしなかったが、掠奪に大成果をあげた、それもみな信玄の威光のおかげだと書いている。戦国の戦争には、明らかに乱取り目当ての戦争もあり、大名さえ強ければ、思いのままだった。上杉氏の正史も武田軍の乱取りを明記している。その被害は上杉側も認めるほど大きかった。ところが、上杉軍の戦場でも「人執り」は常で、能登を攻めたとき、味方についた寺や村には、自軍の濫妨・放火・人執りを禁じていたほどだった。

 

p.29~31 乱取りで民百姓が豊かになったという話

武田軍が信州に攻め込んで大門峠(茅野市長門町・立科町境)を越えて敵地に入り、7日間の休養となると、陣中は「下々いさむ事かぎりなし」ということになって、「かせ侍衆・下々の者ども」など雑兵たちは歓声をあげて、一袋の民家を沿って「小屋落し」「乱取り」「苅田」に熱中。3日で近辺を荒らし尽くすと、戦場でもない地域にまで遠出して、朝早く人を出て夕方に帰る、という大がかりな乱取りになった。ところがその夜更け、武田軍の3人の侍大将の夢枕に、「諏訪明神の使い」という山伏が現れて、「このたび晴信、ここもとに逗留中に乱取り無用」と神託したので、侍大将たちは「乱取法度」を定めて乱取りを禁じたので、信濃の人々は被害を免れた、という。『甲陽軍鑑』は乱取衆を「後さき踏まえぬ意地汚き人々」と評しているが、神様のお告げでも持ち出さなければ、彼らの乱取りはやまなかったのであろう。「乱取りなどにばかり気をよせ、敵の勝利もみしらず」「乱取りばかりにふけり、人を討つべき心いささかもなく」などと非難している。だが、乱取りそのもの否定しない。戦闘を妨げない限り乱取りは勝手、というのが通念であったらしい。おそらく雑兵たちには、御恩も奉公も武士道もなく、恩賞もないので、乱取りを認めざるを得なかったのだろう。こうした掠奪で、「分捕りの刀・脇差・目貫・こうがい・はばきをはづし、よろしき身廻りになる。馬・女など乱取につかみもこれにてもよろしく成る故。御持ちの国々の民百姓まで、ことごとく富貴して、勇み安泰なれば、騒ぐべき様、少しもなし」という具合で、これを言い稼ぎにして、羽振りがよくなり、親族にも分け前を与えたので、自分の国が戦場になることのなかった武田信玄の領内は、民百姓までみな豊かで、国は活気にあふれ安泰で、戦争だといえば嫌がるどころか、みんな喜んでで行く、これもみな信玄の威光だ、と書いている。

 

p.31~32 ザイール民兵と戦国の雑兵

 ところで、いま手元に、ゴマ(ザイール)発の「恐怖の的、ザイール兵――ヤクザ並みの恐喝、強盗」という、一九九四年の特派員記事がある*11。この戦場の町を、自動小銃武装し巡回するザイール民間防衛隊が、地元の難民や市民から外国の報道陣にまで、公然と脅しや強盗を働いている。市民は「かれらの奪った金品は上司に納め、部下に分け前がおりる。稼ぎの悪い部下は配置を換えられる」と語っている。その背景には兵士たちのひどい安月給や遅配もあるようだ、と。

 給料代わりの掠奪というのも、上司に命じられた組織ぐるみの掠奪というのも、その稼ぎによる分け前の配分というのも、十六世紀日本の戦場にそっくり当てはまりはしないか。少なくともその疑いを向けてみる必要があるだろう。(31~32頁)

 

p.35~36 人買い商人と大名軍の結託

戦国の商人たちは、身代金のやり取りや買戻しなどで仲介料を稼ぐだけではなく、自らも生捕りや売買に手を出していた。「別本和光院和漢合運」(『越佐史料』4、原本の所在不明)によると、永禄9年(1566)2月、小田氏治の常陸小田城(茨城県ひたちなか市)が落城した時、景虎の御意で、「春中、人ヲ売買事、廿銭・卅弐(銭カ)程致シ候」とある。城下は人を売り買いする市場となり、景虎の指図で、春の2月から3月にかけて、20から30文ほどの売値で人の売り買いがおこなわれていたという。東国は、その前年から深刻な飢饉に襲われていた。同じ頃、北関東の戦場では、常陸の筑波、上野の藤岡城でも籠城する敵を破ったのち、城下で「人馬際限なく取る」という戦いがあった。城攻めは、まず城下を押し破って、人や馬を根こそぎ奪い、ついで本城を攻め落として軍兵を皆殺しにするという二段構えで行なわれていた。小田城下の上杉軍による人の売り買いは、こうした戦場の人取りの結果で、軍と人買い商人の深い結託さえも疑わせる。飢饉のさなかとはいえ、中世の人買い相場(2貫文)のわずか1%余りという安値だった。フロイスは、島津軍から豊後の戦争奴隷を買い取った肥後の人たちが、飢饉のために奴隷を養い切れず、島原で二束三文で(フロイスは口をつぐむが、おそらくポルトガルの商船に)転売したと書いている。1、2文ないし二束三文で、北関東の20~30文より安値だった。

 

p.36~38 戦術としての苅田狼藉

三河物語』は、武田方が長篠攻めの戦場で、放火・刈田・乱取りの濫妨狼藉をしたと書いている。これが雑兵たちの作戦の三点セットで、城攻めがアッパーカットなら、「敵をつかれしむる」放火・苅田乱取りはボディーブロー。それなくして戦闘も城攻めもありえなかった。毛利元就の戦法を伝えた小早川隆景の戦術書とされる『永禄軍記』の「攻城」は、春に田畠を荒らして、夏に麦を刈って、秋は刈田をして年貢を妨げ、冬は倉を破って民家を焼いて、餓凍に至らしむる、云々と書いている。ことに3~5月には「麦薙ぎ」、7~9月には「稲薙ぎ」が集中、山本浩樹氏は、①その目的は兵粮攻めであり、②敵地の村を脅して味方につけ、③作戦を担ったのは正規軍とそれに率いられた土豪と百姓だったと指摘する。ただし、①については、掠奪目的がなかったか、③については、乱取りのプロの参加がなかったかについて、史料調べに興味を引かれる点である。武田方の『甲陽軍鑑』がいう「敵をつかれしむる三ヶ条」も内容は同じで、軍隊が村を荒らす戦術には、大きな差はなかったようだ。『雑兵物語』には、敵地で刈田をするときは、手当たり次第に稲を根こそぎ掘り取って、煮てやわらかくして馬に食わせろと書いている。味方の地でそれをやると実りが悪くなるから、必ず敵地でやることと書いている。

 

p.38~40 乱取りは雑兵の恩賞がわりだった

土居方の武将・桜井某は、逃げる土佐軍を追撃、自軍に向かって、「下々の乱取りをそのままに置き、心任せにせよ」と命じた。次の日、土居清良がこれをとがめると、桜井は進んで答えて「下々はかようのことに利を得させねば勇まず、下々たびたびの軍に出て働くといえとも、一度、一度に恩賞はなしがたければ、手柄をし、骨折りたると思いながら、むなしく打ち過ぎ、あまつさえ、法度を強くすれば、気を屈し、かつて徳なきと思い、ひそかに伏す」と言って、場所を見合わせて自軍の費えにならないところで敵の捨てたものを取らせれば、喜び勇むものだと説いた。制法を控えなければ下々は放埓になって下知をきかないので、平素は乱取り無用と硬く言い聞かせても、攻勢にゆとりができた敵地では乱取りの自由を認めてやるのが大切だ、と説いた。しかし、放火・苅田乱取りの評価は低く、表向きはほとんど無視された。「毛利家感状」を見ても、濫妨狼藉に触れたものは1%にも満たない。戦いには欠かせない戦術であったのに、戦功として特筆されるのは、敵を何人打ち取り、頸をいくつ取ったかということで、名誉ある武士の戦功とはまったく別の世界に位置していた。しかし、公文書や公式の証拠類から日記や年代記の類に、さらに覚書や軍記にまで目を移せば、放火・苅田・物取り・人取りに熱中する雑兵たちの世界が広がっている。

