南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

戦国の軍隊(西股総生)

戦国の軍隊

西股総生『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』、学研パブリッシング、2012年

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【服部 洋介・撰】

 

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:西股 総生
  • 発売日: 2017/06/17
  • メディア: 文庫
 こ

※なお、本記で取り上げるのは、角川ソフィア文庫版ではなく、学研パブリッシング版です。悪しからず。

 

所蔵館

県立長野図書館 

 

剳記
『戦国の軍隊』を読んでみた

 

 

1.  本書の概要

本書は、現代軍事学の視点から戦国時代における軍隊組織と戦争形態について検証しようという野心的な著作である。もっとも、著者の西股氏は、中世城郭の研究者であって、現代軍事学の専門家ではない。著者略歴に「1961年、北海道生まれ。学習院大学文学部史学科卒業。同大学院史学専攻・博士課程前期課程卒業。目黒区教育委員会嘱託、三鷹市遺跡調査会、(株)武蔵文化財研究所を経て現在フリーライター。城館史料学会、中世城郭研究会、日本考古学協会会員」云々とある。博士前期は卒業ではなく修了の誤りであろう。学研でもう一冊、本を出されている。とすれば、なんだか『ムー』的なにおいが漂ってくるが、『ムー』に載った原稿の単行本化ではない。ときおり顔を出す挑発的な文体には、いささか『ムー』を感じさせるものがあるが、飛鳥昭雄先生ではないので、そこを期待することなかれ。

いずれにしても著者の西股氏は、この分野における学際的な研究を提言されており、戦国史を解明するためには、従来忌避されてきた軍事学的な視角がぜひとも必要であると力説されている。そこで目をつけたのが、「戦国の軍隊」における兵種別編成方式という組織的な軍制の発達と、本職の武士(重装備の士分)と、足軽・雑兵という兵の二重構造であった。そして、秀吉の国内統一戦までの期間において、最終的に威力を発揮したのは、組織的に運用された長柄足軽鉄炮足軽たちではなく、正規の重装歩兵である武士たちの突撃力であったと結論する。むろん「戦国の軍隊」は組織戦のために編成されていたけれど、それはどこの大名も同じことで、むしろその点にかんしては、天下まであと一歩だった信長よりも、東国のほうが進んでいたのではないかと、西股氏はいう。そこで西股氏は、信長・秀吉がなぜ他に先んじて天下統一事業をなしえたのかということについて別の決定因を探さなくてはならなくなった。結句、それはプロの殺し屋集団である武士たちの蛮勇に求められることになったのである。

 

2.  長篠で鉄炮の斉射戦術が用いられたというのは妄説だ

さて、本書は『戦国の軍隊』と銘打たれているけれど、なにぶん戦国時代のことであるから、体系立った陣中日誌や戦闘詳報があるわけでもなし、公刊戦史といえば参謀本部の『日本戦史』くらいで、当の西股氏もそのようなものは歯牙にもかけていないようだ。鉄炮の導入ということに関しても、信長が特別画期的であったというような見方はされていない。しかし、今でこそ広く知られるようになった「長篠の戦い鉄炮3000挺3弾撃ちなんてのはどうなのよ」という〈一斉射撃戦術〉否定説は、もともと藤本正行氏ら在野の研究者たちの指摘するところであって、世間に容れられるまでにはかなりの時間を要した、という*1

しかし、この3000挺の斉射なんて妄説(?)を誰が広めちまったのかというと、一説には先に挙げた陸軍参謀本部第四部が出した『日本戦史』の「長篠の役」だという話がある。桶狭間の戦いも含めて、参謀本部の連中は、どうも小瀬甫庵の『信長記』の記述に影響されるところが多かったようである。これらの戦いにはどうもよくわからないところもあって、信長会心の一戦であった桶狭間についても、西股氏は「ビギナーズラック」と膠もない。

しかし、わが国の史学系学会で、このようなあやふやな説がまことしやかに通用しているのとすれば、コリャ問題である。西股氏によると、これは戦後日本の歴史学に根ざす軍事アレルギーの結果であるという。

 

(…)戦国時代の戦争に関しては、戦前から語り継がれてきた英雄譚のような合戦物語――それらは青少年を戦場へと駆り立てるプロパガンダとしても利用されていた――が、あいかわらず通説・定説として充分な検証を経ないまま、再生産されつづけている。これは、にとっては、大いなる皮肉と言えよう。*2

 

3.  長篠合戦は鉄炮戦術の幕開けではなかった

ところで、戦前の青少年は言うに及ばず、小学生だった頃の私もすっかり魅了されたところの英雄伝説の代表格として槍玉にあがるのが、みなさんも大好きな織田信長である。NHKでドラマにもなった司馬遼太郎の『坂の上の雲』という小説に、のちに日露戦争でコサック騎兵を撃破する秋山好古が、留学先のサンシールの士官学校で老教官と騎兵戦術について議論するくだりが描かれるけれど、純粋な奇襲兵種である騎兵を、その本来の特性のままに運用できた天才は、ジンギス汗と、フレデリック(フリードリヒ)大王、ナポレオン1世モルトケの4人だけであったという話が登場する。秋山は反論して、源義経鵯越屋島)と織田信長桶狭間)の2人を付け加えるよう訂正させることに成功する。なるほど、『ムー』的には、義経はジンギス汗と同一人物であるから、もっともな話である(笑) 

なお、この場合の騎兵戦術というのは、源平合戦の時のような騎射戦のことではなくて、これを密集隊形で運用するモンゴル流のやり口である。後述するが、このような騎兵戦術の日本における革新者は、武田信玄であるという説が西洋の軍事史研究書においても取り上げられるようになる。もっとも、彼において頂点に達したそれは、同時に日本の騎兵戦術の終焉をも意味していたと言われるのであるけれど、要するにそれは、信玄の没後、信長によって確立された鉄炮の集団的運用が、これに取って代わったというような見方に出るものである。

しかし、西股氏の見立てによると、そもそも長篠合戦の戦闘主体は武田と徳川で、織田の奴らは武田軍の右翼が攻めかかると、援護射撃を浴びせながらのらりくらりと敵の消耗を待っていただけ、信長に鉄炮の集中使用などという考え方は毛頭なかったというのである。鉄炮3000挺説自体は、一概に否定していないものの、まったく、単なる作戦勝ちである。また、知られるかぎりの史料から見ると、鉄炮の装備率で信長が他の東国大名を圧倒していたという直接の証拠はなく、長篠合戦というものを、「信長が武田軍を鉄炮で撃破した戦いとは評価することはできない」*3というのである。なお、江戸初期は元和の頃にまとめられたと見られる甲州流の軍書である『甲陽軍鑑』にも、武田軍が馬を乗り入れたとは書かれておらず、これは信長めが言いふらした適当な噂だと憤慨している。なお、信長は、長篠の大勝に大喜びして、「信玄に勝った」と言って、信玄塚なんてモノを作った。これは西国のならいで、家康はそのようなという妄言は吐かなかったとされている。信長家には弓取りの空言が多く、義元に勝った時も6万の今川勢に勝ったなどと言いふらしたものだが、駿河遠江三河に6万もの人はいない、小国なのでせいぜい2万4千、信長もありように言えばなお手柄だったが、いらない嘘をついた、と痛烈に批判を加えている*4

