南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

力なき者たちの力(ハヴェル)

力なき者たちの力

『力なき者たちの力』ヴァーツラフ・ハヴェル阿部賢一 訳、人文書院、2019年

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【徳武 葉子・撰】

 

力なき者たちの力

力なき者たちの力

 

 

凡例

は撰者のコメントです。 

 

著者について/私が読んでみた理由

 

ヴァーツラフ•ハヴェルについてWikipediaより)

1936年〜2011年、劇作家、チェコスロバキア大統領、チェコ共和国初代大統領、「憲章77」を起草。

チェコマレーで1890年に生まれた劇作家のカレル・チャペックと、ナチスドイツの収容所で命を落とした画家の兄ヨゼフ・チャペック。劇作家からみた激動の時代はどんなものだったのか興味をひかれた。

 

本文の内容より

 

p.25

ポスト全体主義の体制では、本質的には権力は個人から個人へ、派閥から派閥へ、世代から世代へと円滑に移行される。


p.25

権力闘争があったとしてもすぐに回復し、イデオロギーが影響を受けることはない。


p.29

青果店店主がスローガンをショーウィンドウに置いたのは、誰かが読んでくれるだろうとか、誰かを説得できるのではないかという希望からではなく、何千もの他のスローガンとともに、誰もがよく知っている風景を形作るためである。風景にはもちろん潜在的な意味がある。【全世界の労働者よ、ひとつになれ!】


p.30

青果店主と公務員の婦人。2人はともに支配される客体であるが、同時に支配する主体でもある。体制の犠牲者であると同時に、その装置となっている。


p.30

ポスト全体主義の本質とは、あらゆる人間を権力構造に取り込むことである。


p.32

体制が人間を疎外するのではなく、疎外された人間が自身の無意識を投影するかのように、その体制を支持するからである。


p.38

開かれた「真実の生」の協力者の姿は見えないものの、どこにでもいる。つまり、その「隠れた領域」を持っているのである。そこから何かが生まれ、声を上げ、理解者を見出す。それは潜在的な交流が行われる空間である。


p.42

政治を改革しようという試みは人々が目覚めた原因ではなく、その最終的な成果であったということである。


p.57

人間が体制に仕えるのではなく、体制が人間に仕えることができるのかどうかが肝要。


p.72

良い仕事は悪い政治の真なる批判。


p.79

ポスト全体主義体制は、一人で体制に抗い、見捨てられ、孤立した個人に対して全面的な攻撃を仕掛ける。


p.83

「眠っている」この社会は、消費社会の競争に明け暮れ、ポスト全体主義体制にどっぷり「浸かっている」ため抵抗を認めず、それを自身への攻撃と捉え、体制への併合を強める反応を見せるだろう。


p.92

法、それ自体は、決してそれより良いものを生み出すことはない。法に課せられているのは、奉仕することである。法の意義は、法自体にはない。

悪党と海賊(網野善彦)

悪党と海賊

網野善彦「悪党と海賊」(『悪党と海賊――中世日本の社会と政治』所収)、法政大学出版局、1995年

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【服部 洋介・撰】

 

所蔵館

市立長野図書館

 

関連項目

『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍隊』(西股総生)

『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(藤木久志)

 

※なお、私の読んだのは、上に貼り付けたヤツとはチョット違うけれど、内容は同じだろう。 カバーもナンもついてないヤツである。

 

剳記『悪党と海賊』を読んでみた

 

1. 非農業的世界に注目した網野先生

 本書は、中世のチョット変わった人たち、非定住民や遊行する漂白民などに熱視線を注ぎ続けてきた網野善彦大先生の、わりあいよく知られた一篇で、悪党・海賊の研究を通じて、農本主義的な近世に定着した「日本社会=農業社会」というイメージに挑戦しようとするチョイと野心的なマトメ論文である。論文集『悪党と海賊』の終章として収められた短編だから、興味のある奴は読んでみな。甥っ子の中沢新一氏なんて人は、網野のオジさんから、こんな話ばっか聞かされてきたトカって、どっかで言って気がするが、なるほど、無理もない。

2. 金融経済の発達と神仏の権威

 さて、前に『戦国の軍隊』(西股総生)の剳記を載せたけれど、『雑兵たちの戦場』藤木久志)がその後日譚だとすれば、『悪党と海賊』は、 『戦国の軍隊』の前段にくる話だと言っていい。『雑兵たちの戦場』の頃には、石高制というのが定着しつつあったけれど、それまでに採用されていた貫高制というのは、まさに悪党が活躍した鎌倉時代以降にあらわれてくるもので、これってのも、ゼニの普及が社会に大きな影響を与えたことと関係してるワケだ。ここでは宋銭ってことだね。

 さて、貨幣経済が浸透するのと同時に、役所の徴税令書とか、「コレコレの物品を納めろ」なんて命令書が手形のように使われて、紙切れ一枚で取引をしようなンてアブねえことが盛んになって、まあ、ウッカリすりゃァこれも不良債権になっちまうわけだけど、そういう金融業で利を得ようとすれば、信用の保証ってことも大事だが、イザとなったら実力行使で資産を差し押さえたり、交易路の安全を維持するというようなことも必要だった。所領にへばりついている農民や御家人にはチョットできないことだったから、諸国に広範なネットワークをもっている、非農耕民がこれに大きな力を発揮したというのが、この時代の金融・経済の全体像なんだが、じゃァ、どういう人たちがこれを得意にしたのかというと、多少のムリでも、神仏の権威でこれを正当化できる宗教勢力、それを末端で担っていたのが神人・悪僧・山伏その他だったッてワケだ。逆に言えば、神仏の権威もなしにンなことをしたら、「ナニ勝手なことしてくれてンだ、エエッ?」っテナことになった。いや、もちろん、宗教勢力にしたって、やりすぎれば王朝や幕府から統制を受けた。

 さて、そんなわけで、寺社ときたら、公権力とは別に、神仏の権威をたのんで、しまいには裁判なんかも自前でやっちまッた。よくわかんねェから神判で裁いちまえってことで、この伝統は長く残って、『甲陽軍鑑』や『信長公記』にも大名が神明裁判を行なっていたことが見える。統一権力なんてのがない時代は、自力救済の代行で、こうしたことが権威者のもとで行われていたのだろう。近世に入っても、山伏なんかも身分法で私刑を許されていたが、〈石子詰め〉なンてのは有名である。花札の猪鹿蝶のもとになった話だな。

3. 悪党・海賊から商人へ

 そんな形で近世にも多少の名残はあるけれど、中世にあっては、神仏の権威において金融・商業が正当化されていたというのは、重要な指摘であるといってよい。逆にいうと、そうでなければただのインチキということにもなるのだろう。この連中への借金で首が回らなくなり、御家人が窮乏したから、徳政令なんてのが出され、北条氏による統制も強まったから、それで商売してる連中が一斉蜂起、これがこの時代の悪党・海賊問題だったというワケである。後醍醐天皇はそれを巧みに糾合して鎌倉幕府を打倒、南朝がしばし存続できたのも、この連中の支持があったからだということになる。

 しかし、いくら神仏の権威といっても、あんまりインチキな商売をやられても困るから、どうにかしてこれを公権力の下に取り込もうと、後醍醐天皇は考えた。これは北条氏も同様だったようだが、強圧的な統制が反撥を招いて自滅した。そうこうしているうちに足利時代になり、後醍醐天皇の政策を参考にして、幕府も金融業の活用ということを考えた。次第に悪党・海賊というものも、秩序の中で活動するようになったらしく、商人道のようなものが確立されてくるけれど、けっきょくは自力の社会であったから、江戸時代の商人のような単なる町人ではなかった。そのあたりは、『戦国の軍隊』の剳記をお読みいただきたい。まァ、当時は、農業系の武士もいれば、商業系の武士もいたわけで、海賊衆なンてのは後者の代表格だった。非武士系の商人にしても、カネで牢人を雇って武装なンてことをやったし、悪僧ってのは僧兵だった。農民にしても自検断を遂行できる程度の武力はもっていただろう。

4. ゼニと〈悪〉

 さて、時代は下って信長のころ、奴に言わせれば、延暦寺を焼き払って悪僧を退治したってことだろうが、この〈悪僧〉の〈悪〉とは何ぞや、という話が、本書の終盤に出てくる。これは荒々しく統御しがたい力を積極的にいい表した言葉で、滅法強かった「悪源太」なんてのは、そのもともとの用例だというわけである。中世にあっては、殺生をなりわいとする人や、ゼニの力で金融を営む人たちも、この〈悪〉の系譜に連なっており、こうした人たちがムラの農民に対して、都市民として、あるいは、山海の民として、農業以外の仕事に従事していたわけである。

 ところで、山で狩猟をして暮らしていた人たちということについていえば、本書では触れられない話だけれど、鹿食免なんか出して殺生を赦免してきた諏訪社なンてのはチョット気になるアレだね。もっとも、諏訪社の御狩というのは、仏教思想で狩猟を儀礼的に正当化したものであって、一般の狩猟は抑制され、狩猟民の農耕定住化が促進されたとものと見る向きもある。けれど、殺生はアカンということで、鷹狩が禁止されたときも、お諏訪さんの免許があればイイってンで、御家人こぞって各地に諏訪社を勧請した。そこで諏訪神人というのがいて、諸国に免許を配ったというわけだ。場合によっては、日吉社祇園の神人のように、悪党につらなる者もあったかもしれないが、よくわからない。諏訪社の神人については、別の本で書かれていたように思うから、網野先生の全集を紐解かれるがよろしかろう。確か14巻かそこらではなかったかと思う。なお、鎌倉時代諏訪氏は北条得宗の身内人だったから、幕府滅亡まで従って主だったのはみんな死んだが、のちに「敵の敵は味方」の理屈で南朝に与して、宗良親王を推戴してしつこく抵抗したから、ある意味で〈悪党〉だった。そう考えると、甲州征伐で信長めが諏訪社を焼き討ちにしたのも、中世から続く〈悪〉の系譜に対する鬱憤晴らしだったのかも知れない。もっとも、この信長、自分は石清水八幡宮に戦勝祈願をしていたもんだから、どうも武田領に入っても八幡社は焼かなかったらしい。そんなような形跡があるね。その意味では、〈悪〉とは大名の一円支配に逆らう勢力であったり、天下人の威令に従わない、寺社・町といった〈公界〉をあらわす概念のような感じもしてくるね。

 さて、もう一方の〈悪〉は都市にいた。今でこそ都市民なンていえばチョットしたセレブみたいな響きもあるけれど、日本が農耕社会としての基礎を固めつつあった鎌倉時代を経て、南北朝時代に入ると、「農耕をしない」ということに否定的な意味合いが付け加わってくる。「悪」というのも、否定的な意味で使われるようになってくると、要するに、土地もない、耕作もしない、なんかよくわかんない人たちっていう意味にもなってくるわけで、ゼニで利を得る都市の悪人もいたが、ゼニも土地もないってことになると、あとは差別である。「悪人正機」の「悪人」てのは、こうしたモロモロってことだ。都市機能の拡大と、商業の発展の一方で、南北朝あたりを境に農耕定住民のプレゼンスが高まって、非定住民や非農耕民を差別する社会構造が次第に形成されていったものと考えられているけれど、その行き着く先が、〈悪〉を徹底的に弾圧した織豊政権と、農本主義の国家体制を確立した江戸幕府だったというワケだ。もっとも、江戸中期になると、スッカリ商人にやられて〈悪〉の前に武士は屈服させられることになる。このへんは『雑兵たちの戦場』の剳記を参照されたい。この時代になると、もう悪党なンてのはいなくなり、商人は平和と秩序の内部の中で合法的に活動し、それで莫大な利益をあげていたわけだが、合法的だからといっても、それで何もかもがうまくいくかといえば、そうでもない。合法な経済活動が社会に迷惑をかけることもある。結果は、百姓一揆と打ちこわしである。

5. 悪の末裔としての金融経済

 この〈悪〉の文脈で一向一揆をとらえる研究があるのは面白いことで、時宗真宗日蓮宗が、広く悪党や都市民に受け入れられていく理由というものが本書の終わりに述べられているけれど、これも中世的な自力の最後の抵抗のようなもので、戦国大名の一円支配の終極に現れた信長権力によって叡山も一向一揆も壊滅させられ、つづく秀吉の惣無事令によって一切の私戦は停止、このようにして中世は終わった。同時に、寺社の権威も低落して、幕府寺社奉行の管下に入った。とはいえ、庶民の信仰でかなり儲けていたらしいから、まとまった資産を形成したところもあったのであろう。また、中世以来、商工民の座を管していた一部の公家には、引き続きナニかしらのカネが入ってきたと見え、ナント、江戸の札差商人が御家人に融資する際、出資して金主となっていたのは、こうした寺や公家だったらしいことがわかっている。まァ、これはまったくの後日譚ではあるけれど、今ではまったくアタリマエになってしまった金融経済が、当時としては神仏の権威と信用によってどうにか通用していたというのは面白い話で、なるほど、マネー経済というのも一つの信仰のようなものなのであろう。借金ジャブジャブのわが国の借用証書である日本銀行券が、エライことにならないよう願うばかりである。あなかしこ、あなかしこ。

                       〈『南山剳記』、2020年6月30日〉

 

本文『悪党と海賊』
(初出/『大谷学報』第73巻第2号、1994年1月)

 

p.361~362 研究史

13世紀後半から14世紀にかけて、社会・政治の中で大きな問題となった悪党・海賊については戦前から研究があるが、中世史研究者には避けて通れない重要な課題とされてきた。石母田正はこれを「頽廃」と見、松本新八郎は「革新的」という評価を与えた。戦後の研究の展開の中で、悪党と四一半打、天狗、時宗とのつながり、流通路支配、銭貨との関わりの中で悪党の動きの特質が研究されるようになり、新井孝重『中世悪党の研究』のように、悪党を山伏、漂白民、手工業生産者などとの関連でとらえるものもあらわれた。しかし、まだ新たな悪党についての理解が打ち出されたとはいい難い。しかし、「百姓」を頭から農民と思いこみ、そこから日本を農業社会と決めつけてきた見方から決別し、海賊まで視野に入れて悪党の問題を考え直すことによって、80年代以降の新たな研究の方向をさらに発展させることができると思われる。それとともに、この時期、悪党、悪僧、悪人などの「悪」がとくに問題にされたのはなぜかについても考え直したい。

p.362 水運が交通体系の基軸となる

(…)これまで、先述したような「百姓=農民」という思いこみのためもあって、荘園公領制の確立するまでの社会は、ときに「自給自足経済」といわれるほどに農業的な色彩の強い社会とされ、流通・交通が問題されても、せいぜい京都、畿内中心のそれに限られていたといってよかろう。
 しかし、塩や魚介、そして鉄製品の交易が古く遡ることは間違いないところであり、とくに受領による貢納物の請負体制が軌道に乗る十世紀以後、その調達に関わる交易が、京都とその周辺のみならず、各地域で活発だったことは、すでに明らかにされている通りである。またそのころは河海の交通が交通体系の基軸となり、瀬戸内海、日本海、太平洋、東シナ海を通じての船による物資の輸送がさかんに行われたのも、間違いないことと思われる。そしてその中で、貢納物の納入に伴う金融――出挙もまた、広くみられるようになってきた。(362頁)

 

p.363 諸国神人の金融活動

こうした10世紀後半から11世紀にかけの徴税制度については、大石直正、勝山清次、大津透らの研究で明快にされてきたが、

 

(…)それらの研究を継承しつつ、佐藤泰弘は「十一世紀日本の国家財政・徴税と商業」*1で、諸司・諸家・諸国の発給する切下文、返抄、仮納返抄、国下文、国府等の指摘する徴税令書ないし請取が、為替手形、信用手形の機能を果たしており、それが流通業者、問丸、商人、そして国家によって保証されていたと指摘し、とくにそこで蔵の機能が重要であった点に着目している。(363頁)

 

これは非常に重要な提起だが、さらにそこに神人・悪僧が借上・出挙を通じて深く関わっていたことも、借上の初見史料として安部猛、戸田芳実らの注目している保延2年(1136)9月の明法博士勘文案(『壬生家文書』)によって明らか。

 

ここでは日吉大津神人による日吉上分米の借上、出挙が問題となっているが、それを借りた人々の中に能登守、三河守、讃岐守、美作守、越中国庁官、大膳進、内匠助が見え、その際、庁宣、返抄、請文が質物、証文とされている点に注目しなくてはならない。日吉神人はこのように、手形の機能を持つ庁宣、請文等を集め、それによって取立を行なっていたのであるが、その活動範囲は九州、瀬戸内海から北陸に及んでおり、神人の広域的な組織がこうした上分米の出挙、金融活動の背景にあったことは明らかといってよかろう。(363頁)

 

13世紀にかけて日吉大津神人は北陸道諸国神人といわれる広域的な組織を定着させていき、佐藤の指摘した手形の流通、商業・金融等の活動は、荘園公領制の形成期には、こうした海上交通等を基盤に広い地域にわたって組織された神人等のネットワークによって保証されていたと考えることができる。保元元年(1156)の新制が、諸社神人、諸寺諸山の悪僧、諸国寺社の神人・講衆等の濫行をいましめ、治承2年(1178)の新制はさらに「遊手浮食の輩」の殺生、出挙の利の一倍を上回ることを禁ずるとともに、諸社神人、諸寺悪僧が京中を横行し、訴訟を決断し、諸国で田地を侵奪することを厳禁、延暦寺興福寺の悪僧、熊野山先達・日吉神人らを名指しで抑制。

 

p.364 神仏の権威を背景とした金融・交易活動

 

 笠松宏至が『日本中世法史論』で鮮やかに指摘しているように、公権力の行う裁判とは全く違った場で、沙汰を請け取って決断し、神仏の権威を背景に沙汰を寄せた者の自力救済を代行する行為を実力で行い、負累を乱責し、運上物を点定する神人・山臥・悪僧(山僧)等の行動は、寛喜三年(一二三一)の新制によっても知られるように、荘園、屋舎、在家、行路の別なく展開され、それは公権力の側からすれば、まさしく緑林・白波―山賊・海賊そのものにほかならなかった。しかし神人・山臥・悪僧の立場に立てば、これは当然の金融、交易活動の実現、執行にほかならず、流通・交易を保証するその広域的な組織の正当な機能の発現だったのである。(364頁)

 

公権力―王朝は、たびたび新制を発して、この組織の度を外れた動きを抑制する一方、神人にて委員の枠を定めるなどして、神人・供御人制というべき制度を軌道に乗せることにつとめ、雑訴を興行して、神仏の権威を背景とした神人・悪僧―商人・金融業者の独自な動きを抑えようとした。結果、この制度は13世紀前半までにともあれ確立するが、それも束の間、宋銭の大量流出による銭貨の社会への浸透は、13世紀後半になると本格化、それとともに商人・金融業者などの動きも新たな展開を見せはじめる。悪党・海賊の問題はまさしくその中に起こってきた。

 

p.364~365 貫高制の登場、神人・山僧の経済活動が御家人を動揺させる

この時期に貨幣が浸透し、その「魔力」が人々の心を捉えることになったのは一応認められているが、「農本主義」的な史観に強く影響され、それが社会の根本である田畠―農業をとらえるまでにいたっていない表層的な動きにとどまっていることが、強調されてきたきらいがある。しかし、早くから明らかにされているように、このころになると、先述した原初的な手形の流通を背景として、商人・金融業者たちのネットワークに保証された為替手形が活発に流通、送金の手段としてふつうに用いられていた。また一方、鎌倉幕府御家人の公事は銭高で表示され、やがて所領自体が貫高で示されるようになりつつあり、貨幣の社会への浸透は従来、考えられていたよりもはるかに深刻なものだったと見なくてはならない。こうした状況の中で、山僧・神人・山臥などの金融・商業活動がさらに発展し、海・山の領主というべき武装勢力、さらには「遊手浮食の輩」といわれた博奕をこととする集団、「非人」、犬神人などとも結びつき、王朝はもとより、鎌倉幕府の統制をこえて、その基盤である地頭、御家人を大きく動揺させるにいたった。13世紀中葉、幕府が四一反打―博打を厳しく停止するとともに、神人の寄沙汰を制止し、山僧を地頭代、預所とするのを禁止して、山賊・海賊を抑制したのは、こうした動きに対応した処置。

 

p.365~366 実力で交通路を保った悪党、「ぼろぼろ」と悪党

しかし、『一遍聖絵』の詞書に、13世紀の後半、一遍に帰依した美濃・尾張の悪党たちが札を立て、一遍の布教・遊行に対する妨げを禁止した結果、3年間、一遍は山賊・海賊の妨害を受けることなく平和に伝道できたとあるように、悪党たちは交通路の平和・安全を自らの実力で保ち得るほどの組織となっていた。

 

この『聖絵』の詞書は、甚目寺での施行の場に続いているが、その場面にあらわれる尾張国萱津宿の「徳人」が、黒田目出男の「ぼろぼろ」と推定したような*2、女性を従えた異形な人物だった点について注意すべきで、この「徳人」が悪党と重なる蓋然性は大きい。実際、周知の『峯相記』の記述にもあるように、海や山の交通路を中心に、海賊、寄取、強盗、山賊などともいわれた悪党は、柿帷に六方笠を着し、鳥烏帽子・袴を着けず、人に顔を見せない「異類異形」の姿をしていたのであり、非人、山臥にも通ずる衣装で、博奕を好むこうした人々こそが、さきの商業・金融・流通のネットワークの末端にあってその機能を実力で保証していたと考えられる。(365頁)

 

(…)そこにはなお呪術的な、人の世界をこえたものの力を背景としている一面があり、交通路の安全を保証するためにこうした人々が収め取った関料は、神仏に対する上分の名目で正当化されていた。
実際、十三世紀後半以降、勧進上人によって寺社修造等の名目で、幕府・天皇に公認されて津・泊に設定された関も、やはり上分を名目にしており、状況によっては悪党・海賊ともいわれたこれらの人々に支えられて関料徴取が実現していたのである。正和四年(一三一五)十一月、兵庫関所において守護使と合戦した山僧を中心とする悪党の実態はこのことをよく物語っており、摂津・山城にわたる広域的な地域に根拠を持ち、巨倉池、淀川から大阪湾一帯に分布する悪党・海賊のネットワークにより、関は維持されていたと考えなくてはならない。そして、「籠置悪党交名注進状案」の交名に、「悪党関所」とあるのを「悪党」自身の立てた関と考えるならば、そこに「得万女」という女性の姿が見える点にも注意すべきで、想像をめぐらせば、この人を含む交名に現れる女性たちは、女商人、あるいは遊女の世界にもつながる人であったかも知れない。*3(366頁)

 

参考南北朝時代に書かれた播磨の地誌「峯相記」には、当時の悪党たちについての記述がある。「所々の乱妨、浦々の海賊、寄取、強盗、山賊、追落などやすむことのないありさまで、その異類異形のありさまといったら、およそ人間の姿とも思えない。柿色の帷子に女物の六方笠をつけ、烏帽子、袴をつけることはしない。持ち物といったら、不揃の竹矢籠を負い、柄、鞘の剥げた太刀を佩き、竹ナカヱ、サイハウ杖程度で、鎧、腹巻ほどの兵具などはまったくない。こうした輩が十人二十人あるいは城にこもり寄手に加わり、かといえば敵を引き入れ裏切りを専らにする始末で、約束などはものともしない」(新井孝重「悪党の世紀」)。

p.366~367 悪党の蜂起

このように、海・山の領主、それらと重なる廻船人、商人、金融業者、倉庫業者などの独自のネットワークによって、流通・交通が支配されるということに対して、鎌倉幕府は、その主導権を掌握するために全力を挙げなくてはならなかった。文永から弘安にかけての悪党禁圧令、西国新関停止令、沽酒禁令等は、農本主義的な基調に立つ徳政の興行を通じて、こうしたネットワークを押さえこもうとする幕府の懸命な努力だったが、それを推進した安達泰盛霜月騒動で倒れてからは、むしろこのネットワークの一部を取り込みもその中に自らの力を扶植するために悪党・海賊の禁圧を強行する得宗専制的な路線が主導的になる。しかし、これが悪党・海賊―海上勢力との全面的な激突を呼び起こす。14世紀の初頭に西海・熊野浦の海賊が蜂起して、鎌倉幕府は、承久の乱以来となる15ヵ国の軍兵を動員してこれを鎮圧した。14世紀に入って最高潮に達した東北北部・北海道南部の「蝦夷」を含む悪党の蜂起も同様の性格をもつと考えられ、アイヌの北東アジア交易とも関連し、日本海交易とも結びついた北の海の領主、海民たちのネットワークと深く結びついていたのではないか。

p.367 悪党の戦法と出立ち

熊野海賊の蜂起を境として、北条氏は西国の海上警固を強化(元応の海上警固)、海の領主の組織をとりこみ、列島買いに及ぶ海の交通・交易の押さえこみに全力をあげるが、『峯相記』にあるように、悪党・海賊の活動は「先年ニ超過シテ、天下ノ耳目ヲ驚カス」といわれるほどになっていた。但馬・丹波因幡伯耆にいたる広範なネットワークを持つ播磨の悪党は、飛礫・撮棒を用いた戦法を駆使し、「山ゴシ」*4と呼ばれる事前の賄賂をとり、後日に報酬をとる契約を結んで、「沙汰」を請け取り、実力で所々を押領し、海・山の交通路を押さえた。その姿も金銀をちりばめた鎧・腹巻をつけた「ばさら」で、50騎・100騎という大きな軍勢にまでなるにいたっていた。

 

p.367 後醍醐天皇は悪党を動員した

後醍醐天皇は、北条氏の強圧に反撥する商人・金融業者・廻船人のネットワーク、悪党・海賊を組織することに、少なくとも一時期は成功し、北条氏を打倒した。実際、悪党・海賊の中に供御人・神人がいたことは間違いないが、後醍醐はこれを武力として動員しただけでなく、そのネットワークを掌握すべく、神人公事停止令、洛中酒鑪役賦課令、関所停止令を発し、政権の基盤をまさしく商業・流通に置こうとした。建武政府の中枢である内裏に商人や「非人」と見られる人々が出入したのは、こう考えれば当然のことであり、後醍醐の紙幣発行の試みも、手形の流通という実態に応じたものと見ることができる。また「新御倉」を設定し、地頭の所領の所出二十分の一を「新御倉公事用途」として賦課したのも、土倉を公方御倉とした室町幕府の政策の先取りと考えてよかろう。(367頁)


p.367~368 海賊はやがて海上商人の独自の組織として秩序化する

後醍醐の政権が短期間で崩壊したのちも、南朝がしばらくは海賊―海の領主の支持をえて存続したのは、このような背景があったのであるが、十四世紀後半以降は、もはや悪党・海賊のネットワークを統制する求心的な公権力の力は失われ、それとともに「悪党」という言葉自体、社会問題に関わる語としては用いられなくなり、「海賊」はむしろ積極的なプラス価値を含む言葉になってゆく。それはこのネットワークが商人や「船道者」とよばれた廻船人たちの独自の組織となり、「商人道の故実」「廻船の大法」などを持つ自立的な秩序として確立されてゆく過程でもあったが、いまはそれに立ち入る暇はない。(367~368頁)

 

p.368~369 「悪」とは何か

平安後期の「悪」は、粗野で荒々しく、人の力ではたやすく統御し難い行為と結びついて、悪源太、悪左府などはそこに積極的な意味を与えた用例。漁撈・狩猟などの殺生、濫妨、殺人につながる行為、さらに人の石で左右できない博打・双六、「穢」も「悪」としてとらえられた。商業・金融によって利を得る行為も「悪」で、「悪僧」はその用例。とはいえ、それは行為を神仏と結びつけることで正当化され得たので、こうした生業に携わる人が、神仏に直属する神人・寄人となり、王朝が神人・供御人制を軌道にのせることができたのはそのため。しかし、13世紀以降の社会の大きな転換の中で、このような力と結びつきつつ、貨幣の魔力は社会をとらえ、「悪」と結びついた荒々しい力を社会の表面に噴出させた。政治・宗教はひれと直面しなくてはならなくなった。宗教も「悪」に直面して大きく二つの流れに分かれた。


p.369 悪を肯定する宗教の登場

(…)悪人こそが往生しうるとする「悪人正機」を説いた親鸞、信・不信、浄・不浄、善人・悪人を問わず、すべての人が阿弥陀の本願で救われるとした一遍は、「悪」の世界に積極的な肯定を与え、商工業者、さらに非人、博打、遊女を含む女性にまで、支持者を広く広げていった。
 これに対し、親鸞に対する弾圧、一遍の行動についての『天狗草紙』『野守鏡』の激しい非難に見られるように、非人・河原者や女性を「穢」と結びついた「悪」として徹底的に排除しようとする、主として大寺社側の動きも、一方に顕著に現われてくる。律宗禅宗は北条氏の権力と密着しつつ、商業、貿易、金融、建設事業等に自ら勧進上人として積極的に動き、非人に対する救済に力をつくしつつも、むしろ大寺社の中にそれを積極的に位置づける方向に進み、日蓮は逆にこうした律宗禅宗と結びついた権力と戦闘的に対決することで新たな道をひらこうとしたのである。(369頁)

 

p.369~370 「悪」と結びついた一向一揆の弾圧と、商業蔑視の近世社会

 十三世紀後半から十四世紀にかけて、いわば徹底した一元論に立つ時宗が、新たに形成されてきた都市および都市的な場に広くその教線をひろげてゆくが、十五世紀以降、非人・河原者、遊女、博打に対する社会の差別が次第に定着しはじめ、都市自体の光と影が明確になってくると、これに代わって真宗日蓮宗が都市民の間に大きな力を持つようになってゆく。
 もはやそれに立ち入る力は私にはないが、少なくとも「百姓=農民」という思いこみから、これまで農民と国人の一揆と考えられてきた一向一揆が、すでに井上鋭夫・藤木久志が指摘しているように、むしろ都市民に幅広く支えられていたことは確実である。そして、織豊政権によってそれが徹底的に弾圧され、キリスト教江戸幕府によって完全に抑圧された結果、建前の上で「農本主義」を掲げた近世の国家権力の下で、〈悪〉はきびしい差別の中に置かれ、商人・金融業者も低い社会的地位に甘んずるようになってゆくが、これもまた今後の課題として残さなくてはならない。(369~370頁)

*1:〔原注12〕『新しい歴史学のために』209号、1993年。(372頁)

*2:〔原注24〕「ぼろぼろ」(暮露)の画像と「一遍聖絵」『月刊百科』346号、347号、1991年。

*3:〔原注30〕「悪党関所」を立てたのは得万女のほかに、入道五郎、大蔵丞が見えるが、ここにあげられた十四名のうち、得万女、犬女、きぬや、姫鶴女、若菊女の五名が女性と推測される。この中に商人・金融業者のいたことはまず間違いなかろうが、遊女との関わりも、決して荒唐無稽な憶測とのみはいい難い。(373頁)

*4:〔原注34〕なぜこれを「山ゴシ」というのか、考えてみる必要がある。『日本国語大辞典』(小学館)によると、盗人仲間の隠語で、「垣根・壁などを乗り越えて忍び込むこと」、あるいは「強姦」を「山越」といったといわれるが、恐らくこうした意味の源流はこの「山ゴシ」であろう。(373頁)

雑兵たちの戦場(藤木 久志)

雑兵たちの戦場

藤木久志『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日選書777)、朝日新聞社、2005年

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【服部 洋介・撰】

 

所蔵館
県立長野図書館

 

 

 

剳記『雑兵たちの戦場』を読んでみた

 
1. 著者の藤木先生と中世の〈自力〉

 本書は、去年亡くなった戦国民衆史の泰斗・藤木久志先生の一般向け教養書で、私が現役の学生だった頃に出版されたもの。そう考えると、当時にしてこの内容はなかなかスゴイ。この人の略歴はWikipediaに詳しいが、新潟の山村に生まれ、新潟大学を経て、33歳のとき、東北大の博士課程を修了、昔のこととて、博士をもらえたのは、23年後、1986年のことだった。『豊臣平和令と戦国社会』で東北大学から文学博士を頂戴した。昔の文学博士ってのは、医学博士と違って、なかなか取らせてくれなかった。ナンかすげえ長い本を学術出版社から上梓してなきゃアカンとか、いろいろめんどくさかったから、博士もとらずに教授なんてのはザラにいた。そこんとこは、戦後しばらく、文系・理系を問わずにそういう感じで、当時の先生なんてのは自由なもんだったが、今日日ときたら、ったく、アカポス減らしてポスドクばっか増やしやがって、アメリカのマネして文科省もまったく権威主義に陥ったもんだと嘆く人もいる。

 それはさておき、この先生、アカポスにつくまではゴーストライターで糊口をしのいでいたって話で、「現代という戦国時代を生き残るには、〈自力〉で何でもやらなアカン」というようなことを仰っていたらしい。もっとも、この場合の〈自力〉というのは、近代の公刑主義によらない中世的な自立社会における〈自力〉にかけたものであって、現代法の観点からすると、まったくのアウトローである。昔は(もちろん、何かしらの制限やルールはあったけれども)、武士は言うに及ばず、民衆も自前の武力・財力をもって実力主義で紛争解決にあたったから、戦国大名は分国法でこれを抑制するようになり、天下統一がなってからは、秀吉の惣無事令によって、いわゆる故戦防戦(私戦)ということは禁止され、少なくとも軍事的な意味での自力救済というものは否定されることとなった。もちろん、こんにちでも私戦は禁止であるから、ISに加勢しようとした北大の学生と、それを仲介しようとしたイスラム法学者のハサン中田考といふ先生が〈私戦予備〉および〈私戦陰謀〉の容疑で公安にとッ捕まって書類送検されたのは、チョットめずらしい事件ではあった。

 

2. 戦国史における民衆の参加

 さて、自力救済を禁じた惣無事令、一見すると良いことづくめのようではあるけれど、このことによって戦場で稼ぎを得ていた人たちは雇用を失い、掠奪も狼藉も禁止ということになって、まったく立ち行かなくなってしまった。本書を読み進めていくと、江戸時代の浪人問題の発端となった「徳川の平和」の意義についても考えさせられる点が多々出てくる。もっとも、引き続き雇用された武士たちにしても、江戸も中期にさしかかると、商人の台頭についていけなくなっちまったせいだから、浪人よろしく傘張りの内職に追われることになるのだけれど、そもそもなんで大名が取り立てた年貢米を売ってただけの商人が、いつしか経済の実権を握り、上方あたりで「武士の千石は60貫の身代、われは家屋敷売買の代物、200貫目の分限、位も職もすぐれたり」(『武道張合大尽』)なんどといって武士の窮乏ということが甚だしくなったのか、平和に伴う問題は、そんなところへもつながっていくから奇妙なものである。本書の射程はそこに及ぶものではないけれど、その前段として、桃山時代に始まる浪人問題の構造を、主家を失った士分にではなく、浪人の大部分を占める武家奉公人(雑兵)に焦点をあてて解明しようとした点は、こんにちなお高く評価されるものである。ともすると、武士の活動ばかりが取沙汰されてきた中世の戦争史に、民衆の参加を認める視点は大変に興味深いもので、今日日、戦国ゲームの幕間に雑兵連中の濫妨狼藉のエピソードが挿入されるのは、まったくもってこの先生の功績である。ゲームの中でどこの大名を滅ぼして領国を拡大したとか、ついでに戦国武将の名前をいくつ覚えたとか、そんなことに夢中になっているよりも、よっぽどタメになる。まったく、われわれの祖先というのは、ムチャクチャなことをして〈自力〉の時代を生き延びてきたわけで、日本にかぎったこっちゃないにしても、根深い問題というほかない。

 

3. 〈雑兵〉とは何か

 そうしたわけで、本書は、先に取り上げた『戦国の軍隊』の後日譚といってもよい内容を含んでいる。戦国の軍隊の9割は下馬して従軍する有象無象の連中で、いわゆる足軽、雑兵といった手合いであった。本書は『雑兵たちの戦場』と題されているけれど、そもそも〈雑兵〉とは何か、ということについては諸説あって、今日日のWikipediaあたりは「戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵」(臨時雇用の傭兵)という簡単な定義で済ませており、対する〈足軽〉は「正式に登録された下級武士」であり、雑兵とは区別されている(Wikipedia足軽」の項)*1。一方の藤木氏は、次のように述べている。

 

 雑兵とは、ふつう「身分の低い兵卒」をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは次の三種類の人々からなっていた。①その武士に奉公して、悴者とか若党・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う「侍」。②その下で、中間・小者・あらしこなどと呼ばれる、戦場で主人を補けて馬を引き、槍を持つ「下人」。③夫・夫丸などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」たちである。

 ①の若党や足軽は戦うことが許された戦闘要員であり、②の中間や小者や③の人夫は、戦闘から排除されるのが建前(侍と下人の差)であったが、激戦の現場でそのような区別が通用したわけではない。いま私が雑兵と呼んで光を当てて見たいのは、これらの若党や小者や人夫たち、それにまだ得体の知れない戦場の商人・山賊・海賊たちのことである。*2

 

 というわけで、この定義でいくと、かろうじて武士のハシクレらしい足軽から、百姓以上武士未満の下人、輜重輸送などに駆り出された百姓まで、すべて括って〈雑兵〉ということになる。それに加えて、ここでは、得体の知れない〈商人〉〈山賊〉〈海賊〉などが〈雑兵〉として想定されている。Wikipedia「傭兵」の項には次のようにある。

 

中世以後の武士は土地との繋がりが密接だったほか、しばしば長期の平和で戦争が途絶えることがあったため、傭兵的要素は次第に失われていく事になるが、規模は小さかったものの南北朝時代には海賊衆と言われる水軍勢力や悪党・野伏・野武士と呼ばれる半農の武装集団や雑兵(広義的な足軽。中には、戦は二の次にして、乱妨取りばかり行うケースが多く存在した。)などが比較的ポピュラーであったほか、雑賀・根来などの鉄砲、伊賀・甲賀の忍術といった特殊技能集団が傭兵的に雇われた。応仁の乱には骨皮道賢に代表される京中悪党と呼ばれる集団は図屏風にも描かれている。*3

 

 本書のいう〈雑兵〉は、上に述べられたものの大部分を包括するものと見てよさそうだが、なにしろ武士のような者もいれは、そうでないような者もおり、明らかに百姓というものも含まれているから、現代の感覚でイメージするのはむずかしい。なお、いわゆる〈武家奉公人〉というのは、藤木氏の分類する②の下人ということでよいかと思われる。時代によって奉公人という言葉の指すところの範囲は、いささか異なってくるので、その点、いささか注意を要するけれど、本書を読む上では、「武家奉公人=下人」で大過ないように思う。

 

4. 秀吉の惣無事令で浪人問題が発生した

 さて、秀吉の平和令によって国内の戦場が閉鎖されると、主家を失った武士もさることながら、足軽連中や、戦場で武士を助けて働いていた大量の武家奉公人までもが失業、軍事ケインズ路線の修正で、雇用崩壊が起きてしまったというのが、浪人問題の発端である。つまり、軍事行動による資本ストックの大量フローが、武家奉公人の雇用を可能にしたものであって、これが戦国時代の経済成長の一面を支えていたのである。藤木氏は、これを「ベトナム後」に例えている。このあたりの事情について、Wikipedia「傭兵」の項は、次のように書いている。

 

近世になると、臨時雇い兵の雑兵は、足軽が大名に「常勤」による同心の身分として雇われることが多かったのと比較すると、不利な部分が多い下の中間、下人と呼ばれる身分は武家奉公人として必要時だけ雇われる「非正規雇用」の身分となることが多かった。*4

 

 国内の戦場が閉鎖されると、〈足軽〉は正規雇用の下級武士である〈同心〉に、〈雑兵〉は〈中間・下人〉など非正規雇用の〈武家奉公人〉になることが多かった、というようなことであるらしい。本書の内容は、おおむね大坂の陣までを射程とするものであるから、江戸時代のことは戦国のオマケみたいなものだけれど、ひとまず、藤木氏の言う①の足軽から③の夫丸まで、ザックリ〈雑兵〉というつもりでお読みいただけばよろしいかと思う。もっとも、完全に百姓身分の社会的負担とされていた③と、畑を耕さない①と②の区別ということは、のちのち問題になってくるので、注意を要するところである。

 さて、戦場の閉鎖で失業した雑兵のうち、③の夫丸は、もともとマトモな百姓であったから、そもそも嫌な労役から解放されて、農業に専念すればよいという話にもなった(もっとも、江戸時代には、年貢より重いといわれた助郷役が待っていたけれど)。問題は①の足軽と②の下人(武家奉公人)である。少なくとも②の下人については、もとよりマトモに田畑を耕しても食えない離村農民たちが多かったと見られるから、今度は金銀山や都市の普請場へと流入、そこで日雇い仕事に従事することになる。しかし、労働環境は劣悪、もともと戦場で掠奪をして稼ぎにしていた雑兵たちが、戦争気分のまま平和な街角でカッパライを働かれても困るということで、秀吉も治安の維持に苦心したらしい。この当時にあらわれたのが、いわゆる〈かぶき者〉だが、江戸の初めにとッ捕まって処刑された大鳥逸平なんどというのは、有名な一人である。たびたびのWikipediaで恐縮だが、「かぶき者」の項をサクッとググれば、こんなことが書いてある。

 

かぶき者になるのは、若党、中間、小者といった武家奉公人が多かった。彼らは武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定だった。彼らの多くは合戦の際には足軽や人足として働きつつ、機をみて略奪行為に励み、自由で暴力的な生活を謳歌していたが、戦乱の時代が終わるとともにその居場所を狭められていった。そうした時代の移り変わりがもたらす閉塞感が、彼らを反社会的で刹那的な生き方に駆り立てたという側面があった。*5

 

 ここでは「武家奉公人」の範囲を①の足軽・若党から②の下人までと見ているが、ザックリと藤木氏のいう「雑兵」の中核をなす人たちであろう。こうしたあぶれ雑兵の問題は、為政者を悩ませていたけれど、藤木氏は、このような雑兵像に一種の魅力を覚えたもののようである。このあたり、われわれ世代が若い頃に暴走族漫画にハマりまくったのに近いものがあって、この年になって族漫画など読んでみると、「これって雑兵だよなあ」と思うところが多々ある。族といっても幹部連になると、いささか武士臭いところも出てくる。名乗りを上げて一騎討(つーか、タイマン)なんてところは、よく似ておる。一方、下級構成員は雑兵丸出しで、調子こいてチームの名前を出してパンピーを威嚇し、暴力をほしいままにして暴れまわるけれど、いざ強敵相手の合戦になると「こんなチームやめてやる」と逃げ出してしまう場面が戯画的に描かれるわけである。雑兵に貸し出された御貸具足なんてのは、大名の家紋つきで、いわば、チームのネームを刺繍した族の特攻服だった。そんなわけで、歴史に名を残すほどの〈かぶき者〉ともなると、そこらの雑兵というよりは、士分ということになるらしく、先に出た大鳥逸平なんどというのは、歴とした武士身分だと主要していた。

 

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見よ、この正々堂々の名乗り。藤沢とおる先生『湘南純愛組!』⑰巻、147話「男たちの運命」(講談社、1994年)より。

 

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こちらの植草くんも正々堂々の一騎討である。2秒でやられはしたが、武士よのう。前掲書、第152話「FRIENDS AND DREAMS」より。

 

 ところで、こうした血気盛んでヤンチャなのを暴力装置として組織しようということは、戦後しばらくまでの日本ではよくみられたことで、戊辰戦争のときには尾張藩博徒を草莽隊として組織して東上させている。三州博徒の親分・雲風の亀吉なんてのは有名なところで、「士族にしてやる」という甘言に乗せられて、多くの勤王博徒が集まった。むろん、約束は守られなかったので、アタマにきた博徒の中には、お上に反抗して自由民権運動に走っちまッた奴もいた。そうしたことで、明治の博徒といわれるものの中には、ザックリと民権活動家も含まれていたようで、この手の運動が盛んだった群馬・長野・山梨あたりに最も多くの博徒がいたという報告が残っている。じっさい、官のやり方に反撥する任侠の親分が民権運動家を支えていたようなところもあって、板垣退助などもずいぶんとこの筋の人たちの世話になっていた。民権運動が一段落すると、博徒は次の稼ぎを求めて変質し、日清戦争のときには、博徒の親分が朝鮮への従軍を志願するなど、次第に軍部との関係を深めていくことになった。その後も大陸侵攻の動きに便乗して、港湾荷役などの仕事を得ていったという次第である。大陸浪人の起源にも、民権運動の挫折という背景があったけれど、世の中が変わると、どうしてもあぶれてしまう人が出てくるらしい。しかし、こうした人も使いようということで、政党政治が始まってからも、その時々の政権によって博徒たちが動員され、反共や社会運動つぶしに利用された。戦後の愚連隊やヤクザなんてのもそうしたもので、世の中が平和になると、後ろ暗い連中はポイ捨てである。暴走族の起源にも反共右翼らしきものの影がちらつくけれど、こちらはハッキリしない。むしろ、暴走族から右翼への逆路線のほうが明確に知られうるもののようで、族から右翼に改組した国防青年隊が、代表的な事例であろう。昭和50年(1975)ころから、暴走族に対する右翼からのリクルートということが本格化したもののようである。ともあれ、公の暴力装置である正規軍に付属して働いた雑兵稼業の人たちというのは、平和になると問題視され、一部が〈かぶき者〉化して世間を騒がせるということが、後を絶たなかったのであるけれど、そのような人たちの生き方やファッションが一種のカルチャーとなって民衆を惹きつけたのも、事実のようである。

 

5. 朝鮮出兵兵農分離現象

 さて、話は桃山時代に戻るけれど、惣無事令が出たのも束の間、今度は秀吉の朝鮮出兵が始まり、良質の奉公人を確保することと、農村から入る年貢と夫役の安定した取り立てということを目的として、一連の身分法令や人返令、人掃令などが出されることになる。失業した武家奉公人の帰農を促し、農村から都市への人口移動を規制する一方、大名が確保した奉公人の統制ということも強化されるわけだが、このあたりのことは当時まだ論争の渦中にあったことで、こんにちでは、もう少し研究が進んでいるようである。いずれにしても、時の政権としては、年貢と夫役の確保、戦場で武士を助ける奉公人の確保という二つの課題を同時に解決しなくてはならなかったのであって、前者をマトモな百姓の仕事に割り当てるプロセスのなかで、現象的に兵農分離が進み、江戸時代の農本主義的な基盤が整う前駆をなしたのであろうと見る人もいる。

 ところで、チャンとした武家奉公人の確保というのも、むずかしいことであったらしい。すでに『戦国の軍隊』の剳記*6で見たように、奉公人たちは朝鮮の戦場でも集団脱走をくりかえしていた。もともと所領を安堵された武士でもないので、主を替えたり、逃げ出したりと、戦国時代からトラブルの連続であったらしい。しかし、こうした人たちがいないと、武士たちも戦場で働くことができなかったので、人選を厳格にするように通達が出されている。当時の雑兵連中ってのは困ったもので、主人の槍を担いでいても、休息中にウトウトして槍の金具を盗まれたりと、陣中では雑兵同士の盗難が相次いだらしい。戦闘のさなかでも、後ろから刀装の金銀具をパクられたりと、油断も隙もなかったようで、こうして盗んだパーツを、あとでコッソリ売ッ払って稼ぎにしたのである。このへんは、近代の国民軍とは違うところなので、生きるために私利私欲で強そうな軍にくっついているだけ、武士のように意地を立てても仕方がない。戦国の兵士がみんなマトモな武士だと思ったら大間違いである。

 

6. 雑兵稼業と口減らし戦争説

 ところで、この雑兵稼業、日本では戦国時代に人気を集め、不作の田畠を耕すよりはマシだというので、志願者が後を絶たなかったらしい。そこで、土地生産力の低い地方では、口減らしのために戦争がおこなわれ、他領を掠奪して帰国し、どうにか命をつないだのではないかと、藤木氏は推測する。越後の山村に生まれた藤木氏は、故郷での生活体験から、上杉謙信の関東遠征というものが、じつのところ、関東管領の金看板を掲げて行われた〈口減らし〉目的の大規模な掠奪戦争ではなかったかと指摘する。フロイスは「ヨーロッパでは、都市や村、その富を奪うために戦争がおこなわれるが、日本では食料を奪うために戦争がおこなわれる」という趣旨のことを書いている。藤木氏は、この一節に注目する。もっとも藤木氏は、フランス中世史家のジョルジュ・デュビィの研究を引いて、中世ヨーロッパでも、日本と同じような季節性の飢餓があったことを指摘している(冬を越して春になると死者が増えるという現象である)。また、念入りに中国の史料も比較して、かの国でも18世紀終わりまでは、食料問題を克服できなかったことを引いている。当時、世界のGDPの30%を占めていたともいわれる清国でさえ、このありさまである。だとすると、フロイスの言ってることはなんなんだというような気もしないでもない。オメエの国でも戦争となりゃ食料争いになったんじゃねーの、って疑惑を禁じ得ない部分もある。戦争にくっついていく民衆からすれば、戦争なんてのは、洋の東西を問わず、どこでも食料争奪戦だったのかも知れない。

 藤木氏は、謙信の関東遠征が厳しい冬を乗り切るための〈出稼ぎ掠奪戦争〉であったことを示そうとして季節性飢餓の事例を強調するものであるけれど、どうも論理的によくわからないことになっている。同じように季節性飢餓に見舞われていたよその国では、なぜ「食べるための戦争」が起きなかったのであろうか? 極端な話、もし、謙信の〈口減らし〉のための出稼ぎ戦争説が当たっているとしたら、惣無事令など出て関東への掠奪行が禁止された越後の人たちは、どうやって食べていたということになるのであろうか? 大名が戦争をやめて、手持ちの資金を城下町の普請に向けて、あぶれた武家奉公人を日用で雇うことで問題を解決できるとしたら、それまでの戦国飢餓説はなんだったのかという話になる。

 もちろん、当時の経済成長において、大名の公共事業はほとんど決定的な役割を果たしていたようであるから、失業対策の効果を果たしたらしいことは事実である。当の上杉氏に相当な資力があったらしいという考え方も、あるにはある。上杉氏の後継者争いとして生じた御館の乱の際、景勝から武田方に巨額の賄賂がわたったとする『甲陽軍鑑』の話を鵜呑みにするわけではないけれど、金山・銀山があり、自前の湊をもち、青苧座で儲けていた越後に、わりあい潤沢な資金があったらしいことは、しばしば指摘されるところである。そのようなわけで、じっさい、藤木氏の〈出稼ぎ掠奪戦争説〉を否定する人もある。

 もっとも、いくらカネがあっても、食べ物が採れなければ、食料は他領からの輸入に頼るほかない。越後がコメどころになるのは後年のことであるから、かの地の食糧事情がどうなっていたのかについては、私もよくわからない。謙信の外征が正義のための〈浪費〉だったのか、必要に迫られた〈口減らし〉だったのか、正直、判じかねるところである。もっとも、この地域の人が何かしら出稼ぎをしていたのは事実であって、田植えの時期が他所よりも遅れて始まる善光寺平において、遠くは越中・越後からも田人(とうど)と呼ばれる人夫や早乙女たちが、風呂敷を背負って通って来たという目撃談があるから、近現代にいたるまで、越後には出稼ぎをしなくてはならないような経済事情があったこと自体は事実である。で、田植えが終わると善光寺にお参りして、門前で八幡屋磯五郎を買って、めでたく帰国の途についたというわけである。

 

7. コメはあったのか、なかったのか

 そのような次第で、〈口減らし戦争説〉が全面的に支持されているわけではないけれど、その後も食料不足と飢餓が続いていたとしたら、戦争のない江戸時代、民衆はどうやって生き延びたのであろうか、そこは疑問とされなくてはならない。もっとも「食料がなければすぐ戦争だ」なんてのも早計であって、戦国時代だからこそ、大名もてっとり早く実力行使に訴えて領国の経済問題を解決しようとしたのかもしれないが、平和になってしまえば、別の手があったと考えるほかはない。

 日本で季節性飢餓が克服されたのは19世紀と考えられているが、その間は徳川時代で、いわゆる戦争というものはなかった。代わりに〈百姓一揆〉と〈打ちこわし〉である。しかし、本当に食料がなかったら、一揆をしようが打ちこわしをしようが、何の解決にもならないであろう。暴動の背景には、誰かがカネにモノをいわせてコメを蓄えているんじゃないか、民衆のことも考えずに儲けのためにコメを買い占めてるんじゃないのかというような疑惑があったのである。つまり、コメが商業資本による投機材料になり始めていたのである。

