南山剳記

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トマス・アクィナス(人類の知的遺産20)(稲垣良典)

トマス・アクィナス
人類の知的遺産20

稲垣良典トマス・アクィナス』(人類の知的遺産20)、講談社、1979年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

本朝におけるトマス・アクィナス(1225頃~1274、スコラ哲学者)研究の第一人者・稲垣良典博士(1928~)のトマス研究書。稲垣博士には『トマス・アクィナス』(思想学説全書、勁草書房、1979年)と題する同名の書物もあるから、その点はいささか注意を要する。内容的にほとんど本書と変わらないけれど、念のため。

トマスというと、カトリックのドグマをつくりあげた神学者として、こんにちの日本では、ほとんどまともに論じられる機会のない「過去の人」として扱われることが多いように思われるけれど、そのことは、当の稲垣博士も実感されていたようである。博士曰く、

 

(…)こんにち、トマスはどのような角度から見ても、ポピュラーな思想家ではなりえないように思われる。かれの属する時代が「中世」であり、しかもかれは「スコラ学」の代表者であると知って、なおもかれに関心をもちつづける人がどれだけいるであろうか。そのうえ、かれは神学者で、修道士として一生を終えた、と聞いては、いよいよ近よりにくいとの感じが強まるにちがいない。トマスの書いたものを読むと、かれはまるで、読者がみんな、自分と同じように神学や哲学の専門知識をそなえている、と思いこんでいたかのようである。最近ではヴィトゲンシュタインがそうであったように、トマスはいわば「教師たちにとっての教師」であった、といえるであろう。このような思想家は、研究者にとっては尽きることのない刺激の源泉ではあっても、広い層の読者にたいして直接にうったえ、影響をおよぼす、といったことは期待できないように思われる。*1

 

そういったわけで、「今日なお、わが国では、中世を暗黒時代と呼んだり、西洋哲学史はヘレニズム時代からフランシス・ベーコンデカルトのあいだをとばしてもさしつかえないと考える人があとを絶たないようである」と博士は嘆かれているが、哲学の専門家であっても、トマスの妙にハッキリしたところ、法律家や裁判官のような姿勢が「哲学者っぽくない」と感じられるのか、中世哲学を人間探求の営みとして評価していたという西田幾多郎にしても、「実に明晰な、全体がよく調つた、大きな、美しい体系」としてトマスの哲学をたたえながらも、そこには、「何だか心の底から動かされると云ふ様には思われない。非常な深さとか高さと云ふものがない様である」*2という印象を抱いていたようであるし、京大でトマスを教えた山田晶博士でさえ、学生どもがトマスに反発してアカン、自分も最初は「トマスの著作から放射される、てばなしの明るさというべきもの」に不満があったと漏らしていたことを、稲垣博士は紹介しておられる*3

じっさいトマスは、偉大な法学者であったから、『法における目的』を書いたルドルフ・フォン・イェーリング(1818~1892、ドイツの法学者)は、「もし自分がトマスの法思想を知っていたなら、この書物の全体を書かなかっただろう」と評価したという話である*4。法がやたら深遠で哲学的であったら、それはそれで問題である。トマスにしてもさんざん考えた挙句に、諸命題に解答を与えたものと思われるけれど、原則としては「人による支配」にたいする「法の支配の優越性」を認めており、「人びとの裁定にはできるだけわずかのことをゆだねる」べきことを主張していたという*5。つまり、規則判断によることをよしとしたわけで、これはきわめて理性的なやり方であった。たとえば、人がバートランド・ラッセル(1872~1970、イギリスの論理学者)の書いたものを読んで、イマイチ物足りないというか、なんでもかんでも理性で済ませようとする態度に飽き足らないのも、じつは、トマスに対する感想とよく似たものがあるのではないかと、私などには思われるのである。しかしこの二人、口では理性といいながらも、前者は信仰、後者は感情というものを問題の核心ととらえており、それと理性との綜合を重んじたという点で、案外、似た者同士ではなかったかと思うのである。

もう一点、稲垣博士は、トマスにおける〈自然法〉は、グロチウスやプッフェンドルフなどの近代的自然法概念が超歴史的な不可変性をもつのに対し、歴史性や可変性を認めているとされることを強調しておられる*6。トマスは〈自然法〉を神の〈永遠法〉の分有と考えた。歴史の終局へと展開する神の御業に対応する形で、旧約聖書において〈旧法〉、新約聖書において〈新法〉という二つの〈神定法〉が与えられたように、人間理性においてアタリマエとされる自然合理的な法である自然法というものも、神的権威において改変されうるものと考えたもののようである。人間理性というものは神の理性を分有するものではあるけれど、しょせん不完全なものであるから、完全知のもとに行なわれる永久不変の〈永遠法〉の理念に到達することはできない。という意味では、人間理性の可能性は完全知へと向かって開かれているから、アタリマエという感じ方も、完全な真理に到達することはないにしても、何かより真実らしいものへと高まっていくというのも、一つの理屈であろう。これは憶測であるけれど、あるいはトマスは、歴史の発展段階に応じて、人間理性が神的理性を分有する度合というものも変化を蒙るという感じを抱いていたのではないであろうか。そうであれば、これは聖書的な歴史観と新プラトン哲学的な発想の副産物としてもたらされた見解といえようけれど、注目されてよい考え方といえるものである。

一方、近世から近代にかけて猛威を振るった西欧の理性絶対主義にあっては、理性というものは人類普遍に配分された能力(18世紀の終わりころから出てきた〈理性〉とはナンであり、〈悟性〉とはナンであるかというような、いま一つハッキリしない分類はここではさておくけれども)であるということを認めながらも、けっきょくのところ、普遍的であるということは、つまりは西欧的であるという結論に到達したものか、その時代の西欧においてアタリマエと考えられるところの近代精神にそぐわないものは、非精神的な奇態として退けられ、われわれ東洋人などは精神的に覚醒していない、とるにたらない連中として片付けられるに至ったのであった。しかし、自由や平等といった近代西欧の価値概念が理性的に見いだされるのであれば、それはいついかなる時代にも普遍的かつ自明に見いだされなくてはならないものであろうから、これを自然権と呼ぶのは疑問である。

人間の理性が何を対象とするものか、トマスとラッセルの区分は少し異なっている。ものごとをアタリマエと感じる、その感じ方というのは、人間の自然本性としての〈理性〉というよりは、ラッセルにしてみれば〈感情〉に属するものであった。たとえば、トマスの時代であれば同性愛は大っぴらにはご法度であった。それが反自然の悪徳に相当するものと考えられたことは、すでに『ルネサンス修道女物語』の剳記で書いた。一部にそれは、トマスの頃に猛威を振るったアルビ派異端に由来する生殖拒否の思想とむすびつけて考えられてきたから*7、護教的な目的からも、これを容認することはできなかったのかも知れない。そのことは、当時であれば理性の立場から反自然的であると判断されたのであろう。一方、ラッセルは、〈理性〉を目的を達するための合理的な手段を計算する能力と捉えて、目的の主体となる〈感情〉から分離して考えた。現代でいえば、同性婚に異性婚と同じような法的保護を認めるか否かという命題について、同性婚が従来の結婚・出産イデオロギーを脅かし、国家的生産力を衰退させるなどという、いわゆる〈生産性〉問題の圏内でこれを定量的に論じるものは、ラッセルの意味で、まぎれもなく理性的なことである。

しかし、異性愛と同じように同性愛というものが何ら責められるべきものではないという、この感じ方というものは、こんにち、理性的計算というよりは、〈感情〉にもとづくものと考えられるように思われる。「同性愛ってそもそもおかしいことなのか」「誰が誰を好きになって結婚しても、それはアタリマエのコトやんけ」というのが、自然に受け止められる時代や社会というものが現に到来した。ジェンダー観など、歴史的に可変なものは、すべてこの問題の範疇である。これら「アタリマエ」の感じ方というものに、法としての装いを与えたものが、〈自然法〉であるということになっているけれど、何を自然本性とし、何を反自然的な歪曲であるとするかの線引きがよくわからないことに加え、「そもそも反自然でナニがアカンのか」という考え方もできるであろうから、この論法は、こんにちあまり説得的なものではない。人間の孤立的側面を社会的側面と同様に重視したラッセルにとっても、特殊で個人的な〈感情〉を一方的に抑圧することにもつながりかねないものとして、危険なものと映ったにちがいない。

ところで、同性愛と同性婚は区別されるべき問題である、と考えなくてはならないように思われる。そもそも現状、単なる男女関係の一形態である婚姻などというものに、どうして法的な保護が与えられるのかといえば、その根底には、結婚制度によらなければ子どもを養育することもできないし、結果、労働力は枯渇して、社会維持が困難になるという、理性的な考え方が前提としてあるからなのであろう。結婚制度によらずに、これらのことが可能であるとするならば、むしろこのような制度は解体してもよいと思われるけれど、目的のために、より合理的な手段を講じることは、ラッセルによればまったく理性的なことなのである。このようにして社会や文化、生産技術が変化するにつれて、同性愛はもとより、同性婚に対する疑義もまったく解消されようけれど、ややもすると「同性婚にも立派な生産性がある。しっかり社会に貢献しているのに、生産性がないからアカンという議論はあたらない」という妙に理性的な反論を聞くと、「ン? 結局は生産性なのか?」という感じがしないわけでもない。生産性があれば結婚を認める、ということになれば、結婚が単なる生産のための手段であるか、あるいは生産に寄与する者にのみ結婚が許されるということは明らかなことのように思われるけれど、結婚する本人の感情というものはどうなるのであろうか? まして、人間には生まれながらにして社会に貢献すべしという善なる本性が備わっているなどという仮定が導入されるに至っては、結婚と生産性の不可分性はますます強固なものとなり、生産性に乏しいとされる人にとって、結婚のハードルはますます高いものとなるであろう。「結婚と恋愛は別」といわれるのは、そのためである。実態として、さほど好きでもない人と結婚する人が多いのも、そういう事情によるのであろうけれど、やむを得ないこととはいえ、あまり幸福なこととも思われない。もっとも、進化心理学の分野には、配偶者選好というのがわりとシビアに行われているということを数理的に示す研究もあるので、しょせん人間というのはそんなものなのかも知れないけれど、仮に自然本性がそのようなものであったとしても、すべての人がそのような形で結婚相手を探さなくてはいけない理由もまた、ないのであろう。

結婚というものが、社会に貢献することを目的としてするものなのかどうか、私には答えようがないけれど、そうした諸条件を取っ払ったところで無条件に許されるところのものが、もっともシンプルにアタリマエのことということになるのであろう。この先、AIの大活躍で労働自体というものが消滅したならば、個人の生産力がいかなる状態にあろうとも、同性・異性を問わず、好きな人と結婚するということについては、いかにしても留保されえないアタリマエのこととなるであろう。そう考えると、われわれが感情的に当然と考える人権上のあれこれも、それを担保するための生産技術の裏付けを必要としていると考えることもできる。ラッセルは、私たちがより大きな感情的な満足を得られるように、ぜひとも理性的手段を発達させることを説いている。トマスの頃には、「神がアカンと仰ってることはアカン」という大前提があったので、人間が「アタリマエ」と感ずるところのものがいかに可変的であるとはいっても、限度というものはあった。もちろん現代でも、経済的に破綻している人と結婚しようとすれば、周囲の猛反対にあうであろうし、養育能力のない親から子どもを取り上げるというのは、ときによって妥当な理性的方法ということになるのであろうけれど、一方で「お国が大変なことになってンのに、産めよ増やせよの人口増大政策にしたがわないとは非国民か」などという議論が、平時にほとんど効力をもたないところを見ると、あらゆることに条件をつけて合理性に徹するという、理性的な発想というものがもっとも先鋭化されるのは、有事非常のときということになるのかもしれない。そういう身も蓋もない現実的かつ経験的な感じが、人をしてトマス哲学への反発を誘発せしめる一因なのかもしれない。まったくもって、夢もロマンもない。