 

p.41~43 ポルトガルの日本人奴隷売買

天正15年(1587)5月、秀吉は九州で島津氏を降し、自らの平和の下に置いた。6月に博多でイエズス会の宣教師コエリュを責めて、「ポルトガル人が多数の日本人を買い、奴隷として、その国に連れ行くのは、何故か」と詰問した。『九州御動座記』は「伴天連が日本人を買い取るの真似て、九州の日本人が子や親、妻女を売った」と書いている。いずれにしても、九州の領主たちがバテレンと結託した黒船が、日本から多くの男女を買い取っては、東南アジアに積み出していたのは事実で、男女の大がかりな海外流出ぶりを示唆している。1555年11月のパードレ・カルネイロの手紙には、大きな利潤と女奴隷を目的とするポルトガル商人の手で、多くの日本人がマカオに輸入されていると書いており、日本貿易のごく初めから、奴隷は東南アジア向けの主力商品であったことがわかる。ポルトガル国王は布教の妨げになるというイエズス会からの要請をうけて、1570年に日本人奴隷取引禁止令を出した。1596年以来、イエズス会奴隷貿易者に対する破門令を重ねて議決。1597年、インド副王もポルトガル国王の名で、日本人奴隷および日本の刀剣のマカオ輸出を禁止。しかし、東南アジアに暮らすポルトガル市民は、この禁令が致命的な打撃を与えるとして抗議、莫大な資金で奴隷を買ったのは、あくまで善意の契約であり、何ら違法ではないと主張して、勅令は無視された。もともとはイエズス会自身が、公然と奴隷の輸出許可の署名を与えており、イエズス会といえども、奴隷の存在をすべて否定したわけではない。当時のヨーロッパの通念にしたがって、正しい戦争によって生じる捕虜は、すべて正当な奴隷として認められていたが、どの戦争が正当で、どの奴隷が正当な捕虜なのかを峻別する風俗は、戦国の日本にはない、という立場だった。

 

p.45~51 戦争による九州の荒廃と人身売買

1587年のバテレン追放令の第10条で、秀吉は海外への奴隷輸出と、日本国内での人の売り買いの停止を命じた。海外に売られた日本人を連れ戻すか、それが無理ならポルトガル船に買われてまだ港にいる日本人だけでも返せ、代銀は後で与える、という命令をバテレンに伝えると、バテレン側は、イエズス会は前から奴隷売買を廃止したいと思っているが、外国の貿易船を迎える九州の領主たちが、奴隷売買を一向に禁じない方が問題だと抗弁した。秀吉は、外国の買い主のほか、日本人の売り主にも禁令の範囲を及ぼして、ポルトガル船に奴隷を積み込んだ舟の持ち主を磔刑にしたと、日本イエズス会は報告している。この人身売買停止令は、九州攻めの終結直後に出されている。秀吉は島津が大友領で乱取りした人たちを見つけ出して帰国させよと言っている。これは「人返令」の一種。九州では島津軍の略奪に続いて、秀吉軍による戦争と検断と新政の暴力が加えられ、人びとの身売りや逃亡を引き起こしていた。フロイスによると、慶長元年(1596)、ある商人が大坂で売春を目的に豊後出身の18歳の美しいキリシタンの娘2人を買ったが、彼女たちは豊後大友氏滅亡のときに奴隷の身にされ、上方にまで売り飛ばされていたのだという。豊後・肥後などの国では、島津氏との激戦に始まり、秀吉による制圧、国一揆の反撃と制圧、朝鮮侵略、大友改易という激動のなかで、人の略奪や売り買いが絶望的にくりかえされていた。全国最悪とか地獄の光景とまでいわれた、戦場の村々の荒廃は、秀吉自身の側に多くの原因があった、というべきであろう。

 

p.51~57 統一政権による全国法としての人身売買停止令

戦後の激しい人の売り買いに、秀吉はどのような対策をとったのか。バテレン追放令の直後から、あいつぐ国一揆の反撃で、九州各地は戦場に逆戻り、ふたたび秀吉の平和の下に置かれたのは翌天正16年春のことだった。人身売買停止令は、これを画期としてくりかえし発動されていた。みずからの介入で激化した九州戦場の深刻な奴隷狩り・奴隷売買をどう救済するかという課題に迫られた結果であり、海賊停止令・刀狩令とともに、豊臣平和令の不可欠な一環をなしていた。この方針は、関東・奥羽攻めでも一貫していた。天正18年(1590)4月、小田原を残して北条方の全域を制圧するめどが立つと、秀吉は小田原町中の外での人の売買を禁じ、還住令を出した(秀吉からの上杉景勝宛、真田昌幸宛書簡が引かれている。55~56頁)。ただし、戦地の小田原町中には秀吉の平和を適用しない、と明記しているので、そこでは奴隷狩りとその売買も野放しだった。秀吉の人身売買停止令は、対九州令と同じく、ここ東国でも戦争終結を機に発令されていた。この事実をもとに、あらためて日本の人身売買停止令の系譜をたどれば、律令法から公家新制(治承令以後)・鎌倉幕府法を経て江戸幕府法まで、どの統一政権の法にも一貫する国禁で、いわば日本の祖法であったことに思い至る。とすれば、秀吉の全国法としてこれを打ち出したことは、ここに天下統一過程の終結、全国政権の確立を天下に宣明する意義がこめられていた、と見ることができる。

 

p.69~71 大坂町内での濫妨狼藉

大坂の陣が終わった元和元年(1615)、醍醐寺義演は「将軍が伏見城に入り、陣衆が女・童部どもを取って帰った」と書いている。『大坂夏の陣屏風』にも、戦場の町から避難する民衆に、人の略奪、物の略奪を働く場面が克明、乱妨を働く兵士の具足には葵の紋も見えるので、まぎれもなく徳川軍そのものの奴隷狩り。『三河物語』にも同様の記述がある。また、徳川軍の石川忠総は、侍・町人・百姓など30人を大坂の戦場で生捕りにしたが、侍分は切り捨て、町人・百姓は解放せよとの上意が出た、と書いている。幕府は、大坂方残党を追及する「落人改」令を出して、人取りした者のうち、大坂より外の者は帰せと命じており、戦場の外での人取りは無効(戦場=大阪での人取りは有効)とした。幕府の命を受けた蜂須賀軍は、直ちに「大坂濫妨人ならびに落人改之帳」を作成して、誰がどこで誰を捕まえたのかを記して、合法性を主張している。森三郎兵衛という濫妨人が、大坂町の後家(生国大和の者)とその息子(8歳・5歳)と娘(3歳)などと書かれている。大坂町人のその家族、次いで下っぱの武家奉公人の数が多い。蜂須賀軍によると、表向き男38人、女68人、子ども64人の計170人という数字になる。

 

p.72~73 戦争奴隷たちの行方

生捕られた人々はどこへ行ったのか。転々と売られ、ポルトガルの船に積まれて、東南アジアに送られた人々の軌跡はかなり確か。また町場の商家に下人・下女として隷属した人の痕跡も、『長崎平戸町人別帳』でわずかに辿ることができる。しかし、凶作や飢饉のつづく戦国の村々に、富家の下人となって、耕地の開発や経営の多角化に駆使されたと見られる人々の消息はほとんどわからず、わずかに武士のもとで下人になった人たちの行方が知られるのみ。それさえ、良質な手がかりは乏しい。大坂の陣の10年後、四天王寺の楽人が、伊達家中の杉田某のところで下人として暮らしている福と春松という姉弟を返してほしいと頼んでいる。これは楽人の岡家の子どもで、大坂で「取物」(捕り者)にされてしまったもの。四天王寺の楽人は他家の者が継ぐことは許されない定めで、二人が跡を継いで聖徳太子にご奉公できるようにしてほしいという嘆願だった。生捕られた人々で、確認できるものは、いずれも「下人」と呼ばれた武家奉公人として使役されているので、こうした例は少なくなかったのであろう。すでに鎌倉期には、「殺害盗犯などの重科の輩、初めは召し取るといえども、後には召し仕う」などといわれて、ヤクザまがいの犯罪奴隷たちが領主の下に抱え込まれていた。

