南山剳記

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長高三大ピアニストのこと

前頭側頭自閉軒全集抄③

長高三大ピアニストのこと

 

高校ンとき、
——長高(ちょうこう)三大ピアニスト。
ッてのがいた。
もちろん、選んだのは俺だ。
で、具体的に誰かッていうと、1人目は先に出た、
——ササヤン*1
で、実際、プロになったから間違えねえ。
まあ、コレもイイ話だから、本当なら実名で褒めてやらなアカンところだろうが、コチトラみてえなヤクザな人間と同級生だったなんてことが知れたら、この人らの人生の汚点になりかねねえから、テキトーなニックネームで呼んでおく。

で、その方式でいくと、2人目は、
——北ちゃん
ッて女子だろう。
イヤ、ほかにもっとチャンとした呼び名があるんだろうが、とりええず弥次さんの相棒みたいな名前で呼んでおく。
この人は、ササヤンと同じで作曲ができた。3年のときの文化祭で、自作のピアノ曲を弾いた。
『メロディ~木造校舎解体によせて』
ッて曲の、それも第3楽章だ。いってぇ第ナン楽章まであるんだよ? 『ロード』みてエなことになっちゃいねえだろうな?[1]
音先の話だと、この人はアンマリ楽譜を書かなかったという。まア、ポップスのバンドとかも譜面は書かないから、そんなに特殊なことじゃねえ。
高校ンときだったか、X JAPANの『ART OF LIFE』の譜面を本屋で立ち読みしたんだよ。別にYOSHIKIが書いてるわけじゃねえから、誰か専門家が耳で採譜したんだろう。で、冒頭のところに微妙に入ってくるオケのところに、ただ、
——木管[2]
ッて書いてあった。超テキトーだよ。

で、この北ちゃん、フワちゃんの先駆けみたいな人で、出演名が「実名+サン」だった。自分をサンづけする自尊ネタは、当時としちゃウケた。
北ちゃんが出演したのは、1994年7月9日と10日の2日間、大体育館[3]で催された〈音楽祭〉ッて出し物で、計36組のグループ(一部重複)が出演、ササヤンも例のササバンズ[4]で登場、初日のトップバッターだった。ゲーム『ザナドゥ』のテーマとか、『ルパン三世』とか、あとはコナミ矩形波倶楽部の曲を演奏したらしい。後年、彼がコナミに入社して『ギタドラ』シリーズの楽曲を手掛ける前段がここに用意されていたというわけだ。ゲーセンとかでやった人もいると思う。俺はやったことないけどね。

その他、どんな輩が出演していたのか、面白いから見てみよう。
出演順に見ていくと、まず、
——えラドもんⓇ。
なるグループの男声五重唱、それから、
——ラフマニノフ愛好会。
——倭の五王
——8本の手の為の連弾同好会。
だの、
——僕はサンフレッチェ広島のファンです。
の、ドビュッシー金管四重奏)に、
——プロゴルファー・ゴル。
なんてのは金管八重奏で、打楽器八重奏なンてのもいた。
——ベルサイユ宮廷青年楽士団。
てのもいたし、ついには交響楽団を名乗った連中もいた。中身はただの吹奏楽で、曲目はチャック・リオの『テキーラ』だった。吹奏楽の定番ぢゃねーか!? もっとも俺は、なンか、『ダンスマニア』とか、それ系のコンピ盤で聴いたパラパラっぽいカバーしか知らねえ。なンか、スマイルdkの『バタフライ』と一緒にMDに録音されてたよ。どこから録音したんだろうね。教えてほしいよ。つーか、MDトカ言われても知らねえよな、今の若い人はサ。

しかし、聞くだに愉快そうなプログラムだが、当時の俺はほとんど聴かなかった。惜しいことをしたよ。北ちゃんのだって聴いたのかなあ、俺。なンか、左手は分散和音だった記憶がある。流れるような連符でね。音型までは覚えていない。練習しているのをどこかで聴いたのかなあ。イイ曲だった。彼女はゲージツ家だったよ。
なお、この人は合唱班で、編曲も担当していた。最近、合唱班は頑張っているようで、去年は県大会で優勝、Nコンの関東甲信越ブロックコンクールで銅賞、全日本合唱コンクールの中部支部大会で金賞と、なかなかイイ。同窓会報に書いてあったよ。
なお、トリは管弦楽班だった。ハイドンシベリウスモーツァルトの正統派だ。考えてみりゃ、俺、聴いたことねえよ、管弦楽班の演奏ッて。卒業してから定演で聴くまで、あまり正式に聴いた覚えがないよ。コンマスとはわりと親しかったのにね。
あと、邦楽班も出てたよ。八橋検校の『六段の調べ』とかやってたよ。テクノとクラシックとお筝の競演だよ。まア、カヲスだね。
で、その他、軽音の連中は、それぞれに一日中、どっかでなンか弾いてたよ。その年の史料がないから、1992年のパンフレットを引っ張り出して調べてみると、音楽祭は講堂で、フォークフェスティバルは新体育館と中庭、3日目まではそうだった。
しかし、4日目を見ると、なぜかフォークフェスティバルの会場は、
——男子更衣室。
であった。
ッて、どーやって聴くんだ、それ!?
私の記憶が確かなら、男子更衣室ッてのは、スゲエ狭い木造のアレだよ。それとも、格技室とか、アッチのほうか? 
いずれにしても、更衣室でコンサートってのは正気ぢゃねエ。旧校舎の頃の話だ。