じっさい、トマスが生きた13世紀というのは、世俗の王権も教権も、学問をめぐる状況も非常に緊迫した時代であった。私がこの本を手にしたのは、かれこれ15年ほど前、20代も半ばのことで、当時の私は、トマスとは逆の立場にあった異端と呼ばれた神秘家たち、とりわけ、ドイツ神秘主義の学匠たちと影響しあい、しまいには異端の宣告を受けるに至ったベギン会の女性神秘家たちの事績を調べることに熱中していた。当時はほとんど邦訳された文献がなく、エッゲベルトの『ドイツ神秘主義』の中でいささか言及されているほか、竹下節子氏の著書のなかで取り上げられているくらいであったと記憶している。あとは平凡社の『中世思想原典集成』くらいであったけれど、これは県内の図書館には所蔵されない書物であった。私が興味をもったのは、そのような女性神秘家の代表的な一人であるマルガレート・ポレート(1250~1310)の思想である。ポレートの著作には、ドイツ神秘主義の偉大な師僧マイスター・エックハルト(1260頃~1328)までもが影響を受けていたとみられる節があるといわれている。のちにポレートは異端として捕らえられ、火刑台の露と消え、エックハルトは異端審問に喚ばれて教皇庁に出頭し、審問を受けることなくアヴィニョンで没した。ポレートとエックハルトは、一種の静寂主義(キエティスム)において共通点を有していて、神と人とが本質を一にするという考えをもっていたため、おのずから教会の権威を脅かすものとなったのであるが、当然のことながら、人がそのような内面的完全性に達したならば、いかなる教えにも指示される筋合いはないため、ポレートのような人は自由心霊派、無協会派などと呼ばれることになった。これはトマスとは対照的な態度であった。

どうもこのような考え方は当時の流行だったようで、わが国の末法思想や百王思想と同様、当時の西欧ではフィオーレのヨアキム(1135~1202)の『三位一体論』の影響を受けたヨアキム主義(のちの千年王国運動)というのが蔓延し、13世紀というのは、アンチ・キリストの出現、世俗権力と教権の消滅、楽園の到来へと移行する、世界史の第三段階にあたる時代であるという見方が、フランシスコ会聖霊派などによって流布され、北フランスあたりまで拡大していたようである。ヨアキム自身は異端を宣告されることはなかったものの、その没後に開かれた第4回ラテラノ公会議(1215年)で、ヨアキムの説は「最も悪しき教理」の一つに挙げられ、新プラトン色が濃厚であったベナのアマルリクス(?~1204-1207)の教説とともに断罪されている。トマスの師・ケルンのアルベルトゥス・マグヌス(1193?~1280)によると、この会議では、外的なものから離れて内なる霊にしたがうことを説いたシュトラスブルクのオルトリプが有罪宣告を受けたということであるから*8、聖書による個人の信仰ということを説いたプロテスタントのはしりのようなものであったのだろう。

さて、時代はやや下るが、異端審問官として名を馳せたグイのベルナルドゥス(ベルナール・ギー、1261/62~1331)という人物がいる。これはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』で有名になった人でもあるけれど、じつは、トマス・アクィナスの伝記を残した人として本書にも名前の挙がる人物である。苛烈な審問官というイメージで知られているけれど、本人はずいぶんと悩んで判決を下していたもののようである。弁護するわけではないけれど、もっと悪い奴もいた。聖女エリザベート(1207~1231)を虐待したことで知られるコンラート・フォン・マールブルク(1180/90~1233)と、その子分コンラート・ドルソーとヨハンという二人のならず者どもは、ドイツで異端狩りをくりひろげて恐れられ、貴族に狙いを定めて所領を召し上げていたが、しまいには恨みを買ってことごとく暗殺された。『エルフルト年代記』なる書物によると、ドルソーは「もし1人の異端が含まれているならば、無実の100人を焼こう」と公言していたとのことである。悪意の誇張かもしれないが、よほど憎まれていたのは確かなことのようである。

さて、グイのベルナルドゥスはトマスと同じドミニコ会の出で、そもそもドミニコ会そのものが、南仏に拡大したカタリ派異端を小理屈こねて論駁するために結成された修道会であったから、トマスの活躍した13世紀を通じて、ここから多くの異端審問官が任用されたのもいわれなきことではない。そのトマス自身、没後3年にして同じドミニコ会のロバート・キルワービー(カンタベリー大司教)から、その支持した30の命題が異端を宣せられている。その後、半世紀を経て断罪されたエックハルトもまた、ドミニコ会士であった。エックハルトは、ウィリアム・オッカム(1285~1347)とは異端仲間の同期だったらしく、審問に呼ばれたアヴィニョンで顔を合わせたもののようである。トマスの場合は、異教の哲学者であるアリストテレスの思想を大胆に取り入れ、人間理性を重んじる革新的な姿勢が危険視されたことが、断罪につながったのでのあるけれど、さすがにやりすぎだということになり、1279年のドミニコ会のパリ総会で、「トマスに対する無礼は許さん」という決議が下され、1323年、晴れて列聖されることとなった。一方、エックハルトの場合は、その新プラトン的な神秘神学が、いよいよスコラ哲学から逸脱してしまったのが問題であって、事態はよりいっそう深刻であった。ここまでくると、ほとんど東洋の宗教である。

ところで、先に少し書いたことであるけれど、トマスもエックハルトも、博学で知られたケルンのアルベルトゥス・マグヌスの弟子であった。パリ司教エティエンヌ・タンピエがトマス没後に異端宣告を下した際、アルベルトゥスは、教え子の弁護のためにパリへ赴いている。エックハルトのとき、アルベルトゥスはすでに没していたから、擁護のしようもなかったが、トマスが師と別の路線を歩んだのに対し、エックハルトと、その教説を継承したタウラー、ゾイゼといった人たちは、本書でも名指しでアルベルトゥス学派にくくられている。これは彼らが、アルベルトゥスの新プラトン的な方向性を深化させたことをいうのであろう。なお、アルベルトゥスは自然魔術としての錬金術を実践したことでも知られているけれど、トマスは自然学にはさほど関心を示さなかったようである。トマスとしては、神霊魔術の要素が入らないかぎりにおいて、錬金術キリスト教的なものにとどまると考えていたようだが、この錬金術的というか、新プラトン的・ヘルメス的な方向というのは、パラケルスス(1493~1541)の登場に至ってトンデモない宇宙観へと綜合され、ここから近代医化学が発展してくるわけである。ここまでくると、教会なんざクソ食らえみたいな輩がどんどんあらわれ(もっとも、パラケルスス自身は自分をルターのような異端者と一緒にしてくれるなと憤慨していたようであるが)、やがてヘルメス・カバラ的な物質神話、あるいは薔薇十字思想といったものすら脱して、近代科学が隆盛をみることとなる。

しかし、被造物を通じて神を探求しようというこの姿勢は、トマスの時代に大きく発展させられたものである。彼は、人間理性に固有の領域を経験的なものにかぎることによって、哲学的な諸学を、おのおの自律的なものとして位置づけることにつとめた。このア・ポステリオリな論証法は、被造物という〈結果〉から、神という〈原因〉を考察するものであったから、ともすれば物質を軽視するキリスト教の考え方とは衝突するものであった。ボナベントゥラはそのことを苦々しく思っていたらしい。すでに、シャルトル学派にくくられるコンシュのギヨーム(1080頃~1154)によるプラトン『ティマイオス逐語訳註釈』の剳記において述べたことであるけれど、12世紀ルネサンスにおいてプラトン流の自然学が学ばれるようになったことは、13世紀以降における理性的な諸学の自立を促す一つの前触れであったと考えられる。どうもトマスは直にプラトンの著作に接することはなかったらしく、プラトンプラトンでも、新プラトン主義の考え方を説明原理として採用するにとどまった。当時、自然そのものというのは、学の対象としては偶有的で、不確実なものであった。実験技術も発達していなかったこともあるのであろうが、いかに現前する可視的な物質といえども、その生成変化の原理となると、憶測でしか捉えようのないものであったから、トマスがもっとも確実な学として挙げるのは、やはり前代に引き続いて〈数学〉ということになった。今でいう形式科学こそが、われわれにとって、もっとも自明な学ということであって、自然科学も社会科学も、偶然に左右されやすい不確実なものと考えられていたのである。これは案外、現代の数学者にも通ずる考え方であろう。このような意味で、数学が最も〈学知的〉であると考えられたのは、12世紀の考え方と大きく隔たらないように思われるが、トマスはどちらかというと人文社会のことを経験的・実践的に考えることを好んだようで、論理学そのものの探究には向かわなかったもののようである。そのため、アリストテレス論理学の革新ということは、ラッセル・ホワイトヘッドの『数学原理』(1910~1913)を待たなくてはならなかった。いずれにしても、トマスは〈数学〉をもっとも確実な学と見なし、理性固有の能力からすると〈神学〉と社会学、自然学については不確実な要素が大きいと見ていたのであるが、本来的にもっとも確実なのは〈神学〉であり、〈神学〉における真理とは、神の目から見た完全情報下における知識を啓示という形で述べたものであるから、これより確実なものはないというのが本当のところであって、空間的にも時間的にも有限の存在者である人間には、このような真理を理性的に判断する能力がそもそも備わっておらず、理性がまともに取り扱えるものは、経験によって知られるものと、数学的思惟によって知られるものにかぎられるというのが、トマスが明らかにした哲学の限界なのである。

このようなトマスの説明によって、理性と信仰の棲み分けということが意識されるようになるのだけれど、トマス的綜合の段階では、いまだ理性は信仰によって自己超越的な仕方で、何かしら神の完全知にあずかることができると考えられていた。しかし、スコラ学の絶頂をすぎると、この考えは急速に変化して、やがてオッカムを経て、ルターの登場とともに、理性と信仰は完全な分離を遂げることになる。このことは本書で稲垣博士が要領よく説明されているから、そちらを読まれるがよろしかろう(本書24~26頁のあたりである)。いずれにしても、トマスの生きた13世紀というのは、アリストテレスや新プラトン主義の理論的スキームを、いかにしてキリスト教世界に適合させるか、その模索の最終局面にあって、学問的にも政治的にも、非常に緊迫した状況にあったことが知られるのである。正直、信仰と理性の性質の違いということを考えれば、二重真理説が出てくるのもあやしむには当たらないと思われるけれど、トマスとしてはそういうわけにもいかなかった。しかし、当のトマスも二重真理説をとったパリ大学神学部のラテン・アヴェロエス派ともども、その没後にパリ司教エティエンヌ・タンピエから異端説として宣告されるに至り、先にも書いたように師アルベルトゥス・マグヌスが奔走する羽目に陥ったのである。

しかし、二重真理とは言わないまでも、神のおっしゃることのなかは、理性的に考えてもどうしても理解できないことがらというものも含まれていて、「ナンダコリャ」と感じられるものもある。理由もわからないのに神の教えに従えといわれてもむずかしいから、一概に否定はしないにしても、ほとんどの現代人は適当に聞き流して済ませている。反対に、理性というのは近代に入ると合理的な一般規則の装いで市民社会を支配するようになるから、イエスが言ったような「働かない人にも働いた人にも同じように報酬をあげよう」などというよくわからん理屈は通用しなくなる。しかし、信仰の篤い人からすると「イエス様はなんと慈悲深いお方なのであろうか」と感動して、社会から落伍しようとしている人にも手を差し伸べるものであろう。特段の理由がないにもかかわらず、働くのが嫌で嫌で仕方がないという人も世の中に入るわけであるから、そういう人に労働を無理強いして平然としているのはいかがなものか、という考え方もあって悪いわけではない。マルタの妹のマリアのように、家事をすっぽかしてイエスの話ばかり聞いているご婦人もいたわけである。姉のマルタはブチ切れたが、イエスは、「マァマァ」とこれをなだめて、マリアをよしとされている。もちろん、信仰に薄いずる賢い輩がいて、無力な者を装って労働を拒絶するという事例も出てくるであろうから、そういう人間にはイエス様のありがたい教えをとことん説教してやらないといけない。ソリャ社会には迷惑がかかるだろうけれど、人間、それぞれの能力の範囲で仲良くやろうじゃないかという考え方があってもよい。もちろん、そういう寛大なことを言うかぎりは、自分がそれで損をこうむっても文句は言えない。なるほど、それは信仰として立派なものである。もちろん、イエスがこのような発言をした歴史的コンテクストについても一考する必要はあるであろう。たとえば、彼がすでに世の終わりが近いと考えていたのであれば、世俗の共同体生活を持続させる必要性は希薄であったであろうから、政治や経済といった活動について理性的に考える必要はなかったのかもしれない。どうも終末はまだ遠いということになれば、それまでは現実生活を維持する必要性も出てくるから、人間、自分の身をもちくずさないようにするということも考えなくてはならない。そう考えてみると、自由心霊派なども、いよいよ終末が近いと考えて、堕落した教会に背を向け、個人の霊的生活を重視したものと見ることができるのかもしれない。いずれにしても、そうした見方は神の完全知が前提となっており、そのような絶対的な知によって終末が予見されているのであれば、われわれはただちに俗世を離れても損をこうむることはないのであろうけれど、逆に理性が純粋であればあるほど、現前することのない事態について確実な判断を下そうなどということは憚られるのであるから、神の啓示にしても、株価の予測にしても、一種の信仰を働かせて受けいれるほかはない。完全知の欠如を前提に構築された理性社会のルールを出し抜いて、株価の操作などしようという者も出てくるから、人倫社会は手に負えない。このようなインサイダー取引は、理性的な規則においてはルール違反ということになるのだけれど、あたかも「未来のことはわからない」ということ、つまり「知らない」「情報が不完全である」ということが、理性社会における善のように見えてくるから不思議なものである。これはまったく逆説的なことである。