 幕藩にとって、コメというのは税金の代わりなので、財政が傾くと為政者どもは年貢増徴路線に走ったが、物価は上がれど、相対的に米価は上がらず、蔵米を売ってもまったく実入りがよくなかった。もちろん、幕府は利益を出すために米価高を誘導する政策を打ち出すことになったけれど、あまり効果はなかったらしい。それであおりを食ったのが都市の貧困層で、そこへきて不作になれば米価は一気に高騰したから、貧しい人たちはすぐに窮乏、〈打ちこわし〉という〈コメよこせ暴動〉が頻発した。そうでなければ、田舎の〈百姓一揆〉の目的は〈減税〉ということにあった。江戸時代、どれだけコメを作っても暮らしが楽にならないのは、食料の不足というよりは、経済のほうに問題があったようである。いっそ買納制というのもあって、本来はいけないのだが、商品作物をつくって現金化し、よそからコメを買って年貢として納めちまうなんてことも広まった。

 ともあれ、カネさえあればコメは買えたが、コメの大部分はただの税金なので、お上に年貢米を納めたところで対価はもらえない。定免法の採用後は、豊作時の剰余は農民の得分になったから、これを売って蓄えを作ることもできたであろうが、凶作のときには泣きを見た。農具を買うにも現金が必要になり、商品作物も作らなアカンことになった。これが飢饉のときに悲劇を招くことにもなった。このシステム、余裕のある農民にとっては蓄財につながったけれど、小農民はままならなかったらしい。小農民の自立ということが進んだ中世後期に対して、享保の頃になると、地主制が進展して、没落農民の離農が問題になっていたのである。農業生産力は低下、いよいよ農村の荒廃ということが問題となった。たまに豊年でも、豊作貧乏なんどというものもあって、米価は下落、幕藩の財政は打撃を受けちまうのであるが、それでもコメを税収の基盤にするのをやめようって考え方はなかった。挙句、天明の大飢饉のときには、コメを高値で売る絶好のチャンスととらえて、江戸や大坂の蔵屋敷に回米しちまう藩もあらわれ、領内では食料がなくなり、餓死者続出なんてことにもつながった。いわゆるカネ目当ての飢餓輸出である。スターリンのホロドモールのような話である。

 一方、都市ではコメの買い占め、売り惜しみということが問題になり、「人を困らせりゃ高値でモノが売れる」の方式で暴利を得ようとした商人どもが続出、怒った民衆に〈打ちこわし〉でブッ壊されてしまった。天明4年(1784)には、大坂におけるコメ取引の中心であった堂島の仲買商が、コメの買い占めで摘発されている。続く天明7年(1787)に起きた江戸の〈打ちこわし〉では、当初、民衆は、押買ではあるけれどカネを払うと言っており、しばし掠奪ということは起こらなかった。してみると、カネさえ積めば、コメは買えたようである。『戦国の軍隊』の剳記では、朝鮮の蔚山城で兵粮米を売り惜しんだ商人を脅して、武士が押買を強行した事例を紹介したが、どういうことか、人びとが飢餓に苦しんでいても、コメってのはどこかに隠匿されているものらしい。

 ともあれ、このような次第であるから、強欲な商人からすれば、カネがなければモノは売らない。モノはあっても売ってくれない。アタリマエのようだがひどい話である。これも『戦国の軍隊』の剳記で触れたことだけれど、戦国末期は銭不足が深刻化しており、年貢の銭納を前提とする貫高制の維持ということが困難になっていた。そこで物納である石高制への移行が進んだと見られるけれども、農民からすれば、この制度の利点は、年貢米を換金する手間が省け、単にコメさえ収穫すればそれでオシマイという、シンプルさにあった。わざわざ換金したり、ナンかの手数料を取られたり、米価安の市場に振り回されたりせずにすむからである。百姓はコメをつくるのが仕事なんだから、コメさえ作れば仕事は終了、それで十分暮らせるようでなければ、たまったもんじゃない。もちろん、中世農民の自立が進んだ背景には、貨幣経済の果たした役割というものも少なからずあったけれど、江戸の初期まで続く貨幣不足は、米価に対して銭高に作用したから、銭納には不利な面もあったのであろう。ところが、しっかりとコメだけ作ってりゃよかったはずの石高制も、江戸中期には破綻、世の中はカネ社会に移行していたので、いよいよ田沼のように商業資本への課税強化という話になる(とはいっても、効果は存外ささやかなものであったという説もある)。田沼派と反対派の対立のさなかに起きた〈天明の打ちこわし〉は、いよいよ幕府首脳に都市下層民の生活問題と農村再建の重要性を認識させたもののようである。世の中に必要なサービスの総量を確保し、必要なものを必要なところへ行きわたらせるのがご政道というものではあろうけれど、もはや、どれだけ働いてもお上の借金を返すのが精一杯という状態、完璧にシステム設計が失敗していたようである。もっとも、カネというのは、社会的に必要なサービスを提供するための労働に参加したことのいわば証明書のようなものであるから、それを使って自らに必要な量のサービスを他者から購入することができるという面で、直接の生産物をもたない人にとっては便利なものである。ところが、この証明書がなければサービスが受けられないということになると、カネが動かなければモノも動かないようなことにもなって、コロナ騒ぎともなれば、モノ不足というものがほとんど見られなかったにもかかわらず、生活苦に陥る人が続出する始末、まこと、江戸時代の飢饉から学ぶことは多々あると言えそうである。結句、幕府は〈お救い米〉を出すことになった。

 

8. 近世の失業問題

 さて、戦国時代に飢饉が相次いでいたのは確かなことであるようだけれど、戦争以外に解決策がなかったのかどうか、そのようにして考えていくといろいろと興味深い。19世紀まで季節性飢餓を克服できなかったにもかかわらず、徳川時代に食料争奪戦争が勃発しなかったところを見ると、戦国時代の戦争というものが、何が何でも食料争奪のために不可欠のものであったと考えることはためらわれる。もっとも、食料が足りていても、人びとに分配するシステムがなければ意味がない。流通経済によってそれがなされない以上は、戦争によって強制的にこれを強奪するという考え方が生じても無理はないであろう。待てど暮らせど、非攻撃的方法によって経済資源を獲得できない場合、実力に訴えてこれを奪取すべしという理屈が出てくるのは、それなりに自然なことであろうと思われる。なので、戦国時代であれ、江戸時代であれ、現代であれ、そのような状況を作り出してしまうことは、非常にマズイということになる。

 そのようなわけであったから、平和になったからといって、すべての人が合法的な手段で食を得ることができたかというと、そうでもなかったらしい。ふつう、秀吉の平和令によって戦場が閉鎖され、雑兵も農村に帰って開墾でもすればいいではないか、これで戦国時代の問題は解決だ、という話になりそうなものだが、現実にはそう簡単でもなかった。新田開発による収穫量の増加は、江戸期を通じて1.5倍以上にのぼっているけれど、戦国時代から続く人口増ということも続いていたから、社会の発展にも限度はあった。オマケに技術の限度もあったので、享保の頃に新技術が導入されるまでは、荒地の開墾ということも簡単ではなかったらしい。食料の増産ということに目途はついたけれど、農業に携わる人すべてが豊かになったというわけでもなかった。江戸幕府の財政が安定していたころはよかったが、そうこうしているうちに税率が上がり、コメ以外の現金収入も必要、ナンだカンだでわりに合わないところが多々あった。しかし、戦国時代が終わった直後の状況を考えると、まだ小農民が自立して営農することのできる条件が整っていたように思える。耕すべき土地もあったから、召し放たれた雑兵・奉公人が百姓に戻ることは禁じられてはいなかった。何もせずに村でサムライごっこなんか続けられたらたまったもんじゃないので、そういうのは追い出せというお達しが出ていたくらいである。

 そうしたわけで、ある程度の人は落ち着くところに落ち着いて、それなりの田畑が耕作されたのであろうとは思われるけれど、にもかかわらず、田畠も耕さず、都市に流出する人は後を絶たなかったということになると、農村の収容人口にも限りがあったということなのかもしれない。そうした人びとがどうやって飯を食っていたかというと、妙な話だけれど、やっぱり食い物があったからということになるのだろう。打ち続く戦争で人が死に、生き残った連中で富を再配分したから、どうにか食えたんだと考えることもできるけれど、戦国時代から江戸中期にかけて日本の人口が急増していることを考えると、あまり説得力はない。この人口増加の要因として、小農民の自立と皆婚化が考えられているけれど、生産力が増して食料の総量がまかなえるようになっていたとしても、食い物を手に入れるためにはカネが必要だったから、田畑をもたない人や、縛りのキツイ農民なんか嫌だという人の間では、てっとり早い武家奉公人や日用ということが流行したわけである。そんなことをせずに田畑でも開墾すれば、食料増産で、もっと多くの人がタラフク食えるようになったかもしれないけれど、くりかえしの通り、簡単に新田を興すこともできなかったから、よそで何か仕事を作らなくてはならなかった、ということのようでもあるが、そこはハッキリしない。また、コメは近世封建制のもとでは税金そのものであるから、食料の過不足というよりも、税収の問題としての側面が多分にあった。つまり、政権の財政運営が傾くたびに、農民はコメの増産を求められることになるわけである。問題は、そのようにして得た年貢米を換金しても、財政難を簡単に解消できないことにあった。農民としては踏んだり蹴ったりである。

 ところで、耕地面積が増えても人があぶれてしまうことは植民地時代の朝鮮半島でも見られたから、これを土地所有の偏りの問題と考えることもできなくはない。日本が植民地経営に膨大な国費を傾けて開発を促進したにもかかわらず、どうしたことか、朝鮮の人びとは、逆に海を渡って賃金のよい日本の労働市場流入することになった。一旗揚げようという人もいれば、経済的に圧迫され、いやいや仕方なしに渡日した人もいた。似たような状況が戦国時代の日本にもあって、戦国大名の一円支配による大規模開発によって、耕地面積や人口の増加ということが見られたにもかかわらず、農村にいられなくなった人は戦場に流れ、戦場がなくなると、今度は都市の普請場へ、そして新天地を求めて海外へと渡ったのである。地主制のもとで没落した江戸時代の零細農民にしても、都市に出たところで貧民になるのは目に見えていたが、年貢はないし、自由でイイヤってんで、チマチマとした家内工業や日雇い、第三次産業などで気ままなその日暮らしを始めてしまったのである。富裕になるのは資本集積の進んだ大企業ばかり、都市貧民の生活など吹けば飛ぶようなものだったから、イザとなったら〈自力〉で暴動、場合によったら掠奪である。天明の打ちこわしのあたりから、さすがに幕府もコメ経済がマズイということに気がついた。まあ、コメがどうのっていうより、民衆の生活を顧みないとマズイということに気がついたわけである。

 そう考えると、失業問題というのは奇妙なもので、富の総量が増加しても、分配が滞ればそれまで、それが労働をめぐる社会不安を引き起こし、何が何でも仕事がなければならないという強迫観念に駆り立てられ、新たな仕事が必要とされるもののようでもある。無理にしなくてもいい仕事に精を出す必要もないと思うが、タダ飯を食わせるのは、まっとうに働いている人からすると腹が立つ。すでに『働かない』の剳記*7で見たとおりである。どっかの大店のアホ旦那が、吉原あたりでカネをバラまいてくれりゃあ働かなくても食えそうなもんだが、ふつう、働かない人にカネをバラまいたりなんかしない。カネをもってる連中にしても、カネを使う口実というものが必要なものらしく、そうでないと、カネというシステム自体がよくわからないものになってしまうからだ。今般のコロナ禍でも、働ける人とそうでない人の分断ということが問題になった。同じ企業にいても、働ける部署とそうでない部署というのがあるけれど、もちろん、残業は禁止、企業活動の縮小ということの中で、同じように数ヶ月の給料保証を受けるにしても、「働いている人とそうでない人の月給が同じって、どういうことよ?」という不満が当然に出てくる。ところが、休業している部署の人を、生産活動を継続している部署に回そうとすると、またいろいろと悩ましい問題が出てくるもので、テレビで報じられるのは一部の成功例のみ、そう簡単にワークシェアリングということにはならないという現実は、一考すべきである。人間、何だかんだと言って、自分のもっている仕事を人に譲りたがらないものなのである。このことについても、『働かない』の剳記で一考した。経済史上、ケロッグ社の事例などが著名である。

 さて、話は昔の日本に戻るけれど、果たして土地が十分にあったのかなかったのかはともかく、結果として、耕すべき田もないのに農村にあぶれ者がいたら、それはそれで困ったことになるのは当然の成り行きである。もっとも、秀吉の頃には、耕す田があるのに村を出て奉公に行っちまう奴もいたので、村としては「そういう奴の田は捨て置いて面倒はみない」と取り決めたようだ。どうも、コメをつくるより、手っ取り早くカネを手に入れたい人が後を絶たなかったようで、けっきょく、そのカネで町の米屋からコメを買うんだから、農民からしたらいい迷惑である。「都市でそんなことしてないで、一緒に耕してくれよ」って話だ。しかし、昭和恐慌の際に都市から帰農者が増えたことで、農村の疲弊が進んだことを考えると、物事にはバランスというものがあるようである。

 それにしても、コメの価格が上がって農家の収入が増えるのならいいかも知れないが、まあ、けっきょく年貢米というのは税金だから、江戸時代の実態としては、それを売って藩の借金を返して終わりである。江戸時代はたいがい物納だったので、決められたコメを納めればそれでよかったが、藩の借金がかさむと税の取り立ても厳しくなった。生産技術が向上して、いくらでもバンバンと余剰米が取れれば楽になったかもしれないが、さすがにそういうものでもなかったらしい。たまたま生産がうまくいっちまっても、在庫過剰で米価は下落、豊作貧乏なんて話は前にもしたが、モノをカネに変えられなくては立ち行かないってのは面倒なもんで、製造の腕はよくても、経営がダメって話と同じである。モノを売るってのは、面倒くせえものだ。昭和の農村恐慌では、豊作飢饉なんてのもあった。コメはあるのに安くて利益にならないから、それで百姓が貧乏になって飢餓に陥っちまッたというのである。ともあれ、お上としちゃァ、そういう余計な工夫をしなくても、生産者の暮らしが立ち行くようにしてやんねえとダメだ。まあ、蔵米を商人に売らせてんのは武士たちであるから、そのへんはシッカリしてもらいたいものである。もっとも、お上が経済を統制しようという理想が実現したのは、戦後のことであって、この方式で日本は奇跡的な経済再建を遂げることができた。もっとも、今ではスッカリ時代遅れのものとなってしまったが、かといって、世界のどこかに日本よりもはるかに優越した経済体制があるかというと、それもあやしい。貧富の格差がハンパない国はあるし、あまつさえ、よその国の貧困の上に成り立っているような豊かさというものもあって、手放しで称賛できるような経済体制などというのはどこにもない。カネもちのカネっつったって、その中身は他人の借金でできている。江戸の中頃には、淀屋辰五郎って豪商がいて、大名に金を貸して、1億2000万両もの資産を築いたという(これは私が小学生の頃に読んだ本の記述であって、今日日のWikipediaなんか読むと、総資産は20億両(=200兆円)なんどと書いてある)。享保の改革で幕府がどうにか奥金庫に積んだのが100万両程度であったから、とんでもない話である。もっとも淀屋は、適当な言いがかりをつけてお上に取り潰されたから、借金はチャラ、残りの財産も収公されちまったから、非道い話である。淀屋の大名貸は合法だから文句も言えねえが、天下の百姓が貧乏してるってえのに、そりゃどうなんだって話もある。もっとも、百姓を貧乏させることでしか成り立たない経済システムを考え出しちまったのは幕府だから、その分はなんとかしてもらわないと、いよいよ〈打ちこわし〉である。

 なお、蛇足ながら、この淀屋が中之島に開いた米市は、前に出た堂島米市場の起源となり、世界初といわれる公設先物市場の元祖となったものである。『戦国の軍隊』の剳記で見たように、早くから日本では切符や折紙のようなものが紙幣代わりに流通していたから、ここでも米切手という手形がその役割を果たすようになり、ついにはコメもないのに手形だけ振り出す輩も登場、それが不良債権化することもあった。そのツケは幕府にまわってきたから、たまったもんじゃない。ただ、先物の商品取引所の存在は、結果的に市場価格を安定させることにつながると言われるように、米市ってのも、米価安定ということが目的で設立されたものだった。そのうちに堂島では、米先物としての帳合米商が認められるようになるが、どうも帳合米価格が正米価格をリードしていたようで、結果的に帳合米は、米価低落時には米価引き上げに、米価高騰時には引き下げに働くような機能(正米価格平準化作用)を果たしていたらしいと、宮本又郎先生は言っている。ここでも、こんにちの商社が行なう先物大量取引と同じように、反対売買による両建てのリスクヘッジが機能していたらしいことを、この先生は論証されているが、安定した価格で安定した物流を行なうということを考えると、この機能は重要なものである。おおむね、天保の頃まではそれが機能したらしいことを、宮本先生は書いておられる*8。そう考えると、こんにちの日本のように、生活に困らない程度の物資が十分に行きわたるということは(残念ながら、まだ行きわたっていない人もおられるけれど)、大変重要なことであると実感されよう。

 一方、江戸幕府の米価高誘導策に対し、戦国時代の場合、米価は低めに抑えられていたが、これは消費者中心経済を慮ったわけではなく、まったく大名の都合によるものだったらしい。なので、銭経済の貫高制のもとであっても、コメの価格変動が農民の利益になることはなかった。このインセンティヴの低さにもかかわらず、農民が農業を続けてきたのはおどろくべきことのように思われるけれど、それでも生産力は着実に上がっていたので、中世を通じて堅い職業と考えられてきたのかもしれない。しかし、このようにして自立を遂げた小農民も、江戸時代を折り返すころには地主の支配するところとなって没落し、貧富の格差が拡大、農村は分断されていったようである。せっかく太閤検地で土地をめぐる所職を解体したのに、また年貢のほか小作料やらナンヤラを取られる羽目になり、まったく下人か所従に逆戻りである。

 そのようなわけで、江戸幕府が出した田畠永代売買禁止令は有名無実化し、借金で首が回らなくなり、離農した人たちが都市へ流入、大都市のスラム化ということが始まるようになる。せっかく戦争も終わり、耕地面積も拡大、人口も増えたというのに、どこかに根本的な問題があったのであろう。しかし、(今でもそうだけれど)田舎を捨てて都市にいけば、どうにか食えるというのはどういうことなのだろうか? 食い物を作っているのは田舎の人なわけだから、チト不可思議なことである。自分の畑を耕してもで食えないからってんで、そのことに困窮して都市に出てきた田舎の人が、都市で別の仕事をしてカネを稼ぎ、もといた田舎でとれた食料を買って食いつなぐというのは、どうも不効率な気がするが、それでスンナリ済むのだとしたら、そもそも農村の荒廃など問題にならなかったに違いない。「農村は人が足りてますんで、行きたい人は都市へ行って働いてくださいね」で終わりである。わざわざ天保の改革で人返法など出さなくてもよいわけである。まァ、幕藩は年貢米と専売品を売って収入源にしていたわけだから、単に食料が足りないから農業に精を出せということでもなかったのであろう。コメは税金であるから、農村から都市へと人が流れてしまうことは、直接の税収減につながった。おまけに、藩財政は大赤字、借金まみれで札差どもに数年先の年貢米まで差し押さえられていた。戦国大名ならありえない話である。その点は、石高制が裏目に出てしまったともいえる。

 もっとも、逆の例もある。先の戦争の期間にあっては、都市の人が田舎で頭を下げて食料を譲り受けるということもあったから、皮肉な話である。コンナロ、これまで田舎にばっかワリ食わせやがて、バロチキショウってとこだろう。しかし、そう簡単な話でもなくて、江戸時代に人口増加に歯止めがかかってしまったのは、けっきょくは都市の人口収容力が限界に達してしまったかららしく、衛生環境の悪化も見られたというから、都市民の暮らしも、決して快適なものではなかった。未婚化も進んで人口増も頭打ち、まったく現代のワーキングプアみたいな話である。その点、都市に出た方が田舎にいるよりも幸せかというと、何とも言えないものがある。ただ、町人の公役負担は軽かったから、それだけでもメリットだと考えることもできる。

 それにしても、大都市に行けば、何かしらの仕事にはありつけるのが事実なのだとしたら、けっきょくは、都市にカネが集積して消費が発達したからだと考えるほかない。もっとも、武士が都市でいらない浪費をするから、農民の税金が上がっちまうわけで、このような消費に発する都市民の経済的向上と、農民のそれというのは、果たして素直にリンクするものかどうか、どうも疑問である。農民としたら、自分の生産物くらい自分で売らせてくれという話にもなるのかも知れないが、代銭納にしたところで、結句、藩の借金を穴埋めさせられるわけだから、結果は同じかもしれない。貧乏しているのは武士も同じだった。こんにちなら、バンバン消費すりゃァみんなが潤うというアタマがあるけれど、この時代のことだから、カネは同じところをグルグルしてたんじゃないのかって気にもなってくる。ゆえに、倹約令ばっかり出されることになったのかもしれない。誰かが贅沢をして農民の暮らしが上向くならそれもよいが、どうもそうなったとは思えないようなところがある。文人気取りの殿さまの交際費がかさんで税金を上げられちまッた領民が起こした〈郡上一揆〉なんてのは有名である。そりゃ、江戸の商人あたりは儲かったか知らないが、田舎の領民はいい迷惑である。殿が質素倹約に励んでくれた方が、どれだけ助かったか知れない。ただ、農民の間で買納制が行なわれたところを見ると、換金価値の高い商品作物を育てた方が暮らしの上では有利だったと見ることもできるから、商品の浪費を促進する奢侈ということが、農民の暮らしを助けた可能性はある。だが、殿さまの奢侈は御免蒙りたいものである。それより早く借金返せよな、という話だ。

 こうなってくると、武士の暴力にひれ伏すのも面白かないが、マネー・システムの前にひれ伏すのもケッタクソ悪い話である。武力かカネかの話で、どちらももっていない庶民からしたら、案外、結果は同じようなものかもしれない。どっかの国の人は「知は力なり」と言って、「マネー教育に無知なままだと経済社会で貧乏するよ」なんて言ってるが、まったくめんどくせえ、もっと、シンプルにできねえのかって話である。農家と非農家の所得格差の問題は昭和になってからも続いたけれど、先の大戦後のように、モノ自体が決定的に不足すると、どんなにゴタクを並べても、いよいよブツの出番である。そうなりゃ、自給自足しているお百姓の勝利である。ところが、それも束の間、平和が回復されると、また国家の経済制度であるカネというものが幅を利かせるようになる。カネを使うのは合法、ブツを使うのは違法とは言えないまでも、ブツ主義はカネ支配に逆らう反主流的な経済システムということになる。これは『働かない』の剳記で見たとおり、ベルナルド・リエターが言っていることであるが*9、江戸時代にあっては、主要な決済手段であった金銀の流出を抑えるため、あるいは、銭の原料である銅の輸出を抑えるために、海産物や工芸品による物々交換が奨励される場合もあった。長崎貿易における代物替がその例である。

 ともあれ、仮に食品ロスが出るほどの生産力があっても、食料問題というのは解決しないのと同じで、経済の場合、すでにブツは足りてるから、それでエエやんけという話にはならない。人間、たとえ余っていたとしても自分の生産物をタダで譲るなんてことはできないのである。それができれば、ブツが枯渇しないかぎり、コロナでも経済は回るのである。しかし、どうも経済とはそういうものではないらしく、我々としてもまんざら働かないわけにもいかないものだから、仕事量を自発的に調整するなどということも困難である。人の善意も期待できないようだから、そこで、どうにかしてカネを稼がなアカン、つまりは合法的な雇用にありつかなアカンということにもなる。それが無理なら〈自力〉である。つまりは、夜討ち・強盗・山賊・海賊といった非合法活動を仕掛けて、無理やり富を分配させようというわけである。足軽・傭兵の一部は、そうした奇襲攻撃のプロ、つまりは専門の盗賊ではなかったかという考え方が、本書では提起されている。戦国大名は、こうした実力集団を積極的に雇用していたらしい。農村を捨てた雑兵たちも、戦場の内部において、平時なら犯罪として糾弾されるような違法行為によって収入を得ていたのである。

 

9. 失業問題のグローバル化

 いずれにしても、16世紀後半のグチャグチャな時点で、食料の再配分であるとか、ワークシェアリングだとかいっても、まったくの不完全情報下で行われる政策であるから、有効な解決に至らなかったのも無理はない。また、人捕りをして召し使ったり、売り払ったりということが行われていたけれど、地域的に激しい飢餓に見舞われると、人を買う方も処遇に困ってしまい、しまいにはポルトガル船に売っちまうなんてことにもなった。ポルトガルとしては、東南アジア方面で労働力を必要としていたらしく、日本人の海外流出ということも続いた。

 しかし、いやいや海外に渡った人もいたであろうけれど、カネ目当てという人も当然いたらしい。山田長政なんてのは有名だが、どうも前職は雑兵っぽい。秀吉が天下を統一した年に生まれた山田が、タイに渡った経緯はよくわからない。どうも朱印船にくっついていったらしい。アユタヤでの活躍は英雄譚のようになっているけれど、タイでの評判はいざ知らず、フィリピンでの日本人の評判は最悪で、有害国民、危険集団として警戒されていたらしい。ともあれ、国内の戦場から締め出されてしまった雑兵は、東南アジアの戦場でヨーロッパ勢力に「使える兵士」として低賃金で雇われており、ずいぶんと重宝されていた。蘭英同盟は日本から軍需物資と兵士を買い入れ、カトリック勢力とのドンパチに投入しようとしていた。さすがにヤバそうだとにらまれて、幕府から禁輸措置が出ることになった。そのうちに鎖国ということになり、国内に収容しきれなくなった非自発的失業者(雑兵のほか、国内で生じた戦争奴隷として海外に売られた人たちもいた)たちは、そのまま海外に棄民として放置され、そのことによって国内の失業問題の一端が解消された、というわけである。昭和になっても、国策で海外に移民に出て苦労を強いられたという人があるが、根本をどうにかしないと、歴史はくりかえすもののようである。

 もちろん、その後も幕府の武断政治で大名の取り潰しということも続いたから、しばらく浪人は増え続け、野盗に走る者なども少なくはなかった。そこでようやく、幕府も本腰を入れて失業対策に取り組むことになるのであるが、これはまったく本書の後日譚である。しかし、近代になって致死率が低下し、いわゆる人口爆発が起こると、日本でも再び失業問題が再燃、今度は大陸や太平洋植民地への雄飛ということが企てられるようになった。まったく他人事ではない話である。マッカーサーに言わせれば、日本の戦争動機は失業対策だったということになる。反対に現在では、少子高齢化ということが進んで、海外から安価な労働力を移入するということが必要となっているけれど、江戸の街でサービス業を支えた農村からの流入者のように、日本社会の過剰サービスを維持するために低賃金・重労働で酷使され、泣きを見ている人もいる。これも、江戸幕府が直面した問題のリバイバルである。都市では失業を免れることができたけれど、かといって生活は安定せず、しまいには〈打ちこわし〉や犯罪による〈自力〉の横行という、治安上の問題が生じてしまった。この頃には、武家や商家に奉公するのも縛りが多くて苦痛だったため、人びとはもっと自由な仕事を志向するようになった。かつての離村者が競って志願した雑兵稼業(武家奉公人)も、すっかり不人気なものになっていたのである。たとえ生活は不安定になろうとも、ブラック企業に務めるのは嫌だ、ということであろう。結果、武家奉公人の賃金が高騰したという話もある。

 

10. おわりに

 と、本書に関係ないことまでアレコレ書いてきたけれど、戦国時代に離農して雑兵になった人たちが、天下統一後に浪人問題を引き起こし、その後も離村して都市に流入する人が再び現れたことを考えると、失業問題というのはつくづく根深いものだと思わざるを得ない。

 すでに『戦国の軍隊』の剳記で見たことだが、網野善彦氏の見立てでは、織豊政権を通過して、良くも悪くも日本は、農本主義的な体制へとまとめ上げられてゆく、というのであるが、そこで抑圧された〈悪〉の系譜、公界衆が握った商業・流通のネットワーク、そしてゼニの力というものが、江戸時代も中ごろになるとすっかり復活して、大名さえ頭の上がらない状況に陥っていた。戦国時代には必死になって経済政策に力を注いでいたであろう武士たちも、スッカリ身分的に商人から分離してしまったため、蔵米を売らせて儲けさせていた札差商人に、軒を貸して母屋を取られるという始末、武士なんてものが純粋化してもろくなことはないようである。幕府としては棄捐令を出して借金をチャラにさせる一方、2万両を出資して幕臣への札差金融が滞らないようにするなど、武士の生活なんてのは、まったく借金前提のものだった。どうなってるんだという話である。もっとも、武士の借金がかさんだ背景には、札差の詐欺商法もあったから、被害者といえば被害者である。その札差の金主になっていたのが、じつは寺社勢力だったなんて話もあって、信長なら焼き討ちにしちまうところである。戦争と城下町普請という公共事業に負うところが大きかった江戸初期までの経済成長を考えると、当初、経済の主導権は、一向一揆や寺社勢力の商業・流通ネットワークを叩き潰した武士が握っていたのであり、もともと武士にも商人的な素養はあった、といえるのかも知れない。また、商人にしても〈自力〉がなければ戦国乱世で商売などできなかったから、武士と商人の垣根は低かったと言えるのかもしれない。そういう意味では、信長の経済政策を過大評価して、民衆経済を一大活用したかのように考えるのは胡乱であると『戦国の軍隊』の剳記で書いたけれど、現代につながるような意味で、新興商人が貨幣経済を背景に本格的に台頭するのは、もうチョイ後、江戸中期になってからの話である。

 江戸の平和で、雑兵なんてのはスッカリ姿を消しちまッたけれど、失業問題という点では、こんにちにつながるものがあるようにも思われるので、その後日譚にもチョット触れてみたけれど、藤木先生がいうように、平和な現代とはいっても、見方によってはある種の戦国時代であるから、イザ〈自力〉の出番ということにならないように、国民も為政者も油断これあるまじく御座候えと、私などには思われるものである。

                     〈『南山剳記』、2020年5月26日〉

 

本文

 

プロローグ


p.3 日本の戦争は「食うための戦争」だった

フロイスは、中世の西欧の戦争は、領土を広げるのが目的だが、日本では戦争が食うために行なわれている、と書いた。

 

 われらにおいては、土地や都市や村落、およびその富を奪うために、戦いがおこなわれる。日本での戦さは、ほとんどいつも、小麦や米や大麦を奪うためのものである。(3頁)*10

 

しかし疑問もあって、当の秀吉は、日本の戦争もまた領土の奪い合いだと見ていた。しかし、フロイスは戦国末の30年余りを九州や機内で暮らしていたから、これはいわば戦争実感論。彼の目には「食うための戦争」「生きるための戦争」と映っていたのは間違いない。

 

p.5~6 雑兵とは何か

雑兵とは、ふつう「身分の低い兵卒」をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは次の三種類の人々からなっていた。①その武士に奉公して、悴者とか若党・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う「侍」。②その下で、中間・小者・あらしこなどと呼ばれる、戦場で主人を補けて馬を引き、槍を持つ「下人」。③夫・夫丸などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」たちである。
①の若党や足軽は戦うことが許された戦闘要員であり、②の中間や小者や③の人夫は、戦闘から排除されるのが建前(侍と下人の差)であったが、激戦の現場でそのような区別が通用したわけではない。いま私が雑兵と呼んで光を当てて見たいのは、これらの若党や小者や人夫たち、それにまだ得体の知れない戦場の商人・山賊・海賊たちのことである。(5~6頁)

 

p.7 戦国の自力習俗

 一方、濫妨狼藉にさらされた戦場では、村も町も自らの力で生命財産を守る、たくましい試みを重ねていた。ふつう権力の象徴とされる領主や大名の城も、いざという時、領域の民衆の避難所になったし、城から遠い村々は、勝手知った近くの山に、山小屋・山城など自前の避難所をもった。境目の村は、両軍に年貢を半分ずつ納めて中立を確保し、あるいは敵軍に大金を払って村の安全を買った。村自身もふだんから武装し、敗残の落人と見れば、村をあげて襲いかかり略奪もした。戦火を免れ、村や町を守るために、戦国の世は実に多様な自力の習俗を作りあげていた。(7~8頁)


Ⅰ 濫妨狼藉の世界


p.25~27 大名軍と乱取り

天正18年(1590)、家康は小田原攻めのときに、自軍に「下知なくして、男女を乱取りすべからず」と命じた。同じ東海生まれの加藤清正の軍法も、勝手に「陣取り放火」「小屋具乱妨とり」をするなというものだった。ともに部隊ぐるみの組織された掠奪、という気配が濃厚。兵士たちは、放っておけば、勝手に乱妨取りをする。これは作戦の重要な一環だったが、暴発を防ぎ、大名の下でどう有効に作動させるかを「陣中法度」の課題としていた。フロイスも、城攻めをそっちのけにして掠奪に熱中し、戦利品を手にすると、城攻めをやめて引き揚げてしまう兵士たちを見ていた。逆に言うと、作戦や軍律を乱さない限り、敵地での人取りは野放しであった。乱取りは乱妨取りともいい、人の掠奪のほかに戦場の物取りをも意味していた。信長が家康軍とともに初めて上洛したとき(永禄11年=1568)、両軍の兵士は乱取りに熱中し、あげくは古烏帽子一つを奪い合って戦闘を始めたという(『三河物語』)。また、信長が1万余りの大軍を率いて上洛した天正元年(1573)にも、兵士たちの乱妨取りはすさまじく、「京中辺土ニテ、乱妨ノ取物共、宝ノ山ノゴトクナリ」(『永禄以来年代記』)といわれた。『信長公記』には「乱取」と名づけられた信長の愛鷹が登場する。

 

p.27~29 戦国の掠奪戦争

戦場の乱取り・乱妨取りの世界を、ひときわ大らかに活写するのが、『甲陽軍鑑』。戦場の底辺で活躍する雑兵の迫力は、同時期の『雑兵物語』と並んで、他の追随を許さない。川中島合戦は有名だが、その戦場で雑兵たちが演じた乱取りも異様な精気に満ちている。北信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山(新潟県妙高市)を越え、春日山城上越市)近くまで侵入、村々に放火、女性や児童を乱取りし(「越後の者をらんどり仕り」「近所に焼きつめ、らんぼうに女・わらんべを取りて」)、甲斐に連れ帰って召使い(奴隷)にした、という。なお、『甲陽軍鑑』は、この作戦で武田軍は越後を占領こそしなかったが、掠奪に大成果をあげた、それもみな信玄の威光のおかげだと書いている。戦国の戦争には、明らかに乱取り目当ての戦争もあり、大名さえ強ければ、思いのままだった。上杉氏の正史も武田軍の乱取りを明記している。その被害は上杉側も認めるほど大きかった。ところが、上杉軍の戦場でも「人執り」は常で、能登を攻めたとき、味方についた寺や村には、自軍の濫妨・放火・人執りを禁じていたほどだった。

 

p.29~31 乱取りで民百姓が豊かになったという話

武田軍が信州に攻め込んで大門峠(茅野市長門町・立科町境)を越えて敵地に入り、7日間の休養となると、陣中は「下々いさむ事かぎりなし」ということになって、「かせ侍衆・下々の者ども」など雑兵たちは歓声をあげて、一袋の民家を沿って「小屋落し」「乱取り」「苅田」に熱中。3日で近辺を荒らし尽くすと、戦場でもない地域にまで遠出して、朝早く人を出て夕方に帰る、という大がかりな乱取りになった。ところがその夜更け、武田軍の3人の侍大将の夢枕に、「諏訪明神の使い」という山伏が現れて、「このたび晴信、ここもとに逗留中に乱取り無用」と神託したので、侍大将たちは「乱取法度」を定めて乱取りを禁じたので、信濃の人々は被害を免れた、という。『甲陽軍鑑』は乱取衆を「後さき踏まえぬ意地汚き人々」と評しているが、神様のお告げでも持ち出さなければ、彼らの乱取りはやまなかったのであろう。「乱取りなどにばかり気をよせ、敵の勝利もみしらず」「乱取りばかりにふけり、人を討つべき心いささかもなく」などと非難している。だが、乱取りそのもの否定しない。戦闘を妨げない限り乱取りは勝手、というのが通念であったらしい。おそらく雑兵たちには、御恩も奉公も武士道もなく、恩賞もないので、乱取りを認めざるを得なかったのだろう。こうした掠奪で、「分捕りの刀・脇差・目貫・こうがい・はばきをはづし、よろしき身廻りになる。馬・女など乱取につかみもこれにてもよろしく成る故。御持ちの国々の民百姓まで、ことごとく富貴して、勇み安泰なれば、騒ぐべき様、少しもなし」という具合で、これを言い稼ぎにして、羽振りがよくなり、親族にも分け前を与えたので、自分の国が戦場になることのなかった武田信玄の領内は、民百姓までみな豊かで、国は活気にあふれ安泰で、戦争だといえば嫌がるどころか、みんな喜んでで行く、これもみな信玄の威光だ、と書いている。

 

p.31~32 ザイール民兵と戦国の雑兵

 ところで、いま手元に、ゴマ(ザイール)発の「恐怖の的、ザイール兵――ヤクザ並みの恐喝、強盗」という、一九九四年の特派員記事がある*11。この戦場の町を、自動小銃武装し巡回するザイール民間防衛隊が、地元の難民や市民から外国の報道陣にまで、公然と脅しや強盗を働いている。市民は「かれらの奪った金品は上司に納め、部下に分け前がおりる。稼ぎの悪い部下は配置を換えられる」と語っている。その背景には兵士たちのひどい安月給や遅配もあるようだ、と。

 給料代わりの掠奪というのも、上司に命じられた組織ぐるみの掠奪というのも、その稼ぎによる分け前の配分というのも、十六世紀日本の戦場にそっくり当てはまりはしないか。少なくともその疑いを向けてみる必要があるだろう。(31~32頁)

 

p.35~36 人買い商人と大名軍の結託

戦国の商人たちは、身代金のやり取りや買戻しなどで仲介料を稼ぐだけではなく、自らも生捕りや売買に手を出していた。「別本和光院和漢合運」(『越佐史料』4、原本の所在不明)によると、永禄9年(1566)2月、小田氏治の常陸小田城(茨城県ひたちなか市)が落城した時、景虎の御意で、「春中、人ヲ売買事、廿銭・卅弐(銭カ)程致シ候」とある。城下は人を売り買いする市場となり、景虎の指図で、春の2月から3月にかけて、20から30文ほどの売値で人の売り買いがおこなわれていたという。東国は、その前年から深刻な飢饉に襲われていた。同じ頃、北関東の戦場では、常陸の筑波、上野の藤岡城でも籠城する敵を破ったのち、城下で「人馬際限なく取る」という戦いがあった。城攻めは、まず城下を押し破って、人や馬を根こそぎ奪い、ついで本城を攻め落として軍兵を皆殺しにするという二段構えで行なわれていた。小田城下の上杉軍による人の売り買いは、こうした戦場の人取りの結果で、軍と人買い商人の深い結託さえも疑わせる。飢饉のさなかとはいえ、中世の人買い相場(2貫文)のわずか1%余りという安値だった。フロイスは、島津軍から豊後の戦争奴隷を買い取った肥後の人たちが、飢饉のために奴隷を養い切れず、島原で二束三文で(フロイスは口をつぐむが、おそらくポルトガルの商船に)転売したと書いている。1、2文ないし二束三文で、北関東の20~30文より安値だった。

 

p.36~38 戦術としての苅田狼藉

三河物語』は、武田方が長篠攻めの戦場で、放火・刈田・乱取りの濫妨狼藉をしたと書いている。これが雑兵たちの作戦の三点セットで、城攻めがアッパーカットなら、「敵をつかれしむる」放火・苅田乱取りはボディーブロー。それなくして戦闘も城攻めもありえなかった。毛利元就の戦法を伝えた小早川隆景の戦術書とされる『永禄軍記』の「攻城」は、春に田畠を荒らして、夏に麦を刈って、秋は刈田をして年貢を妨げ、冬は倉を破って民家を焼いて、餓凍に至らしむる、云々と書いている。ことに3~5月には「麦薙ぎ」、7~9月には「稲薙ぎ」が集中、山本浩樹氏は、①その目的は兵粮攻めであり、②敵地の村を脅して味方につけ、③作戦を担ったのは正規軍とそれに率いられた土豪と百姓だったと指摘する。ただし、①については、掠奪目的がなかったか、③については、乱取りのプロの参加がなかったかについて、史料調べに興味を引かれる点である。武田方の『甲陽軍鑑』がいう「敵をつかれしむる三ヶ条」も内容は同じで、軍隊が村を荒らす戦術には、大きな差はなかったようだ。『雑兵物語』には、敵地で刈田をするときは、手当たり次第に稲を根こそぎ掘り取って、煮てやわらかくして馬に食わせろと書いている。味方の地でそれをやると実りが悪くなるから、必ず敵地でやることと書いている。

 

p.38~40 乱取りは雑兵の恩賞がわりだった

土居方の武将・桜井某は、逃げる土佐軍を追撃、自軍に向かって、「下々の乱取りをそのままに置き、心任せにせよ」と命じた。次の日、土居清良がこれをとがめると、桜井は進んで答えて「下々はかようのことに利を得させねば勇まず、下々たびたびの軍に出て働くといえとも、一度、一度に恩賞はなしがたければ、手柄をし、骨折りたると思いながら、むなしく打ち過ぎ、あまつさえ、法度を強くすれば、気を屈し、かつて徳なきと思い、ひそかに伏す」と言って、場所を見合わせて自軍の費えにならないところで敵の捨てたものを取らせれば、喜び勇むものだと説いた。制法を控えなければ下々は放埓になって下知をきかないので、平素は乱取り無用と硬く言い聞かせても、攻勢にゆとりができた敵地では乱取りの自由を認めてやるのが大切だ、と説いた。しかし、放火・苅田乱取りの評価は低く、表向きはほとんど無視された。「毛利家感状」を見ても、濫妨狼藉に触れたものは1%にも満たない。戦いには欠かせない戦術であったのに、戦功として特筆されるのは、敵を何人打ち取り、頸をいくつ取ったかということで、名誉ある武士の戦功とはまったく別の世界に位置していた。しかし、公文書や公式の証拠類から日記や年代記の類に、さらに覚書や軍記にまで目を移せば、放火・苅田・物取り・人取りに熱中する雑兵たちの世界が広がっている。

 

p.41~43 ポルトガルの日本人奴隷売買

天正15年(1587)5月、秀吉は九州で島津氏を降し、自らの平和の下に置いた。6月に博多でイエズス会の宣教師コエリュを責めて、「ポルトガル人が多数の日本人を買い、奴隷として、その国に連れ行くのは、何故か」と詰問した。『九州御動座記』は「伴天連が日本人を買い取るの真似て、九州の日本人が子や親、妻女を売った」と書いている。いずれにしても、九州の領主たちがバテレンと結託した黒船が、日本から多くの男女を買い取っては、東南アジアに積み出していたのは事実で、男女の大がかりな海外流出ぶりを示唆している。1555年11月のパードレ・カルネイロの手紙には、大きな利潤と女奴隷を目的とするポルトガル商人の手で、多くの日本人がマカオに輸入されていると書いており、日本貿易のごく初めから、奴隷は東南アジア向けの主力商品であったことがわかる。ポルトガル国王は布教の妨げになるというイエズス会からの要請をうけて、1570年に日本人奴隷取引禁止令を出した。1596年以来、イエズス会奴隷貿易者に対する破門令を重ねて議決。1597年、インド副王もポルトガル国王の名で、日本人奴隷および日本の刀剣のマカオ輸出を禁止。しかし、東南アジアに暮らすポルトガル市民は、この禁令が致命的な打撃を与えるとして抗議、莫大な資金で奴隷を買ったのは、あくまで善意の契約であり、何ら違法ではないと主張して、勅令は無視された。もともとはイエズス会自身が、公然と奴隷の輸出許可の署名を与えており、イエズス会といえども、奴隷の存在をすべて否定したわけではない。当時のヨーロッパの通念にしたがって、正しい戦争によって生じる捕虜は、すべて正当な奴隷として認められていたが、どの戦争が正当で、どの奴隷が正当な捕虜なのかを峻別する風俗は、戦国の日本にはない、という立場だった。

 

p.45~51 戦争による九州の荒廃と人身売買

1587年のバテレン追放令の第10条で、秀吉は海外への奴隷輸出と、日本国内での人の売り買いの停止を命じた。海外に売られた日本人を連れ戻すか、それが無理ならポルトガル船に買われてまだ港にいる日本人だけでも返せ、代銀は後で与える、という命令をバテレンに伝えると、バテレン側は、イエズス会は前から奴隷売買を廃止したいと思っているが、外国の貿易船を迎える九州の領主たちが、奴隷売買を一向に禁じない方が問題だと抗弁した。秀吉は、外国の買い主のほか、日本人の売り主にも禁令の範囲を及ぼして、ポルトガル船に奴隷を積み込んだ舟の持ち主を磔刑にしたと、日本イエズス会は報告している。この人身売買停止令は、九州攻めの終結直後に出されている。秀吉は島津が大友領で乱取りした人たちを見つけ出して帰国させよと言っている。これは「人返令」の一種。九州では島津軍の略奪に続いて、秀吉軍による戦争と検断と新政の暴力が加えられ、人びとの身売りや逃亡を引き起こしていた。フロイスによると、慶長元年(1596)、ある商人が大坂で売春を目的に豊後出身の18歳の美しいキリシタンの娘2人を買ったが、彼女たちは豊後大友氏滅亡のときに奴隷の身にされ、上方にまで売り飛ばされていたのだという。豊後・肥後などの国では、島津氏との激戦に始まり、秀吉による制圧、国一揆の反撃と制圧、朝鮮侵略、大友改易という激動のなかで、人の略奪や売り買いが絶望的にくりかえされていた。全国最悪とか地獄の光景とまでいわれた、戦場の村々の荒廃は、秀吉自身の側に多くの原因があった、というべきであろう。

 

p.51~57 統一政権による全国法としての人身売買停止令

戦後の激しい人の売り買いに、秀吉はどのような対策をとったのか。バテレン追放令の直後から、あいつぐ国一揆の反撃で、九州各地は戦場に逆戻り、ふたたび秀吉の平和の下に置かれたのは翌天正16年春のことだった。人身売買停止令は、これを画期としてくりかえし発動されていた。みずからの介入で激化した九州戦場の深刻な奴隷狩り・奴隷売買をどう救済するかという課題に迫られた結果であり、海賊停止令・刀狩令とともに、豊臣平和令の不可欠な一環をなしていた。この方針は、関東・奥羽攻めでも一貫していた。天正18年(1590)4月、小田原を残して北条方の全域を制圧するめどが立つと、秀吉は小田原町中の外での人の売買を禁じ、還住令を出した(秀吉からの上杉景勝宛、真田昌幸宛書簡が引かれている。55~56頁)。ただし、戦地の小田原町中には秀吉の平和を適用しない、と明記しているので、そこでは奴隷狩りとその売買も野放しだった。秀吉の人身売買停止令は、対九州令と同じく、ここ東国でも戦争終結を機に発令されていた。この事実をもとに、あらためて日本の人身売買停止令の系譜をたどれば、律令法から公家新制(治承令以後)・鎌倉幕府法を経て江戸幕府法まで、どの統一政権の法にも一貫する国禁で、いわば日本の祖法であったことに思い至る。とすれば、秀吉の全国法としてこれを打ち出したことは、ここに天下統一過程の終結、全国政権の確立を天下に宣明する意義がこめられていた、と見ることができる。

 

p.69~71 大坂町内での濫妨狼藉

大坂の陣が終わった元和元年(1615)、醍醐寺義演は「将軍が伏見城に入り、陣衆が女・童部どもを取って帰った」と書いている。『大坂夏の陣屏風』にも、戦場の町から避難する民衆に、人の略奪、物の略奪を働く場面が克明、乱妨を働く兵士の具足には葵の紋も見えるので、まぎれもなく徳川軍そのものの奴隷狩り。『三河物語』にも同様の記述がある。また、徳川軍の石川忠総は、侍・町人・百姓など30人を大坂の戦場で生捕りにしたが、侍分は切り捨て、町人・百姓は解放せよとの上意が出た、と書いている。幕府は、大坂方残党を追及する「落人改」令を出して、人取りした者のうち、大坂より外の者は帰せと命じており、戦場の外での人取りは無効(戦場=大阪での人取りは有効)とした。幕府の命を受けた蜂須賀軍は、直ちに「大坂濫妨人ならびに落人改之帳」を作成して、誰がどこで誰を捕まえたのかを記して、合法性を主張している。森三郎兵衛という濫妨人が、大坂町の後家(生国大和の者)とその息子(8歳・5歳)と娘(3歳)などと書かれている。大坂町人のその家族、次いで下っぱの武家奉公人の数が多い。蜂須賀軍によると、表向き男38人、女68人、子ども64人の計170人という数字になる。

 

p.72~73 戦争奴隷たちの行方

生捕られた人々はどこへ行ったのか。転々と売られ、ポルトガルの船に積まれて、東南アジアに送られた人々の軌跡はかなり確か。また町場の商家に下人・下女として隷属した人の痕跡も、『長崎平戸町人別帳』でわずかに辿ることができる。しかし、凶作や飢饉のつづく戦国の村々に、富家の下人となって、耕地の開発や経営の多角化に駆使されたと見られる人々の消息はほとんどわからず、わずかに武士のもとで下人になった人たちの行方が知られるのみ。それさえ、良質な手がかりは乏しい。大坂の陣の10年後、四天王寺の楽人が、伊達家中の杉田某のところで下人として暮らしている福と春松という姉弟を返してほしいと頼んでいる。これは楽人の岡家の子どもで、大坂で「取物」(捕り者)にされてしまったもの。四天王寺の楽人は他家の者が継ぐことは許されない定めで、二人が跡を継いで聖徳太子にご奉公できるようにしてほしいという嘆願だった。生捕られた人々で、確認できるものは、いずれも「下人」と呼ばれた武家奉公人として使役されているので、こうした例は少なくなかったのであろう。すでに鎌倉期には、「殺害盗犯などの重科の輩、初めは召し取るといえども、後には召し仕う」などといわれて、ヤクザまがいの犯罪奴隷たちが領主の下に抱え込まれていた。

 

p.74 近世初期の人身売買停止令

大坂の陣の後、幕府から秀吉とよく似た人身売買停止令が出されていた。発令時期に注目すると、秀吉が九州攻め、東国攻めの直後に人身売買停止令を出したのと同じように、夏の陣が終わった翌年に出されており、全国的に戦闘態勢が解除された段階に当たっている。戦いの後も人の売買や勾引売りが日常の街角に持ち込まれていたのを抑え込もうとする、戦後処理のための時限立法であった。徳川最初の人身売買停止令も、国内の戦場が閉鎖された元和偃武の直後で、事情は同じ。戦場周辺に広がった悲惨な乱取り状況を終わらせるために必要だった。秀吉から家康に引き継がれた天下統一によって、戦争奴隷の供給が断たれたのは事実だが、それによって人身売買が消滅したわけではない。「徳川の平和」後の人の売買や、新たな労働力の需要については、第Ⅳ章に後述。

 

p.77 鎌倉武士による乱取り

12世紀の末、出羽の大河兼任の乱の折、頼朝は捕虜の上進を命じ、兵の暴発を戒めた。敵方の兵士(落人)や住民(下人)の奪い合いはならぬというのだが、鎌倉武士による戦場の人取りはあって当然だが、それを敵前で奪い合う相論・喧嘩は避けよといいうものだろう(『吾妻鏡』建久元年2月5・6日条)。「夜討・強盗・山賊・海賊は世の常のことなり」「所領に離れ……野に伏し山に蔵れて、山賊・海賊をする事は、侍の習いなり」が、鎌倉武士の世界では当然のこととされていた。戦国末のイエズス会の宣教師は、日本における奴隷の発生源の第一は戦争だとしていた。

 

p.79 戦国の検断の風景

 フロイス天正14年、島津氏が豊後の大友領をほしいままに蹂躙する様子を「敵は眼前にあものすべてを略奪し、破壊し、焼却しながら、緩慢に前進していた」と報じていた。戦場の略奪も破壊も放火も殺人も、それがもし平時なら明らかな重罪であり、死刑を免れることはできなかった。それが、戦時にはなぜ正当でありえたのか。

