南山剳記

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ラッセル思想辞典(牧野 力・編)

ラッセル思想辞典

牧野力編『ラッセル思想辞典』、早稲田大学出版部、1985年

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【服部 洋介・撰】


解題

ラッセルについては、これまでにもあちこちの剳記で取り上げてきたから、今さら詳しく説明しようという気にはなれないし、別にラッセルがどんな人かを知っていただく必要もないのだけれど、ノーベル文学賞の受賞者でもあり、ナニか小説家のような人と勘違いしている御仁も少なからずおられることであろうから、ともあれ、この人は論理学者であって、文学者ではないということについては、ご理解いただく必要があろうかと思う。なにゆえにノーベル文学賞なんかとっちまったのかといえば、平和にかんする多数の著作が評価されたからであって、ホワイトヘッドと著した本業の代表作『プリンキピア・マテマティカ』(『数学原理』)が評価されたものではない。もちろん、本業の論理学における業績も卓越したもので、数学者の中村八束博士も東工大のゼミで初っ端から「プリンキピア」原書を読まされたと述懐しておられた。「私のレベルが低かったから感動するまではいかなかった」と笑っておられた。「連続体仮説から無限を引き出せてしまう矛盾を防げると書いてあって、それがすごいのかすごくないのか、わからなかった」というのが、当時の感想であったという。何もわかっていなかったので、先生にヘンな質問ばかりして恥ずかしかったという話だ。*1

さて、ラッセルは大正時代に夫妻で来日して、その際、パパラッチに追い回されて、かなり不快な思いをしたらしい。おまけに中国贔屓ときていたから、全体に日本に対しては厳しい見方をしている。日本は西欧文明の「優秀な弟子」であったけれど、科学と宗教を結合させたわけのわからん国体思想を創始し、その国民性は、残忍、不寛容で、自由な考え方ができないと痛烈な批判を加えている。幕末に日本を訪れて好意的な感想を記した外国人旅行者とはえらい違いで、どちらかというと、戦国期に来日した宣教師たちの感想に近いのではないかというような気がする。日本には全体として敬意を払うに値するナニかがあるけれど、そうではないナニかも応分にあるという見方である。同じ東洋にあって中国がその美点を失わず、日本帝国と同じ轍を踏まないことを、ラッセルは切望していた。同国人のバジル・チェンバレンは、日本文化の模倣的であることを批判的に書いているが、少なくとも西欧文明の摂取ということに関しては、ラッセルもチェンバレンと同じ感想を抱いたもののようである。役に立つものは、倫理的に考えることもせず、何でもパクる。西洋人が正しいと言っているものは、嘘でも反証が出ない限りは信じ込む。その点が中国人とは異なり、宗教的であると感じたようである(「日中両国民の相違点」・「日本」の項を見よ)。中村博士は、日本人はローマ人に似て、実用的なものばかり重視して、ギリシア人のように原理的なものを発明することがなかったと嘆いておられたが、ラッセルと通じるところのある感想といえるのかもしれない。

さて、本辞典は、ラッセル思想の研究者たちが寄ってたかった「日本バートランド・ラッセル協会」の面々が編集したもので、ラッセルの思想を要領よく抜き出してまとめた便利な書物である。先にラッセルの読み捨てエッセイを集めた『人生についての断章』の剳記をアップしているけれど、あれと同じような感覚で気軽に読めるものとなっているから、私としてもお勧めするものである。

ところで、ラッセルが戦前の日本でどのように受け止められていたのか、谷川徹三の「「ラッセル思想辞典」の発刊によせて」にいささか記述がある。これによると、谷川は、京都帝国大学文学部哲学科に在学中、西田幾多郎の哲学概論でラッセルを知り、『哲学の諸問題』(The Problems of Philosophy, 1912)を京都の丸善の書架で見つけて読んだ、という。しかし、当時のならいとて、ドイツの哲学に専ら牽かれていた彼は、それっきり、ラッセルの研究はしなかったもののようである。戦後、『西洋哲学史』を読んで、ラッセルがフィヒテシェリングをほとんど黙殺していることにおどろいたという*2。それもそのはず、ラッセルは大の観念論嫌いで、『権力』のなかでフィヒテをボロクソに書いている。それはつまり、フィヒテ形而上学的な唯我論をドイツをおかしな方向に導いた狂熱的なナショナリズムの元凶と見ているからでもあろう(「ナショナリズムの功罪」の項を見よ)。おそらく、教え子であるヴィトゲンシュタインの唯我論にも不愉快なものを感じていたのではないだろうか。一方のシェリングについては、そもそも取り上げる価値がないか、言ってることの意味がわからなかったかのいずれかであろう。