もっとも、『甲陽軍鑑』自体、すでに信長の誇大宣伝を信じていたらしい節もあって、わずか数百か千の手勢で今川勢を破ったものと考えていたらしい*5。もうちょっとはいたんじゃないの、というのが今日の見方である。参謀本部の推計では、信長の支配圏を尾張一国の5分の2と見積もって、江戸初期の軍役にもとづいて計算し、その手勢を約4000人としている*6。『軍鑑』は、北条氏康が敵の油断をついて兵数にして10倍の相手を打ち破ったということも記しているから、当時の感覚では、それが可能と見られていたのであろうか。三河兵も西国兵の4倍は強いと書かれているから、そこは『軍鑑』の編者と見られる小幡景憲が、徳川様にゴマをすったものであると考えるにしても、戦術と武勇をもってすれば、数倍の兵力差を覆すことができるという観念がなかったとも言いがたい。そのあたりは、まったく謎である。もっとも、時代は下って鳥羽伏見の戦いでも、鳥羽街道を進んだ幕府軍は、半数に満たない薩摩軍に打ち破られているから、歴史上、ありえない逆転劇というのはまんざらありえないものでもない。けれども、たいがい、敗れた側のありえない油断が原因のようである。鳥羽の戦いでは、幕府軍はそもそも銃に弾さえ込めずに薩軍の正面突破を図ったのである。敵がビビって道を開けるものと信じ切っていたらしい。『軍鑑』も、桶狭間での信長の勝利を高く評価しているが、結句、義元の敗因は軽率さと油断であったと結論している。

一方、長篠の戦いについて、『軍鑑』は、信長が強敵である甲州武田軍を相手に柵を構えたことは、よい知略と評価している。信長が知将であることを否定していないのである。ところが先に書いたように、「武田武者馬を入る」などというのは虚言で、戦場には馬10騎を入れて並べる場所もなかった、と記している。もっとも、これも後世の編纂物で、高坂弾正の談話のように書かれてはいるものの、武田遺臣の負け惜しみのようなものもずいぶんと入り混じっているのではあろう。軍学書のような体であるのに、いちばん肝心な長篠の戦いの分析は、わりあいと簡潔で、柵から打って出た家康勢との戦いについてはいささか書かれているけれど、柵から出てこなかった信長勢のことはよくわからない。西国の奴らは臆病なので、陣地から出てこなかったというのである。そもそも武田軍は、これといった策を講じずに野戦に突入、そうこうしているうちに、山県昌景がたまたま鉄炮に当たったくらいの話で、鉄炮の斉射を食らって壊滅したなどという節はない。信長と家康の連合軍が10万に及んだというのは、そのままには信じがたいが、要するに兵力差のある相手に野戦を仕掛けて壊滅したという見方を示している。負けるべくして負けるいくさだったので、決定的な敗因というようなものが考察されていないのである。

ところで、わりあい信憑性が高いとされている『信長公記』の記述によると、何度も攻め寄せる武田勢に対し、くりかえし鉄炮を射かけて撃退しているようであるから、信長が鉄炮を用いて戦ったのは事実である。勝頼の軍勢は、けっきょく、力攻めで信長の防御陣地を攻略できずに大損害を出して引き上げたというのが、コトの顛末である。もちろん、甲州重臣は「無謀ですからやめましょうぞ」と勝頼を諫めるが、信長を引きずり出しての一大決戦というのは魅力的な選択肢であったらしい。信長弱しという風聞を真に受けてしまったような節もある。とかく勝頼というのは自信家であったということが『軍鑑』にもしきりに書かれるけれど、真相は不明というほかない。現場にいて『信長公記』を書いた太田牛一も、勝頼が鳶の巣山に布陣していたら織田方の作戦は台無しだったという見方を述べている。上杉に備えるため味方の兵力を十分に集中させることができなかったにもかかわらず、勝頼はこの方面で大きな戦果を挙げる必要に迫られていたのであろうけれど、結果は大変マズイことになってしまった。

 

4.  武田方は鉄炮戦をどのように認識していたか

のちのち、この戦いは、ウマと鉄炮の戦いのように喧伝され、この戦いを機に鉄炮の集団戦術が確立されたかのように言われるようになるのだが、話はそう単純ではない。『軍鑑』が伝えるように、諫言を聞き入れられなかった勝頼の重臣たちが、「こうなったらこの戦いで討ち死にするまで」と意地を張って、盛んに突撃を繰り返したようなことはあったかも知れないが、コリャ戦術以前の話である。しかし、東国の武士というのは意地を立てるのを名誉としたものであるらしい。武田軍が鉄炮の威力を知らずにウマで攻略を試みたというような単純な話ではない。もっとも当時、騎兵の速力を生かして敵陣に肉薄して、そこから下馬戦闘で白兵戦に持ち込めば、鉄炮隊を攻略できるという考え方もあったようであるし、鉄炮に当たって死ぬことは別に不名誉なことでもなかったけれど、少なくとも『軍鑑』は、武田方が騎兵の速力を生かして鉄砲隊の突破を試みたというようなことは書いていない。『軍鑑』は、実話半分、虚構半分の軍学書で、長篠の現場にいなかった人間が武田贔屓の考えで書いた本だから、じっさいのところはわからない。しかし、それにしても武田方でも信玄の頃から鉄炮の導入ということは行われていたから、鉄炮戦の知識は豊富にあった。そのことについて、西股氏は次のように書いている。

 

武田氏が兵種と数量を規定して軍役を賦課したもっとも古い残存史料、として挙げた永禄五年(一五六二)の大井左馬允宛の朱印状には、すでに鉄炮が記されている。また、永禄四年に後北条氏が多摩地方の三田氏という国衆を攻め滅ぼしたとき、三田氏の籠もる辛垣城の城内に一挺の鉄炮があって敵兵を撃ち倒したという。(…)
興味深いのは、『勝山記』(『妙法寺記』)の天文二十四年(一五五五)条に見える、次のような記録だ。

 

アサヒノ要害エモ、武田ノ晴信人数ヲ三千人、サレハリヲイル程ノ弓八百丁もテツハウヲ三百カラ入レ候、

 

「アサヒノ要害」とは、信濃善光寺平の北西に聳える旭山城という山城で、この時期、越後の長尾景虎上杉謙信)と善光寺平の覇権を争っていた武田軍にとっては、重要な軍事拠点であった。
『勝山記』の記手は僧侶だから、合戦関係の記事は伝聞にもとづいているはずで、誇張や誤情報が含まれている可能性はある。ただ、『勝山記』には川中島合戦に関する記事がかなり多く、内容も具体的で、川中島の戦況に関心をもって情報収集につとめていた様子も窺われるから、一概に作り話とは斥けにくい。*7

 

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旭山城(長野市) 山頂部を南側から見たところ。江戸時代に描かれた丹波島宿の絵図にも、ここに古城があったことが記されており、城の見える位置を基準に田畑の境目を判断していたらしい。

 