 千葉徳爾氏は、喧嘩の大きくなったのが戦争ではない、喧嘩は私闘だから、殺害の責任は当事者が負わねばならないが、合戦とは公的な殺傷が許されている場合で、社会的責任をとる必要がなかった、と主張する*12。では、なぜ戦争では公的な殺傷や人の略奪までが許されるのか。安野真幸氏は武士が「公」の立場で行なう盗み・殺しが検断(刑の執行)だといったが、私の目を引くのは、さながら戦場を思わせる中世の検断の暴力である。(79頁)

 

中世社会には、重罪犯人の財産・権益(私物・雑具・所従・馬牛等)は、検断を行なう者の手中に帰すという原則(「御成敗式目」46条)があり、戦国の検断でも、刑事事件を起こして裁かれると罪人は死刑、その家は闕所となり、家族や財産は検断物(けんだんもつ)として、まるごと没収された。

 

p.80~81 戦場の濫妨狼藉の原型は中世の自検断にあった

だから刑の執行は、しばしば激しい抵抗を排除し、武力によって強行され、没収された人や物は、罪を裁いた検断権者と現場で刑を執行した執達吏とで山分けにされる慣行であった。中世を通じて「大犯」の重罪とされた放火・殺人・盗みが、検断の場では正当な行為として公然と行われていた。伊達氏の『塵芥集』も「科人の住所成敗のとき、財宝・牛・馬・眷属以下……奪いとるとも、是非に及ばず、……」(151条)、「館廻りにて、科人成敗のとき、かの在所、放火あるべからず、よって乱妨衆、その四壁の木材をきりとり、家垣をやぶる事、罪科に処すべきなり……」(152条)などとある。断罪に当たる代官の一行が、放火をしたり、屋敷の家垣を破壊して財物や妻子・下人を奪って、戦場さながらに放火・苅田乱取りをして乱妨衆と呼ばれていたことが触れられている。「相良氏法度」では、没収される土地を耕す作子(小作人)は捕まえてはならない(24条)、罪人の家に養われている縁者は、検断の対象となる(25条)、婚約ずみの娘でも、嫁入り前なら検断の対象である(26条)と定められていた。現実には、犯罪者の言えと生活につながる者は、小作人でも縁者でも、嫁入り前の娘でも、乱妨衆に捕まれば連れ去られてしまうのが常であった。戦場の人取りの原型は、検断の場の「眷属の検断」にあったと断定してもよいであろう。ただ、『塵芥集』の場合は、検断の乱妨、つまり中世のムラ社会を支配していた過酷な土着の法習俗と決別しようとしていたが、戦場の濫妨狼藉を見ると、過酷な検断の正義は、敵と敵地においては、中世を通じて野放しであった。

 

p.81 骨川道賢に見る乱妨衆と乱妨人

応仁の乱の頃、骨川道賢という名で都に知られた足軽がいて、ふだん獄吏の手下をしていたが、盗賊たちの動静にもよく通じ、「目付」と称して、300余人の子分を引き連れて京の街角をのし歩き、戦いといえば蠅のように集まってきて、敵軍の糧道を断つのにも活躍した、という。獄吏―盗賊―足軽という繋がりの中に、検断の乱妨衆と、雇われて戦場で活躍する乱妨人との深い関りが見えてくる。

 

p.82 中世検断の暴力

南北朝内乱の頃、播磨矢野荘(兵庫県相生市)にも「濫妨人」があらわれた。永和3年(1377)の暮れ、名主や百姓たちが年貢を拒否して寄合いをしているところへ、浦上某が「数十人の悪党を引率」して押し寄せ、打擲・蹂躙・奪取・召取などの暴行を加え、35人を拘禁、また大勢の「濫妨人」が百姓らの住宅を「追捕」、壺や釜や鍋などを破壊、資材・雑具を奪い取ったという。軍書には、敵軍が領内の村や町を荒らすのを「追捕」と書くものもあるが、もともとは職権による人や家財の差押えを意味し、その実態はむきだしの暴力であった。鎌倉時代の正応4年(1291)にも紀伊の荒川荘(和歌山県桃山町・粉河町)で、悪党発心の断罪と称して追捕が行われ、武装した数百人が発心の住宅に押し入って、資材を奪い、堂舎・仏像以下、30余宇の人屋を焼き払った。没収は徹底的で、本人ばかりか家族・家来の資材にも及んだ。建治元年(1275)には、荒川荘と同じ高野山領だった阿弖川荘(和歌山県清水町)の百姓たちは、地頭の非道な検断ぶりをくりかえし告発していた。だが鎌倉幕府法(追加287条)は、百姓が年貢を滞納すれば、百姓を身代に取るのは「定法」だと公認しており、それは合法とみなされていた。

 

p.83 いのち助かる儀

とはいっても、戦場の略奪は、まったく自明の正義とされていたわけではなかった。戦国大名は、しばしば神々に願文を捧げて、戦争の正当性を神の名において世の中に認めてもらうパフォーマンスを行なった。戦場で捕えた人々を我がものにする戦争奴隷の習俗が、イスラム世界でもキリスト教世界でも、日本の中世でも、正当なこととして許容されたのは、検断の正当性だけによるものではなかった。西欧のキリスト教社会では、戦争奴隷が生命の不可侵観によって容認されていたというが、日本の中世にも「飢餓相伝の下人」ということばがあって、飢饉のときに養った者を下人とすること(飢饉奴隷)は正当であるという、ぎりぎりの生命維持の習俗があった。また、死刑となる重罪人を許して下人(犯罪奴隷)とすることも正当である、とされていた。餓死や刑死によって失われるべき生命を助けるということで共通していたと思われる。ゆえに、戦死すべき生命を救うことで下人(戦争奴隷)とすることが許された、と見るべき余地があるかもしれない。


Ⅱ 戦場の雑兵たち


p.94 傭兵は主要な輸出産業

 そもそも、傭兵となる男たちはいろいろな意味であぶれ者であった。オットー・ブルンナーによると、中世後期に見られる傭兵は、零落した者、さすらい人、犯罪者たちの織り成す地下世界から、そして平和喪失者たちから募られた、という。さらに言えば、貧窮にあえぎ、とてもその地に住むすべての人々を養い切れない地方から、傭兵がやってきた。傭兵は、これらの地方にとって、主要な「輸出産業」であった。
              ――山内進『略奪の法観念史』

 

p.95~100 謙信の戦争は口減らしのための一大ベンチャーだった

フランス中世史家ジョルジュ・デュビィ『ヨーロッパの中世――芸術と社会』は、たえず飢えにつきまとわれながら、生命をつなぐために精いっぱい道を往き交う、中世前期のヨーロッパの人々の動きをとらえている。ことに私は「冬は越せるのか、春まで持ちこたえられるのか」という言葉に引かれる。上杉謙信の軍は、北関東で城を落とすと、その城下で人の売り買いをしていた。上杉軍が関東へ攻め込んだのは、「万民餓死に及ぶ」といわれた永禄8年(1565)の冬11月、越後へ引き揚げたのは翌春の3月で、出稼ぎさながらだった。謙信の20回を超える国外遠征には季節性が読みとれそうだ。晩秋から年末の冬型(短期年内型)と、晩秋に出かけて戦場で越年、春に帰る(長期越冬型)があり、関東へは長期越冬型が多い。北信濃へは、麦秋でなければ、稲の収穫期に集中。能登出兵は、半分くらいが稲の収穫期で、ほかは春夏の短期決戦が多い。近くの戦場では、作荒らしか収穫狙いの短期決戦、遠い関東の戦場は、秋の収穫狙いから、冬季の出稼ぎ型(口減らし型)の長期戦争が多かった。二毛作ができない越後では、畠の作物が取れる夏までは端境期といって、村は深刻な食糧不足に直面、冬場の口減らしは切実な問題だった。宮本常一によると、焼畑などで暮らす山深い村々では、耕作だけでは生活できず、農閑期になると、男たちは谷を下って、里へ物乞いに出た。不作に弱い山の中では、働いても一年を食いつなげず、凶作の年などはそうするほかなかったという。農閑期・端境期の戦場は、たった一つの「口減らし」の場だったのではないか。中近世のヨーロッパでも、戦争が最大の産業であった、という。そこで謙信は、関東管領の大看板を掲げて戦争を正当化し、雪のない関東で食いつないで、乱取りで稼いで越後に戻った。戦争のこの季節性は、近世初めの下っぱの武家奉公人たちが、「2月・8月、1年に両度の出替」とされた習俗を思い出させる。越後にとって英雄謙信は、純朴な正義漢やあばれ大名どころか、雪国の冬を生き抜こうと他国に戦争という大ベンチャー・ビジネスを仕掛けた救い主、ということになるだろう。しかし、襲われた村々は地獄を見た。

 

p.100~101 春に飢える

デュビィは10世紀のヨーロッパの暮らしについて、冬を越せるか心配が尽きなかったと書いている。冬から春へ、16世紀の日本の戦争が、こうした季節出稼ぎ型になるのは、端境期の飢えと深い関係があった。戦国時代は「春になると、必ず飢えがくる」のが常だったことを、田村憲美氏が明らかにした。千葉県松戸市日蓮宗本土寺に伝わる中世の過去帳から、1394~1592年までの死亡者463人を取り出して、死亡月を分析して、中世の人の死には季節性があることを突き止めた。中世には、平年作の年にも、凶作の後にも、決まって「早春から初夏にかけて死亡者が集中し、初秋から冬にかけて低落する」という共通したパターンが現れる。19世紀になると、平年の死亡率には、こうした季節性が見られなくなるという。また、ピークの端境期を乗り切っても、さらに下痢の集中する夏と、風邪の多発する冬にも、かなりの死者が集中していたという。この分析をうけて、中国史家の上田信氏も、浙東の『続譜』を調べて、16世紀の死亡動向が日本とまったく共通することを指摘、ただ日本の場合、大きなピークが春から初夏の1回だけだが、中国では春(2月)と秋(9月)に2つのピークを示すという。二期作二毛作のためだろうという。しかし中国も18世紀の終わり頃には、どうにか端境期の飢えを克服していたらしい、という。

 

p.101~102 戦国時代の凶作と飢饉

中世飢饉データベースというのを作ってみた。287頁に「戦国期の災害年表」として掲出。戦国時代が、想像を絶する厳しい飢饉の時代でもあった様子が見えてくる。謙信が初めて関東に攻め込んだのは、永禄3年以来の凶作・飢饉・疫病のさなかで、陣中でも疫病で敵味方が多く死んだ(『赤城山年代記』)という有様であった。その惨状は、同5年まで及んだ。甲斐でも永禄5年は「稲皆損」、6年は「言語同(道)断に悪し」(『勝山記』)という状況だった。謙信が北関東の戦場で人の売り買いをした永禄9年は、3年続きの凶作だった。京では「大饑、天下三分の一死す」(『享禄以来年代記』)といわれた。永禄11年あたりからしばらく深刻な凶作や飢饉の情報は、しばらく影をひそめる。

 

p.103~106 百姓が出稼ぎで戦場や普請場へ

「もともと戦場は、春に飢える村人たちの、せつない稼ぎ場だったのではないか」(103頁)。天正元年(1573)秋、伊豆の西浦(田方郡)の人たちが村を捨てようとしたとき、安藤豊前という北条氏の家来は、「どこへ出ても人の主になることなどできず、侍でも人の草履取りが精一杯だから、堪忍して百姓に精を出すのが一番ではないか」と、懸命に説得した。裏を返せば、「人の主になろう」とバラ色の夢を見て村を出た男たちがいた、ということになる。だが、すべての村人が出世目当てで村を出たと楽観的に見るべきではない。現実には、「人の主になろう」というのではなく、武家奉公人の稼ぎ、つまり流れの傭兵づとめを目当てに百姓たちが村を出る動きは、秀吉をも悩ませていた。天正13年(1585)、関白になった秀吉は、翌14年の年頭に「定十一か条」の第4条で、百姓が年貢や夫役を拒んで隣国に移るのを禁止して、村ぐるみで連座とすると命じた。2年後、秀吉は近江高嶋郡の百姓中に「田畑を捨て、武家奉公人になる者は召し返すこと」と指示しているが、じつは、もともと目安(訴状)を出して秀吉に農村対策を嘆願したのは百姓たちの方だった。不作の田畑を耕すより、町で武家に奉公するほうがマシ、という状況が生まれていたが、秀吉にも手の打ちようがなく、雇い主や代官に断って村に連れ戻せというお座なりのものだった。武家の奉公人需要といえば、日ごと激しさを増す秀吉の統一戦争の雑兵か、上方で始まっていた巨大普請の人夫しか考えられまい。次いで天正19年(1591)の秀吉令では、「百姓で、田畑を打ち捨て、あきない、あるいは賃仕事にまかり出る輩があれば、成敗」と言っている。村を出た百姓たちは、明らかに都市をめざしていた。石田三成の掟を見ると、百姓が奉公人・町人・職人などをめざす動向が進行し、政権が一貫して必死の対応を迫られていたことがわかる。

 ことに秀吉の天下統一が進むにつれて、地方に広く分散していた戦場が消えて、村人の出稼ぎ場が中央や地方の拠点都市へ集中し始めていた。秀吉の平和は、全国の戦場から中央・地方の都市へ、稼ぎ場の集中と村々の激しい過疎化を引き起こしながら推し進められていたことになる。(106頁)

 

p.106~108 大坂の陣の出稼ぎ

 江戸初期の村人にとっても、戦場は魅力ある稼ぎ場であった。慶長十九年(一六一四)冬、大坂で戦争が始まる、という噂が広まると、都近くの国々から百姓たちがとめどなく戦場の出稼ぎに殺到し始めていた。(106頁)

 

冬の陣を目指す村人たちの「夜ぬけ」があいついで、その後始末に村は頭を抱えていた。大坂城内には大勢の牢人(戦争がなくなり失業していた武家奉公人)が乗り込んでいたが、そのなかには、百姓たちも「来年のいつころ迄と約束候て、山越えにて籠城」と報じられた。農閑期だけ籠城して帰る、という約束だったのだろう。大坂の城中はこうした傭兵たちでごったがえし、「日用(日雇)など取り籠め、むざとしたる様躰」だったという。徳川方だった伊勢の新宮領でも、又蔵と申す者が、奉公人(傭兵)を希望する百姓を集め、大坂へ送り込んでいたらしい。あわてて浅野忠吉が取り締まりを命じた。こうした奉公は、下克上どころか、貧しさゆえの走り百姓と区別できないほど、せっぱつまった行動だった。いざ戦争となれば、傭兵集めを仕事にする手配師が、村々に入り込んで活躍。とくに冬の陣のような農閑期なら、人集めもたやすかった。それを阻止しようと、大名は侍衆(奉公人)を村々にやって監視させようとするが、その奉公人たちまでも大坂へ走った者があったらしい。戦場のひと稼ぎを狙って、武家奉公人も百姓も浮き足立っていた。夏の陣のとき、奈良に出陣した家康は、村々に大坂方への「奉公競望」があいついでいるのを見て、庄屋たちに「もし雇われて家来奉公に出れば、子々孫々、親類まで成敗」と脅しをかけていた。戦争と聞けば、農繁期でも人々は競って戦場に殺到した。冬の陣の初め、多くの傭兵がほしい前田家でも、一年契約の奉公人たちに、戦争の続く限りはクビにしないと約束したが、冬の陣が終わった直後に、早く戦いが終わったので、侍・小者を問わずすべて解雇する、と通告した。なお、若党・小者など一年契約の奉公人を二月に入れ替える習俗は、慶長末年ごろまでには成立していた。この出替わりも、もとは2月(耕作の初め)と8月(収穫の終わり)の2回だったが、幕府は元和4年(1618)に、2月だけに公定した。

 

p.111 軍役は武士の務めで、百姓は嫌々だった

戦場では大名たちが「乱取りばかりにふけるな」などとくり返していたが、金で雇われて戦場に来ても、乱取り目当てでまじめに戦う気など初めからない傭兵たちがたくさんいて、大名も手を焼いていた。大久保彦左衛門も「夫・荒子」などを「役にも立たざる者共」と言っていた。戦国の村々には、強制された徴兵は身替わりで済まそうという気風が強かった。もともと軍役は武士の務めで、百姓のやることではないという兵農分離の意識が深くしみ透っていたのではないか。

 

p.120~124 渡り中間

戦国の中間や小者は、自分の気に入らなければ、勝手に主人を替えたので、新旧の主人でもめ事が絶えなかった。早い例では、北信濃の高梨一族が宝徳元年(1449)に「他人の中間を召し使うなと取り決めたのに守られていない」と、再度の申し合わせを行なっている。弘治2年(1556)の結城氏新法度104条には、下人が近隣の他所の領主にも仕えていたことをうかがわせる記述がある。下人が複数の主人を取っていたことは、下人や「かせぎもの」、洞中(うつろちゅう)が一人の主人に隷属していたという思い込みを裏切って新鮮である。「かせぎもの」「かせもの」というのは、「悴者」と書いて、侍身分で中間や小者などの下人よりは少し上の身分で、名字もあった。悴者の行動範囲は、敵味方の境を越えていたので、結城氏は24条で、敵境より流れてくる悴者や下人は使うなと定めた。天文5年(1536)の今川領では「寺領の百姓ら武士へ奉公すべからず、いわんや他所へ出るの事」といって、奉公人としてよそへ行く百姓たちの動きを規制していた。相良氏、毛利氏、今川氏、伊達氏、武田氏は、奉公人の流動に規制をかけた。奉公人をめぐって家来同士で紛争になるのを避けるため、厳しい処理手続を講じた。引き抜きなどもあったのだろう。『雑兵物語』を見ても、どうも下人の方から主人に愛想をつかして渡り歩いたらしい。底辺の奉公人たちの流動性は、想像以上に激しかったらしい。家康の一族だった松平家忠は、『家忠日記天正18年(1590)の6月末から7月初めにかけて「中間かけ落ち候」「中間共かけ落ち候」と書き留めていた。北条氏滅亡、平和到来という時に、勝ち戦の側の中間たちが、なぜあいついで逃亡したのか。日記は理由を明かしていないが、流れ中間たち、つまり渡り歩く傭兵の生きがいは、平和で安定した奉公よりも、荒稼ぎのできる戦場だったので、次の奥羽仕置の戦場に身を投じていたのかもしれないと推測する。

 

p.125~129 雑兵のファッションと傾奇者

流れ勤めの奉公人のいでたちは、よほど人目を引くもので、結城氏の法(64条)に描写されている。結城氏の中間・小者などの下人たちや、他所の足軽たちは、よほど異様な身振りや派手な衣装(をどけたる真似、をどけたる衣裳)で領内をのし歩いていたらしい。それに影響されて、上に立つ武士たちまで、真似をする風潮が広がっていた。中世では、身なりや服装が身分の標識とされていたので、下人や足軽の風体には口出しできないが、武士が下人の身なりを真似ることを懸命に抑えようとしていた。秀吉も天正14年(1586)正月に、諸侍が尻切(しきれ=雪駄のもとになった草履)を履くのを停止、若党や中間・小者が粋な雪駄姿でのし歩いていたから。どうもこれが江戸時代の町触れに出てくる「町人、長刀ならびに大脇差を指し、奉公人の真似を仕り、かぶきたる躰をいたし」というのと同じものらしく、町人が奉公人のような格好をするのは盗人と紛らわしいから禁止ということになった。戦国大名の懸命な取り締まりの裏で、こうした雑兵たちの風体は、武士や町人のあいだにまで大流行して、桃山風俗を彩っていたようだ。

 

p.130~132 悪党の働きに便乗して女捕りをする奴は処罰だ

戦場で乱取りを仕切っていたのは、村々の出稼ぎ兵だけではなかったようで、結城氏の法(27条)にこんな規定がある。

 

 一、草・夜わざ、かようの義は、悪党その外、走り立つもの、一筋ある物にて候、それに事言い付け候ところ、若き近臣の者共、表向きはすすどきふりを立て、内々は……女の一人も取るべく候わん方心がけて、言い付けられぬに、何方へもまかり……(130頁)

 

夜中ひそかに敵陣をかき乱す忍び作戦(草・夜業)は、もっぱら悪党たち任せの仕事だが、この頃、大名の側近の中に、表向きは悪党の助っ人と称してこれに便乗して若い女の一人もさらってこようという者がいるが、そんな奴は恩賞どころか、所領も没収だ、という。結城領では、草・夜業の作戦に、ふだんからプロの悪党や忍びが雇われていて、敵地での人取りも彼らの特許だったらしい。だから結城氏は、敵方との境界の村と半手の協定を結んだとき、結城方にさらった人民はすべて返し、今後は「夜盗・朝がけ・乗込」などは仕掛けないという約束を交わした。忍びの人取りは、報酬として黙認されていたのだろう。侍(若党や足軽)や下人(小者や中間)や里の者(村人たち)は、よその軍隊にまで雇われて、山賊やスパイまがいの仕事までやってのけ、傭兵として自由に活躍していた。今川仮名目録31条も「私として、他国の輩の一戦以下の合力をなすこと、同じく停止」と定め、敵方の傭兵に雇われる動きを、懸命に抑えようとしていた。

 

p.132~133 侍(若党・足軽)は渡りで稼ぐ強盗だった

北条方の支城だった武蔵松山(埼玉県吉見町)城主の上杉憲定は、天正18年(1590)春、秀吉軍との決戦を前に兵を募集して、「夜走・夜盗はいくらでもほしい」「侠気のある強健な者がほしい」「前科者も借財のある者も、みな帳消しにする」という制札を掲げた。中国地方の軍記『陰徳太平記』も、「足軽の歩兵などは、武功があれば山賊・強盗も構わずに召し集めて、夜討・忍討などで戦功をあげた」「並々の若党・足軽以下は、みな山賊・海賊」「侍は渡り物にて候ぞ」と書いている。それらは「がんらい強盗を業として世を渡りける奴原」で、敵陣に夜討・忍討をかけて火を放つ戦闘のプロだから、戦争には不可欠である、という。松山城主がヤクザ兵を集めたのは、追い詰められて惑乱したのではなく、もともと侍とはそういうものだったから。

 

p.133~135 戦国大名はプロの悪党を利用していた

相良氏の晴広法度33条には、人より雇われて、夜討・山立(やまだち=山賊)・屋焼(放火)などを働いたら、雇われた者も、雇った者(口入屋)も処刑する、とある。相良氏も結城氏と同じく、夜討・山賊・放火のプロを雇っていて、彼らを独占しようとしていたが、悪党たちの集団がいくつもあって、だれにでも雇われるから困っていた。毛利系の『永禄伝記』も「小勢の大軍に入る、夜討・焼働きにしくはなし」と説いていた。相良氏周辺の悪党については、安野真幸氏の研究があって、相良氏法度の29~41条は、すべて悪党を取り締まろうとするものだった。「やもめ女をだまして、女房にすると偽って誘拐したら、盗人の刑」「つかまえた逃亡下人を私物化したり、元の主人から法外な礼銭をとるな」「旅の占い師(祝・山伏・物しり)に宿を貸したり、雇ったりするな」「集団でスリを働く連中を、むやみに雇うな」等々。軍記『陰徳太平記』にも、若党・足軽以下の雑兵たちは、もともと盗賊が本業の溢れ者で、戦争と聞けば、どこからともなく集まってきて、敵を討ち取っては相手の鎧・太刀・馬などを奪い、「自分の徳分」にしてしまう。我欲のためだから、命知らずにどんな堅陣・難敵でも打ち破り、抜群の手柄を立てる。大名はこの連中を必ず雇っている、と。折口信夫は「ごろつきの話」で、次のように書いた。

 

諸大名が出世をしたには、皆彼等の手を借りている。彼等は、戦国の当時には、殆ど傭兵として、諸国の豪族に腕貸しをしている。後に大名になったもので、彼等の助力を受けていないものは殆ど一人もない、と言うてよかろう。(135頁)

 

p.135~136 鎌倉末期と戦国の悪党像

こうした戦国の傭兵像は、鎌倉末の悪党像を思い起こさせる。悪党は、非人のような柿色の帷を着て、女のように六方笠をかぶり、烏帽子・袴も着けず、竹で編んだまちまちな矢籠を背負い、すっかり色の剥げた太刀をはき、竹槍代わりの長い撮棒(さいぼう)を杖にして、鎧や腹巻も帯びず、10人、20人と群れをなして、人と顔も合わせずに忍び歩いている。戦争に雇われれば、分かれて城籠りにも寄せ手にも加わり、あっさり寝返って敵方を引き入れる。決まった相手には雇われず、博奕を好み、忍び小盗みを業とし、乱妨・海賊・寄取・強盗・山賊・追落を働くという。これは偏見の入った証言で、鎌倉期の悪党の実像かどうかはわからないが、戦国の悪党たちと同根のものだろう。「切り取り強盗は武士の習い」「押し借り強盗は武士の慣い」という諺は中世の初めには生まれていた。鎌倉時代に「夜討・強盗・山賊・海賊は世のつねのことなり」と公言されていた。


Ⅲ 戦場の村――村の城


p.154~156 高みの見物論

戦場の主役は武士たちで、一般住民は高みの見物を決め込んでいたという説があるが、たしかに南北朝時代の京の合戦では、「洛中のことなれば、見物衆五条橋を桟敷とす」などという光景が見られた。戦国の日記にも「出陣のあいだ、見物のため寺家衆を率いて遊覧」とか「諸勢の陣替えを見物のため遊覧」などという話もある。民衆が傍観者だったというのは、民衆がいかに戦争から疎外され、無力だったかを描こうとしたものだろう。しかし、いつものんびり見物していたとか、いつも戦場の民衆は無力だったという意味なら、軽々しく賛成するわけにはいかない。紀泉国境の和泉日根荘入山田4か村の人々は、「国衆(守護軍が)寄せ来たらば、地下(村人)は山へ取り上りて、見物申すべきなり」と申し合わせていた。しかしこれは、山籠りをして戦火を避けるということで、自衛のためであっても、大っぴらに武装して村の城に籠れば、公然と守護に敵対したことになるので、国境地帯での中立と平和は保てない。だが、生命・財産は守らなくてはならない。高みの見物の裏には、そういう冷静な計算が隠されていた。強い方に味方して、村に平和を保障してくれる者に従った。天正10年(1582)、織田信長も「大百姓などというのは、草のなびきや時分を見計らって行動する者だ」と家来を戒めていた(『武家時紀』29)。これを百姓のひ弱さと見るのは皮相で、むしろ、徹底した日和見で、自衛の力を蓄えながら、平和な暮らしを願う、強い中立の意思のあらわれであったと、私は見る。勝俣鎮夫氏は、「誰でもいい、強い者につく」という村の生き方は、武士たちの主従の哲学とは正反対のもので、おそらく戦国の百姓すべてに共通のものであったと説く。百姓と武士の考え方は別世界のもので、兵と農の分離の意識は、戦国の初めにははっきりとした形を取っていた、ということになる。


Ⅳ 戦場から都市へ――雑兵たちの行方


p.204 武家奉公人が浪人化

 かれらは姓を名乗れず、名ばかりの男たちであったが、かれらこそ騎馬の士分たちをささえる戦闘要員であり、物資運搬の支援要員であった。そして、平和の時代はかれらを大名家臣団からはじきだし、「軽き浪人」として巷にあふれさせることになったのであった。士分に当あたる武士の牢人よりも、足軽・中間・又者が職を失い牢人になることのほうが、量的にも質的にも、社会の諸方面に大きな影響をおよぼした。
     ――朝尾直弘「十八世紀の社会変動と身分的中間層」

 

p.205~207 戦場閉鎖と失業問題

端境期を戦場でどうにか食いつないでいた村の傭兵たち、凶作で田畑を捨てて戦場を渡り歩いていた中間や小者たち、戦場を精いっぱい暴れまわっていた悪党たちにとって、戦場は明らかに生命維持装置の役割を果たしていた。戦争は、あいつぐ凶作と飢饉によって疫病によって、地域的な偏りを生じた中世社会の富を、暴力的に再分配するための装置であった、とさえいえるかもしれない。だが、天正18年(1590)の小田原を最後に、国内の戦場はすべて閉鎖、折口信夫は「ごろつきの話」で、平和になったのはいいが、ラッパ・スッパの連衆をどう処置するかで政権は困惑したと書いている。生命維持装置を失った人々は、どうやって生きていくことになったのか。戦争の廃絶で、日本社会は大変な困難に直面したのではないか。そう考えると、朝鮮侵略の意味はまことに重い。秀吉は名誉欲に駆られたというよりは、国内の戦場を国外に持ち出すことで、ようやく日本の平和と統一権力を保つことができたという方が、現実に近いのだろう。戦場の閉鎖とともに普請場と金銀山へ向かう人々の激流のような流れもあって、日本社会に大変な難題を突きつけていたようだ。

 

p.207~210 あやしい浪人の追放

天正18年(1590)、秀吉は浪人停止令で、浪人を禁止、村から追放せよと命じた。村にいて「俺は侍だ」といって、主も持たずに田畑も耕さない奴は追放という内容だが、ここでいう浪人は主家を失った武士ではなく、侍・中間・小者・あらし子に至る、身分の低い武家奉公人。戦場で主人を助けて戦うのが若党や足軽で、これが狭い意味での侍。あとは下人と呼ばれた。この浪人停止令は、平和の実現によって稼ぎ場を失った、臨時雇いの侍の取り締まりで、のちに対象は下人にまで拡大。もともと職人・商人の心得のある者は、田畑を作らなくても村追放とはしない、ともしているので、主人をもたない得体の知れない侍の排除(人掃い)が主眼であったらしい。ところが、にわか百姓は認めていて、にわか職人やにわか商人には厳しいのはなぜか。とうも、浪人たちが商人・職人になって戦場から町場へ集中する動きが起きていて、それを抑えなくてはならないという事情があったらしい。主持ちの奉公人といっても、雇い主の武士も貧しいから、大勢は雇えず、ふだんは村や町で百姓・商人・職人を兼ねて暮らしていた。なので、奉公人には身分標識として、二本差しを認めた。奉公人は百姓とは身分が違うとされていたので、主なしの得体の知れない奉公人というのは身分法令の上で問題だった。

 

p.211~212 ヤシの起源は野武士、悪党だ

浪人停止令の第4条では、毒の売買が停止されている。毒は中世では「毒飼」とか「毒害」といって、人殺しにも川漁にも使われたらしい。狂言『鳴神』にも、都を食い詰めた怪しげな塗美の薬屋が登場するし、肥後の「相良氏法度」も旅まわりの素人の祈念(呪術師)・医師(くすし、薬師)を禁じていた。ヤシ(薬師・香具師)の起こりは、野士つまり戦国の野武士たちが飢渇(けかち・飢餓)を凌ぐための売薬に始まるという(『守貞漫稿』)。安野真幸氏はこれに着目し、この素人の医師というのは、野武士まがいの薬売りで、スッパ・ラッパ、ヤシ・テキヤの世界とも深くつながっており、人殺しのプロと毒薬売りは、もともと一体だったに違いない、という。決まった奉公先のない侍は、危険な毒薬売りか、闇の殺し屋と見られていたのである。浪人と毒薬の停止令は、悪党たちの封じ込め作戦でもあったことになる。

 

p.227~246 新たな奉公人軍需

秀吉は戦場を朝鮮に持ち出し、新しく巨大な軍需を作り出していた。奉公人集めに努めるように命令し、十分な用意を求めていた。加藤清正も国元へ2000人を集めるように指示している。侵略の開始とともに、その需要は「何れも限りあるまじ」といわれるほどの状況にあった。これが、田畑を捨てて奉公に出る百姓を引きつけて、村々を激しく流動させる引き金であったことは間違いないが、他にも動因があった。大坂築城に始まる城下町の建設ラッシュ、諸国のゴールドラッシュという巨大な公共事業が、底辺の人たちの吸収先となり、やがて治水干拓などの巨大開発が第三の吸収先となる。かつて足利義政銀閣などは幕府財政の窮乏や飢饉を顧みない悪政といわれたが、普請人足を養う公共事業ではなかったか、検討の余地がありそうである。しかし、普請場の日用に出ることは農村の耕作を揺るがせたから、秀吉は日用停止令を出した。武家奉公人もきちんと雇わずに臨時の日用でまかなうような武士がいたから、常勤の者を雇うようにと命じられていた。しかし、どうも大名の目指したのは、耕作さえきっちりすれば、農閑期に単身で他領に日用取りに出るのは本人の自由だ、ということらしく、百姓からの正規の夫役にしても、夫銭だけを出させて日用を雇い、百姓には耕作に専念させた方が効率的だというのが、大名たちの判断であったという。徳川幕府は、寛永18年(1641)に、諸大名の領内の出身者であっても、妻子を連れて長く他領に住みついている者を無理に呼び戻してはならないと指示した。諸藩が人返令で領内の労働力を確保する一方、幕府は三都の労働力を確保する必要から、諸大名に対して人返令の停止を命令していた、という。人返令が幕藩の農民の土地緊縛令とみなせるかどうか、再検討の余地がある。近世初期の公的な普請は、関ヶ原から元和末年までに45件、その他にも各地で大名自前の築城があった。

 

 あいつぐ築城という巨大な公共事業によって、戦場に代わる新たな稼ぎ場が、どれだけ用意されていたか。つまり戦場を閉鎖し平和を保ち続けるために、日本社会がどれほどの規模の公共投資(社会の富の再配分)を強いられたか。この一覧表〔245頁の善積美恵子氏「手伝普請一覧表」〕はそのことを示唆してくれるに違いない。(246頁)

 

p.247~250 雑兵が町中で悪事を働くのを禁止

ところが、普請場の労働環境は劣悪で、治安も悪くなった。食えない人夫たちは、乞食になって京都にあふれている、と『当代記』にある。

 

 都市の普請ラッシュ、つまり新たな大規模公共事業にありつこうと、都市の普請場へ向かう人々の本流は、戦場の雑兵から都市の日用へと、秀吉の予想した流れをはるかに超えて、村の地滑り的な荒廃を引き起こしながら続いていた。日用停止令の直面した現実はこれであった。

 日本の戦場をすべて閉ざし、都市に人々を吸収したことによって、秀吉は都市の治安の問題でも、ただならぬ難題を突きつけられていた。(248頁)

 

慶長2年(1597)年には、秀吉から辻切・スリ・盗賊取り締まりの「御掟」7か条が出された。秀吉はすでに天正18年(1590)にも奥羽で盗賊停止令を出している。戦場の乱取りを日常に持ち込もうとする雑兵たちの逸脱を抑え込もうとするもの。「御掟」によると、侍・下人など下っぱの奉公人たちが悪党の所業をせぬように、侍には五人組、下人には十人組を組ませて連判で誓約させよというものだが、大名に抱えられていた雑兵がこれに加担していたことが問題だった。

 

p.252 スリの起源

スリというのは、もともと集団で大名に雇われていたスッパ・ラッパの仲間が、分かれて単独で行動するようになったものだ、というのが通説だが、戦国のスリは群れてのし歩いていたしい。九州の「相良氏法度」三九条は、「すり取りの事、くみ候てすり申し候あいだ……」と警戒する。厄介なのは訓練された組織でスリを働く連中で、そんな荒っぽい悪党の群れが、戦国初めの相良領に出没して、町場の人々を悩ませていた。
甲陽軍鑑』も「奉公人の悪事九か条」に盗みや辻切をあげ、「すり・がんどう(強盗)のわざ」は「ほんの武辺をしかと存ぜざる」下々の侍のやることだ、と非難していた。毛利輝元も普請掟七か条で「無奉公のいたづら者」を排除せよ、「すり」にやられても深追いするな、夜中に出歩くな、と定めていた。都の普請場の頽廃ぶりが顕わである。(252頁)


エピローグ――東南アジアの戦場へ


p.267~270 東南アジアの日本人傭兵

秀吉が死んで朝鮮から日本軍が撤退した翌年、慶長4年(1599)7月、スペインのマニラ総督テリョは、国王宛の軍事報告で、行き場を失った日本兵が、新たな稼ぎ場を求めてルソンを狙っていると警戒感を募らせていた。ルソンには荒っぽい力仕事に安い金で雇われていた貧しい日本人の日雇いや傭兵がいくらでもいて、スペイン人の家庭にも日本人の奴隷が非常に多く、治安を脅かすほどの大集団になっていた、という。朝鮮に持ち出された日本の巨大な戦争エネルギーは、東南アジアに押し寄せ、日本人傭兵や奴隷が呼応して反乱を起こすおそれがあると緊張していた。スペイン人のメンドーサも、日本人は耕作よりも戦争に熱中して、たえず武芸と略奪に鍛えられ、近隣諸国に恐怖を与えてきたと分析。それ以前からもマニラでは、日本人襲撃の懸念が報告されていた。秀吉が海賊停止令でその倭寇世界をまとめあげて強行した朝鮮出兵は、東南アジア世界への日本の殴り込みと受け取られ、強い警戒心と緊張を植え付けていた。一方、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダの兵站基地として、日本は重要な位置を占めようとしていた。諸研究によると、16世紀末から海外に渡った日本人の総数は、おそらく10万人以上、その一割ほどが東南アジアにいたと推定され、海賊・船乗り・商人、失業者・追放キリシタンのほか、西欧人に雇われた伝道者・官吏・商館員、船員・傭兵・労働者・捕虜・奴隷など、様々。海外に流れた日本の若者は、鉄炮や槍をもって戦争に奉仕する「軍役に堪える奴隷」「軍事に従う奴隷」として珍重され、自ら志して奴隷となり、解放後に放浪する者も少なくなかった。イエズス会のカブラルは、1584年に、日本人を雇い入れて中国を武力で征服しよう、「彼らは打続く戦争に従事しているので、陸・海の戦闘に大変勇敢な兵隊」だ、とスペイン=ポルトガル国王に提案していた。

 

p.271~272 西欧諸国に傭兵・武器・食糧を提供していた日本

日本人傭兵のマニラでの評判は悪く、有害なる国民にして、不面目な罪を犯し、多大なる害毒を流す。好戦的で、略奪のための船で、この国と海岸を荒らしまわった、という。その代表がシャムの山田長政で、日本では徳川方の小大名・大久保忠佐に仕えたカゴかきだったという。日本人傭兵たちの源流がしのばれる。1608年、マニラで日本人1500人の大暴動が必至という情勢になると、総督は日本人の退去を命じて、幕府に抗議した。幕府は介入せず、「呂宋法度の如く、成敗いたさるべし」とつっぱねた。1500人もの在留日本人は、幕府の保護を失い、棄民となった。1615年、マニラ総督はオランダ軍を攻撃、そのときに500人の日本人を薄給で雇い入れたが、暴れ者ばかりで統制が取れず、シンガポールで陸に追放した。スペインに雇われながら、敵のオランダ軍に情報を流したり、救援したりしていたという。こうして、金で買われた日本人の傭兵や日雇いたちはとめどなく海を渡り、西欧諸国が東南アジア各地で要塞を維持するため、日本で調達する武器・食糧も膨大な量にのぼった。

 

p.272~275 オランダに雇われた日本人傭兵

家康はポルトガル・スペインについでオランダ・イギリスを呼び込み、対外友好・機会均等・取引自由の外交を堅持した。加藤栄一氏の研究では、日本の平戸商館は、オランダの軍事行動を支える、東南アジア随一の兵站基地と化し、あらゆる軍事物資が積み出された。1612年、オランダ船のブラウエル司令官が平戸に入港、幕府の許可を得て日本人傭兵を海外に連れ出すのを目的としていた。彼はバンタンの総督に、幕府がそれに同意したことを書き送っている。傭兵といっても低賃金の奴隷的な兵士だった。平戸が戦略的な中継基地として重視された要因の一つは、日本が高性能の武器のほか、安い労働力(傭兵)の供給源だったからという。ただ、幕府が見て見ぬふりをしていたのは事実だが、公認したという証拠は知られていない。岩生成一氏によると、契約期間が終わった後、自由市民として現地で活躍したもなのも少なくなかったという。姓をもつような頭人クラスはともかく、小百姓ふうの傭兵たちは、果たして自由市民になれたのか。

 

p.275~280 幕府は傭兵と軍需物資の禁輸を決定

蘭英防禦艦隊が平戸を母港にし、幕府に2000~3000の公認の日本軍の動員を求めた。国際紛争の介入に慎重だった幕府はこれを拒否、1621年に異国への人売買と武具類の差し渡しを禁じた。幕府は奴隷も傭兵も区別なく、人身売買停止令で取り締まろうとした。傭兵の禁輸はオランダ・イギリスに衝撃を与えた。日本人傭兵なしでとうてい東南アジアの戦争を戦えない、軍需品の供給ができなくなれば戦況に深刻な打撃を与えるから、日本貿易が制限されないように将軍に請願せよと、インド総督は本国と平戸商館に要請。また、将軍の領海内であらゆる海賊行為を禁止したため、海上のどこまでの範囲に日本の権利と裁判権が及ぶのかを明らかにすること、日本の近海でポルトガルイスパニアの商戦を捕獲することは、われわれの立場を危険に陥れるので注意せよ、と書いている。オランダ・イギリスの対応は真剣で、幕府の真意は自国民を外国の戦争のために危険にさらすことを防ぐものと見ていた。秀忠の禁令を受けて、もと海賊大名だった松浦氏によって外国船の臨検が始められ、オランダ船は槍を没収された。イギリスのフリゲート船からは、槍・長刀・刀など千挺余りが没収、その後も武器の没収が相次いだ。

 

p.280~281 おわりに

 凶作と飢餓の続く日本中世の死の戦争は、「食うための戦争」という性格を秘めていた。その意味で、戦場は大きな稼ぎ場であり、生命維持の装置でさえあった。だから死の戦場の閉鎖、つまり秀吉の平和は、たしかに人々に安穏をもたらし、華やかな桃山文化を生み出した。だがその底で、稼ぎ場の戦場を閉ざした、十六世紀末~十七世紀初めの日本社会は、アジア諸国の戦場と国内の新たな都市へ、金銀山へ、さらに全国の巨大開発へと、奔流のような人々の流動を引き起こしつつ、「徳川の平和」「日本の鎖国」へと向かおうとしていた。

 一六二一年(元和七)七月、唐突に日本がとった奴隷や傭兵や武器の禁輸措置は、関ヶ原・大坂の戦争を経て、日本国内の戦場が閉鎖された後、徳川の平和の裏で、東南アジアに放出された日本の戦争エネルギーの大きさの証明であり、大規模な戦略物資や、傭兵・奴隷の日本からの流出は、東南アジアの軍事的な緊張に日本を巻きこむ形成を招いた。禁輸令はその危機を回避するための必死の対策であり、戦国以来の日本人の激しい国外流出に歯止めをかける、大きな画期ともなった。(280~281頁)

*1:Wikipedia足軽」の項。web、2020年5月26日アクセス。https://ja.wikipedia.org/wiki/足軽

*2:藤木久志『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日選書777)、朝日新聞社、2005年、5~6頁。

*3:Wikipedia「傭兵」の項。web、2020年5月26日アクセス。https://ja.wikipedia.org/wiki/傭兵#日本。

*4:Wikipedia、同上。

*5:Wikipedia「かぶき者」の項。web、2020年5月26日アクセス。https://ja.wikipedia.org/wiki/かぶき者。

*6:『南山剳記』2020年5月16日記事、web。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/05/16/014400

*7:『南山剳記』2020年3月31日記事、web。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/03/31/192444

*8:宮本又郎「近世後期大坂における米価変動と米穀取引機構~正米価格と帳合米価格の動き」(『経済研究』26(4)所収)、1975年、363~368頁。

*9:詳しくは、ベルナルド・リエター『マネー崩壊――新しいコミュニティ通貨の誕生』(小林一紀・福元初男訳、日本経済評論社、2000年)11頁を見よ。

*10:松田毅一、E・ヨリッセン『フロイスの日本覚書――日本とヨーロッパの風習の違い』109頁、中公新書、1983年。

*11:朝日新聞』1994年12月17日付朝刊。

*12:この記述については、91頁の注107に、「中世の「夜討ち」を追求した笠松宏至氏は「(武士は)犯罪が起こればそこへ行ってそれを摘発した追捕して、しかしそのかわりにその跡を没収し、その人間を殺すなり自分の家人にしたり、奴隷にしたりすることができる」と説いていた(『中世の罪と罰』討論一〇二頁、東京大学出版会、一九八三年)」云々と述べられている。

戦国の軍隊(西股総生)

戦国の軍隊

西股総生『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』、学研パブリッシング、2012年

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【服部 洋介・撰】

 

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:西股 総生
  • 発売日: 2017/06/17
  • メディア: 文庫
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※なお、本記で取り上げるのは、角川ソフィア文庫版ではなく、学研パブリッシング版です。悪しからず。

 

所蔵館

県立長野図書館 

 

剳記
『戦国の軍隊』を読んでみた

 

 

1.  本書の概要

本書は、現代軍事学の視点から戦国時代における軍隊組織と戦争形態について検証しようという野心的な著作である。もっとも、著者の西股氏は、中世城郭の研究者であって、現代軍事学の専門家ではない。著者略歴に「1961年、北海道生まれ。学習院大学文学部史学科卒業。同大学院史学専攻・博士課程前期課程卒業。目黒区教育委員会嘱託、三鷹市遺跡調査会、(株)武蔵文化財研究所を経て現在フリーライター。城館史料学会、中世城郭研究会、日本考古学協会会員」云々とある。博士前期は卒業ではなく修了の誤りであろう。学研でもう一冊、本を出されている。とすれば、なんだか『ムー』的なにおいが漂ってくるが、『ムー』に載った原稿の単行本化ではない。ときおり顔を出す挑発的な文体には、いささか『ムー』を感じさせるものがあるが、飛鳥昭雄先生ではないので、そこを期待することなかれ。

いずれにしても著者の西股氏は、この分野における学際的な研究を提言されており、戦国史を解明するためには、従来忌避されてきた軍事学的な視角がぜひとも必要であると力説されている。そこで目をつけたのが、「戦国の軍隊」における兵種別編成方式という組織的な軍制の発達と、本職の武士(重装備の士分)と、足軽・雑兵という兵の二重構造であった。そして、秀吉の国内統一戦までの期間において、最終的に威力を発揮したのは、組織的に運用された長柄足軽鉄炮足軽たちではなく、正規の重装歩兵である武士たちの突撃力であったと結論する。むろん「戦国の軍隊」は組織戦のために編成されていたけれど、それはどこの大名も同じことで、むしろその点にかんしては、天下まであと一歩だった信長よりも、東国のほうが進んでいたのではないかと、西股氏はいう。そこで西股氏は、信長・秀吉がなぜ他に先んじて天下統一事業をなしえたのかということについて別の決定因を探さなくてはならなくなった。結句、それはプロの殺し屋集団である武士たちの蛮勇に求められることになったのである。

 

2.  長篠で鉄炮の斉射戦術が用いられたというのは妄説だ

さて、本書は『戦国の軍隊』と銘打たれているけれど、なにぶん戦国時代のことであるから、体系立った陣中日誌や戦闘詳報があるわけでもなし、公刊戦史といえば参謀本部の『日本戦史』くらいで、当の西股氏もそのようなものは歯牙にもかけていないようだ。鉄炮の導入ということに関しても、信長が特別画期的であったというような見方はされていない。しかし、今でこそ広く知られるようになった「長篠の戦い鉄炮3000挺3弾撃ちなんてのはどうなのよ」という〈一斉射撃戦術〉否定説は、もともと藤本正行氏ら在野の研究者たちの指摘するところであって、世間に容れられるまでにはかなりの時間を要した、という*1

しかし、この3000挺の斉射なんて妄説(?)を誰が広めちまったのかというと、一説には先に挙げた陸軍参謀本部第四部が出した『日本戦史』の「長篠の役」だという話がある。桶狭間の戦いも含めて、参謀本部の連中は、どうも小瀬甫庵の『信長記』の記述に影響されるところが多かったようである。これらの戦いにはどうもよくわからないところもあって、信長会心の一戦であった桶狭間についても、西股氏は「ビギナーズラック」と膠もない。

しかし、わが国の史学系学会で、このようなあやふやな説がまことしやかに通用しているのとすれば、コリャ問題である。西股氏によると、これは戦後日本の歴史学に根ざす軍事アレルギーの結果であるという。

 

(…)戦国時代の戦争に関しては、戦前から語り継がれてきた英雄譚のような合戦物語――それらは青少年を戦場へと駆り立てるプロパガンダとしても利用されていた――が、あいかわらず通説・定説として充分な検証を経ないまま、再生産されつづけている。これは、にとっては、大いなる皮肉と言えよう。*2

 

3.  長篠合戦は鉄炮戦術の幕開けではなかった

ところで、戦前の青少年は言うに及ばず、小学生だった頃の私もすっかり魅了されたところの英雄伝説の代表格として槍玉にあがるのが、みなさんも大好きな織田信長である。NHKでドラマにもなった司馬遼太郎の『坂の上の雲』という小説に、のちに日露戦争でコサック騎兵を撃破する秋山好古が、留学先のサンシールの士官学校で老教官と騎兵戦術について議論するくだりが描かれるけれど、純粋な奇襲兵種である騎兵を、その本来の特性のままに運用できた天才は、ジンギス汗と、フレデリック(フリードリヒ)大王、ナポレオン1世モルトケの4人だけであったという話が登場する。秋山は反論して、源義経鵯越屋島)と織田信長桶狭間)の2人を付け加えるよう訂正させることに成功する。なるほど、『ムー』的には、義経はジンギス汗と同一人物であるから、もっともな話である(笑) 

なお、この場合の騎兵戦術というのは、源平合戦の時のような騎射戦のことではなくて、これを密集隊形で運用するモンゴル流のやり口である。後述するが、このような騎兵戦術の日本における革新者は、武田信玄であるという説が西洋の軍事史研究書においても取り上げられるようになる。もっとも、彼において頂点に達したそれは、同時に日本の騎兵戦術の終焉をも意味していたと言われるのであるけれど、要するにそれは、信玄の没後、信長によって確立された鉄炮の集団的運用が、これに取って代わったというような見方に出るものである。

しかし、西股氏の見立てによると、そもそも長篠合戦の戦闘主体は武田と徳川で、織田の奴らは武田軍の右翼が攻めかかると、援護射撃を浴びせながらのらりくらりと敵の消耗を待っていただけ、信長に鉄炮の集中使用などという考え方は毛頭なかったというのである。鉄炮3000挺説自体は、一概に否定していないものの、まったく、単なる作戦勝ちである。また、知られるかぎりの史料から見ると、鉄炮の装備率で信長が他の東国大名を圧倒していたという直接の証拠はなく、長篠合戦というものを、「信長が武田軍を鉄炮で撃破した戦いとは評価することはできない」*3というのである。なお、江戸初期は元和の頃にまとめられたと見られる甲州流の軍書である『甲陽軍鑑』にも、武田軍が馬を乗り入れたとは書かれておらず、これは信長めが言いふらした適当な噂だと憤慨している。なお、信長は、長篠の大勝に大喜びして、「信玄に勝った」と言って、信玄塚なんてモノを作った。これは西国のならいで、家康はそのようなという妄言は吐かなかったとされている。信長家には弓取りの空言が多く、義元に勝った時も6万の今川勢に勝ったなどと言いふらしたものだが、駿河遠江三河に6万もの人はいない、小国なのでせいぜい2万4千、信長もありように言えばなお手柄だったが、いらない嘘をついた、と痛烈に批判を加えている*4

もっとも、『甲陽軍鑑』自体、すでに信長の誇大宣伝を信じていたらしい節もあって、わずか数百か千の手勢で今川勢を破ったものと考えていたらしい*5。もうちょっとはいたんじゃないの、というのが今日の見方である。参謀本部の推計では、信長の支配圏を尾張一国の5分の2と見積もって、江戸初期の軍役にもとづいて計算し、その手勢を約4000人としている*6。『軍鑑』は、北条氏康が敵の油断をついて兵数にして10倍の相手を打ち破ったということも記しているから、当時の感覚では、それが可能と見られていたのであろうか。三河兵も西国兵の4倍は強いと書かれているから、そこは『軍鑑』の編者と見られる小幡景憲が、徳川様にゴマをすったものであると考えるにしても、戦術と武勇をもってすれば、数倍の兵力差を覆すことができるという観念がなかったとも言いがたい。そのあたりは、まったく謎である。もっとも、時代は下って鳥羽伏見の戦いでも、鳥羽街道を進んだ幕府軍は、半数に満たない薩摩軍に打ち破られているから、歴史上、ありえない逆転劇というのはまんざらありえないものでもない。けれども、たいがい、敗れた側のありえない油断が原因のようである。鳥羽の戦いでは、幕府軍はそもそも銃に弾さえ込めずに薩軍の正面突破を図ったのである。敵がビビって道を開けるものと信じ切っていたらしい。『軍鑑』も、桶狭間での信長の勝利を高く評価しているが、結句、義元の敗因は軽率さと油断であったと結論している。