 

p.74 近世初期の人身売買停止令

大坂の陣の後、幕府から秀吉とよく似た人身売買停止令が出されていた。発令時期に注目すると、秀吉が九州攻め、東国攻めの直後に人身売買停止令を出したのと同じように、夏の陣が終わった翌年に出されており、全国的に戦闘態勢が解除された段階に当たっている。戦いの後も人の売買や勾引売りが日常の街角に持ち込まれていたのを抑え込もうとする、戦後処理のための時限立法であった。徳川最初の人身売買停止令も、国内の戦場が閉鎖された元和偃武の直後で、事情は同じ。戦場周辺に広がった悲惨な乱取り状況を終わらせるために必要だった。秀吉から家康に引き継がれた天下統一によって、戦争奴隷の供給が断たれたのは事実だが、それによって人身売買が消滅したわけではない。「徳川の平和」後の人の売買や、新たな労働力の需要については、第Ⅳ章に後述。

 

p.77 鎌倉武士による乱取り

12世紀の末、出羽の大河兼任の乱の折、頼朝は捕虜の上進を命じ、兵の暴発を戒めた。敵方の兵士(落人)や住民(下人)の奪い合いはならぬというのだが、鎌倉武士による戦場の人取りはあって当然だが、それを敵前で奪い合う相論・喧嘩は避けよといいうものだろう(『吾妻鏡』建久元年2月5・6日条)。「夜討・強盗・山賊・海賊は世の常のことなり」「所領に離れ……野に伏し山に蔵れて、山賊・海賊をする事は、侍の習いなり」が、鎌倉武士の世界では当然のこととされていた。戦国末のイエズス会の宣教師は、日本における奴隷の発生源の第一は戦争だとしていた。

 

p.79 戦国の検断の風景

 フロイス天正14年、島津氏が豊後の大友領をほしいままに蹂躙する様子を「敵は眼前にあものすべてを略奪し、破壊し、焼却しながら、緩慢に前進していた」と報じていた。戦場の略奪も破壊も放火も殺人も、それがもし平時なら明らかな重罪であり、死刑を免れることはできなかった。それが、戦時にはなぜ正当でありえたのか。

 千葉徳爾氏は、喧嘩の大きくなったのが戦争ではない、喧嘩は私闘だから、殺害の責任は当事者が負わねばならないが、合戦とは公的な殺傷が許されている場合で、社会的責任をとる必要がなかった、と主張する*12。では、なぜ戦争では公的な殺傷や人の略奪までが許されるのか。安野真幸氏は武士が「公」の立場で行なう盗み・殺しが検断(刑の執行)だといったが、私の目を引くのは、さながら戦場を思わせる中世の検断の暴力である。(79頁)

 

中世社会には、重罪犯人の財産・権益(私物・雑具・所従・馬牛等)は、検断を行なう者の手中に帰すという原則(「御成敗式目」46条)があり、戦国の検断でも、刑事事件を起こして裁かれると罪人は死刑、その家は闕所となり、家族や財産は検断物(けんだんもつ)として、まるごと没収された。

 

p.80~81 戦場の濫妨狼藉の原型は中世の自検断にあった

だから刑の執行は、しばしば激しい抵抗を排除し、武力によって強行され、没収された人や物は、罪を裁いた検断権者と現場で刑を執行した執達吏とで山分けにされる慣行であった。中世を通じて「大犯」の重罪とされた放火・殺人・盗みが、検断の場では正当な行為として公然と行われていた。伊達氏の『塵芥集』も「科人の住所成敗のとき、財宝・牛・馬・眷属以下……奪いとるとも、是非に及ばず、……」(151条)、「館廻りにて、科人成敗のとき、かの在所、放火あるべからず、よって乱妨衆、その四壁の木材をきりとり、家垣をやぶる事、罪科に処すべきなり……」(152条)などとある。断罪に当たる代官の一行が、放火をしたり、屋敷の家垣を破壊して財物や妻子・下人を奪って、戦場さながらに放火・苅田乱取りをして乱妨衆と呼ばれていたことが触れられている。「相良氏法度」では、没収される土地を耕す作子(小作人)は捕まえてはならない(24条)、罪人の家に養われている縁者は、検断の対象となる(25条)、婚約ずみの娘でも、嫁入り前なら検断の対象である(26条)と定められていた。現実には、犯罪者の言えと生活につながる者は、小作人でも縁者でも、嫁入り前の娘でも、乱妨衆に捕まれば連れ去られてしまうのが常であった。戦場の人取りの原型は、検断の場の「眷属の検断」にあったと断定してもよいであろう。ただ、『塵芥集』の場合は、検断の乱妨、つまり中世のムラ社会を支配していた過酷な土着の法習俗と決別しようとしていたが、戦場の濫妨狼藉を見ると、過酷な検断の正義は、敵と敵地においては、中世を通じて野放しであった。

 

p.81 骨川道賢に見る乱妨衆と乱妨人

応仁の乱の頃、骨川道賢という名で都に知られた足軽がいて、ふだん獄吏の手下をしていたが、盗賊たちの動静にもよく通じ、「目付」と称して、300余人の子分を引き連れて京の街角をのし歩き、戦いといえば蠅のように集まってきて、敵軍の糧道を断つのにも活躍した、という。獄吏―盗賊―足軽という繋がりの中に、検断の乱妨衆と、雇われて戦場で活躍する乱妨人との深い関りが見えてくる。

 

p.82 中世検断の暴力

南北朝内乱の頃、播磨矢野荘(兵庫県相生市)にも「濫妨人」があらわれた。永和3年(1377)の暮れ、名主や百姓たちが年貢を拒否して寄合いをしているところへ、浦上某が「数十人の悪党を引率」して押し寄せ、打擲・蹂躙・奪取・召取などの暴行を加え、35人を拘禁、また大勢の「濫妨人」が百姓らの住宅を「追捕」、壺や釜や鍋などを破壊、資材・雑具を奪い取ったという。軍書には、敵軍が領内の村や町を荒らすのを「追捕」と書くものもあるが、もともとは職権による人や家財の差押えを意味し、その実態はむきだしの暴力であった。鎌倉時代の正応4年(1291)にも紀伊の荒川荘(和歌山県桃山町・粉河町)で、悪党発心の断罪と称して追捕が行われ、武装した数百人が発心の住宅に押し入って、資材を奪い、堂舎・仏像以下、30余宇の人屋を焼き払った。没収は徹底的で、本人ばかりか家族・家来の資材にも及んだ。建治元年(1275)には、荒川荘と同じ高野山領だった阿弖川荘(和歌山県清水町)の百姓たちは、地頭の非道な検断ぶりをくりかえし告発していた。だが鎌倉幕府法(追加287条)は、百姓が年貢を滞納すれば、百姓を身代に取るのは「定法」だと公認しており、それは合法とみなされていた。

 

p.83 いのち助かる儀

とはいっても、戦場の略奪は、まったく自明の正義とされていたわけではなかった。戦国大名は、しばしば神々に願文を捧げて、戦争の正当性を神の名において世の中に認めてもらうパフォーマンスを行なった。戦場で捕えた人々を我がものにする戦争奴隷の習俗が、イスラム世界でもキリスト教世界でも、日本の中世でも、正当なこととして許容されたのは、検断の正当性だけによるものではなかった。西欧のキリスト教社会では、戦争奴隷が生命の不可侵観によって容認されていたというが、日本の中世にも「飢餓相伝の下人」ということばがあって、飢饉のときに養った者を下人とすること(飢饉奴隷)は正当であるという、ぎりぎりの生命維持の習俗があった。また、死刑となる重罪人を許して下人(犯罪奴隷)とすることも正当である、とされていた。餓死や刑死によって失われるべき生命を助けるということで共通していたと思われる。ゆえに、戦死すべき生命を救うことで下人(戦争奴隷)とすることが許された、と見るべき余地があるかもしれない。


