南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

〈甲賀忍者〉の実像(藤田 和敏)

甲賀忍者〉の実像

藤田和敏『〈甲賀忍者〉の実像』、吉川弘文館、2012年

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

概要 

藤田和敏『〈甲賀忍者〉の実像』の抜き書き。甲賀のいわゆる忍士(士分としての忍者)の来歴と没落、維新における活動などについて述べた著作。当初は彼らは、帰農後も土豪として年貢を免れていたが、村方の地位が向上するにつれて次第に特権を奪われて窮乏、家康との由緒をたてに幕府に仕官を求める。このような由緒の申立てについては、武田浪人においても行なわれ、一定の効力があったとされる。一方、戊申戦役においては、京の事情に通じた者が主導して、甲賀古士は官軍につき、武士の身分を回復するために戦うが、戦費の自弁で没落の憂き目に遭う。このような事例は各地でまま見受けられるものなので、類例を脚注に記す。興味のない箇所は記録をとらずに読み飛ばしたので、必要に応じて原書に当たることをお勧めする。

 

〈甲賀忍者〉の実像 (歴史文化ライブラリー)
 

 

所蔵館 

県立長野図書館

 

目次

1 同名中……16

2 同名中の掟……17

3 甲賀郡中惣の解体……24

4 甲賀古士……30

5 甲賀古士の由緒……35

6 室町時代の由緒……45

7 島原天草一揆への従軍……48

8 武田浪人……56

9 他国の領主の家臣ということになっていた者……65

10 甲賀古士の没落……70

11 幕府から銀39枚が出る……78

12 『万川集海』……86

13 黒船来航以降……110

14 甲賀隊の北越出陣の行程、官軍につくが多くは士族になれず……126

15 忍者イメージの形成と完成……169

 

 

 p.16 同名中

甲賀郡の領主は、一族集団である同名中(どうみょうちゅう)を結成し、二重の苗字を名乗っていた。上野同名中の場合は、冨田・増田・塩津などとなっていたが、それぞれ「上野冨田」「上野増田」「上野塩津」などと名乗った。通常は、非結縁の他姓を同名中に組み込むときに「上野」を本の苗字の上に加えのだが、上野同名中の場合、何らかの理由で惣領も含めてすべての家が二重苗字になった。*1

 

p.17~21 同名中の掟

大原同名中の「定同名中与掟条々(さだめどうみょうちゅうくみおきてじょうじょう)」は永禄13年(1570)に作成。32か条の規定、規定内容を神仏に誓う「上巻起請文」、320名の名前を列挙した交名(名簿)がある。規定内容は「他所と同名で戦闘が起きたときは、ふだん仲が悪くても敵に寝返りをしてはならない」「他所と同名衆が先頭に及んだ場合は鐘が鳴ったら百姓、堂僧まで武器を持参して参陣、当所に住んでいる他所の被官のうち、主人が敵に与していない者が参陣しない時は詫びを入れさせる」「他所と戦闘になったら手近な城に相談して番を入れる。互いに怠慢を申してはならない」「地下中においては毒飼いをしてはならない。知っていたら上巻起請文で誓約した通り、仲が悪い間柄であっても、その主人に告げなくてはならない」「相談するときは多分に付き、少分によって分裂してはならない。紛糾したら籤で決めよ(多数決)」といったもの。惣庄(大原同名中支配領域)の百姓・堂僧まで動員する規定、散在する小城郭に番を入れること、毒蛇・サソリ・毒蜘蛛などの有毒動物を飼わないことなど。他の同名中にも毒飼い禁止があることから、わざわざ禁止しなければならないほど甲賀郡ではこのような特殊技能が発達していた。甲賀郡の同名中は構成員の対等関係で成り立ち、隣接する他の同名中と角逐し、結束して自らの利益を守っていたが、戦国末期にはさらに大きなレベルでの連合体が必要とされるようになる。

 

p.22~24 甲賀郡中惣

信長の台頭とともに甲賀の侍衆は郡を単位に甲賀郡中惣(こうかぐんちゅうそう)と呼ばれる。史料上の初見は元亀2年(1571)の「甲賀郡中惣起請文案」で、「奉行中」という役職者と「郡中掟」という規則が損する機構の整った組織だった。天正12年(1548)の史料では「先郡奉行中」として、大原・岩室・服部・望月・池田・鵜飼・一役・多喜・佐治・高峯・上野・隠岐の十二同名中が連署。これ以外の同名中も甲賀郡中惣に加わっていたとみられるが全体像は不明。その成立の契機は信長の軍事的圧力に対抗するためという説がある。六角氏との支配関係は強くなかったが、六角氏が敗れると甲賀郡の望月氏を頼っており、結びつきは強かった。そのため信長侵攻の脅威にさらされた。