一方、長篠の戦いについて、『軍鑑』は、信長が強敵である甲州武田軍を相手に柵を構えたことは、よい知略と評価している。信長が知将であることを否定していないのである。ところが先に書いたように、「武田武者馬を入る」などというのは虚言で、戦場には馬10騎を入れて並べる場所もなかった、と記している。もっとも、これも後世の編纂物で、高坂弾正の談話のように書かれてはいるものの、武田遺臣の負け惜しみのようなものもずいぶんと入り混じっているのではあろう。軍学書のような体であるのに、いちばん肝心な長篠の戦いの分析は、わりあいと簡潔で、柵から打って出た家康勢との戦いについてはいささか書かれているけれど、柵から出てこなかった信長勢のことはよくわからない。西国の奴らは臆病なので、陣地から出てこなかったというのである。そもそも武田軍は、これといった策を講じずに野戦に突入、そうこうしているうちに、山県昌景がたまたま鉄炮に当たったくらいの話で、鉄炮の斉射を食らって壊滅したなどという節はない。信長と家康の連合軍が10万に及んだというのは、そのままには信じがたいが、要するに兵力差のある相手に野戦を仕掛けて壊滅したという見方を示している。負けるべくして負けるいくさだったので、決定的な敗因というようなものが考察されていないのである。

ところで、わりあい信憑性が高いとされている『信長公記』の記述によると、何度も攻め寄せる武田勢に対し、くりかえし鉄炮を射かけて撃退しているようであるから、信長が鉄炮を用いて戦ったのは事実である。勝頼の軍勢は、けっきょく、力攻めで信長の防御陣地を攻略できずに大損害を出して引き上げたというのが、コトの顛末である。もちろん、甲州重臣は「無謀ですからやめましょうぞ」と勝頼を諫めるが、信長を引きずり出しての一大決戦というのは魅力的な選択肢であったらしい。信長弱しという風聞を真に受けてしまったような節もある。とかく勝頼というのは自信家であったということが『軍鑑』にもしきりに書かれるけれど、真相は不明というほかない。現場にいて『信長公記』を書いた太田牛一も、勝頼が鳶の巣山に布陣していたら織田方の作戦は台無しだったという見方を述べている。上杉に備えるため味方の兵力を十分に集中させることができなかったにもかかわらず、勝頼はこの方面で大きな戦果を挙げる必要に迫られていたのであろうけれど、結果は大変マズイことになってしまった。

 

4.  武田方は鉄炮戦をどのように認識していたか

のちのち、この戦いは、ウマと鉄炮の戦いのように喧伝され、この戦いを機に鉄炮の集団戦術が確立されたかのように言われるようになるのだが、話はそう単純ではない。『軍鑑』が伝えるように、諫言を聞き入れられなかった勝頼の重臣たちが、「こうなったらこの戦いで討ち死にするまで」と意地を張って、盛んに突撃を繰り返したようなことはあったかも知れないが、コリャ戦術以前の話である。しかし、東国の武士というのは意地を立てるのを名誉としたものであるらしい。武田軍が鉄炮の威力を知らずにウマで攻略を試みたというような単純な話ではない。もっとも当時、騎兵の速力を生かして敵陣に肉薄して、そこから下馬戦闘で白兵戦に持ち込めば、鉄炮隊を攻略できるという考え方もあったようであるし、鉄炮に当たって死ぬことは別に不名誉なことでもなかったけれど、少なくとも『軍鑑』は、武田方が騎兵の速力を生かして鉄砲隊の突破を試みたというようなことは書いていない。『軍鑑』は、実話半分、虚構半分の軍学書で、長篠の現場にいなかった人間が武田贔屓の考えで書いた本だから、じっさいのところはわからない。しかし、それにしても武田方でも信玄の頃から鉄炮の導入ということは行われていたから、鉄炮戦の知識は豊富にあった。そのことについて、西股氏は次のように書いている。

 

武田氏が兵種と数量を規定して軍役を賦課したもっとも古い残存史料、として挙げた永禄五年(一五六二)の大井左馬允宛の朱印状には、すでに鉄炮が記されている。また、永禄四年に後北条氏が多摩地方の三田氏という国衆を攻め滅ぼしたとき、三田氏の籠もる辛垣城の城内に一挺の鉄炮があって敵兵を撃ち倒したという。(…)
興味深いのは、『勝山記』(『妙法寺記』)の天文二十四年(一五五五)条に見える、次のような記録だ。

 

アサヒノ要害エモ、武田ノ晴信人数ヲ三千人、サレハリヲイル程ノ弓八百丁もテツハウヲ三百カラ入レ候、

 

「アサヒノ要害」とは、信濃善光寺平の北西に聳える旭山城という山城で、この時期、越後の長尾景虎上杉謙信)と善光寺平の覇権を争っていた武田軍にとっては、重要な軍事拠点であった。
『勝山記』の記手は僧侶だから、合戦関係の記事は伝聞にもとづいているはずで、誇張や誤情報が含まれている可能性はある。ただ、『勝山記』には川中島合戦に関する記事がかなり多く、内容も具体的で、川中島の戦況に関心をもって情報収集につとめていた様子も窺われるから、一概に作り話とは斥けにくい。*7

 

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旭山城(長野市) 山頂部を南側から見たところ。江戸時代に描かれた丹波島宿の絵図にも、ここに古城があったことが記されており、城の見える位置を基準に田畑の境目を判断していたらしい。

 

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旭山の南山麓の全体図。かつて北斜面にあった旭山観音は、現在では南斜面に移された。近くの登山口から、山頂の城跡に登ることができる。

 

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旭山の北斜面。裾花川を挟んだ新諏訪から望んだところ。こちら側は、崩れやすい急峻な崖である。

 

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旭山を南方から遠望したところ。背後は飯綱山。左方は、上杉方が立てこもった大峰から葛山へと連なる山並み。

 

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善光寺の北、箱清水の伊勢社から旭山北斜面を望む。山の手前の丘陵台地に往生地集落が立地する。伊勢社の裏山には、謙信の物見岩がある。

 

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旭山の東、妻科からの眺望。かつて妻科は、旭山の日陰になることから半日村と呼ばれたようである。

 

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第2次川中島の戦いの際、武田に属した善光寺別当の栗田鶴寿がここに籠城して上杉方と戦った。件の鉄炮300というのは、このときの話。鶴寿は武田氏滅亡の前年、高天神城の戦いで戦死した。

 

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旭山の東麓は長く伸びて、夏目ヶ原に突き出している。その麓が小柴見で、上杉方に属した小柴見氏という武士がいたらしい。

 

西股氏は、

 

初伝から十余年をへて、鉄炮が西日本の戦場に普及しつつあった天文二十四年(一五五五)の時点で、武田軍に三〇〇挺もの鉄炮があったとすれば、ちょっとした驚きだが、この話はどこまで信じてよいものだろうか。実のところ、これまでも多くの研究者が『勝山記』の記事を疑問符つきで引用してきているが、筆者は充分にありえる話だと思う。*8

 

と言っている。しかし、「前線の城一つに300挺ということになると、武田軍全体でどれだけの鉄炮があったのか」ということにもなるので、多くの研究者が違和感を覚えるのも事実だという。西股氏は、天文24年の時点で甲相駿の三国同盟が成っていたから、信玄は上杉との抗争の最前線である旭山城に、新兵器である鉄炮を100挺単位でまとめて投入したのではないか、というような解釈を示されている。その有効性が認められた結果、永禄に入るころから、信玄は一般の家臣にも鉄炮の調達・装備を指示するようになり、永禄5年には「鉄炮もって参陣せえよ」という旨の朱印状が発給されるようになっていたのだろうというのである*9。この事情は、後北条氏でも同じことで、鉄炮は東国へも急速に普及していたことがわかる。なお、いささか胡散臭い本で恐縮だが、『甲斐叢書』にも入っている伝・山本勘助の『兵法秘伝書』なる書物の目録には、拳法(柔術)、剣法、棍法(棒術)、長道具(鎗、長刀)、弓法、箭先積につづいて、「鉄炮」とある。その条目に次のようなことが書かれている。

 

鉄炮の日本に渡る事、文亀元年に到来し、天文年中に四方に広まる、故古来兵法家にこのさだなし、しかれども殺害の器用たる上は、侍是を外にする儀なし、所以に一図しゐて、一法の理記者也、*10

 

これによると、鉄炮は文亀元年(1501)に伝わったことになっている。『鉄炮記』にある天文12年(1543)の種子島渡来説をさかのぼること42年前である。これはむしろ、『北条五代記』にある「関八州鉄炮はじまる事」の永正7年(1510)渡来説に近い。もっとも、北条氏が実戦で用いたのは氏綱のときであるというから、永正16年(1519)以降ということになる。なお、『三河物語』では、永正3年(1506)に北条早雲鉄炮を使用したことが書かれており、そのように考えると、『兵法秘伝書』説も、東国で流布した説の一部をなすものであろうが、真偽のほどは何とも言えない。なお、『北条五代記』によると、鉄炮を氏綱に進上したのは、小田原の修験触頭であった玉瀧坊であったという。このことは『秋葉山の信仰』の剳記ですでに書いた*11

なお、『軍鑑』伝解本によると、天文11年(1542)に、伊那・木曽・松本の山家侍で、100貫、200貫知行して馬乗10騎・20騎ばかりもつ武士衆が、山中の狩人に弓・鉄炮をよく打ち射る者20を足軽にこしらえ、雑兵3000、4000におよぶ一揆をかまえて諏訪に攻め寄せて安国寺合戦となったという(品第14)。いわゆる「宮川の戦い」である。それにしても、種子島より1年前に、信州の田舎にまさかの在村鉄炮である。ここはちょっとハテナである。ご存じの通り、江戸時代になると、村の鉄炮というものは、城付鉄炮よりも数が多かった。松本藩では、ナント、村の鉄炮は藩の軍役よりも5倍多い1040挺だった。上田藩でも在村鉄炮は327挺で、上田城に置かれていたものより3倍以上多かった。島原の乱でも、土佐藩は猟師さんたちの鉄炮1000挺をアテこんでいたらしい。太閤は、刀狩はしても、鉄炮は取り上げなかったのである。

 

5.  兵種別編成方式で信長は出遅れていた

さて、西股氏は、信長や西国の事例をあわせて考察しながら、興味深い推論を行なっている。兵種別の軍団編成や鉄炮の大量導入ということについて、信長は特に先進的であったと言えず、むしろ軍隊の領主別編成方式から兵種別編成方式への転換ということについては、東国のほうが西国に先んじていたのではないかというのである。曰く、

 

こうした事例を見てくると、(…)鉄炮の大量導入や兵種別編成方式の採用に関して、信長が特別先進的だったとは言えないことになる。
それどころか筆者は、兵種別編成方式への転換に関しては、東国大名の方が早かったのではないかとすら考えている。九州の事例として挙げた沖田畷の合戦天正十二年だが、それ以前の大伴氏と島津氏との合戦についてのフロイスの記述を読んでも、兵種別編成方式を窺わせるような書き方は見られない。

また、『信長公記』の元亀元年の退却戦の事例でも、鉄炮五〇〇は「諸手」、つまり家臣たちの各部隊から抽出した臨時編成の部隊だと書かれている。だとしたら織田軍は、信長直属の弓兵隊や鉄炮隊を有し、戦場で家臣たちの各部隊から抽出して臨時編成の鉄炮隊を仕立てることまでは実現していたが、軍勢が集合した時点で兵種別に再編成する段階には至っていなかったのかもしれない。ちなみに、武田氏や後北条氏のような兵種と数量を明確に指定した「着到定書」は、信長の発給文書の中には確認されていない。*12

 

フロイスは『日本史』のなかで、天正12年(1584)、龍造寺隆信島津義久が争った沖田畷の戦いについて、龍造寺軍がヨーロッパと瓜二つの整然とした隊列を組んで、1000挺近い鉄炮を有し、槍、長刀、大筒の火縄銃、弓矢、その他、兵種別に編成された部隊が見事に配分されていたと書いている。西股氏によると、これが九州における兵種別編成方式の初見であって、それ以前には、そのようなやり方が見られないというのである。信長についても同様で、江戸幕府の軍役規定を思わせるような〈着到定書〉というのは、たしかに武田氏や北条氏の遺文において豊富に見いだされるものである。要するに、従来の領主別編成法方式ではなく、組織戦を可能とするような兵種別編成方式を早期に採用していた東国のほうが、戦国後期にいたるまで、軍事上の優位を確保していたのではないか、というようなことも考えられるのである。もちろん、戦国の末期にあって、信長もこのシステムを採用することになるのだけれど、だとすれば、軍事的革命者としての信長の評価というものは成り立たなくなる。

 

6.  いろいろと遅れていたらしい信長の政策

ところで、戦国時代から大名が用いるようになった印判状というものがあるけれど、その使用ということについても、先行していたのは東国大名であった。今川、北条、武田といった連中である。領主がバンバンとハンコを押す印判状の登場というのは、こうした大量の公文書を通じて百姓にいたるまで直接に統治する新たな政治体制が出現したことを意味するわけで、この点でも信長は東国の様式を踏襲した。ただし、信長の場合は花押を書かなアカンような上級文書にもバンバンとハンコをついたらしいから、彼の頃にはよほど忙しくなっていたのか、東国大名のシステムをさらに徹底させたものか、それとも「天下布武」のデザインがよほど気に入っていたかのいずれかであろう。要するに、ハンコだけで済ませるということは、強権的ということであって、行きつく果て、戦国大名というのはだんだんと尊大な存在になっていたとも考えられるわけである。なお『軍鑑』に、勝頼が海賊衆に御印判の感状を出したことについて、興味深い記述を載せている。信玄の頃には、他国から甲州に仕官して領地をいただくということがあったので、花押を記した判物を発給して所領を安堵したというのだが、長篠の敗戦以降、他家から武田家に仕官する人がいなくなったので、武田氏の直轄地に所領を与えるということもなくなり、花押の跡も稀となり、感状も印判状になったというのである(品第55)。このときは、伊勢から信玄に招かれて武田水軍を構成した小浜、間宮、向井といった海賊が北条水軍を破ったことを賞しているけれど、彼らの知行地は駿河にあった。

さて、このように見ると、信長が抑えた畿内というのは、なるほど先進地域ではあったけれど、案外と古い権威が幅を利かせていた分、因襲的でもあって、それだけ強引な改革が必要とされたもののようでもある。強大な寺社勢力や自治都市(要するに大名の検断権に服さない公界ということである)が、それぞれに寺社領や町を統治しており、そのことが可能であったのも、経済的な集積と自前の武力がモノを言ったためのであろう。一方の東国には、いわゆる戦国大名らしい特徴をもった大名が多かった。そのためか、戦国大名論というのは東国の研究にもとづいて行われ、一方で戦国大名室町時代からの連続性でとらえようとする戦国守護論というのは、室町殿御分国が多かった畿内以西の研究から進展したという研究史上の経緯がある。ゆえに、それがそのままに歴史上の実像であると考えることは躊躇われるけれど、畿内を東国並みの領国として経営するということになれば、いろいろと障害もあったのであろう。ウッカリと将軍と対立してしまい、いろいろと面倒なことに巻き込まれちまった信長は、そのことに忙殺されたのか、分国法も作れなかったし、軍法らしい軍法もなかったといわれている。大丈夫か、この政権? ヤベエと思った明智光秀が、有名な『明智光秀家中軍法』というのを定めるのだが(織田家の軍法については、それを示す文書がたまたま見つかっていないだけと指摘する人もあるようである)、石高に応じて、どんな兵種の者を何人出せとか、そんなことをようやく定めたところである。それが天正9年(1581)のこと。コリャ画期的だと江戸時代でも言われていたくらいであるけれど、北条氏なんかはチャンと、〈着到定書〉で知行高ナン貫文で兵数と軍備はどれくらいだということを明記していたのである。このことは、東国人である西股氏も力説されるところである*13

ところで、北条氏は貫高制をとっていたから、年貢というのは基本的に代銭納であった。コメ実物の物納ではなかったわけである。本題からそれるので、西股氏はこのことに言及してはおられないが、これは一考を要する問題である。当時の織田家中では、家臣の知行高の把握というのが喫緊の課題になっていたといわれている。一方、すでに東国では、検地にもとづく知行の把握が進んでいた。北条氏康は、永禄2年(1559)に『所領役帳』で、家臣たちの知行高を洗い出している。西股氏は、それを軍隊の兵種別編成化を推進するための調査であったとみている*14。もっとも、これらのことは、北条氏研究が進展する中で明らかになったことでもあるので、今後、織田氏の研究が進めば、結論が変わってくるということもありうる。信長検地というのは、少なくとも元亀4年(1573)には行われていたようであるが、史料が不足しており、効果のほどは明らかではない。なお、武田氏領では、永禄6年(1563)の検地で大幅に土地把握が進み、年貢収入が大幅に増加したらしいことが、恵林寺領の検地帳からわかっている。

 

7.  東国の制度が進んでいたのはなぜか

しかし、考えなくてはならないのは、どうして信長領で検地が遅れたのかということであるけれど、理由はよくわからない。信長が忙しかったためか、あるいは、非武家権門や既得層の抵抗が強かったためであろうか。室町将軍を擁して政権の正統性を獲得した信長が、室町時代からの由緒をタテに既得権益を主張してくる連中の要求を処理するのに忙殺されていたということは考えられなくもない。また、いわゆる『明智軍法』の軍役は、検地の進んでいた東国のような貫高ではなく、石高を基準として定められている。このことをどう考えるべきか、少しむずかしい。

周知のとおり、石高制は江戸幕府における近代封建制の統治基盤であるけれど、歴史的に新しく登場した制度とはいっても、貫高制よりも優れていたのか、よくわからない。貫高制が最も整っていたのは北条氏だが、織田政権ではおそらく、貫高制を維持するために必要な貨幣制度が混乱をきたしており、一部で石高制に移行せざるを得ない事情があったのであろう。これは、結果オーライのような形で豊臣政権から江戸幕府に引き継がれたが、どう評価すべきか、悩ましい点である。いずれにしても、西股氏の指摘を考え合わせれば、検地の遅れは、軍制の遅れに響いたようではある。

しかし、制度が進歩的に見えるからといって、その領国が経済的に豊かであるとはかぎらないし、経済的に豊かであるからといって、その勢力が戦争に強いということの保証にはならない。分国法を整備したからといって、それは戦国大名らしい制度とはいえるけれど、だからといって即座に天下が取れるわけでもない。貨幣経済が停滞していたというと、何かよくないことのように見なされがちだが、貫高制には、それ自体の問題もあったし、検地が進むほど民衆の負担は増えることになるから、無理がかさむことにもなるだろう。戦国大名の力が強まれば、年貢の未進や対捍なんてことは、とうていできなくなってしまうので、民衆としては、あとは逃げるしかない。東国で検地が可能だった一方、畿内でそれが進まなかったとすれば、生産力を背景に結合した惣荘の自治権がまだまだ強かったということなのであろうか。この時代、畿内では、まだ大名の一円支配と検断介入に抵抗するお百姓さんたちがいたのである。この惣結合が最も進んでいたのは近江であった。有名な菅浦などは1540年代に浅井氏に屈服させられ、その支配下に組み込まれたが、自前の武力で近隣と合戦までやらかしていたのである。信長に徹底的に刃向かった伊賀惣国一揆なども、国人から地侍(有力農民)までが広範に結合したものであった。伊賀・甲賀というのは、守護の検断権が及ばなかったために、広く自検断が行われたのであろう。また、室町幕府と結びついて守護使不入を認められた既得層が、そのまま戦国大名の一円支配に抵抗したものもあったであろうから、「これからは信長様のいうことを聞けよ」といっても、「ちょー待てや」ということにもなったに違いない。そういう意味では、畿内の権門が信長の朱印状だけでは納得できなかったのか、室町幕府の奉行人連署奉書の発給を求めていたという見方もあるようで、信長朱印状は奉行人奉書の副状であったという人もいる。分国法などがなかったのも、けっきょくは、室町幕府統治機構をある程度活用していたためなのかも知れない。室町幕府はもともと駿河以東のことに関心が薄かったらしく、そのために、戦国大名というものが東国で発展を見たということもあるのであろう。

上方を中心に見られた中世的な〈自治〉というもの、堺の町や一向宗の地内町(最近ではメガロシティとしての〈境内都市〉という概念で捉えられるようになっている)といった公界における「世俗の権力とは異質な「自由」と「平和」」(網野善彦*15といったものは、戦国大名の一円支配の終局に現れた織豊政権によって権力の内部に取り込まれ、その管理下に置かれるようになってゆくのであるけれど、かつて領主の私的所有に属さないということ、その支配の埒外にいるということに積極的な意味が自覚されていた〈公界〉とか〈楽〉、〈無縁〉といったものは、江戸期に入ると、まったく差別的なものに貶められ、いわゆる〈苦界〉に転落してしまったというようなことを、網野氏は指摘する。

 

〔西欧の自由・平等・平和の思想に比べれば、「無縁・公界・楽」の思想は体系的な明晰さと迫力を欠いてはいるけれど、これこそが〕日本の社会の中に、脈々と流れる原始以来の無主・無所有の原思想(原無縁)を、精一杯自覚的・積極的にあらわした「日本的」な表現にほかならないことを、われわれは知らなくてはならない。

こうした積極性は、織豊期から江戸期に入るとともに、これらの言葉自体から急速に失われていく。「楽」は信長、秀吉によって牙を抜かれてとりこまれ、生命力を大規模に浪費させられて、消え去り、「公界」は「苦界」に転化し、「無縁」は「無縁仏」のような淋しく暗い世界にふさわしい言葉になっていく。*16

 

中世前期に萌芽した「無縁」「公界」「楽」の精神は、寺院・都市・市・宿、あるいは一揆という形を取って戦国期にも存在したのであるけれど、網野はこれを「俗権力も介入できず、諸役は免許、自由な通行が保証され、私的隷属や貸借関係から自由、世俗の争い・戦争に関わりなく平和で、相互に平等な場、あるいは集団」と定式化している*17。その秩序原理は、〈老若〉と呼ばれる年齢階梯的な組織による多数決原理であったと見られている。むろん、そんな理想郷が現実に存在したとは考えられていない。

 

もとより、戦国、織豊期の現実はきびしく、このような理想郷がそのまま存在したわけではない。しばしばふれてきたように、俗権力は無縁・公界・楽の場や集団を、極力狭く限定し、枠をはめ、包み込もうとしており、その圧力は、深刻な内部の矛盾をよびおこしていた。それだけではない、こうした世界の一部は体制から排除され、差別の中に閉じこめられようとしていたのである。餓死・野たれ死にと、自由な境涯とは、背中合わせの現実であった。*18

 

それでも、宣教師が堺の町の自由と平和に目を見張ったのも厳然たる事実であると、網野氏は言う。もちろん、信長はこれを支配下に置こうとするのであるけれど、堺は、そうした「有主」の原理に抵抗して、自らを必死で貫徹しようとしていたというのである。そこまでのものは、東国にはなかったのであろう。という意味では、惣荘らしきものがあまり発達しなかった東国は、アッサリと戦国大名の領国経営に服属したけれど、裏を返せば、経済力を基盤とする民衆の成長というものが、畿内に比べて立ち遅れていたのであろう。それゆえに、見たところ近世的な政策を次々と打ち出すことができたということなのかもしれないが、それで畿内に匹敵する経済圏を築くことができるかといえば、限界もあった。

 

8.  信長の頃のゼニ経済

そのあたりの事情は、貫高制の基盤となる貨幣経済にも通うところがあるのではないかと考えられる。織田信長は、永楽銭を旗印にしていたが、彼が入った京都では、ンなモンは流通していなかった。一方、どうも北条氏は精巧な永楽銭を私鋳していたらしく、これで貫高制を維持していたもののようであるが、とにかく、ある程度、貨幣需要が満たされていたからこそ、貫高制が維持できたのであろう。新型コロナウイルスの流行で図書館が閉鎖されているので、手元に確かな研究書がないのでいけないが、Wikipediaによれば、永楽通宝が北条氏領の「公式の貨幣」となるのは、永禄7年(1564)のことであるという。しかし、別の資料には、この時に定められたのは、年貢に使われる貢納銭を精銭(良質な宋銭)とせよということであって、永楽銭による年貢の銭納を定めたのは、天正9年(1581)とする見方も載せられているから、永楽銭による貫高(永高)がどのように定着したのかということについては、いささか心もとないものがある。東国で貢納銭に永楽銭を指定したのは、北条氏のほか、武田氏もそうであったようであるし、遠江から三河の一部にも及んでいたことから、家康も永高を採用して、江戸に入ってからもしばらく続いた。その通用圏は、信長領の伊勢まで及んでいたため、信長自身は永楽銭に親しんでいたのである。

もっとも、北条氏領でも税の物納ということも行われていたから、貨幣量の不足という問題は進行していたように考えられる。北条も武田も撰銭令を発していることから、銭不足に直面していたのはまちがいない。甲州法度でも、市の外での撰銭を禁じている(反対に、大名の統制下にあった市のなかでは精銭を選り分けてもよいとされていた。近年の研究を見ると、撰銭令は、撰銭を公認することの有効性を意識して出されたのではないか、という意見があるようである。大名の手元に精銭を集めようとしたのであろう)。

手元に貨幣史の本がないからハッキリしたことは言えないが、信長の撰銭令というのは、一部の宋銭と永楽銭を基準銭として、他の悪銭を階層化して交換レートを定めるというものであった。尾張では永楽銭が通用していたようであるから、「オイコラ、京都でも永楽銭を使わんかい、ナロー、ンナロー」ということではなかったかと想像するところである。天正年間に、ビタ銭4枚と永楽銭1文というレートが東国の慣行として定着し、このレートは、江戸幕府にも継承されていることがわかっているけれど、信長のしたことというのも、あるいは、もともと東国で進んでいた永楽銭の使用を前提にした銭貨の階層化を京都でも適用したのにすぎないのではないか、というような気がしてくる。つまりは、尾張でしていたことを京でもやっただけのことであって、永楽銭が使えなくなったら、信長自身が困ってしまうのである。そうだと仮定すれば、信長が永楽銭を旗印にしたというのは、「コレ、まともな銭でっせ」という宣伝のためだったのではないかと思われる。だとすれば、さすが信長と、その点だけは誉めてやりたいものである。

当初は「撰銭した奴はブッ殺す」くらいな勢いだった信長だったが、こういうことは海の向こうの中国でも見られたことで、元王朝が交鈔という紙幣を発行したときにも同じ命令が出されたものである。中国では銅の不足から銭貨に代えて小額貨幣としては紙幣が用いられ、秤量貨幣としての銀の使用も始まっていたので、銅銭は日本との取引に使用され、日本国内で流通するようになったのであるが、室町時代には日本でも貨幣不足が進行していたのである。どこでも銭貨というのは、金属としての価値が信用の担保となっていたので銅不足というのは深刻なことであったらしい。朝鮮でも布などが物品貨幣としての役割を果たしていた。日本でも東国では布がその役割を果たしていたし、西国ではコメが使われていた。いきなり中国の紙切れを渡されて「紙幣です」と言われても、「ハテナ?」ということになったのかも知れない。

当の信長も、永禄末年の段階では良貨を確保できずに、畿内ではコメを代用通貨として使う羽目に陥っていた。兵粮米を確保できず、飢饉のときに米価が高騰する危険性もあったため、信長も撰銭令を出して悪貨の交換レートを定めて貨幣需要に応えようとしたわけだが、効果のほどは知られていない。いやいや、逆にビタ銭を積極的に使いまくって金融緩和をやったんだという話もあるが、これもハッキリしない。というのは、信長期から江戸時代の前期に至るまで、貨幣経済が停滞したという見方が依然として存在するからである。信長がマネー革命をやったのだの、信長の経済政策は明治維新並みだのということを言う人もあるけれど、だったら元朝のように不換紙幣くらい出してほしいものである。もっとも、交鈔を発行した金も元も、最後はインフレに陥って壊滅した。けっきょく、明代になって銅銭が復活することになるのだが、小額貨幣の信用保証ということがいかにむずかしかったということの証左であろう。もっとも、銭さえ作ることさえできればいいというのならば、北条氏のように永楽銭を私鋳すればいいのである。あるいは、信長もやっていた可能性を疑ってよいであろう。

しかし、日本でも紙幣を発行しようとした人がいた。後醍醐天皇である。楮で作った楮幣と呼ぶ紙幣であるけれど、どうも政権瓦解で実現しなかったようだ。じつは、日本では早くから債券を紙幣の代わりに使うということが行われていて、似たようなところで、平安時代の切符のようなものがその起源なのかもしれない。「この紙をもっていくと、コレコレの品物と交換できるで?」という命令書なのだが、これを使いまわせば紙幣のようなものである。のちに割符のような手形になってゆくのであるけれど、別に折紙というものもあった。要するにこれは「いくらいくらのお金を差し上げます」という贈呈目録のようなものなのだが、これを別のところで使いまわしたのであろう。借金と同額の折紙をもっていけば、それで負債を相殺することもできた。折紙の発給元が倒産すれば、そのときは不良債権である。これは西洋におけるゴールドスミスの金匠手形と同じような話で、ここでは、金の預かり証が紙幣のように使われていたのである。預かり証が発行されるということは、実物の金のほかに、金と同じ価値をもつ債券が振り出されたということになるわけだから、それが通用している間、マネーは2倍にふくらむことになる。後世、この仕組みが複雑に運用されて、今日のマネー制度が構築されるのであるけれど、おかげで世の金融資産は実物経済の数倍の規模に膨張してしまった。借金の返済がすべて終わると、もちろん、この預かり証は破棄されることになるから、めでたくマネーは消滅する、というわけである。日本銀行券というのは、国の借用書なのである。

すでに10世紀後半から11世紀にかけて、わが国では、役所が発給する徴税令書が為替手形、信用手形の機能を果たしていた。その信用を流通業者、問丸、商人、そして国家が保証していたことについては、佐藤泰弘氏が「十一世紀日本の国家財政・徴税と商業」で指摘するところである*19。こうした状況の中で、山僧や神人、山臥などの金融・商業活動が活発化し、海・山の領主というべき山賊・海賊といった武装勢力博徒に非人、犬神人などとも結びついて、ネットワークを拡大、悪党や廻船人、商人、金融業者などが農本主義的な鎌倉幕府の統制を超えて流通・交通を支配するようになったと、網野氏は書いている*20。14世紀の初頭に西海・熊野の海賊が蜂起して、鎌倉幕府は15ヵ国の軍兵を動員してこれを鎮圧した。このようなことから、鎌倉の農民系武士と、西国の商人系武士というものの相違が際立ってくるのだけれど、網野氏は「後醍醐天皇は、北条氏の強圧に反撥する商人・金融業者・廻船人のネットワーク、悪党・海賊を組織することに、少なくとも一時期は成功し、北条氏を打倒することに成功した」*21と綴っている。天皇は、単にこれを武力として組織するだけでなく、神人公事停止令、洛中酒鑪役賦課令、関所停止令を発してこれらのネットワークを掌握し、政権の基礎を商業・流通に置こうとした、という。

 

(…)建武政府の中枢である内裏に商人や「非人」と見られる人々が出入したのは、こう考えれば当然のことであり、後醍醐の紙幣発行の試みも、手形の流通という実態に応じたものと見ることができる。*22

 

そんなわけで、建武政権にあっては、銭と結びついた〈悪〉という言葉によってあらわされるような商業・流通ネットワークの組織化ということが企図されたのであるけれど、信長は、悪僧の伝統に連なる比叡山を焼き討ちにし、貨幣と結びついた〈悪〉の世界に積極的な意味で肯定を与え、都市民に幅広く支えられた一向一揆も討滅してしまった*23。こうした寺社勢力、一揆自治都市などによる流通・商業のネットワークに信長がどう対峙したのか、一意に評価するのはむずかしい。もちろん、信長に従った自治都市は、堺や今井のように赦免を受けて優遇されているから、信長もそこから旨味を吸うことができた。彼が経済に無関心であったということはできないであろう。しかし、網野氏の評価によると、信長による〈悪〉の徹底弾圧の結果、最終的には「農本主義」を建前とする近世の国家権力の中で、〈悪〉は厳しい差別の中に置かれ、商人・金融業者も低い社会的地位に甘んじることになったというのである*24。それを信長の責任に帰してよいのかはともかく、行きすぎた貨幣経済を是正するプロセスの中で、農村立て直しの意味もあって、貫高制から石高制の移行が行われたと考えるならば、興味深いことでもあるし、信長の評価を変えることにもつながるのかもしれない。もっとも、初期の石高制の目的を、軍役賦課のための基準づくりと考えるならば、農民にどれほどの恩恵があったのかは怪しいものである。

 

9.  貫高制と石高制

このように見ると、代銭納による貫高制から、物納による石高制への移行というものは、経済的な進化なのか退化なのか、まことに微妙な問題である、貫高制を維持していた東国が貨幣経済の優等生だったというような単純な問題でもない。もちろん、戦国の領国経済から織豊政権江戸幕府へと時代が進むにつれて、経済規模は拡大を続けたのであるから、どうにかして貨幣需要を賄う必要というものがあった。けれど、精銭を発行する信用能力を欠いていたためか、ビタ銭すら足りなかったのか、どうも、信長のゼニ対策は奏功しなかったようである。そこで、金や銀を物品貨幣として使用するということが進められ、このことには一定の評価がある。毛利氏などは早くから丁銀などを用いているが、これは石見銀山をもっていたからである。これを削って重さを量り、切遣いにしたのである。竹流金などというのも、この時代の秤量金貨である。信長が創案したものであるかのように書く人もいるけれど、おそらくそれ以前からあったもので、信長は、金や銀の交換比を定めて、どうにか通貨のように使えるように努力した人なのである。もっとも、庶民が使うものではなかった。

そこで、別の対応が必要になったのであろう。どうも、信長の禁止にもかかわらず、コメ経済は続いていたようで、撰銭令でコメを代用貨幣として禁じたというのも、コメ不足のときの対策であって、恒久的なものではなかったという見方もあるようである。ゼニ不足のところで貫高制もあったもんじゃないから、一部に石高制というものが採用されるようになったのであろうけれど、信長の定めた十合枡というのは、けっきょく、コメ経済の信用を高める効果があったということを言う人すらいるくらいである。あるいは武田氏の甲州枡も同じ意図で定められたものなのかもしれない。

ところで、信長が武田氏領を占拠して棟別銭を廃止したという話があるが、現象として見ると、棟別銭というものは、石高制の普及とともに姿を消してゆくもののようである。してみると、全体としては、銭納による税体系を維持することができなかったということなのかも知れないが、この場合は、棟別銭の高いことで知られた武田氏領における農民の逃亡(欠落)を防ぐためのものであったと見てよいであろう。室町時代からの貫高制のもとでは、大名の市場統制のため、米価は上がらなかった。これというのも、もとはといえば貨幣不足を原因とするデフレのためだとする見方もあるが、コメを換金する際に農民の負担が増す一因となっていたに違いない。であるならば、「貨幣不足なのに貫高制ってどうなのよ?」と考えることもできるわけである。そのような次第で、棟別銭の廃止は、結果として百姓の保護と生産の安定ということにつながったと思われる。武田氏が滅んで織田・徳川との戦争もなくなったので、戦費の取り立てが不要になったのかも知れないが、油断は禁物である。というのは、江戸時代にもチャッカリ、本年貢以外にも小物成という棟別銭まがいの雑税が設定されていたのである。あるいは、棟別銭がなくなった分だけ、年貢率が上がってしまったとするれば、元も子もない話である。信長は家臣に国掟を与えて、勝手に税を賦課することや、私に関所を設けて関銭をとることを禁じているから、公定の税をキチンと取れよ、ということで一貫していたらしい。ただ、信長の家来どもが甲信で行なった政治というのは、強引であまり評判がよくなかったようだから、ずいぶんと混乱もあったのであろう。

ついでながら述べておくと、ある種の棟別銭というのは、関所と同じで、寺社の造営費用に充てられるもので、神仏への上分の名目で賦課されたものである。中世初期には悪党関所もあって、むしろ、商業・流通業者が武力で交通路を押さえて、警護料として徴収していたものでもあった。商人ないし遊女の頭目であったと見られる女性が立てた関所すらあったのである*25鎌倉幕府も「勝手に関を立てるなよ」と西国新関停止令を発しているが、これは悪党禁圧令とセットであった。後醍醐天皇も商業・流通、そして交通路の支配権というものを一手に収めようとして、これを利用しつつ統制に乗り出している。けっきょく、鎌倉のように農本主義の姿勢をとっても、後醍醐天皇のように商業重視の姿勢をとっても、関所というのは廃止の方向に向かうもののようである。今日では、信長の数少ない独自政策として挙げられる関所の廃止というものも、前例に鑑みると、別に目新しいものではないのである。とはいうものの、信長より100年昔の一条兼良などは、美濃へ行く際、どこぞの守護が置いたらしい関所にキレているから、よほど不便なものであったらしい。

なお、貨幣経済が軌道に乗った江戸時代にしても、田年貢は物納であったけれど、代銭納が残された地域もあった。ほかならぬ甲州の国中三郡では、信玄の遺制とされる大小切税法という年貢の物納・金納併用システムが認められおり、その比率は4:5であったから、ここでは貨幣の入手ということがぜひとも必要であった。けれど、これは恩典であったらしく、最終的な年貢率が物納オンリーより低く抑えられたため、のちにこれを廃止しようとした明治政府に対して、山梨農民一揆が起こされた。どうもこのようなシステムを通じて、国中地方では早くから貨幣経済が浸透していたようである。この大小切税法、徳川様は信玄の遺制を認めて、江戸時代を通じて例外的に甲州一国にこれが適用されたものであるけれど、貨幣単位をはじめ、武田氏の制度を取り入れた江戸幕府からすると、これは特別な由緒であったのかも知れない。たしかに徳川の財務官僚に武田遺臣の大久保長安などがいて辣腕を振るったのは事実であるけれど、単に信玄の制度が優れていたから、そのまま残したと考えるのは早計である。武田ブランドは東国では伝説化していたから、武田氏の竜朱印を偽造した文書をもって由緒をタテに仕官を求める人も多くあったようである(このことはすでに、藤田和敏『〈甲賀忍者〉の実像』吉川弘文館、2012年)の剳記で書いた)*26。信玄の死を聞いて家康が泣いたという話があるくらいだから、彼にも武田氏への思い入れがあったのであろう。『軍鑑』にも、家康が信玄のようになりたいとつねづね思っていたことが書かれており、武田家の由緒には一定の敬意が払われていたもののようである。余談であるけれど、『駿河土産』という本の「巻の五」に「関東御入国時長柄持を八王子で召抱の事」という話があって、権現様が仰るには、秀吉から国替えを命じられたときに一番無念だったのは、甲州を手放さなくてはならないことであった、と書かれている。勝頼の頃に減った金が再び産出され始めていたためかもしれないが、生国の三河よりも甲州に思い入れがあったというのは、ひとかたならぬものである。なお家康は、八王子に長柄同心を置いて、甲州の物産を江戸で商わせたとのことである。

いずれにしても、武田氏の棟別銭の取り立ては執拗だったらしく、甲州法度にくどいくらい書いてあるから、人びとの負担にも重いものがあったのは事実であろう。信玄在世の頃は他国からの侵攻を受けなかったことで、甲信の人たちはずいぶんと経済的損失を免れたであろうから、それでも安全のためと思って渋々、負担に応じていたかもしれないが、もっと強そうなのが攻めてくると、国境などではいち早く敵方の保護下に入ろうとする者もあらわれる。この場合も、通常はカネで禁制を買って、略奪を禁止してもらうということが行われた。どっちにしても、カネを払わなければ何をされるかわかったものではなかった。敵対する勢力が拮抗している場合は、村は〈半手〉といって両属の姿勢を示して、双方に年貢を納めた。戦国時代の村というのは、大名が家臣に知行割をしてそれでオシマイというような簡単なものではなかったのであろう。むろん、領国が巨大化し、領内で戦争がなくなれば、自然、こうしたことは消滅する。武士にしても、戦場だけでなく、畳の上でのご奉公ということが重要なことになる。そのようなわけで、戦国大名による家臣の城下町集住ということが進められたのは事実であるけれど、主に、のちに役方といわれるような行政職を集住させるのが狙いであったようだ。武田氏もそのような段階に達していたし、信長の安土も同様であった。両者の様態はほとんど変わらなかったと言われているから、この面でも、信長の先進性は否定されている*27

ただし、信長が尾張を出て、岐阜、安土へと拠点の移動を行なったことは、武田氏とは対照的で、武田氏にあっては、甲府から新府への移転は60年間おこなわれなかった。もっとも、信長は東方での戦いは家康に任せて、自分は西へ進出したのであって、反対に信玄は東方で戦っていたから都には近づけず、首府の移転先といっても、領国の地理的中心ということだけを考えれば、諏訪くらいしかなかった。新府というのは韮崎市で、20万年前に起こった日本最大の火砕流である韮崎岩屑流によって形成された七里岩台地の突端に築かれた城である。甲府から目と鼻の先であるけれど、諏訪へも佐久へも出ることのできる要衝で、駿河へ行くのにも便利な立地であった。武田氏の滅亡直前のことで、家臣領民は大変に迷惑を蒙ったので、移転はうまくいかなかったようである。その点、信長は、いうことを聞かない家来の実家に火をつけて、強引に安土に引っ越しを迫ったという話が『信長公記』に見える。当時、信長の身辺警護を担う馬廻や弓衆が、安土に単身赴任していたのだけれど、男所帯の不注意とて、弓衆の家から火事を出してしまい、信長はカンカン、早く妻子を連れて来いと、尾張の実家をブッ壊してしまったというのである。その一方、依然、領地に居住していた武士も多くあったわけで、年貢の取り方は、基本的に地方(じかた)知行制であったので、大名が年貢を直接に管理して、そこから家臣に分配する俸禄制は進んでいなかった。おそらく武田氏にあっても、直轄地からの収入を蔵前衆が管理して、それを各領主との主従関係にない足軽・雑兵、あるいは奉公人の賃金に充てていたのであろうけれど、実態はよくわかっていない。それ以外の年貢収取は、各領主に任されたのであろう。

 

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山梨県北杜市武川町宮脇~韮崎の円野町のあたりから、西側に七里岩を望んだところ。この丘陵の向こう側が穴山氏を出した穴山というところ。新府城は、穴山梅雪の進言で築城され、真田昌幸がこれにかかわったとされるが、定かでない。

 

10. 当時のゼニ事情

話が西股氏の著作から離れてしまったけれど、北条氏による検地と貫高制の整備、そして兵種別編成の早期達成という事例を見ると、信長にあってなぜそれが遅延したのかという疑問は、それなりに重要なものであろうと思う。また、信長はそれらに代えてどのような制度で対応を進めたのか、興味深いところである。おそらく、信長によるビタ銭の異次元緩和は失敗し、信用度の高いブツを代用通貨として流通させざるを得ない事態が続いたのであろう。ついには、金や銀を決済手段として使用することになるのだが、このことは江戸幕府にも継承され、いわゆる三貨制度が確立を見ることになる。そもそも一条鞭法以降、明も銀決済で、ヨーロッパもそれにならったから、信長時代の貿易に必要だったのは銀ということになる。銀がなければ鉛も硝石も買えなかったのである。清代になって銭の使用が復活するけれど、そこで今度は日本の寛永通宝が中国やヨーロッパ勢力のあいだで使われることになった。その後、江戸時代になって、日本でもようやく紙幣と呼んで差支えないものが、銭と並んで庶民の間で流通するようになる。

なお信長は、茶道具をブランド化して恩賞のかわりにしたといわれているけれど、それはそれで画期的なアイディアと誉めてやりたいものである。滝川一益なんどというバカ者は、「甲州征伐でがんばったら、領地はいらんで、茶道具ちょーだやす」と信長にねだって無視された。けっきょく、領地として群馬に佐久・小県なんかをつけてもらって「こんな田舎、トホホ」ということになったのだが、まあ、茶道具も物品貨幣の一例ということなのかも知れない。茶道具はもらえなかったが、刀はもらえたようである。三条西実隆大内氏に官位の世話をしたときの礼銭が銭2000疋と太刀一本だったという話はすでに剳記に書いたが*28、そういうものであろうか。

しかし、これが武田氏なら、家臣には茶道具ではなく甲州金でも渡さなアカンところである。甲州金は日本初の整備された体系的な金貨であり、銅銭と同じ計数貨幣であったと見られている。しかし、こと民衆経済ということになると、庶民の場合は茶道具も金も使えないので、銭かコメ、あるいは布といった小額貨幣をどう担保するかということが問われなくてはならない。銀などは切って使ったから、小額銀貨として銭貨を補完したものとは考えられる。なお、畿内に限らず商取引の盛んな地域では、すでに銭不足が進行していたものか、今川氏領でも〈米方・代方制〉というのがあって、コメは石高、畠年貢や夫銭・屋敷銭は貫文高で定められていた。なお、貫文制といって、田年貢を貫文高であらわしたものもあったけれど、北条氏の貫高制とちがって、基準高はマチマチであったらしい。この、年貢を銭納とする、いわゆる〈石代納〉というのは、江戸時代を通じて主に畠年貢に継承され、地租改正まで続いた。今川氏が石高制を部分採用していた理由は不明で、いろいろ書いたことはおおむね憶測の域を出ないが、ゼニ経済が機能しているとか、検地が進んでいるからと言って、ただちに経済先進地であるとは言えないのであって、結果として東国で兵種別編成の軍制が進んだということについても、それ単体で評価することはむずかしい。また、民衆のための小額貨幣の問題と、大名や商人が大口の取引に用いた金や銀といった高額の金属貨幣の問題を一括りにしてしまってよいものか、その点も一考を要するものであろう。けっきょくのところ、コメは江戸時代でもある面で通貨の役割を果たしていたのである。

すでに書いたように、農民からすると、どうも金納よりも物納のほうが直接的で中間搾取のリスクが少ないという考え方もあって、税はすべて金納ということを定めた地租改正には反対一揆も起こった。ただ、逆の例もあって、酒田県の〈ワッパ騒動〉というのは、石代納を認めた新政府に対し、県が農民から物納で年貢を取って、それを転売して不正な利潤を得ていたことに起因するものであった。ついには過納米金の返還と減租、特権商人の廃止などを求めて訴訟となった。正直、戦国時代にあって、検地で土地把握をした後、さらに米の生産高を貫高に換算するなどという手間をかけることが領国経営の上で効率的であったのか否か、私にはよくわからない。江戸時代のように物納にしてから蔵屋敷で換金すべきか、そこはシステム上の問題もあって悩ましいが、いずれにしても大名の都合によったもので、別に民衆のことを慮ったわけではなさそうである。武田氏の蔵前衆も、各地の御蔵に集めた年貢米を、現地の市場で換金して甲府に送っていたようであるが、このことには信州や京都の富商がかかわっていた。そのようなわけで、市では精銭を使うことが求められたのであろう。

また、太平洋海運の進展にともなって、信虎の頃から伊勢御師の幸福太夫甲府に屋敷地を賜っており、どうも商業活動にも従事していたもののようである。幸福太夫の本家は伊勢の山田で借上業を営んでいたが、こうした金融業は、諸国の旦那廻りをする宗教家が得意とするところのものでもあったし、比叡山の悪僧や山臥などもこれを営んでいたようである。このことには問題もあって、貨幣経済と年貢の銭納化が進むにつれて、こうした人たちが年貢や公事を立て替えたり、徴税を請負などして、農民と領主のあいだで中間利益を得るようになっていたようなのである。このような人を富裕者という意味で「有徳人」などと読んだが、「有徳の百姓」という言葉があるけれど、どうも実態は農民だけでなく、こうした商人なども含まれていたらしい。そのようにして得られる利益が得分権として所職化することで、その下にいた農民の負担が増していくことになったとも考えられる。石高制のもとでの初の本格的検地となった太閤検地では、耕作者に直接の納税義務が割り当てられたので、中世的な所職は否定され、土地の権利関係はだいぶスッキリとしたものになった。なお武田氏は、村々の有徳人に新たに軍役を割り当てていたことが知られている。

さて、外宮御師の幸福太夫の話が出たけれど、室町時代以降、伊勢山田の町衆は自治を行なって手形取引も活発であったことから、のちにそこから山田羽書と呼ばれる紙幣が生まれることになった。これは17世紀の初頭のことであるけれど、丁銀の切銀遣が禁止されたことを受けて、小額銀貨に代わるものとして発行されたもののようである。伊勢や今井の銀札は兌換のための正貨準備が十分であったことから、長く信用を保ち、明治政府が藩札を廃止するまで用いられたけれど、各地の藩札はしばしば取り付け騒動に発展した。じつは、この問題から戦国時代の撰銭令についての再解釈が試みられたものと考えられ、自領の良貨を他領で発行されたビタ銭まがいの藩札の使用によって吸い上げられないように、こちらでも自衛策として藩札を刷るというようなことが行われたことに鑑みると、単に「撰銭するな」ではいろいろと問題が生じたであろうことも想像できる。この点でも、正貨の確保と撰銭の一部公認というのは、セットで行なわれていたと考えられ、信長が悪銭ばかり使っていたとは考えにくいのである。当時の銭貨というのは商品貨幣でもあったから、銅の金属としての価値がものをいったわけで、良貨を集めて悪貨に改鋳して出目(益金)を得ることもできた。これを、撰銭を禁止する他国に大量に流してボロい商売をすることもできた。要は、悪貨による通貨膨張策というのは、領国間の為替レートの安定と、領国内の物価安定のバランスを考えて行わなくてはならないということである。

なお、この時代の貨幣は、堺銭などのように民間でも発行されていたから、事態はなかなか複雑であった。北条氏は永楽銭を国内鋳造し、武田氏は甲州金を発行して貨幣供給を増加させようとしたのであろうけれど、このようなことは市場拡大の過程で必要となるものであって、そうでなければ単にインフレを引き起こすものでしかない。あれだけ戦乱に明け暮れていたのに、戦国時代というのは経済成長期であったと考えられている。農村失業者は公界に逃げ込むか、さもなくば戦国大名に雑兵として雇われた。ほとんど軍事ケインズ主義である。西股氏もいうように、戦乱は失業者を生み出す一方で、常に雇用をも生み出していたのである。もっとも、彼らに給地はなかったから、他国を壊滅させて乱取りをすることで収入を得ていたわけである。信長軍が京で略奪をしなかったなどというのは、まったくのデタラメらしい。まったく困った経済成長である。

こうして巨大な領国を形成した大名たちは、次に商業統制に乗り出す。信長は六角氏や今川氏の楽市令に影響を受けたと考えられているけれど、結局は特権商人をつくって座を再結成させてしまった。これは何も信長に限ったことではないので、彼ひとりの責任ではない。武田氏にあっても商売役銭を徴収する商人頭のようなものがいて、徳川時代になってもそのまま居座っていた。どこでも大名による商業統制ということが進んでいたわけである。つまるところ、楽市なんてのは、もともと〈楽〉であった中世的な自治空間の都市法をそのまま認めたものであって、それを大名が公許して統制下に置いただけのものであるらしい。信長の創案になるものではなかったのである。そこから税金とってやれなんてのは、みんなが考えたことであったし、室町時代から行われていた。けっきょく、都市民も農民も、外部の暴力集団にカネを払って、自治を買っていたのである。

