南山剳記

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弓教え

前頭側頭自閉軒全集抄⑩
弓教え

弓教え(『旭山玉繭洞妖怪図語彙』より)

武州に美女木てふ所あり。
鎌倉の右大将、奥州を攻め玉ひし時、ここに屯し玉ひけり。
夢に八幡大菩薩の立ち玉ひて、御告し玉ひけるとかや。
のち鶴岡八幡、領家なりしとき、飛射騎とて流鏑馬しけるとか云ふぞ。
ここに一つの霊ありて、木に登りて流鏑馬を見たりしが、
東下りせし官女のために横領せられて信濃国へと逐電しぬ。
已後は土民に弓を教へて暮らしぬ。
美女には憎みて教へざるとか云ふぞ。
この事、林大学頭の一書に見えたり。[1]

「弓教え」
という妖怪がいる。
その名の通り、人に弓を教える霊である。
『旭山玉繭洞妖怪図彙』によると、文治五年(1189)、奥州合戦の際に当地に入った源頼朝の夢枕に八幡神が現れてお告げをしたというので、一社を建てて、この地を鶴岡八幡宮に寄進した、という。この笹目八幡社に長い参道があって、そこで流鏑馬が行なわれたため、流鏑馬をあらわす
「飛射騎(びしゃき)」
が転じて、
「美女木」
になったと、ものの本に出ているようである。[2]
しかし、弓書を徴するに「飛射騎」なる語は管見にして見当たらず、当を得たものとも思えない。

それはともかくも、この〈弓教え〉、八幡サンの社叢に住んでいたものらしい。流鏑馬を観覧するのを楽しみながら暮らしていたようだ。そこへあるとき、都から官女の一団が流れてきて、スッカリ定着してしまった。〈弓教え〉は住みにくくなったのか、八幡サンとゆかりのある信州善光寺の辺へ逃げてしまったという。
この話は林大学頭(述斎)のまとめた『新編武蔵風土記稿』(1830)に出ているという。曰く、

美女木村はもと上笹目と云ひしが、後今の村名となりし謂れは、
古へ京師より故ありて美麗の官女数人、當所に来り居りしことあり、
其頃近村のもの當村をさして美女来とのみ呼しにより、
いつとなく村名の如くなり(…)。[3]

という。
つまり、美女が来たから、
「美女来」
という地名が起こったという説明である。
何とも言えない話で、当の述斎も、
「いとおぼつかなき説なれど暫く傳のままを記しおけり」
と、書いている。
この述斎、とにかく本を作るのが好きで、『佚存叢書(いっそんそうしょ)』(1809)なンてのは、本家中国でも高く評価されている。大陸で亡失した古典を集めた遺文集である。他にもいろいろなことを調べて後世に遺した。『徳川実紀』なンてのは有名だ。
ともあれ、都から高貴の女人が下向したというような話はチラホラあって、信州でいえば、京から官女が流されてきたという〈鬼女紅葉伝説〉の鬼無里とか、南朝宗良親王に仕えた女官が尼になって親王の菩提を弔ったという「尼堂(あまんど)」という地名が、岡谷の柴宮付近(東堀区)に残っている。近くには「御所」という地名もある。[4]