 

p.24~27 甲賀郡中惣の解体

元亀元年(1570)、浅井長政の裏切りを再起の好機と見て六角承禎は伊賀国甲賀郡の侍衆などと蜂起するが、伊賀甲賀衆を含め780人を討ち取られて大敗。その後も抵抗するが失敗し、甲賀郡中惣は信長の支配下に入る。さらに天正13年(1585)、秀吉によって改易、理由は雑賀攻めで失態があり、20人が改易とあるが、実際は中村一氏水口岡山城主となって甲賀郡内の統治を開始したためで、20人以外の侍衆も領地を奪われた。これが「甲賀ゆれ」で、侍衆が浪人となり、領主であった地方有力寺社も没落、『矢川雑記』によると、秀吉が21家を改易して蟄居させられてからは、矢川寺の寺僧も退散、寺領も没収された。中村一氏増田長盛長束正家などが水口岡山で6万石を領したが、このときに岡山の城を作るのに堂塔の良材・古瓦・礎までもっていかれた、とある。

 

p.30~34 甲賀古士

同名中は江戸時代になると百姓になり、地元で本家筋を守ったが、たとえば宇田(うつた)村の山中家は、江戸時代も惣領家は一町(約100m)四方の家屋敷を維持、除地(じょち)(年貢免除地)となったいた。侍であった頃の特権の一部を維持していたが、江戸時代が始まって数十年が経過すると動揺、「江州甲賀古士共惣代」を名乗る芥川甚兵衛という者が寛文7年(1667)に幕府に仕官を求め、山中・芥川・池田・鵜飼・望月・服部など16姓76人が連名、芥川は酒井忠清ら幕閣に働きかけるが、仕官はならなかった。*2

 

p.35~44 甲賀古士の由緒

寛文7年の「乍恐以訴状言上仕候(おそれながらそじょうをもってごんじょうつかまつりそうろう)」によると、権現様に御奉公したきっかけは、三河で敵の鵜殿藤太郎を退治するにあたり、永禄5年(1562)年2月に、戸田三郎四郎殿と牧野伝蔵殿を使者として甲賀二十一家をお頼みになられたことである。甲賀者200人が三河国に乗り込み、2月16日に鵜殿の城へ夜襲、首を取り、子供2人を生け捕りにし、名のある家来200余人を焼き討ちにした。ついでに三河一向一揆の拠点を落としたので権現様は御感悦され、御杯を下賜され、「今後は甲賀二十一家の者を親しく思うので、おまえたちも徳川家を粗略にしてはならない」と言われた。以後、数度の御密通の御用(忍び働き)を命じられた。信長公の頃、滝川一益甲賀退治を願い出たが、権現様の取り成しで難を逃れた。さらに信長公より所領安堵の文書が下された。秀吉公のとき、小牧・長久手の戦いで権現様は榊原康政を使者として御密通を命じられたので、すぐに上巻起請文を差し上げてお請けした。そのことは程なく秀吉公の耳に入ったが、権現様への御遠慮から素知らぬ体を装っていたが、その後、雑賀攻めで無実の罪を着せられて本領を取り上げられ、他国へ流浪の身となった。関ヶ原では甲賀の山岡道阿弥が御忠節を示すのは今だと言ったので、甲賀者100人が伏見に急行、残りの者は関ヶ原での決戦に備えて山中に潜んで奇襲をかけようということになった。それが水口岡山の長束正家の耳に入り、甲賀郡中に召集がかかった。諸侍は村々に散在していたので、事前に連絡を取ることもできず、とりあえず集まったところ、秀頼卿が所領を返してくれるという。帳面に名前を書いて帰ろうとしたところ、上野中上だけが引き止められ待たされているうちに長束は村々で人質を取り、上野を水口の町端で磔にかけて諸侍を厳しく村人に監視させたので計略も無意味になってしまった。関ヶ原の後に人質は解放されたが、伏見の100人はほとんど討ち死に。権現様は「今回のことは長束のために本意を達することができなかったが、これは自分の馬先で忠節を働いたことと同じであると考えている」と仰せになり、とりあえず伏見で死んだ者の妻子のために御扶持4000石を下されて山岡に配分させた。大坂の陣では甲賀者の軍役は山岡が支配するように言われたとして、先に御扶持をいただいた者は、10人は騎馬、100人は鉄炮をもたせて足軽として従軍させるので、従軍を希望する残りの者は右の百人並みに自分で鉄炮をもち、足軽として従うようにと命じたところ、どの時代でも甲賀者はそんなみじめな軍役はつとめたことがないと反駁、結局、大坂の陣には従軍しなかった。島原天草一揆では松平信綱に従軍を希望すると、上意なく大勢は連れていかれぬから惣代10人を連れて行こうと言われた。関ヶ原の後、権現様は江戸に来いと言われたが、甲賀者は故郷を去るのは容易ではないとして、合戦でご上洛される時の軍役だけ従わせてほしいと言うと、故郷に執心するのは侍にとって出世の障りになるぞと権現様は笑われた。その後も上洛のたびにお振舞いをいただいていたが、いよいよ皆々が渇命に及び、子孫が絶え果てる状況、ご慈悲をもって訴願をかなえてほしいと信綱のところへ参上したという次第。*3