一方、北条氏領では永楽銭を基準銭にして貫高制を整備したわけだが、もともと永楽銭は畿内基軸通貨ではないから、北条氏が西国から物資を調達しようということになると、あるいは、もっと効率的な決済方法が必要になったことであろう。東国の伝統でいえば、武田氏や今川氏と同様、〈金遣い〉である。コメ現物や布を輸送して代用通貨として用いることもできるけれど、どう考えても不経済である。銅銭にしても、かさばることが嫌がられた節もある。ゆえに、大口の軍用品の取引や、家臣への恩賞ということに金を用いることは、不合理なことではなかった。銭と違って秤量貨幣であったから、秤さえあれば、どこでも使えたはずである。一方、マネー革命を庶民レベルにまで浸透させるためには、銭なり紙幣なりという軽量で信用度の高い小額貨幣が潤沢に投入され、使用されることが必要となるけれど、織田政権のそれは、不徹底なものに終わったもののようである。仕方がないので、いよいよブツである金や銀を貨幣として使うことになるのだけれど、一般の民衆経済にどの程度寄与したのか、けっきょくはコメなんじゃないの、という疑念はぬぐえない。なお、金は東国、銀は西国に産するものであった。石見銀山をもっていた毛利氏は、撰銭令を出す必要がなかったというのだが、いくら銀が出ても、切銀でもしないかぎりは、庶民はコメ経済に頼らざるを得ないような気もしてくる。なお、この時代の高額金属貨幣としての金や銀は、武田氏の甲州金以外は秤量貨幣である。江戸時代の話だが、じつのところ、庶民はほとんど金や銀を見たことがなかったという話もある。

さて、日本初の金貨といわれる甲州金の制度は整然としており、一見してじつに先進的である。しかし、ンなモンを自国だけで整備したって、領国貨幣など全国的には使えないから経済は発展しないという人がいる。銭の場合はそうであろうけれど、金の場合は、量って使えばいいわけである。計数貨幣としての信用は領国内にとどまったかもしれないが、秤量貨幣として他国で使えないということはなかったのであろう。それこそ、金なら砂金でもよいわけである。しかし、これにしても、民衆経済にどう影響したのか、小額貨幣の問題は残らざるを得ないし、現代社会の構造をそのまま中世末期に当てはめるわけにもいかないので、高額の金属貨幣によって補われた流動性が、どこにどのように作用したのかについては、もう少し検討を要するように思われる。けっきょく、この時代の貨幣経済に重要な役割を果たしていたのは、社会の一握りの人であったのではないかという疑念を抱かざるを得ないのである。民衆レベルでは、相対的に金属貨幣の重要性が低下して、コメ遣いが続いていたのではないかというようなことも考えなくてはならないであろう。一方で、戦国大名や豪商の手元流動性は、金銀の採掘量が増すにつれて高まっていくわけである。金属貨幣とコメのあいだにも互換性はあったと思われるけれど、現代にはないユニークな制度である。リアルマネーと地域通貨の問題などを考え合わせると、興味深い。

なお、甲州金の単位制度はのちに江戸幕府に引き継がれている。甲州大好きの権現様の思し召しか、甲州金自体も甲州での使用を許されており、信玄公の面目躍如というところであるけれど、当時の制度としては、領国貨幣の域を出るものでしなかった。甲州枡というのも似たようなもので、度量衡の統一を企てた過程で生まれたものであろうけれど、全国的に見れば国枡の一つである。それが幕府にも使用を認められて、大小切税法・甲州金とあわせて甲州三法などと呼ばれたが、これはまったくの特例である。そうした特例の存続活動を通じて、信玄公崇拝が今日まで残ることになった。恵林寺にあった信玄の墓は織田勢に寺ごと燃やされてしまったが、甲府市内の火葬地と伝わる場所には、今では立派な墓が建っている。かつては魔縁塚と呼ばれて不吉がられていたようだが、大僧正にまでなった信玄のこと、仏道修行者が天狗道に堕ちたものにたとえられたのであろう。あるいは京を望んで隠岐で死んだ後鳥羽上皇のようなものにたとえられたのかも知れない。信玄が京に執心していたことは『甲陽軍鑑』で、甲斐を滅ぼして勝頼の首と対面した信長の言葉にもよく表れている。なんでも信玄は、首ひとつになっても上洛して、天子様に参内つかまつりたかったというのである。なお、近くには武田氏に代わって甲州を治めて、しまいには一揆に殺された河尻秀隆の河尻塚というものもあるが、こちらはまったくひどい扱いを蒙っている。祟られるぞ。

 

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甲府市岩窪町の信玄公墓所。地元住民は「信玄公さんの墓」と呼んで崇敬しているそうである。ほとんど熊本の「清正公さん」(せいしょこさん)である。

 

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こちらが、信長に諏訪と甲斐の統治を任された河尻秀隆の「河尻塚」。圧政を敷いたということで恨まれ、死後、さかさに埋められたというので「さかさ塚」ともいう。なんと、信玄公墓所から歩いて1分のゲートボール場のフェンスの外にある。もっと祀っといた方がいいぞと思わないでもない。

 

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織田勢の検断を拒否して焼き討ちされた恵林寺山梨県甲州市)。「心頭滅却すれば」で有名な、この山門。

 

11. 畿内には信長の標的になりそうな金持ちがたくさんいた

さて、北条氏をはじめ関東では、永楽銭を精銭として定めたのであるけれど、信長のアピールにもかかわらず、これは上方では定着しなかったようである。東国に成立した江戸幕府も、新規の永楽銭の鋳造を停止して、畿内で流通していた京銭と呼ばれたビタ銭を基準にして、寛永通宝が出るまで1:4の交換レートを維持する方針をとった。この時代の京都あたりでは、宋銭の使い古されたものの方が、信用度が高かったのである。私も高校生の頃、古銭ガチャで怪しげな宋銭の使い古したようなものを100円で手に入れて喜んでいたものである。それはともかく、このように、悪銭を階層化してレートを定めるということは、どうも信長の独創に出るものではなくて、すでに各地で行われていたことのようである。畿内での明銭の信用は低かったが、徳川幕府は永楽銭の価値を悪銭4枚と高く定めている。本音では、永楽銭を基軸通貨にしたかったのであろう。けれど、当時優勢であった上方経済の慣行を温存せざるをえず、永楽銭を徐々に廃止する方向性で銅銭使用の統一を図ったもののようである。このようにして見ると、江戸初期まで貨幣経済は停滞したにせよ、経済成長は続いていたということらしいから、少なくとも信長のゼニ政策は奏功しなかったが、かといって経済が衰えるということもなかったようである。経済成長が先で、貨幣不足が後からついて来た、というようなことなのであろう。遅れて経済が発達した東国では、畿内から悪銭として排除された明銭を基準銭として採用した結果、貫高制の維持ということが可能となった、ということであろうか。似たような明銭の使用は、九州でも見られるようである。

いずれにしても、高信用の銭貨を鋳造できなかった織田政権にあっては、貨幣経済がコメ経済に転換し、それに金銀を加えて銅銭に代えるということが行われるようになった。貨幣不足そのものは、信長のせいではなく、撰銭令の意図というものも、「基本、コメはやめてビタ銭でも何でもを使ってくれよ」ということではあったのであろうけれど、しまいには「こうなりゃ、めんどくせえから、コメ決済でやっちまえ」くらいなことにもなったのかも知れない。決済手段がないとなれば、いよいよ経済が停滞してしまうからだ。生産物があっても、取り引きができないのでは、元も子もない。製品を作って包材足らずというようなものである。これは領国経済において深刻な問題である。

戦国大名といっても、銭なしで商人から商品を召し上げるなんてことはできなかったわけで、それこそ商人が逃げ出してしまう。さらに、強力な商人ともなれば、堺や今井のように武装して大名と戦うこともできたわけである。この時代の富商のほとんどは京都周辺にいたと言われているけれど、武田家にあっても直轄領の管理に当たった蔵前衆の頭役のうち、伊奈宗富は信州伊那郡の商人、諏訪春芳も諏訪の商人であったが、頭役の下には京都の商人であった松木珪林という人物も召し抱えられており、『軍鑑』にもしばしばその名前が見える。いささか学のある人間ではあったけれど、馬場信春あたりにやりこめられる話が出てくるので、武士の目線では卑しまれていたのかもしれない。もともと松木は京と甲斐の貿易で財を成した人であったらしい。信玄が駿河を領有すると、伊勢の小浜氏が知行を与えられて海辺に住みつくようになるが、これは海賊商人であったらしい。信長についた九鬼水軍との争いに敗れて、武田氏の招きに応じたもののようである。

信長の撰銭令をあたかも現代の金融緩和のようにいう人がいるが、これは言うほど画期的なものでもなければ、それほどの悪法でもなかったというのがじっさいのところなのであろう。悪銭の使用基準を定めた法令は室町幕府からもたびたび出されていたし、興福寺もすでに精銭と悪銭の交換レートを定めていた。いずれにしても銭の信用は落ち、しまいには甲州金なども出回り、美濃あたりでは、畿内から駆逐された悪銭が出回ってインフレに陥ったという話もある。けっきょく、織豊政権にあっては、東国のように整備された貫高制が維持できなかったことから、てっとり早く石高制に移行したものとも考えられるが、貨幣量を増やせば経済が活性化するという仕組みに鑑みれば、コメ経済も一種のマネー革命ではある。こうなってくると、コメ経済をやめさせて銭を大量に緩和したのが信長の功績だという説明は、いまひとつ腑に落ちない。むしろ、やむを得ずコメ経済・銀経済併用制に早期に移行せざるをえなかったことがかえって奏功したのではないか、というようなことも考えてみたくなるのである。いずれにしても、畿内はすでに経済的先進地であって、信長がいてもいなくても銭不足が深刻化するほどの商業的活況を呈していたのであろう。今では信長の功績は、せいぜい関所の廃止くらいで、これにしても、武田氏も含め、各地の戦国大名が一円支配の過程で実行に移していることである。もっとも、戦費が足りなくなると新たに関所を置くようなことをしたから、信長ほど徹底したものはなかったようである。もっとも、信長が上洛してから瀬田に関所を置いたという昔話もあって、信長の寵臣・森長可がそこを下馬もせずに通行して、とどめようとした関所の役人を切ったなんどという話もある。もちろん、信長様は笑って許した。「森さ、おまえ、五条大橋で人斬りをやった武蔵坊弁慶みたいな奴だから、武蔵って名乗ったらどうよ」。まったく、笑えない話である。

と、森のヤンチャ伝説は、小牧・長久手の戦いで彼が戦死するまで続くわけだが、その初陣は、長島一向一揆討伐であった。これは伊勢湾の制海権をめぐる争いとなり、当時、堺と並び称される商業都市であった伊勢の大湊や山田の会合衆は、ナント、裏で一揆に手を貸して信長の支配に反抗していたのである。商売相手としては、信長よりも一揆の方がよかったということであろうか。よほどの嫌われ方である。最終的に、信長方の九鬼水軍がこのあたりを取り仕切るようになると、先にも書いたように、同じ海賊商人だった小浜衆は駿河に逃れて武田氏に仕えるようになった。その後は徳川氏に属して、小牧・長久手の水戦で活躍することとなる。

このようにして見ると、皮肉にも経済のことは、信長が敵に回した一向宗の方が進んでいたらしく、港湾都市の堺に対して「陸の今井」「今井千件」などと謳われた今井町といったものはその典型であった。のちに、各地の藩札に先駆けて、銀の兌換券である高信用の「今井札」という銀札を発行したのも今井町であった。信長もこれに保護を与えて赦免し、優遇して政権内に取り込むことになった。この当時の信長のやり方というのは、とりあえず脅迫である。堺に続いて石山本願寺にも脅迫で矢銭をかけて、まったく、それしかやることがないのかと、いささか呆れもするが、そうなってくると「アレ、けっきょくは経済よりも軍事力の出番か?」ということにもなってくる。カネは金持ちから脅し取る、何ともてっとり早い方法である。信長の経済的天才という人間像はどうなっちまったんだという感じも受けるけれど、堺や今井を支配下に置いて儲けようという発想は、まァ、悪くない。石山本願寺を退去させて大坂に遷都しようというのもアイディアとしてはよいであろう。惣百姓や自治都市はいうに及ばず、大名も寺社も、みな天下人のいうことを聞かなアカン。税はぜんぶ信長様に納めぇよ、というのは、理屈としちゃもっともではある。農民からの本年貢だけでなく、商人から冥加金をとって大儲けしたのが信長の目の付けどころなどということをいう人もいるが、信長に反抗した伊勢の大湊などは、もともと国司の北畠氏にカネを払って自治を敷いていたのである。チャンとやれば、もっと効率的にカネを取れたのである。「信長、やだな」という印象をもたれてしまったのか、この地域の人は長島一向一揆が壊滅するまで、信長に抵抗し続けたし、どうも隣国の伊賀・甲賀・近江あたりも一向一揆を支援していたらしい。長島の中心寺院であった願証寺は武田氏とも姻戚関係があり、勝頼の妹・お菊御料人が嫁いでいたという伝承もある(もっとも、『軍鑑』は、願証寺との婚約を変更して、菊姫上杉景勝正室となったことを伝えている(品第54)。こちらが史実である。なお信玄は、菊姫を家康の弟に嫁がせて味方につけようということも考えていたと、品第51にある)。そうしたわけで、武田氏は一向宗も含め、あらゆる宗派を馳走したと『軍鑑』にあるけれど、武田氏が尾張の大名であったなら、事情はまた違っていたかもしれない。けっきょく、太平洋海運をめぐって熾烈な争いになった可能性も否定できないし、自領の内部に独立状態の一揆などがいたらオチオチ夜も寝られないので、信長でなくとも、マトモな戦国大名なら弾圧に走ろうとするものらしい。

たとえば、今川義元は『今川仮名目録』の追加21条で守護不入権を否定して領国の一円支配を確立したと言われているが、これも三河一向一揆を始めとする一揆勢力に対するものであったらしい。武家領と並立していた公家荘園や他の寺社領への不入権は、それなりに認めていたという考え方もあるから、のちの信長ほど破壊的なことは起こらなかった。しかし、戦国大名の一円支配ということが進めば、おのずから権門相互の並立ということは否定され、荘園や寺社領といった非武家権門の自立的性格は抑えられる方向に進んだであろうと考えられる。一応、信長は天下静謐のことに責任をもっていたので、これは今川氏のバージョンアップである。寺だろうとナンだろうと、公儀の言いつけに叛く不届き者を成敗するのはもっともな話であるけれど、同じように延暦寺つぶしを画策した悪御所の足利義教と同じように果断な人であったらしいから、延暦寺なんか焼いちまえ、一向門徒はミナゴロシだ、とあんなことになっちまったものらしい。信長は「ウサ晴らしに長島で大虐殺してみた」みたいなことも言っているようだから、そこはちょっと変わった人であったらしい。さすが、乱暴者の森の上司である。人びとが現実的になって、寺社を恐れるということが衰えてきたことの結果のようでもあるけれど、しょせん、職業的暴力集団である武士のすることである。

一方で、武家と並立する寺社勢力の統制ということは、初めて中央高権として確立された武家政権である室町幕府の政策を引き継いだものとも考えられるわけで、それを徹底した信長の蛮勇によって、一元的な政治体制の地ならしが進んだから、秀吉、家康なんてのは、ずいぶんと恩恵を蒙ったはずである。このようにして、武士だけがエライ社会が到来したのであるけれど、網野善彦なんかにしてみればケッタクソ悪い話に違いない。なお、余談であるけれど、『甲陽軍鑑』によると、延暦寺の再興を嘆願された信玄は、「じゃア、身延山延暦寺を移転させるか」と思いついたらしいが、身延山の霊験あらたかなことに思い至らなかったと見えて、翌年の西上作戦の帰途、客死して帰らぬ人となった(品第39)。ま、そうとは書いちゃいないが、祟りである。なお、自分の招請に応じなかった美濃の希庵和尚を、透破を派遣してブッ殺しちまったという逸話もあって、案外、信玄にも信長とよく似たところがあった。もちろん、祟られた。それはいただけないにしても、この信玄、長遠寺住職の実了師慶という一向坊主を見込んで、浅井長政のもとへ軍使にやらせ、ついでに長島・大坂・堺・加賀・越中などからも信玄に味方する旨の証文をとらせたという。『軍鑑』は、信玄公は妙心寺派であったけれど、他宗を不公平に扱わず、他国の国主なら崇敬しない一向宗時宗も取り立てて、長遠寺相伴衆としたと、その大人物ぶりを誉めている(品第8)。長遠寺は越後へも派遣され、謙信に気に入られたようである。

もろもろ見てきたが、経済政策も不発、軍法もなし、それでも信長が天下人になれたのはなぜかというような問題は、じつに興味深い。それぞれについては場当たり的な応急処置であっても、時代によく即応できるということのほうが、あの局面では重要だったということであろうか。軍法は大敵と戦うために必要なものであって、信長には美濃斎藤氏以外に行く手に大敵がいなかったから、とくに軍法を要さなかったという『軍鑑』の指摘は、案外当たっているのかもしれない。信長というのは、精緻な理論より迅速な行動の人であったということであろうか。だいたい、すぐれた戦国大名には目見当の利く人が多かったらしく、それが下手な人は御家をつぶしてしまった、などという教訓めいた話がまことしやかに伝わっている。要は、正確な観察眼をもっているので、日ごろ目にしているものが、わりあい正しい数字と合致するのであろう。そうなると、いちいち計算をしなくとも、何がどれだけあって、どれだけ不足しているか、それを用いて何がどれだけ可能かというようなことを素早く判断することができるのであろう。把握可能な目の前の数字をもとに当面のことを小出しに判断し、その間に全体の計算をおこなって中長期的な見通しを立てるというのは誰にでもわかる合理的な方法ではあるけれど、状況が刻々と変化する中では、計算のやり直しということが頻繁に生じるので、そのうちに計画は破綻する。ものごとが定常的に推移しているときはよいけれど、目まぐるしい状況にあっては、もうパニックである。武田信繁の家訓81条に、『碧巌録』をひいて「定盤の星を認むることなかれ」とあるが、これも数量を計るのに計器の目盛りを読むなということである。直感と現実がどれだけ整合するかという、わりあいに感覚的な把握能力が必要とされたのである。こればかりは得手不得手で、おそらく、信長というのは、こうした能力に秀でていたのであろう。リスクを恐れないサイコな性格ということもあったのであろうけれど、アテが外れるまでは急成長を続けるもののようである。現代にもそんな企業がいくつかある。

ちなみに『駿河土産』によると、家康も軍法をもたなかったという。作戦を書面などにしておくと、その通りに実行して失敗した人間を叱るわけにはいかず、逆に、書かれていないことを実行して戦功をあげた人間を誉めたりすれば法が成り立たなくなるので、そのときどきの判断で行動したとのことである。どうも中小企業らしいところがあって、意思疎通が密だったようである。信長とは事情が異なっていたのかもしれない。のちに大阪の陣で諸大名を率いるようになった秀忠が、作戦を書面にして明示したことについては「それでよい」と、評価している。

 

12. 武田氏の軍役

さて、次に、武田氏の軍役について見てみよう。柴辻俊六氏が研究史を概観するところでは、武田氏の軍役については、平山優氏が多岐にわたって具体的な論考を展開され、武田氏の軍役が家臣の知行高と確実に対応していることを認めている*29。信玄の場合、永禄10年(1567)から、軍役を増やして、従来の知行高分軍役と、諸役を免除して軍役に就かせる増分の統合が図られ、永禄末年頃に多見される「軍役新衆」の創設につながったといわれる。これによって、郷村内で武装していた上層農民(地侍)も諸役免除の上、軍役の対象に組み込まれていくことになった。同年の『軍役条目』では、軍役内容の統一強化が意図され、弓・鑓・鉄炮の3種が重視され、鑓は長柄3間柄と規定されている*30。こいつはまったくスイス軍のパイクと同じものだと西股氏は書いている*31。こうした長柄足軽を大量に雇って密集隊形を組ませ、プロの武士ども(士分)に対抗したのが戦国時代の合戦だったというわけだが、足軽が非正規雇用の傭兵であったのか、恒常的に雇用されていたのかについては、議論の分かれるところである(足軽を侍身分に含めるか否かにも議論のあるところであるが、〈侍〉とか〈若党〉という末端戦闘員はというのは、つまるところ足軽のことのようである)。なお、同じく信玄期の永禄12年(1569)の『軍役条目』では、鉄炮を重視していることが窺われるけれど、勝頼の元亀4年(1573)では、弓・鉄炮へのさらなる重点化が進められているという*32。永禄の『軍役条目』を読むと、たしかに「弓・鉄炮が肝要、長柄・持鑓を略してでも持参しろ」と書いてある。相当にしつこく鉄炮のことが書いてあって、印象的である。さらに、「戦のときにヘンな百姓・職人・禰宜・幼弱の輩どもなんぞ連れてきたら謀反とみなすぞ」くらいのことが書いてある。これは、兵農分離論で「戦国大名なんてのは、もともと兵農分離していたわけで、そこらの農民を夫役以外で使うのはよほどの非常事態に限られていた」というような説明のためにしばしば引用されるところの史料でもある。信玄の場合、上杉との抗争が激化していた当時、知行高ごとに割り当てた軍役だけでは足りなかったので、知行ベースの軍役を基本としながらも、それに付加する形で地侍を戦闘員として駆り出すために、このような軍法を定めたということのようであるが、それにしても武道の心得のない貧農を戦闘に借り出したわけではなかった。

さて、一方の農民も、もともと農業に励んで年貢を納めるのが仕事、戦闘なんてやってられるかというようなことにもなったらしい。『兵農分離はあったのか』というマトメ本を書かれた平井上総氏は、勝俣鎮夫氏の「戦国法」(『戦国法成立史論』(1979年)所収、初出は1976年)を引いてまとめている。曰く、武士・奉公人は、大名から給地をもらい、代わりに軍役をつとめるのが義務になっていたが、百姓は、年貢を納めるのが義務であり、給地もなく、戦闘をするような社会的身分ではなかったというようなマトメをされている。本来、戦国大名は、百姓を戦闘員とは見なしていなかったのである。けれど、陣夫や夫丸(輜重兵)として非戦闘員の扱いで駆り出されることはあったので、村高に応じて、村の方で人選して供出したようである。北条氏領では、これすら農民に嫌がられたらしく、カネでどうにかしてくれと、夫銭なるものを出すこともあったらしい。まったく現代の町内会の出不足金である。その場合、大名側は、出不足金を使って別の陣夫を雇うことになっており、それでも雇えないときは村に対して「早よう夫役を出せ」と命じたとのことである。ということで、勝俣氏は、戦国時代から、この意味での兵農分離はすでに行われていたと指摘しているとのことである*33。それとは別に、給地の代わりに年貢を減免された地侍が軍役衆として存在していたわけで、こちらは侍同様、戦闘員であった。武田氏はバンバンと朱印状を出して、動員対象を拡大していたようである。この点は一考を要するところで、軍役衆、軍役新衆を増やした武田軍にあって、足軽・雑兵の雇用がどう推移したのかは気になる点である。西股氏によると、北条氏の着到状には、士分の構成についてはいろいろ定めがあるが、あとの者(=雑兵。ただし、陣夫のような夫役に駆り出された百姓を雑兵に含むか否かについては判然としない。少なくとも、戦闘員である〈侍〉(足軽)と非戦闘員である道具持ち(中間・小者・あらしこ)のような武家奉公人までは、まちがいなく雑兵である。雑兵と足軽の区分についても諸説ある)については兵種と人数の指定しかないという。じゃあ、誰を連れてくるのかということだが、上のような理由から、各領主がマトモな百姓を徴発するのはむずかしかったであろうから、そこで落ちぶれた牢人や社会の落伍者を大量に雇ってきたというのである*34。そうした人たちからすると、雑兵稼業は手っ取り早く食える仕事ということで、結構な人気があったらしいのである。ところが、この連中は武士扱いをしてもらえないので、死んでも恩賞なし、安堵される所領もなし(つまり給人層ではないのである)、イザとなったら逃亡といった手合いで、そもそも主従制の埒外にある人たちだったというのである。戦闘が終わると解雇、別のところで別の兵種で雇われるなんてこともあったらしい*35。こういう練度の低い連中を組織戦に駆り出すなど無謀もいいところだと思われるであろうけれど、そこで便利だったのが、誰でも使える長柄と鉄炮というわけである。まあ、何にしても、カネはかかる。そうなると、なにぶん貧しい山国であった甲斐・信濃にあって、在郷地侍の軍役賦課を増さざるを得なかった武田氏の事情というのも酌むべしである。その中で整った軍法を定め、兵種別に軍を組織し得たということは、軍事的なシステムの上で、しばし東国優位の状況を作り出すことに貢献したと言えるのかもしれないけれど、もっとも、信長もそれに追随したであろうから、その差は15年程度であったかもしれない。西股氏によると、少なくとも軍制の上で信長が兵種別編成方式に転換したのは、姉川の戦いよりも後のことであった。そうこうしているうちに、畿内で勢力を拡大した信長の経済力は急増、システム上の優位もなくなってしまえば、今度は東国大名が劣勢に立たされることになる。これは問題である。

 

13. 信長の軍法

いずれにしても、前時代的な領主別編成方式で集められたテンでバラバラな部隊の寄せ集めから、戦国大名による兵種別編成方式へと移行する中で、もっとチャンと組織的に戦おうじゃないかという機運が高まっていくのは、それなりに自然な流れであったらしい。西股氏によると、高度な作戦術が勃興したと見られるのが15世紀末の太田道灌長尾景春の頃、その後、16世紀になってそれが明確に意識されてくるようになったという*36太田道灌なんてのは、戦国期に広まった「足軽之軍法」の発明者として有名な人で、すぐれた軍学者であったようである。そういう新戦術が必要になったのが、戦国初期の東国であったということになろう。そこで、『甲陽軍鑑』を読んでみると、信長家には軍法らしき軍法が存在していなかったと書かれている。なるほど、『明智軍法』が定められたのが織田家中の初めての軍法だとするならば、その評価は当たっているのかもしれない。けれど、『明智軍法』の意味での軍法というのは、北条氏の着到状や武田氏の『軍役条目』にあるような軍役規定が半分を占めていて、残りは戦陣における心得であるけれど、別途、法度が定められていたように読めるから、ザックリしたものである。また、言わずもがなの慣例を明文化したようなものでもあったらしい。まあ、それくらいのものは、どこの大名にもあったであろう。一方、『甲陽軍鑑』のいう〈軍法〉とは何であろうか? これも先に出た伝・山本勘助の『兵法秘伝書』「第十四 兵法与軍法分之事」に定義が記されている。

 

夫兵法与軍法とわかつゆゑんは、軍法は兼て城とりをよくし、軍に望で陣とりを堅まもり、旌旗金鼓の下知をなし、人数の懸引、強敵弱敵大敵に相ての、知略武略計略をなすを云、兵法は、遠を射て落し、近を切て落し猶近には組て勝負を決するを云、此二の道は一の心より出て分をなすなり、爰に予云、軍法の極みは兵法にあり、兵法の用は軍法にありと云、*37

 

『兵法秘伝書』のこの部分、『甲陽軍鑑』からの逆引用のような文章であるから、後世の筆であろうけれど、ともあれ〈軍法〉というのは、戦争のやり方というような意味のものである。それも体系だった法というようなものであろう。しかし、稀代の作戦家ということになっている信長に軍法なしとはどういうことであろうか。まんざらそういうことでもなかったとは思われるけれど、少なくとも、西股氏にあっては、信長を鉄炮の斉射戦術の発明者に擬すという考え方は放棄せられている。現実には難のある長篠合戦における鉄炮の集中使用説が流布したことについて、西股氏は、これは『信長公記』の誤読であり、先学諸氏が「長篠合戦=天才信長が鉄炮によって武田軍を撃破した戦い、という先入観に捕われながら史料を解釈していたためではないだろうか」*38と推測している。鉄炮隊を選りすぐって有能な武将に指揮させたという点では、長篠合戦における織田軍が、戦国後期に発達した組織戦の申し子であったことは事実ながら(もっとも、先に書いたように、その組織化は東国大名より遅れて実現したようであるけれど)、「けれども、それは武田軍も同様であり、両者の勝敗を分けた要因は火力でも鉄炮の使い方でもなく、信長と勝頼の用兵・作戦に求めるべきである」*39というのが、西脇氏の結論であった。その点は、『甲陽軍鑑』の結論と大差ないようである。

なるほど、強敵相手の野戦で有効な防御陣地を築いた信長の作戦は良しとしよう。もっとも、結論的には、少数の敵を大軍で迎え討ったという、それだけのことであった可能性も否定できない。要するに、領国の広さとカネの力である。信長の経済政策が奏功したか否かについては、先に述べたとおり、よくわかっていないのが実情である。けれど、武田領に比べて、信長の支配地域では軍事費捻出の手立てがいろいろとあったのは事実らしく、先に書いたように、堺あたりを脅迫してアッという間に莫大な額の矢銭を取り立てた。『甲陽軍鑑』でいわれている信玄秘蔵の上洛資金に匹敵する額である。まったく、たまったもんじゃない。ただの強盗である。もっとも、脅迫はしなくても武田領でもムチャクチャな税金はとっていた。信玄は上洛のために寡婦に後家役というのを課していたらしい。そんなこんなで資金は7000両に達していたが、謙信の死後に御館の乱というのが起こると、景勝はナント、勝頼に10000両の賄賂を贈って支援を求めたというのである(品第54品)。これを史実と考えてよいのかはわからないけれど、何かしらの請求書が武田から上杉に届いているのは事実なので、何らかの名目のカネが渡ったのは事実のようである。いずれにしても、越後の資金力もなかなかである。

さて、話は戻るが、信長の経済政策を重視する人は、こうしたマネー革命(ゆすり?)によって信長は鉄炮を大量に買い付けて、長篠で三段構えの一斉射撃を行なって武田軍を壊滅させたという結論にもっていきたがるのであるけれど、そのようなことを西股氏は認めない。カネは唸るほどあったかもしれないけれど、信長というのは、軍事史上、それほど革新的なことはやっていないというのである。むろん信長が、個々の戦いで機動力を生かした素晴らしい作戦を展開しているのは、事実であろう。しかし、あまり理論的ではなかったようである。『軍鑑』は、信長は軍法達者の信玄・謙信と直接に対決してこなかった上に、信玄とは縁者であったから、これまでは軍法というものを要さなかったという。しかし、信玄公が上洛戦を展開するにあたっては、ますます軍法が重要なのだということを馬場信春をして語らしめている。まさに、「ヒラメキ人間VS理論家の全面対決」といった構図である。もっとも、「信長というのは心が清く、刀の化身のようなまっすぐな武士だ」といって、ずいぶんと買っているのも確かで(品第40・上)、さすが桶狭間の勝者、油断のならない相手なのである。もっとも、信長は本能寺で横死、後継者の武道は弱く、家中は明智を討とうともしなかった(品第58)、これというのも、武道無穿鑿の家中は長続きしないというのが『軍鑑』全体の構想なのであって、対して、信玄没後も子息・勝頼の矛先がしばらくは鈍らなかったのは、武田家歴代の穿鑿が深かったからだという見方が示されている。虚飾に満ちた家中であっても、大将が武芸に秀で、強運ということでまたたく間に大身になることがあるけれど、無作法、無穿鑿の大将は、やがて弓矢の神に見放されて、栄華は一時のもので終わる。前代の穿鑿がよく、統治が行き届いていれば、いささか子息が心もとなくとも、しばらくは家を保つことができる(品第54)。『軍鑑』としては、一人の天才のヒラメキよりも、持続的なシステムの優位を重視したもののようである。『軍鑑』は北条早雲を評して一仏一神の化身でもあられたのかと評しているが、かといって、そうした創業の大人物のマネをするのはいけないとたしなめている。一代で大身になった人は運に恵まれているから危険なこともできるが、その地位を引き継いだ者は慎重を期さなくてはならない、というのである(品第22)。『軍鑑』は万事そういう発想に貫かれている。

 

14. 戦国の鉄炮戦について、西洋の研究者はどう考えたか

もちろん、鉄炮斉射説を支持する人もある。比較的最近に出たマイケル・E・ハスキューらの『戦闘技術の歴史5 東洋編』(2016年)という書物によると、長篠の戦いで信長は3500の鉄炮足軽を動員したとして、次のように書いている。

 

信長は、一五七〇年に石山本願寺一向一揆と戦った際、これに匹敵する数の火縄銃による攻撃を受けていた。(…)信長はこの自らの経験から、来るべき長篠の戦い火縄銃部隊に中心的任務を与え、鉄炮足軽に万全な斉射戦術訓練を行っていたのだ。*40

 

もちろん、武田軍にも火縄銃部隊が少なからずいたが、勝頼は騎兵主体の伝統的な編成を好んだらしく、現在あきらかになったところでは、鉄炮足軽はわずか650にすぎなかった、という*41。これには疑義もあるけれど、なんぼ武田軍の鉄炮装備率が織田方に劣るものではないとはいえ、鉄炮の総数で織田軍に劣っていたのは事実であろうし、問題は弾薬の調達のほうにあったという考え方もある。なにしろ輸入に頼らざるを得ない舶来の軍需物資であったから、買い付けるのは厳しかったに違いない。しかし、あれだけ信玄が鉄炮を重視していたのに、今さら勝頼が騎兵を好んだなどという説明が成り立つのかどうかは、眉唾である。もっとも勝頼には、増やしたくても鉄炮を増やせなかった事情というものもあったのであろう。ちなみに、裏ルートを使えば敵方からも鉄炮を買えたもののようで、武田方の穴山信君駿河の商人衆を使って、徳川方の商人から鉄炮と鉄を買い付けようとしたことが知られている。いずれにしても、鉄炮の装備率で武田軍が織田軍に劣っていなかったという西股氏の試算を信じるならば、武田方にももう少し鉄炮数はあったことであろう。なお、鉄炮を防ぐ竹束なるものもあって、これを考案したのは、『軍鑑』によると、信玄の家臣・米倉丹後守という人であるという。これは他家でも使われていたもののようであるし、これらを使わないと防御がおろそかになって、損害が大きくなるということまで『軍鑑』に書かれている。もっとも、大阪の陣では、竹束だけでは城方の射撃を防御できなかったらしく、土塁を築いたらしい。

ところで、いささか脱線するようであるけれど、『戦闘技術の歴史5』は、騎兵について興味深い見解を載せている。確かに鉄炮の導入は、日本の戦場を一変させた。けれど、そのために日本の騎兵が一方的に衰退したわけではなく、彼らは槍を操る専門的兵士へと役割を変化させたというのである。先に少し触れたけれど、このような逆風のなかで、もっとも効果的な対応を見せたのは、「才気豊かで革新的な騎馬隊指揮官」であるところの武田信玄であったという*42。彼の騎馬隊は伝説として語り継がれるほどに恐れられ、1572年の三方原の戦いでは、火縄銃で掩護された歩兵隊を騎兵による集団攻撃で打ち破った、という。しかし、最終的に彼らは下馬して戦わなくてはならず、急襲攻撃はそれほど圧倒的ではなかった。信長はこの教訓から、火縄銃の大規模な利用と、一斉射撃を行なわせて長篠の戦いに勝利したものの、騎馬隊の突撃は防いだが、個々の侍を押しとどめることはできなかったので、長時間の白兵戦を続けざるを得なかった。いずれにしても、この戦いを境に、日本の軍隊は、槍足軽と鉄砲隊、騎兵の混成軍となり、日本における本格的な騎兵戦術の幕開けは、同時にその終焉となったというのである*43

この描写は、西股氏の想定する長篠合戦とはずいぶん異なったものとなっているが、わりあい簡単に柵を突破されて白兵戦になったらしいことは、ものの本にも書かれている。もっとも、『軍鑑』によると、武辺の家康軍は向こうから討って掛かってきたもののようでもあるが、もっとも、西股氏からすると、これは当然のなりゆきということになろう。すでに戦国期には馬上戦闘ではなく、下馬戦闘がメインになっていたというのである。長柄足軽の密集隊形に弱い乗馬戦闘を積極的に行なうメリットがなくなっていたというわけだ*44。ほかならぬ武田氏が長柄足軽を配備しているのだから、騎馬隊だけで戦を決するなどという軍法があったとは考えにくい。もっとも、東国の武士は馬の扱いが巧みであって、西国の者にはチョット真似のできないようなところもあったようであるから、戦いの局面によっては、騎兵が威力を発揮したということもあったのであろう。少なくとも、それなりの騎兵はいたようである。けれど、この時代の武士は、馬上で戦うなどということはもうできなくなっていたらしく、西股氏によると、戦場まで行ったら徒歩で鑓働きをするというような戦闘形態をとる頻度が高まっていたらしい*45。あるいは、武田軍くらいになると、まだまだ馬上戦闘のできる武士がいたということなのかもしれない。赤備えで知られた上州の小幡勢などは「馬上巧者」などと書き留められている。「おお、すげえな」と、西国の奴らからするとインパクトはあったと思うが、それ自体は過去の遺制であって、勝頼にしても、そのことを主体にして戦おうというようなことは考えなかったであろう。ほかならぬ武田氏の軍装規定を見ても、馬上衆が重装歩兵としての役割を担わされていたことが窺えると、西股氏も書いている*46。もっとも、そもそも論ではあるけれど、騎馬隊不在説というのもある。『軍鑑』の品第14は、そもそも武田軍は、三方ヶ原へも馬を入れなかったと書いているのである。

ウマか鉄炮かはともかくも、前にも見たように、天正年間に西洋並みの整然とした鉄炮隊が登場したことは記録の上で確かなことのようであるから、どこでもそれなりに鉄炮の組織的活用ということが進んでいたのも事実であろう。先に挙げた『戦闘技術の歴史5』によると、密集隊形での一斉射撃という技術は、アジアにおいては、日本で考案されたという。その威力は朝鮮出兵の際に遺憾なく発揮されたという。

 

また、秀吉軍はヨーロッパ起源のマッチロック式火縄銃を装備していた。これは、当時のアジアのいかなる武器より優れていたことがこの戦いで明らかになる。日本人はいつの時代も外来の科学技術に関心を示してきたが、この戦いの武器には特に大きな可能性を感じていた。日本の弓より射程距離が長く、操作のための訓練も弓ほど必要ではなく、また密集隊形での一斉射撃という技術も日本で考案された。一六世紀の火器は再装填に手間取ったが、射手が交代すること、つまり、装填ずみの射手を前列に移動させ、その間に発射した射手は後方に退いて充填するという方法で、この問題を克服したのである。*47

   

この頃になると、鉄炮戦術は狙撃から一斉射撃に進化していたようである。誰がこの戦術の発明者であるかは、この際、わからない。しかし、西股氏の所説を読むかぎり、どうも信長であるという確証はないようである。少し考えりゃ誰でも思いつくことであるから、ある程度の鉄炮がそろって、鉄炮戦の経験を積んだところでは、どこでもやっていたことなのであろう。もちろん、兵種別編成が実現していればの話である。もっとも、武器弾薬の乏しいところでは、規模に限度はあったであろうから、そうこうしているうちに敵が前進してきて前線を破られるということにもなったにちがいない。結局、合戦に先立って、まずいわゆる〈鉄炮矢いくさ〉というのがあって、その後に重装備の武士が槍で突撃ということになり、続いて長柄の足軽隊が続くというのが、近世までに確立された合戦のパターンということになるのだけれど、この方式の戦闘を鉄炮主体のものと考えていいのかどうなのか、自動小銃でもあれば別だけれど、なにしろ原始的な火縄銃であるから、しばらくは速射可能な弓兵の需要が失われることもなかった(しかし、その員数は、江戸期には、かなり低らされていた)。だいたい、武士どもの観念は異常で、足軽や雑兵を投入してチャンバラやらせてから、自分はおいしいところをもっていけばいいところ、一番槍をつけようと、真っ先に自分から敵陣に飛び込んでいく始末、『戦闘技術の歴史5』の著者たちも、このあまりにマッドに思考にはいささか辟易しているような感があって、彼らの戦技の優秀さには敬服しながらも、ナンかおかしいよな、という違和感を覚えたような雰囲気すらある。『軍鑑』を見ても、「武士道の沙汰褒貶六ヶ条の事」として、敵兵1人を味方数人で討つ(相討)などはもってのほか、これは武道にそむくことで、弓矢の神への非礼だというのである。こういうことをしていると、「ばい頸」などといって、他者が討ち取った頸をカネで買ったり、襲って奪ったりという行為につながるというのである(品第53)。

さて、そんなことであるから、「御侍衆(士分)が鑓を付けるまで、雑兵の槍襖の出番はないぞ」というようなことが、雑兵の心得本である『雑兵物語』にも書いてある。このことは西股氏の著書にも引かれているが*48、ここでちょっとした疑問に突き当たる。長柄足軽の密集隊形は、馬上衆の騎兵突撃を防ぐのに有効だったはずなのに、その出番はどこにあるんだという問題である。武士が下馬戦闘に移行した結果として、こういうことになってしまったのか? 緒戦で敵陣を突き崩す役目を負わされたのは、キチンと給地をもらっているプロの武士の仕事で、イザとなったら脱走する雑兵どもではなかった。鉄炮をかいくぐって武士同士が前線に進出、味方の射撃が効果を発揮し始めたところで突撃、その後から長柄部隊が出てくるわけであるから、もう乱戦である。じっくりかまえて鉄炮に弾を装填しているどころではない。もっとも、そうなったら鑓騎兵が文字通り、側面から横槍を入れてくることはあったかも知れない。武田信繁の99ヶ条の遺訓の83条に面白いことが書いてある。1000人が敵に向かうよりも、100人が横から割って入る方が効果的だというのである。こうしたことを整然とやってのけたというのが、武田信玄であって、彼がサッと軍配を振ると部隊が手足のように自在に動くというのは、よく知られたイメージである。なるほど、たしかに信長も強かったではあろうけれど、彼にそのようなイメージはない。さりとて、信玄伝説にもどれほどの根拠があるのか不明だが、いわゆる〈軍法〉の起源を信玄に求める考え方というのは、『甲陽軍鑑』による武田ブームのおかげもあって、江戸時代には広く流布していたもののようである。ただ、当の『軍鑑』の編者という小幡景憲の弟子に北条氏長という兵学者がいて(北条氏康の曾孫)、この人は中世の軍配法(軍学)を改めて実践的な北条流兵学というものを興しているから、信玄の軍法にも迷信的な面が多分に含まれていたのも事実であろう。私も甲府で信玄直筆(?)という「運気の図」というものを見たが、モヤモヤっと立ち上る戦気を読んで、敵情や戦況を知るというものであるから、なんとも怪しい。その他にも迷信的な故実が多々あって、およそ実戦的とはいえないものもある。

なお、『軍鑑』には、じっさい信玄は、敵の旗色を占って勝機の有無を判じていたという話が載っている。世間では信玄の圧勝といわれている三方ヶ原の戦いであるが、信玄はたいそう慎重で、家康をやぶっても織田の援軍が9隊も来ているから、勝ち目は薄いと考えたらしい。ところが、小山田信茂が偵察したところ、家康の布陣は悪く、信長の援軍は旗色が悪く、敗北の兆候ありというのである。なお信玄は迷ったらしく、さらに偵察を重ねさせ、けっきょくは占いよりもリアルな理由で合戦を決断したようである。もっとも、このあたりの経過は、なんともあやふやで、信玄の死に至るまで、読んでいてよくわからない部分もある。なお、勝ち目ありなんどと申した当の小山田は、酒井忠次に追い散らされている(品第39)。

もう一点、当時の軍法を窺い知る面白い逸話がある。『軍鑑』によると、信玄は陣所に制札を立てて、病人や死人などの黒不浄が出た場合は、何の穢れかを占わせ、不浄を出した陣の責任を問い、関係者から過銭をとったという。軍役新衆もその対象に含められたとのことである。なお、牛馬を放してしまった場合も過銭を取られた。火事や喧嘩の責任は重く、成敗ということもあった(品第43)。余談ながら、この過銭、どうなるのか気になって『軍鑑』をめくってみると、どうも陣中での過銭は、武者奉行や旗奉行に納められ、そこから中間・小者などの給金が出ていたらしい(品第53)。国法に背いたものは罰金ということになっており、妻帯した日蓮宗の僧なども妻帯役を納めさせられていた。信玄公は大慈大悲の大将だから、法華経の趣旨を理解したうえで、日蓮宗の僧侶が妻帯するのは可として、僧侶を処刑したりするようなことはなさらなかったというのである(品第48)。かわりに、うまいことして税金をかけてカネを取ったのであった。さすが、カネにうるさい信玄である。甲府では寺と民衆の訴訟沙汰がしばしばあって、仏教に詳しかった信玄は、宗派ごとに裁いて、説教を垂れていたようだ。それを楽しんでるんじゃないのかというくらいである。余談ながら記しておく。

なお、当時の軍配者がどこか神がかっていたことを示す逸話が他にもあって、『軍鑑』の品第7によると、甲州の小笠原源与斎という軍配者は、いろいろと不思議な奇特を起こしたという。しかしまあ、そんなのは座興で、馬場信春に言わせると、武士は武道第一で、軍配に奇特を頼めば、禰宜・山伏のようだと言われるばかりだ、とのことで、軍配に奇特など期待せず、チャンと武芸を磨いて、戦略を練れよという教訓となっている。ちょっとやそっとの霊験があっても、戦場で役に立つかというと、そうでもないというわけである。続く品第8には、文殊菩薩から夢窓国師八卦占いを夢伝されたという徳厳という者が登場するけれど、信玄は「聖人でもないのに、むずかしい八卦の本がそんな夢の伝授で理解できるわけないだろ。ンなモンは偽りで、奇術のようにして人の心を盗むものだ」と相手にしなかったという。そのへんはさすがにリアリストであったらしい。

なお、信玄の軍法といえば、風林火山の〈孫子の旗〉というのが有名だが、信長に対抗心を燃やしたのか、信長と手切れとなったのちは、孫子の旗に「天上天下唯我独尊」の八字を付け加えたという(品第43)。二人とも「俺が一番」という性格では共通していたらしい。

 

15. 信長軍は弱かったのか?