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旭山の南山麓の全体図。かつて北斜面にあった旭山観音は、現在では南斜面に移された。近くの登山口から、山頂の城跡に登ることができる。

 

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旭山の北斜面。裾花川を挟んだ新諏訪から望んだところ。こちら側は、崩れやすい急峻な崖である。

 

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旭山を南方から遠望したところ。背後は飯綱山。左方は、上杉方が立てこもった大峰から葛山へと連なる山並み。

 

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善光寺の北、箱清水の伊勢社から旭山北斜面を望む。山の手前の丘陵台地に往生地集落が立地する。伊勢社の裏山には、謙信の物見岩がある。

 

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旭山の東、妻科からの眺望。かつて妻科は、旭山の日陰になることから半日村と呼ばれたようである。

 

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第2次川中島の戦いの際、武田に属した善光寺別当の栗田鶴寿がここに籠城して上杉方と戦った。件の鉄炮300というのは、このときの話。鶴寿は武田氏滅亡の前年、高天神城の戦いで戦死した。

 

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旭山の東麓は長く伸びて、夏目ヶ原に突き出している。その麓が小柴見で、上杉方に属した小柴見氏という武士がいたらしい。

 

西股氏は、

 

初伝から十余年をへて、鉄炮が西日本の戦場に普及しつつあった天文二十四年(一五五五)の時点で、武田軍に三〇〇挺もの鉄炮があったとすれば、ちょっとした驚きだが、この話はどこまで信じてよいものだろうか。実のところ、これまでも多くの研究者が『勝山記』の記事を疑問符つきで引用してきているが、筆者は充分にありえる話だと思う。*8

 

と言っている。しかし、「前線の城一つに300挺ということになると、武田軍全体でどれだけの鉄炮があったのか」ということにもなるので、多くの研究者が違和感を覚えるのも事実だという。西股氏は、天文24年の時点で甲相駿の三国同盟が成っていたから、信玄は上杉との抗争の最前線である旭山城に、新兵器である鉄炮を100挺単位でまとめて投入したのではないか、というような解釈を示されている。その有効性が認められた結果、永禄に入るころから、信玄は一般の家臣にも鉄炮の調達・装備を指示するようになり、永禄5年には「鉄炮もって参陣せえよ」という旨の朱印状が発給されるようになっていたのだろうというのである*9。この事情は、後北条氏でも同じことで、鉄炮は東国へも急速に普及していたことがわかる。なお、いささか胡散臭い本で恐縮だが、『甲斐叢書』にも入っている伝・山本勘助の『兵法秘伝書』なる書物の目録には、拳法(柔術)、剣法、棍法(棒術)、長道具(鎗、長刀)、弓法、箭先積につづいて、「鉄炮」とある。その条目に次のようなことが書かれている。

 

鉄炮の日本に渡る事、文亀元年に到来し、天文年中に四方に広まる、故古来兵法家にこのさだなし、しかれども殺害の器用たる上は、侍是を外にする儀なし、所以に一図しゐて、一法の理記者也、*10

 

これによると、鉄炮は文亀元年(1501)に伝わったことになっている。『鉄炮記』にある天文12年(1543)の種子島渡来説をさかのぼること42年前である。これはむしろ、『北条五代記』にある「関八州鉄炮はじまる事」の永正7年(1510)渡来説に近い。もっとも、北条氏が実戦で用いたのは氏綱のときであるというから、永正16年(1519)以降ということになる。なお、『三河物語』では、永正3年(1506)に北条早雲鉄炮を使用したことが書かれており、そのように考えると、『兵法秘伝書』説も、東国で流布した説の一部をなすものであろうが、真偽のほどは何とも言えない。なお、『北条五代記』によると、鉄炮を氏綱に進上したのは、小田原の修験触頭であった玉瀧坊であったという。このことは『秋葉山の信仰』の剳記ですでに書いた*11

なお、『軍鑑』伝解本によると、天文11年(1542)に、伊那・木曽・松本の山家侍で、100貫、200貫知行して馬乗10騎・20騎ばかりもつ武士衆が、山中の狩人に弓・鉄炮をよく打ち射る者20を足軽にこしらえ、雑兵3000、4000におよぶ一揆をかまえて諏訪に攻め寄せて安国寺合戦となったという(品第14)。いわゆる「宮川の戦い」である。それにしても、種子島より1年前に、信州の田舎にまさかの在村鉄炮である。ここはちょっとハテナである。ご存じの通り、江戸時代になると、村の鉄炮というものは、城付鉄炮よりも数が多かった。松本藩では、ナント、村の鉄炮は藩の軍役よりも5倍多い1040挺だった。上田藩でも在村鉄炮は327挺で、上田城に置かれていたものより3倍以上多かった。島原の乱でも、土佐藩は猟師さんたちの鉄炮1000挺をアテこんでいたらしい。太閤は、刀狩はしても、鉄炮は取り上げなかったのである。

 

5.  兵種別編成方式で信長は出遅れていた

さて、西股氏は、信長や西国の事例をあわせて考察しながら、興味深い推論を行なっている。兵種別の軍団編成や鉄炮の大量導入ということについて、信長は特に先進的であったと言えず、むしろ軍隊の領主別編成方式から兵種別編成方式への転換ということについては、東国のほうが西国に先んじていたのではないかというのである。曰く、

 

こうした事例を見てくると、(…)鉄炮の大量導入や兵種別編成方式の採用に関して、信長が特別先進的だったとは言えないことになる。
それどころか筆者は、兵種別編成方式への転換に関しては、東国大名の方が早かったのではないかとすら考えている。九州の事例として挙げた沖田畷の合戦天正十二年だが、それ以前の大伴氏と島津氏との合戦についてのフロイスの記述を読んでも、兵種別編成方式を窺わせるような書き方は見られない。

また、『信長公記』の元亀元年の退却戦の事例でも、鉄炮五〇〇は「諸手」、つまり家臣たちの各部隊から抽出した臨時編成の部隊だと書かれている。だとしたら織田軍は、信長直属の弓兵隊や鉄炮隊を有し、戦場で家臣たちの各部隊から抽出して臨時編成の鉄炮隊を仕立てることまでは実現していたが、軍勢が集合した時点で兵種別に再編成する段階には至っていなかったのかもしれない。ちなみに、武田氏や後北条氏のような兵種と数量を明確に指定した「着到定書」は、信長の発給文書の中には確認されていない。*12

 

フロイスは『日本史』のなかで、天正12年(1584)、龍造寺隆信島津義久が争った沖田畷の戦いについて、龍造寺軍がヨーロッパと瓜二つの整然とした隊列を組んで、1000挺近い鉄炮を有し、槍、長刀、大筒の火縄銃、弓矢、その他、兵種別に編成された部隊が見事に配分されていたと書いている。西股氏によると、これが九州における兵種別編成方式の初見であって、それ以前には、そのようなやり方が見られないというのである。信長についても同様で、江戸幕府の軍役規定を思わせるような〈着到定書〉というのは、たしかに武田氏や北条氏の遺文において豊富に見いだされるものである。要するに、従来の領主別編成法方式ではなく、組織戦を可能とするような兵種別編成方式を早期に採用していた東国のほうが、戦国後期にいたるまで、軍事上の優位を確保していたのではないか、というようなことも考えられるのである。もちろん、戦国の末期にあって、信長もこのシステムを採用することになるのだけれど、だとすれば、軍事的革命者としての信長の評価というものは成り立たなくなる。