Ⅱ 戦場の雑兵たち


p.94 傭兵は主要な輸出産業

 そもそも、傭兵となる男たちはいろいろな意味であぶれ者であった。オットー・ブルンナーによると、中世後期に見られる傭兵は、零落した者、さすらい人、犯罪者たちの織り成す地下世界から、そして平和喪失者たちから募られた、という。さらに言えば、貧窮にあえぎ、とてもその地に住むすべての人々を養い切れない地方から、傭兵がやってきた。傭兵は、これらの地方にとって、主要な「輸出産業」であった。
              ――山内進『略奪の法観念史』

 

p.95~100 謙信の戦争は口減らしのための一大ベンチャーだった

フランス中世史家ジョルジュ・デュビィ『ヨーロッパの中世――芸術と社会』は、たえず飢えにつきまとわれながら、生命をつなぐために精いっぱい道を往き交う、中世前期のヨーロッパの人々の動きをとらえている。ことに私は「冬は越せるのか、春まで持ちこたえられるのか」という言葉に引かれる。上杉謙信の軍は、北関東で城を落とすと、その城下で人の売り買いをしていた。上杉軍が関東へ攻め込んだのは、「万民餓死に及ぶ」といわれた永禄8年(1565)の冬11月、越後へ引き揚げたのは翌春の3月で、出稼ぎさながらだった。謙信の20回を超える国外遠征には季節性が読みとれそうだ。晩秋から年末の冬型(短期年内型)と、晩秋に出かけて戦場で越年、春に帰る(長期越冬型)があり、関東へは長期越冬型が多い。北信濃へは、麦秋でなければ、稲の収穫期に集中。能登出兵は、半分くらいが稲の収穫期で、ほかは春夏の短期決戦が多い。近くの戦場では、作荒らしか収穫狙いの短期決戦、遠い関東の戦場は、秋の収穫狙いから、冬季の出稼ぎ型(口減らし型)の長期戦争が多かった。二毛作ができない越後では、畠の作物が取れる夏までは端境期といって、村は深刻な食糧不足に直面、冬場の口減らしは切実な問題だった。宮本常一によると、焼畑などで暮らす山深い村々では、耕作だけでは生活できず、農閑期になると、男たちは谷を下って、里へ物乞いに出た。不作に弱い山の中では、働いても一年を食いつなげず、凶作の年などはそうするほかなかったという。農閑期・端境期の戦場は、たった一つの「口減らし」の場だったのではないか。中近世のヨーロッパでも、戦争が最大の産業であった、という。そこで謙信は、関東管領の大看板を掲げて戦争を正当化し、雪のない関東で食いつないで、乱取りで稼いで越後に戻った。戦争のこの季節性は、近世初めの下っぱの武家奉公人たちが、「2月・8月、1年に両度の出替」とされた習俗を思い出させる。越後にとって英雄謙信は、純朴な正義漢やあばれ大名どころか、雪国の冬を生き抜こうと他国に戦争という大ベンチャー・ビジネスを仕掛けた救い主、ということになるだろう。しかし、襲われた村々は地獄を見た。

 

p.100~101 春に飢える

デュビィは10世紀のヨーロッパの暮らしについて、冬を越せるか心配が尽きなかったと書いている。冬から春へ、16世紀の日本の戦争が、こうした季節出稼ぎ型になるのは、端境期の飢えと深い関係があった。戦国時代は「春になると、必ず飢えがくる」のが常だったことを、田村憲美氏が明らかにした。千葉県松戸市日蓮宗本土寺に伝わる中世の過去帳から、1394~1592年までの死亡者463人を取り出して、死亡月を分析して、中世の人の死には季節性があることを突き止めた。中世には、平年作の年にも、凶作の後にも、決まって「早春から初夏にかけて死亡者が集中し、初秋から冬にかけて低落する」という共通したパターンが現れる。19世紀になると、平年の死亡率には、こうした季節性が見られなくなるという。また、ピークの端境期を乗り切っても、さらに下痢の集中する夏と、風邪の多発する冬にも、かなりの死者が集中していたという。この分析をうけて、中国史家の上田信氏も、浙東の『続譜』を調べて、16世紀の死亡動向が日本とまったく共通することを指摘、ただ日本の場合、大きなピークが春から初夏の1回だけだが、中国では春(2月)と秋(9月)に2つのピークを示すという。二期作二毛作のためだろうという。しかし中国も18世紀の終わり頃には、どうにか端境期の飢えを克服していたらしい、という。

 

p.101~102 戦国時代の凶作と飢饉

中世飢饉データベースというのを作ってみた。287頁に「戦国期の災害年表」として掲出。戦国時代が、想像を絶する厳しい飢饉の時代でもあった様子が見えてくる。謙信が初めて関東に攻め込んだのは、永禄3年以来の凶作・飢饉・疫病のさなかで、陣中でも疫病で敵味方が多く死んだ(『赤城山年代記』)という有様であった。その惨状は、同5年まで及んだ。甲斐でも永禄5年は「稲皆損」、6年は「言語同(道)断に悪し」(『勝山記』)という状況だった。謙信が北関東の戦場で人の売り買いをした永禄9年は、3年続きの凶作だった。京では「大饑、天下三分の一死す」(『享禄以来年代記』)といわれた。永禄11年あたりからしばらく深刻な凶作や飢饉の情報は、しばらく影をひそめる。

 

p.103~106 百姓が出稼ぎで戦場や普請場へ

「もともと戦場は、春に飢える村人たちの、せつない稼ぎ場だったのではないか」(103頁)。天正元年(1573)秋、伊豆の西浦(田方郡)の人たちが村を捨てようとしたとき、安藤豊前という北条氏の家来は、「どこへ出ても人の主になることなどできず、侍でも人の草履取りが精一杯だから、堪忍して百姓に精を出すのが一番ではないか」と、懸命に説得した。裏を返せば、「人の主になろう」とバラ色の夢を見て村を出た男たちがいた、ということになる。だが、すべての村人が出世目当てで村を出たと楽観的に見るべきではない。現実には、「人の主になろう」というのではなく、武家奉公人の稼ぎ、つまり流れの傭兵づとめを目当てに百姓たちが村を出る動きは、秀吉をも悩ませていた。天正13年(1585)、関白になった秀吉は、翌14年の年頭に「定十一か条」の第4条で、百姓が年貢や夫役を拒んで隣国に移るのを禁止して、村ぐるみで連座とすると命じた。2年後、秀吉は近江高嶋郡の百姓中に「田畑を捨て、武家奉公人になる者は召し返すこと」と指示しているが、じつは、もともと目安(訴状)を出して秀吉に農村対策を嘆願したのは百姓たちの方だった。不作の田畑を耕すより、町で武家に奉公するほうがマシ、という状況が生まれていたが、秀吉にも手の打ちようがなく、雇い主や代官に断って村に連れ戻せというお座なりのものだった。武家の奉公人需要といえば、日ごと激しさを増す秀吉の統一戦争の雑兵か、上方で始まっていた巨大普請の人夫しか考えられまい。次いで天正19年(1591)の秀吉令では、「百姓で、田畑を打ち捨て、あきない、あるいは賃仕事にまかり出る輩があれば、成敗」と言っている。村を出た百姓たちは、明らかに都市をめざしていた。石田三成の掟を見ると、百姓が奉公人・町人・職人などをめざす動向が進行し、政権が一貫して必死の対応を迫られていたことがわかる。

 ことに秀吉の天下統一が進むにつれて、地方に広く分散していた戦場が消えて、村人の出稼ぎ場が中央や地方の拠点都市へ集中し始めていた。秀吉の平和は、全国の戦場から中央・地方の都市へ、稼ぎ場の集中と村々の激しい過疎化を引き起こしながら推し進められていたことになる。(106頁)