 

p.45~48 室町時代の由緒

正徳2年(1712)の作成とされる「甲賀古士之事」には、甲賀五十三家・甲賀二十一家の由緒について記されている。長享元年(1487)に六角政頼父子が足利義尚公に反逆、甲賀の城主らは義尚公の陣中に夜討ち、二十一騎の軍功が甚だしかったので、これにより甲賀在住の武家の名を二十一館とした。延徳元年(1489)2月20日に、近江の鈎(まがり)の里で義尚と六角の合戦、ここでも甲賀二十一家の夜討ち。義尚は敗走の時の手傷がもとで26歳で他界した。明応二年(1493)、足利義材公が出陣、六角高頼甲賀の城に籠もり、五十三家と連合。このうちで特に軍功が著しく、六角氏より感状をもらったのが二十一家といい、さらに内部集団の柏木三家・荘内五家・南山六家・北山九家にわかれていた。これは荘園を基盤とする地域集団であったらしい。

 

p.48~52 島原天草一揆への従軍

享保6年(1721)の「甲賀肥前切支丹一揆軍役由緒書案」という従軍記録によると、信綱は「味方の仕寄先(前線)から敵城の堀際までの距離、沼の深さ、堀の高さ、矢間の様子を探れ」などと命じた。夜、堀下に忍び寄ったところ、松明で警戒されたので、堀際の討死した味方の死骸に混じって潜伏、夜が明けて城中が鳴りを潜めた時分につぶさに調べて、後日の証拠のために出城の隅に印のための樫の杭を打ち、帰陣して報告。さらに「兵糧一俵を盗んでこい」といわれ、「そのような分捕りの御奉公は恐ろしい」と申し上げたが、信綱殿は「一粒でも奪ってきたなら御忠節で手柄にもなる」というので、兵糧13俵を盗み取った。比類ない手柄とされる。さらに「毎夜城中で何事か唱えているが、意味が知りたい。できれば聞き出してくるように」といわれて矢間に忍び寄って聞き届けてくる。「場内の様子が知りたい。生還できるのは十に二、三と思うが、できるか」と言われて潜入、望月が落とし穴にはまって「忍びよ、夜討ちよ」と騒動になり、半死半生で脱出。信綱は感心した。

 

p.56~57 武田浪人

甲賀古士のように幕府や領主に対して由緒を主張することで自らの権益を守ろうとした個人や集団が全国各地に出現。甲斐の武田浪人は、武田旧臣という由緒を語ることで幕府代官から苗字帯刀を許可された。武田氏が発給したとされる竜の朱印が押された印判状を所持していることが、他の村人とは異なる存在であるという根拠。彼らは東照大権現を崇拝しており、武田氏と家康の権威をワンセットにして利用していた。江戸時代に由緒を主張するときには、家康とのかかわりを論じるのが一般的で、幕藩領主も容易に否定できなかったのだろう。幕府は甲賀古士に相応の処遇を考えた。