さて、本剳記で取り上げるのは、結婚論・恋愛論社会主義的な政治論、中国論、日本論などであるけれど、そのほかにも、「西欧文明と東洋の知恵」〔17-01〕、「西欧人の進歩論」〔17-12〕、「西欧の価値」〔43-Ⅱ-13〕など、西欧文明を批判的に論じたもの、「性教育」〔23-Ⅱ-12〕、「性的好奇心」〔23-Ⅱ-12〕など、性の問題を論じたものなども面白い。幸い、webで『バートランド・ラッセルのポータルサイト』の「ラッセル思想辞典*3というページにアクセスしていただくと、ネットでもあらかた読めるので、お勧めするものである。なお、ラッセルの当時は、今よりもフロイト理論の革新性が注目されていたもののようで、ラッセルの教育論は、しばしば精神分析の有効性を前提として展開されている。今回取り上げた項目でいえば、「優生学と断種」〔28-11〕がそれに該当しよう。なお、ラッセルは断種について慎重な意見を述べているけれど、しょせん「科学的に明確な結論が出るまで、断種の法制化はすべきでない」というようなもので、結論が出たら断種もアリなのかという意味で、今日の倫理からすればいかがなものかというような議論も見られる。念のため、お含み置きいただきたい。

その他、個別に検討を深めてみたい事柄は多々あるけれど、ラッセルにかんしては、そのいうところについて、どのようにしたら実現できるかという点を別にすれば、別段、ツッコミたくなるような箇所もないので、内容をそのまま紹介するにとどめたいと思う。なお、各項目に付した番号は、巻末の「ラッセル原書目次一覧」に対応するものであるが、煩雑にすぎるため、出典の大部分は省略した。各項目の執筆者および執筆分担は、牧野の「「まえがき」にかえて」(viii~ix頁)を参照されたい。

 

所蔵館

市立長野図書館(禁帯出)

県立長野図書館

 

関連項目

人生についての断章(ラッセル)

 

ラッセル思想辞典

ラッセル思想辞典

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 早稲田大学出版部
  • 発売日: 1985/05
  • メディア: 単行本
 

 
本文

 

ナショナリズムの功罪
〔61-Ⅱ-05〕

p.25~26 政治的統一性と文化的多様性

ナショナリズムは中世体制の衰微と共に始まり、外国の支配に対抗することが起源。それが勝ち誇ると帝国主義になる。政治面では、世界機関は連邦制であるべきで、好戦的国家主義教育は絶滅させるべき。文化的にはナショナリズムには価値があって、芸術・文学を画一化させるのは無用。文化的特性と政治的統一性の結合・調和の道を発見すべき。政治的統一世界でこそ、文化的多様性が発揮されるべき。
出典)「FACT AND FICTION」(『事実と虚構』、1961)。


自慰
〔69-Ⅲ-13〕

p.144 自慰は有害ではない

自慰は有害ではない。


試験結婚
〔28-12〕

p.151~152 友愛結婚というのがあってもよいのではないか

第一次大戦以来、結婚観は大きく変化した。両家の子女は貞操の価値を認めなくなった。米国では、禁酒法と自動車の普及が婚前の性体験の持主を増やした。若い男女の性関係は、愛情よりも、虚勢、見栄、自己陶酔から結ばれると、最も愚劣なものになる。(151~152頁)

リンゼイ判事の「友愛結婚」は穏健で保守的な提案。(イ)当分の間、子供を生まぬ、(ロ)妊娠、出産、子供のない間は同意離婚できる、(ハ)離婚しても慰謝料を払わぬ、というのが従来の結婚と違うところで、これが法律的に確立されたら結構なこと。性と仕事の結合、両立が可能になる。妊娠するまでは一切結婚に関する法的拘束力は除くがよい。避妊具は性と結婚の姿を変え、両者を区別する必要を生んだ。単に性欲の満足のための売春、性的要素を内包する友愛、相愛の家庭を作るための3種類の男女関係は、現代では混同されてはならない。


