南山剳記

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藪雨女

前頭側頭自閉軒全集抄⑪
藪雨女[1]

藪雨女(『旭山玉繭洞妖怪図彙』より)

 

昔、長高てふ弓道班に、チャリにて流鏑馬しける女子二員ありけり。
介添ひきつれて矢道に乗り入れ、顧問大ひにうろたへぬ。
わけを聞くに
「妖怪・藪雨坊(ヤブサメンボー)の仕業なれば、身命惜しまずするなり」
とぞ答へける。
さても危なき女なるかなと人ぞ言ひける。


平成のはじめ頃のことであろうか、長高弓道班に、
「藪雨女(やぶさめ)」
という妖怪が出た、という。
よりによって、弓道場の矢道にケッタ[2]で乗り入れ、的を射ようとしたので、驚いた顧問から大目玉を食ったとの由である。もちろん、県弓連にでも知られたら一大事である。
さて、この藪雨女、一応、補助役として共犯の女子一名がついていたようだが、基本的には一人でケッタに乗り、それで弓を引いたというからトンでもねえ。曰く、
「一人でこいで矢を放ちます。命がけです。妖怪のせいですから、仕方ありません」[3]
だそうである。当時、明圓黌主先生もこれを見たりしが、
「反省しない女どもかな」
と、呆れた果てた由という。

一説に、女子生徒に取り憑いたこの妖怪は、
「藪雨坊」
といって、これが背中に取り憑くと。ケッタにまたがって矢を放ちたくなるという。按ずるに、「ズルビン」や「まゐ子」の同類であろう。このとき取り憑かれたのは玉繭先生だったというから、どうやら「弓教え」とは異類の妖怪のようである。

ところで、問題の弓道場、ヒョンなことから世間の注目を浴びることとなった。NHKでやっていたアニメ『ツルネ ―風舞高校弓道部―』に登場する弓道場のモデルになったのが、ここだというのである。もっとも、舞台となったのは現在の弓道場であって、妖怪が棲んでいた頃の古い弓道場は、今とはまったく別の、キャンパスの北西の隅にあった。今の弓道場は、平成5年(1993)に校舎が改築された際、図書館跡に建設されたものである。なお、図書館ができる前は奉安殿であった。

アニメのモデルになったという現在の弓道場(2020年撮影)

さて、妖怪が巣食うくらいであるから、弓道班の歴史は長い。旧制中学時代には「弓道部」といって、明治38年(1905)の創立である。当時は寄宿舎食堂の東に弓道場があったというが[4]、まだ校舎が西長野にあった頃の話だ。昭和15年(1940)に校舎が現在地に移転した後のことはよくわからない。生徒は校旗を先頭に四列縦隊をもって上野ヶ丘を出て金鵄ヶ台の新校舎に入城したとの次第である。
昭和16年(1942)には校友会が改組されて、
「報国団」
になった。名前の通り、尽忠報国のための組織である。そこに「鍛錬部」というのが置かれて、「弓道部」は「弓道班」となった。今でもクラブ活動のことを「班」というのは、ここに起源するのであろう。他県の人が驚くゆえんである。
さて、そうこうしているうちに敗戦となり、弓矢も記録も焼却処分に付され、さしもの妖怪も退散したものと思われたが、昭和35年(1960)、キャンパス北の空地に、不用となった下駄箱を並べて射場とし、砂を盛っただけの垜(あづち)をこしらえて、弓道場を再建したというのである[5]。さすがに気の毒だということになり、昭和42年(1967)にチャンとした弓道場が新設された。弓道班のOB会である「弦声会」が所有していた旧校長宅を道場に改築したという。旧制中学時代の地図と比較するに、私が在校していた頃の弓道場というのはこれであったと考えて間違いないようであるが、どうであろうか。
なお、当時の弓道場を作ったのは、なンと、玉繭先生の伯父の池田氏であったという話[6]がある。校史には生徒が土方をやったという話しか出てこないが、どういうことであろうか。ちなみにこの池田氏、甲冑の修復などを業とされていたが、案の定、コッチにも妖怪が出た。川中島あたりで死んぢまッた人のアレかも知れねえが、取り憑かれた人もいたという。

さて、歴史と伝統ある長高弓道班、藪雨女が出た頃の成績はどうであったかというと、平成2年(1990)の3月には、全国大会の決勝リーグに進出している。7月にはインターハイにも出ているから、なかなか強かった。私が在学していた平成6年(1994)にも近県大会で男女とも優勝しているから、存外立派である。[7]
しかし、県弓連が聞いたらまた怒られそうな件が、もう一つあった。どこで聞いたか定かな話ぢゃねえからアレだが、一応、書いておく。
じつは本校の文化祭には、
「ファイヤーストーム」
という、バンカラ時代から続く行事があって、要は、高々と木を組んで火をつけて騒ぐという、ただそれだけのものだが、なンと、その点火方式が弓道班の火矢だったというのである。もっとも、令和になっても、ここらの高校では弓道班が火矢をしていることが発覚、堂々とテレビ取材にも答えている。過去には消防署に届け出るのを忘れて大目玉という事件もあったようだが、してみると、このことは一応、黙認されているもののようである。
もっとも、これとは別に、本校には世に知られた
「ファイヤーストーム事件」
というのがあって、祭りを盛り上げようとした生徒が、火の粉を浴びで亡くなるという痛ましいこともあった。昭和56年(1981)のことである。[8]

じつは藪雨坊、こういうことが起こらないように、見守る妖怪なのかもしれない。だとすると、玉繭先生は自分の意志で流鏑馬をしたことになるが、今となっては真相は藪の中である。

                                  〈2023年5月26日〉

 

[1] 『旭山玉繭洞妖怪図彙』、2023年5月24日図。

[2] 愛知県を中心に、自転車のことを「ケッタ」という。仲由一郎氏の教示によると、長崎県の一部でも使われているとの由である。なお、和歌山県那智勝浦町で中学生をつかまえて「ケッタ」について問うたところ「知りません」との返答を得たと、『今橋日記』(『自閉軒日録』の一部なり)1998年5月1日条に見えたり。数時間後、三重県の某町で同じ質問をしたところ、この語が通じたことを記憶しているが、『日記』には見えず。

[3] 南澤玉繭メール(自閉軒宛、2023年5月25日付)に見えたり。「顧問はマジギレ、部長はオコ」との由である。女子らは「あんなことであんなに怒っちゃって」だそうである。

[4] 長野高校八十年史刊行会『長野高校八十年史』、長野高等学校同窓会、1980年、684頁。

[5] 長野高校八十年史刊行会、同書、831頁。

[6] 『自閉軒日録』、2023年3月24日条に「弓道班のことを聞く。葉子、流鏑馬で叱られるという。自転車で矢道に乗り入れて射るという。愉快。なお、旧校舎の弓道場は、葉子の伯父の池田氏が造ったものという。甲冑の修復などをする人であったらしく、詳しくは失念したが、例によって甲冑にナニか憑いていたとかいないとか、そんな話もあったやに思う」と見えたり。

[7] 長野高校同窓会百年史編集委員会『長野高校百年史』、長野高等学校同窓会、1999年、501~2頁。

[8] 長野高校同窓会百年史編集委員会、同書、504頁。