 

p.106~108 大坂の陣の出稼ぎ

 江戸初期の村人にとっても、戦場は魅力ある稼ぎ場であった。慶長十九年(一六一四)冬、大坂で戦争が始まる、という噂が広まると、都近くの国々から百姓たちがとめどなく戦場の出稼ぎに殺到し始めていた。(106頁)

 

冬の陣を目指す村人たちの「夜ぬけ」があいついで、その後始末に村は頭を抱えていた。大坂城内には大勢の牢人(戦争がなくなり失業していた武家奉公人)が乗り込んでいたが、そのなかには、百姓たちも「来年のいつころ迄と約束候て、山越えにて籠城」と報じられた。農閑期だけ籠城して帰る、という約束だったのだろう。大坂の城中はこうした傭兵たちでごったがえし、「日用(日雇)など取り籠め、むざとしたる様躰」だったという。徳川方だった伊勢の新宮領でも、又蔵と申す者が、奉公人(傭兵)を希望する百姓を集め、大坂へ送り込んでいたらしい。あわてて浅野忠吉が取り締まりを命じた。こうした奉公は、下克上どころか、貧しさゆえの走り百姓と区別できないほど、せっぱつまった行動だった。いざ戦争となれば、傭兵集めを仕事にする手配師が、村々に入り込んで活躍。とくに冬の陣のような農閑期なら、人集めもたやすかった。それを阻止しようと、大名は侍衆(奉公人)を村々にやって監視させようとするが、その奉公人たちまでも大坂へ走った者があったらしい。戦場のひと稼ぎを狙って、武家奉公人も百姓も浮き足立っていた。夏の陣のとき、奈良に出陣した家康は、村々に大坂方への「奉公競望」があいついでいるのを見て、庄屋たちに「もし雇われて家来奉公に出れば、子々孫々、親類まで成敗」と脅しをかけていた。戦争と聞けば、農繁期でも人々は競って戦場に殺到した。冬の陣の初め、多くの傭兵がほしい前田家でも、一年契約の奉公人たちに、戦争の続く限りはクビにしないと約束したが、冬の陣が終わった直後に、早く戦いが終わったので、侍・小者を問わずすべて解雇する、と通告した。なお、若党・小者など一年契約の奉公人を二月に入れ替える習俗は、慶長末年ごろまでには成立していた。この出替わりも、もとは2月(耕作の初め)と8月(収穫の終わり)の2回だったが、幕府は元和4年(1618)に、2月だけに公定した。

 

p.111 軍役は武士の務めで、百姓は嫌々だった

戦場では大名たちが「乱取りばかりにふけるな」などとくり返していたが、金で雇われて戦場に来ても、乱取り目当てでまじめに戦う気など初めからない傭兵たちがたくさんいて、大名も手を焼いていた。大久保彦左衛門も「夫・荒子」などを「役にも立たざる者共」と言っていた。戦国の村々には、強制された徴兵は身替わりで済まそうという気風が強かった。もともと軍役は武士の務めで、百姓のやることではないという兵農分離の意識が深くしみ透っていたのではないか。

 

p.120~124 渡り中間

戦国の中間や小者は、自分の気に入らなければ、勝手に主人を替えたので、新旧の主人でもめ事が絶えなかった。早い例では、北信濃の高梨一族が宝徳元年(1449)に「他人の中間を召し使うなと取り決めたのに守られていない」と、再度の申し合わせを行なっている。弘治2年(1556)の結城氏新法度104条には、下人が近隣の他所の領主にも仕えていたことをうかがわせる記述がある。下人が複数の主人を取っていたことは、下人や「かせぎもの」、洞中(うつろちゅう)が一人の主人に隷属していたという思い込みを裏切って新鮮である。「かせぎもの」「かせもの」というのは、「悴者」と書いて、侍身分で中間や小者などの下人よりは少し上の身分で、名字もあった。悴者の行動範囲は、敵味方の境を越えていたので、結城氏は24条で、敵境より流れてくる悴者や下人は使うなと定めた。天文5年(1536)の今川領では「寺領の百姓ら武士へ奉公すべからず、いわんや他所へ出るの事」といって、奉公人としてよそへ行く百姓たちの動きを規制していた。相良氏、毛利氏、今川氏、伊達氏、武田氏は、奉公人の流動に規制をかけた。奉公人をめぐって家来同士で紛争になるのを避けるため、厳しい処理手続を講じた。引き抜きなどもあったのだろう。『雑兵物語』を見ても、どうも下人の方から主人に愛想をつかして渡り歩いたらしい。底辺の奉公人たちの流動性は、想像以上に激しかったらしい。家康の一族だった松平家忠は、『家忠日記天正18年(1590)の6月末から7月初めにかけて「中間かけ落ち候」「中間共かけ落ち候」と書き留めていた。北条氏滅亡、平和到来という時に、勝ち戦の側の中間たちが、なぜあいついで逃亡したのか。日記は理由を明かしていないが、流れ中間たち、つまり渡り歩く傭兵の生きがいは、平和で安定した奉公よりも、荒稼ぎのできる戦場だったので、次の奥羽仕置の戦場に身を投じていたのかもしれないと推測する。

 

p.125~129 雑兵のファッションと傾奇者

流れ勤めの奉公人のいでたちは、よほど人目を引くもので、結城氏の法(64条)に描写されている。結城氏の中間・小者などの下人たちや、他所の足軽たちは、よほど異様な身振りや派手な衣装(をどけたる真似、をどけたる衣裳)で領内をのし歩いていたらしい。それに影響されて、上に立つ武士たちまで、真似をする風潮が広がっていた。中世では、身なりや服装が身分の標識とされていたので、下人や足軽の風体には口出しできないが、武士が下人の身なりを真似ることを懸命に抑えようとしていた。秀吉も天正14年(1586)正月に、諸侍が尻切(しきれ=雪駄のもとになった草履)を履くのを停止、若党や中間・小者が粋な雪駄姿でのし歩いていたから。どうもこれが江戸時代の町触れに出てくる「町人、長刀ならびに大脇差を指し、奉公人の真似を仕り、かぶきたる躰をいたし」というのと同じものらしく、町人が奉公人のような格好をするのは盗人と紛らわしいから禁止ということになった。戦国大名の懸命な取り締まりの裏で、こうした雑兵たちの風体は、武士や町人のあいだにまで大流行して、桃山風俗を彩っていたようだ。

 

p.130~132 悪党の働きに便乗して女捕りをする奴は処罰だ

戦場で乱取りを仕切っていたのは、村々の出稼ぎ兵だけではなかったようで、結城氏の法(27条)にこんな規定がある。

 

 一、草・夜わざ、かようの義は、悪党その外、走り立つもの、一筋ある物にて候、それに事言い付け候ところ、若き近臣の者共、表向きはすすどきふりを立て、内々は……女の一人も取るべく候わん方心がけて、言い付けられぬに、何方へもまかり……(130頁)

 

夜中ひそかに敵陣をかき乱す忍び作戦(草・夜業)は、もっぱら悪党たち任せの仕事だが、この頃、大名の側近の中に、表向きは悪党の助っ人と称してこれに便乗して若い女の一人もさらってこようという者がいるが、そんな奴は恩賞どころか、所領も没収だ、という。結城領では、草・夜業の作戦に、ふだんからプロの悪党や忍びが雇われていて、敵地での人取りも彼らの特許だったらしい。だから結城氏は、敵方との境界の村と半手の協定を結んだとき、結城方にさらった人民はすべて返し、今後は「夜盗・朝がけ・乗込」などは仕掛けないという約束を交わした。忍びの人取りは、報酬として黙認されていたのだろう。侍(若党や足軽)や下人(小者や中間)や里の者(村人たち)は、よその軍隊にまで雇われて、山賊やスパイまがいの仕事までやってのけ、傭兵として自由に活躍していた。今川仮名目録31条も「私として、他国の輩の一戦以下の合力をなすこと、同じく停止」と定め、敵方の傭兵に雇われる動きを、懸命に抑えようとしていた。