 

6.  いろいろと遅れていたらしい信長の政策

ところで、戦国時代から大名が用いるようになった印判状というものがあるけれど、その使用ということについても、先行していたのは東国大名であった。今川、北条、武田といった連中である。領主がバンバンとハンコを押す印判状の登場というのは、こうした大量の公文書を通じて百姓にいたるまで直接に統治する新たな政治体制が出現したことを意味するわけで、この点でも信長は東国の様式を踏襲した。ただし、信長の場合は花押を書かなアカンような上級文書にもバンバンとハンコをついたらしいから、彼の頃にはよほど忙しくなっていたのか、東国大名のシステムをさらに徹底させたものか、それとも「天下布武」のデザインがよほど気に入っていたかのいずれかであろう。要するに、ハンコだけで済ませるということは、強権的ということであって、行きつく果て、戦国大名というのはだんだんと尊大な存在になっていたとも考えられるわけである。なお『軍鑑』に、勝頼が海賊衆に御印判の感状を出したことについて、興味深い記述を載せている。信玄の頃には、他国から甲州に仕官して領地をいただくということがあったので、花押を記した判物を発給して所領を安堵したというのだが、長篠の敗戦以降、他家から武田家に仕官する人がいなくなったので、武田氏の直轄地に所領を与えるということもなくなり、花押の跡も稀となり、感状も印判状になったというのである(品第55)。このときは、伊勢から信玄に招かれて武田水軍を構成した小浜、間宮、向井といった海賊が北条水軍を破ったことを賞しているけれど、彼らの知行地は駿河にあった。

さて、このように見ると、信長が抑えた畿内というのは、なるほど先進地域ではあったけれど、案外と古い権威が幅を利かせていた分、因襲的でもあって、それだけ強引な改革が必要とされたもののようでもある。強大な寺社勢力や自治都市(要するに大名の検断権に服さない公界ということである)が、それぞれに寺社領や町を統治しており、そのことが可能であったのも、経済的な集積と自前の武力がモノを言ったためのであろう。一方の東国には、いわゆる戦国大名らしい特徴をもった大名が多かった。そのためか、戦国大名論というのは東国の研究にもとづいて行われ、一方で戦国大名室町時代からの連続性でとらえようとする戦国守護論というのは、室町殿御分国が多かった畿内以西の研究から進展したという研究史上の経緯がある。ゆえに、それがそのままに歴史上の実像であると考えることは躊躇われるけれど、畿内を東国並みの領国として経営するということになれば、いろいろと障害もあったのであろう。ウッカリと将軍と対立してしまい、いろいろと面倒なことに巻き込まれちまった信長は、そのことに忙殺されたのか、分国法も作れなかったし、軍法らしい軍法もなかったといわれている。大丈夫か、この政権? ヤベエと思った明智光秀が、有名な『明智光秀家中軍法』というのを定めるのだが(織田家の軍法については、それを示す文書がたまたま見つかっていないだけと指摘する人もあるようである)、石高に応じて、どんな兵種の者を何人出せとか、そんなことをようやく定めたところである。それが天正9年(1581)のこと。コリャ画期的だと江戸時代でも言われていたくらいであるけれど、北条氏なんかはチャンと、〈着到定書〉で知行高ナン貫文で兵数と軍備はどれくらいだということを明記していたのである。このことは、東国人である西股氏も力説されるところである*13

ところで、北条氏は貫高制をとっていたから、年貢というのは基本的に代銭納であった。コメ実物の物納ではなかったわけである。本題からそれるので、西股氏はこのことに言及してはおられないが、これは一考を要する問題である。当時の織田家中では、家臣の知行高の把握というのが喫緊の課題になっていたといわれている。一方、すでに東国では、検地にもとづく知行の把握が進んでいた。北条氏康は、永禄2年(1559)に『所領役帳』で、家臣たちの知行高を洗い出している。西股氏は、それを軍隊の兵種別編成化を推進するための調査であったとみている*14。もっとも、これらのことは、北条氏研究が進展する中で明らかになったことでもあるので、今後、織田氏の研究が進めば、結論が変わってくるということもありうる。信長検地というのは、少なくとも元亀4年(1573)には行われていたようであるが、史料が不足しており、効果のほどは明らかではない。なお、武田氏領では、永禄6年(1563)の検地で大幅に土地把握が進み、年貢収入が大幅に増加したらしいことが、恵林寺領の検地帳からわかっている。

 

7.  東国の制度が進んでいたのはなぜか

しかし、考えなくてはならないのは、どうして信長領で検地が遅れたのかということであるけれど、理由はよくわからない。信長が忙しかったためか、あるいは、非武家権門や既得層の抵抗が強かったためであろうか。室町将軍を擁して政権の正統性を獲得した信長が、室町時代からの由緒をタテに既得権益を主張してくる連中の要求を処理するのに忙殺されていたということは考えられなくもない。また、いわゆる『明智軍法』の軍役は、検地の進んでいた東国のような貫高ではなく、石高を基準として定められている。このことをどう考えるべきか、少しむずかしい。

周知のとおり、石高制は江戸幕府における近代封建制の統治基盤であるけれど、歴史的に新しく登場した制度とはいっても、貫高制よりも優れていたのか、よくわからない。貫高制が最も整っていたのは北条氏だが、織田政権ではおそらく、貫高制を維持するために必要な貨幣制度が混乱をきたしており、一部で石高制に移行せざるを得ない事情があったのであろう。これは、結果オーライのような形で豊臣政権から江戸幕府に引き継がれたが、どう評価すべきか、悩ましい点である。いずれにしても、西股氏の指摘を考え合わせれば、検地の遅れは、軍制の遅れに響いたようではある。

しかし、制度が進歩的に見えるからといって、その領国が経済的に豊かであるとはかぎらないし、経済的に豊かであるからといって、その勢力が戦争に強いということの保証にはならない。分国法を整備したからといって、それは戦国大名らしい制度とはいえるけれど、だからといって即座に天下が取れるわけでもない。貨幣経済が停滞していたというと、何かよくないことのように見なされがちだが、貫高制には、それ自体の問題もあったし、検地が進むほど民衆の負担は増えることになるから、無理がかさむことにもなるだろう。戦国大名の力が強まれば、年貢の未進や対捍なんてことは、とうていできなくなってしまうので、民衆としては、あとは逃げるしかない。東国で検地が可能だった一方、畿内でそれが進まなかったとすれば、生産力を背景に結合した惣荘の自治権がまだまだ強かったということなのであろうか。この時代、畿内では、まだ大名の一円支配と検断介入に抵抗するお百姓さんたちがいたのである。この惣結合が最も進んでいたのは近江であった。有名な菅浦などは1540年代に浅井氏に屈服させられ、その支配下に組み込まれたが、自前の武力で近隣と合戦までやらかしていたのである。信長に徹底的に刃向かった伊賀惣国一揆なども、国人から地侍(有力農民)までが広範に結合したものであった。伊賀・甲賀というのは、守護の検断権が及ばなかったために、広く自検断が行われたのであろう。また、室町幕府と結びついて守護使不入を認められた既得層が、そのまま戦国大名の一円支配に抵抗したものもあったであろうから、「これからは信長様のいうことを聞けよ」といっても、「ちょー待てや」ということにもなったに違いない。そういう意味では、畿内の権門が信長の朱印状だけでは納得できなかったのか、室町幕府の奉行人連署奉書の発給を求めていたという見方もあるようで、信長朱印状は奉行人奉書の副状であったという人もいる。分国法などがなかったのも、けっきょくは、室町幕府統治機構をある程度活用していたためなのかも知れない。室町幕府はもともと駿河以東のことに関心が薄かったらしく、そのために、戦国大名というものが東国で発展を見たということもあるのであろう。

