南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

この世とあの世をつなぐ橋

前頭側頭自閉軒全集抄⑧
この世とあの世をつなぐ橋[1]

「この世とあの世をつなぐ橋」
ッてのがある。
何処かは言えない。阿呆が押し寄せて、大挙してあの世に行かれても、あの世の人が迷惑するだけだ。
だが、うまくしたもので、俺なンかは何度通っても不思議と異変がない。なぜかというと、ありがたい阿弥陀の九字明を三遍、唱えて渡っているからだ。
覚鑁(かくばん)に『五輪(ごりん)九字明秘密釈(くじみょうひみつしゃく)』てのがある。九字明というのは、
「オン・ア・ミリ・タ・テイ・セイ・カ・ラ・ウン」
の九字だ。早い話が阿弥陀真言である。
ところが、俺は訛って、
「オン・ア・ミリ・タ・テイ・セイ・キャ・ラ・ウン」
と言っていた。
日本で梵語を読むとき、
「中天音」
南天音」
という二つの流儀がある。前者は中天竺の発音とされ、真言宗での読み方だ。後者は南天竺での発音で、天台宗の読み方である。言ってみれば方言のちがいだ。だが当時、本当にインドの発音がそのように分かれていたのかどうか、ちょっと定かな話ではない。いわゆる悉曇(しったん)梵音というのは、現代の梵音とは非常に異なっているというから、アテにならない。[2]
ところで、特に台密で重視される経に、
「蘇悉地羯囉経」
というのがある。
「ソシツジカラキョウ
と、読む。
東密のほうでは
「ソシツジキャラキョウ」
と、読む。
漢訳したのは中天竺出身の善無畏(ぜんむい)三蔵で、梵では「Susiddhi(スシッディ)kāra(カーラ) Sūtra(スートラ)」といい、意味は「妙成就・作業・経」ということになる。真言を成就させるためのキマリゴトがイロイロ書いてある。面白れぇから読んでみるといい。諸本によって内容はちょっと相違する。
さて、これで何となくわかったと思うが、俺が「カ」を「キャ」と訛っているのは、中天音のせいということになる[3]。何となく言いやすいからだ。

開山興教大師像(覚鑁)=照光寺(長野県岡谷市

だが、ちょっと待て。本当に阿弥陀さんの真言をそんなふうに訛って大丈夫なのか?
ふと気になって、還梵したやつを見てみた。するとどうも、
「oṃ(オーン) amṛta(アムリタ)-teje(テジェ) hara(ハラ) hūṃ(フーン)」
だという。
「カ」でも「キャ」でも何でもねえ。
「ハ」ぢゃねえか。
この際、どちかってえと「カ」のほうが近いから、「キャ」はやめた。
それはいいんだが、日本でいう経ってのは漢文だから、これをどう読むかというのにも流儀があった。漢文訓読法も東密台密では異なっていて、ヲコト点の付け方も違う。微妙に意味も変わってくる。加点法にも西墓点、池上阿闍梨点、東大寺点、浄光房点などいろいろあって、宗派ごとに伝承があった。これは近世儒学でも一緒で、テキストの訓点をどうするかは先生ごとで異なっていたからややこしかった。

何にしても、阿弥陀さんのおかげで、俺は今日も無事に生きている。
まさに、
「三塗の黒闇ひらくなり」[4]
云々だよ。
ナマンダーツ、ナマンダーツ、ナマンダーツ。

 

                                 〈2023年3月3日〉

 

[1] この話、自閉軒メール(南澤玉繭宛、2023年3月3日付)に見えたり。

[2] 渡邊英明『悉曇梵語初學者の為めに (二)』(『密教研究』巻五二号、密教研究会)、1934年、71頁。

[3] 渡邊、同書84頁に「迦字を、カとキャと両様に発音するので、中にはकはカと発音すべきものにて、キャと発音す可きものでないと云ふ先匠もあるが、カの拗音はキャと呼ばる可きものにて、直拗二音の関係からすれば、何れにてもよいのである。而し此の事は悉曇の相承に於て、南天は直音、中天は拗音などの相異もあれば、其の人の相承如何に依つて又自ら云々するものである」とある。

[4]正信念仏偈』のオマケについている『浄土和讃』の一節。