なるほど、そうであれば、トマスの言うように、人倫社会を扱う実践的な学にしても、理性にとってはまずまず不確実なものであるというのは、確かなことのようである。理性にとって確実な学は〈数学〉であるから、理性が確実な判断を下せる条件とは、問題を数量化して、数値の大小で効果を算定するということにほかならない。社会全体の効用効果を最大化させる経済政策をとることは、(効用の意味を明確にしたならばあるいは)純粋に理性的で合理的な判断にもとづく問題解決の手立てということになるのであろうけれど、それが本質上、善か悪かなどというのは、そもそも理性の取り扱う問題ではい(公共益が最大化することをもって善なる目的と見るのは、単に言葉の上での定義であって、神学的な本質ではない。もっとも、トマスもラッセルもこれを〈善〉と呼んで差支えないと考えたようではある)。理性が確実な判断を下せるのは、あくまで条件をかぎる場合にかぎられるので、たとえ一般規則に反し、社会全体の効用が低減することが予見され得ても、目の前で困窮している一人を救出することを是とするか非とするかについては、究極的には数学的な計算の埒外の意見によって決めざるを得まい。たとえば、ヤミ市でモノを買ってもよいかというような問題がこれに当たるのであろう。ヤミなんてのは食糧管理法違反であって、法律的には当然にアカンということになるから、山口判事のように法を守ってヤミ米を食べずに餓死する者も出てくる。ヤミ市が生活上不可欠のものということになれば、合法化すればよいではないかという実定法(〈人間的正〉jus humanumにもとづいて定められた人定法)上の解決が図られてもよいのかも知れないが、食糧管理法自体、もともとは国民に等しく食糧をいきわたらせるための法律であったから、何かがどこかでまちがって、期待する効果をあげられなかったもののようである。何とも悩ましい問題であるが、トマスは大胆な見解を示している。「ある人ひどが余分に所有しているものは、自然的正によって、貧しい人びとの扶助に用いるべきである」*9というのがその解答であるけれど、まずグラティアヌスの『法令集』に収録されたアンブロシウスの言葉が次のように引用される。

 

「あなたがひとりじめにしているのは飢えた人びとのパンである。あなたがしまいこんでいるのは、裸の人の衣服である。あなたが地中にうめている金はあわれな者の身代金であり解放料である。」*10

 

というわけで、ヤミ市どころか、余っている食糧をどんどん放出しろというのである。とはいっても、困窮する人の数は多く、すべての人が同じ財によって扶助されるのは不可能であるからして、困窮者のために自らの所有物を配分することは、所有者各人の判断に委ねられている、とトマスは考えた。しかし、問題はその先である。トマス曰く、

 

しかし、たとえば、ある人に危険が迫っていて、他に救済の方法はなく、その場にあるものによって当面の必要を充足しなければならないことが明白であるほど、緊急で明瞭な必要性があるばあいには、その人は他人の所有物をとって自分の必要性を充足してもさしつかえない――公然ととろうと、あるいはひそかにとろうと。また、このことは厳密にいえば、盗みあるいは強奪ではないのである。(『神学大全』第二-二部第六十六問題第七項「緊急な必要に迫られた盗みは許されるか」)*11

 

なんと、他にどうしようもなければ、カッパライをしても、正義と矛盾しないというのである。もちろん、カッパラわれた側が無一文ということになれば、今度は別の人からカッパラってくるほかないので、コリャつまり無尽講である。なるほど、これはキリストなら「マァマァ」で許してくれるような気はする。話は単純で、何とか食えるんだったら、食えない人にわけてあげなさいよ、ということなのだが、実力行使となると、やってることはほとんど鼠小僧である。金もちが泥棒をしたら罪になるが、食い詰めた人が泥棒をするのは罪にはならないという理屈は、現代人からすればアレな感じだが、そもそも、社会に食えない人がいること自体、〈自然的正〉〔jus naturale〕に反するというのが、トマス時代の考え方なのであって、これは生存権として、こんにちの法思想にも受け継がれてはいる。しかし、いかに緊急避難的にとはいえ、カッパライOKなどという大胆な表現をする法学者はいないであろうし、泥棒に押し入る前に自治体窓口に相談してくださいという話になるであろうから、山の中で遭難して食糧を奪い合うのならともかく、当時は単に生活保護の制度が整っていなかっただけのことと見ることもできる。もっとも、こんにちでは生活保護にしても世間様からは白い目で見られ、自立しろだのなんだのと責め立てられた挙句に立ち直れなくなる人も出るであろうから、またぞろカッパライの危険が出てこないともかぎらない。おそらく、今日の法思想にあっては、それでもカッパライはアカンということになるかと思われるが、トマスならどうしたであろうか。この種のカッパライが正義か悪かなどということを、何らかの信念なしに理性だけで判断するとなれば、規則判断で考える以外に方法はない。生活保護という制度がありながらも、窃盗などとは法をないがしろにすることはなはだしい、よって有罪、というわけである。その人がやむにやまれなかったのか、そうでなかったのかを判断することは、おそらく理性の範疇に属することがらではない。完全知によるのでなければ、憶測によるほかはないからである。そして、完全知は信仰の中にしか存在しないということになれば、答えは聖書のなかにある、ということになるであろう。すると、われわれのしていることというのは、いったい何なのであろうか、という疑問が生ずるのも、無理からぬことではある。

もし神学的真理というものが、神の立場から啓示された真理としての完全知であるならば、一見ムチャクチャに見える神の行為というものは、人間には不条理なものに見えたとしても、神からすれば最善を知り抜いたうえでの行ないということになるであろう。神は創造のはじめから終末までをすべて見通しているので、完全知というのはつまり、神の知と現に起こる事態が完全に一致するということを意味している。神の思惟はすなわち現実と同一で、人間はそれを時間的・空間的に追体験しているにすぎない。そうなると、いきおい、人間が何か努力してよいものになろうとか、そうした試み自体が無意味というか、僭越なものという考え方が出てきても不思議ではない。そこまでハッキリ言わなくとも、神がなさることについての問いに、この世で期待すべき答えは何もないと言ったライプニッツ(1646~1716)のような人もいた。彼は、「神はなぜ、他の存在可能な人びとをさしおいて、悪人ユダを作ったのか」という問いを立て、それに答えて曰く、

 

神はすでにその罪を予見していたにもかかわらず、ユダが存在することを善しと認めたのだから、この悪は宇宙において十二分に償われているにちがいない。神はその悪からより大きな善をひきだしてきて、結局この罪人の存在が含まれている事物(もの)の系列は、他のあらゆる可能なやり方のうちでもっとも完全なものとなっているにちがいないのである。*12

 

神のなさること(つまりは、現実に起こること)に「ソリャおかしいだろう」と文句を言ったところで、不完全情報のもとで何を述べても憶測でしかないことは明白である。そう考えると、スピノザのように、神は人間のことなどに関心をもたないとする考え方も出てくるであろう。人間のレベルではわからないような崇高な仕方で、神は御業を行われるのである。人間の感覚で幸せとか不幸せとか、そういうことを考えておられるのではないのである。かかる〈永遠の相〉からとらえられるものこそが、ヴィトゲンシュタインのいう「語りえないもの」としての善であり、美であり、倫理なのである。それはたしかに存在するのかもしれないが、経験的にとらえうるものではない。ゆえにそれは哲学の対象でも、科学の対象でもない。それらは、完全情報のもとにある神の立場からでしか語ることのできないものということになるのである。ヴィトゲンシュタインのもっとも有名な一節「語りえないものについて、人は沈黙しなければならない」は、このような理性と信仰をめぐる西欧の思想的変遷の一つの終着点というべきものであったのだ。しかしこれは、理性でわからんからといって、理性でわからんものが存在しないという意味ではないのであって、まして、理性でわからんものについて何ら考えなくてよいというのは早計である。ただ、これらのことに確定的な答えは存在しない、ということも一つの重要な帰結であるように思われる。その不確実で自明とは言えないことを、私たちはどのように受け止めるべきか。理性はそのことについて論証のすべをもたない、ということもトマスは指摘しているのである。

理性によらない思考というものが、こんにち許されるものか否か。なにも私たちは(神がおられるのか否か、運命は定められているのか否かに関心のある方は別として)古い時代の宗教倫理に立ち返る必要はないが、理性の及ばぬところのものについて、何らかの決断をしなくてはならない場面というものは往々にしてある。それは案外、身近なところにも転がっていて、たとえば「信玄と信長はどちらが上か」などという問いは、理性的な問いとは言えないものである。それに比べて、「信玄と信長、支配した領国の数はどちらが多かったのか」というような問いの立て方は、よほど理性的である。しかし、石高の多寡をもって、信玄と信長のいずれがすぐれているかという問いに答えたことにはならない。もしこれが本質的な答えであるとするならば、そもそも上のような問いは問われることすらなかったであろう。

そういえば、一昨年かそこらに『中学聖日記』という、同名漫画を原作とするテレビドラマがあって、その内容はといえば、ある男子中学生と女性教諭が恋に落ちて、大問題に発展するというものであった。法思想と世間体とを別にすれば、特段、ナンてこともない、有害でもナンでもないただの恋愛関係であったけれど、ナンも知らない母親と、嫉妬に狂った同級生の女子を中心に、周囲の者がよってたかって、二人の仲を引き裂こうとする、そういうストーリーである。さて、視聴者は完全情報を手にしているので、「何もそこまでしなくても、わりあいチャンとした二人なんだから、見守ってやればエエのに」と思いつつも、「まァ、世間的にはこういうことにもなるわナ」と規則判断を働かせてみたりもする。完全知で見てみればいうほどの問題もないのであるけれど、人間理性というのは完全ではないので、こういうケースでは生徒児童の福祉という名目で、十把一絡げにルールで線引きして、一種の恋愛禁止令のようなやり方で、無知でわきまえのない青少年を保護しようというか、管理しようとするわけである。もちろん、規則は理由あって定められるものであるから、まんざら理不尽なものでもない。しかし、近代に入り、いよいよ男性同性愛というものが法的に犯罪化されたときに適用された理屈も同じようなもので、年長の男性が年少の男性を支配する体で結ばれる性愛関係というものを、自由・平等の社会的規範に反するものとして取り締まろうとした結果、男性同性愛全般を禁圧してしまったのが、近代の市民社会というものであった(このことは、先に匠雅音『ゲイの誕生 同性愛者が歩んだ歴史』の剳記で書いたことであるから、参照されたい)。

理性というのは、普遍的・一般的にものを取り扱うことには向いているが、特殊で個別的なものを判断するのには不向きな面をもっている。そう考えると、真に完全なものとは、理性のとらえうるもののうちにはなく、ルールとは、つねに不完全なものであるということを是非ともわきまえておかなくてはならないように思われる。理性的にものを考えざるをえない以上、われわれはその不完全さを甘受しなくてはならないであろうし、むしろ私たちは、そのことに満足を見出しているようにすら見える。私たちはナンでもカンでも理性の一語で済まそうとしているが、じつは、「理性とは何か」ということをあまり考えず、なんだかよくわからん仕方でこの概念をくくってしまっているように見える。人として一見、立派な人を「理性的な人」などと呼ぶことがあるけれど、それは疑問である。じつは、そうした人の立派なパーソナリティの根底には、手段としての〈理性〉の前に、〈感情〉というものが目的として横たわっているからである。〈理性の狂信者〉といわれたラッセルでさえ、この区別を重要なものと考えた。その際、手本としたのは、近代の哲学者というよりは、むしろ中世の、つまりはトマスの考え方であったと思われる節がある。その『西洋哲学史』を読まれた稲垣博士は、ラッセルのトマス批判という面を問題視されていたけれど*13、それだけではなかったのである。そのうえで、ラッセルは、トマスの理性的なやり方を高く評価したのである。