上方を中心に見られた中世的な〈自治〉というもの、堺の町や一向宗の地内町(最近ではメガロシティとしての〈境内都市〉という概念で捉えられるようになっている)といった公界における「世俗の権力とは異質な「自由」と「平和」」(網野善彦*15といったものは、戦国大名の一円支配の終局に現れた織豊政権によって権力の内部に取り込まれ、その管理下に置かれるようになってゆくのであるけれど、かつて領主の私的所有に属さないということ、その支配の埒外にいるということに積極的な意味が自覚されていた〈公界〉とか〈楽〉、〈無縁〉といったものは、江戸期に入ると、まったく差別的なものに貶められ、いわゆる〈苦界〉に転落してしまったというようなことを、網野氏は指摘する。

 

〔西欧の自由・平等・平和の思想に比べれば、「無縁・公界・楽」の思想は体系的な明晰さと迫力を欠いてはいるけれど、これこそが〕日本の社会の中に、脈々と流れる原始以来の無主・無所有の原思想(原無縁)を、精一杯自覚的・積極的にあらわした「日本的」な表現にほかならないことを、われわれは知らなくてはならない。

こうした積極性は、織豊期から江戸期に入るとともに、これらの言葉自体から急速に失われていく。「楽」は信長、秀吉によって牙を抜かれてとりこまれ、生命力を大規模に浪費させられて、消え去り、「公界」は「苦界」に転化し、「無縁」は「無縁仏」のような淋しく暗い世界にふさわしい言葉になっていく。*16

 

中世前期に萌芽した「無縁」「公界」「楽」の精神は、寺院・都市・市・宿、あるいは一揆という形を取って戦国期にも存在したのであるけれど、網野はこれを「俗権力も介入できず、諸役は免許、自由な通行が保証され、私的隷属や貸借関係から自由、世俗の争い・戦争に関わりなく平和で、相互に平等な場、あるいは集団」と定式化している*17。その秩序原理は、〈老若〉と呼ばれる年齢階梯的な組織による多数決原理であったと見られている。むろん、そんな理想郷が現実に存在したとは考えられていない。

 

もとより、戦国、織豊期の現実はきびしく、このような理想郷がそのまま存在したわけではない。しばしばふれてきたように、俗権力は無縁・公界・楽の場や集団を、極力狭く限定し、枠をはめ、包み込もうとしており、その圧力は、深刻な内部の矛盾をよびおこしていた。それだけではない、こうした世界の一部は体制から排除され、差別の中に閉じこめられようとしていたのである。餓死・野たれ死にと、自由な境涯とは、背中合わせの現実であった。*18

 

それでも、宣教師が堺の町の自由と平和に目を見張ったのも厳然たる事実であると、網野氏は言う。もちろん、信長はこれを支配下に置こうとするのであるけれど、堺は、そうした「有主」の原理に抵抗して、自らを必死で貫徹しようとしていたというのである。そこまでのものは、東国にはなかったのであろう。という意味では、惣荘らしきものがあまり発達しなかった東国は、アッサリと戦国大名の領国経営に服属したけれど、裏を返せば、経済力を基盤とする民衆の成長というものが、畿内に比べて立ち遅れていたのであろう。それゆえに、見たところ近世的な政策を次々と打ち出すことができたということなのかもしれないが、それで畿内に匹敵する経済圏を築くことができるかといえば、限界もあった。

 

8.  信長の頃のゼニ経済

そのあたりの事情は、貫高制の基盤となる貨幣経済にも通うところがあるのではないかと考えられる。織田信長は、永楽銭を旗印にしていたが、彼が入った京都では、ンなモンは流通していなかった。一方、どうも北条氏は精巧な永楽銭を私鋳していたらしく、これで貫高制を維持していたもののようであるが、とにかく、ある程度、貨幣需要が満たされていたからこそ、貫高制が維持できたのであろう。新型コロナウイルスの流行で図書館が閉鎖されているので、手元に確かな研究書がないのでいけないが、Wikipediaによれば、永楽通宝が北条氏領の「公式の貨幣」となるのは、永禄7年(1564)のことであるという。しかし、別の資料には、この時に定められたのは、年貢に使われる貢納銭を精銭(良質な宋銭)とせよということであって、永楽銭による年貢の銭納を定めたのは、天正9年(1581)とする見方も載せられているから、永楽銭による貫高(永高)がどのように定着したのかということについては、いささか心もとないものがある。東国で貢納銭に永楽銭を指定したのは、北条氏のほか、武田氏もそうであったようであるし、遠江から三河の一部にも及んでいたことから、家康も永高を採用して、江戸に入ってからもしばらく続いた。その通用圏は、信長領の伊勢まで及んでいたため、信長自身は永楽銭に親しんでいたのである。

もっとも、北条氏領でも税の物納ということも行われていたから、貨幣量の不足という問題は進行していたように考えられる。北条も武田も撰銭令を発していることから、銭不足に直面していたのはまちがいない。甲州法度でも、市の外での撰銭を禁じている(反対に、大名の統制下にあった市のなかでは精銭を選り分けてもよいとされていた。近年の研究を見ると、撰銭令は、撰銭を公認することの有効性を意識して出されたのではないか、という意見があるようである。大名の手元に精銭を集めようとしたのであろう)。

手元に貨幣史の本がないからハッキリしたことは言えないが、信長の撰銭令というのは、一部の宋銭と永楽銭を基準銭として、他の悪銭を階層化して交換レートを定めるというものであった。尾張では永楽銭が通用していたようであるから、「オイコラ、京都でも永楽銭を使わんかい、ナロー、ンナロー」ということではなかったかと想像するところである。天正年間に、ビタ銭4枚と永楽銭1文というレートが東国の慣行として定着し、このレートは、江戸幕府にも継承されていることがわかっているけれど、信長のしたことというのも、あるいは、もともと東国で進んでいた永楽銭の使用を前提にした銭貨の階層化を京都でも適用したのにすぎないのではないか、というような気がしてくる。つまりは、尾張でしていたことを京でもやっただけのことであって、永楽銭が使えなくなったら、信長自身が困ってしまうのである。そうだと仮定すれば、信長が永楽銭を旗印にしたというのは、「コレ、まともな銭でっせ」という宣伝のためだったのではないかと思われる。だとすれば、さすが信長と、その点だけは誉めてやりたいものである。