 

p.132~133 侍(若党・足軽)は渡りで稼ぐ強盗だった

北条方の支城だった武蔵松山(埼玉県吉見町)城主の上杉憲定は、天正18年(1590)春、秀吉軍との決戦を前に兵を募集して、「夜走・夜盗はいくらでもほしい」「侠気のある強健な者がほしい」「前科者も借財のある者も、みな帳消しにする」という制札を掲げた。中国地方の軍記『陰徳太平記』も、「足軽の歩兵などは、武功があれば山賊・強盗も構わずに召し集めて、夜討・忍討などで戦功をあげた」「並々の若党・足軽以下は、みな山賊・海賊」「侍は渡り物にて候ぞ」と書いている。それらは「がんらい強盗を業として世を渡りける奴原」で、敵陣に夜討・忍討をかけて火を放つ戦闘のプロだから、戦争には不可欠である、という。松山城主がヤクザ兵を集めたのは、追い詰められて惑乱したのではなく、もともと侍とはそういうものだったから。

 

p.133~135 戦国大名はプロの悪党を利用していた

相良氏の晴広法度33条には、人より雇われて、夜討・山立(やまだち=山賊)・屋焼(放火)などを働いたら、雇われた者も、雇った者(口入屋)も処刑する、とある。相良氏も結城氏と同じく、夜討・山賊・放火のプロを雇っていて、彼らを独占しようとしていたが、悪党たちの集団がいくつもあって、だれにでも雇われるから困っていた。毛利系の『永禄伝記』も「小勢の大軍に入る、夜討・焼働きにしくはなし」と説いていた。相良氏周辺の悪党については、安野真幸氏の研究があって、相良氏法度の29~41条は、すべて悪党を取り締まろうとするものだった。「やもめ女をだまして、女房にすると偽って誘拐したら、盗人の刑」「つかまえた逃亡下人を私物化したり、元の主人から法外な礼銭をとるな」「旅の占い師(祝・山伏・物しり)に宿を貸したり、雇ったりするな」「集団でスリを働く連中を、むやみに雇うな」等々。軍記『陰徳太平記』にも、若党・足軽以下の雑兵たちは、もともと盗賊が本業の溢れ者で、戦争と聞けば、どこからともなく集まってきて、敵を討ち取っては相手の鎧・太刀・馬などを奪い、「自分の徳分」にしてしまう。我欲のためだから、命知らずにどんな堅陣・難敵でも打ち破り、抜群の手柄を立てる。大名はこの連中を必ず雇っている、と。折口信夫は「ごろつきの話」で、次のように書いた。

 

諸大名が出世をしたには、皆彼等の手を借りている。彼等は、戦国の当時には、殆ど傭兵として、諸国の豪族に腕貸しをしている。後に大名になったもので、彼等の助力を受けていないものは殆ど一人もない、と言うてよかろう。(135頁)

 

p.135~136 鎌倉末期と戦国の悪党像

こうした戦国の傭兵像は、鎌倉末の悪党像を思い起こさせる。悪党は、非人のような柿色の帷を着て、女のように六方笠をかぶり、烏帽子・袴も着けず、竹で編んだまちまちな矢籠を背負い、すっかり色の剥げた太刀をはき、竹槍代わりの長い撮棒(さいぼう)を杖にして、鎧や腹巻も帯びず、10人、20人と群れをなして、人と顔も合わせずに忍び歩いている。戦争に雇われれば、分かれて城籠りにも寄せ手にも加わり、あっさり寝返って敵方を引き入れる。決まった相手には雇われず、博奕を好み、忍び小盗みを業とし、乱妨・海賊・寄取・強盗・山賊・追落を働くという。これは偏見の入った証言で、鎌倉期の悪党の実像かどうかはわからないが、戦国の悪党たちと同根のものだろう。「切り取り強盗は武士の習い」「押し借り強盗は武士の慣い」という諺は中世の初めには生まれていた。鎌倉時代に「夜討・強盗・山賊・海賊は世のつねのことなり」と公言されていた。


Ⅲ 戦場の村――村の城


p.154~156 高みの見物論

戦場の主役は武士たちで、一般住民は高みの見物を決め込んでいたという説があるが、たしかに南北朝時代の京の合戦では、「洛中のことなれば、見物衆五条橋を桟敷とす」などという光景が見られた。戦国の日記にも「出陣のあいだ、見物のため寺家衆を率いて遊覧」とか「諸勢の陣替えを見物のため遊覧」などという話もある。民衆が傍観者だったというのは、民衆がいかに戦争から疎外され、無力だったかを描こうとしたものだろう。しかし、いつものんびり見物していたとか、いつも戦場の民衆は無力だったという意味なら、軽々しく賛成するわけにはいかない。紀泉国境の和泉日根荘入山田4か村の人々は、「国衆(守護軍が)寄せ来たらば、地下(村人)は山へ取り上りて、見物申すべきなり」と申し合わせていた。しかしこれは、山籠りをして戦火を避けるということで、自衛のためであっても、大っぴらに武装して村の城に籠れば、公然と守護に敵対したことになるので、国境地帯での中立と平和は保てない。だが、生命・財産は守らなくてはならない。高みの見物の裏には、そういう冷静な計算が隠されていた。強い方に味方して、村に平和を保障してくれる者に従った。天正10年(1582)、織田信長も「大百姓などというのは、草のなびきや時分を見計らって行動する者だ」と家来を戒めていた(『武家時紀』29)。これを百姓のひ弱さと見るのは皮相で、むしろ、徹底した日和見で、自衛の力を蓄えながら、平和な暮らしを願う、強い中立の意思のあらわれであったと、私は見る。勝俣鎮夫氏は、「誰でもいい、強い者につく」という村の生き方は、武士たちの主従の哲学とは正反対のもので、おそらく戦国の百姓すべてに共通のものであったと説く。百姓と武士の考え方は別世界のもので、兵と農の分離の意識は、戦国の初めにははっきりとした形を取っていた、ということになる。


Ⅳ 戦場から都市へ――雑兵たちの行方


p.204 武家奉公人が浪人化

 かれらは姓を名乗れず、名ばかりの男たちであったが、かれらこそ騎馬の士分たちをささえる戦闘要員であり、物資運搬の支援要員であった。そして、平和の時代はかれらを大名家臣団からはじきだし、「軽き浪人」として巷にあふれさせることになったのであった。士分に当あたる武士の牢人よりも、足軽・中間・又者が職を失い牢人になることのほうが、量的にも質的にも、社会の諸方面に大きな影響をおよぼした。
     ――朝尾直弘「十八世紀の社会変動と身分的中間層」

 

p.205~207 戦場閉鎖と失業問題

端境期を戦場でどうにか食いつないでいた村の傭兵たち、凶作で田畑を捨てて戦場を渡り歩いていた中間や小者たち、戦場を精いっぱい暴れまわっていた悪党たちにとって、戦場は明らかに生命維持装置の役割を果たしていた。戦争は、あいつぐ凶作と飢饉によって疫病によって、地域的な偏りを生じた中世社会の富を、暴力的に再分配するための装置であった、とさえいえるかもしれない。だが、天正18年(1590)の小田原を最後に、国内の戦場はすべて閉鎖、折口信夫は「ごろつきの話」で、平和になったのはいいが、ラッパ・スッパの連衆をどう処置するかで政権は困惑したと書いている。生命維持装置を失った人々は、どうやって生きていくことになったのか。戦争の廃絶で、日本社会は大変な困難に直面したのではないか。そう考えると、朝鮮侵略の意味はまことに重い。秀吉は名誉欲に駆られたというよりは、国内の戦場を国外に持ち出すことで、ようやく日本の平和と統一権力を保つことができたという方が、現実に近いのだろう。戦場の閉鎖とともに普請場と金銀山へ向かう人々の激流のような流れもあって、日本社会に大変な難題を突きつけていたようだ。