一方、信長弱しということは、『軍鑑』にもしばしば書かれている。けれど、信長を英雄視する考えは昔からあった。明治末年から大正初年にかけて、県立諏訪中学に在学した小口太郎(1897~1924、『琵琶湖周航の歌』の作詞者、「有線及び無線多重電信電話法」の考案者)という人は、文集の中で「大胆細心」というテーマで信長について書いていた。してみると、当時の青少年にも人気があったもののようである。参謀本部が信長の快挙を『日本戦史』の真っ先に書き立てていることからもわかるけれど、どうも幕末の因縁を引きずっているところもあるらしく、「桶狭間役」をよく読むと、そもそも織田と今川の関係を、

 

楠新田等ノ諸家、挙族王事ニ殉シタル後、海内ノ武士、復タ一人ノ心ヲ皇室ニ存スル者ナク、足利ノ党類兄弟相鬩キ、上下相戕ヒ、応仁以後、殊ニ甚シク群雄割拠、互ニ攘奪ヲ事トスルノミニシテ(…)此際ニ崛起シテ能ク奸兇ヲ誅鋤シ、大義ヲ表掲シ、億兆ヲシテ再ヒ天日ノ光ヲ仰クコトヲ得セシメタル者、独織田信長アリ。*49

 

なんどと書いてある。一方の今川は、「将軍足利ト同宗」であって、勤王の信長に対して「奸兇」の側にあるもののようである。ご存じの通り、幕末には徳川将軍を足利将軍に擬して、足利三代の木像の首を切るなどという事件もあったが、そういう発想から抜け切れていないもののようである。もっとも、近代の歴史認識において、足利尊氏が公的に大悪人ということになるのは、南北朝正閏問題が政治的にヒートアップした明治末年のことであって、参謀本部がこの本を出した1896年の段階では、まだ決定的なものではなかった。大方、『日本外史』あたりを真に受けた連中が筆をナメナメして書いちまったんだろう(ちなみにこの問題、南朝贔屓で知られた山県有朋というのは、胡乱な話ながら、長篠で鉄炮に当たって戦死した山県昌景の同族だという説もある)。もっとも、信長政権を室町幕府の延長線上でとらえようという現代の研究では、信長の勤王的政策が着目されているのも事実であるけれど、さりとて、信長が天下の大忠臣というわけではなく、案外とただの常識人であったという説もある。公方とうまくやれなかったので、天子様を立てたということなのかもしれない。その公方様にしても、信長以上に公方に無礼を働いた奴はゴマンといた。幕府の奉行人奉書の発給数を見ると、信長よりも三好長慶のほうが、文書の発給ということについての独自性が高かったと見る人もいる。

ともあれ、江戸の初めには不人気だった信長も、すっかり人気者、小泉改革のときにも革命児として合理主義者・信長に注目が集まったが、まあ、戦国大名なんてのはみんな合理的、すでに信長の経済政策にもアヤがつき始めているこの頃、なぜに信長だけが成功したのか(そもそも成功しているのか?)ということについては、もう少し異なった観点から考察することが求められるようになってきているように思われる。敵方である『甲陽軍鑑』の筆者からすれば、信長が日本屈指の名将であることに疑いを入れるものではないが、尾張に生まれたことが何よりの果報であったという見方にほぼ尽きるようだ(信玄もそう見ていたらしい)。信玄は強い敵に周囲を囲まれて苦労をしたが、信長ときたら、まともな敵は斎藤程度、今川が負けたのは油断のため、畿内の武士は弱いことで知られている。信玄曰く、東国の武士は弓矢の形儀、面々の意地をたてる者が10人に9人いるが、上方は20人に1人と、かつて山本勘介が言う通りであった、云々。近江の浅井ほどの意地をたてる武士がいたなら、たとえ信長に果報があっても、50までに天下を取ることはできないだろう、云々*50

これは、当時書かれたものと見られる『人国記』の評価と通ずるところもあるけれど、ともあれ、畿内の兵は弱かったという考え方をあらわしている。強いのは東国の武士であって、具体的には三河より東ということになる。『軍鑑』で特に印象的に語られるのは、何度叩いても容易に降参しない信州勢と、武辺で知られた徳川家である。信州の武士たちの戦達者ぶりは何度も記述されるから、信州に愛着をもった人が書いたものとも察せられるけれど(上杉に通じた信州衆4人が切腹に追い込まれるところでも、さすが信州武道の国とて、鮮やかな最期であったと誉めている。甲府の一蓮寺で瀬場という侍を始末したときも、信州衆は武芸のつわもので、悴者から非戦闘員の中間まで逃げずに戦ったとある。品第31)、徳川様の世に成立した本ということもあって、家康の武勇については信玄も斜めならず感心していたと、たいそう持ち上げている。こうした強敵ぞろいの国では、服属した先方衆を手厚く遇することが必要だったというようなことも書かれている。先方衆から牢人、寺社まで身の立つように取り計らうのが、為政者のつとめだというのである。『軍鑑』は、尾張出身者を優遇して内衆に領地を任せるようになった信長の統治法は危険であるというような見方を示している。近年、本能寺の変の原因をこの辺りに求める人もいるようだが、どうであろうか。

ところで、『人国記』というのは、鎌倉の5代執権・北条時頼が、水戸の老人のように諸国を漫遊して書いた本だと伝えられている。噂の出所は『人国記』の愛読者だったという武田信玄という話で、『井伊家秘書』という本に、まことしやかに書かれている。それはあやふやな話であるけれど、近代の研究者の中には、どうも『人国記』は信州人が書いたのではないかという見方をする人もいる。道理で「信濃国之風俗ハ武士之風俗天下第一也」「百姓町人之風儀モ其徤儀ナル事、伊賀・伊勢・志摩之風俗ニ五畿内ヲ添タルヨリハ猶モ上也」なんどと良いことが書いてあるわけである。義理をわきまえ、勇敢で、悪に染まらないというのである。天正壬午の際、家康が甲州に入ったとき、武田遺臣に一人の老士があって、代々相伝の一書であるとして『人国記』を井伊家に託したというのだが、じっさいの成立年はよくわからない。江戸時代には偽本が出回るほどには読まれたようである。なにやら、のちの「長野県は教育県」という伝説にも通じるような、信州のマジメな県民性がうかがわれるが、どうもあれは「長野県民は勉強熱心でアタマがいい」という意味ではなく、もともと経済的にゆとりのある者が進む旧制中学に、本県の場合は、家計にゆとりのない者も多く進学し、結句、学資が続かずに志半ばにして学校を去るということが、ままあったらしく、他県の人はそれを見て「長野県の人はそうまでして教育を望むのか」と畏敬したというのが、コトの真相らしい。ところが、本県独自の信州教育ってぇのもあって、受験のことはお構いなし、学力の方はイマイチだった。さすがに県教委から怒られて、われわれの次の世代から引き締めが始まった次第である。

ところで、対する尾張の風俗はどうだったかというと、これが傑作である。私の親はこの地方の出身であるから悪くも言えないが(もっとも、信長に反抗して一向一揆なんかやっていた服部党である)、尾張の人は「進走の気」が強く、善を見れば善に進み、悪に慣れれば悪に染まり、身内に少し善をなした人がいれば、それを大げさに喧伝し、悪さをした人がいれば隠して、のちのち過ちの内容に反省することがないというのである。この評価は『甲陽軍鑑』のそれと、よく似ている。どうも根本をおろそかにするようなところがあったらしく、「唯大風洪水之出タルカ如クニシテ」云々とある。これは、『軍鑑』の品第59にある、信長の一生が、大風が吹いたような一時的なものであったという評価によく似ている。ともに信州人(?)が、まことしやかに書いたことなのかも知れない。

さて、『軍鑑』は信長弱兵論を唱えているようにも見えるが、弱かったのは信長ではなく、当時の上方の武士たちだったのかもしれない。信長はそれに付け込んで、上方の武力の衰えた国々、五畿内・中国の町人まがいの弱敵、一向坊主どもを脅しあげて勢力を急速に拡大したと述べている*51。どうも情報戦に長けていたらしく、5騎、10騎が腰兵粮で京都にかけつけ、信長の武力を喧伝してまわり、弱敵を従わせたというのである(品第54)。一方、信玄・謙信が在世のみぎりは、ひたすら和睦につとめて、両雄が耄碌するのを待った。この信長、些細なことは気にしない人であったらしく、世間の評判も外聞も気にせず、ヤバいときは逃げ、また戦ってとにかく領地を増やせばそれでよし、というタイプであると見られていた*52。現代では、信長の兵はカネで雇われた雑兵でまかなわれていたから、劣勢になると迷わず逃げたというようなことを言う人もいるが、それならそれで使い道もあったのである。それで勝てる方がよっぽどシステマティックで見事だとも思えるくらいだ(もっとも、逃げるときの尻ぬぐいは、いつも武勇の家康だったというから、ひどい話だ)。また、軍法に秀でた上杉謙信あたりについても「戦はつよいが、無意味に強がるところがあって、判断力に欠けるから、強引で目先の戦いのことしか考えなかった。退却の仕方が粗雑で、いたずらに兵を損ねた」くらいに書かれているので、まんざら信長が低評価というわけでもない。危急に際しては機動力を発揮して逃げまくり、再び出陣するなど、大変に活動的であったという評が残っている。対して信玄公は、どんなときでも崩れずに退却するように気を配り、味方の城は小城ひとつとて攻め取られぬように執心していた。信長からすると、国境の小城の一つや二つ取られて名声が失墜しても、あとで挽回すればそれでよしということであったらしい。『明知年譜』や『甲陽軍鑑』には、東農をめぐる武田氏との戦いで、信長がどうにか死地を脱して逃げ延びたようなことが書かれているから、いつも万全の戦いというわけにはいかなかったらしい。反対に言えば、信玄は慎重な作戦を取ったから、寿命が尽きて天下を取れなかったという見方にもつながったのであろう。

信長の面白いところは、強そうな相手には下手に出て、しばらくは我慢という現実的な作戦をとることができるところであって、信州人のようにやたら意地を張るということはなかったのかもしれない。その方式で短期間に領国を広げたこと手腕については、『軍鑑』も否定はしていないのである。信玄に言わせれば、息子の義信をはじめ、北条氏政今川氏真なんどというドラ息子が束になってかかっても、信長の小指一本にもならんとのことである。

一方、『人国記』を見ると、尾張人には気質として「勇気ノキヒシキ」ところもあって、伊賀・伊勢・志摩を合わせたよりは上だと、なかなかの評価である。しかし、三重県の人は踏んだり蹴ったりである。ちなみに私の祖先は、元をたどれば伊賀者とも通ずるものであるけれど、『人国記』によれば、伊賀なんかは最低評価である。どうも『人国記』の筆者は、どの国であれ、一揆をおこすような奴はダメだという価値観をもっていたらしい。尾張の連中も一揆を構えると書かれているけれど、なるほど、長島一向一揆はそれである。ともあれ、尾張の人が弱いとは書かれておらず、総合的な評価は、「中」である。

 

16. 信長軍は強かったという説

一方、信長の軍勢が強かったという考えを提起する説も多くあって、西股氏もその一人であるし、前に出た参謀本部の『日本戦史』も同様である。『日本戦史』「桶狭間役」曰く、

 

兵僅ニ四千内外ノミ、員数ヲ以テ較スレハ、復タ今川ニ當ル可カラサルナリ。而シテ其能ク之ト頡頏シ得タル者ハ何ソヤ。豈軍紀訓練及将士ノ大ニ優レル者アリシニ非サルカ。茲ニ試ニ之ヲ考究セン。*53

 

という次第で、信長の軍紀は厳正で、将士の訓練が行き届いていたからこそ、彼の軍は強かったのではないかという考え方を提示している。そのほか、彼の政令は厳明で、ゆえに尾張では夜でも家に施錠しなくてもよかったし、夏に野宿しても盗賊に襲われることはなかった、ゆえに民俗がよく、兵の軍紀も察するべし、云々と、なんだか昔話のようなことが書かれている。信長は平素から近臣に竹槍試合をさせており、兵の練度が高かったのも疑いない、などなど、ありがちな推測が述べられているが、このあたりの考え方は、多かれ少なかれ『甲陽軍鑑』も同様で、信玄公の軍がどれだけ強かったかについての教訓めいた話がいろいろ出てくるけれど、じっさいのところは、よくわからない。なお、『日本戦史』の「桶狭間役補伝」というのがあって、それによると、信長16歳のとき、林通勝が諸国の国主の話をして聞かせると、武勇に優れた国主の話を好むというので、上杉謙信武田信玄の話をして聞かせたという、小瀬本からとった逸話が引かれている。そこでは、謙信が小勢で大勢の敵を破ったのは、軍法が正しいからであり、信玄は国家を治めるために正しい法度を定めたとして、甲州法度が11箇条にわたって引用されている。信長は、これを見て浅からず同心したという*54

もっとも信長は、甲州法度に感心はしたけれど、これといった分国法を定めなかったようであるし、謙信の軍法に感心しながらも、織田家中には軍法もなかったとされている。そこで明智光秀が『明智軍法』を定めることになるのだが、この場合の軍法というのは、前にも書いたように、軍役規定のことのようである。くりかえしになるが、『軍鑑』は、信長には戦争理論としての〈軍法〉もなかったと書いている。分国法なし、軍役規定も理論もなし。かなり心配な集団である。『軍鑑』によると、信長は美濃で7年戦ったことで軍法を強くしていったというのだが、それ以外の敵は大したことがなかったので、世に喧伝されるような軍法を定めなかったと書いている。後世に伝わる〈軍法〉は、おおむね武田と上杉から出ているというわけだ*55。だからして、特筆すべき理論はなくても、信長が無策だったということはない。なお、参考までに家康はどうだったかというと、先にも書いたように、権現様はその時の状況次第で判断をして戦勝を得ていたと『駿河土産』にある。ところが、小牧・長久手の後、石川数正が出奔してしまい、徳川家の軍機が秀吉方に筒抜けになると家臣たちは大慌て、ところが権現様には困った様子がない。じつは、裏で甲州に手をまわして、信玄時代の軍書から武具まで、何でも取り寄せよと命じていたというのである。で、「ウチはこれから万事、武田流でいくで?」ということを徹底させ、そのことは上方でも評判になり、数正は古暦などと仇名されたという。

ところで、西股氏の所説によると、信長軍に革新的な戦争理論があったということは書かれていないが、さりとて、実戦で信長軍が弱かったとは言われていない。まず性急な多正面作戦を展開した信長家にあっては、慢性的な人材不足に陥っていた、と西股氏はいう。戦場の荒廃にともなって社会から落伍した人たちが大量に生み出されたから、非正規雇用足軽・雑兵はいくらでも雇い入れることができた。その面で、信長軍の多くがザコから構成されていたのは事実であろうけれど、その点は他国も同様であった。もっとも、非正規兵を戦場に大量投入するという着想は、太田道灌にはじまり、最初の戦国大名といわれた北条早雲の創案によるところが大きいといわれるから、信長こそが非正規兵の寄せ集めで戦場を民主化した革命児などというのは、西股氏には容認できない考え方なのである。とはいえ、戦争に明け暮れていた信長家にあって、足軽・雑兵が継続雇用された結果、その練度が上がったのではないかという推測は述べられており、信長の非正規兵運用に一顧を与えてはいる。

しかし、信長軍の強みはそこにあったのではない。西股氏は、むしろ蛮勇をふるって前線を突破するプロの武士連中(「強力な上層部分」)に注目する。ムチャクチャな多正面作戦の結果、信長家には腕に覚えのある勇猛な侍がひっきりなしに仕官にくるという事態が発生する。その中で強い淘汰圧が発生し、結果、信長や秀吉は、白兵戦を得意とする強力な侍どもを手に入れることができたというのである*56

こうしたことは、結果論的に生じてきたことであって、計画的なことではなかった。最終的には、このような戦いが可能であったのは、信長の判断力の良さと、強運のためであるというのが、西股氏の結論である。秀吉の小田原戦役における山中城攻略にしても、西股氏の考えでは、秀吉軍は火力で決着をつけることができず、精強な武士の突撃でこれを攻略したというのである*57。けっきょく、鉄炮矢いくさで相手の火力を制圧しつつ、敵前線に肉薄し、そこから白兵戦で敵陣を完全に制圧するという、戦闘群戦闘のようなことをやっていたということなのであろうか。私も戦争に出たことがないから、よくわからない。しかし、肉弾戦がある程度有効であることは、西南戦争で抜刀隊なんてものが必要とされたことからも理解できなくはない(日清戦争では、「抜刀隊など、今日日の日本陸軍はそんな幼稚なものではない!」と出動を却下されたけれど)。けっきょく、火力網が不十分であったということの帰結なのだろう。

もう一点。このような多正面作戦の実行に当たって、信長が思い切った人材登用を行なったのではないか、という考えについて、西股氏は一考を加えている。信長が、他の戦国大名とは異なり、きわめて合理的に実力主義を採用したなどと早合点するのは禁物だ。これは西股氏も書いていることだけれど、武田家でもあらかた事情は同じであったし*58、『軍鑑』の筆者に擬せられる高坂弾正も、やはり百姓から取り立てられた人であった(信玄の親父・信虎はそのことが気に入らなかったと『軍鑑』にあるが、見てきたようなことを書いた虚構のようである。なお、西股氏は、信虎時代からこのような実力主義による登用が行われていたと匂わせる書き方をしている)。とはいっても、秀吉のように胡散臭い階層から立身した人なんてのは、そうはいない、戦国時代はシビアな階級社会であったというのが西股氏の立論である*59。プロの殺し屋集団である武士と、非正規兵の足軽・雑兵という「軍隊の二重構造」はどこでも同じで、後者を「下級歩兵として大量動員し、組織戦に適応した兵種別編成方式の軍隊を成立させる、という軍事的な革新」*60が成し遂げられたのは事実ながら、これは実力主義とは程遠いもので、足軽から大出世した秀吉などというのは例外中の例外だったというのである。非正規雇用の人がわりを食うのは、今も昔も変わらない。そうしたわけで、西股氏が、「戦国時代のRMA*61と呼ぶ、劇的な軍事革命のもとにあっても、最終的な切り札となるのは、強力な殺しのプロ集団である武士層だったのである。

 

17. マッドすぎる戦国の御侍衆

しかし、先に挙げた『戦闘技術の歴史5』の著者は、一つの疑問を呈している。火器の有効性に気づいた日本の武士たちが、なぜ大砲の導入ということにさほど積極的ではなかったのか、という疑問である。朝鮮出兵の際、火力と戦技に勝る日本軍が次々に半島を制圧していく様子が語られるけれど、李舜臣あたりがあらわれると、彼の巧みな戦術で日本軍は窮地に追い込まれるようになる。このへんは韓国の研究を参考にしたらしく、李舜臣をベタ誉めしているが、逆に日本語版Wikipediaは冷ややかな見解を載せている(研究の中立性が問われるゆえんである)。同ページの脚注13によると、米ボールステイト大学のケネス・スオープ准教授(現・南ミシシッピ大学教授/中国軍事史)は、朝日新聞2006年6月28日夕刊文化面「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから 上」の中で、朝鮮戦役の本質は明と日本の戦いであって、当時の両国について「『明軍は弱い』というイメージは明を倒した清により作られたもので、当時は武器も優秀で精強だった。一方の秀吉軍は戦乱で鍛え上げられた世界最強の軍団。両者の激突は16世紀世界最大の戦争だった」と述べている。ずいぶんと高評価である。この戦争をどう評価するかについては、諸説あるようである。

それはともかくも、朝鮮でのサムライたちの無謀な突撃はナンなんだろうと、西洋人である『戦闘技術の歴史5』の著者たちは訝っているようだ。もしかすると、これは日本の戦場文化のようなもので、もし戦争が機能的になりすぎて、雑兵の組織的運用だけで済むようになってしまったら、サムライによる個人技の出る幕はない。奴らは基本、自分の手柄しか考えていないのである。もちろん、当時の史料から、持ち場でキチンと指揮をとることが武士の戦功であるとする考え方が定着しつつあったことも読みとれるけれど、『雑兵物語』を見るかぎり、重装歩兵として配備された武士たちが手柄を立てるのを雑兵が邪魔するような戦術はそもそも論外であったようにも見えるから、用兵面で不合理な点もあったのではないかと考えられる。足軽というのはまだしも戦闘員であるから、手柄を立てることもできたが、兵ではあっても非戦闘員である道具持ちの草履取りが、鑓戦闘に移行しようとする主人に鉄炮で加勢しようとして怒られる場面も描かれているから、気の毒なものである。この点、元寇の昔から、武士のメンタリティはあまり変化しておらず、もう少し反省してほしいものである。

手柄が明確にわかるような戦い方をするということが、日本の戦闘習慣であったけれど(個人戦闘でどうやって手柄を立てるかという方法論も、『甲陽軍鑑』で指南されている)、海外でこれをやったら、まさしく異様に映ったに違いない。『戦闘技術の歴史5』の著者たちも、そのマッドぶりにはビビっている。鉄炮と大砲で勝負がついてしまったら、サムライとしては面白くない。そのことが結局、日本における火器戦闘の発達を妨げてしまったのかもしれない。もっとも、硝石不足が大砲使用を躊躇させた一因であるという説もあるようで、判然としない。清正も鉄炮の達者な者を召し抱えよという命令を出しているから、そこは合理的な戦国武将のこと、単なるクレイジーではなかったということも付言しておく。ただし、誰でも使える長柄や鉄炮の出現で戦場が民主化されたとする『戦闘技術の歴史5』の見方は、いささか理念的にすぎるものであって、足軽雑兵の頸などいくつとっても手柄にはならないのが当時の慣習で(とはいうものの、頸帳には足軽の頸数も載せたようであるから判然としない)、さらに逃げる敵を追撃して頸をとってもダメ(追首)、死体から頸をとってもダメという(拾い首)、シビアな決まりがあった。もっとも、信長家にあっては、人から頸を横取りしたり、カネで頸を買ったりという「奪首」とか「買首」というようなインチキが横行していたと『軍鑑』は呆れている。ものの本には、味方から襲われて頸を奪われ、命まで落としたという話が載っているから、油断も隙もあったもんじゃない(同士討ちは最も不忠だと『軍鑑』は書いている)。もっとも、手柄にもならない頸をたくさん取って自慢の種にしていた者もあったようだ。いずれにしても、手柄を立てるのはいつも武士ばかり、足軽未満は戦場で略奪稼業に夢中になっていたようでもある。なお、討ち死にした味方の頸を、敵から守って持ち帰るのも手柄であったらしい。小牧・長久手で戦死した森長可などは、そうやって頸だけになって帰還した。長篠で鉄炮に当たった山県昌景の頸を持ち帰ったのは、信州から出た志村又左衛門とか文左衛門とかいう人であったが、後に徳川様に従って八王子の千人同心の千人頭の一家となったが、どうも先にコロナで亡くなった志村けんという人は、ここに連なる家系から出たようである。

 

18. 秀吉が小田原攻めで勝てたのはなぜか

さて、話は戻るが、西股氏は、信長・秀吉軍が精強であった理由を、精強な武士身分からなるプロの殺し屋集団を獲得できたことに求めるのであるけれど、その根拠は、秀吉の小田原攻めの経過にあった。これは要するに、当時は兵粮の確保という問題がネックとなり、大軍を動員したからといって戦いに勝てるわけではないから、秀吉が勝てたのには、何か別の理由があるはずだ、というわけである。われわれのイメージからすると、小田原攻めなんてのは、圧倒的な物量作戦を展開した秀吉からすれば楽勝のいくさであったということになっているが、西股氏によると、この時代の兵力大量動員は、逆に自滅を招きかねない暴挙でもあったというのである。確かに、武田・上杉も小田原城を囲みながらも攻めきれずに撤退している。というより、チョロッと攻めてやめちまったらしい。謙信のときは10か月に及ぶ大遠征のつけたしのようなもので、信玄のときは何をしに行ったのかもよくわからない。『軍鑑』の筆者という高坂弾正にしても、この出兵には懐疑的だったようだ。謙信のときは寄せ集めとはいえ、10万という大軍であったから、補給のことは問題に上がっていたし、そのときは北条氏としても、武田・今川を動かして謙信を牽制することに成功しているから、後年の小田原征伐とは事情が異なっていた。

さて、西股氏は、秀吉の小田原征伐について、フロイス『日本史』の「関白の軍勢は、遠征で疲弊し、食料不足に陥っている、数か月で小田原を落とせるはずはないので、退却せざるを得ないだろう」との見方を重視し、ついで『家忠日記』の、小田原の陣で雑兵の脱走が相次いでいるという記述にも注目されている*62。家忠というのは家康の下にいた松平家忠という人物で、小田原の陣では秀吉方の包囲網に加わっていた。少なくとも、小田原攻めくらいの規模で戦いをしようとすると、このような事態は避けられないと、西股氏は考えたようだ。逆に、天正壬午の乱や、小牧・長久手の戦いにこのような記述は見られないので、小田原攻めにおける雑兵逃亡の原因は、兵粮の欠乏に求められるというのである。なお、当然のことながら、小牧・長久手のとき、家忠は家康の陣中にいたので、雑兵が脱走しなかったというのは、家康軍の事情をいいあらわしている。念のため、補足しておく。

ところで、正直、『家忠日記』が記す雑兵脱走の真相はよくわからない。西股氏も多くを負っている『雑兵たちの戦場』の著者・藤木久志氏は、『家忠日記』の「中間かけ落ち候」(中間が脱走した)という記述は、戦争終結を見越した奉公人どもが、次の稼ぎ場である奥羽仕置の戦場をめざしたものではないかと見ている。じつは、雑兵の脱走の理由は書かれていないのである*63。西股氏説も藤木氏説も、今のところ推測の域を出ないものではあるけれど、この記述は意味深なものである。

もっとも、今ではもう少し研究が進んでいて、先に引いた平井氏の『兵農分離はあったのか』は、いわゆる身分統制令と人掃令の検討を通じて、かなり説得力のあるマトメをされている。まず、中間のような武家奉公人の脱走は、中世末期から相次いでおり、要するにブラック企業である戦国大名の下でこき使われるのが嫌になって、ときたま逃げだしていたというのである。で、逃げた奉公人を勝手に雇うなだの、元の主人に返せだのというようなことが取り決められていたのであるが、小田原出兵から朝鮮出兵と遠征がつづき、大名たちは、使えそうな奉公人の確保ということに躍起になっていたというのである。一方で、農村の百姓が奉公人になってしまうと、今度は百姓として年貢を払い、戦争では陣夫として輜重兵をつとめる人もいなくなってしまうので、百姓が村を出て奉公人になることもマズイということになった。で、加藤清正などは「マトモな奉公人を集めて出陣してね」と家臣に命令したものだったが、その際、質の高い人材の確保を強調している。人数だけは集まってきたもののようで、集まっては逃げる、ということのくりかえしだったらしい。そんなことであったから、俗にいう秀吉の身分法令と人掃令は、朝鮮出兵のために奉公人(雑兵)と陣夫(百姓)をそれぞれに確保しようとして出された命令だったというのである(同書、第3章を参照されたい)。

なるほど、そうなると雑兵がアテにならないのは確かだが、チャンとした雑兵がいなければ、武士たちは道具も自分で持たなければならず、そもそも働くことができない。清正も、待遇を改善して過分に給金を取らせたようだが、それでいて後から逃亡されたらアカンから、チャンと役に立つ奴を頼むで、無駄な奴はいらん、とまで命じている。もっとも、どのみち低待遇だったには違いないだろうから、雑兵がマズイ飯を食わされて嫌になって逃げた、という西股氏の説明を否定するものではない。しかし、雑兵なしで戦えるものでもないから、戦闘不能に陥らない程度に雑兵を確保しておくことは、大名自身の課題であった。

要するに、西股氏としては、動員兵力の多寡は信長・秀吉軍の強さの決定的要因ではないということを説明するために、当時の兵站能力がいまだ未熟で、ウッカリ大軍など動員したらとんでもないことになるということを論証しようというものであるけれど、おそらく大名たちは、戦国期からすでに雑兵が逃亡するということを理解していて、対策を講じていたものと思われる。九州征伐、小田原の役と秀吉軍は大勝したが、兵粮不足の深刻さについては、その程度を示す直接の証拠がない。そこで、食いモンすらまともに運べない状況で、こうした遠征を企てようとするほど、戦国の軍隊は無謀であったのか、妥当に推論しなくてはならないということになる。

もちろん、雑兵の食いモンはままならなかったらしい。『雑兵物語』にも、戦場はさながら飢饉のようだと書かれているから、当時としては、そのようなことは折り込み済みの前提として考えなくてはならない。もう、食いモンが足りなかったら勝手に調達しろという世界である。三成あたりが算盤はじいて兵粮の輸送計画を立案したところで、どうにかなるものでもないと西股氏は言っているが、おそらく、それはその通りだろう。雑兵の食い物まで満足に調達することはできなかったに違いない。

この当時、マトモな兵粮は、自領から輸送するか、商人を通じて調達していたもののようで、朝鮮戦役の際、島津軍の船団を整えたのも伊丹屋なんどと申す大商人で、どうも朝鮮の奥地まで勝手に侵入して略奪を働いた島津の動きとも結託していたもののようである。藤木氏は、これを海賊の棟梁と見ているが、当時の豪商なんてのは、こんなものであったらしい。そんなわけで、朝鮮の戦場には多くの町衆が出入りしており、盛んに商売を仕掛けていたわけである。厳冬の蔚山で孤立した加藤清正の陣中では、ナント、日本商人が法外な値で米を売り歩いていたのである。ふざけろよということでキレた武士どもに脅されて、ビビって刀・脇差と引き換えに米を売ったとのことである*64。ン、兵粮不足とか言いながら、チャンと米はあるじゃねーか、とチョットした疑問を抱かないでもない。その米の出所については、伊丹屋のように朝鮮で苅田狼藉をしてパクってきたものであったかも知れないから、三成あたりが手配したものかどうかは不明である。三成は、島津に対して略奪を禁ずる軍令を発しているから、もともと明への侵攻拠点である朝鮮を荒廃させる意図はなかったというようなことが言われている。いずれにしても、御用商人が半島の奥地まで進出していたことがわかる。もはや商人とは名ばかりの実力集団である。

例によって日本語版Wikipediaによると、朝鮮出兵における日本軍の兵站確保は、全軍引き上げに至るまで完全に遂行されたと書かれているけれど、鵜呑みにするのは躊躇われる。なにぶん現代の軍隊ではないので、「現場での飯は自分で何とかしろ」で済まされてしまった部分もあるわけで、日本軍が無事に渡海して撤退を終えたことは事実ながら、兵粮輸送が万全であったと解釈できるかどうか、心もとないものである。

となると、当時、兵粮について、どの程度のことができれば、戦争遂行可能と判断するに充分であったということになるのであろうか。まともな戦闘ができる士分の兵粮さえ確保できれば、あとは、カッパライで済ませるという認識でよいのであろうか。なるべく十分な兵粮を調達しておくことは、マトモな武将なら考えたに違いないであろうけれど、敵に補給線を遮断されたらそれまでである。そうならないように秀吉は作戦を考えた。しかし、それが結果通りになるかどうかということである。小田原攻めでは、秀吉の外線作戦は破綻しなかった。これは偶然のことだったのであろうか? もちろん、当時のことだから、予測不可能なことはしばしば起こった。当時の武士は運というものを軽視してはいなかった。いろいろと考えても、思わぬことがよく起きたわけである。であるから、秀吉の作戦も、もとより完全情報下に近い状態で策定されたわけではない。しょせんは経験的な蓄積がものをいったのであろう。九州征伐の成功は、大きな参考になったことであろう。ただ、秀吉がいくら綿密に計画を立てたからといって、それで兵粮不足が解消される保証がないことも確かである。問題はその程度である。秀吉には自信があったとは思われるけれど、この際、彼の意志と結果にはあまり関係がない。秀吉が物量作戦を企図していたからといって、結果としてそれが秀吉軍の勝利につながったかといえば、これだけでは論証不可能である。しかし、奥羽の情勢をにらみながら、関東一円に外線作戦を展開するうえで、兵数の大なることは不可欠であったから、その意味では、大兵力を投入したことには作戦上の意味があった。

なお、これも一つの英雄譚のものであるから、そのままには信用ならないけれど、たとえば『甲陽軍鑑』品第36には、永禄12年(1569)に小田原から撤退した信玄が、懲りずに駿河・相模・伊豆の国境へ侵攻を企てた際、山中に布陣する際に水の確保をいかにするかということで、侍大将を集めて協議した記事が載せられている。信玄公は憐み深かったのかナンなのか、水に不自由な場所に陣取ったら、人夫や地元の人が困るだろうからと、山本・荻原2名を遣わして国境の水の様子を見分させたとのことである。もともと信玄というのは、他国の地理人情を用心深く調べるのを常として、戦場の地形や退路についても熟知していたという記述があって、戦場にあっては敵兵1騎、2騎の動きまで観察していたという念の入れようである。『軍鑑』は軍学書の触れ込みで広まった本であるから、教訓めいた作り話ということもできるけれど、それにしても、水や兵粮の確保ということは軽視されていない。もちろん、国を富ませるために他国でカッパライを働くのは常套手段であり、甲斐の人たちはそれで富裕になったとさえ言われているから、これは当時として必須のことであった。もちろん、武士が戦闘そっちのけでそれをやってしまうと白い目で見られたから(もっとも、鎌倉の昔は「山賊・海賊は侍のならい」などと言われたものだったけれど)、カッパライは足軽・雑兵の仕事であったろうし、こうした人たちは、もともと専門の盗賊出身だったという話もある(『陰徳太平記』)。とはいえ、敵地のこととて、カッパライもアテにならないものである。略奪はアテこむにしても、初動の兵粮を用意しておくのはマトモな大名なら当たり前のことであろう。それが現代的な意味で十分に足りていたかは別問題である。

秀吉自身は、小田原攻めにそれなりの自信があったのであろう。秀吉の本隊が上陸してからから2ヶ月、先遣隊が戦端を開いてから9ヶ月に及んだ九州征伐が成功しているところをみると、小田原のそれも、それなりに勝算あっての大動員であったようにも思われるのである。なお、秀吉は朝鮮でのカッパライを禁じる旨の命令を出している。朝鮮で人を捕まえたら、元の土地に戻せというわけである。国内でも同様で、豊臣領でのカッパライは基本的にはアウトであった。小田原攻めの際に出された真田昌幸宛の書状にもチャンと書いてある。小田原攻めでは、最後まで敵地だった小田原町中だけが公認のカッパライ場所となってしまったが*65、小田原の外では、人身売買は禁止され、還住令が出されている。なお、朝鮮におけるカッパライ禁止令だが、けっきょくは守られず、秀吉も職工などを捕まえたら献上するように命じている。

もろもろ考え合わせると、稼ぎ場を求めて集まった雑兵あたりがひもじいのは、程度の差こそあれ戦場の常で、規模の大きな戦いになればその度合も目立ったものになるであろうけれど、それで戦闘が継続できなくなるというようなことを秀吉は想定していなかったのではないか、というような気がしてくる。全体で7ヶ月、小田原城を囲むこと3ヶ月程度になったであろう小田原戦役のように滞陣が長引くと、あるいは、雑兵としてもはかばかしくないことにはなったであろう。朝鮮の戦いでは、奉公人の集団脱走ということもあったらしい。どうせ雑兵、死ぬまで戦う義理もないので、勝ち目がでてきたところで、戦場にいさえすればそれでよいわけである。雑兵がそういう存在であることは、西股氏も指摘されているとおりである。もっとも、雑兵というのは、農村で耕してもまともには食えないから戦争に参加して何とか食いつなごうという人たちの集まりであって、さもなくば盗賊悪党、手柄を立てる機会もないので、お目当ては飯の配給と戦後の略奪である。マトモな扱いではないことは、誰もが先刻承知である。似たようなものでも足軽正規雇用だから、組織戦の主力だったという人もいるから、何とも言えないが、それを度外視すれば、戦いで頼りになるのは武士階級に属する重装歩兵だという西股氏の説もわからないではない。もし、信長や秀吉の軍が強かったとすれば、マトモな武士がヤバイほど強かったからだ、ということになるが、マトモな武士がヤバイほど強かったのか、単にマトモな武士の数量が多かったからだけなのか、そのあたりは判然としない。もちろん、マトモな武士が多いということは、その分の兵粮もかさむということであるし、奉公人も必要ということになる。小田原の役を見ても、北条の精鋭はあらかた小田原城に集められていて、最後まで干戈を交えることはなかったから、秀吉軍と北条軍の武士同士の精強さの度合いを比較することはできそうにない。真田文書にある昌幸宛の秀吉書状からもわかるように、秀吉の方針は「関東八州の物主共残らず相籠め候間、城内の奴原悉く干殺しに仰せ付けられ、出羽・奥州、日の本の果てまでも相改められ、御仕置等堅く仰せ付けらるべく候」というものであった。要するに兵糧攻めである。しかし、包囲軍の兵粮が先に尽きたとしたら、もうシャレにならない。

西股氏が引き合いに出す山中城の戦いにしても、単に山中城の防備が間に合わず、守兵の数が少なかったことが、山中城がわずか半日で落城した決定因であるという見方も存するわけで、秀吉軍の七万に対して、城方は三、四千の兵力で応戦を余儀なくされたから、勝ち目は薄かった。もっとも、当初10倍の兵力差で4ヶ月もちこたえたという韮山城の例もあるから、このことは、小田原戦役全体の作戦上の出来事として位置づけられるべきであろう。なお、山中城における北条方の抗戦は苛烈だったらしく、関白方では、猛将の一柳直末まで鉄炮に当たって戦死している。なお、一応は信玄が勝ったらしい三増合戦でも、赤備えで知られた浅利信種が北条方の狙撃で戦死しているから、こういうことはしばしばあったらしい。どこでも手柄争いが苛烈だったのは事実らしい。小牧・長久手では、森長可鉄炮に撃たれて戦死しており、確かに命知らずな猛将というのはいた。余談ながら、このときに森勢と激突したのは、武田遺臣をつけられて信玄流の戦術を受けついだ、赤備えの井伊直政であったという話で、この活躍は都でも評判に上ったらしい。

さて、小田原陥落後、宣言通り秀吉は、北関東から奥州まで兵を進めているから、まだ余力を残していたもののようである。もろもろ憶測の域を出ないことではあるけれど、いずれにしても、小田原の役をどう評価すべきか、私にはまだ釈然としないものがある。けっきょく、秀吉が総合力で北条氏を上回っていたという、それだけのことに尽きるような気もしてくるが、どうであろうか。西股氏は、ナポレオンもモルトケも、ヒトラーですらなしえなかった輸送体制の確立ということを秀吉に成し遂げられたのかと疑義を呈しているが、まあ、その意味では、なしえなかったんだろうね、これは。なしえなくても何とかなっちゃうような、無責任な時代だったんじゃないのかねえ。小田原に内線作戦の名手だったナポレオンでもいれば、広範に展開する敵を迅速に各個撃破ということにもなったのかも知れないが、これというのは、補給線が短くて済むからこそ可能なものでもあるわけで、十分な拠点をもたずにロシアまで長駆したらコリャもう、物資は現地調達しかない。これも西股氏が指摘する通りである。フランス軍は後方の防備にも兵力を割かなければならなかったから、ナポレオン得意の兵力一点集中も不発に終わってしまったが、いやいや、そもそもナポレオンの機動戦というのは、現地でカッパライをやることで可能だったという考え方もあるわけで、ロシアの焦土作戦さえなければ、あるいは補給の目的は達せられていたのである。コリャ、ほとんど戦国大名の手口である。上杉謙信の関東遠征なんてのは略奪行だったと藤木氏は書いている。つづくライプツィヒの戦いでは、敵方は外線作戦を展開し、結局は兵力差でフランスが敗北した。それがコトの顛末である。

しかし、こういう前時代的な考え方が良いというのではない。2003年の「イラクの自由作戦」(OIF-1)で、米陸軍第三歩兵師団は、3日で560キロという陸上部隊の進撃速度の最速記録を叩き出した。江畑謙介氏の『軍事とロジスティクス』(日経BP社、2008年)によると、このスピードにイラク軍は驚いたが、当の米軍もびっくらこいたということである。戦闘部隊の進撃に補給が追い付かなかったのである。もっともこれは、戦闘部隊と補給部隊の通信網にトラブルが発生したため、前線が必要とする物量の把握が遅れたためであるとのことであって、作戦の本質的な失敗というわけではなかった。むしろ、このような高速進撃が可能となったのは、必要な物資を必要な量だけ必要なときに補給する「ジャスト・イン・タイム」(just-in-time)型補給のシステムを米軍が構築していたためである。そうでなければ、半年以上かけて「鉄の山」などと呼ぶ物資集積場所を作って、進撃とともに移動、それを待って、また進撃を再開という方式で進まなくてはならなかった。これが湾岸戦争までのまっとうな戦争のやり方だったのだ*66

もう一点、江畑氏は日本の事例についても述べている。日露戦争の頃までは補給の重要性ということを認識していた日本軍も、太平洋戦争ではこれを軽視、インパール作戦においては、「食糧は敵が置いていったものを奪え」ということで、これを「マッカーサー給食」と呼んでいたという。もちろん、そんな物資は当に焼却されてしまっていた*67。ナポレオンのロシア遠征と同じ結末である。希望的観測にすがってイチかバチかということになったのだけれど、もともと無理なものは無理、インパール作戦は無残な結果に終わった。そういう意味では、略奪だけをアテこんでいたら、秀吉軍も壊滅ということになった可能性はあったと思われる。

そのように見ると、秀吉の小田原攻めは、どうであったか。こんにちに比べれば補給の脆弱さは疑いようもないけれど、この戦いは、味方である徳川・上杉領から、いわば隣国である北条領に攻め入るようなものであったし、背後を脅かす敵もおらず、海上も封鎖して敵水軍を無力化していたから、補給を絶たれる恐れはなかった。東海道方面の拠点となった長久保城は家康領で、北条方の前線拠点である山中城とは、目と鼻の先であって、秀吉自身もここに立ち寄っている。もちろん、西股氏もその可能性を考慮して、駿河あたりに大量の兵粮を集積して、それを大名軍に分配したのであろうと見ている。そうしたことは秀吉の得意とするところで、小牧・長久手の後にも家康討伐を企てて、大垣あたりに物資を集積していたようである(天正地震が起きて水泡に帰してしまったが)。しかし西股氏によると、けっきょくは兵粮を運ぶ輜重兵も飯を食うわけで、またしても兵粮量を必要とするから、よほど綿密なシミュレーションが必要だというのである*68。なるほど、それはその通りであろう。しかし、すでに述べたとおりの理由で、戦国時代の武将なんてのは、そのつもりで戦いをしているから、輜重部隊で使役されていた陣夫なんてのは、『雑兵物語』の雑兵と同じで、「配給が足りなくなったら、自分で何とかしてね」で済まされてしまった、と考えることもできる。困った話だが、その程度の動員計画なのである。そのことは、西股氏も認めていて、第二次大戦のバルバロッサ作戦に至るまで、世の軍隊というものは、けっきょくは略奪まがいの現地調達方式で物資をまかなっていたというのである*69。つまり、それでも戦争遂行は可能であった、というのがこの命題の結論であるように思われる。しかしながら、アテが外れたら大変なことになるのも事実であって、雑兵の飯をどの程度、現地略奪でアテこんでおくのか、その計算をどうするのか、依然として謎と言えば謎である。それは西股氏の論法からして、秀吉だけでなく、近代の軍隊も同様である。まして秀吉は、占領地で勝手に略奪しちゃイカンと言っている。だとすると、秀吉は相当量の兵粮を見事に事前調達したということになるのであろうか。あるいは、現地で勝手な略奪はさせなかったが、軍令による徴発はしたということなのであろうか。曹操あたりなら屯田でもしたかも知れないが、それよりは、すでに占領を終えた関東各地の領国化に着手した方が早いだろう。いずれにしても、ここは証拠に基づいて実証的に考えるほかはない。

しかし、いずれにしても物事には限度があるから、事前の兵粮準備にせよ、現地調達方式にせよ、それが破綻してしまえばそれまでである。それが破綻するかしないかを正しく判断できれば、一定期間内に一定の軍事行動を行なうことは、可能であるということになるのであろう。西股氏による『家忠日記』の読みが正しければ、小牧・長久手の戦いでは、逆に兵粮が足りていたからこそ雑兵の逃亡ということがなかったのであり(もっとも『家忠日記』に拠るので、これは家康方の話であって、秀吉軍のことはわからない)、その意味では、(少なくとも家康方の)動員計画は成功していたということになる。であるならば、雑兵が慢性的に陣中で飢餓していたという『雑兵物語』の逸話を引用したのはナンだったのかという話にもなり、まったくおさまりがつかない。メシは足りてるのか足りてないのか、どっちなのよ? どっちにしても、雑兵がたらふく食えなかったのは想像がつくから、芋でも何でも掘って何とかせえよ、というサバイバル教育は必要であった。俵を刻んで馬の飼料にしろとか、ずいぶんな念の入れようである。『雑兵物語』も戦国時代が終わってずいぶんたってから世に出た本で、これまた作者として『甲陽軍鑑』の編者と目される小幡景憲の名が挙げられることもあるから、小幡サマサマである。もとより「雑兵生活やってみた」的なあからさまなフィクションではあるけれど、足軽以下の武家奉公人の心得としてまとめられたものであるらしい。戦場はさながら飢饉だから、こういうことに気を付けろよ、という訓話なのである。足軽が戦場で迷惑かけないように、いろんな注意が述べられている。これは一つの仕事術なのである。

いずれにしても西股氏としては、武田・上杉も落とせなかった小田原城を、どうして秀吉が落とせたのかということについて、「兵力や物資のうえで秀吉が有利だったから」「包囲戦略が成功したから」という結論には、どうしても納得がいかなかったようである。そこで、「万全の補給ができなくても秀吉が天下統一できたのはなぜ?」という疑問から、秀吉軍には、およそ地方の田舎大名の旗下にはいないようなイッちゃった殺し屋集団がたくさんいたという結論に至るのであるけれど、関ヶ原大坂の陣と、その後も大動員は続くわけで、このことをどう考えるべきか、これらの戦いはすべて無謀な補給体制のもと、飢えた雑兵はバタバタと逃散、殺し屋集団の蛮勇だけで片がついたと見てよいものか、私にはチョット躊躇われるものがある。もっとも、大坂冬の陣は家康の出陣から2ヶ月ちょっと戦って、講和となったもので、小田原城とは異なり、城は落ちなかった。家康が大坂に着陣してからは1ヶ月の包囲戦である。豊臣方は、敵方の大坂での現地調達を妨げるために、兵粮を買い占めたらしく、一時的な効果を上げたようである。改めて大坂城の堀を埋め、野戦にもちこんだ夏の陣は、3日で片がついてしまった。家康が駿府を出てから、およそ1ヶ月である。『駿河土産』によると、大坂夏の陣のとき、権現様は「秀頼討伐なんて腰兵粮で十分」と余裕だったという。もっとも、家臣たちは内心では「冬の陣のときは、100日もかかったのになあ」と訝っていたようだ。現代的な意味での補給体制は整わなかったが、大動員は何度でもできた。このこと自体をどう解釈すればいいのか、私には答えようがない。なお、関ヶ原のときは、会津征伐のために家康が出陣してから、西軍に勝利するまで3ヶ月かかっている。その後にも島原の乱というのがあった。これは攻囲戦になり、原城兵糧攻めにしたわけである。兵糧攻めということになると、コリャもう、作戦の本体がそれであるわけで、武士の蛮勇は最後の突撃だけである。蛮勇なくして戦闘のしようもないとは思われるけれど、小田原攻めも原城攻略も、包囲戦に入ってからの本質は兵糧攻めなのである。これは背後から補給の見込みが立つ分には、可能な戦略なのである。

一方で、カエサルのアレシア包囲戦のように、包囲陣地の中の兵粮は30日分、さらに外から敵の解囲軍が駆け付けるという状況になると、むずかしい判断を迫られることになる。このときはカエサルが勝って、ウェルキンゲトリクスを降した。余談ながら、知人の画家がフランスでジェゼケル氏という人と結婚されてパリで暮らしているが、このジェゼケル氏、もとをただせばケルトの王に由来する名字なのだという。当然、ウェルキンゲトリクスの話になったが、どうもこのジェゼケルさん、語源の方は定かではないらしい。なお、フランスの話ついでに、かつて西ローマ時代に当時ナルボと呼ばれた今のナルボンヌが西ゴートに包囲されたとき、ローマのリトリウス軍は、各人2ブッシェルの小麦を馬に積んで進撃したという話がある。これによって市民は飢えから解放され、やがて北方から「最後のローマ人」といわれたフラウィウス・アエティウス(カタラウヌムでアッティラをやぶったローマの将軍)が駆けつけて攻囲軍をやぶり、今度は西ゴートがトロサに籠城する羽目に陥った。西ゴートの兵粮は尽き、あわや全滅寸前というところであったけれど、リトリウスは軽率にも陣頭に立って戦って捕虜となり、結句、ローマ軍とフン族の傭兵部隊は壊滅ということになったのである。このときにやぶれていたら、後年の西ゴート王国はなかったわけである。

話を『戦国の軍隊』に戻そう。西股氏は、北条氏康が第二次国府台合戦で補給を度外視して戦勝を得たのは、機動作戦をとったためであると説明されている。3日程度の短期戦の場合、腰兵粮で何とかなったのである。長篠合戦にしても、西股氏は、兵力差は倍ながら、信長が勝利した理由を作戦の優秀さに求めている。ここでは補給ではなく、作戦が重要視されているのである。けれど、つまるところそれは、大がかりな補給を必要としない作戦だったということになる。一方、小田原攻めの場合、北条の主力が本城に集まってしまい、周辺地域は次々と秀吉の連合軍に制圧されてしまったので、個々の作戦の効用もしかとは確かめられない。房総あたりを攻めたときには、あまりに歯ごたえがないので、秀吉も「こんなのは戦功と認めない」と言っている。局地戦の戦術についていささか論評することはできるけれど、問題は戦略のレベルに格上げされざるを得ない。そこで、長期戦に伴う補給問題というのが深刻になるのはもっともなことではある。補給の限界が作戦の限界でもあって、どんなに素晴らしい作戦を思いついても、補給が追いつかなければ実現することはできない。ゆえに、成功した作戦というのは、あくまでも補給能力の限度内で実行された作戦であるということになる。それは短期戦でも長期戦でも同様であろう。西股氏は、『家忠日記』を引いて、小牧・長久手の戦いでの家康軍と、小田原戦役における秀吉軍の兵粮事情を比較することで、秀吉軍の勝因をプロの武集団の精強さにあると考えた。だとすると、小牧・長久手で数に勝る秀吉軍が、少数の家康軍を撃破できなかったのはなぜかというような問題も問われなくてはならない。なるほど、物量作戦だけで勝敗が決するというのは早計のようだけれど、そんなものに頼らずとも、秀吉軍には最強のイッちゃったマッド軍団がいたはずである。雑兵が逃亡しようが何しようが、小田原戦のように勝てるはずではなかったのか? おかしな話である。

一方、家康軍はどのようにして秀吉軍の攻撃をしのいだのであろうか。その点、小牧・長久手の戦いが局所戦に終わり、あちこちで反秀吉包囲網が攻勢に出ていたから、最終的な決戦に至らなかったということも考慮しなくてはならないのであろう。秀吉得意の物量作戦は不発に終わったのである。局所戦については家康の戦術が秀でていたのであろうし、戦略面では反秀吉包囲網が機能したことを評価しなくてはならない。秀吉は四国や紀州からも本拠地を脅かされ、前線を離れなくてはならなかったのである。信玄や本願寺顕如による信長包囲網のようなものである。つまりは作戦勝ちである。小田原北条氏は、そのような有効な戦略をとることができなかった。このことは問題とされなくてはならない。

けっきょく、秀吉は、小牧・長久手の戦いでは家康を屈服させることができず、対して小田原の役では北条氏を降すことができた。いずれも秀吉は物量作戦を展開したが、結果は真逆に終わった。なるほど、兵の多寡だけが勝敗をわけるものではないであろうけれど、もし作戦を度外視すれば、この結果、西股氏の論理でいくと、最強なのは信長・秀吉軍ではなくて、家康軍だということになるのではなかろうか。これでは『甲陽軍鑑』とほとんど同じ結論である。そうでないとしたら、たんなる武士の蛮勇が、こうした大名間戦争の勝敗をわける決定因だという考えを改めるほかはない。蛮勇以上に戦略の有効性をどう評価するのかという視点が、最後の最後で脱落しているのは、西股氏にしては不思議なことである。しかし、それには理由がある。補給のままならない軍隊に戦略があっても、それは絵に描いた餅である。つまり、ここでは作戦と補給は一体のものとして捉えられているのである。西股氏は、「(秀吉は)決して万全の補給体制など構築できなかったにもかかわらず、天下を統一できたのである」として「では、秀吉が全国統一をはたしえた理由、つまり秀吉軍の強さの秘密は何だったのだろうか」*70という問いを立て、腕っぷしの強い猛将や、その旗下にいた個人技に長けた蛮勇の重装歩兵の突破力に解決を見いだした。西股氏はそのような武将の例として、小牧・長久手で戦死した池田恒興を挙げておられるが、残念ながら、かの愛すべき乱暴者・森長可は漏れている。これも口達者な信長家の空言といわれればそれまでだが、槍を振るって一向一揆を27人殺しただの(もっとも、『甲陽軍鑑』には長刀一つで数百人を押しとどめて70人くらい斬ったつわものも登場するから、いい勝負である)、高遠城で敵兵の返り血に染まって戦い続けただの、川中島に入部してから芋川一揆を女こどもまで大虐殺しただの、ムチャクチャなことをやらかしている。さすがにこれは怖い。行動が機敏で妙に適確なのは、さすが信長の家来である。この行動力は只者ではない。どちらかというと理論派で自分のやり方を通したがる長野県人からすると、もっとも苦手なタイプである。そうしたわけで、北信州の人は森にはなつかなかったらしく、農民から一向一揆まで反旗をひるがえす羽目に陥ったようである。事前の準備がいささかお粗末だったらしく、数日で壊滅させられた。このようなわけで、武将の個人的な蛮勇がとてつもない威力を発揮したのも、一定の事実であろうということは思うけれど、それが家康軍に通用しなかったのはどうしてなのかという疑問も、当然に出てくるわけである。『家忠日記』の記事からすると、家康軍の補給が足りていたことが勝因なのだろうか? だとしたら逆に、小田原で秀吉が勝てたということは、秀吉軍の兵粮は足りていたのではないかということになるような気もしてくるのだが、いかかであろうか? むろん、これは論理的に後件肯定の誤謬ではあるけれど。

しかしこの点、軍法を強調する『軍鑑』も似たかよったかで、小牧では、徳川勢は10分の1の軍勢で秀吉軍をやぶって勝利したと書いている。家康がそれでも勝てると踏んだのは、前年に家康衆の酒井左衛門〔忠次〕が尾州羽黒山で森に勝っていたからだと述べている(品第59)。森のヤンチャ伝説も形なしである。それにしても、ずいぶんザックリな書き方である。なお、この森、秀吉にあてた遺言もムチャクチャで、「こいつ、アタマおかしんぢゃね?」と思われたのか、秀吉も読まなかったことにしてしまった。かなりウケることが書いてあるので、興味のある人は調べてみるがよろしかろう。

 

19. けっきょく、小田原を力攻めにはしなかった

しかしながら、小牧・長久手の戦いは度外視するとして、小田原の役にかんしては、次のように考えることもできる。かつて、すぐれた軍法を有していたにもかかわらず、武田・上杉の両雄は、補給の限界から作戦の遂行ということがままならず、小田原からの撤退を余儀なくされた。同じことが秀吉軍について言えるにもかかわらず、秀吉は小田原を開城させることに成功している。だとすれば、この膠着状態を打破することができたのは、秀吉軍に、作戦の優秀性や補給力以外に何らかの切り札があったからに違いない、と。作戦の限界が補給の限界であるとするならば、秀吉は小田原を包囲したとしても、最終的には補給が尽きて撤退せざるを得ない。これでは、武田・上杉の二の舞である。地方大名の補給力にはおのずから限界もあって、なかなか互いを殲滅するのはむずかしかった。問題は、秀吉の補給力をどう評価するかということにかかっているが、西股氏はこれをまったく評価しないので、秀吉の勝因を〈補給=作戦〉路線には見いださなかった。

そこで西股氏は、山中城攻略の際に威力を発揮した士分からなる重装歩兵の蛮勇に着目したのであるが、この山中城にしても、たかだか数千の敵を相手に、主将の秀次は力攻めを仕掛けて多大な損害を出している。それでも城は落とせたのである。おまけに戦いは半日の短期戦で、少ない敵に対して無理な攻撃を仕掛けて秀吉の宿将まで死なせてしまった。事実だけ見れば、ナンダコリャ、って話である。西股氏からすると、北条氏側の少数ながら効果的な火力運用が奏功したものらしい。さらに秀吉軍は、圧倒的な兵力と火力をもってしても小田原城の惣構を突破できず、不本意な持久戦に持ち込まれて兵粮不足に陥った、とする*71

しかし、山中城攻略の決め手が、秀吉側が育成した精強な人殺し軍団の突破力であったという説明はそれなりに事実であろうけれども、七万人がよってたかって三千かそこらの北条勢を倒したというだけの話で、それにしても小田原本城は抜けなかったのであるから、説得力は薄い。わざわざ大軍を動員した秀吉が、そんなマッドな個人技集団に頼っていたのか、どうもよくわからない。

なお、この山中城の戦いの直前、城将の松田康長は箱根神社宛に「秀吉軍は兵粮が不足していて、山でトコロを掘って食べている。米一升でビタ銭100文の高値で売られていたが、それすらもう買えない。今は汁椀一杯10銭の雑炊売りだけ。これでは長陣は無理だろう」というようなことを書き送っている。北条氏政もこの情報を信じて、味方の将に伝えているけれど、西股氏は、このネタは真実であったと見ている。

 

(…)これを秀吉が相手を油断させるために謀略情報を流していただとか、欺騙工作を行っていただとか評している方もあるようだが、はたしてそのように考えてよいものだろうか。*72

 

この情報は、松田が敵方の雑兵から得たことになっているが、一方の藤木氏は、

 

結果から見れば、この雑兵は徳川方が放った忍びらしく、北条方の油断を誘う作り話にすぎなかった。しかし、こんな偽の飢餓情報は早くから流され、山中城兵はこれをほとんど信じかけていた。陣中の飢餓も兵粮売りも雑炊売りも、戦場の常で、虚構とは思えなかったのであろう。*73

 

と、述べており、雑兵の兵粮不足はよくある話という点では一致しているけれど、秀吉軍の小田原陣中での様子を正確に伝えたものかどうかについては、意見の相違があるようである。いずれにしても、秀吉が、長期滞陣における兵粮不足という常識を覆して16世紀の世界に例のない完璧な補給を実現するという偉業を達成し得たのか否か、その前に行なわれた九州征伐と合わせて検討してみる価値はあるであろう。もっとも、そのような完璧な補給体制などなかったという点で、私は一概に西股氏の所説に異を唱えるものではない。けれど、小田原攻めから大坂の陣まで、当時の日本には、大混乱を引き起こさずに大動員を可能とする程度の補給体制があったと考えた方がスッキリするような気がしている。もちろん、民衆はいろいろと迷惑を蒙ったことであろうし、その意味で補給が滞らなかったということが立派なことであったと言うつもりはないし、具体的にどんな補給手段が講じられていたのか、その点が明らかになったわけでもない。そのように考えると、コロナ対策が不徹底なものであったにもかかわらず、なぜか致死率が低く抑えられているわが国の不可解な状況と同じで、いまだ真相が解き明かされたとは言いがたいものがある。その意味では、西股氏の問題提起は重要なものであったと思うのである。