 

p.65~66 他国の領主の家臣ということになっていた者

上野同名中の中には、甲賀に在存したまま岸和田藩の岡部家の家臣という体だった者もいて、「岡部美濃守家来」を名乗り、大名家臣ということで武士身分を称していたが、地元の領主からは百姓身分として認識されていたであろう者もいた。このような例は他になく、甲賀古士の独特の由緒がうかがえる。*4

 

p.70~74 甲賀古士の没落

油日大明神の祭礼の運営は江戸時代になっても上野同名中が行なっていたが、冨田・北野は社僧・神職とともに拝殿に座り、同名中と村役人が廻廊の桟敷に座った。ところが、氏子七カ村が「新規の儀」として廻廊に「村々御地頭方桟敷」を作って、各村の領主の席を設けようとした。ついては、同名中の桟敷を廻廊の床より低くせよというもので、序列を引き下げようとした。地域の一般農民の力が増してきたことが背景にある。商品経済の発展の中で酒屋などを営んだ古士の家もあった。

 

p.78~84 幕府から銀39枚が出る

古士惣代として上野(冨田)・大原が松平定信に歎願に行く。幕府の御家人として仕官した甲賀組同様に、甲賀に残ったものも有事の時には家伝秘事の封を解いて御奉公したいという。寺社奉行・松平輝和に困窮を訴えると、調べがあり、この頃では甲賀古士に諸役もかかるようになり、苗字帯刀以外に何の特権もない。家筋を保てるようにしてほしいということになり、これまで忍術を心がけてきたのは殊勝であるとして銀39枚が下された。上野はかつて800石を知行したが、分家も出し、親の頃に50石。質に出したり、年貢未納で差し出して、今や10石という。

 

p.86~93 『万川集海

寺社奉行に証拠書類として提出した忍書がこれ。延宝4年(1678)に甲賀の隣りの伊賀国湯船村の藤林保武が著した。伊賀・甲賀で忍術を伝えていた家々に所蔵されたもので、甲賀側では藤林を「甲賀郡隠士(いんし)」としている。巻八から十に「陽忍」として「遠入之事(とおいりのこと)」「近入事(ちかいりこと)」「目付事(めつけこと)」、十一~十五に「陰忍」として「城営忍(じょうえいしのび)」「家忍之事(かにんのこと)」「開戸之事(かいとのこと)」「忍夜討(しのびようち)」、十六から十七に「天時」として「遁甲日時之事」「天文之事」、十八~二十二に「忍器」として「登器」「水器」「開器」「火器」とある。巻一に忍者とはどういうものかという一節がある。要約すると、伊賀・甲賀の者どもは守護大名がいなかったので、それぞれが支配する土地に城を構えて意のままに振る舞い、政治も行なわれず、互いに他人の土地を奪うことを考え、朝暮れに合戦のことばかり業にして、武備に心を砕き、忍びを入れて城郭を焼き、誹謗して和を乱し、夜討ち、不意を突いて千変万化の謀計に心を配り、武士はいつも鞍を放さず、雑兵は常に足半(あしなか)(かかとのない草履)を太刀の鞘に差して、一日も心を休めなかった。いずれの武士も平生から忍びの手段を工夫し、陰忍を下忍どもに習わせていた、とある。が、『万川集海』はまともなことが書いてある本で、巻一の「正心篇」では、正心なくして謀計は成就せず、仁義忠信を守ることが説かれる。「忍びとて、道に背きし、偸(ぬすみ)せば、神や仏の、いかで守らん」などの三種の忍歌が付け加えられ、江戸時代的な観念が強調されている。正心を実践するには、酒・色・欲の三つを禁制、「刃の心と書ける字をもって名としたことには深意がある。この意味を悟らずしては、この道に入りがたいので忍と名づけた」と位置づける。陽術は「謀計の知恵をもってその姿をあらわしながら敵中に入る」ことで「もろもろの生業の芸、物まね等に至るまで手練れとすること」「諸国の地理・風俗等の模様を知るべきこと」。陰術は「人の目を忍び、姿隠れの術を以て忍び入ること」で、「月が出る前か沈んでから忍び入ること」「騒がしい時に忍びやすい」などと常識的。「天時」では孫子を引用。上手は吉凶方角に関わらず勝つが、これを無視してしまうと臆病者を勇まして進み、愚かなる者を使う方法が無くなると詭道を説く。江戸時代的な思想の産物で、江戸時代の教養を受けた古士たちに受け入れられたものだろう。ただ、常識離れしたことも一部にはあって、「陰忍篇」には「観音隠れのこと」という項目があり、「少しも動かず隠形(おんぎょう)の咒を唱え」ることで姿を隠せるとある。真言密教風の十文字の梵字で成り立っているが、意味は口伝。「忍器篇」には実用不可能な「取火形(とりびかた)」という火炎放射器*5