 

p.207~210 あやしい浪人の追放

天正18年(1590)、秀吉は浪人停止令で、浪人を禁止、村から追放せよと命じた。村にいて「俺は侍だ」といって、主も持たずに田畑も耕さない奴は追放という内容だが、ここでいう浪人は主家を失った武士ではなく、侍・中間・小者・あらし子に至る、身分の低い武家奉公人。戦場で主人を助けて戦うのが若党や足軽で、これが狭い意味での侍。あとは下人と呼ばれた。この浪人停止令は、平和の実現によって稼ぎ場を失った、臨時雇いの侍の取り締まりで、のちに対象は下人にまで拡大。もともと職人・商人の心得のある者は、田畑を作らなくても村追放とはしない、ともしているので、主人をもたない得体の知れない侍の排除(人掃い)が主眼であったらしい。ところが、にわか百姓は認めていて、にわか職人やにわか商人には厳しいのはなぜか。とうも、浪人たちが商人・職人になって戦場から町場へ集中する動きが起きていて、それを抑えなくてはならないという事情があったらしい。主持ちの奉公人といっても、雇い主の武士も貧しいから、大勢は雇えず、ふだんは村や町で百姓・商人・職人を兼ねて暮らしていた。なので、奉公人には身分標識として、二本差しを認めた。奉公人は百姓とは身分が違うとされていたので、主なしの得体の知れない奉公人というのは身分法令の上で問題だった。

 

p.211~212 ヤシの起源は野武士、悪党だ

浪人停止令の第4条では、毒の売買が停止されている。毒は中世では「毒飼」とか「毒害」といって、人殺しにも川漁にも使われたらしい。狂言『鳴神』にも、都を食い詰めた怪しげな塗美の薬屋が登場するし、肥後の「相良氏法度」も旅まわりの素人の祈念(呪術師)・医師(くすし、薬師)を禁じていた。ヤシ(薬師・香具師)の起こりは、野士つまり戦国の野武士たちが飢渇(けかち・飢餓)を凌ぐための売薬に始まるという(『守貞漫稿』)。安野真幸氏はこれに着目し、この素人の医師というのは、野武士まがいの薬売りで、スッパ・ラッパ、ヤシ・テキヤの世界とも深くつながっており、人殺しのプロと毒薬売りは、もともと一体だったに違いない、という。決まった奉公先のない侍は、危険な毒薬売りか、闇の殺し屋と見られていたのである。浪人と毒薬の停止令は、悪党たちの封じ込め作戦でもあったことになる。

 

p.227~246 新たな奉公人軍需

秀吉は戦場を朝鮮に持ち出し、新しく巨大な軍需を作り出していた。奉公人集めに努めるように命令し、十分な用意を求めていた。加藤清正も国元へ2000人を集めるように指示している。侵略の開始とともに、その需要は「何れも限りあるまじ」といわれるほどの状況にあった。これが、田畑を捨てて奉公に出る百姓を引きつけて、村々を激しく流動させる引き金であったことは間違いないが、他にも動因があった。大坂築城に始まる城下町の建設ラッシュ、諸国のゴールドラッシュという巨大な公共事業が、底辺の人たちの吸収先となり、やがて治水干拓などの巨大開発が第三の吸収先となる。かつて足利義政銀閣などは幕府財政の窮乏や飢饉を顧みない悪政といわれたが、普請人足を養う公共事業ではなかったか、検討の余地がありそうである。しかし、普請場の日用に出ることは農村の耕作を揺るがせたから、秀吉は日用停止令を出した。武家奉公人もきちんと雇わずに臨時の日用でまかなうような武士がいたから、常勤の者を雇うようにと命じられていた。しかし、どうも大名の目指したのは、耕作さえきっちりすれば、農閑期に単身で他領に日用取りに出るのは本人の自由だ、ということらしく、百姓からの正規の夫役にしても、夫銭だけを出させて日用を雇い、百姓には耕作に専念させた方が効率的だというのが、大名たちの判断であったという。徳川幕府は、寛永18年(1641)に、諸大名の領内の出身者であっても、妻子を連れて長く他領に住みついている者を無理に呼び戻してはならないと指示した。諸藩が人返令で領内の労働力を確保する一方、幕府は三都の労働力を確保する必要から、諸大名に対して人返令の停止を命令していた、という。人返令が幕藩の農民の土地緊縛令とみなせるかどうか、再検討の余地がある。近世初期の公的な普請は、関ヶ原から元和末年までに45件、その他にも各地で大名自前の築城があった。

 

 あいつぐ築城という巨大な公共事業によって、戦場に代わる新たな稼ぎ場が、どれだけ用意されていたか。つまり戦場を閉鎖し平和を保ち続けるために、日本社会がどれほどの規模の公共投資(社会の富の再配分)を強いられたか。この一覧表〔245頁の善積美恵子氏「手伝普請一覧表」〕はそのことを示唆してくれるに違いない。(246頁)

 

p.247~250 雑兵が町中で悪事を働くのを禁止

ところが、普請場の労働環境は劣悪で、治安も悪くなった。食えない人夫たちは、乞食になって京都にあふれている、と『当代記』にある。

 

 都市の普請ラッシュ、つまり新たな大規模公共事業にありつこうと、都市の普請場へ向かう人々の本流は、戦場の雑兵から都市の日用へと、秀吉の予想した流れをはるかに超えて、村の地滑り的な荒廃を引き起こしながら続いていた。日用停止令の直面した現実はこれであった。

 日本の戦場をすべて閉ざし、都市に人々を吸収したことによって、秀吉は都市の治安の問題でも、ただならぬ難題を突きつけられていた。(248頁)

 

慶長2年(1597)年には、秀吉から辻切・スリ・盗賊取り締まりの「御掟」7か条が出された。秀吉はすでに天正18年(1590)にも奥羽で盗賊停止令を出している。戦場の乱取りを日常に持ち込もうとする雑兵たちの逸脱を抑え込もうとするもの。「御掟」によると、侍・下人など下っぱの奉公人たちが悪党の所業をせぬように、侍には五人組、下人には十人組を組ませて連判で誓約させよというものだが、大名に抱えられていた雑兵がこれに加担していたことが問題だった。

 

p.252 スリの起源

スリというのは、もともと集団で大名に雇われていたスッパ・ラッパの仲間が、分かれて単独で行動するようになったものだ、というのが通説だが、戦国のスリは群れてのし歩いていたしい。九州の「相良氏法度」三九条は、「すり取りの事、くみ候てすり申し候あいだ……」と警戒する。厄介なのは訓練された組織でスリを働く連中で、そんな荒っぽい悪党の群れが、戦国初めの相良領に出没して、町場の人々を悩ませていた。
甲陽軍鑑』も「奉公人の悪事九か条」に盗みや辻切をあげ、「すり・がんどう(強盗)のわざ」は「ほんの武辺をしかと存ぜざる」下々の侍のやることだ、と非難していた。毛利輝元も普請掟七か条で「無奉公のいたづら者」を排除せよ、「すり」にやられても深追いするな、夜中に出歩くな、と定めていた。都の普請場の頽廃ぶりが顕わである。(252頁)