自殺は違法か
〔75-27〕

p.155 生命は本人のもの

英米では自殺未遂は殺人未遂。警察に捕まって教訓を教え込まれる。これは二重に不合理。まず自殺企図を犯罪視すべきではない。自分の時計を海に投げ込むのと同じくらいのもの。生命も所有物同様、法的には本人の自由に任せるべき。防止の観点からも処罰は無駄。自殺問題を人命尊重に関連させると戦争を非難することになる。不幸な未遂者に人命尊重論を説くのは偽善も甚だしい。


私有なき社会への道
〔11-02・03〕

p.184 土地と資本の私有は生活を面倒にし、文明の前進を阻害する。だが、革命は不要

土地と資本との私有は、公正の点と社会的に必要な物を安く生産する方法の点から考えて、弁護できない。私有に反対する主な理由は、(イ)男女の生活の発展を阻害すること、(ロ)成功に寄せる尊敬心が私有を美化する心情を生じること、(ハ)物質的な品物の入手に毎日過度の時間・労力・配慮を強制すること、(ニ)文明の前進と創造力を甚だ妨害すること、などである。(184頁)

この悪に染まらない社会に近づくのに、革命や蜂起のような強攻策はいらない。困難があるとすれば、次の三点。(一)勤労者が今受けている禍いは無しですませることを十分理解させること、(二)禍いを排除することに強い希望を抱くこと、(三)排除の方式のために広い想像力・思考力を養い、時間と精力をかければ、これらは克服できること、である。革命的な考え方は不可欠だが、革命的な行動で困難は押し切れないし、また必要でもない。


政治の目標
〔11-01〕

p.240 所有衝動を抑えて創造衝動を発露させるのがよい政治制度

政治家にとって、男・女・子供を度外視して考えられる事柄は何一つないはずだ。政治の目標は、まずできるだけ良い個人生活をもたらすものでなければならない。(240頁)

人間は様々だが、人々の価値判断の指針となる幅広い原則は確かにある。人々をあれこれの方法で型にはめたがるのは、楽に仕事をしようとする役人か、できの悪い教師が考えること。人々はこれを嫌うし、このことは、個性と独創性を踏みにじる。実現されるべき理想は、万人に唯一つの型の理想を押し付けるものではなく、一人一人の望みを許すゆとりをもつものであるべき。人間には欲しがるものと、欲しがる衝動とにそれぞれ二種類ある。個人が私有・独占できるものと、万人が均しく共有できるものの二種がある。ある人が私有すると、他人に迷惑か犠牲を与えるものがあって、それは争いや悪の源にもなる。経済生活の現状では大半がこれに当てはまる。他方、誰かがある知識を得ても、他人がその知識を得る邪魔にはならず、邪魔にならないどころか、その知識が助けとなるようなものがある。これは精神的なもの。芸術家の創作活動や、誰かの善意が、他人の創作意欲や善意を刺激するような場合。人間には、共有できないものを所有させたがる所有衝動と、独占する必要のない精神的なものを生み出したり、誰かにも使わせる創造衝動がある。創造衝動を最大限に発揮され、所有衝動が最小限に現れる生活が、最良の生活。現行制度では、人が所有したいと思うものを一部の人が独占して不当に配分。政治や社会制度の良否は、個人に幸福と害悪のいずれを与えるかで判断される。所有欲と創造力のいずれを伸ばすかを問えばわかる。失業と貧困への恐怖は、人々に臆病と安全第一の考え方を植えつける。世のためになる生き方を幸せと思う人も、財産を独り占めするのを幸せと思う人もいるが、今の制度は、どちらの生き方を選ぶかという点で、人々に誤った選択をさせやすい。