柴宮(東堀正八幡宮=長野県岡谷市長地柴宮)
宗良親王の御在所を仮に柴で葺いたので柴宮という。

柴宮の境内はすっかり御柱に占拠されている。さすが諏訪地方である。

ところで、流鏑馬にまつわる地名のことは別にあって、『新編武蔵風土記稿』には
「藪サメ」
という小名が紹介されている。

古ヘ村内八幡へ奉納の流鏑馬ありし所なり。
因て此唱あり。故に元は流鏑馬と書きしといへり。

この「八幡」が笹目八幡で、今の美女木八幡神社である。してみると、ヤブサメという地名に「飛射騎」という適当なアテ字をつけたこともあったのかもしれない。
なお、「八幡社」の項には頼朝の話も出ている。頼朝が奥州下向の際に云々とあって、先に見た話と同じものだ。古くは八月十五日の祭礼に流鏑馬の興行があったというが、今は廃せりと云う。
なお、述斎の本は頼朝のことを、
「右大将頼朝」
と書いているが、頼朝が右大将に任じられたのは奥州合戦の後で、それも十日かそこらで辞任している。だが、頼朝といえば「右大将」「右幕下」で、だいたい、「幕府」ってのも征夷大将軍ではなくて、もとは右大将の府だ。和田秀松博士は、幕府は近衛大将唐名だと書いている[5]。もっとも、語義に照らすと、征夷大将軍の府といったほうがふさわしい。『漢書』「李広伝」の註に、

晋灼曰く、将軍の職、征行に常のところ無し。所在に治を為す。故に幕府と言うなり云々。師古曰く、幕府は軍幕を以て義と為す。古字通じて単に用うるのみ。軍旅には常の居止なし。故に帳幕を以てこれを言う。

と、ある。当の和田博士が引いている。

さて、この〈弓教え〉、最終的には信州に住み着いた。俺も会ったことがある。いつ会ったのか調査してみたが、詳しくはわからない。なんせ日記があまりに膨大で、どこに何の記事が出ているか、検索をかけても見つけられねえ。2002年から数年間のどこかだと思う。
話はこうだ。
ある日、弓道場で弓を引いていると、後ろから誰かがやってきて、右肩を叩いてきやがった。右の肩根を沈めよという意味だろうと思って、そうした。
矢はチャンと離れて、的に正中した。誰か先生が叩いたんだろうと思って振り向くと、誰もいねえ。廊下にいた人に聞いても、知らないと言う。
按ずるに、〈弓教え〉の仕業であろう。じゃなきゃ、歴代弓士の霊か、弓の神サン[6]か何かだろう。ともあれ、神棚に一礼してお礼を言っておいた。
だが、この〈弓教え〉、官女に遺恨あるものと見え、美人には弓を教えない。一緒に弓を引いていた玉繭先生[7]が〈弓教え〉に会わなかったのには、そういう理由があったのである。
なお、絵を見ると、〈弓教え〉は射手の後ろから狙いを見ているが、上位者の矢乗りは、頼まれない限りは見ないのが礼儀[8]だ。気をつけな。

                                  〈2023年5月20日

 

[1] 『旭山玉繭洞妖怪図彙』、2023年5月20日図。

[2] 岩井茂『さいたま地名考』、さきたま出版会、1998年、46~47頁。

[3] 『新編武蔵風土記稿』巻之百十五、足立郡巻二十一、内務省地理局、1884年、22頁。

[4]岡谷市史』上巻、岡谷市、1973年、505頁。なお、鬼無里にも「内裏屋敷」の地名あり、楠氏など南朝遺臣の姓があることはいささか注目される。なお、近隣の飯綱町(旧・三水村)に芋川氏あり、楠木氏の裔とも云う。本姓・藤原氏、のち、楠公の曽孫・正秀を養子に迎えて再興したと云う。中村八束博士は芋川氏の流れで、武田氏滅亡後、天正壬午のときに上杉氏に従った親正の兄弟である正保の子孫と云う。なお、『甲斐国誌』には、大月に「御所」という地名があり、高貴な女性が悲嘆にくれて住んでいたという。按ずるに武田氏に滅ぼされた笠原清繁の妻を小山田氏が妾婦として置いた地ではないかと云う。

[5] 和田秀松『官職要解』(訂正増補)、明治書院、1910年、283頁。

[6] 『自閉軒日録』2005年10月20日条に、大久保秀雄範士の講話として、弓矢八幡大菩薩を云うと見えたり。

[7] たとえば、自閉軒と南澤玉繭は、2002年6月28日の射会で立を組んでいる。玉繭が大前であった。『日録』同日条に見えたり。

[8] 長野県弓道連盟指導部『弓道における一般的注意事項』(2002年)に「上位者の矢乗り(狙い)を見ることは遠慮する。依頼された場合は別である」とある。