さて、フォークフェスティバルというのは、実際にはロックとジャズだった。フォーク班というのは、実質、ロック班で、1993年当時、3つのバンドが活動していたらしい。そのうちの一つは、前に出た奥ちゃんバンド[5]で、もう1つは、
——エロス
といった。
なお、最後の1つは、特に話題もないので省略させていただく。
この〈エロス〉、当時の史料[6]によると、
——X一筋の硬派バンド。
だそうで、確かに、フォーク班とジャズ研の合同班室(例の木造の更衣室の隣にあった)からは、『ENDLESS RAIN』とか聴こえてきた。
で、その〈エロス〉を率いていたのが、
——長高のYOSHIKI
と言われた、
——川マッチャン。[7]
て人だった。
イヤ、イイ話だから実名で書きたいところだが、コチトラみてエなゴクツブシと同じ学年だとわかったらマズイよ。しかし、おさまりの悪ィ呼び名だよ。
で、この川マッチャン、ちょっと長髪で、黒のレザー・ジャンパーを着て、もう、一目でロッカーだとわかった。
で、合唱班の某Yさんッてのが彼と同じクラスで、そこから聞き込んだ話だと、X風のいいピアノ曲を作って弾いてくれたッていうんだよ。ヘエ~ッて思ったね。
1994年、俺らが3年のとき、何だかしらねエが、奥ちゃんはフォーク班には顔を出さず、ひそかに自作曲を書いていた。文化祭で発表しようと考えたわけだ。楽譜の書き方を教えた俺が言うんだから、まちげえねえ。
しかし、どこで曲を書いてたんだっけ? 俺と一緒にいたわけだから、俺と同じで文芸班(当時はクラブ員員会の決定で同好会に落とされていた)に居候していたのかもわかんねえ。しかし、文芸班だって班室を取り上げられて居場所なんてなかったんじゃねえのかな? そのへんの謎は一生かかっても解けそうにないから、先に進む。
そんなある晩、班室で奥ちゃんと時間をつぶしてたら、なんか向こうのほうからカッチョエエ曲が聴こえてくるぢゃねえか。
「ウン、ピョロロロロロロ、ピョンパンポンペン、ズン、タッタラータ、ウン……」
ドラムは完全にYOSHIKIだ。
で、俺は奥ちゃんに、
「これ、なンの曲だい?」
と、聴いた。奥ちゃんは、
V2だよ」
と言う。
イヤ、知らねえ。フォン・ブラウンのロケットか?
で、何かの聞き間違いかと思って、何度か聞いた。『背徳の瞳 〜Eyes of Venus〜』ッて曲らしい。練習していたのは、もちろん例のエロスだ。
このV2、かなりたってから、YOSHIKI小室トカって奴と組んだユニットだとわかった。ウチの弟がTMNのCDとかダチ公から借りてたからさ。面白いと思ったね。イントロのシンセとかすげえイイよ。ドラムもカリカリにチューニングしてある。ハマったよ。


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今となっては貴重な哲ちゃん&YOSHIKIのアレだ。いわゆる「日本で一番病弱なバンド」である。