当初は「撰銭した奴はブッ殺す」くらいな勢いだった信長だったが、こういうことは海の向こうの中国でも見られたことで、元王朝が交鈔という紙幣を発行したときにも同じ命令が出されたものである。中国では銅の不足から銭貨に代えて小額貨幣としては紙幣が用いられ、秤量貨幣としての銀の使用も始まっていたので、銅銭は日本との取引に使用され、日本国内で流通するようになったのであるが、室町時代には日本でも貨幣不足が進行していたのである。どこでも銭貨というのは、金属としての価値が信用の担保となっていたので銅不足というのは深刻なことであったらしい。朝鮮でも布などが物品貨幣としての役割を果たしていた。日本でも東国では布がその役割を果たしていたし、西国ではコメが使われていた。いきなり中国の紙切れを渡されて「紙幣です」と言われても、「ハテナ?」ということになったのかも知れない。

当の信長も、永禄末年の段階では良貨を確保できずに、畿内ではコメを代用通貨として使う羽目に陥っていた。兵粮米を確保できず、飢饉のときに米価が高騰する危険性もあったため、信長も撰銭令を出して悪貨の交換レートを定めて貨幣需要に応えようとしたわけだが、効果のほどは知られていない。いやいや、逆にビタ銭を積極的に使いまくって金融緩和をやったんだという話もあるが、これもハッキリしない。というのは、信長期から江戸時代の前期に至るまで、貨幣経済が停滞したという見方が依然として存在するからである。信長がマネー革命をやったのだの、信長の経済政策は明治維新並みだのということを言う人もあるけれど、だったら元朝のように不換紙幣くらい出してほしいものである。もっとも、交鈔を発行した金も元も、最後はインフレに陥って壊滅した。けっきょく、明代になって銅銭が復活することになるのだが、小額貨幣の信用保証ということがいかにむずかしかったということの証左であろう。もっとも、銭さえ作ることさえできればいいというのならば、北条氏のように永楽銭を私鋳すればいいのである。あるいは、信長もやっていた可能性を疑ってよいであろう。

しかし、日本でも紙幣を発行しようとした人がいた。後醍醐天皇である。楮で作った楮幣と呼ぶ紙幣であるけれど、どうも政権瓦解で実現しなかったようだ。じつは、日本では早くから債券を紙幣の代わりに使うということが行われていて、似たようなところで、平安時代の切符のようなものがその起源なのかもしれない。「この紙をもっていくと、コレコレの品物と交換できるで?」という命令書なのだが、これを使いまわせば紙幣のようなものである。のちに割符のような手形になってゆくのであるけれど、別に折紙というものもあった。要するにこれは「いくらいくらのお金を差し上げます」という贈呈目録のようなものなのだが、これを別のところで使いまわしたのであろう。借金と同額の折紙をもっていけば、それで負債を相殺することもできた。折紙の発給元が倒産すれば、そのときは不良債権である。これは西洋におけるゴールドスミスの金匠手形と同じような話で、ここでは、金の預かり証が紙幣のように使われていたのである。預かり証が発行されるということは、実物の金のほかに、金と同じ価値をもつ債券が振り出されたということになるわけだから、それが通用している間、マネーは2倍にふくらむことになる。後世、この仕組みが複雑に運用されて、今日のマネー制度が構築されるのであるけれど、おかげで世の金融資産は実物経済の数倍の規模に膨張してしまった。借金の返済がすべて終わると、もちろん、この預かり証は破棄されることになるから、めでたくマネーは消滅する、というわけである。日本銀行券というのは、国の借用書なのである。

すでに10世紀後半から11世紀にかけて、わが国では、役所が発給する徴税令書が為替手形、信用手形の機能を果たしていた。その信用を流通業者、問丸、商人、そして国家が保証していたことについては、佐藤泰弘氏が「十一世紀日本の国家財政・徴税と商業」で指摘するところである*19。こうした状況の中で、山僧や神人、山臥などの金融・商業活動が活発化し、海・山の領主というべき山賊・海賊といった武装勢力博徒に非人、犬神人などとも結びついて、ネットワークを拡大、悪党や廻船人、商人、金融業者などが農本主義的な鎌倉幕府の統制を超えて流通・交通を支配するようになったと、網野氏は書いている*20。14世紀の初頭に西海・熊野の海賊が蜂起して、鎌倉幕府は15ヵ国の軍兵を動員してこれを鎮圧した。このようなことから、鎌倉の農民系武士と、西国の商人系武士というものの相違が際立ってくるのだけれど、網野氏は「後醍醐天皇は、北条氏の強圧に反撥する商人・金融業者・廻船人のネットワーク、悪党・海賊を組織することに、少なくとも一時期は成功し、北条氏を打倒することに成功した」*21と綴っている。天皇は、単にこれを武力として組織するだけでなく、神人公事停止令、洛中酒鑪役賦課令、関所停止令を発してこれらのネットワークを掌握し、政権の基礎を商業・流通に置こうとした、という。

 

(…)建武政府の中枢である内裏に商人や「非人」と見られる人々が出入したのは、こう考えれば当然のことであり、後醍醐の紙幣発行の試みも、手形の流通という実態に応じたものと見ることができる。*22

 

そんなわけで、建武政権にあっては、銭と結びついた〈悪〉という言葉によってあらわされるような商業・流通ネットワークの組織化ということが企図されたのであるけれど、信長は、悪僧の伝統に連なる比叡山を焼き討ちにし、貨幣と結びついた〈悪〉の世界に積極的な意味で肯定を与え、都市民に幅広く支えられた一向一揆も討滅してしまった*23。こうした寺社勢力、一揆自治都市などによる流通・商業のネットワークに信長がどう対峙したのか、一意に評価するのはむずかしい。もちろん、信長に従った自治都市は、堺や今井のように赦免を受けて優遇されているから、信長もそこから旨味を吸うことができた。彼が経済に無関心であったということはできないであろう。しかし、網野氏の評価によると、信長による〈悪〉の徹底弾圧の結果、最終的には「農本主義」を建前とする近世の国家権力の中で、〈悪〉は厳しい差別の中に置かれ、商人・金融業者も低い社会的地位に甘んじることになったというのである*24。それを信長の責任に帰してよいのかはともかく、行きすぎた貨幣経済を是正するプロセスの中で、農村立て直しの意味もあって、貫高制から石高制の移行が行われたと考えるならば、興味深いことでもあるし、信長の評価を変えることにもつながるのかもしれない。もっとも、初期の石高制の目的を、軍役賦課のための基準づくりと考えるならば、農民にどれほどの恩恵があったのかは怪しいものである。

 