私にとってトマスという人は大変に興味深い人物であって、もともとその学説というよりは、伝記自体が関心の的であったから、下記に抜き書きしたのも伝記部分がほとんどである。言いたいことは山ほどあるが、誰かの伝記について語りはじめると、ほとんどが余談めいたものになってしまうから、別のところで書こうと思う。とにかくいいキャラをしているので、現代に生まれていたら、さぞ面白い先生だったと想像するところである。世界史の教科書では「スコラ哲学を大成した」の一文で終わりだが、イタリア、ドイツ、フランスと西ヨーロッパ全土を股にかけ、その思想に革新を起こした稀代の学匠の人生は、その時代背景と合わせて、じつに劇的なものであって、興味の尽きないものである。ぜひ一読されたい。

 

関連項目

コンシュのギヨーム「プラトン・ティマイオス逐語註釈」

ジュディス・C・ブラウン『ルネサンス修道女物語~聖と性のミクストリア~』

匠雅音『ゲイの誕生 同性愛者が歩んだ歴史』

 

所蔵館

市立長野図書館

 

人類の知的遺産〈20〉トマス・アクィナス (1979年)

人類の知的遺産〈20〉トマス・アクィナス (1979年)

 

 

『人類の知的遺産 第20巻 月報第14号』(1979)

 

トマス・アクィナスの現実観について』
K・リーゼンフーバー(木名瀬美香訳)

 

p.2 経験から出発したトマス、ハイデガー的な存在論

トマスは一連の公理からアプリオリに体系を展開してはいない。むしろ、人間の認識は所与の現実を前提としており、従って感覚的経験に始まるとされている。この、経験から出発するという点で、人間の思惟は受容的であり、世界に対して開かれたものであることが表明されている。世界に対して開かれているということは、本質的に存在そのもの、従って究極的には無制約的存在へ開かれていることを意味している。すべての世界内的存在者は、自らの在り方によって、断片的にせよ純粋存在を現象せしめる。だから我々の認識は、先入見なしに直接すべての世界内的な現象を追求することができるのであって、しばしば中世のアウグスティヌス的伝統にみられるように、それを象徴的に解釈する必要はない。(2頁) 

 

p.3 アルベルトゥス・マグヌスほどには自然に関心がなかった

(…)トマスは、神の「似姿」(imago)である人間を特に自由かつ自律的に動くものとみている。人間の行為の意味はトマスにとって外的自然――それに対しては彼は師アルベルトゥス・マグヌスほどの関心をほとんど示していない――との関わりにあるのではない。人間の行為において重要なことは、むしろ幸福であり倫理的人格としての完成である。トマスの倫理学は、義務や当為の概念に基づくのではなく、むしろ人間の能動的な自己実現を論じるところから展開された、おそらくヨーロッパの伝統の中でも最も豊かな内容をもつものであろう。(3頁)

 

『トマスから学ぶこと』
山田 晶

 

p.3~4 異論からも学んだトマス

トマスから学ぶことは多々あるが、大事なのは彼の「学び方」を学ぶことだろう。その『討論集』では、ある命題についての多くの異論が提示され、またその反論も提示される。トマスはそれを整理して自説を展開、それらの論に対して自分の立場から解答を与える。しかし、それらの論が全面的に否定し去られることはほとんどない。それらの論はそれらの説とは異なるにしても、やはり何らかの理由を有しているので、それらの論がいかなる意味で妥当し、いかなる意味で妥当しないかを逐一ていねいに答えてゆく。『スンマ』でも同じで、かくてトマスの体系は、これらの異論をも呑みこんで海のようになる。しかし折衷論者ではなく、論旨には一本筋が通っている。

 

p.4~5 もしトマスが生きていたら

トマス以後、彼に反対するいろいろな学派があらわれた。しかしトマスが生きていたら、それらの反対説に対していちいち解答を与え、それらの反対説を自分の体系のうちに呑みこんだにちがいない。
私はいつも、もしトマスが現代生きていたら、ということを考える。もし彼が生きていたら、一昔前のトミストのように、いわゆるトマスの立場から近世以後の哲学者たちをヒステリックに攻撃するようなことはしなかったであろう。かえってデカルトヘーゲルの著作についての詳細な註解を書いたにちがいない。また聖書の註解においても、ただ教父だけでなく現代にいたる聖書学者たちの研究をも広く深く調べ、それを自分のうちに摂取したにちがいない。その結果彼の書いた註解は、およそ真理を愛するすべての人が驚嘆するような立派なものになったことであろう。(4~5頁)


本文

稲垣良典

 

p.2 こんにち、トマス哲学はポピュラーなものではない

(…)こんにち、トマスはどのような角度から見ても、ポピュラーな思想家ではなりえないように思われる。かれの属する時代が「中世」であり、しかもかれは「スコラ学」の代表者であると知って、なおもかれに関心をもちつづける人がどれだけいるであろうか。そのうえ、かれは神学者で、修道士として一生を終えた、と聞いては、いよいよ近よりにくいとの感じが強まるにちがいない。トマスの書いたものを読むと、かれはまるで、読者がみんな、自分と同じように神学や哲学の専門知識をそなえている、と思いこんでいたかのようである。最近ではヴィトゲンシュタインがそうであったように、トマスはいわば「教師たちにとっての教師」であった、といえるであろう。このような思想家は、研究者にとっては尽きることのない刺激の源泉ではあっても、広い層の読者にたいして直接にうったえ、影響をおよぼす、といったことは期待できないように思われる。(2頁)

 

p.24~26 信仰と理性の総合と分離

アウグスティヌスにおいては、真理あるいは知恵の探究は信仰から出発して、信じていることの理解をめざすという方向をとった。アンセルムスは、アウグスティヌスから引き継いだ考え方を「知(=理解)を探求する信仰」という、スコラ学のモットーとなったことばに結晶化した。「知」は必然的な根拠にもとづく認識、つまり論証。かれはあたかも、信仰から出発しつつ、三位一体や托身といった神秘を論証できるかのように語っている。アンセルムス自身は信仰に徹した神秘主義者だが、ときとして書いたものは信仰を合理主義に解消とようとしているかのような印象を与える。トマスは「信仰を理解する」という場合の理解・知は、必然的な論証ではなく、あくまで一種の説得的な議論にとどまる、という立場をとっている。人間理性が論証できるのは、自明的な第一原理(すべての論証のもとにある根源知)へと還元できるようなことにかぎられる。トマスはこのようにいうことによって、一方で、人間が理性の光によって知りうることと、信仰に属することを明確に区別する。他方、かれは人間理性が地上の生においても、信仰の真理についてなんらかの理解に到達しうることを強調。人間理性はある意味で人間的条件を超えでていく可能性をふくんでいる、という。その意味では、トマスは「信仰の理解」というスコラ学の基本的な立場をそのまま受け継いでおり、信仰と理性が内的に、動的に総合されうることを認める。オッカムにおいてこのような総合が崩れはじめ、信仰と理性の区別だけを認めて、理性が信仰の真理に向かって超越していくことは認めなかった。この分離が思想史のうえではっきりとあらわれるのはルターにおいてである。

 

p.26 信仰において理性の果たす役割はないというルター

ルターにおける信仰と理性の分離は、救いは律法の遵守・善業によるのではなく、ただ神の恩寵による、という根本的立場からの結論。われわれはキリストの十字架によるあがないを信ずることによって、神の恩寵にあずかるのであり、そこにはなんら理性がはたすべき役割はない。理性が有効・有益であるのはただ世俗のことに関して、つまり地上の王国においてであり、信仰がかかわる天上の王国とは明確に区別しなければならない。アウグスティヌスにおいて結びつけられた信仰と理性とは、ルターにおいて完全に断ちきられ、それによって中世スコラ学の伝統に終止符がうたれた、といえよう。

 

p.27 トマスの思想史上の位置

信と知をめぐるスコラ学者たちの議論は、思想史の本流からはずれた、神学者・聖職者の特殊な関心事ではなかったかという疑問がある。論理学や科学基礎論の分野で先駆的な業績をあげたC・S・パース(1839~1914)は、ドゥンス・スコートゥスの著作に親しみ、みずからの哲学的立場を「スコラ的実念論」と称した。パースによると、スコラ学者たちを駆り立てた学問的精神や動機は、現代の科学者たちとのそれとまったく同じものだという。それに比べると、現代の哲学者たちの研究態度は概して独断的で、非科学的きわまる、とパースは酷評。いずれにせよ、こんにちわれわれが西洋の知的伝統として受け取っているものは、古代の学術の継承と、「信仰の理解」を二本柱として、数世紀にわたって営まれたスコラ学によって形成されたものといって過言ではない。この伝統の形成に、だりよりも重要な寄与をしたのがトマスだといえば、思想史上のトマスの位置をかなり正確に言い当てたことになろう。

 

p.28~29 自律的で人間的な学問としての哲学を確立

トマスは、神学をはじめて学scientiaとして確立した人といわれる。ここでいう神学は、形而上学あるいは第一哲学と同一視されるか、あるいはその一部門であるとされる神学ではない。この意味での神学は、もろもろの存在するものの原因とみなされる、なんらかの神的な存在についての学であり、それはくまで人間理性が独力で到達しうるような、神についての知。たいしてトマスのいう神学(あるいは聖教)は、神がみずから啓示したところを信仰によって受けいれることによって成立する神学。こうした神学は福音書の作家においてすでに成立していたが、それが「学」として成立するのはトマスにおいてである、といわれる。他方、キリスト教思想史のなかで、哲学が自律的な学問としてはじめて確立されるのもトマスにおいてである。トマスは、事物をそれ自身の本性について考察する(人間的学問としての)哲学と、事物を神との関係において、神の観点から考察する神学を区別、トマスは、経験的な明証の分析や比較から出発する、厳密な意味での哲学的考察の方法を完成させていく。トマスは哲学の自律性を尊重して、保守的な神学者に非難された。トマスは、神学に「哲学的」議論をもちこみ、事物を神のかたどり・しるしとしてではなく、もっぱらその固有の本性にそくして考察している、と非難された。一例をあげると、人間の認識活動を説明するのに、神的照明の必要性を認めず、人間に本来そなわっている能力でじゅうぶんだとしている、というような非難があった。

 

p.30~33 人間中心主義を正当に位置づけたトマス

トマスは学のうちに。数学や幾何学のような自明的な原理から出発するものと、上位の学からからその原理をかりてくる学(たとえば光学が幾何学によって明らかにされた原理から出発するように)とがあることを指摘する。神学の「学」としてのあり方は、第二の仕方によるという。神学の出発点である信仰箇条(三位一体、托身など)は、神学者にとっては自明的原理ではない。それらは神自身、および神を直観する至福な人びとbeatiにおいては知(=確実知・学知scientia)であり、神学は、あたかも光学が幾何学から原理をかりてくるように、神自身がみずからと万物についてもっている「知」から原理をかりてくる、とされる。このように、神学が「学」でありうるのは、信仰によって神自らの知に参与するかぎりにおいてであり、神学とは「神の目で」すべてをみていこうとする営みとしての「学」なのである。トマスは、神学は哲学的な諸学問を「婢女」として用いるという表現を使っている。これは哲学を軽視したものではない。神学はもはや人間的な学ではなく、神への知の参与であるから、そのような学に奉仕し、役立つために、哲学は高度に成熟していなければならず、外部からの干渉をしりそげて、みずからに固有の原理と方法で探求をおし進めて重責を果たさなくてはならなかった。トマスは哲学の自律性をそのようにとらえて、アリストテレス、新プラトン哲学、アラブ、ユダヤの哲学の研究に打ち込んだ。哲学は神学に口うるさく命令され、束縛されるものではなく、その固有の領域ではあくまでも自由でなければならなかった。哲学の研究は、理性のまなざしをするどく、透明なものにして、神の知への参与をより完全にするための準備だった。「神学の婢女」としての哲学は、凡庸なものであってはならなかった。トマス思想は徹底的な神中心主義につらぬかれているが、哲学の自律性についての考え方にもあらわれているように、「被造的な」世界との関係でいわれているとはいえ、一種の人間中心主義。近代における「主体」思想の先駆的表現であるといえる。この二つの要素はトマスにおいては矛盾するものではなく、相互にあいてを要求するものと受け取られていた。その根底には「神のかたどり」としての人間という考え方があり、「自存する存在そのもの」(神)と、「分有によって存在するもの」についての形而上学的洞察があった、と考えられる。トマスは神中心主義のなかに吸収されていた人間中心主義に正当な位置を与えた。かれのあと、人間中心主義は神を排除する方向へと発展してゆく。