 

20. 本能寺の変はなぜ起きたか

さて、最後に西股氏は、異常な淘汰圧の働いた織田家中にあっては、機を見るに敏な野心家が立身出世を遂げ、しまいには明智なんどというファッキン・スマート(クソ優秀)な武将が現れ、勝機ありと見るや、それだけの理由で信長を殺っちまったと書いている。要するに、怨恨とか理想とか、そんな動機なんかいらないのである。天下が取れると思ったから、謀叛しちまったというわけだ*74織田家中にはそういう軍事的才能と謀才をそなえた、上昇志向のカタマリのような危険な連中がゴロゴロしていたというのである。「信長のような経営をすると、部下にタマとられるからやめたほうがええで?」と、西股氏も注意喚起しているくらいである。しかし、光秀が危険人物だったことについては、フロイスの証言が引かれているけれど、四国問題における信長の場当たり的なやり口が、この時期の光秀の地位を危ういものにしていたことも一つの事実であるし、信長が光秀に暴力を振るったということを書いているのも当のフロイスである。怨恨がなかったとも言い切れない。いずれにしても憶測の域をでないことではあるけれど、ついでながら記しておくと、ナント、『甲陽軍鑑』には、武田氏滅亡の直前、甲州征伐が始まった天正10年の2月に、光秀から勝頼に謀叛の誘いがあったが、勝頼は呼応しなかったというようなことが書かれている*75。さすがに誰も取り上げないような奇説であるけれど、書いてあるものはしょうがない。

結句、信長は討たれ、やがて徳川様の世となるのであるけれど、『軍鑑』を書き継いだとされる高坂弾正の甥・春日惣次郎は最後に「信長のマネはしちゃイカン」と批判を加えてしめくくっている。曰く、信長は、代替わりして武道の衰えた上方の国々を支配して急速に大身になった。数々の戦いに勝ったけれど、少々の不覚は気にせずに、反省をしなかった。こういう態度は感心しない、云々と。信長没後3年、天正十三年三月三日と記す。

*1:西股総生『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』、学研パブリッシング、2012年、7頁。

*2:西股、同書、7頁。

*3:西股、同書、239頁。

*4:甲陽軍鑑』品第十四。

*5:甲陽軍鑑』品第三十七。

*6:参謀本部第四部編『日本戦史』「桶狭間役」、元真社、1893年、9頁。

*7:西股、同書、136~137頁。

*8:西股、同書、137~138頁。

*9:西股、同書、138~140頁。

*10:慧文社史料室編『山本勘助「兵法秘伝書」』、慧文社、2007年、71頁。

*11:『南山剳記』、2019年11月8日記事、web。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2019/11/08/101132

*12:西股、同書、146~147頁。

*13:たとえば、西股、同書、114頁に、元亀3年(1572)の北条氏政による宮城四郎兵衛泰業宛の「北条家着到定書」などが挙げられている。

*14:西股、同書、135頁。

*15:網野善彦『無縁・公界・楽 中世日本の自由と平和』平凡社、1987年、5頁。

*16:網野、同書、129~130頁。

*17:網野、同書、125頁。

*18:網野、同書、125~126頁。

*19:『新しい歴史学のために』209号、1993年。網野善彦「悪党と海賊」(『悪党と海賊――中世日本の社会と政治』所収)、法政大学出版局、1995年、363頁(初出は『大谷学報』第73巻第2号、1994年1月)。

*20:網野、同書、365~366頁。

*21:網野、同書、367頁。

*22:網野、同書、367頁。

*23:貨幣と〈悪〉の結びつき、農民と国人の結合によると考えられてきた一向一揆が都市民に支えられたことについては、網野の同書369~370頁を見よ。

*24:網野、同書、370頁。

*25:網野、同書、366頁。なお、女性の名は「得万女」と言った。これが遊女につながるというのは、網野氏の推測であって、今のところ確認された事実ではない。

*26:『南山剳記』、2019年9月13日記事、web。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2019/09/13/161343

*27:平井上総『兵農分離はあったのか』、平凡社、2017年、190頁。

*28:マインドアサシンかほる』説教その1②(web。2020年2月28日記事。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/02/28/162029)。

*29:柴辻俊六『戦国期武田氏領の研究――軍役・諸役・文書』、勉誠出版、2019年、112頁。

*30:柴辻、同書、113~114頁。

*31:西股、前掲書、115~117頁。

*32:柴辻、前掲書、114~115頁。平山優氏、則竹雄一氏の研究による。

*33:平井、前掲書、70~72頁。もっとも、奉公人層については、給地を受けていたのか、戦国大名の蔵米を受けていたのか、同書の253~254頁を見るとよくわからなくなる。

*34:西股、前掲書、176~180頁。

*35:西股、同書、185~189頁。

*36:西股、同書、156頁。

*37:慧文社史料室編、前掲書、23頁。

*38:西脇、前掲書、239~240頁。

*39:西脇、同書、240頁。

*40:マイケル・E・ハスキュー/クリステル・ヨルゲンセン/クリス・マクナブ/エリック・ニデロスト/ロブ・S・ライス『戦闘技術の歴史5 東洋編』、杉山清彦監修、徳永優子・中村佐千江訳、創元社、2016年、68頁。

*41:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、同書、68頁。

*42:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、同書、123~124頁。

*43:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、同書、123~124頁。

*44:西股、前掲書、166頁。

*45:西股、同書、169頁。

*46:西股、同書、168頁。

*47:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、前掲書、277~278頁。

*48:西股、前掲書、167~168頁。

*49:参謀本部第四部編、前掲書、1頁。なお、句読点は撰者が補った。

*50:甲陽軍鑑』品第三十七。

*51:甲陽軍鑑』品第五十四。

*52:甲陽軍鑑』品第五十三。

*53:参謀本部第四部編、同書、9頁。なお、句読点は撰者が補った。

*54:参謀本部第四部編『日本戦史』「桶狭間役補伝」、元真社、1893年、5頁。

*55:甲陽軍鑑』品第四十上。

*56:西股、同書、244~245頁。

*57:西股、同書、241頁。

*58:西股、同書、244頁。

*59:西股、同書、183~184頁。

*60:西股、同書、250頁。

*61:西股、同書、251~252頁。

*62:西股、同書、209~210頁。

*63:藤木久志『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』、朝日新聞社、2005年、123~124頁。

*64:藤木、同書、140頁。

*65:藤木、同書、55~56頁。

*66:江畑謙介『軍事とロジスティクス』、朝日新聞社、2008年、19~22頁。

*67:江畑、同書、15頁。

*68:西股、前掲書、211頁。

*69:西股、同書、212頁。

*70:西股、同書、223~224頁。

*71:西股、同書、241頁。

*72:西股、同書、209頁。

*73:藤木、前掲書、139頁。

*74:西股、同書、247~248頁。

*75:甲陽軍鑑』品第五十八。

働かない(トム・ルッツ)

働かない

トム・ルッツ『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』、小澤英実・篠儀直子訳、青土社、2006年

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【服部 洋介・撰】

 

書誌

Doing Nothing
A HISTORY OF LOAFFRS, LOUNGERS, SLACKERS, AND BUMS IN AMERICA
BY TOM LUTZ
COPYRIGHT Ⓒ 2006 TOM LUTZ

 

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

 

  

解題

 著者のトム・ルッツは、1953年生まれ、専攻はアメリカ文学・文化史。社会学や心理学を文学と融合させた独自の研究領域を展開し、スタンフォード大学アイオワ大学、カリフォルニア大学で文学、創作等を教えるいっぽう、脚本家としても活躍していると、見返しにある。この人には18歳になる息子がいて、実家に転がり込んできて、就職活動もテキトー、家ン中でブラブラしておったのであるけれど、最初は見守っていたルッツ氏、しまいにはどうしようもなくイラッときちまったようで、ついにはキレた。

かくいうルッツ氏も、テメエの親父にさんざん「無駄なことしやがって」と人生を否定されてきたから、息子の気持ちがわからないはずもない。にもかかわらず、ナンでこんなに腹が立つんだろう、チキショウメってことで、怠け者の歴史について調べ始めたというわけだ。人はなるべく楽な仕事に就きたいと願っているけれど、人が楽してるのはナンでか腹が立つ。あるいは、働きたくないのはやまやまではあるけれど、他人が自分よりも真面目に働いているように見えて、ついその罪悪感からすすんで過重な労働に走ってしまうものであるらしい。正直、労働なんざ1日4時間で結構、というのがおおかたの人の本音であろうけど、いざ「労働時間短縮」などと言われると、途端に文句が出るのは不思議なことである。

ところで、かのバートランド・ラッセルも、1日の労働は4時間で十分と言っていた。その意味では彼も立派な〈怠け者〉のひとりであった。しかしおどろくなかれ、本書では、過去に1日3時間労働を唱えた知識人がいたことが言及される。そうなってくると、「いやいや、せめて4時間は働きますよ」と愛想の一つも言いたくなるものである。

ところで、この原稿を書いている2020年3月23日現在、世界中に新型コロナウイルスというものが蔓延し、「第二次世界大戦以来の惨禍」といわれ、欧米あたりはすっかり恐慌状態に陥っている。ところがいかなることか、例のクルーズ船の入港以来、曖昧な対策しかとらなかったにもかかわらず、わが国においては、いまだ緊急事態宣言も行われず、外出禁止令の発令という事態にも陥ってはいない。理由のほどは不明ながら、ほとんど奇跡的なことである。いずれにしても、この先、爆発的な感染拡大が生じないことを祈るばかりであるけれど、時間の問題という見方もある。すでに社会的機能は制限され、経済活動は抑えられている。仕事の休止に追い込まれてしまった人にとって、もちろんこれは死活問題であるけれど、一方で、かえって仕事に追い回されなくなって一息つけると安堵する人がいるのは皮肉なことである。もちろん、このままでは消費経済は立ち行かぬであろうし、子どもの学校や高齢者施設の問題もある。ヨーロッパ並みに事態が悪化してしまえば労働禁止ということになり、必需品の調達もままならなくなるであろうから、こういった小休止にも限度はある。そのようなことを度外視すれば、本来、ノンビリと働くというのは、悪くない話であって、このくらいの仕事量で暮らせるような経済社会であることは、労働者にとっては一つの理想である。しかし、どれだけモノやコトを消費したかの規模の大小で経済発展の度合いが計られるような社会であるから、消費と雇用の関係は不可分のものとなり、いまや濫費もあながち無駄遣いとは見なされない。しかし、限りある実物資源の蕩尽による永遠の経済成長などという〈おとぎ話〉はもはや許されそうにはないので、いたずらに資源を浪費しないような形で無駄遣いを継続しようという、いわば持続可能な無駄遣い社会を模索しなくてはならなくなった。どのみち当面、仕事は減りそうにない。

ところで、ラッセルが4時間労働ということを言い出したのも、もとはと言えば、戦時下の経験によるもので、若者が兵隊にとられてドンパチやっているにもかかわらず、英国経済が回ってしまうという衝撃の事実があったからにほかならない。皮肉なことに、米国の国家安全保障会議第二次世界大戦の教訓としてこのことを学んでいる。もっとも、彼らは労働の効率化によって高い生活水準を維持するとともに、余剰生産力を軍事力の拡張に回すという、軍事ケインズ主義的な公共政策によって、いわば〈永続的な経済成長〉ということを目論んだのであり、労働時間を短縮させようとか、無駄な消費を合理化しようとか、そういうことを企図したものではない。枢軸国が軍事ケインズ主義によって大恐慌から立ち直ったのは、良くも悪くも一つの教訓であって、わが国も高橋是清以来、軍拡を含めたケインズ路線で景気回復を遂げてきたのではあったけれど、こんにちの感覚からすればトンデモないことである。「日本が戦争に突入しようとした目的は、1000万~1200万人の失業者が生まれることを恐れたからだ」云々というマッカーサーの証言は、このことであって、どういうことか、戦争をすれば失業からは逃れられるというのである。

軍事ケインズ主義によって、日本では重工業が一気に発達し、失業減という意味では好況に沸いたのであるけれど、むろん、資源はよそからパクる必要があったから、キレた国際社会から「海外から撤兵しろ、経済制裁だ」ということになれば、資源確保のために戦わなくてはならない。じっさい戦争が始まってしまうと、生活品は不足、仕事をしても欠乏から逃れられないということになった。このようなことが持続可能なのは、あくまでも米国のような莫大な資源と巨大な生産力を有する場合に限られるし、そのような国と本気の戦争ということになれば、コテンパンにされて国富を台無しにしてしまうおそれもあるため、高度国防国家建設という永田構想というのも、あるいは、米国に対抗する国防力を身につけるまで戦争を回避すると言うのは表向きのこと、結果的に雇用政策として機能したのかもしれない。

このように、軍拡と労働ということは深く結びついているのだけれど、これというのも、軍拡が公共事業の側面をもっていることに由来するものであった。さすがにそれはマズイ。そこで、その今日版として、赤字だろうと何だろうと、人びとのためにバンバン財政支出せよという〈反緊縮経済論〉という考え方が登場した。バーニー・サンダース氏は、この路線の人であるが、じつのところ、アベノミクスにも強い示唆を与えた論でもであった。この論に属する〈反緊縮三派〉とされるものに、ニューケインジアン左派、 MMT、そして信用創造廃止派とがある、といわれる*1松尾匡氏は「反緊縮経済論に共通する常識的見解」を次のようにまとめている。 

 

(…)人間の意識や制度から独立した客観法則としては、経済は次のように成り立っている。おおまかに把握するため、経済主体を、政府と中央銀行を合わせた「統合政府」と「民間」とにまとめて考えると、統合政府は公共の事のために通貨を作って民間に支出して財やサービスを買っている。しかしそれが出すぎて民間に購買力が溜まりすぎると、総需要が総供給能力を上回ってインフレがひどくなってしまう。そこで、民間から購買力を取り去って総需要を抑制し、インフレをコントロールするために租税が機能している。国債も、統合政府として見ると、正味民間との間でやりとりしているのは、利子率の調整のために機能している。

それゆえ、政府の収支のバランスをつけること自体に意味はない。失業が出ないよう、インフレが悪化しないよう、総供給能力と総需要のバランスを維持できていれば社会の再生産が維持される。総需要が総供給能力を下回って失業がある間は、統合政府が財やサービスを買うために民間に出す通貨が、租税で民間から吸収する通貨よりも上回ってこそ、総需要を高めて失業を解消することができるし、それによってインフレが悪化することはない。(外国を捨象すれば)政府と民間の間の貸しと借りは裏腹だから、民間の貯蓄投資バランスが貯蓄超過(貸し)なら、政府は財政赤字(借り)になるのは必然である。*2

 

しかしまあ、こうなるともう、無尽講である。この無尽のシステムによって、公共にとって必要なサービスを調達することが、政府にとっても国民にとっても是非とも必要なことなのであるけれど、それで必要なサービスをまかなうことができたならば、あとは失業対策などと余計なことはせんと、余剰生産力を遊ばせておいたらなんでアカンのか、疑問は深まるばかりであるが、私の理解を越えたことであるので、これを読んで、こうしたことに興味をもつ若い人があらわれ、労働の呪縛から人類を解き放つことを願うばかりである。

とはいえ、やるべき仕事などというのは、早々なくなるものでもない。もし、失業者が出て困るほどの余剰生産力があるならば、貧窮している国のために、その国で必要とされている仕事に精を出すとか、やらなアカンことはいくらでもある。国内でも人手の足りないところはいくらでもある。医療や介護、育児で人が足らんというのなら、私たちはある種の仕事を擲ってでも、そうしたことに労働力を投入するのが先決であって、余計な消費(これを〈不可欠な不足〉などという)を生み出して労働力をつぎ込んでいる場合でもないように思われる。今ある必要な仕事を手分けしてやればエエやんけ、というわけであるが、なかなかそうはならない。ふつう、このようなことは、介護職や保育士の賃金を上げさえすれば自然に解決するように思われているが、要するに、カネが動かなければ、人というのは、やらなアカンことがあってもやろうとはしないからである。カネさえ出回れば失業がなくなり、賃金収入が増えて消費も活性化する、企業の業績も上向く、というのが、世界的に行われた金融緩和のねらいであったが、日本ではまず大企業にカネを入れるということが重視され、結果、それがあらぬ方向に使われたため、企業の業績は上向いたが、労働者の実質賃金は変わらず、結果、株価ほどに消費は伸びなかった。また、先に書いたように、介護のような分野にこそ人もカネも入用なのだが、介護士の給料が上がるのは結構なことながら、この分野に投じられる社会保障費の支出ということが、消費増税となって有効消費を相殺するものであるから、皮肉な仕組みである。どうにもままならない。信用創造廃止派は、これというのも、マネーが私物化されているためだと考え、公共目的の貨幣システムの創設ということを提唱している。松尾教授によると、これは「貨幣発行と投資を、利潤目的で私的 になされるものから、公共的になされるものへ社会化する志向」であり、「設備投資財生産とそのための資源配分はマクロには抑制されなければなら」ず、そのことによって「労働などの生産資源配分を、高齢化などへの対応を中心とした部門へと公的に振り替えることを目指す」ものと解釈している*3。負債にもとづくマネーの創造をやめることで、政府が収支のバランスを気にすることなく、公的マネーの出し入れをおこなうことができるようになるというのであろう。

介護のような労働集約型の産業は、なかなか利益に結びつかないものである。そこで海外から労働力を移入して、労働量の補填と社会福祉分野のコストカットを同時に進めようという考え方が定着しつつある。わが国にとってはありがたい話ながら、諸外国の若い人からすれば、日本で働く前に、それぞれのお国の発展のために、もっとナンかやることがありそうなものだと思われなくもない。しかし、特に学歴を要さないような仕事であっても、出身国の公務員のウン倍の初任給が得られるため、大学を出たような優秀な人材であっても、日本において高卒の仕事で雇われる方が、よほど効率的に稼ぐことができる。これは貧富の差があるからこそ可能なことであって、本来、望ましいことなのかどうなのか、世界全体が豊かになる過程でやむを得ないことなのか、考慮を要するところであろう。なお、日本人が海外で働く場合は事情が逆になる。たとえばタイのように、国内雇用を守るために、日本人が現地人と同じ給料で働くことを禁じている国もある。日本人には高給を支払わなくてはならず、このようにコスト圧力をかけることで、なるべく現地の人を雇わせるように定めているのである。

 そう考えると、世界はまだまだ貧しく、怠けるなどということはトンデモない話のように聞こえるけれど、ラッセルからすれば、それは人々の労働が足りないからというよりは、労働の仕方や労働力の配分方式が誤っているためではないかということになる。あまりイメージはよくないが、恐慌下や戦時下のような集産体制をとれば、労働など1日4時間で十分というのが、ラッセルの見立てであったと思われる。ところで、じっさいの戦時下経済などというものは、日本にあっては、所得が倍増しても生活必需品は不足状態、とりあえず暮らせるという程度のものであったから、それで人間が幸福であるということはできない。たとえ労働時間が短縮されたとしても、自由な消費もままならない社会が招来されることを、多くの人は望まないであろう。ラッセル自身も、それで上等な葉巻が吸えなくなるような社会ではアカンと、別のところで書いている。労働時間は減らしたい、だけど贅沢もやめられない。そこそこに贅沢(「メチャクチャに贅沢」は、この際ご遠慮いただきたい)でいて、なおかつ仕事は少ない、そういう方向に社会が進展することが望ましいのではあるけれど、何もかもが矛盾なく両立するということはないであろうから、技術の革新が望めない限りは、何かを犠牲にせざるを得ない。

しかし、失業といえば何か恐ろしいことのようではあるけれど、社会全体からすれば、仕事をしたくても仕事がないというのは、要するに、差し当たってしなくてはならない仕事がないからこそのことであるように見えるものでもあるから、そのような意味で人間が働かなくてもよいということになれば、まこと結構なことである。じっさい、ランズバーグは次のように言っている。

 

ジャーナリストは失業率を経済全体の良し悪しを表わす指標に使いたがる。だが失業をめぐる議論においては、ふつう、失業が人々の望む状態であるという事実が見過ごされている。余暇を何もせずにのんびりと、あるいは好きなことをして過ごすのは、一般に好ましいこととされている。しかし、それが「失業」という名で呼ばれるとなると、突然、悪者のように聞こえる。*4

 

私たちはみな、週に八〇時間、労働搾取型工場で汗を流していた一〇〇年前の先祖に比べれば半失業状態なのだ。だが、先祖と入れ替わりたいと思う者はいないだろう。このように考えると、失業率が経済的福利の物差しとしては不完全だという警告の正しいことがわかる。

二〇世紀後半に生きる私たちの労働が祖父の時代よりも少ないのは、私たちの方が彼らよりも豊かだからである。雇用の減少が、時代が良くなったことを意味する可能性もある。(…)悪い時代に嫌な仕事にしがみついていた労働者も、時代が良くなれば、給与外の所得が増えたために、あるいはもっと良い仕事につくチャンスがあると思って、自発的に失業するかもしれない。*5

 

ところでラッセルは、AIに仕事を奪われるといって騒然となっている現代の人たちを予見するかのように、次のようなことを書いている。

 

「創世記」では、労働は、アダムが罪を犯したためにその子孫に運命づけられた呪いということになっているが、現代の世界では、それはひとつの祝福のようになって、その総量も決して減殺されてはならないものとされている。*6

 

ラッセルによれば、もし労働者が働くことを生産の〈手段〉としてではなく〈目的〉そのものとみなすならば、一定数のトラクターをより少ない労働力で生産できるための工夫は彼らの敵意をかきたてるであろう、という。それは失業を誘発し、生計を失う危険性を増大させるからだ。しかし、生計も何も、何でもカンでも機械まかせでまかなわれ、社会にはもう人の携わる仕事などないのだから、最終的には仕事をする必要性すらないのではないかという議論は、おそらく通用しないように思われる。たしかに仕事は必要ないが、私たちはカネでモノを買って暮らしている。そのカネときたら、労働と引き換えに手に入れるものと決まっている。仕方ないから、次の労働を考えようということになるのであろうか。

その労働にしたところで、カネになる労働とそうでもない労働があって、社会が必要とする労働であっても、対価が低く抑えられているものもある。カネがないと暮らせないから、社会的課題を解決するよりも、まずはカネという話にもなるのである。これは江戸時代の農民が現金収入を目当てに商品作物の栽培に手を出して幕府から怒られたのと同じで、農家としちゃカネがなくては肥料も買えないし、コメは年貢に取られて蓄財ということもままならぬから、カネ目当ての作付けということも理にかなったことではあった。けれど、ひとたび飢饉ということになれば、他国からコメの支援があるわけでもなし、カネ目当ての産業ばかりにふけっていては国家の害になると松平定信あたりは考えたのであろう。植民地におけるプランテーション経済と同じである。こんにちのわが国は、かような農本主義をとってはおらず、食糧は他国まかせ、カネになりにくい産業もすべて諸外国に肩代わりしてもらっているから、頼りになるのはカネばかり、円が高すぎても安すぎても困ったことになるが、とにかくマネーを生み出し続けることが肝要、これからは投資で生きようなどという話にもなるのである。もっとも、それで儲かったところで、ご親切にも誰かの仕事や、のちのち返すべき負債を増やしてやっているようで、気が進まないところもある。まわりまわって自分の仕事が増えて泣きを見ないように祈るばかりである。

現代のマネーは負債をもとに創造されているから、自分では借金をせず、他人にどんどん借金させないことには、マネーは増えない。借金を返そうとする分だけ労働が必要になるため、金融資産の総量と労働の総量は、相関している。ある意味、この仕組みで失業が解消されることになるのだけれど、このようにしてマネーと消費が結びついた高度消費社会の経済システムにあっては、〈働く〉ということを「人間、額に汗して働くのは当たり前」というような、素朴な労働倫理の問題に矮小化して論じても片落ちの謗りを免れ得まい。そうでなくて、われわれはどんどんと仕事を増やされ、何かしら働くように誘導されているのである。仕事量、すなわちカネの量が、労働力の増加スピードを追い越してしまったら、ちょっとした問題が起こる。もっとも、失業率は下がるので、不安な労働者たちは喜ぶかもしれない。

長期的に見れば、貨幣価値は低減するようにできているから、物価が上がっても「ちょこっと売ればガッポリもうかりまっせ」なんてのは、カネの値打ちが下がっているだけのことで、実質賃金はそうそう上昇しない(給料の額面がちょこっと上がってなんとなく納得していてはアカンのである)。われわれの預貯金は目減りして、将来的に購入できるサービス量は、現在購入できるそれを下回ることになるであろう。カネは今つかっちまうほうがお得なのである。マネーシステムに手を加えずにこれらの問題を解決するには、何といっても技術革新が必要になる。これにはいささか時間を要するが、すぐれたサービスをかぎりなく安価に使用できるようになってはじめて、私たちは長時間の労働から解放されることになるのである。そうしたわけで、私たち全員がめでたく失業するためにも、ロボット技術の進歩ということは不可欠の要件となるであろう。ただ、すべてのサービスが無料化されるところまで進展してしまうと、今度は企業が儲からない。そんなこんなで、20世紀にあっては、機械技術が進歩しても、思ったほどに労働は減らなかった。労働が減ること、つまり〈怠ける〉ことはアカンという強迫観念が邪魔をして、働くこと自体が自己目的化してしまっているのではないか、というような指摘もあった。ラッセルによると、問題はいわゆる中部ヨーロッパ以北を席巻した勤労精神であった。

 

北ヨーロッパの人たちは、仕事は美徳という信条が身にしみついたために、今も南ヨーロッパにかろうじて残っている優美さを失ってしまった。北ヨーロッパ人の勤労第一主義の信条によれば、重要なのは、ものを作る時の経過や仕方ではなくて、結果としての産物それ自体ということになる。われわれはけっして美しいとは言えない家を建て、その中でただ栄養をつける食物をとり、愛情もなしに子供を作っては、彼らの自発性と優美さを破壊する教育にゆだねる。*7

 

じつのところ、産業の機械化は、製品を効率よく作ることには寄与したが、人々を労働から解放することを目的としているわけではなかった。おおむね、20世紀を通じてはそうであった。もっとも、先に書いたように、国債の借用書を通貨として使っているようなマネーシステムが通用しているかぎり、われわれは労働してマネーを得、税金をバンバン納めて国の借金を返済せずには済まされない。すべての必要が満たされたからと言って、借金が自然消滅するわけではないから、債権者(じつはわれわれである)が徳政令に応じないかぎりは、労働に終わりはないのである。そのへんの問題をどうするかはともあれ、ひとまずラッセルは、機械文明のさらなる活用によって、人類を労働そのものから解放することを主張する。さすれば、アングロサクソン資本主義における、上のような事態は回避されると、彼は考えた。

 

このような事態は人間が機械化されるにつれて、避けられない不幸であろうか。私はそうは思わない。われわれは今までにあまりにも仕事にふりまわされてきて、肉体的および知的労働の束縛からの解放の手段として機械を十分に活用してこなかった。われわれはその気になれば、もっと余暇を持てる。われわれはその気になれば、われわれの子供たちを、組織の中の便利な歯車にしてしまわないで、彼らの衝動を芸術的に表現できるように教育することもできるはずである。われわれがそうしないのは、われわれは美よりも力に愛着するからである。しかし、ひたすら力のみを追い求めることが、幸福になる最良の策であろうか。人間性にはほかにいろいろな要素があり、それらは少なくとも同等に尊重すべき価値を持っている。機械時代が人間性の他の諸要素にも然るべき位置を与えるようになるまでは、新しい文明は本当に健全だとは言えない。*8

 

ロボット時代になっても、マネーがなければ食料も買えないなどという状態が続くならば、まるで意味がない。現代の経済社会においては、たとえ生産過剰に陥ったとしても、カネがない人に食料を配ってしまっては、生産コストを取り返すことができないから、早々に赤字である。もっとも、食品メーカーはわりあい気楽で、コンビニなりに商品を納品しちまえば、あとは消費者が買おうが買うまいが関係ない。食べ物が余っても、儲けは確保することができる。こんにち、食料の3分の1が廃棄の運命をたどることになっているけれど、そうであれば、本来、労働も3分の1で済むはずである。こうしたことを生産と情報技術、そしてロジスティクスを結びつけて解決しようという試みが出始めているけれど、そのような意味での労働の組織化、労働の削減ということは、やがて可能となるであろう。ただし、消費経済のモデルにおいて、それは必ずしもメーカーに利益をもたらさない。ますます失業が促進されるのではないかとも考えられるけれど、そのようにして削減された労働を補わなくてはならない理由が他にあるとしたら、それはとりもなおさず、カネである。ロボット時代においては、人はそもそもすべき労働をもたないし、したがって追求すべき利潤もないのであるけれど、カネの問題だけは悩ましい。もはや労働する必要はないけれど、マネーを通用させるために労働の撤廃はまかりならんということになると、私たちはカネを手に入れるために、何はともあれ労働しなくてはならないということになるのであろうか。

さて、経済が十分に組織化されていないことからくる労働の無駄遣い、あるいは生産物の無駄遣いという問題について触れたけれど、すでにこのことは、ラッセルの時代から指摘されていた。彼の時代、すでにアメリカでは食品ロスの問題が深刻化していたのである。

 

頭が正常な人たちは、生産過剰による失業は、長時間かけて解決さるべきだと言うが、経済の機構を再び正常にもどすには、個々の経済活動が常に利潤を生まねばならぬという要請を捨てることが不可欠である。アメリカの西部やカナダでは、食料が腐っているのに、世界中の工業地帯では、飢えた失業者の群れがひしめいている。もしあまった食料が飢えた人々に届けられ、彼らがアメリカ西部の農民の需要を満たしうる労働に従事するならば、個々の資本家が利潤をあげなくとも、世界は全体としてずっと豊かになる。個人的利潤という動機が今では通用しないことは明らかであり、世界の経済状態を回復しうるものは、組織化された社会の努力だけである。*9

 

なるほど、企業というのは資本家が利潤を上げるためのものではなく、社会に必要なモノをキチンと生産するために営まれるべきものであるという考え方である。ただし、当時の情報技術やロジスティクスでは、真にモノを必要とする人たちに、いかにして必要なモノを供給するか、その実現可能な方式については、人類の知恵を結集しても創案不可能だと考えられていた。貨幣経済というものも、その高い流動性のゆえに、物々交換ではなしえなかった流通の革新ということに寄与し、世界全体が豊かになることに確かに貢献したであろうと考えられるけれど、同時にそこには、世界が豊かになることを阻害する構造的な問題が内在しているもののようでもある。人類全員を養うに足る生産量があっても、カネのないところにモノは行きわたらないからである。

ロボット技術さえ完璧なものになれば、労働自体が消滅し、個人の利潤追求という考え方も疑わしいものとなろう。労働=カネに追い回されなくてすむのだから、技術の進歩と労働の組織化によって、十分な物資が世界のすみずみにまで行き届くであろうという、希望的観測もある。それでは個人の利潤追求はどうなるんだとおさまりのつかない人もいることであろうけれど、このコロナ騒ぎを見ていると、組織化されない労働に依存して、今後も経済をカネ次第にしておくのは、いささか不安なものだと思わされなくもない。

今般のコロナ禍に際しては、期せずして労働の量であるとか、その形態といったことについて考えさせられることが多々あって、まこと皮肉なこととしかいいようがないが、これを機に、経済や教育のIT化、テレワーク化、あるいはベーシック・インカム導入の是非といった方向に大きく議論が進むものと想像されるから、日本社会にとっても一つの転機となることであろう。当初、株価は暴落と反発を経て、米国の対策への不信という形でかえって日本株が値上がりを見せるなどの乱高下をくりかえしているが、これというのも、当初の円高から一転して円安基調の流れがあらわれたこと、日銀による日本株の買い支え期待が背景にあるものと考えられている。そうでなくても、アベノミクスを通じて日銀はETFで年間6兆円を投じて企業株の買い支えを続け、今やその保有額は26兆円に達している。GPIFも基本ポートフォリオにおける国内株式の構成比率を目標値25%に設定して、公的年金をつぎこんだ。われわれの年金資産で株価を支えてきたわけである。日本国民の資産はおそるべしである。今やコロナで企業がつぶれないようにと、政府も国民もいろいろと気をもんでいるけれど、このような事態に至らずとも、企業がつぶれたらアカンなんてのはわかりきったことであって、政府は企業がつぶれないように、国民に代わってバンバンと金を入れたきたのである。

つまり、われわれにとって、この国に必要な企業(何が必要で何が不必要かは必ずしも明確ではないけれど)をつぶしてはならない、などというのは言わずもがなのことであって、このような隠れ社会主義に手を染めるくらいなら、いっそ堂々と社会主義にしたらよいではないか、などと考えるのも一興ではある。多くの平凡な人からすれば、路頭に迷いかねない危険にさらされながら生きるよりは、絶対につぶれない会社でほどほどの人生を送ることができれば、今日日、御の字である。そのように考えると、企業活動は大いに組織化できるであろうから、ラッセルを信じるならば、1日4時間労働ということも可能になるのであろう。残りの4時間をまるまる余暇にあてるか、あるいは自由に業を興して、やりたいような経済活動(芸術活動でもスポーツでも何でもよろしい)にいそしむかは、個々人の自由に任せてよい。なお、芸術家やスポーツ選手が1日4時間の活動でどれだけの技術を維持できるか、それは心もとないかぎりである。ただし、この際、かれらの技量がディレッタントのレベルにとどまったとしても、私は苦しからず思う。すでに『音楽と教育——社会学的アプローチ*10社会とつながる芸術家*11の剳記で書いたように、エキスパート教育を放棄した音楽大学もあるくらいで、音楽家なりスポーツ選手なりを必ずしも単なるその道の専門家としてのみ評価する必要はないのである。ただ、やる人にしても観る人にしても、不満な人はいるだろうけれどもね。

 けれど、そのようなことも含めて、社会にとって不可欠と思われる4時間の義務的な〈組織労働〉を人々にどう割り当てるかということになると、これはむずかしい問題である。社会主義の方式をとるならば、少なくともこれは、経済活動の自由とか、職業選択の自由という考え方がスンナリあてはまるようなものではないからである。たとえば、社会においてラーメン屋の数がいくつ必要で、それらのラーメン屋にどれだけの多様性をもたせるか、などといった設計は、甚だ困難を伴うものである。官の命令で、不味い店主を解任して別の仕事に異動させ、新しい店主を選任するなどというのも、いささか乱暴な気もする(もっとも、現下の経済体制でも結果的に同じ成り行きとなることであろうけれど)。もっとも、情熱のある人は、これとは別に自由な経済活動の範囲内でこれを行なうのもよいであろうけれど、往々にして、そういうものが官許のラーメン屋のクオリティをしのいでしまうため、結局、自由主義経済でいいんじゃないのという話にもなるのである。けっきょく、十分に経済が組織化された社会において人びとが安逸な生活を送れるようになれば、次はもっと刺激的な経済活動に乗り出そうというのはありそうな話であるから、一考すべきことではある。ラッセルは全体主義国家を敵視していたが、文化的自由を認めながらも政治的統一ということには固執していた。戦争を経験した世代だからこそと言えるのかもしれない。一方で、本書でも引かれるように、ケロッグ社のような方式で、生産組織を何かしら合理化することによって、より多くの人を雇用し、応分の給料を支払い、かつ労働時間を引き下げるといったことが可能となるならば、経済活動の自由を保障しながら、労働時間を短縮することも可能となるのかもしれない。私たちにとっては、そのほうがスンナリと飲み込めるものであろう。そのためには、過剰な労働を生み出す過剰な消費についても一考されなくてはならないであろうけれども。

失業を補うために消費を推奨するなら、他に何かもっと必要なモノでも作ればいいんじゃないの、という素朴な問いもある。それが軍備だという考え方はこの際、除外するとして、もう少しマシなものはないだろうか。松平定信という人は、贅沢な自由な社会というよりは、とにかく安定した社会ということを重要視したもののようであるから、つまらん倹約令を出して、今も昔も「田沼の方がよかったんじゃないの?」という評価をする人がいる。もっとも、研究が進むにつれて、存外、重商主義といわれた田沼と変わらんこともわかってきたらしい。天明の大飢饉に際して自藩からは一人の餓死者も出さなかったというのは言い伝えであろうけれど、かつては日本でもヨーロッパでも、何はなくとも春に餓死者が急増し、冬を越すのに一苦労であったことが知られているから、そうしたことをよくよく考えておくことも大事なことである。そのような状況が一段落するのは、日本では江戸時代に入ってからのことであるけれど、火山噴火や異常気象などが起こると、たちまちにして大飢饉ということになった。何もないところで質素倹約では、生きている甲斐もないけれど、死んじまったら元も子もない。今般のコロナ騒ぎ、中国人は政府の宣伝にビビって経済活動がどうなろうと、命には代えられないと自宅に引きこもったというけれど、「中国らしいよな」と、対岸の火事見物をきめこんでいた欧米各国も、今や外出禁止にロックダウンである。目下、生活に直結する経済活動を除いては、すべて営業禁止ということになってしまった。わが国にはこれから地震も来ることであるし、本来、よくよく経済のありようについては検討を加えておかねばならぬところである。経済の本質は生産ではなく消費にありといわれるけれど、コロナのオーバーシュートが起これば、消費云々ではなく、生産自体がストップする可能性もあるから、いよいよ〈真の欠乏〉が到来することになる。この先、医療崩壊、国境封鎖、必要物資の囲い込みというようなことになるくらいなら、平素、人びとが飛びつきそうな消費をいたずらに拡大するよりは、ECMO(人工肺)でも作って備蓄しとけということにもなるのであろう。貧困国がえらいことになるって話なら、ふだんから貧困国の物資をまかなう仕事もあるだろうと言いたいが、そういうのは〈仕事〉とは言わないらしい。なぜかというと、支払いを受けることができないからである。ナンのために働いているんだろうなって話ではあるけれど、無償の仕事は、寄付とボランティアに頼るほかないのが実情である。

じっさい、労働禁止、生産停止の危険性も高まりつつあるこの頃、上のようなことは、わが国でも他人事ではなくなろうとしている。災害は滅多に訪れない。けれど、たまにはやってくる。そのようなリスクをどう評価するかは、むずかしい。この騒ぎのために景気の落ち込みを批判された与党は、コロナウイルス大流行はまさかの不測事態である旨、国会で答弁したけれど、野党は、そういうことも含めて消費増税の影響を考えるのは当然のことだとかみついた。この理屈でいくと、気象庁が切迫性の高まりを訴えている首都直下地震南海トラフ巨大地震の恐れがあるこの列島で五輪を開くことの可否も問われようし(そのことが免責されるか否かについては、すでに『メタロギコン』の剳記で問うた)*12、このような緊急時にまっさきに食い詰めるであろう職業には最初から就くべきではないというような話にもなりかねない。もっとも、そうなっても経済が落ち込まないように、そもそもからして消費増税などすべきではないのだという論旨なのであろうけれど、早い話がコロナなどあろうとなかろうと、消費増税はアカンということなのである。それならそれで筋も通っているのかもしれないが、緊急時にわりを食う種類の職業が現にあるということも、経済社会の課題として考慮しておく必要はあるのであろう。

グローバルに展開しているような企業は、過去30年の経験から、人やモノの国際的な移動がストップした場合を想定して、ある程度の対策を講じていることであろうけれど、たとえば、今般、官から名指しで営業自粛を要請されたライブハウスや飲食店はどうしたものであろうか。イギリス人はパブに通うために生きているし、イタリア人はカルチョのために生きている。これらの産業がつぶれては困るということであれば、われわれは、それらがつぶれないようにするほかないであろうし、騒動が終息したのちは、いち早く再開できるような仕組みを考えなくてはなるまい。ライブハウスの人たちが言っているように、補償さえ確約してくれれば、いつハコを閉めても苦しからずである。もう少しインセンティヴが働けば、すすんで自粛に協力しようという人も出てくるであろうけれど、「自粛した方が得でっせ」というモデルを示すのはなかなか容易ではない。また、今日日、津波や大雨のときの避難勧告は「もし災害が起こらないとしても、ためらいなく発表すべし」と容認されるようになっているけれど、なにぶん新型コロナウイルスの流行は初めての事態であるから、いわゆる「自粛要請」というものも、いちど惨禍を経験しない限りはスンナリ受け入れられそうにない。むずかしい問題ではある。反緊縮派であれば、バンバン財政支出する腕の見せどころである。

もちろん、迷惑をこうむっているのはライブやカルチョに従事する人ばかりではないであろうから、あらゆる産業が社会のために必要であるというならば、同様にその従事者を扶持することを考えなくてはならない。このことから考えると、平時であろうと緊急時であろうと、それらの仕事が不可欠だというのならば、みんなで協力して、最初からつぶれないようにやっていこうという考えが出てきても不思議ではない。しかし、実際は大して必要でもない仕事や、似たか寄ったかの企業が多々あるので、競争で淘汰されるというのが実情のようである。淘汰された側は深刻なことに陥ってしまうのであるけれど、たいていの場合、より優れた企業やサービスが生み出されて社会や消費者の便益が拡大されるから、競争を阻害すべきではない、という結論に落ち着く。その興亡劇に自分自身が巻き込まれない限りは、という留保つきではあるけれど。私なんかは、逆に人が寄り付かないような店に入ってみたくなるものだけれどもね。

 消費経済というものが進展すると、何かのはずみで消費がなくなると労働力は余り、逆に消費が拡大することで人手不足などということも出てくる。少子高齢化ということもかかわってくるから、無駄な消費で仕事を増やしている場合なのかどうなのか、問題と言えば問題である。だからこそ、消費によってカネを増殖させようという考え方も出てくるのであろう。カネというのは便利なもので、カネさえあれば、人やモノが国境を越えて入ってくる(もちろん、日本に来た方が稼げるという見込みがある場合に限られるけれど)。そのような形で、労働時間の短縮と、生産量の増進ということを実現することも可能であろうけれど、むろん、安価な労働力の移入による人件費の削減とあわせて、機械化の進展ということも求められるであろう。もしカネが万能ということであるならば、日本は対外的には債権国であるから、これからはいっそ投資で生きていくという考え方もできなくはない。もちろん、コロナのようなことが起こると、思わぬ被害をこうむることにもなろうから、株もよいが、資産構成における現金比率もある程度に保っておくことも必要ではある。手元流動性を軽んじると、エンロンが破綻したときに給与の一部をストック・オプションでもらっていた社員たちのように、とんでもないことにもなりかねない。

しかし、カネさえあればどうにかなるというのは、それほど自明のことなのであろうか。潤沢なカネの背後に借金ありである。米国の好景気を演出してきたのは、低金利のアブないカネである。ちょっとアカン企業にもジャブジャブ貸してきたから、ひとつのバブルである。あんまり簡単に借金ができるようになると、仕事は増えるが、有効需要が失われた際に生産過剰に陥ることにもなる。それが今般のコロナ問題に際して、裏目に出てしまったということであろう。今回は金融恐慌ではなく、実物経済の冷え込みからくる恐慌であるから、仕事もできず、借金を返すところではない。個々の人たちの救済ということについては、経済活動の自粛を余儀なくされた従業員1000人に、NBAの選手がドンと1000万円を寄贈するという美談もあった。なるほど、現金収入が途絶えて生活に困る人も出るであろうから、カネさえ配ればどうにか助かるという人も出てくるであろう。出前などが機能している限りは、配られたカネでどうにか暮らしていくことはできる。一方で、どれだけカネを積んでもいかんともしがたいものもある。たとえば、マスクなどというのは、どれだけカネがあっても、ないものはないから、買えない。それこそ〈真の欠乏〉である。しかし、カネを出してマスク工場を建てるなどということは、感染の蔓延していない地域であれば可能な方策と言えるのかもしれない。もちろん、ラッセルが言うように、個人の利潤追求の視点でこのようなことを行なうのは、むずかしい。コロナが収まってしまえば、マスク工場など不要のものとなってしまうからだ。しかし、このことからもわかるように、カネは、新たな労働を生み出すという機能をもっていて、「カネさえあれば豊かに暮らせる」と思いこんでいる人がいるうちは、イッチョ働いてやってもいいという人も出てくるものである。このようにして膨張するマネーこそが、近代以降の工業社会を大きく推進させた旗振り役であったのだ。このことをベルナルド・リエターは、こう書いている。

 

現在のお金のシステムは、近代工業時代の世界観から無意識のうちに私たちが引き継いでいるものだが、それは現在でも社会に君臨しながら、時代の支配的な感情と価値観とを設計し推進する最高実力者としてふるまっている。(…)また、この通貨は、使用者間で「協調」より「競争」を促進するように設計されている。お金はまた、工業社会の旗印である。「永続的な経済成長」を可能にした影の功労者であり、エンジンでもあった。そして、このマネーシステムにおいては個人が財産の蓄積(富の貯蓄)を奨励し、それに従わない人々は懲らしめられるようになっている。*13

 

要するにカネというものは、それがいたずらに労働を増やす原因となるか、十分に足りているモノが、それを必要としている人のところへと行きわたらないことの原因にならない限りはナンてことのないシロモノなのであるけれど、短所であれ、その機能を全否定してしまうと、カネのもつ利点というものも同時に消滅してしまうもののようである。先にも書いたように、ラッセルからすれば、食料が大量に余っているのに、それをみすみす腐らせて、貧しい人を飢えさせるなどというのは、カネになるかならないかのせいか知らんが、ナンかアタマおかしいんじゃないのってことになるのだけれど、当面わたしたちは、カネのもつ長所を有効に活用し、短所をなるべく抑えるという仕方をもってこれに当たるほかないもののようである。となれば必然、労働の問題も考えざるを得なくなるのは、自然な帰結のように思われる。

そう考えてみると、必要なモノが足りない大変なときこそ、何か仕事があるのではないか、という問いは一考に値するものである。今こそ、必要なモノを、それを必要とする人のもとへ届けるべきである。今回の場合、とりもなおさず、それはマスクである。ところが、手仕事でチョコチョコ作るくらいのことはできるが、業としておこなうということになれば、本業のマスク会社を除けば、小さな手袋メーカーが技術転用で製作するのがせいぜい、これから政府の声掛かりで、異業種の企業が名乗りを挙げてくることであろうが、本職のメーカーからすれば、コロナが収まってしまえば不要になる設備に自腹は切れない。先に書いたとおりである。人々にとって必要なモノを作るのが仕事といえばそうだけれど、企業も生き残らなくてはならない、カネを稼ぐ方が先決である。それこそ、「マスク増産しますけど、見返りはもらえるんでしょうな?」ということである。というわけで、補助金が約束されたからこその増産体制確立ということなのであろうけれど、実のところ、国と企業なんてのは平素からもちつもたれつ、だからしてわが国では自国民に背を向けるグローバル企業なんてのがあらわれにくいのかも知れないが、米国ではそのことが顕在化して、もはやグローバル企業は自国民の敵とまで言われるようになった。そのことが、アメリカン・ファーストのトランプの台頭を許すことにもつながった。

さて、カネと労働の関係について、営業自粛のインセンティヴとして、休業した人たちが生活に困らないように現金を配るという設定で考えてみよう。現段階では、食品メーカーやお百姓などは休業しないので、食料をはじめ、必需品に困ることはない、と仮定するならば、休業した人たちが収入の補償を受け取れば、食べるのに困ることはないであろう。となると、足りないのはマスクとアルコールだけで、他に仕事といえば、医療や介護、けれど後者は被介護者との濃厚接触にあたるから、やりたくてもすることはできない。無資格の者が医療従事者になることもできないが、今後は准看護師ならぬ、准医師のような制度を用意しておく必要があるかもしれない(イタリアでは医師の資格を緩和して対応しているようである)。一方、Youtubeのサーバーがパンクしているという話もあるから、IT企業なども人手が足りないところかもしれないが、ある意味、こういうときはユーチューバーも必需産業のように思えてくるから不思議なものである。クソジャリどもが外出禁止命令も聞かず、やたら出歩いて困る諸外国では、まこと重宝されている。結果、わが国では、これらの自粛によって家計の9%程度が圧縮されることになるわけだが、「仕事がない」というのは、この意味では「カネを使う人がいない」ということと同値である。皮肉な話だが、カネさえ使わなければ、労働は減るということのようである。しかし、仕事を自粛した人にカネを配っても、労働は増えない。食品メーカーの仕事は、コロナの前と後で変わることはない(事態が進行すれば、自炊できない人の需要で、外食産業が休業した分、フードデリバリー等の発注が増えることはあるかもしれないし、さらに進めば食品メーカーも営業自粛に追い込まれるかもしれないけれど)。ただ、カネを配らなければ、収入の途絶えた人は飢えてしまうし、腹を空かせた人が食品を買うこともできないため、食品メーカーの仕事自体も減ってしまうであろう。そうなれば、必要なモノを生産する能力があったとしても、メーカーはそれを生産することはない(マスクと同じである)。まさにラッセルが危惧したとおりになってしまう。

この場合は、コロナという問題があらわになっているけれど、おそらく、コロナがなくてもこういったことはすでに世界中で起きているのではないかと思われる。コロナだからこそ、政府のカネ対策も大きく取り上げられるけれど、ふだんから潰れそうな会社はいくらでもあるし、非自発的失業者や貧困者も多数いるわけである。ただカネがないばかりに、みな困っている。これは金融の問題である。もっとも、本当の意味での失業というのは別にあって、労働する人はいるけれど、生産の手段を欠くという、〈真の欠乏〉である。どちらかといえば後者のほうが深刻な欠乏といえるのかもしれないが、前者の欠乏も問題なしとはいえない。たとえば、かつての日本では、飢饉ともなれば、食い詰めた人が富裕者の下人となって扶養を受け、どうにか生き延びるということが頻繁にくり返された。戦争でとっ捕まった人も下人として売り払われて、主人のもとで耕作などに従事した。これは前者の例で、ラッセル風に言えば、労働の組織化と生産物の配分方式が不合理だったゆえの悲劇ということになる。今ではこのようなことは許されないから、こうした欠乏から他者に隷属するような人があらわれてはなるまいが、これは、カネさえあればどうにかなる種の欠乏である。一方、かつて九州あたりでより深刻な飢饉があった際、戦場で乱捕りした人たちを売り払おうにも、耕す畑もなく、誰も下人を買っても扶持できなかったから、国内では買い手がつかず、海外で使役するためにポルトガル商人に二束三文で売り払われた。それはそれでなおさら悪い話であった。こうなると、金融というよりは実物の問題である。もっとも、コロナの問題も、金融から財政の問題へ、そしていよいよ実物生産の問題へと進展しつつあるように思われる。その点は、非常の事態と言える。

ところで、前者の欠乏については、こんな話がある。金融市場というのは、今やグローバルカジノもいいところ、取引の98%が投機目的だと、リエターは言った*14。相場師からすれば、値動きのないところで儲けるなんてことはおぼつかないから、マーケットに波乱の一つも起きてくれなきゃアカンのかも知れないが、リエターに言わせれば、このような人びとは「不安定性を好む人々」である。このような人びとが活動することで通貨危機が演出されてきた、というのである。「誰もが、恐ろしくて口に出せない問いがある。「次の犠牲は誰なのだ? ラテンアメリカ? 西ヨーロッパか、それとも中国? 世界一の債務国である米国がターゲットになるのはいつなのか? もしそうなったらどうなるのか?」」*15。これはアジア通貨危機のことをいっているのだが、通貨の下落であれ、株式の暴落であれ、基本、そのような恐慌に発する欠乏が起こらないような経済の仕組みを作ってしまうほうが、よほど平和的である。本書でも、労働時間短縮を勝ち得たはずの労働者が、再び8時間に戻ってゆくといった事例が述べられているけれど、これは恐慌による失業をおそれた労働者たちの、いわば〈労働囲い込み〉というべき事態が起こったからのようである。失業した人と仕事を分け合えば、自分の分け前が減ってしまうという感じを受けるからであろう。この場合の分け前というのは、要するにカネである。ケロッグ社は大恐慌に際して労働時間を6時間に短縮して、失業者を雇い入れて3シフト制から4シフト制に切り替え、カネも応分に支払った。それでも第二次世界大戦が終わると、労働者はなんだかんだで8時間労働に戻ってしまったのである。著者は、ベンジャミン・ハニカットを引きながら、ケロッグ社が消費社会の進展に抗えなかったこと、労働者が自身の特権的感情を喪失したくなかったことを原因として挙げている。たしかに、われわれが多少のわがままを言えるのは、「俺はこんなに働いてるんだ。まだナニかあんのか?」という感じをアピールするときにかぎられるから、この感情はわりあい理解できるものである。愚かな話だが、よほどがんばっていないと、他人からあれこれといらん指図を受けることにもなりかねないので、自分の仕事を手放さないということは、保身の手段でもある。今般のコロナ禍でも、トランプ氏の経済対策が不発の場合、米国の失業率は30%に達するという試算があるようである。こんなときこそがんばらなアカンのに、「えっ、俺ら仕事せんでエエのんか? 仕事ないんか?」って話である。ナニかあっても生活に困らない社会を作ることが文明の進歩というように思われるのだが、もはや不可解としかいいようがない。 