9.  貫高制と石高制

このように見ると、代銭納による貫高制から、物納による石高制への移行というものは、経済的な進化なのか退化なのか、まことに微妙な問題である、貫高制を維持していた東国が貨幣経済の優等生だったというような単純な問題でもない。もちろん、戦国の領国経済から織豊政権江戸幕府へと時代が進むにつれて、経済規模は拡大を続けたのであるから、どうにかして貨幣需要を賄う必要というものがあった。けれど、精銭を発行する信用能力を欠いていたためか、ビタ銭すら足りなかったのか、どうも、信長のゼニ対策は奏功しなかったようである。そこで、金や銀を物品貨幣として使用するということが進められ、このことには一定の評価がある。毛利氏などは早くから丁銀などを用いているが、これは石見銀山をもっていたからである。これを削って重さを量り、切遣いにしたのである。竹流金などというのも、この時代の秤量金貨である。信長が創案したものであるかのように書く人もいるけれど、おそらくそれ以前からあったもので、信長は、金や銀の交換比を定めて、どうにか通貨のように使えるように努力した人なのである。もっとも、庶民が使うものではなかった。

そこで、別の対応が必要になったのであろう。どうも、信長の禁止にもかかわらず、コメ経済は続いていたようで、撰銭令でコメを代用貨幣として禁じたというのも、コメ不足のときの対策であって、恒久的なものではなかったという見方もあるようである。ゼニ不足のところで貫高制もあったもんじゃないから、一部に石高制というものが採用されるようになったのであろうけれど、信長の定めた十合枡というのは、けっきょく、コメ経済の信用を高める効果があったということを言う人すらいるくらいである。あるいは武田氏の甲州枡も同じ意図で定められたものなのかもしれない。

ところで、信長が武田氏領を占拠して棟別銭を廃止したという話があるが、現象として見ると、棟別銭というものは、石高制の普及とともに姿を消してゆくもののようである。してみると、全体としては、銭納による税体系を維持することができなかったということなのかも知れないが、この場合は、棟別銭の高いことで知られた武田氏領における農民の逃亡(欠落)を防ぐためのものであったと見てよいであろう。室町時代からの貫高制のもとでは、大名の市場統制のため、米価は上がらなかった。これというのも、もとはといえば貨幣不足を原因とするデフレのためだとする見方もあるが、コメを換金する際に農民の負担が増す一因となっていたに違いない。であるならば、「貨幣不足なのに貫高制ってどうなのよ?」と考えることもできるわけである。そのような次第で、棟別銭の廃止は、結果として百姓の保護と生産の安定ということにつながったと思われる。武田氏が滅んで織田・徳川との戦争もなくなったので、戦費の取り立てが不要になったのかも知れないが、油断は禁物である。というのは、江戸時代にもチャッカリ、本年貢以外にも小物成という棟別銭まがいの雑税が設定されていたのである。あるいは、棟別銭がなくなった分だけ、年貢率が上がってしまったとするれば、元も子もない話である。信長は家臣に国掟を与えて、勝手に税を賦課することや、私に関所を設けて関銭をとることを禁じているから、公定の税をキチンと取れよ、ということで一貫していたらしい。ただ、信長の家来どもが甲信で行なった政治というのは、強引であまり評判がよくなかったようだから、ずいぶんと混乱もあったのであろう。

ついでながら述べておくと、ある種の棟別銭というのは、関所と同じで、寺社の造営費用に充てられるもので、神仏への上分の名目で賦課されたものである。中世初期には悪党関所もあって、むしろ、商業・流通業者が武力で交通路を押さえて、警護料として徴収していたものでもあった。商人ないし遊女の頭目であったと見られる女性が立てた関所すらあったのである*25鎌倉幕府も「勝手に関を立てるなよ」と西国新関停止令を発しているが、これは悪党禁圧令とセットであった。後醍醐天皇も商業・流通、そして交通路の支配権というものを一手に収めようとして、これを利用しつつ統制に乗り出している。けっきょく、鎌倉のように農本主義の姿勢をとっても、後醍醐天皇のように商業重視の姿勢をとっても、関所というのは廃止の方向に向かうもののようである。今日では、信長の数少ない独自政策として挙げられる関所の廃止というものも、前例に鑑みると、別に目新しいものではないのである。とはいうものの、信長より100年昔の一条兼良などは、美濃へ行く際、どこぞの守護が置いたらしい関所にキレているから、よほど不便なものであったらしい。

なお、貨幣経済が軌道に乗った江戸時代にしても、田年貢は物納であったけれど、代銭納が残された地域もあった。ほかならぬ甲州の国中三郡では、信玄の遺制とされる大小切税法という年貢の物納・金納併用システムが認められおり、その比率は4:5であったから、ここでは貨幣の入手ということがぜひとも必要であった。けれど、これは恩典であったらしく、最終的な年貢率が物納オンリーより低く抑えられたため、のちにこれを廃止しようとした明治政府に対して、山梨農民一揆が起こされた。どうもこのようなシステムを通じて、国中地方では早くから貨幣経済が浸透していたようである。この大小切税法、徳川様は信玄の遺制を認めて、江戸時代を通じて例外的に甲州一国にこれが適用されたものであるけれど、貨幣単位をはじめ、武田氏の制度を取り入れた江戸幕府からすると、これは特別な由緒であったのかも知れない。たしかに徳川の財務官僚に武田遺臣の大久保長安などがいて辣腕を振るったのは事実であるけれど、単に信玄の制度が優れていたから、そのまま残したと考えるのは早計である。武田ブランドは東国では伝説化していたから、武田氏の竜朱印を偽造した文書をもって由緒をタテに仕官を求める人も多くあったようである(このことはすでに、藤田和敏『〈甲賀忍者〉の実像』吉川弘文館、2012年)の剳記で書いた)*26。信玄の死を聞いて家康が泣いたという話があるくらいだから、彼にも武田氏への思い入れがあったのであろう。『軍鑑』にも、家康が信玄のようになりたいとつねづね思っていたことが書かれており、武田家の由緒には一定の敬意が払われていたもののようである。余談であるけれど、『駿河土産』という本の「巻の五」に「関東御入国時長柄持を八王子で召抱の事」という話があって、権現様が仰るには、秀吉から国替えを命じられたときに一番無念だったのは、甲州を手放さなくてはならないことであった、と書かれている。勝頼の頃に減った金が再び産出され始めていたためかもしれないが、生国の三河よりも甲州に思い入れがあったというのは、ひとかたならぬものである。なお家康は、八王子に長柄同心を置いて、甲州の物産を江戸で商わせたとのことである。

いずれにしても、武田氏の棟別銭の取り立ては執拗だったらしく、甲州法度にくどいくらい書いてあるから、人びとの負担にも重いものがあったのは事実であろう。信玄在世の頃は他国からの侵攻を受けなかったことで、甲信の人たちはずいぶんと経済的損失を免れたであろうから、それでも安全のためと思って渋々、負担に応じていたかもしれないが、もっと強そうなのが攻めてくると、国境などではいち早く敵方の保護下に入ろうとする者もあらわれる。この場合も、通常はカネで禁制を買って、略奪を禁止してもらうということが行われた。どっちにしても、カネを払わなければ何をされるかわかったものではなかった。敵対する勢力が拮抗している場合は、村は〈半手〉といって両属の姿勢を示して、双方に年貢を納めた。戦国時代の村というのは、大名が家臣に知行割をしてそれでオシマイというような簡単なものではなかったのであろう。むろん、領国が巨大化し、領内で戦争がなくなれば、自然、こうしたことは消滅する。武士にしても、戦場だけでなく、畳の上でのご奉公ということが重要なことになる。そのようなわけで、戦国大名による家臣の城下町集住ということが進められたのは事実であるけれど、主に、のちに役方といわれるような行政職を集住させるのが狙いであったようだ。武田氏もそのような段階に達していたし、信長の安土も同様であった。両者の様態はほとんど変わらなかったと言われているから、この面でも、信長の先進性は否定されている*27