で、1994年の7月8日の夜だったと思うが、それが前夜祭で、中庭の舞台で夜中までライブってことになっていた。記憶では、出演したのは30組程度だったと思う。32組とかいう数字を覚えているが、根拠はわからねえ。
奥ちゃんは、ぜんぜん曲ができてなかった。コードは石チャンて子につけてもらい、アレンジはたぶん、美術班のダニエルって子がやった(「音先はクラシック耳」[8]と言ったのは彼女だ)。ドラムは奥ちゃんバンド残党のTくんが即興でやった。歌詞は同じクラスのイイ人(生徒大会副議長)が手伝ってくれた。メロディだけは間違いなく奥ちゃんの自作だ。これが、当日の話。
だから、前夜祭に出場するバンドを抽選するときはヤバかった。コードをつけてくれた石チャンのバンドが抽選に外れて、なンと、曲すらできていない奥ちゃんバンドが当選してしまったのである。そこで石チャン、
「奥ちゃん、まだ曲ができてないなら譲ってくれないかな?」
と、頼んだ。
しかし、奥ちゃんは柄にもなく骨のあるところを見せて、
「申し訳ないんですが、僕は絶対にこの曲をやりたいんです。やり遂げたいんです」
と、断固拒否した。
どうなることやらと思ったが、とりあえず仲間を集めて、ステージに立った。
「たくさんの人たちのおかげで、この場に立つことができました」
と、まずは奥ちゃんの挨拶。
で、お世話になった人の名前を読み上げるというイベントも考えていたらしく、あやうく私も、
——音楽を教えてくれた人。
に挙がる予定だったというからヤベエ。
イヤ、俺なんざグレちまッてたから、あの曲をみんなで完成させる頃には、もう、なンにも関わっちゃいなかったよ。人間関係ダメだからよ。
で、イザ本番、まず、奥ちゃんが作曲に使ってた例の
——QY8。
ッてシーケンサに内蔵されていたドラムパターンを、Tくんが耳コピで再現して、ドラムソロから曲が始まった。なンか、いきなりフィルインから入ってすぐ曲なんだよ、確か。で、そこからダニエルのキーボード。でも奥ちゃん、主旋律を抜かれちまうと歌えないのよ。自分の曲なのにヤベエ。
かなり焦る奥ちゃん。そこでダニエル、一計を案じて、
「じゃ、メロディも入れようよ」
ッてンで、右手でメロも入れてくれた。
で、最初からやり直し。3回やったかな。
君を、忘れなーいー
「忘れなーいー」(コーラス)
君といーた日―
「君といーた日ー」(コーラス)
ッて、なんで俺はこの歌詞を覚えてるンだよ?
イヤ、スゲエよかったよ。会場の人も優しく見守ってくれて、大団円だったよ。石チャンも奥ちゃんのことを称えてたと思うよ。
音先も、
「爽やかな曲だね」
と、好感をもってた。
途中で一瞬、転調するんだよ。そのへんからグッとくる。
実は、前夜祭とは関係なく、俺もこの曲のピアノアレンジを勝手に作ってたンだよ。本人に聴かせたら、なンの曲か理解できてなかった。ッて、自分の曲が知らない曲になって返ってきた小椋佳かよ!?[9]
しかし、前夜祭でバンドを募集したら30組以上も集まってきて抽選しなきゃアカンなンて、どンだけバンドがいたんだよ? もっとも、個人もいた。ヴァイオリンで『神田川』をやッた人もいたね。ウマかったよ。まア、長野県の選抜オケだったのが何人かいたからね。
で、夜の何時だったのか、かなり遅かったと思うが、最後から2番目に、ようやく、
——エロス。
の出番となった。奥ちゃんのときはまだ明るかった。ずいぶん待ったよ。
で、なンかステージの前で爆音がして、上半身裸のヤローどもが飛び跳ねるのが見えたような見えなかったような。まア、当時の記憶だからあまり信用するな。ともあれ、X風の演出だな。
で、川マッチャンのYOSHIKI完コピドラムが火を噴いて、ソリャ盛り上がった。イイよ、これ。また聴いてみたいよ。
で、最後の大トリは歌ウマ女子のドリカムだったよ。スゲエ、ウマかった。
俺はなぜか他人のクラスの屋台のあたりで、シモヤンと最後まで聴いてたんだが、何事にも一家言をおもちのシモヤンは、
「うーん、でも、あの歌声は好き嫌いがわかれそうですね」
と、渋いことを言っていた。さすが、大家の風格だね。
で、帰りにチャリで市役所前の信号で停車したとき、
「しかし、V2の最初のシンセは誰が担当したんだろう?」
と、シモヤンが聞くので、当時、YOSHIKIの信者だった俺は、
YOSHIKIだよ
と、答えた。イヤ、ぜってえ小室だろ、あそこは。
シモヤンも、アメリカへ行ってから、日本のことをいろいろ考えるようになったらしい。
「Xはウマイ」
と言っていたね。まア、米国でも知られたバンドだからね。あの当時はまだゲテモノ感があって、うちの親世代とかは鼻で笑ってたよ。そういう時代だね。
そういや、五嶋みどりミネソタかどこかで公演したことがあったらしく、
五嶋みどりって有名な人なんですか?」
と、聞かれたこともある。
「有名だよ」
と、答えたよ。
米国で頑張ってる同国人に自分を重ねていたんだと思うよ。彼のヒーローは、イチローだった。
しかし、五嶋サンのこと、なンで知ってたのか、俺にも理由がよくわからない。うちにはクラシック全集があって、そこに入っていたのかと思って調べたが、そうじゃない。CBS/SONYから出た『世界クラシック音楽大系』ッていう100枚組のレコード盤だが、80年代の前半に出たやつで、五嶋サンはまだ10歳かそこらだった。だが、もうジュリアードにいた。15歳で辞めちまうけどね。しかし、日本じゃ意外と知らない人も多かったのかも知れないよ。とにかく天才だよ。俺もチャイコのヴァイコンは五嶋みどりで聴く。なお、当時の管弦楽班のコンマスチャイコさんといったが、また別に書く。東大でマジャール語の研究をするって言ってたよ。