エピローグ――東南アジアの戦場へ


p.267~270 東南アジアの日本人傭兵

秀吉が死んで朝鮮から日本軍が撤退した翌年、慶長4年(1599)7月、スペインのマニラ総督テリョは、国王宛の軍事報告で、行き場を失った日本兵が、新たな稼ぎ場を求めてルソンを狙っていると警戒感を募らせていた。ルソンには荒っぽい力仕事に安い金で雇われていた貧しい日本人の日雇いや傭兵がいくらでもいて、スペイン人の家庭にも日本人の奴隷が非常に多く、治安を脅かすほどの大集団になっていた、という。朝鮮に持ち出された日本の巨大な戦争エネルギーは、東南アジアに押し寄せ、日本人傭兵や奴隷が呼応して反乱を起こすおそれがあると緊張していた。スペイン人のメンドーサも、日本人は耕作よりも戦争に熱中して、たえず武芸と略奪に鍛えられ、近隣諸国に恐怖を与えてきたと分析。それ以前からもマニラでは、日本人襲撃の懸念が報告されていた。秀吉が海賊停止令でその倭寇世界をまとめあげて強行した朝鮮出兵は、東南アジア世界への日本の殴り込みと受け取られ、強い警戒心と緊張を植え付けていた。一方、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダの兵站基地として、日本は重要な位置を占めようとしていた。諸研究によると、16世紀末から海外に渡った日本人の総数は、おそらく10万人以上、その一割ほどが東南アジアにいたと推定され、海賊・船乗り・商人、失業者・追放キリシタンのほか、西欧人に雇われた伝道者・官吏・商館員、船員・傭兵・労働者・捕虜・奴隷など、様々。海外に流れた日本の若者は、鉄炮や槍をもって戦争に奉仕する「軍役に堪える奴隷」「軍事に従う奴隷」として珍重され、自ら志して奴隷となり、解放後に放浪する者も少なくなかった。イエズス会のカブラルは、1584年に、日本人を雇い入れて中国を武力で征服しよう、「彼らは打続く戦争に従事しているので、陸・海の戦闘に大変勇敢な兵隊」だ、とスペイン=ポルトガル国王に提案していた。

 

p.271~272 西欧諸国に傭兵・武器・食糧を提供していた日本

日本人傭兵のマニラでの評判は悪く、有害なる国民にして、不面目な罪を犯し、多大なる害毒を流す。好戦的で、略奪のための船で、この国と海岸を荒らしまわった、という。その代表がシャムの山田長政で、日本では徳川方の小大名・大久保忠佐に仕えたカゴかきだったという。日本人傭兵たちの源流がしのばれる。1608年、マニラで日本人1500人の大暴動が必至という情勢になると、総督は日本人の退去を命じて、幕府に抗議した。幕府は介入せず、「呂宋法度の如く、成敗いたさるべし」とつっぱねた。1500人もの在留日本人は、幕府の保護を失い、棄民となった。1615年、マニラ総督はオランダ軍を攻撃、そのときに500人の日本人を薄給で雇い入れたが、暴れ者ばかりで統制が取れず、シンガポールで陸に追放した。スペインに雇われながら、敵のオランダ軍に情報を流したり、救援したりしていたという。こうして、金で買われた日本人の傭兵や日雇いたちはとめどなく海を渡り、西欧諸国が東南アジア各地で要塞を維持するため、日本で調達する武器・食糧も膨大な量にのぼった。

 

p.272~275 オランダに雇われた日本人傭兵

家康はポルトガル・スペインについでオランダ・イギリスを呼び込み、対外友好・機会均等・取引自由の外交を堅持した。加藤栄一氏の研究では、日本の平戸商館は、オランダの軍事行動を支える、東南アジア随一の兵站基地と化し、あらゆる軍事物資が積み出された。1612年、オランダ船のブラウエル司令官が平戸に入港、幕府の許可を得て日本人傭兵を海外に連れ出すのを目的としていた。彼はバンタンの総督に、幕府がそれに同意したことを書き送っている。傭兵といっても低賃金の奴隷的な兵士だった。平戸が戦略的な中継基地として重視された要因の一つは、日本が高性能の武器のほか、安い労働力(傭兵)の供給源だったからという。ただ、幕府が見て見ぬふりをしていたのは事実だが、公認したという証拠は知られていない。岩生成一氏によると、契約期間が終わった後、自由市民として現地で活躍したもなのも少なくなかったという。姓をもつような頭人クラスはともかく、小百姓ふうの傭兵たちは、果たして自由市民になれたのか。

 

p.275~280 幕府は傭兵と軍需物資の禁輸を決定

蘭英防禦艦隊が平戸を母港にし、幕府に2000~3000の公認の日本軍の動員を求めた。国際紛争の介入に慎重だった幕府はこれを拒否、1621年に異国への人売買と武具類の差し渡しを禁じた。幕府は奴隷も傭兵も区別なく、人身売買停止令で取り締まろうとした。傭兵の禁輸はオランダ・イギリスに衝撃を与えた。日本人傭兵なしでとうてい東南アジアの戦争を戦えない、軍需品の供給ができなくなれば戦況に深刻な打撃を与えるから、日本貿易が制限されないように将軍に請願せよと、インド総督は本国と平戸商館に要請。また、将軍の領海内であらゆる海賊行為を禁止したため、海上のどこまでの範囲に日本の権利と裁判権が及ぶのかを明らかにすること、日本の近海でポルトガルイスパニアの商戦を捕獲することは、われわれの立場を危険に陥れるので注意せよ、と書いている。オランダ・イギリスの対応は真剣で、幕府の真意は自国民を外国の戦争のために危険にさらすことを防ぐものと見ていた。秀忠の禁令を受けて、もと海賊大名だった松浦氏によって外国船の臨検が始められ、オランダ船は槍を没収された。イギリスのフリゲート船からは、槍・長刀・刀など千挺余りが没収、その後も武器の没収が相次いだ。

 

p.280~281 おわりに

 凶作と飢餓の続く日本中世の死の戦争は、「食うための戦争」という性格を秘めていた。その意味で、戦場は大きな稼ぎ場であり、生命維持の装置でさえあった。だから死の戦場の閉鎖、つまり秀吉の平和は、たしかに人々に安穏をもたらし、華やかな桃山文化を生み出した。だがその底で、稼ぎ場の戦場を閉ざした、十六世紀末~十七世紀初めの日本社会は、アジア諸国の戦場と国内の新たな都市へ、金銀山へ、さらに全国の巨大開発へと、奔流のような人々の流動を引き起こしつつ、「徳川の平和」「日本の鎖国」へと向かおうとしていた。

 一六二一年(元和七)七月、唐突に日本がとった奴隷や傭兵や武器の禁輸措置は、関ヶ原・大坂の戦争を経て、日本国内の戦場が閉鎖された後、徳川の平和の裏で、東南アジアに放出された日本の戦争エネルギーの大きさの証明であり、大規模な戦略物資や、傭兵・奴隷の日本からの流出は、東南アジアの軍事的な緊張に日本を巻きこむ形成を招いた。禁輸令はその危機を回避するための必死の対策であり、戦国以来の日本人の激しい国外流出に歯止めをかける、大きな画期ともなった。(280~281頁)

*1:Wikipedia足軽」の項。web、2020年5月26日アクセス。https://ja.wikipedia.org/wiki/足軽

*2:藤木久志『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日選書777)、朝日新聞社、2005年、5~6頁。

*3:Wikipedia「傭兵」の項。web、2020年5月26日アクセス。https://ja.wikipedia.org/wiki/傭兵#日本。

*4:Wikipedia、同上。

*5:Wikipedia「かぶき者」の項。web、2020年5月26日アクセス。https://ja.wikipedia.org/wiki/かぶき者。

*6:『南山剳記』2020年5月16日記事、web。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/05/16/014400

*7:『南山剳記』2020年3月31日記事、web。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/03/31/192444

*8:宮本又郎「近世後期大坂における米価変動と米穀取引機構~正米価格と帳合米価格の動き」(『経済研究』26(4)所収)、1975年、363~368頁。

*9:詳しくは、ベルナルド・リエター『マネー崩壊――新しいコミュニティ通貨の誕生』(小林一紀・福元初男訳、日本経済評論社、2000年)11頁を見よ。

*10:松田毅一、E・ヨリッセン『フロイスの日本覚書――日本とヨーロッパの風習の違い』109頁、中公新書、1983年。

*11:朝日新聞』1994年12月17日付朝刊。

*12:この記述については、91頁の注107に、「中世の「夜討ち」を追求した笠松宏至氏は「(武士は)犯罪が起こればそこへ行ってそれを摘発した追捕して、しかしそのかわりにその跡を没収し、その人間を殺すなり自分の家人にしたり、奴隷にしたりすることができる」と説いていた(『中世の罪と罰』討論一〇二頁、東京大学出版会、一九八三年)」云々と述べられている。