 

p.35~36 パリの町より『マタイ福音書説教』がほしい

偉大な思想家のなかには、先人たちの仕事とはまったく無関係にみずからの独創的に思想を形成したような印象を与える者がいる。デカルトヴィトゲンシュタインなど。しかし、トマスはそのタイプの思想家ではなかった。アリストテレスボエティウス、偽ディオニシウス、プロクロス、聖書、アウグスティヌスたち教父、イスラムユダヤの思想家などのおびただしい引用が、トマスが先人たちを学ぶのに熱心であったことを示している。このことを示す一つのエピソードがある。

 

 ある日、トマスは数人の学生をともなってパリ郊外のサン・ドニ教会を訪れての帰途、パリ市街が一望のもとにおさめられる高台にさしかかった。おりからの夕日に輝くパリの町なみの美しさを口々に嘆賞しているうち、学生の一人が「先生、ごらんなさい、パリはなんと美しい町ではありませんか? この町を支配したいとお思いになりませんか?」と語りかけた。なにか教訓のことばがきかれるのではないかと期待していた学生たちにたいして、トマスは「私はそれよりもヨハネス・クリゾストモス(三五四ごろ~四〇七。名説教家として有名なギリシア教父)の『マタイ福音書説教』を手に入れたい」と答えた、という。(35~36頁)

 

この話を伝えたトッコのギレルムスの意図は、トマスがいかに現世の財宝や名誉を軽んじていたかを示すことにあったのだろうが、そこにいわば先人たちが探りあてた多くの泉から、できるだけ豊かにくみ取ろうとするトマス真意気ごみを読みとることもゆるされよう。

 

p.37~38 アリストテレス思想との関係

トマス思想の歴史的源泉といえばアリストテレスが思い浮かぶが、トマスの哲学がアリストテレスそのままだという意味で、トマスをアリストテレス主義者とする通説は、こんにちでは受け入れられない。たしかにトマスは多くの哲学的問題についてアリストテレスを支持しているが、アリストテレスに安易に盲従したり、その学説を便宜的に利用したりせず、アリストテレスの行った探求をさらに進める道をえらんだ。最近数十年の研究によって、トマスのたどりついた形而上学的展望は、アリストテレスのものとは根元的に異なったものであることがあきらかとなった。その意味で、トマスはアリストテレス主義者ではない。トマスが「哲学者の真意」であると主張することのなかには、必ずしも歴史的にアリストテレスの見解とは一致しないものもあり、トマスがそれを知っていたのか、もし知っていたとすれば、その動機はなんであったのか、などの問題がある。トマスがアリストテレスの学説を受けいれるばあい、その理由はキリスト教の教えと一致するからではなく、みずからの研究を通じてそれらが真理であることを確信したからだという点では学者の議論は一致している。さらに見落とせないのは、トマスをはじめとするスコラ学者たちの解釈を通じて、アリストテレス思想がいわば輝きを増したということで、エラスムス(1467~1536)は「アリストテレスがこんにち学園において有名であるのは、かれ自身のせいではなく、キリスト信者たちのおかげである。もしキリストにむすびつけられていなかったら、かれはとっくに消えうせていただろう」(39頁)と言い、またピコ・デラ・ミランドラ(1463~1494)も「トマスがいなかったらアリストテレスは啞のままだったろう」(39頁)と評している。

 

p.39~40 新プラトン主義との関係

岩下壮一は昭和7年の『新スコラ哲学』のなかで、トマスについて、人間界のことを論じるさいには徹底したアリストテレス主義者で、宇宙全体のことを論じるさいには崇高なプラトン主義者であったと論じたが、当時としては卓見だった。ところで、トマスはプラトンの哲学や著作から直接に学んだことはなく、かれがその著作のなかで批判しているプラトンおよびプラトン派の見解は、アリストテレスの著作から学んだもの。したがって、それらにもとづいてトマスと歴史的プラトンとの関係は論じられない。新プラトン主義の影響を受けたアウグスティヌスや偽ディオニシウスからトマスが何を学んだかが重要。プロティノス思想の模倣とするクレーマーの説は受け入れがたいとしても、新プラトン主義の分有participatioの考えがトマスの「存在」思想を理論的に仕上げるうえで重要な役割を果たしたのはたしか。、万物を第一の始源である神からの流出あるいは発出processio, emanation, exitus、および神への帰還reditusとしてとらえる新プラトン派の思想、さらに実在の世界は相互に連続的なさまざまの完全性の段階から成り立っているという考え方がトマスの体系のなかで重要な地位を占めているのはあきらかである。

 

p.40~41 イスラムユダヤ思想との関係

アリストテレスや新プラトン哲学はイスラムユダヤの思想家たちの解釈や、それらの思想家の体系の構成要素としてラテン世界にもたらされたので、トマスはこれらの思想家と対決し、またキリスト教の真理を弁証する護教家Apologeticusとして、イスラムユダヤ思想を研究する必要に迫られた。ユダヤ思想家のなかでトマスがひんぱんにふれるのは、サロモン・イブン・ガビロル(1021~1070。ラテン世界ではアラブ人であると思われていたのでアヴィケブロンの名で知られた)とモーゼス・マイモニデス(1135~1204)の二人。前者は、すべて有限なものは形相と質料から複合されていると唱えた点で、後者は、神認識における否定的側面を強調した点によって、トマスの注目を引いた。

 

p.43~44 アンセルムスの遺産

トマスはアウグスティヌス以外にも多数のラテンおよびギリシア教父たちを引用しているが、いちいち述べきれないので、ここではアンセルムスから何を引き継いだかを一言する。トマスはアンセルムスが『プロスロギオン』で提示した「神の存在証明」を三度取り上げて批判。そこだけとりあげれば、トマスはアンセルムス流のア・プリオリ証明をしりぞけて、ア・ポステリオリ証明を支持したといえそうだ。しかし、それだけで二人の関係を説明できるだろうか。

 

トマスがアンセルムスの証明を批判するのは、そこで神の存在が「自明的」per se nitaとみなされているからである。これにたいしてトマスは、「自明的」を(イ)「それ自体において」(ロ)「われわれにたいして」とに区別したうえで、神の存在は(イ)の意味では自明的であるが、(ロ)の意味ではそうではない、と論ずる。神の存在を証明するにあたっては、われわれはあくまで「われわれにとって」より明らかなことから出発して、その根拠あるいは原因を探求する、という方法をとらざるをえないのである。

それではアンセルムスの証明はまったく意味がないのか、というと、そうではない。それは信仰を前提とするかぎりにおいて、つまり、信仰を通じて神の知の立場に立つかぎりにおいて有効なのである。すなわち、われわれが神の本質についてなんらかの理解に達することができたならば、神においてはその本質は存在にほかならないから、神の存在は神の存在は自明的なこととして認識されるであろう。(43~44頁)

 

p.62~63 十三世紀の時代背景

十三世紀は、十二世紀を受けつぎつつも、あらゆる点で、対照的な形をとった。政治と宗教が癒着していた十字軍による聖地回復という企図に代わって、異教徒に対して平和的に福音を説き、改宗をすすめる純粋に宗教的な宣教活動、修道院や大聖堂付属学校に代わる、独立の法人団体である大学、封建国家に代わる都市および農村コムーネの形成、人里はなれた谷間に定住し、祈禱と労働に明け暮れる共同生活を通じて、福音書の精神と理想を追求する古い修道院に代わる、生活の面では喜捨にたよりながら、世俗社会そのものを、学問研究や説教を通じて、福音の精神によって変革することをめざす新しい托鉢修道会mendicantesの活動など、例をあげればきりがないくらいである。(62~63頁)

 

p.63 アリストテレス思想はキリスト教的英知の危険な競争者

13世紀の大きな精神的および知的運動は、12世紀に起こった修道会改革運動のあとをうけて、福音書の精神と理想を世俗社会へと滲透させてゆこうという福音的運動と、12世紀にはじまったラテン世界によるアレストテレスの受容という2点が挙げられる。この時代の著述家のことばをかりれば、「アリストテレスの精神が支配をふるうところではキリストの霊が支配することはない」(Absalon de Saint Victor(1203没)Sermo 4 PL.211 37D, cf. Chenu, op. cit., p. 31.)のであって、アリストテレスの学問は、キリスト教的英知にとって危険な競争者と見なされた。この二つは両立しないと思われた。

 

p.63~64 トマスによる綜合

トマスはこの両者をともにえらびとるという、一見不可能な道をとった。トマスはフランシスコ会と並んで13世紀における福音的運動の最も強力な推進者となったドミニコ会の修道士であり、同時にパリ大学の教授として、アリストテレス哲学の理解と受容において、もっとも重要な役割をはたした。かれは、中途半端な妥協ではなく、その二つを徹底的に生きぬくことで、一つの生きた綜合を成就したといえる。


p.66~68 トマスの家系

トマスはローマとナポリをむすぶラテン街道のなかほどから、すこしナポリよりにあるアクィノの町に近いロッカ・セッカ(「乾いた岩」の意味。水の乏しいところから名づけられた)の城塞で生まれた。994年、ベネディクト会のモンテ・カシーノ修道院の院長マンソンによって築かれたが、暴力と陰謀によってアクィノのアデヌルフォ3世に奪われた。999年、伯爵位を得てアクィノ伯となった。この称号は、1137年に死んだランド4世で終わり、本家と分家に分かれた。年長のパンドゥルフォが第二のアクィノ家をおこし、子孫はアケラ伯と呼ばれて、皇帝フリードリッヒ2世とむすびつきをもつようになった。ランドのもう一人の息子のロナルド1世はロッカ・セッカに分家をおこした。トマスの父ランドゥルフォはその子孫。伝記者トッコのギレルムスは、トマスをアクィノ伯爵家の出身と書いているが、これは遠い祖先に触れたもので、父ランドゥルフォは伯爵ではなく、「兵士」あるいは「騎士」であり、勇猛さと外交手腕で皇帝側について、シチリア王国教皇領の境界に位置する所領を守った。母テオドラは「シチリアアラゴンの女王たちの妹」であったと書かれているので、ホーエンシュタウフェン家のフリードリッヒ2世とトマスのあいだに血縁関係があったという伝記者もいるが、遠縁のいとこにあたるもう一人のアクィノのトマスと混同したもの。長兄アイモーネは、フリードリッヒ2世の軍に加わり、十字軍に参加、1232年に捕虜となり、1233年、グレコリウス9世の介入で解放され、教皇側について皇帝と戦った。次兄レジナルドも皇帝側だったが、1245年のリヨン公会議でイノケンティウス4世が皇帝を廃位すると教皇に忠誠を誓い、1246年に皇帝暗殺に失敗して死刑にされた。三兄ランドルフォについては不明。

 

p.69~70 幼年時代

トマスは5歳までロッカ・セッカ城内で母親と乳母の手で養育された。現代の伝記者の一人は、幼子のトマスが見たであろう情景を描写している。武具の音、馬蹄のひびき、きらびやかな騎士たちの馬上試合や結婚式、堂々たる騎馬行列を眺め、吟遊詩人たちのかなでる音楽や、中世城主たちのあとおしでひろまりはじめていた優美なナイタリア語の歌に耳をかたむけていた、云々。こうした城内の喧騒だけでなく、南方に広がっていた領土の雄大な自然を見渡すこともできた。トッコのギレルムスとグイのベルナルドゥスは、教皇の軍勢の攻撃を受けたロッカ・セッカからナポリに避難していた母親テオドラが、乳母にいだかれたトマスを公共浴場に連れていったところ、トマスは地面に落ちていた紙片を固く抱きしめていた、という。乳母が取り上げようとすると、泣きわめいて抵抗した。あとでテオドラがそれれを調べると、それには「アヴェ・マリア」の祈りが記されていて、とますがむずがるたびごとに、乳母はこの紙片を与えてなだめたという。古い伝記者は、トマスの聖母信仰の前兆として書き記したのであろうが、現代の研究者は、赤ん坊ならよくやりそうなこと、というくらいにしか見ていない。