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五嶋サンがアバドチャイコンやったときの映像だ。そういや、ある集まりで指揮者のセンセイから聞き込んだアバドの話があって、面白かったが、別に書くよ。

で、話は戻るが、〈長高三大ピアニスト〉の最後の一人は、この川マッチャンだ。なかなか不敵な生徒でね、絶対に社会に反抗すると思ったんだが、なンでか知らんが、センター試験の日、一番先に会場にいたのは、彼だった。
「まじかー」
と、思った。
今でも目に焼きついてるよ。
あの日は大雪で、俺らは途中まで父親の車で行って、そこから歩いた。
実は、会場に一番近かったのが奥ちゃんちで、俺はそこに彼を呼びにいったンだが、彼は超ナーバスになっていて、道すがら、
あの、悪いんですけれど、ちょっと話しかけないでくれますか
と言うので、黙っといたら、
いや、やっぱり話しかけてください」……。
ウーン、ダメだな、コリャ。
奥ちゃんは、愛すべき人だったよ。
だから、ライブのときもいろんな人が助けてくれたんだと思うよ。
卒業してから一度も会ってない。今、どうしているんだろうね。

結局、川マッチャンは、音大に行った。
YOSHIKIは音大にはいかなかったが、〈長高のYOSHIKI〉は音大に行ったよ。
これは何となくの記憶だが、卒業式の日、ツーバスのドラムセット一式を積んだ軽トラが、校門から出ていくのを見たような気がする。あれは幻だったのだろうか?
もう一点、コッチは確かな話で、昔の記録を読むと[10]、どうも俺はササヤンの母ヤンに会っていたらしい。ササヤンの音楽機材を運び出すために来ていて、それで、音研に挨拶に来たところを、俺と鉢合わせしたというワケだ。そんなこともあったんだなと思った。

あれから30年、〈長高のYOSHIKI〉はどうなったのか? 
たまたま知ったのだが、なンと、某楽器店の常務サンになっておられた。
「えええええーっ」
ッて思ったよ。
スゲエ立派になってて、ビックリしたよ。
音楽知識も経験も豊富だから、頼りになると思うぜ。

かつてフォーク班とジャズ研が同居してた班室は、
——竜鳴館。
と、呼ばれていた。
旧体育館の前、野良猫が出入りするような小汚え狭い部屋だよ。
壁にでっかく、
「めざせ竜鳴館」
ッて書いてあった気がする。
今は、もうない。
新校舎に建て替えるときに重機でツブされたよ。
すべて夢だったようにね。

人生ッてのは夢のようにすぎるモンだと知ったよ。

 

                           〈2023年4月24日・一部敬称略〉

 

[1] 『ロード』は、第15章まであるらしい。

[2] 『南山剳記』「音楽と教育――社会学的アプローチ(ジョン・H・ミュラー)」解題に「ロックやポップスの場合、世間に出回っている譜面などというのは、聴音の専門家が録音を聴いて耳コピしたものであるから、音源の方が楽曲の「あるべき姿」なのであって、譜面はその不完全な模造品(記述的楽譜)にすぎない(X JAPANART OF LIFE』のスコアのイントロに漠然と「木管」と書かれていたのを思い出す)」とある。2020年2月5日記事、web。

[3] 『音楽祭』パンフレット(1994)。筆者不詳。もし文責氏がこれを読んだら、ぜひ名乗り出ていただきたい。

[4] 正式には〈SASABANDS′〉(ササバンズダッシュ)であった。詳しくは『坂本龍一先生を哭す』参照。

[5]坂本龍一先生を哭す』参照。

[6] 広報委員会編『金鵄』第42号、長野高校生徒会、1993年、62頁。

[7] 玉繭先生の妹マミーは、1年のとき川マッチャンと同じクラスだった。

[8]坂本龍一先生を哭す』参照。

[9]がぁごん、イタリアへ行く』参照。

[10] 『図書館関係者人物誌』(華族会館編『欽定四庫全書』巻第14所収、1998年)。

*1:坂本龍一先生を哭す』参照。