 

p.110~122 黒船来航以降

天明の飢饉以降、新たな有力者は時代の激動に対応して国学や剣術を身につけた。安政2年に「盟言連名書」を作成して、遠国・海防の御用であっても請ける旨を盟約し、背けば梵天・帝釈・四大天王・八幡大菩薩・熊野三所、当郡の油日大明神、日本六十余州の大小の神祇、殊に氏神神罰を蒙り、子孫に至るまで武運は尽き果て、来世は無間地獄に堕ちるであろうとして、神文血判。起請文の形で、花押の上に血判。桜田門外の変以降、京都政局の動きを古士たちが的確に把握していたのは、リーダーの宮島作治郎が京都で灯油業を開業していたから。「結義盟約之事」を取り決めて、「攘夷の御命令あらば報国の忠勤に励み、御用の事は祭祀にも他言無用」「忍術はそれぞれ巧拙あるので、隠さずに長者より教えて慈愛を加えよ」「他より遊説の者が来ても心を動かされて不覚の取り計らいのないように」などと約した。

 

p.126~165 甲賀隊の北越出陣の行程、官軍につくが多くは士族になれず

幕府軍が大坂を退去すると宮島作次郎は軍事総裁の仁和寺宮に従軍を願い出て「乍恐奉願上口上覚(おそれながらねがいあげたてまつるこうじょうおぼえ)」を提出、参謀に許可され、16名の仲間で在野の部隊「甲賀隊」を結成。京都・摂津間の探索方を命じられ、大坂市中に陣所を構えたので、混乱に付け込んだ土地問題についていくつかの事件が陣所に持ち込まれて対処を願い出られた。以後、先発隊は海路で北越へ、続いて本隊が陸路で関川まで転戦する。本隊の行程を記すと、8/14に京御室を出て、同日、大津、翌日に守山、8/16愛知川、8/17鳥居川、8/19関ヶ原、8/20加納、8/21伏見、8/22大久手、8/23中津川、8/24野尻(信濃)、8/25宮ノ越、8/26洗馬、8/27刈谷原、8/28麻績、8/29善光寺、8/30関山(越後)、9/1高田、9/2黒井、9/3柏崎、9/4与坂、9/5新潟、9/6~9/12新発田、9/13中条、9/18~9/27関川(出羽)。関川の戦いで薩摩藩兵から賞賛されるほどの活躍をしたが、明治2年7月に兵部省が設置され、仁和寺宮は兵部卿となり、甲賀隊も付属を命じられるが、困窮を理由に辞退する者が相次いだ。北越出陣の費用も多くは自弁だったので、仁和寺に残った宮島作治郎が担当していたが、兵器の調達を支援して大坂の蝋問屋から325両を借りた石岡・橋田という人物に対して返済がなく、両名は滋賀県に費用の払い下げを願い出ている。明治三年に隊は解散、仁和寺からの借金返済について宮島は仁和寺の用人宛に借金の年賦割りを願い出ている。明治9年になっても軍費償還のための融通講(互助会)が開かれるなど、出費は重くのしかかっていた。兵部省に仕官した13人以外は、隊の解散で平民への復籍処分となり、多くは士族になれなかった。*6

 

p.169~174 忍者イメージの形成と完成

以上が実像であるが、空想的な題材が好まれた江戸時代の読本では、奇抜な忍者が登場する。文化3年(1806)の『児来也(じらいや)説話』の巨大なヒキガエルに乗った児来也や、武田・上杉の関係を書いた嘉永4年(1851)の『烈戦功記』の飛加藤など。寛政九年(1792)から刊行された『絵本太閤記』に石川五右衛門と伊賀の百地三太夫の話があらわれる。五右衛門は伊賀の名張の山中で臨寛という異国の僧から忍術を学び、19歳の時、郷士百地三太夫の家で奉公するが、花山院殿の家に仕えていたというお式という名の百地の若い妻に心を寄せて言い寄って、不義の関係を結んだ、云々。これが明治元年(1868)成立の『石川五右衛門一代記』だと、百地は伊賀の浪人で武術と忍術をたしなみ、花山院大納言殿の屋敷に出入りしていたことになっている。そこで十種香(じしゅこう)(香木の種類を当てる遊戯)の際に御所から拝領した「芝船」という名香を紛失したと大納言が困っていたので、忍びの術で御側侍が盗んだことを突きとめた。大納言は喜び、ご褒美として式部という麗しい御側女中を与えた。石川文吾の孤児の境遇を憐れんで剣道と忍術を教えたことになっている。その後、立川文庫の『猿飛佐助』などが忍者イメージを決定づけ、猿飛は最も有名な甲賀忍者となった。