 

p.71~73 モンテ・カシーノ修道院でのトマス

1230年の終わりか31年のはじめごろ、5歳になったトマスは、末子は聖職者になるという中世貴族の慣習にしたがって、「修道志願児童」(oblatus「奉献された者」を意味)として近くのベネディクト会のモンテ・カシーノ修道院に送られた。のちにヨーロッパ有数の大修道院の大修院長Abbasとなって一族の勢威と富とに寄与してくれるようにという期待があった。当時の大修院長は遠縁のランドルフォ・シニバルドォ(1227~36在住)であり、アクィノ家とモンテ・カシーノ修道院とは因縁があった。しかし、どうもトマスはベネディクト会員にはならなかったらしい。525年ごろ、聖ベネディクトによって設立されたモンテ・カシーノは、フリードリッヒ2世のシチリア王国教皇領との境界に位置し、莫大な財産をかかえた天然の要塞だった。そのため13世紀前半を通じて両勢力の激突の場となった。トマスが入る直前の1230年にサン・ゼルマーノ条約が結ばれ、1239年にグレコリウス9予が皇帝を破門するまでは、比較的平穏な状態が保たれたようだ。古い伝記者は、次のように記している。

 

「この幼児は、聖霊がすでにかれをひきつけていたので、仲間である他の貴族子弟たちの遊戯から遠ざかり、むだなおしゃべりをいっさいさけるようにしていた。かれはできるかぎり同僚をさけてひきこもり、手には子供用の初歩的な教課の記された紙片をたずさえていた。かれは子供っぽさを脱して、成熟した印象を与える静かな少年であり、口数が少なく、むしろ自分のうちにひきこもって黙想しはじめていた。ふるまいには落ち着きがみられ、その若さで祈りに沈潜しているようにみうけられた」。(72~73頁)

 

ベネディクト会の宗教的ふんいきと、モンテ・カシーノが何世紀にもわたって守護し、伝達してきた古典的教養が少年トマスに深い影響を与えてきたことは否定できない。トマス自身は、その後、ベネディクト会とはひじょうに違った修道生活に身を投じることになるが、古代文化の遺産をよみがえらせたベネディクト会の伝統のもとに身を置いた重要性は見落とせない。トマスはきわめて大胆な改革者であり、同時に伝統の総合者・完成者だった。

 

p.74~76 研究者としての生活態度を身につける

トマスはモンテ・カシーノで研究者としての生活態度を身につけた。のちにドミニコ会士に宛てた書簡の中でトマスは、口をひらくのは遅くして、談話室にはいることは遠慮し、他の人びとのやることについて、決して好奇心を起こさず、だれとも、あまりに親しくならないようにと書いている。なぜなら、過度の親しみは軽蔑を生み、勉学を等閑にする機会を生じるから。云々。1230年代に教皇と皇帝の関係が悪化し、39年の破門で、モンテ・カシーノは皇帝軍に占拠され、その要塞となった。皇帝側についたトマスの父は、おそらく39年の春ごろ、トマスを居城ロッカ・セッカに連れ帰ったと想像される。伝記者たちは、大修院長がトマスの才能を考慮して、ナポリ大学へ送るように両親にすすめたと書いているが、むしろ事態の進展から余儀なくされたことであろう。トマスは終生ベネディクト会と親密な関係にあった。

 

p.78~79 ナポリ大学に入学

伝記者トッコのギレルムスは、トマスは良心の望みで勉学のためにナポリにおもむいたと記している。トマスは、1239年の秋、ナポリ大学の人文学部(つまり現在のわが国の大学の教養学部)に入学したと推定される。このナポリ大学(「大学」といっても、universitasといった組織が成立していたわけではなく、法学部を中心とし、人文・医学・神学の諸学部をそなえたstudium generaleであった)は、当時ヨーロッパ各地に形成されつつあった諸大学のあいだできわだった存在だった。ナポリ大学は長い年月のうちにしぜんに成立したものではなくて、1224年に皇帝フリードリッヒ2世の勅許によって設立された、いわば国立大学で、大学設立の理念も、真理の探究、知的好奇心の満足というものではなく、シチリア王国の臣民に、自治ならびに国家統治の能力を身につけさせ、王国の隆盛に役立つものとするという、高度に政治的なものだった。敵対するローマ教皇の勢力下にあったボローニャ大学の学生を引き抜くのが第一の目標だったという。

 

p.80~83 ナポリにおけるアリストテレスの受容

ナポリ在学中に、トマスの人生に二つの大きな出来事が起こった。1つはドミニコ会への入会、もう1つはアリストテレスとの接触ナポリ大学は、ヨーロッパの他の諸大学にさきがけてアリストテレス研究の中心となったが、その背景には、フリードリッヒ2世の宮廷が、ラテン、イスラムユダヤの学者たちの活躍の場となったこと、皇帝の支持でアリストテレスの著作やアヴェロエスアヴィセンナによる註解の翻訳が盛んに行われた(その中心はミカエル・スコートゥスだった)という事情があった。パリ大学にたいしては、1210年に、アレストテレスの「自然学に関する書物」(おそらく形而上学も含む)およびその註解を、公的・私的に教授することを禁じ、違反者は破門するという、パリ管区会議の命令が課せられていた。この禁令は、1263年まで教皇の命をもって4度くりかえされた。トマスのアリストテレス註解はアヴェロエスの学問的な形式を採用して書かれている。トマスは哲学を学びはじめた発端から、アリストテレス派にとりかこまれていた。このあとトマスは、「アリストテレス哲学のすべての部分をラテン世界の人々に理解可能なものたらしめる」と宣言した、当代随一の博学をうたわれたアルベルトゥス・マグヌス(1200ころ~1280)の指導を受けることになる。

 

p.86~87 ドミニコ会に入会

ナポリ大学に入学後、白衣の上に黒いマントをつけて説教し、喜捨を乞うドミニコ会に入会。会員の一人でナポリ出身のヨアネス・デ・サン・ジュリアノがトマスのすぐれた資質と適性に注目して入会をすすめた。1243年の終わり、あるいは44年の春に正式に修道志願者として受け入れられたと考えられる。もともとドミニコ会は、福音の説教者にとって熱心な学問研究が不可欠と考えていた。設立当初から、パリ、ボローニャ、パドゥア、オックスフォードなど、著名な大学町で入会志願者をつのり、また会員を勉学のためにこれらの大学に送り込んでいた。しかし、ナポリ大学で俊秀ぶりが評判となり、将来を期待されていたトマスの入会は周囲に衝撃を与え、教授や同輩たちの好意や賛美は、敵意に変わったとある伝記者は書いている。とくにトマスがミンテ・カシーノの大修院長となることで一族の勢威と繁栄に寄与することを願っていた家族にとっては、認めることのできない暴挙と思われたに違いない。

 

p.87~89 ドミニコ会の設立と成長

ドミニコ会(正式には説教者修道会Ordo Fratrum Praedicatorum)の創設者である聖ドミニクスドミンゴ)・デ・グズマンは、1171年ごろスペイン、カスティリア地方のカレルエガに生まれ、バレンシアで人文学・神学を学んだ。1203年、オスマのディエゴ司教の使節団の一員としてデンマークへ向かう途中、南仏でアルビ派異端がひきおこした荒廃を目撃、宣教活動を開始。アルビ派は、12世紀なかごろからヨーロッパ全域にひろがったカタリ派(「純粋な者」を意味するギリシア語からきた名称)の一派で、起源は明らかではないが、物質世界は悪魔によって創造された邪悪なものであるというマニ教風の二元論を説き、肉欲をしりぞけた。しかし、その急速な発展は教義というより、福音書に忠実にしたがって、清貧・貞潔を守るその指導者たちの厳格な生活ぶり、熱心な使徒的活動にあったといわれる。ドミニクスは、こうした異端にたいする教会と世俗権力の対応の不適切さと無能を見てとった。異端折伏のために派遣された聖職者は学識不足、論戦でおくれをとって武力制圧をはかったが、抵抗を強めて異端を拡大させた。致命的なのは、聖職者たちの堕落。そこでドミニクスは、異端以上の福音的清貧と貞潔を実践し、聖書と学問に裏づけられた説教で異端を克服する重要さを悟り、新しい修道会を設立した。会は急速に発展し、1216年に教皇ホノリウス3世から修道会として正式の認可を得た。1221年にドミニクスが没したときには、スペイン、トゥルーズ、フランス、ロンバルディア、ローマ、ハンガリー、ドイツ、イングランドの7つの管区を擁するほどに成長していた。

 

p.90~93 親族はトマスの修道会入りを妨害

ナポリドミニコ会修道院はトマス入会を歓迎したが、その家族が強硬手段に訴えてでもトマス奪回を計ることを危惧し、パリへ行かせた。母テオドラがナポリにかけつけ、トマスを追うが、トマスはドミニコ会総長ヨハネス・ヴィルデスハウゼン(通称テウトニクス)とともに去った後だった。テオドラは、教皇軍と戦うためにトスカナに遠征中のフリードリッヒ二世の軍にあった息子レジナルドに命じてトマスを捕えさせ、ロッカ・セッカに監禁した。トッコのギレルムスによると、美女を雇ってトマスの貞操を奪わせようとしたが、燃えている薪をとって女を追い出し、薪で壁に十字を記し、床に伏して祈ったという。やがて眠りに落ちたトマスは、夢のなかで二人の天使から「神に代わってなんじを貞潔の帯で固めよう。この帯はいかなる誘惑によっても破られないだろう」と言われ、たずさえた帯でトマスの腰を強く締めつけたという。後年トマスはこの体験から「この(修道生活にはいろうとする)決定に関して、血縁の人びとは、好意的であるよりはむしろ敵意をいだくものである。……それゆえ、このようなばあいには、血縁の人びとの助言はとくに避けるべきである」(『人々(年少者)が修道生活に入るのを妨げる者どもの有害なる教説を駁す』(Contra Pestiferam Doctrinam Retrahentium Religionis Ingressu))と言っている(92頁)。ドミニコ会側では、総長ヨハネス・テウトニクスが教皇イノケンティウス4世を動かして、フリードリッヒ2ワイにトマス解放のための手を打つように交渉するが、皇帝と教皇の政治関係がからみ、進展しなかった。1245年のリヨン公会議の決定でフリードリッヒ2世が廃位されたため、皇帝派のアクィノ家も方針を変更し、トマスはナポリドミニコ会修道院へ行くことを許された。

 

p.95~96 シチリアの唖の牛

ケルンのドミニコ会修道院に神学大学を正式に創設するために、アルベルトゥスが同地に赴いたのは1248年であり、トマスを伴っていたことは確実とされる。この年の8月15日に行われた、ケルン大聖堂の定礎式にトマスもおそらく参列したことだろう。48年から52年までアルベルトゥスの講義に接したが、伝記者によると、トマスは前にもまして沈黙がちであったので、同僚たちは「唖の牛」bos mutusとあだ名したという。ケルン修学時代、アルベルトゥスはトマスの才能をしだいに高く評価、講師に任命して自分の講義の記録を命じ、討論において解答者の役割をふりあてた。52年に、年齢が不足していたにもかかわらず、パリ大学神学部教授の候補者に強引に推薦した。

 

p.96~97 アルベルトゥス・マグヌスとの伝説

アルベルトゥスが偽ディオニシウスの『神名論』の講義をしていたころ、トマスがあまりに黙々としているので、同僚が個人教授を申し出た。ところがトマスを助けてやろうとしたら、逆にトマスから説明を受け、自分の不明をわびて、以後トマスの教えを乞うようになったという。トマスは秘密を約束させて個人教授を引き受けたが、友人は先生のアルベルトゥスに話してしまった。アルベルトゥスはこっそりトマスの教授ぶりを見て、はじめてすぐれた才能を知ったという。また、トマスがたまたま落とした覚え書きを同僚が拾って、それをアルベルトゥスに見せたところ、そこに示された理解と思索の広さに驚嘆し、トマスに討論の解答者になることを命じたという。トマスの解答を聞いたアルベルトゥスは、きみの答え方は「解答する生徒」ではなく「確定する教授」のようではないかと一応の叱責はしたが、「われわれはこの者を唖の牛と呼んだが、やがてその鳴き声は世界中にひびきわたるであろう」と語ったという。

 

p.97~98 どうもアルベルトゥスとは学問的立場が異なっていたらしい

トッコのギレルムスによると、トマスはアルベルトゥスの指導を受けるようになってから以前にもまして沈黙がちになったと伝えており、研究への専念と謙遜のしるしと解釈されているが、バークは、トマスがアルベルトゥスの見解に対して賛成を留保して、軽々しく意見を述べなかった慎重さと見ている。それに、もともと無口なトマスにとって、外国語の習得は苦手であり、そのことがかれの口をますます重くしたのであろう。アルベルトゥスの哲学思想は折衷的で、さまざまなものを神学にもちこんだが、トマスはみずからの哲学を形成したうえで神学の説明に取り入れているのは対照的。アルベルトゥス学派はアルベルトゥスにおける新プラトン的な側面を発展させて、エックハルト、タウラー、ゾイゼなどの神秘主義思想家に受けつがれていくが、不思議なことにアルベルトゥス第一の弟子であるトマスはそれに含まれない。