カネがなければ仕事もない。そいつは知らないうちに、われわれの頭の上を飛び越えて、どこかに行っちまっているのである。もはやカネはジャブジャブの状態だが、どういうわけか、俺らの手元にカネはない。もっとも、タンスに預金はあるけれど、それは虎の子、景気のために吐き出せと言ってもなかなか吐き出せるものでもない。しかし、てっとり早いことに、それは、金融市場にある。そこで、かつてビル・クリントンの選挙運動を指揮したジェームズ・カービルは、こう言った。

 

以前私は、もし生まれ変われたら、大統領かローマ教皇になりたいと思っていた。今は金融市場に生まれ変わりたいと思う。なぜなら、誰をも脅かすことができるのだから。*16

 

まったく、ジョージ・ソロスのような奴である。しかしソロスには、いささか正義心や理念というものもあって、例の悪名高いポンド売りにしても、英国財務省のメンツはつぶれたが、英国経済は立ち直った(もっとも、これは結果論であった)。この場合の「立ち直る」というのは、物価上昇や失業率の改善、経済成長ということをいうわけだが、アベノミクスと同じで、つまりは通貨安の結果にすぎない。結果、英国が欧州為替相場カニズムからの脱退を余儀なくされ、同国が英国病を脱するきっかけになったというのは皮肉なことであるけれど、要するに、これはカネと仕事が増えただけのことである。一方のリエターは、当の欧州通貨単位(ECU)の設計者であったから、暴力化する金融市場をナンとかせんと、「不可欠な不足」*17が永続的に作り出されてしまうと警鐘を鳴らしていた。当然、終わりなき経済成長を要求する現行のマネーシステムからすると、欧州為替相場カニズムなんてのは、不況を永続化させるだけのシステムということになるのかもしれない。〈国際金融のトリレンマ〉によって、EU圏の失業率は依然、高い水準にとどまりつづけている。このあたりは、カネと仕事をどうとらえるかという問題にもかかっており、なかなか哲学的だ。ただ、一概にカネが悪いと言うつもりはない。カネがもらえるのはよいことと思いこむことで、われわれは今後も未知の労働に駆り立てられるわけだけれど、結果的にそれが世界をよりよい場所に作り替えることになるかも知れないからだ。目的がそれなら、最初から自由に任せないで、組織的かつ効率的にやれよとラッセルは言うであろう。カネでだまして労働させるのは、まわりくどいし、もうかるのも一部の奴らと決まり切っているからだ。もっとも、富裕層が一度にカネをぜんぶ吐き出しても、カネの利点が失われるだけで、物事は大して変わらないような気もする。カネは貧富の差がないところでは大して機能しないからだ。だったら、善い目的のために効果的にカネを使ってもらった方がてっとり早い気もするが、あまり期待できそうにない。かつて、ビル・ゲイツがそんなことに自信を示していたが、どうであろうか。

そしてもう一点、興味深いことがある。ソロスの念願とするポパー流の〈開かれた社会〉〔open society〕は、クリントン政権の目指すそれでもあったであろうけれど、〈国際金融のトリレンマ〉の応用ヴァージョンである〈世界経済の政治的トリレンマ〉という仮説が正しければ、グローバル化の進展と国家主権、民主主義の三極は両立しないということになるから、なかなか意味深である。どれか一つを放棄すれば他の二つが成り立つ。EUは国家主権を縮小して、グローバル化と民主主義をとった。他方、グローバル化を阻害するのは国家主権と民主主義だと言われているから、まわりまわってヒラリーがトランプに負けちまったのも、このあたりに要因があるのかもしれない。

 なお、本書は、労働倫理の時代的な移り変わりを社会学的に考察したものであって、今さらながらで恐縮であるが、労働時間短縮のための処方箋ではない。けれど興味深いことに、人々が労働というものをどのように捉えてきたのか、中にはおとろくべき記述もあって面白い。かつて他のアジア諸民族と同じように、わりあい勝手気ままにやっていた日本人は、アングロサクソンを見習って規律というものを重視して、工業化に邁進してきたのであるけれど、当のアングロサクソン労働者も、19世紀のはじめはずいぶんと気ままだったらしく、まったく江戸あたりにいる酒浸りのダメ職人のような体たらくであった。仕事なんてのは、せいぜいそんなものだったのである。その後、このダメな生活を守るための一揆が引き起こされ、死人まで出して鎮圧されるわけであるけれど、面白いことに、20世紀はじめの日本を見たラッセルは「日本ではアメリカほど労働争議が弾圧されていない」と言っている。いささか意外なことではある。

また、米国で社会保障制度を縮小した張本人としてクリントン政権が名指しで登場するけれど、こうしたことは先んじて英国で問題になったことどもであって、サッチャー以降、福祉国家モデルの縮小、ケインズ型の財政支出による完全雇用モデルの廃止というようなことが順次進展し、めぐりめぐって21世紀では日本における問題となった。ブレア政権でも、母子家庭における低所得の母親に対して就労を促進する支援策がとられたけれど、このことは、本書で扱われるクリントン政権の事例にも通じるものである。金がないなら、家庭で子育てをするよりも、外に出て働け、というわけである。そのためには保育所もバンバン作りまっせという話なのだけれど、要するにこれは、フルタイムで働かないと、ひとり親家庭の子どもは貧困に陥ってしまうし、金銭給付だけでものごとを解決しようとすると、福祉依存や差別といった社会的排除を助長してしまうからという考え方に出るものである。つまるところ、福祉国家モデルが英国の経済的競争力を低下させ、好き勝手に離婚しても社会保障で子どもを養えるとたかをくくった連中のモラル低下を招いている云々という批判などと相まって*18、国民はマネー稼ぎに全員参加、自立せよ、ということになったのである。もちろん、この考え方に問題なしとはしないけれど、いずれにしても、子どもを貧困のサイクルから守るということを最優先した結果、このような考え方に到達したもののようである。参考までに書いておく。

 縷々書いたけれど、20日から23日まで、わが国では3月の三連休ということで、これまで自粛自粛でウンザリさせられてきた人たちが鬱憤晴らしに動き出すような事態(いわゆる〈コロナ疲れ〉に〈コロナ慣れ〉)も見られた。これも致し方ない人のさがである。その前に出された専門家会議の自粛緩和のすすめを人々が拡大解釈したもののようであるけれど、コリャしゃあないなと、そのときは、政府も専門家も人々の反発を恐れてたしなめることはしなかった。2週間後にオーバーシュートなどということにならないことを祈るばかりである。けれど、コロナで死なずとも経済苦で死ぬという人も出るであろうから、私はためしに大いに浪費してみることにした。それが真にカネを必要としている人のところへ行きわたるかと言えば甚だ疑問であるけれど、経済という語は本来、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」の意味であるから、経済活動の本旨というのは、必要なものを必要なところへ届ける活動ということになるのであろう。これで物流が止まったら何をほざいてもどうしようもないけれど、カネがあるとかないとかいうことではなくて、必要なものを十分に行きわたらせることのできる社会的な能力をそなえるということが、本来、経済社会というもののあるべき姿であろう、と思うところもあるのである。という意味で、みなが本当に必要だと思うお店には、たとえそのサービスを利用しなくても、サービスを受けたような気になってお金を置いていったらどうであろうか。これはつまり、働かない人に対価を支払うということであるけれど、誰かが損をしても、別の誰かが便益を得るならば、そいつは経済学的にはトントンである。みんなでやれば、カネは回る。真の意味での無尽である。ちょっとひどい話ではあるけれど、ランズバーグはこんなことを言った。もし、無駄なシャワーがでないようにする特定の蛇口を使用するよう定めたシャワー用蛇口法案について、この法案が「利己的な個人が他人にコストを押しつけるのを禁じた法律」なのだと考えるなら、それは間違った経済学の餌食になることである。曰く「無駄なシャワーを使えば、水の価格上昇を通じて他の使用者に迷惑を及ぼすことは事実だが、他の使用者が受ける被害とちょうど同じ分だけ供給者を助けていることも事実」なのである*19。誰かが損をしても、ほかの誰かが得をするならば、便益の総計は同じである。しかし、金も払わずに過重な負担を出品者に強いる楽天の送料無料サービス化であるとか、反対に、これまでと同じ運賃はとるけれど、激増するネットショッピングの翌日配達サービスはお断りなどという事例はどう考えればよいのだろうか。「経済学に倫理はない」とランズバーグは言ったけれど、これ以上の労働や負担は、正直ご勘弁である。仕事がないならないで、それでよい。サービスの総量を減らして生活を成り立たせること、つまりは、働かない人にもお金を払うということは、案外、意味深な問いなのである。

 

所蔵館

市立長野図書館

 

関連項目

グレン・カールーザース「社会とつながる音楽家」
ジョン・H・ミュラー「音楽と教育――社会学的アプローチ」
バートランド・ラッセル『人生についての断章』

 

 

本文

 

p.13~17 怠け者を見ると、なぜか腹が立つ

1970年頃には、大半の人間は、両親に反抗するのは頭がからっぽではない証拠ぐらいには思っていたが、2001年の今では、息子が私との共同生活を望んだのは、30年前に私がやっきになって両親から逃れようとしたのと同じくらいありふれたことである。同居生活をしてすぐにジェネレーション・ギャップとよく似たものがあらわれてきたのは悔しながら事実であって、息子はスラッカー〔怠け者〕になってしまったのかとショックだった。私はあまりに怒りすぎており、息子の置かれている状況に思い至ることもできなかったが、このことが最大のおどろきだった。私自身、癇癪持ちの父親の激怒をかわしながら成人したので、子どもに即座に怒りをぶつけるようなことはしてこなかったが、息子が来る日も来る日もカウチに寝そべっている光景が、自分を怒り狂わせると知ってショックを受けた。この怒りはなぜ生まれるのか? 息子が時間を無駄にしているのがなんだというのだろうか? 私が大学に入る前までの期間だってすべて無駄だったと言えるし、事実、私の父親はそう主張していた。今や世間は変わったし、やり直しのチャンスはいくらでもある。そう自分に言い聞かせ続けても、どうして自分が怒っているのか、納得がいかなかった。息子が35歳で、ソファーの上に大の字になっているのならともかく、まだ18歳。怠慢さが誘発する感情のなかで、怒りはもっとも共通するものの一つだろう。

 

p.18~19 生活保護制度への怒り

スラッカーへの怒りとしては、ここ12年ほどのあいだに激化していった社会保障制度への怒りが挙げられる。その一部には、「生活保護制度の女王(ウェルフェア・クイーン)」への憤りがある。1995年、ミズーリ州上院議員ジョン・アッシュクロフトは、ヘリテージ財団での演説で、生活保護で暮らしている一家で娘が犠牲になった事件について触れた。娘が泣き叫ぶのにうんざりした母親が娘に満足な食事を与えなかったというもの。しかし、アッシュクロフトが怒ったのはそこではなくて、この女性がただ生活保護の小切手を増やすためだけに子どもを産んだことで、彼は母親の出産をそう捉えていた。こうした話は、社会福祉制度への異議を唱える扇動家たちが、ここ半世紀以上にわたって利用してきた古典的神話の一つ。ジョージ・フォレスによる「怠け者の生活保護受給者(ウェルフェア・ローファー)」攻撃や、扶養児童への経済支援プログラムは「乱れた性行為へのご褒美」だというレスター・マドックス、社会保障制度は子どもたちに「働かず、所得をもたず、読み書きを習わず、ぶらぶらして生活保護の小切手を待つこと」を教えたというニュート・キングリッチの主張なども同様。多くのメーリングリストやブログの投稿も、生活保護の不正受給を悩みの種にしている。その一例にこんなのがある。

 

(…)社会を支えているのは労働……つらい労働なのだ。だから、怠け者の生活保護受給者たちよ、掃き溜めから出て、仕事を持ちなさい。恨み辛みを言うのはやめ、君たちを養う税金のためにせっせと働いている私や他の人々を当てにするのもやめなさい。私のように、額に汗して自分自身の食い扶持を稼いだらどうだ。仕事をしろ! 私は真剣に怒っている!(19頁)

 

p.19~20 社会的労働のみが労働というクリントン政権

この種の怒りは、議会闘争へと流れ込み、1990年代には多数の「勤労福祉制度」や「賃金福祉制度」法案が提出され、そのなかでビル・クリントンは「1996年の福祉改革」と呼ばれる法案を導入、「社会福祉制度の終焉は誰もが知るとおりだ」と言った。同年に「個人責任・就労機会調停法」として成立。そもそもこの名称が問題の核心をついている。

 

(…)つまりアメリカでは、労働とはただの機会ではなく、私たち個人の責任であり、恐らく私たちの最も重要な道徳規範なのだ。一九七〇年代後半には、家庭で子育てをする女性を「働いていない」とほのめかそうものなら、人々は逆上しただろう。彼女の労働は支払われていないだけであり、家事はけっして終わることがない、とフェミニストと伝統主義者たちの見解はこの点で一致していた。ところが一九九〇年代に入ると、社会福祉論争が示唆するところはこれとは正反対になった。何人かの子供を養育しながら家にいる女性が、公的支援を受けているとすれば、彼女はずるい人間であり、スラッカーなのだ。彼女は家の外に出て働かなくてはならない。たとえそれがファースト・フードの接客であっても、自尊心を持ち、子供に正しい見本を示すために(これに反対する勢力は、同情や歴史的展望のなさや、社会保障制度の解体をめぐる無情な政治操作に対し、昔も今も憤っている。社会保障制度は一九三〇年代の悲惨な貧困状況を受けて発足し、一九六〇年代の貧困撲滅運動のなかで進展してきたものだ。ダニエル・パトリック・モイニハン上院議員は一九九六年の制定法について「南北戦争以降でもっとも残忍非道な法律である。この制定に関わった人間には、墓まで恥辱がついてまわるだろう」と述べている)。(20頁)

 

p.20~21 労働の価値というけれど、マックジョブはそれに反した労働なのでは?

職を持っていると証明できなければ、社会計画の「セーフティ・ネット」に近づくことも許されないという社会福祉の姿は、私たちの労働に対する信念がいかに矛盾したものかをはっきりと示している。私たちはすべての人間が働くようにと主張する――最近の研究が示すところによれば、勤労福祉制度は青少年の犯罪を増加させ、学校の成績を低下させるなど、家庭にとっては悪影響をもたらすというにもかかわらず。また私たちは、経済の底辺にいる人々の大半に与えられている職では、生活費も稼げないと知っているにもかかわらず。そして最低賃金の値上げに対しては、揺るがぬ抵抗が(政治の同じ方面から)あるにもかかわらず。ほとんどの人々、こういった法律の制定を推進した多くの人々ですら、安月給の仕事はする価値のないもの、自己実現やモラル育成の手段としては程遠いものだと感づいている。(20~21頁)

 

スラッカー的人物の代表であるジェネレーションXの作家ダグラス・クーブランドは、このような仕事を「マックジョブ」と呼んだ。幸運にもこうした職に就かなくてもよい階級にいる人々にとって、それはキャリアの失敗を意味する記号の原型。「ご一緒にポテトはいかがですか?」と冗談を言って笑えるのは、バーガー・キングで働いていないときだけ。映画『アメリカン・ビューティ』(1999)でホワイトカラーの職を失った中流階級の男性がファーストフード店のドライブスルーで働く。主人公は「以前よりも幸せ」だというけれど、私たちには、それは映画監督の現代をとらえたジョークであると同時に、誇張された社会抗議や、敗北の告白でもあることがわかる。自動でポテトを上げる機械を見つめている仕事は、私たちが労働の価値について話すときに、労働という言葉が意味するものとはかけはなれているけれど、賃金保障制度の支持者たちや社会福祉への反対勢力は、こうした仕事を善い営みだと信じ込ませようとする。ただし、自分たちがやるのでなければ、という括弧づきで。

 

p.21 労働自体を愛しているというのは感覚的におかしい

「労働の価値」とはある意味、矛盾した言い回しである。遊びや余暇とは反対に、労働とはそれ自体が目的なのではなく、何かの手段としておこなわれる。バスケットボールをするのは私たちにとって遊びだが、NBAの選手ならばそれは仕事である。私たちは気晴らしに庭を耕すこともあるが、ロサンゼルスの農園労働移民にとってそれは仕事である。この等式の両者にとって、その活動は楽しみにもなれば、避けがたい苦痛や不満にもなる。だが、たとえ農園労働者やNBA選手がその仕事を愛していたとしても、必ずしも労働の側面を愛しているわけではない。どんな活動でもそれを手段として、つまり生計手段や義務としてとらえれば、その価値を高めも損ないもする(例えば「プロ芸術家」、「セックス・ワーカー」、「プロ学生といったレッテルの違いについて考えてみてほしい」)。だが、一七〇六年にジョン・ロックが言ったように「労働のための労働はその本質に反する」し、あるいは一世紀のちのジェレミーベンサムが言ったように「適正な感覚に鑑みれば、「労働への愛」とは矛盾した言葉である」。私たちは給与をもたらす活動を愛するだろうし、生活のためにバスケットをしなくてはいけない状況を幸運だと感じるかもしれないが、私たちが愛しているのはゲームや金銭であって、「労働」ではないのである。(21~22頁)

 

p.167~168 産業化以前の労働形態は残存していた

マルクスとラファルグが記述していたのは、前世紀に決定的な変貌を遂げた産業社会の仕事場についてである。今日のイメージでは、子供時代の早期に始まり、早すぎる死までつづく、過酷で、途切れることのない、殺人的な、煤まみれの労働という地獄絵図。当時の調査記録などに記述されているもの。しかし、産業化以前の労働の世界から、水力あるいは蒸気を動力とする工場の世界へという変容は、この世紀をとおしてゆるやかに、また中途半端に進んだため、様々な妥協や反発を引き起こし、労働者たちは工場側が押しつけようとする過度に管理された労働スケジュールを受けいれようとはしなかった。

 

(…)農業労働や職人的な仕事からなる産業化以前の世界は、歴史家E・P・トンプソンが言う「集中した労働と無為に過ごす時間とが交互に繰り返すこと」から構造化され、それは「人々が自分たちの労働生活の主導権を握っている場のどこにでもあった」。というのも、その理由は、輸送と市場の関係がまだ不規則だったことや、農業労働のもつ性質にある。農業労働は季節により変化し、雨に妨げられ、雨の予測に背中を押されと、制御不可能な自然のプロセスに左右された、長くしみついた文化的慣習の力が働きつづけたため、非連続な作業から工場での規則化された労働への移行は、けっして滑らかには進まなかった。労働者たちは、自分たちの労働生活の主導権をやすやすとは引き渡したりしなかったのだ。(167~168頁)

 

p.168~169 19世紀の労働者はかなり好き勝手だった

1887年、ニューヨークのある葉巻製造業者が、自分のところで働く労働者がシフト制をとれないことを『ニューヨーク・ヘラルド』紙上でぼやいていた。彼らはいつも、朝、作業場に降りてきて葉巻を2、3本つくると、それから酒場でトランプやゲームに興じていたという。気が向くと戻ってきて、さらに数本の葉巻をつくり、それからまた酒場へ行くので、結局、1日に2、3時間しか働いていないという。これはラファルグが法律で定めるべきと考えていた1日の労働時間とちょうど同じである。実際、ミルウォーキー州の葉巻職人たちは、1882年にストライキに入ったが、その目的は、いつでも工場長の許可なく工場を離れる権利を保持することだった。

 

ここからわかるように、葉巻職人たちはいかにもアメリカらしい製造業労働者だった。彼らはフランクリンが推奨し、また産業経済が支援しつつ押しつけようとする、規律正しい労働習慣なるものを拒否した。十九世紀をとおして、産業家たちは労働者の怠惰と反抗とみなせるものを声高に訴えた。ある製造業者の主張によれば、「月曜日は」いつも「浮かれ騒ぎ」で締めくくるか、週末の深酒からの回復にあてられる。給料日の土曜は、ビールを積んだ荷馬車が工場を訪れ、それから三日間の浮かれ騒ぎの始まりだ。結果として四日の労働日も名目だけで、つねに飲酒をともなうものとなった。仕事中に「ちょっと一杯」で休息をとるのはよくあることで、労働者たちは作業場を自由に出たり入ったりした。一八四六年、あるイギリス出身の家具職人は、本国に宛てた手紙のなかで、アメリカ人の仕事仲間は好き勝手に「まるで暗黙の了解でもあるかのように……仕事をいっせいに中断する」のがしょっちゅうで、見習いたちはよく「ワイン、ブランデー、ビスケット、チーズ」を買いにやらされると述べている。食事や軽食、飲酒、または新聞を仲間に読み聞かせるときに、仕事が中断するのは日常茶飯事だった。仕事に来る時間も切り上げる時間もまちまちで、その一身上の理由もまた、まちまちだった。(168~169頁)

 

p.170~176 ラッダイト運動から1886年の敗北まで

まっ昼間からの飲酒休憩をやめさせようとする経営者側の試みは、決まってストライキや、暴動というかたちで抵抗を受けた。このような組織化されない自然発生的な作業停止は、一世紀が経過するうちに、組織化され、特定の工場や職種の労働者たちを団結させた。労働者たちは、彼らが産業主義の害悪とみなしたものに対して抵抗、その最も劇的な例が、ラッダイトによる「紡織機」すなわち動力織機の破壊。ラッダイトとは、新式の紡織機が自分たちをお払い箱にすると確信した1810年代の紡績工たちのことで、実際、それは真実だった。ラッダイトたちは夜中に徘徊して工場を襲撃、産業階級に恐怖の念を引き起こした。このような産業破壊活動はアメリカではそれほど顕著ではなかったが、労働者ストライキが広範囲に生じることになった。しかしながら、労働組合主義者たちが何をしたところで、最終的に労働者の生活が産業的な変容を遂げていくのは止められなかった。工業機械台数は増えたか、労働者数は伸びなくなった。加速しつづける生産ペースと、それにともなう疲労によって、労働者の死傷事故が一世紀にわたって増え続けた。ストライキ自体でも死者が出ることになり、合衆国の歴史には、血塗られた労働闘争が刻まれた。

そして、労働者は敗残者となった。十九世紀の雇用者たちは、ストライキアジテーションにもかかわらず、規律訓練によって労働習慣を作り上げ、それを規則化することに成功したのである。十九世紀初頭の工場労働者が享受した自由な勤務時間、気が向いたら好きな時にぶらぶら出歩き、ラム酒を一杯ひっかけるという自由な勤務時間は、もう二度と――ドットコム企業が娯楽室を盛んに設置した一九九〇年代においてさえ――労働者たちに戻ることはなかった。(173頁)

 

労働運動の主要な訴えは、一世紀を経るうちに、労働者たちが就業時間を自己管理することから、拘束時間そのものの削減へと移っていく。1日10時間、8時間、そして短命に終わったが6時間労働を求める運動に展開していく。1840年、ビューレン大統領は、連邦政府で働く者すべてに対し、1日10時間労働を命じたが、それはやがて8時間に短縮された。8時間労働運動は当初は成功したように見えた。グラント大統領は、時間短縮の制度化にともない、減給されてはならないと布告した。

 

しかし、この短縮も長くは続かなかった。一八七〇年代の工業不景気や、組合を持たない廉価な移民たちの労働力、そして雇用側からの絶えざる反発により、一八七〇年代の終わりまでに、ほとんどの職種が十時間労働に戻ることになった。そして一八八六年のメイデーに始まるシカゴのマコーミック・ハーヴェスター・マシーン社での八時間労働ストライキ、ここから時間短縮運動は新局面を迎えた。二日後の五月三日、アメリカでもっとも有名な労働争議のひとつである死亡事故が起きる。サウスサイドにあるマコーミックの芝刈り機工場で、ストライキ阻止の実力行使の最中に、二名の労働者が警官隊により殺されたのだ。その翌日には有名なヘイマーケット事件が起きる。これは当初、前日の警官隊の暴挙に対する平和的な抗議運動であった。だが、おそらく警官隊、あるいは労働者が鉄パイプ爆弾を爆破させ、七名の警官が死亡し、警官隊が群衆に発砲したため、四名のデモ参加者が死亡した。八名の労働組合委員が無政府主義者であるとして裁判にかけられ、証拠不十分のまま七名が有罪判決を受け、四名が絞首刑に処せられた。この後、世論は混乱し、過激な労働闘争から脱落する労働者も増え、約半世紀にわたって、八時間労働の適用は下火になった。連邦政府によって、(ほとんど)すべての労働者に対して八時間労働が正式に適用されたのは、ようやく一九三八年になってからのことだった。(175~176頁)

 

p.176 失業率を下げるための短時間労働

労働時間短縮の根本的理由は、つねに労働者の余暇を楽しむ権利に基づいていたが、次第に失業率に歯止めをかけるという主張もその理由のうちに含まれるようになる。例えば、一九三〇年代にジョン・メイナード・ケインズは、不況期には雇用機会を最大限にするため、ひとりあたりの労働を三時間にすることを主張している。一九三〇年、ミシガン州バトルクリークのケロッグ工場では、より多くの人々に働き口を与えるため、八時間ずつの三交代シフトから六時間ずつの四交代シフトに切り替え、これは一九四〇年代の戦需景気までつづけられた。戦争が終わると、六時間制を維持した労働者もいたが、徐々に様々な部門の労働者たちが、ときに圧力を受けながら、八時間労働制に戻りたいという意志を表明するようになる。一九八五年には、ケロッグ社のなかで最後まで六時間労働で踏ん張っていた労働者たちも、あめとむちと圧力を与えられ、八時間労働に切り替えた。(176頁)

 

p.176~177 三時間労働の要求

歴史家のベンジャミン・ハニカットによれば、大恐慌前の100年間において、労働争議の中心には、労働時間を延長したい雇用主の欲望と、自由な時間への労働者たちの欲望が拮抗していたといい、労働者たちはほぼ一様に、「自由な時間」の増加を、可能なもの、望ましいもの、経済成長の自然な帰結と見なしていた。1933年、世界産業労働組合のラルフ・チャップリンゼネストを呼びかけ、いかなる労働者も、日に2時間45分ないし3時間の苦役につくべきではないと主張した。チャップリンの第一の目標は、労働者の搾取を阻止し、資本家階級を餓死させることだったが、結果的に労働時間短縮の要求という付加価値がついた。余暇を欲したのは労働者だけではなく、ジョン・ステュアート・ミルら多くの経済学者も同じ目標を有していて、継続的な生産性を得るためには、ゆくゆくは労働者ひとりあたりの労働時間を減少させていかなければならないと論じた。ミルが期待したのは、その結果、労働者が「心身に対する充分な余暇をもち、自由に生活の恩恵を享受する」ことだった。ここではキケロのいう「余暇(オティウム)」が誰もが手に入れることのできる民主的なものにされている。

 

p.177~179 三時間労働の世界

トマス・モアの『ユートピア』(1516)は6時間労働、ウィリアム・ディーン・ハウエルズの『アルトゥリアからの旅人』(1894)などは3時間労働を打ち出していた。

 

ポール・ラファルグや世界産業労働組合と同じように、ハウエルズも、平等とは社会の全域に仕事の負荷を均等にすることであり、そうすればひとりあたりの労働時間を一日平均三時間に削減できるはずだと考えていた。一日の労働が十二時間であれ、十時間や八時間であれ、それは労働者の暮らしではなく、働かない有閑階級の人々の暮らしを支えるために必要なものにすぎない。ハウエルズ、ベラミー、ジェロームユートピアのなかで、怠ける権利とは、勤労の義務と同様に、社会全体で分かち合われているだろう。なにしろユートピアは三時間労働の国だ。万人のためのスラッカーの王国とは、近代化の果てにある、甘い果実であるだろう。(178~179頁)

 

p.179 大恐慌の影響で無職は罪悪視されるようになる

ところが20世紀になると、勃興する消費主義と大恐慌の影響とで、労働時間短縮のアジテーションはかき消され、ハニカットによれば、ケロッグの労働者たちは長時間労働に戻ることを決めたが、そこには複雑な理由があり、そのすべてが経済的な私欲と結ばれていたわけではなかった。労働にイデオロギー的な価値が失われた社会において、労働者がその特権に対する喪失感を抱いたことが原因であるとハニカットは言う。

 

そしてこの情感ゆえに、ケロッグ社の男性労働者たちのあいだでは、増えつつあった余暇が「女々しい男」や「若い娘」のためのものと見られたのだと。さらに大恐慌によって、人々はあらゆる形態の無職を、ひとしく経済発展の成果と考えるのではなく、一週間に四十時間、あるいはそれ以上の「フルタイム労働」こそ、経済成長の真の原動力であり、そして経済成長こそ究極の目標であると考え始めた。ケロッグの計画の失敗は、こうした世論や要求が、労働時間の短縮に打ち勝ちはじめたあらわれであり、ハニカットはこれを文化の悲劇とみなして、ラファルグとさほど変わらぬ労働観を提示するにいたる。(179頁)

 

p.179~180 短時間労働の言説は敗北を喫した

ハニカットは言う。

 

産業化という病に対する伝統的な労働者階級の治療法であった「労働時間の革新的な短縮」は、もはや言論のうえではほぼ負けを喫している。いまや事実上、労働の支配は問題にされず、ほぼ難航〔ママ〕不落のものとなっている。こうして仕事とは、世俗の宗教や、将来有望な人間のアイデンティティ、救済、目的や方向性、共同体、そして人生の混沌から意味をもたらす「勤勉」の価値を、単純にかつ心の底から信じる人々にとっての手段となる。仕事が生活の中心となることにいまなお懐疑的な少数派は異端者の烙印を押される。そして「娯楽」や科学技術のおもちゃのない、労働と消費以外の時間とは、誰も足を踏み入れたことのない、新たな荒野なのである。(179~180頁)*20

 

p.469~172 新宿ゴールデン街でフリーターについて尋ねてみた

東京の新宿ゴールデン街は、数十年のあいだ日本のスラッカーたちの聖地だった。1960年代までには、賃料の安さから、娼婦や、芸術家、知識人、この辺りの商売に携わる主流を逸れた人々といった雑多な住民を惹きつけ、東京の社会的・政治的・芸術的ラディカリズムの中心になった。それゆえ、日本のスラッカーの中心地にもなっていた。西へ数ブロック行くと、新宿特融の超現代的ショッピングネオンが、ほとんど労働倫理への献身を叫んでいるかのようにきらびやかな祭典を繰り広げている。それとは対照的に、ゴールデン街は、昼はほとんど古風な趣きに、そして夜にはわずかに威嚇的に見える。ガイドブックは、常連や近隣の住民たちのバーであり、西洋人はそう歓迎されるわけではないと警告している。私は「オレンジ」というバーに入って、そこでバーテンダーをしている日本人の女優の卵に「フリーター」のことを尋ねた。日本の開放的なスラッカーのサブカルチャーの構成員で、多くは男性の若者たちのこと〔後述のJIL調査によれば六割が女性〕。フリーターとは、ドイツ語の「frei」と「arbeiter」、すなわち「フリー」と「働くこと」を縮めた言葉だといわれる。それは恐ろしい短縮で、アウシュビッツの入口には「Arbeit Macht Frei」〔働けば自由になれる〕と読める鉄の唐草模様への言及になっているからだ(言うまでもなく、1920年代にヒトラーが政権を獲得していくうえで、ドイツの無職の若者たちが重要な役割を担っていたし、もっと最近ではヨーロッパで頻発した、無職のスキンヘッドたちによる移民殴打事件もある)。フリーターは日本のジャーナリズムやアカデミックな記事で取り上げられ、その内容は、価値観や、社会的連帯、孝行心、義務の衰退を嘆くものだった。アメリカの場合と同じく、大衆文化や、裕福さによってフリーターが生まれたという意見で多くの記事が一致している。アメリカとくらべて親のしつけの悪さが引き合いに出される頻度は低く、経済的な不景気が言及されることのほうが多い。日本の多くの論説委員にとって、この問題は深刻なもので、そのひとりは、「若者の全体数は低下し続けているにもかかわらず、彼らがフルタイムで働くことを拒否することは、社会に悪影響を及ぼす」(472頁)と指摘し、多くの人は、フリーターをたんに「パラサイト」と呼ぶ。

 

p.472~473 フリーターの分類

バーテンダーの女性は、フリーターには3種類あるという。「ただ怠けている人」「引きこもり」(ここではパラサイトシングルのことで、その後、ヒキコモリとは、広場恐怖症になったことを表わすことの方が多いことがわかってきた)、三つ目が、「夢」を持っている人だという。「夢」はそれぞれだが、より多くの場合、芸術的な達成と関係があると彼女は思っていた。「君はフリーターか」と尋ねると、彼女は否定して、私は働いているし、両親とも住んでいないと言う。「でも、君には夢があるんでしょ?」と聞くと、うん、と言って、夢は映画女優になることだが、差し当たっては、自活するために一生懸命働かないと、と真剣に言った。彼女は自分をフリーターとは見なしていなかったが、経済学者の意見は違っていて、日本労働研究機構研究書(JIL)〔現在の独立行政法人労働政策研究・研修機構〕がまとめた報告書によれば、フリーターの定義は、パートタイム、あるいは本職ではない仕事(「アルバイト」)だけを最長5年間続ける18歳から35歳まで労働者となっている。その三分類は、正規雇用を得ようとして挫折して非雇用のままとなっている「やむをえず型」、直近の未来に展望がない「モラトリアム型」、そして芸能界などの専門職で働きたいという「夢追求型」。その3分の2は実家にいる。バーテンダーは、夢を持たない人を臆病者、怠け者、やる気のない人、やる気がなくかつ親からの援助もない人に分類していたが、JILは、三分類を横断して、親からの援助と、やる気があることを前提にしている。

 

p.473~474 フリーターはサラリーマン文化の脅威だ

フリーターたちの周囲を取りまく危機の感覚とは、経済的な現実に基づくものではない。平日四・九時間労働していることを考えればわかるとおり、フリーターたちは「路上で」暮らす結果にはいたらないし、彼らは社会を混乱させはしない——日本人の労働に対する価値観を除いては。文化的理想とされていた「サラリーマン」は、「灰色の服を着た男」のようなもの、善いことというより悪いことを象徴する人物へと推移していった。そしてフリーターは、ローファーやラウンジャーやスラッカーたちのように、一般に広く受け入れられている労働倫理の拒絶、サラリーマン的理想の拒絶としての役目を果たしているのだ。(473~474頁)

 

p.474 フリーターをやってみた感想

文部省〔現在の文部科学省〕は、1996年から98年のあいだに高校を卒業した者を対象に、より広範な調査を実施した。フリーターの27%は「本当にやりたいことがわからなかったため」、21%が「(正規の職に就く以外に)やりたいことがあり、自分たちの雇用形態を後悔していなかった」、16%が「(将来について)もっと真剣に考えていればよかった」、14%が「自由にやりたいことができ、正規の就職をしなくてよかったと思っている」。

 

p.474~475 フリーターたちはよく働いているのでは?

(…)結局のところ、フリーターたちもまた、アメリカのスラッカーに類似していることがわかる――つまり、彼らは怠け者のアイデンティティよりもそのポーズを多く有するという点において。こうした調査に登場するフリーターたちは、自分たちのライフワークが見つからなかったかもしれないが、ずいぶんとよく働いている。あるロックバンドでベーシストをするオガワヨシノリは、クリーニング店で働く。十時から六時までを週五日間、これは法定の週四十時間を少し下回る程度だ。一時雇用の形態は彼に合っている、というのも、彼は七年前に高等専門学校を卒業してから、いまも父親の扶養で健康保険に入っている。つまりは有給休暇もないから、結局は正社員と同じぐらいの時間を、それより安い給料で働くことになる。だが彼は、ミュージシャンの仕事やレコーディングのために時間をつくれる自由や、ミュージシャンとして以外には、職業的なプレッシャーや不安がないことを気に入っている。言い換えると、彼の労働からの自由とは、その多くが錯覚である。だがそれは、彼やその仲間たちにとっては、機会を選び取る感覚を形成するのに役立っている。と同時に、それが親たちや、労働関係機関に勤める公務員たちや、論説委員たちのあいだに文化的な危機感を形成しているのである。(474~475頁)

 

p.475 働くより怠けるほうがよい

人々が懸念することのひとつは、伝統的価値観の喪失である。一九七二年の学生を対象にした国際比較調査では、人生の目標に「働きがいのある仕事」をと答えた学生の割合は、イギリスが十三パーセント、日本が二十八パーセントだったのに対し、アメリカとフランスではたったの九パーセントだった。また一九七五年の別の調査では、日本とアメリカで「怠けて時間を無駄にするよりも、働く方を選びますか?」と質問をしたところ、怠ける方を選んだアメリカの高校生・大学生は日本の三倍以上であり、日本の学生たちの九十パーセントは働くほうを選んだ。だがその後の調査が示すとおり、一九八〇年代の後半までには、こうした国ごとの差異はすでに消滅していた。(475頁)

 

p.475~477 勤労観が強固な社会でスラッカーの文化が活性化

怠け者の増加という危機が差し迫っていたのと同時に、「カロウシ(過労死)」が蔓延しているのではないかと考える者たちもいた。最初の例は1969年。1989年には川人博が率いる弁護士や医者たちのグループが過労死ホットラインを開設。心臓発作や脳卒中がほとんどだった。長谷川吉則博士によれば、犠牲者のほとんどが、時には週百時間におよぶ時間外労働に対して一切の報酬を受けていなかったこと、彼らは「侍のような誇り」から絶え間なく働きつづけたことを主張する。ところが、報道や文化的な論評の内容では、過労死の懸念よりフリーターへの懸念のほうがはるかに多かった。日本の根強い勤労主義は有名で、過労死の原因でもあれば、戦後復興の要因ともなった。忠節心や勤勉さ、協調性、忍耐強さなどは高く評価されたが、こうした背景を見れば、フリーターが、これほど影響力ある文化的造型になったのもなんら不思議ではない。どんな労働観もスラッカーを必要とし、産業的な労働のあるところどこにでも現れる。勤労観が強固なほど、スラッカーの文化は活気づく。日本は、西洋と同じく、その両方が突出している。

 

p.477~478 自分は怠けても他人が怠けるのはダメ

最近、ある家ぐるみのパーティーに出たとき、私は両親の世代の男性と雑談をした。華々しい職歴の人で、引退後は公務員の職を得て、楽で給料がよい、やるべきことは1時間半で終わる仕事だと断言した。週8時間程度の労働でフルタイムの給料をもらう。素晴らしい首尾の良さだと感じている。ところが、私がスラッカーの歴史を書いていると知ると、彼は辺りを見回して人に聞かれていないことを確認すると、言っちゃいけないことではあるけれど、スラッカーのことを書くなら、怠け者の黒人のことを書かなきゃならん、と言ってきた。

ああ、こうした態度のなんと永遠なることよ! 週七時間半の労働でフルタイムの給料を得ていると自慢した男が、いたって真面目に、他人の乏しい勤労意欲に文句を言うのである。彼の発言はいっぽうで完全に人種差別であるが、人種差別だけでは充分な説明にはならない。それは単純に労働倫理が機能するときの仕組みである。労働倫理の最も声高な擁護者が、そのもっとも無頓着な冒涜者となることは多い。社会学的調査には、労働倫理には人種ごとに固定観念があるという根拠となるようなものはまったく存在しない――ここ三十年にわたる二十一の主要な調査を概観しても、出世のためには懸命に働かなくてはならないという信念に、アフリカ系アメリカ人・ヨーロッパ系アメリカ人・アジア系アメリカ人のあいだで目立った違いはまったくない。(478頁)

 

p.478~480 労働倫理は現実を反映していない

最終的に、労働倫理は、現実とはほとんど関係がなく、ただ、私たちやほかの人々が日々をどう暮らしているかから生じる態度や感情で、誰が、誰をどんな瞬間に見ているのか、それ次第。私のコミューン暮らしの経験では、2人で仕事の半分を分担すると、私は3分の2を負担したように考えるようになるということがわかった。反対に、他人は私の3分の1しか仕事をしていないと思いこむようになる。自分自身が怠けているとき、何もしないで何かを得るという考えの周囲には、罪悪感や喜びが生じるいっぽう、他人が怠けているときには、笑いや嫉妬や怒りの感情が引き起こされる。私たちのほとんどがその両方の自己イメージを抱いている。ほかの人々は私たちよりも真面目に働いていると確信するのと同時に、自分はほかの人々よりも真面目に働いていると確信する傾向がある。スラッカーの歴史とは、働くことに対する嫌悪や、働くことから逃れる幻想の歴史(であるとともに、実際にそこから逃れた人々に向けた罵詈雑言の歴史)であるだけでなく、複雑に捻じれた認識の歴史である。

 

(…)ある男の税金を啜る「生活保護制度の女王(ウェルフェア・クイーン)」は、また別の誰かにとっては奮闘する母親である。ある男のスラッカーの息子は、やがてアーティストになるときに備えているところかもしれず、また別の息子は、クリス・デイヴィスの父が言ったようにただ単純に「使えないやつ」なのかもしれない。だがどちらの父親も、それを判断する最適な立場にいる人間ではないだろうし、どちらの父親もたいていはスラッカーではない。父親たちやほかの人々は、私たち皆に向かって鏡を掲げることがある。だがそのときスラッカーたちは、鏡に映る自分の姿を、うまく捉えることができないのである。(480頁)

 

p.479~480 休暇病もあらわれた

私たちは1日何時間もテレビを見ているスラッカー民族で、1950年以来、カウチポテト化した世界を生きていて、それ以前の1920年代にはラジオをめぐって同じ議論が交わされていた。18世紀に小説が人気を集めたときには、モラリストたちは、努力や奮闘という既存の美徳が、子供だましの絵空事の無為な消費によって追い払われてしまうのではないかと心配した。正反対の議論もあって、いわく、

 

(…)私たちはあまりに忙し過ぎるからスローダウンするべきだ、仕事にあまりにも多くの時間や心配や精力を注ぎすぎている、給料よりも週の労働時間が上がる方が早いなんて馬鹿げた忙しさは前代未聞だ、等々。いまの私たちはリラックスするべき時間にもジムで猛然とワークアウトをし、気晴らしのためのスポーツも達成や努力としてとらえ、けっしてスローダウンしないという人々もいる(私たちに認められた最小限の自由時間すら楽しめなくなっているかのように、ある研究者が「休暇病」――与えられた休暇時間に具合が悪くなる傾向――の増えつつあることを示している)。(479~480頁)

 

p.481~482 執筆のプレッシャー

また私にとって、本書の執筆に向かうのには非常な困難が伴ったことも告白しなくてはならない。資料調査はいつでも楽しい作業だったが、そのあとの執筆という難局に差しかかると、私はただぐすぐすしつづけた。それはあたかも、スラッカー主義には伝染性があり、私自身が重症で倒れたかのようだった。ためしに私の編集者に、エージェントに、妻に聞いてみるだけでいい。少なくとも最初のふたりは、私が死んでしまったのではないかと不安がり、妻のほうは、私が長引く植物状態にでもいるのだろうと見ていた。まったく進展のない状態が何ヶ月もつづき、代わりに時間が掛かるだけの無益な計画に取り組んだ。それもひとえに、いわゆる筆をとること、つまりキーボードに指を置くことから逃れるため、執筆を先送りしようとしてのことだ。

けれども、このときの私は、小説を書こうとしていた若い頃と違って、書いていない状態を楽しむことができず、得意がることもできず、ホイットマンが言ったような楽しいぶらつきへと魂を招くこともできなかった。私はただ、その役柄に何のユーモアも、何の楽しみも見いだすことができなかった。歳を取りすぎたんだろう、と思った。あるいは、幻想から醒め、現実的になりすぎてしまったのだろうと。(…)いずれにせよ、そのプレッシャーは、最終的に書くことを余儀なくされるか、完全に頭がおかしくなってしまうか、そのいずれかにいたるまで、日に日に重くのしかかっていた。(481~482頁)

*1:松尾匡『反緊縮三派の議論の整理』(学術コンファレンス 「長期停滞・低金利下の財政・金融政策: MMTは経済理論を救うか?」配布資料、2020年1月31日開催、主催/日本金融学会機関誌『金融経済研究』・ 慶応義塾大学経済学部・ 慶応義塾大学経済研究所)、1頁、2020年。

*2:松尾、同書、3~4頁。

*3:松尾、同書、6頁。

*4:ティーヴン・ランズバーグ『ランチタイムの経済学』佐和隆光監訳、吉田利子訳、ダイヤモンド社、1995年、181頁。

*5:ランズバーグ、同書、181~182頁。

*6:バートランド・ラッセル『ヒューマン・ソサエティ――倫理学から政治学へ』、勝部真長・長谷川鑛平訳、玉川大学出版部、1981年、56頁

*7:バートランド・ラッセル『人生についての断章』、ハリィ・ルージャ編、中野好之・太田喜一郎訳、みすず書房、1979年、22頁。

*8:ラッセル、同書、23頁。

*9:ラッセル、同書、71頁。

*10:『南山剳記』、2020年2月5日記事、web(https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/02/05/160334)。

*11:『南山剳記』、2020年2月7日記事、web(https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/02/07/211844)。

*12:『南山剳記』、2020年1月3日記事、web(https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/01/03/225056?_ga=2.203533648.1921663816.1578055817-1803839563.1481601444)。

*13:ベルナルド・リエター『マネー崩壊――新しいコミュニティ通貨の誕生』、小林一紀・福元初男訳、日本経済評論社、2000年、11頁。

*14:リエター、同書、26頁。

*15:リエター、同書、42頁。

*16:リエター、同書、10~11頁。

*17:リエター、同書、69頁。

*18:所道彦『ブレア政権の子育て支援策の展開と到達点』(国立社会保障・人口問題研究所『海外社会保障研究. 2007 (Autumn) (160)』所収)、88~89頁。

*19:ランズバーグ、前掲書、314頁。

*20:私註:出典はベンジャミン・ハニカット『ケロッグの6時間労働』(“Kellogg’s Six-Hour Day”, Philadelphia: Temple University Press, 1996.)であろう。なお、邦訳本の事項検索からハニカットの名前は欠落しているが、参考文献には同書が挙げられている。

マインドアサシンかほる 説法その1⑧(服部 洋介)

マインドアサシンかほる 説法その1(⑧)

服部洋介『マインドアサシンかほる』説法その1(気がふれ茶った会 編『気がふれ茶った会』第1号)、気がふれ茶った会、1995年

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【服部 洋介・撰】

 

解説

すでにご存じの通り、かれこれ25年前、18歳のときにものした、ちょっとアレな漫画。WHOが新型コロナウイルのパンデミックを宣言し、世情騒然のさなか、まことバカバカしくて恐縮だが、せいぜい笑って憂さ晴らししていただきたいと願うばかりである。

関連項目

マインドアサシンかほる 説法その1(①)
マインドアサシンかほる 説法その1(②)
マインドアサシンかほる 説法その1(③)
マインドアサシンかほる 説法その1(④)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑤)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑥)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑦)

 

前回までのあらすじ

稲荷教団の支配下に入っちまった日本。あわてて国外逃亡しようとした村川氏であったが、某Yに発見され、命の危機に。追い詰められた村川氏は、マインドアサシンとして立ち上がることを決意する。それはそうとして、某Yに半殺しにされたヤクザ・宮尾会は……。

 

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某Yに半殺しにされたはずの宮尾、案外気楽に養生していた

 

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そこへ訪ねてきた制服姿の男。ポストマンか?

 

じつはこの男、郵便局員ではなく、新鮮組なる組織で3番隊の隊長をしていたセイメイという者だということが明らかにされるのであるけれど、以下、わりとクドクドと宮尾とセイメイの益体もない過去のエピソードが語られるので、省略させていただきたい。要するに、宮尾ってのは新鮮組の局長だったという設定で、ナンとなくお察しの通り、ここでも執拗に『るろうに剣心』のパロディがくりひろげられてゐるのである。

 

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1995年当時の円相場がしのばれるエピソードである

 

漫画の中では、宮尾は自前の流派剣術を駆使して、牙突なんかをくりだしてみせるのであるけれど、『るろうに剣心』によれば、牙突ってのは、新撰組の3番隊長であった斎藤一の必殺技ということになっている。その斎藤、局長の近ドーが官軍に降ったのちは、会津様にしたがって戦い、のちに藤田五郎なんどと名乗って警視庁に入り、西南戦争を戦うのであるけれど、そういうわけで、セイメイも官憲の服装をしているのである。髪型まで斎トーのパロディである。

さて、そのセイメイ、じつはすでに某Yさんに降っており、手下として宮尾のタマをとりにきたことが判明、「悪即斬」とばかりに、問答無用の斬り合いということになった。

 

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結局、いつものように暴力で解決だ

 

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あっさり1コマで斬られた

 

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こういうところだけ北斗のケンシロウのパクリ

 

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何度も見てきたようなシーンである

 

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めでたくヤクザ稼業に復帰した宮尾

 

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そこにどこかでみた顔が駆け込んできた

 

ヤクザの事務所に駆け込んできた村川氏。どうやら、マインドアサシン作戦は不発に終わったらしい。なお、この「たちけてー」というのを、私の創案になるものと思いこんでいる人が多々おられるが、これはもちろん、水木しげる先生のパクリである。あしからず。

 

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村川氏を追撃してきた某Yと偶発遭遇だ

 

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期せずして某Yと再戦することになったヤクザ

 

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無節操に話の舞台が変わるのが、この漫画の特徴だ

 

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マルはインドで修行をしていたもののようである

 

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何に目覚めたというのか、マルよ

 

なにやら深遠な修行を続ける、マル。しかし、背後には、某Yに謀反を企ててブッとばされたアサシンのタケシの姿が……。次回!

 

マインドアサシンかほる 説法その1⑦(服部 洋介)

マインドアサシンかほる 説法その1(⑦)
服部洋介『マインドアサシンかほる』説法その1(気がふれ茶った会 編『気がふれ茶った会』第1号)、気がふれ茶った会、1995年

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

解説

すでにご存じの通り、かれこれ25年前、18歳のときにものした、ちょっとアレな漫画。理解のむずかしいところは都度、解説することとして、ひとまずお読みいただきたい。

 

関連項目

マインドアサシンかほる 説法その1(①)
マインドアサシンかほる 説法その1(②)
マインドアサシンかほる 説法その1(③)
マインドアサシンかほる 説法その1(④)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑤)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑥)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑧)

 

前回までのあらすじ

日本征服を企てる稲荷教団に対して反旗を翻したヤクザの宮尾会と、暗黒歌道のマルサン。ところが、アサシンのタケシとドイツ騎士団の矢野右京に秒殺され……。自分たちのあまりの強さに驚いたアサシンとドイツ騎士団、もしかして、稲荷教団に勝てるのではないかと思いこみ、謀反に及ぶのだったが……。

 

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謀反を決意する二人。

 

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まさに下克上である。

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案の定、瞬殺された。

 

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すべては夢だと自分に言い聞かせる、山田。

 

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某Yの天下である。

 

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ところで、村川氏はスーツケースを片手に道を急いでいた。

 

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しかし、すぐに某Yに発見されてしまった。

 

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死の宣告だ。

 

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ついに立ち向かう決心をした村川氏。

 

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村川氏、いよいよ反撃だ。

 

黒い手袋をはめただけでマインドアサシンになれるなら、わが日本国はマインドアサシンだらけになっていることであろう。なお、ネタ元はご存じの通り、かずはじめ先生の『MIND ASSASSIN』(主に『週刊少年ジャンプ』に掲載。集英社、1994年~1995年)である。私にパクられるほどの名作漫画ではあったけれど、巷間もっぱら、打ち切りにされちまったものと噂されている。