*1:所見諏訪における神氏もほとんど二重苗字の様相を呈していた。他姓の者もこれに加わったことはよく知られているが、同名中と比較した研究は知らない。

*2:参考)ここに挙げられた芥川氏のうち、島原の乱に従軍した者から芥川九郎左衛門義道なる者が松本藩・戸田氏に召し抱えられ、芥川流として続いた。神代に発するという藤原仲麻呂の伝書が敢國神社に蔵されており、それが楠木正成から芥川氏に伝えられたという『武門必要兵家枢機神秘忍術』の伝承もある。

*3:所見)江戸時代の天王寺垣外の非人集団は、聖徳太子から貧人司の役を仰せつかったという由緒を仕立てて、自分たちは非人ではなく、非人を管理する者だという意識を表現した。その当時、彼らにとって非人という呼称が一般的ではなく、彼らの管轄外にある往来非人や野非人を指す言葉に変質していたことがうかがわれる。近世に申し立てられた由緒には、こうした機能があるようだ。詳しくは、塚田孝『都市大坂と非人』(日本史リブレット40)(山川出版社、2001年)34、85頁などを参照。

*4:参考)在郷のまま扶持を受けていたらしい。同じように尾張藩に仕えていた体の者もいたようだ。木村奥之助のことだろう。

*5:所見)ここで『万川集海』(1674)は「江戸時代の観念を反映した常識的な書物」と評されているが、藤林の二代目・保道が藤堂家に仕官する際に、先行する伊賀者仲間の秘伝書『聚要備録』を改作して『万川集海』をまとめたとする説もあり、これを憤る伊賀者14人(姓名不詳)の覚え書きなるものも存するという(川上仁一『忍者の掟』、株式会社KADOKAWA、2016年、164頁)。いささか古い故実をとどめるようなところもあって、巻第六「将知之四 入れざる小謀の篇 上」の六に「傾城、白拍子等は云うに及ばず、下女はした女に至る迄、陣中へ入れるべからず」とある理由が興味深い。籠城の際も、身元が確かな女であっても入れてはならないとするが、なぜなら「軍士は陽気を以て本と為し、女は陰なるものなり」というのが理由で、そこでかつて諸葛孔明が陣中の兵気を見るに陰気に閉じこめられてたわんでいたので、陣中を探って隠し置かれていた女300人を見つけ出して斬ったという逸話が引かれている。陰気を嫌うことは、吉田兼倶倭国軍記』異本の「兵将陣訓要略抄」なる故実書に「大将軍門出陣ノ時、女人ニ後セヌ事也、可慎。軍障碍ハ女人ノ交ニ過タル禁忌ナシ」とあり、将兵とも三日潔斎して「妻、妾ニ合宿スヘカラス」と見える。また、第一次天正伊賀の乱において伊賀者が結んだとされる「雨乞山籠城掟書」の一条に、籠城の際に妻子を入れるべからずとある。

*6:参考)たとえば、伊那郡大草村に樽沢信之輔という者があって、維新で戦功をあげたが、函館で戦死した(下平加賀雄「大草出身の樽沢信之輔 明治維新の戦功者」(『伊那』408号(1962・5月号)所収、伊那郷土史学会、1962年、15~19頁))。兵部省より出るはずの賞賜が貰えずに、遺族は苦難に陥ったという。祖先は朝倉家の没落後に信州に流れて寺の遊客であったが、落ちぶれて土民となったとあり、これも士分を回復しようとする運動の一つであったと思われる。なお、尾張藩では維新のときに士族籍に入れると騙されて戊辰戦争に参加した勤皇博徒の集団が多々あった。これが自由民権運動に流れてゆく。