 

p.99 モンテ・カシノ大修院長への就任をもちかけられるが断る

この時期にトマスは、教皇からドミニコ会士の身分を保証したまま、モンテ・カシーノの大修院長の地位を提供されたと記している伝記者もある。アクィノ家は、皇帝暗殺を企てて処刑された兄レジナルドのような者もいて家運が傾いていたから、その働きかけから教皇が申し出たとも考えられるが、いずれにしてもトマスは承諾しなかった。アルベルトゥスの指導のもと、さまざまな哲学的要素を吸収することに専念していた。その独創的な哲学的立場が明確な形をとるのは、その数年後のこと。

 

p.101~102 パリ大学神学部の教授候補者に

1252年の初頭、ドミニコ会の総長ヨハネス・ヴィルデスハウゼンは、同会がパリ大学神学部に確保していた二講座のうち、一つの教授候補者の人選にかかり、アルベルトゥス・マグヌスに推薦を要請、アルベルトゥスはトマスが最適任と回答した。総長が決定をしぶると、サン・シェルのフーゴ枢機卿を介入させて、この人事を実現させた。トマスは、パリ大学神学部で教授をしていたプロヴァンス出身のエリアス・ブルネの下でペトルス・ロンバルドゥスの『命題論集』の講義を行うことで、教授になるための準備をすることになっていた。

 

p.104~109 托鉢修道会と教区聖職者の対立

ドミニコ会は学問研究を使命として、パリ大学に進出する方針を決めた。ドミニコ会教皇から認可されて数か月の段階で、7人をパリ大学へ、4人をスペインに勉学に派遣。パリ大学の好意で譲られたサン・ジャック修道院を本拠に勢力を拡大した。「ボローニャ大学の栄光」といわれたボローニャ大学人文学部教授であるクレモナのローランがドミニコ会に入会、パリ大学へ移って講師を勤め、神学部教授に就任。ドミニコ会は10年そこそこで神学部講座の一つを獲得した。おりしもパリ大学は市当局と対立してストライキの最中だったが、ローランを指導したセント・ジルズのヨハネスは講義を続行しており、さらにドミニコ会に入会したので、結果的に二つ目の講座を獲得。このうち、ローランの講座はフランス出身の会員、ヨハネスの講座はフランス以外の国の出身者が受けつぐという方針が決まったので、イタリア出身のトマスが担当を予定された。1231年、ストライキから戻った神学部の教授や学生たちは、2人のドミニコ会の教授が出現していたのを驚きと不快の感情で受け止めていただろうが、当時は手を打とうとしなかった。1252年、トマスがパリ入りをした年に、ドミニコ会に対する攻撃が開始され、教区司祭からなる教授団は、神学部の講座は1つの修道会につき1つにかぎられるという学則を定めた。使命感に燃えた托鉢修道会のはなばなしい活躍のせいで教区司祭教授団の勢威と人気は衰える一方だった。托鉢修道会は大学の規則や慣行よりも自分たちの会則を優先させる傾向があり、フランスの司教団にとっては、ローマ教皇のてさき、尖兵と映っていた。托鉢修道会パリ大学神学部において獲得した権利の正当性をめぐる抗争は続き、トマスも『神の礼拝と尊崇を攻撃する者どもに対して』と題する論争の書を公にして、反対派に反駁した。争いはことばや文書のうえにとどまらなかったので、托鉢に出歩くこともできなくなったが、1257年にルイ9世が反対派の指導者サンタムールのギヨームを追放したので、いったん沈静化したが、10年後に再燃する。

 

p.119~120 教授就任に自信がなかったらしいトマス

1256年に神学教授(マギステル)の資格を獲得、30歳をわずかにこえたトマスは、パリ大学神学部の教授につくように要請されたが、最初は年齢の不足を理由に(学則では35歳)、ついで学識の欠如を理由に固辞しようとした。しかし、それが上長の命令である以上、従順の誓願をたてた修道士としてしたがうより道はないとさとって、自室にこもって涙を流して祈って神助を求めた。やがて眠りにおちたかれは、夢の中でドミニコ会の修道服を身につけた白髪の老人に語りかけられた。どうして泣くのかと問われ、トマスは、自分は神学教授になるように命じられているが、資格がなく、就任講義の主題さえ考えつかないでいると答えると、老人は、『詩篇』第103番(ウルガタ訳、現代語訳では第104番)「主はその高殿から山々に水を注ぎ」をえらぶように告げ、神助を約束したという。パリのドミニコ会士のあいだでは、この老人は聖ドミニコその人であると信じられていたという。

 

p.123 パウロとペテロと交信

イザヤ預言書の注釈を書くとき、トマスは聖書の難解な箇所に出会うと、断食し、祈るのがならわしで、ある夜ふけ、僚友レギナルドゥスはトマスが自室でだれかと会話しているのを耳にした。その後、トマスはレギナルドゥスを呼んで、一時間、口述した。レギナルドゥスが誰と話していたのかと食い下がって聞くと、やむなくトマスは、ペテロとパウロから教えを受けたことを明かし、自分が生きている間は口外するなと戒めたという。

 

p.124~125 トマスは悪筆、筆記者や僚友をつけてサポート

トマスは悪筆で、その文字は「判読不可能」(lottera ininteligibilis)とあだ名されるほどで、数人の筆記者がいて、告解の聴取やミサの手伝いもしていた。トマスが教師、学者をして全力を傾けることができるように配慮されていた。ドミニコ会には僚友(socius)という制度があり、雑務からできるだけ解放されるように処置していた。定期討論集『真理論』の写本を見ると、筆記者の交替、訂正、突然あらわれるトマスの判断不能な文字などを確認できる。

 

p.128~129 トマスの真理論

トマスは、自分がいま、現に従事している認識の営み(感覚し、判断し、論証する)をふりかえり、それを成立させている根拠をどこまでも探求するという方法をとった。トマスは徹底した認識批判をもって、学問的営みを開始。かれの認識批判は、一方で認識主体への徹底した復帰・反省で、それは同時に、存在するものを「真なるもの」という側面のうちに考察することにほかならず、認識論はそのまま存在論だった。アリストテレスを深く学んだ結果、真理探究の出発点として、経験をより積極的に評価した。到達すべき真理は人間を越えた神的真理であったが、出発点は人間的立場でとらえられる真理、つまり知性の真理veritas intellectusだった。

 

p.129~131 任意討論

任意討論とは、だれでもその意のままに、どんなことについてでも質問してさしつかえない公開の討論会で、教授は前もって討論の主題を定めることができず、しかも、正規討論のばあいとちがって、その場で確定的な解決を与えなくてはならなかったので、これを主宰するには、相当の勇気と自信を必要としたにちがいない。トマスの『任意討論集』を読むと、「世界が永遠ではないことを論証できるか」「天使は質料と形相から合成されているか」「知的霊魂は、その認識するすべてを第一の真理において認識するか」というものから、「神は、もし欲するなら罪を犯しうるか」「ある人は、大罪を犯すことなしに、私通をした司祭のミサにあずかりうるか」という意地悪い質問もある。さらに「受難にさいしてキリストが流された血は、復活のさいにすべてその体にもどるか」「水のない砂漠で生まれ、洗礼を受けないで死んだ子どもは、信者たる母親の信仰によって救われるか」などは、素朴な市民の質問のようだ。なかには奇抜なものもあり、笑いをこらえられないほどだが、トマスは、じつに神妙に、適確な解答を与えている。

 

p.167~168 若者に黙って使役されていた

トマスは1268年秋に、総長ヴェルチェリのヨハネスの命令で、パリに向かった。伝記者トッコのギレルムスは、おそらく途中、ボローニャに立ち寄ったときの出来事として、次のエピソードを記している。一人の若い修道士が、思索にふけりつつ回廊を歩いていたトマスをつかまえ、トマスと知らずに「街に用足しに行くが、修院長から最初に目についた者を一緒に連れていってよいという許可をもらっているから、ついてきなさい」と命じた。トマスはうなずいて一緒に歩き出したが、足早な修道士に遅れがちだったので、文句を言われていた。ところが、トマスを知っている人がいて、かくも高名な教授が年少の修道士にしかりつけられているのを訝って、それがトマスであることを修道士に教えた。若い修道士は恐縮して非礼を謝った。その人はトマスに近づいて、その謙虚さを賞賛したが、トマスは「修道生活は従順によって完全なものとなるのです」と答えたという。

 

p.173~176 托鉢修道会に対する攻撃

パリ大学では托鉢修道会攻撃が再燃、アヴェヴィユのジェラールにひきいられた教区司祭教授団は、托鉢修道会の存在理由自体を否定した。

 

すなわち、托鉢修道会の会員が、肉体労働によらず、托鉢・喜捨にたよって生きてゆくのは、額に汗して働くべしという聖書のおきてに反しており、また、説教をするのは司教の特権を侵すもの、さらに、罪の告解を聴くのは、それぞれの地域の司牧の権限を無視するものであって、ひとことでいうと、托鉢修道会の活動は、神的権威によって確立された法に対する違反行為だ、というのが反対派の論拠であった。そして、これに加えて、托鉢修道会は、まだ判断力を身につけていない年少者を誘って入会させている、として非難された。

こうした非難の背後には、托鉢修道会の進出によって教区聖職者たちの収入が減少したという経済的考慮もはたらいていたであろうし、さらに、托鉢修道会の活動を利用して勢威をのばそうとするローマ教皇庁にたいする、フランスの教会の高位聖職者たちの反発があったことも否定できない。(173頁)

 

トマスは『神学大全』の第2-2部の終わり、第183問題から第189問題にかけて、このことに応答。部分的応答は『任意討論集』の中にも散在。その他の論争的著作として、『霊的生活の完全性について』、年少者の修道会入りについて論じた『人々が修道生活にはいるのをさまたげる者どもの有害なる教説を駁す』(Contra Pestiferam Doctrinam Retrahentium Humines, Religionis Ingressu)がある。トマスにしては珍しく、強いことばを発するものもある。トマスは修道生活を弁護したが、トマスが弁護したのは、個人の内面的な完全性ではなく、「身分」(status)としての修道生活だった。個々の人間については、修道士だから完全とか、教区聖職者だから不完全ということはない。修道生活とは、完全な生き方をめざす者が、なんらかの儀式や請願を通じてはいっていくところの恒久的な状態で、その意味で身分である。完全な生き方とは、神と隣人を愛する生活で、その実践を妨げるのが、富と肉欲と我執。清貧・貞潔・従順の3つ請願をたてて、妨げとなる3つを永久に放棄して、身分としての修道生活。修道生活に身を置いていても、現実には完全な生き方をしていない者もあるだろうし、そうした身分になくても完全な生活を実践している者もある。人間の内面は神だけが裁くので、ここではそれを問題にはしない。議論の対象となっているのは、外部にあらわれた人間の生き方。しかし、1272年に論敵が相次いで没したので、この論争は自然消滅した。

 

p.189 ルイ9世と会食中に叫び出す

1269年ないし70年(1270年7月11日にルイ9世は十字軍遠征に出たので、そのころの出来事かと思われる)、トマスはルイ19世から食事に招かれたが、『神学大全』の執筆を理由に一度は断った。修道院長の命令でこれに応じ、王のとなりに座った。食事中、突然こぶしで食卓をたたいて「そうだ、これでマニ教異端の決着がついた」と叫んだ。そばに座っていた修道院長につつかれてわれに返った。トマスは王に非礼を謝したが、王はかえってトマスの思索への集中ぶりに感心し、筆記者を呼んでトマスの思いつきを書きとらせたという。

 

p.195 サン・ドメニコ・マッジョーレの四旬節説教

1273年四旬節ナポリのサン・ドメニコ・マッジョーレ大聖堂で行った連続説教は、一般市民に異常な感動を呼び起こした。列聖のために調査委員会で証言したナポリの公証人ヨハネス・コッパの証言によると、ほとんど全市民がトマスの説教を聴くために集まったという。他の証言者によると、、説教をするトマスは、眼をとじ、その心は天にあるかのような印象で、集まった民衆は神からの声をきくようにうやうやしく耳を傾けていたという。

