南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

ズルビン奇談

前頭側頭自閉軒全集抄⑦
ズルビン奇談

最近、世にも奇妙な事件が出来した信濃国

山深い信州のどん詰まりに、かつて芋井草堂と呼ばれた一宇の寺がある。百済から来た仏を祀ったことから、
百済寺
ともいった。今の善光寺である。
その西之門といわれるあたりに、齋藤下総守、惣太夫[1]という神官がある。善光寺の鎮守社の神主である。かつて中村博[2]と齋藤神官家を訪れて昔の話を聞いた。齋藤神主の申されるには、自分祖先は、水内郡司の金刺氏で、善光寺を開いた本田善光を庇護して西の一室を与え、阿弥陀如来を祀らせたところ、軒を貸して母屋を取られる始末となり、神領はまったく寺に横領されたと云う。
善光寺はウチの土地」
が、この神主の口癖である。
この阿弥陀さん、難波の堀江に捨てられていたところを本田に無理矢理くっついて、はるばる信濃の山奥までやってきて、そこで寺に収まった。後に信玄公が甲府にお遷し申し、さらに信長めが岐阜に遷し、太閤は方広寺の本尊にしたが、夢枕に如来が現れ
信濃に返せ~」
と言うので、恐れて戻そうとしたが、間に合わずに死んだ。してみると、阿弥陀さんを動かした連中は、みな滅んだので、阿弥陀さんの祟りと恐れられた。
ところで、善光寺に兄部坊(このこんぼう)という一坊がある。そこの若麻績住職[3]は、中村先生とは高校の同級生で、よく昔話を聞いたと云う。中村先生からのまた聞きだから、いささか歴史に合わないようなところもあるが、話してやろう。
なんでも、この若麻績一族、本願上人と一緒に阿弥陀さんにくっついて行く先々で暮らしていたが、阿弥陀さんを長野に戻そうッて話になったとき、甲府から兄部坊が阿弥陀さんを背負って、長野まで夜逃げしてきたッて云う。これを按ずるに、また阿弥陀さんが取り憑いたのであろう。まったく、人の背中に乗り移るのが好きな仏である。
この善光寺阿弥陀よりもっと有名な仏がいる。名前を、
「ズルビン」
という。
このズルビン、最近、肥後国の人の背中に乗り移って、本堂から脱出を企てた。人々は、慌てふためいて大騒ぎとなった。三百年来なかったことである。
すわ一大事ということで、奉行所の役人も出動して、松本かそこらでお縄にした。その人が言うには、
「こんなものがあるから祟りが起きる、だから埋めようとした」
という。
不届き千万ということでお白州に引き出されるところであったが、ズルビンのそそのかしということにされ、不起訴になった。
かくしてズルビンはもとの本堂に連れ戻され、今日も誰かの背中に乗り移ろうと善男善女の訪れを待っている。

                                  〈2023年4月30日〉

 

[1] 西之門齋藤家、齋藤安彦宮司。なお、明治時代に齋藤安幸がまとめた『齋藤神主家年中行事録』に「自分祖先ハ不詳ト雖モ、往古諏訪伊那より数社ノ神職、建御名方富命彦別神社ニ奉仕ニテ、其神社ト善光寺仏堂ト混淆シテ、仏威益々盛ニ相成、終ニ神社ノ地ヲ横領セラレ、社家ノ私共ハ旧領ト相成、当時中衆十五坊ト申者ナリ。自分一家ノミニテハ旧来ノ職ヲ相守、惣太夫ト称呼致候」とある。2010年1月20日中村博士夫妻とともに安彦氏と会い、談論した。博士の妻は齋藤家の係累である。博士が会話を録音した音声データが残っているが、雑音が多く、聴き取るのはむずかしい。

[2] 中村八束理学博士(信州大学名誉教授)。自閉軒の茶飲み仲間。

[3] 若麻績千冬氏とされる。兄部(このこうべ)とは堂童子の上座をいう。自閉軒メール(中村八束宛、2009年6月10日付)等に阿弥陀さんの夜逃げ一件のことが出ているが、若麻績氏の話とどれほど整合するのか、確証はない。