中性一元論
〔16, 25-Ⅳ-26〕

p.293~296 中性一元論

1921年から中性一元論の信奉者だった。主客の二元性はない。シェファーの理論は真と信じる。


貯金の行方
〔75-14〕

p.297 もてる国ともたざる国があるのは問題だ

世界のどこでも、この2年間、営々と貯金してきた人は、自分たちが貧乏になったことに気づく。金はどこへ流れたのか? 世界が今体験している大恐慌は、人力を越えた自然発生的な現象ではなく、全く人間の愚かさと組織力の欠如の結果。金を有り余るほどもちすぎている国があり、他の国は余りに足りなさすぎる。アメリカはイギリスに金を貸し、イギリスはそれをドイツに貸し、ドイツは英仏への賠償金の支払いのために破産寸前。英仏は独の支払いを継続させながら、軍備拡張をやり、戦争になりかねない。初めにどれだけ金があっても、それを戦争で使い果たす。世の中が複雑になり、生産機構を把握しにくくなるにつれ、誰もが個人的に自分の金の最善の見返りを求める方法に正しい判断を下しにくくなる。

 

日中両国民の相違点
〔17-11〕

p.315 中国人は西欧文明を無批判に摂取しない

西欧から学ぶとき、中国人は、富や軍事力を与えるものにではなく、倫理的かつ社会的価値あるいは純然たる精神的関心を満たすものに引かれ、西欧文明に無批判ではない。日本人は己の欠陥に西欧の欠陥を取り込んだが、中国人は自己の長所を失わず、西欧の長所を加え、日本と正反対の選択をするだろうという希望がある。


日本
〔17-06〕

p.315~317 科学を取り入れたのに宗教と合体させた日本人

現代の日本国民は独特(ユニーク)、西欧人が両立しがたいと想定する要素を結合し、

人間業とは思えないほど明治維新の指導者の企画通りに国民も忠実に追従してきた。(…)日本帝国の強化拡大に指導者が勇躍すれば、国民も等しく勇躍した。(315頁)

明治維新以後の日本について驚嘆すべきことは、科学教育が人間を合理主義に走らせやすいのに、日本では時代錯誤的特色である天皇崇拝の強化に科学教育が合体された点である。国家的能率に役立つ西欧の特色を一つ残らず吸収したが、内面は東洋的で、東洋と西洋との要素が真にどれほど融合しているかは甚だ疑問である。

西欧が開国を強要し、日本は屈従よりは対等に闘う決意をした。ドイツから最新の陸軍、英国から最新の海軍、米国から最新の機械技術、欧米全体から新思想を導入、模倣した。

中国人は証明されない限り信用しない人種であるのに、日本人は証明されるまで、うそでも信用するから、日本は宗教的な国である。本質的には民族的宗教で、旧約聖書ユダヤ人の宗教に似ている。国教である神道は維新後に考え出された国家主義イデオロギーで、古来の土着宗教であった神道の改訂版である。仏教は普遍的宗教だが、日本仏教は英国教会(チャーチ・オブ・イングランド)に似て、強烈な国家色に染まっている。(317頁)

 

p.317 工業の芸術化、真面目だが不寛容な国民性。労働者は米国ほど圧迫されていない

日本人は工業面に美的意識を適応させる驚くべき能力をもつ。真面目で、熱中しやすく、意志強固で、理想には底なしの犠牲を払う。欠点は対人関係に現れる。ユーモアに欠け、残忍、不寛容で、自由な考え方ができない。国民の中にはもちろん例外的な人物も多い。全く珍しい優れた人物にも会う。全体的に見ると、日本文化には最高の敬意を受けるに足る活力と決断とがある。

工業の進展に伴い必然的に社会主義と労働運動が発達したが、米国におけるほどひどい迫害は受けていない。(317頁)

ラッセルは1921年(大正10)に来日、7月26日に大杉栄など日本の知識人と会見した。


無用の知識
〔33-01〕

p.387 思索の効用とは

実際生活にすぐ役立つとは限らない「無用」の知識の一番大切な長所は、心の瞑想的な習慣を強めることであろう。(…)行動より思索の中に喜びを見出す習慣は、無知に陥らず権力悪に染まらぬための安全弁であり、不幸や苦悩に会っても心の平静を取り戻す手段である。(…)思索の習慣には人間に益する所があり、非常にささやかなものから最も深いものに及ぶ。