 

p.197~198 枢機卿が来ても無視

トマスは思索に集中するあまりに忘我常態(abstractio mentis)に陥ることが日常的にあった。『ボエティウス三位一体論註解』の口述のときには、手にしていた蝋燭が燃え尽きて、炎が指を焦がしてもトマスは気づかずに口述を続けたという。ナポリ時代、ある枢機卿が、シチリア教皇使節として着任し、トマスの評判を聞いて面会を求めた。トマスの教え子でもあったカプアのペトル大司教枢機卿を案内してトマスを訪問したが、二人の間に座ったトマスは、いつまでたっても一言も発しなかった。やがて顔を輝かせて「わかった」と叫んだ。枢機卿は、トマスが自分に敬意を示さないことを不快に感じて、軽蔑の念を催しはじめていたが、大司教が「閣下、彼はいつもこうなのです。思索にふけっている間は、誰がそばにいようと話をかわすことができないのです」と説明して、トマスを激しく揺り動かすと、トマスはわれにかえって非礼を謝した。枢機卿もおどろいて、トマスとの出会いを喜んだという。大司教は面白がって、この話をくりかえし語ったという。

 

p.198~199 放心と落涙

1273年の春ごろから、トマスの忘我に新たな徴候。トマスは教皇グレゴリウスの神学顧問としてリヨン公会議に出席するよう要請され、一般人の眼には最高の地位に上りつめようとしているように見えていたが、トマスの心は別のところへむかっていたようだ。ご受難の主日のミサで、トマスは聖体を会衆に示すために高くかかげたまま涙にくれ、動かなくなってしまった。同席していた修道士たちがおどろいてミサを続行するようにトマスにうながした。ミサ後、理由を聞いてもトマスはひとことも答えなかったという。こうしたことが頻繁になっていたらしく、四旬節のあいだ、夕べの祈りのなかで、『詩篇』第70篇第9節の「年老いたときも私をみはなさないでください。私のちからの衰え果てたとき、私をみすてないでください」という個所にくるたびごとに涙を流したという。

 

p.199 死者の霊姿が訪れる

トマスは1273年の初夏、パリ大学でかれのあとを継いだロマノ・オルシニの訪問を受けた。トマスがあいさつをすると、相手は、自分はすでに死んだのだが、トマスの功徳ゆえにわざわざ訪れのだと告げた。トマスは驚いて、自分の仕事は神のおぼしめしにかなっているだろうか、とオルシニにたずねたという。

 

p.199~200 神と対話していた

トマスが毎夜半、聖ニコラウス礼拝堂にきてひとりで祈っているのを不審に思った聖器係の老修道士、カセルタのドミニクスがひっそりとトマスのようすを見ていると、突然、トマスは60センチメートルほど床から浮上し、そのままの姿で十字架を見つめながら涙を流していた。

 

そのとき、「トマスよ、なんじは私についてよくぞ書いた Bene scripsisti。なんじの労苦のむくいとしてなにを望むか」という声がひびきもそりにたいしてトマスが「主よ、御身のみを」と答えるのが聞こえたという。(200頁)

 

これらの伝説は、トマスの心身に重大な変化が起こり始めたことを物語っているが、教授と著作に明け暮れるトマスの日常に、まだ決定的な変化は起こっていなかった。

 

p.200~202 私が示されたものに比べれば、私の書いたものはわらぐすのように見える

1273年12月6日、聖ニコラウスの祝日、ミサのあいだにトマスになにかが起こったらしく、このミサののち、トマスは書くことも、後述することもいっさいやめてしまった。『神学大全』第三部「悔悛の秘蹟」の部分を第90問題第4項まで書き進めていたが、永久に筆を置いた。僚友レギナルドゥスが著作を続行するようにすすめたが、トマスはただ、私にはできない、とくりかえすだけだった。

 

そして、さいごに、「レギナルドゥス、私にはできない——私がこれまで書いたものは、すべてわらくずのようにみえるからだ」と答えたという。しかし、この答えはレギナルドゥスを当惑させるだけであった。(200頁)

 

トマスはこの前後から健康を害していたようで、サン・セヴェリーノ城に妹のテオドラを訪問しているが、道のりは困難だったと記されている。妹に会ってもぼんやりしてろくにことばをかけず、テオドラは驚いてレギナルドゥスにたずねたが、聖ニコラウスの祝日以来、あんな感じだと答え、またもやトマスに、なぜそのように放心状態であるのかと強硬にたずねた。するとトマスは秘密を守るように誓わせたうえで、自分にあらたに啓示されたことにくらべると、いままで書いたものは、すべてわらくずのように見えるのだ、と教えた。3日すごしたのち、悲嘆にしずむテオドラを残して、トマスはナポリに帰った。現代の伝記者たちは、神秘的啓示を受けた可能性は認めつつも、器質疾患が発生したものと診断を試みている。

 

p.202~205 枢機卿になるよりも一修道士のままでいたい

リヨンの第14回公会議に出かける途中でトマスは道に次ぎ出ていた木の枝に頭をぶつけて気絶。レギナルドゥスはトマスを元気づけようとして、リヨン公会議での活躍への期待とか、枢機卿の位を授けられるであろうなどと話しかけたが、トマスは今のままでいる方が修道会のために役立つことができるであろうし、いつまでも今のままでいるつもりだと答えたという。一行は旅を続け、モンテ・カシーノ、アクィノをすぎて、さらに北へ進むうちに、トマスははなはだしい衰弱と疲労を感じて、マエンザ城に住む姪のフランチェスカ(チェッカーノ伯アンニバルドの夫人)のもとで休養。このときすでに四旬節に入っていたと記録されている(この年の四旬節は2月14日に始まっている)。場内にとどまること数日、いよいよ衰弱が激しくなった。トマスは新鮮な鰊なら少し食べれそうだと言ったが、レギナルドゥスは「フランスかイングランドでなら手に入るかもしれませんが」と答えるばかりだった。そこにボルドナリオという魚屋がテラチナの町からいつものように鰯を配達してきた。レギナルドゥスが何の魚をもってきたのかと聞くと、魚は「鰯だ」と答えたが、かごを開いてみたら新鮮な鰊がいっぱい入っていて、みんな喜んだ。しかし、新鮮な鰊はイタリアでは見られないものだったからおどろいたという証言があって、1319年のトマスの列聖調査のための証人調べの記録に書かれている。立ち会ったモンテ・サンジョバンニのペトルス修道士は、自分もその鰊を食べた証言、その料理法まで証言した。

 

p.205~206 学説の正否はローマ教会の判定にゆだねる

死期を悟ったトマスは、前から招待を受けていたフォッサノーヴァのシトー会修道院に移り、別棟の最上階にある客室で手厚いもてなしと看護を受けた。死の3日前に、大修院長テオバルドの手から聖体を受けたが、それに先立って病床でファッサノーヴァ修道院の修道士たち、ドミニコ会士、フランシスコ会士を前に、次のように話した。

 

「私は、このいとも聖なるキリストのからだ、および他の秘蹟について多くのことを教え、著作したが、私はそのことを、キリストと聖なるローマ教会への私の信仰にもとづいてなしたのであり、いま私は、私の教えたことのすべてを教会の判定にゆだねる。」(205~206頁)

 

トマスは、その3日後、1274年3月7日水曜日の早朝に世を去った。葬儀はフォッサノーヴァ修道院で行われ、悲嘆の叫び声と泣き声は、ことばに尽くせないほどであり、トマスを運んできたロバまで感動して、うまやの綱を切ってまっすぐに棺まで駆け寄って、なきがらを見ると、倒れて死んだという。

 

p.206~207 死後の受難

フォッサノーヴァのシトー会士たちは、遺体をドミニコ会士に渡すまいと、修道院内のあちこちに棺を移動させ、あげく首だけ切り離して別の場所に隠したり、さらには小さな場所に隠せるように、遺体が骨だけになるまで煮るというような暴挙に出たらしい。そして、最後に、1369年、教皇ウルバヌス5世の介入によって、遺骨はドミニコ会に返却され、ドミニコ会発祥の地であるトゥルーズのドミニコ会修道院に安置された。しかし、フランス革命のときに、遺骨は安全をはかってトゥルーズのサン・セルナン教会に移された。1974年、トマス逝去700年を記念して、ふたたび、あらたに修復されたドミニコ会修道院ジャコバン教会の中央祭壇の下に移された。

 

p.207~208 列聖

トマスを聖人にという動きは、ドミニコ会シチリア管区ではじまり、1317年の管区会議でトマスの学生だったトッコのギレルムスを列聖運動の推進者に任命。精力的に資料を集め、翌年夏にアヴィニョン教皇ヨハネス22世に申請。教皇はただちに調査委員会を発足させた。いわゆる「悪魔の代理人」は列聖反対の論拠として、トマスが生前に行った奇蹟の数が少ないことを挙げたが、教皇は、「トマスは、彼が教授として解決した問題の数だけ奇蹟を行ったのだ」(208頁)として、反対論を退けた。こうして死後49年後の1323年7月18日に、正式に聖人であることを宣言された。

 

p.245~246 遊びは自体的なもの

トマスは、知恵の探究を遊びにたとえる。スンマ2-2部、168問、2-4項は『集会書』(32・15~16)「いちはやくあなたの家へ走り、そこへひきこもり、そこで遊び、あなたの心にうかぶことをしなさい」を引いて、遊びが楽しいものであり、遊びにおける活動は、他のことに秩序づけられず、それ自身のために追及されるとし、それは知恵の観照の楽しみについてもあてはまるとする。

 

p.385~386 所有権と生存権について

トマスは次のように考えた。

 

(…)神的秩序によって確立された自然的秩序にしたがえば、低次の事物は、それらによって人びとの必要性が充足されるようにさだめられている。だから人間的正(つまり実定法)にもとづく財の分割や所有は、人間の必要性がこうした事物(財)によって充足されることをさまたげるものではない。したがって、ある人ひどが余分に所有しているものは、自然的正によって、貧しい人びとの扶助に用いるべきである。
ここからして、アンブロシウスはつぎのようにのべており、それはグラティアヌス『法令集』に収録されている。
「あなたがひとりじめにしているのは飢えた人びとのパンである。あなたがしまいこんでいるのは、裸の人の衣服である。あなたが地中にうめている金はあわれな者の身代金であり解放料である。」
しかし、困窮している者の数は多く、すべての者が同じ財によって扶助されるのは不可能なので、困窮者を助けるためにみずからの所有物を配分することは、各人(所有者)の判断にゆだねられている。しかし、たとえば、ある人に危険が迫っていて、他に救済の方法はなく、その場にあるものによって当面の必要を充足しなければならないことが明白であるほど、緊急で明瞭な必要性があるばあいには、その人は他人の所有物をとって自分の必要性を充足してもさしつかえない――公然ととろうと、あるいはひそかにとろうと。また、このことは厳密にいえば、盗みあるいは強奪ではないのである。(『神学大全』第二-二部第六十六問題第七項「緊急な必要に迫られた盗みは許されるか」)(385~386頁)

 

*1:稲垣良典トマス・アクィナス』(人類の知的遺産20)、講談社、1979年、2頁。

*2:稲垣、同書、13頁。出典は『西田幾多郎全集』第十二巻、205頁とのこと。

*3:稲垣、同書、17頁。

*4:稲垣『トマス・アクィナス』(思想学説全書)、勁草書房、1979年、191頁。

*5:稲垣、前掲書、『トマス・アクィナス』(人類の知的遺産20)、378頁。

*6:稲垣、前掲書、『トマス・アクィナス』(思想学説全書)、198頁。

*7:ジュディス・C・ブラウン『ルネサンス修道女物語~聖と性のミクストリア~』、永井三明・松本典昭・松本香訳、ミネルヴァ書房、1988年、209頁。

*8:このあたりは、バーナード・マッギン『フィオーレのヨアキム 西欧思想と黙示的終末論』(宮本陽子訳、平凡社、1997年)に拠るかと思われるが、なにぶん15年ほど前のメモを頼りに記述しているので、出典の不確かなことはご容赦されたい。

*9:稲垣良典トマス・アクィナス』(人類の知的遺産20)、講談社、1979年、385頁。

*10:稲垣、同書、385頁。

*11:稲垣、同書、385~386頁。

*12:ゴットフリート・ライプニッツ形而上学叙説」(下村寅太郎編『世界の名著 25 スピノザライプニッツ』所収)、中央公論社,1969年、423頁。

*13:稲垣『トマス・アクィナス』(思想学説全書)、勁草書房、1979年、219頁。