教養の与える楽しみは、現実生活の悩みを取り去る。(…)自尊心を傷つけないで、自己の姿を適切な見方で眺めればよい。
芸術と歴史のような人間生活全体の目的という考えを奮い起こさせる知識をもち、宇宙の中に生きる人間の不思議なほど偶然ではかない地位をいくらかでも理解すると、コセコセとしない、個人的でない普遍的な気持とおおらかな認識から、知恵が最も生まれやすいからである。(387~388頁)


優生学と断種
〔28-18〕

p.396 断種の法制化は政府に悪用されるので、科学的結論が出るまですべきでない

人類の「種」の向上をめざす優生学は、遺伝的要素を強調するが、先天的特質と教育環境のいずれが優位を占めるかを定める資料はまだない。私は教育において良い結果が生まれると確信する。優生学は反政府的意見の持主や少数派の者に低能者か精神異常者の烙印を押す政治的問題を巻き起こす。断種は精神的欠陥藻の精神薄弱者に限るべきだが、米国アイダホ州法のように常習犯、性的変質者、道徳堕落者にも適用したら、ソクラテスプラトン、シーザー、パウロまで断種される危険がある。精神分析で治療できる者も、遺伝の結果でない者もその中にいるからだ。精神分析学者の著書に無縁な人たちが法律を起案し、政府は反対派にこの法律を適用する。科学的に明白な結論が出るまで、断種の法制化はすべきではない。民族優生学は排外的国粋主義にすぎず、国家主義の生む国際的無政府状態と知恵を欠く科学者が合体すると、このような危険が人類を襲う。科学は邪悪な目的にも奉仕するからである。


四時間労働の世界
〔33-02〕

p.402 生産を科学的に組織すれば4時間労働で暮らせる

世界大戦が証明してくれたことは、生産を科学的に組織すれば、現代世界の労働時間をずっと減らしても、民衆に十分な生活を遅らせることができるという事実である。

四時間の労働は不可避でも、余暇を生き甲斐のある“自分の時間”に当てられる。自由時間に没頭できれば、一般の男女幸福な生活に近づく機会に恵まれる。今までよりも他人に親切になり、他人を苦しめず、疑いの目で見ることもなくなり、好戦的気分も消えよう。(402頁)

近代的生産方法は、四時間労働の社会の可能性を保証しているのに、人々は過労、病気、恐怖、飢餓、不信、競争への道を捨てない。機械の出現以前と同様にあくせく働いている。人間が今後も愚かでなくてはならない理由などないはずだ。


ロマンチック・ラブ
〔28-06〕

p.433~434 恋愛を楽しめる制度は大事だが、恋愛結婚の幻想で離婚が盛行

性愛を禁欲的に観たキリスト教会は、男女間の愛を美化できず、貴族がそれを美化した。中世では、貴族の風習と宗教とが人生の性的役割を堕落させた。独身制の確立、教権強化を果たしたグレゴリー7世は、聖職者の妻帯を一掃しようとした。不自然な愛を抹殺する使命をキリスト教はもっていたが、淫売宿のような修道院もあった。ロマンチック・ラブが一般的に情熱の姿をとるようになったのは中世以後で、貴重なものを贈り、女性のよろこぶ詩歌で愛を得ようと苦心するところにある。この喜びを味わえる社会制度は大切。フランス革命以来、結婚はロマンチック・ラブの結果であるとの考え方が成長した。この結婚観は米国では厳粛にとり上げられたが、幻想がまさって結婚の現実的側面を忘れたので、離婚が流行した。
出典)「ROMANTIC LOVE」『MARRIAGE AND MOLALS』(1929)。『結婚論』として邦訳あり。


論理学と推論
〔27-04〕

p.434 人間の推論はまちがっているので、論理学では推論を控えることを教えるべき

人間が自然にやる推論は、ほとんどまちがいというのが明白になったので、昔は推論の技術だった論理学が、今日では推論を控える技術になった。だから、論理学は学校で人々に推論しないことを教えることを目指すべきだと、私は結論する。
出典)『SCEPTICAL ESSAYS』(1928)。邦訳『懐疑論集』。

 

 

*1:インタビュー、2015年9月1日。

*2:谷川徹三「「ラッセル思想辞典」の発刊によせて」(牧野力編『ラッセル思想辞典』所収)、早稲田大学出版部、1985年、i頁。

*3:松下彰良氏がまとめられたサイトのようである。https://russell-j.com/beginner/SISO-IDX.HTM