ただし、信長が尾張を出て、岐阜、安土へと拠点の移動を行なったことは、武田氏とは対照的で、武田氏にあっては、甲府から新府への移転は60年間おこなわれなかった。もっとも、信長は東方での戦いは家康に任せて、自分は西へ進出したのであって、反対に信玄は東方で戦っていたから都には近づけず、首府の移転先といっても、領国の地理的中心ということだけを考えれば、諏訪くらいしかなかった。新府というのは韮崎市で、20万年前に起こった日本最大の火砕流である韮崎岩屑流によって形成された七里岩台地の突端に築かれた城である。甲府から目と鼻の先であるけれど、諏訪へも佐久へも出ることのできる要衝で、駿河へ行くのにも便利な立地であった。武田氏の滅亡直前のことで、家臣領民は大変に迷惑を蒙ったので、移転はうまくいかなかったようである。その点、信長は、いうことを聞かない家来の実家に火をつけて、強引に安土に引っ越しを迫ったという話が『信長公記』に見える。当時、信長の身辺警護を担う馬廻や弓衆が、安土に単身赴任していたのだけれど、男所帯の不注意とて、弓衆の家から火事を出してしまい、信長はカンカン、早く妻子を連れて来いと、尾張の実家をブッ壊してしまったというのである。その一方、依然、領地に居住していた武士も多くあったわけで、年貢の取り方は、基本的に地方(じかた)知行制であったので、大名が年貢を直接に管理して、そこから家臣に分配する俸禄制は進んでいなかった。おそらく武田氏にあっても、直轄地からの収入を蔵前衆が管理して、それを各領主との主従関係にない足軽・雑兵、あるいは奉公人の賃金に充てていたのであろうけれど、実態はよくわかっていない。それ以外の年貢収取は、各領主に任されたのであろう。

 

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山梨県北杜市武川町宮脇~韮崎の円野町のあたりから、西側に七里岩を望んだところ。この丘陵の向こう側が穴山氏を出した穴山というところ。新府城は、穴山梅雪の進言で築城され、真田昌幸がこれにかかわったとされるが、定かでない。

 

10. 当時のゼニ事情

話が西股氏の著作から離れてしまったけれど、北条氏による検地と貫高制の整備、そして兵種別編成の早期達成という事例を見ると、信長にあってなぜそれが遅延したのかという疑問は、それなりに重要なものであろうと思う。また、信長はそれらに代えてどのような制度で対応を進めたのか、興味深いところである。おそらく、信長によるビタ銭の異次元緩和は失敗し、信用度の高いブツを代用通貨として流通させざるを得ない事態が続いたのであろう。ついには、金や銀を決済手段として使用することになるのだが、このことは江戸幕府にも継承され、いわゆる三貨制度が確立を見ることになる。そもそも一条鞭法以降、明も銀決済で、ヨーロッパもそれにならったから、信長時代の貿易に必要だったのは銀ということになる。銀がなければ鉛も硝石も買えなかったのである。清代になって銭の使用が復活するけれど、そこで今度は日本の寛永通宝が中国やヨーロッパ勢力のあいだで使われることになった。その後、江戸時代になって、日本でもようやく紙幣と呼んで差支えないものが、銭と並んで庶民の間で流通するようになる。

なお信長は、茶道具をブランド化して恩賞のかわりにしたといわれているけれど、それはそれで画期的なアイディアと誉めてやりたいものである。滝川一益なんどというバカ者は、「甲州征伐でがんばったら、領地はいらんで、茶道具ちょーだやす」と信長にねだって無視された。けっきょく、領地として群馬に佐久・小県なんかをつけてもらって「こんな田舎、トホホ」ということになったのだが、まあ、茶道具も物品貨幣の一例ということなのかも知れない。茶道具はもらえなかったが、刀はもらえたようである。三条西実隆大内氏に官位の世話をしたときの礼銭が銭2000疋と太刀一本だったという話はすでに剳記に書いたが*28、そういうものであろうか。

しかし、これが武田氏なら、家臣には茶道具ではなく甲州金でも渡さなアカンところである。甲州金は日本初の整備された体系的な金貨であり、銅銭と同じ計数貨幣であったと見られている。しかし、こと民衆経済ということになると、庶民の場合は茶道具も金も使えないので、銭かコメ、あるいは布といった小額貨幣をどう担保するかということが問われなくてはならない。銀などは切って使ったから、小額銀貨として銭貨を補完したものとは考えられる。なお、畿内に限らず商取引の盛んな地域では、すでに銭不足が進行していたものか、今川氏領でも〈米方・代方制〉というのがあって、コメは石高、畠年貢や夫銭・屋敷銭は貫文高で定められていた。なお、貫文制といって、田年貢を貫文高であらわしたものもあったけれど、北条氏の貫高制とちがって、基準高はマチマチであったらしい。この、年貢を銭納とする、いわゆる〈石代納〉というのは、江戸時代を通じて主に畠年貢に継承され、地租改正まで続いた。今川氏が石高制を部分採用していた理由は不明で、いろいろ書いたことはおおむね憶測の域を出ないが、ゼニ経済が機能しているとか、検地が進んでいるからと言って、ただちに経済先進地であるとは言えないのであって、結果として東国で兵種別編成の軍制が進んだということについても、それ単体で評価することはむずかしい。また、民衆のための小額貨幣の問題と、大名や商人が大口の取引に用いた金や銀といった高額の金属貨幣の問題を一括りにしてしまってよいものか、その点も一考を要するものであろう。けっきょくのところ、コメは江戸時代でもある面で通貨の役割を果たしていたのである。

すでに書いたように、農民からすると、どうも金納よりも物納のほうが直接的で中間搾取のリスクが少ないという考え方もあって、税はすべて金納ということを定めた地租改正には反対一揆も起こった。ただ、逆の例もあって、酒田県の〈ワッパ騒動〉というのは、石代納を認めた新政府に対し、県が農民から物納で年貢を取って、それを転売して不正な利潤を得ていたことに起因するものであった。ついには過納米金の返還と減租、特権商人の廃止などを求めて訴訟となった。正直、戦国時代にあって、検地で土地把握をした後、さらに米の生産高を貫高に換算するなどという手間をかけることが領国経営の上で効率的であったのか否か、私にはよくわからない。江戸時代のように物納にしてから蔵屋敷で換金すべきか、そこはシステム上の問題もあって悩ましいが、いずれにしても大名の都合によったもので、別に民衆のことを慮ったわけではなさそうである。武田氏の蔵前衆も、各地の御蔵に集めた年貢米を、現地の市場で換金して甲府に送っていたようであるが、このことには信州や京都の富商がかかわっていた。そのようなわけで、市では精銭を使うことが求められたのであろう。

また、太平洋海運の進展にともなって、信虎の頃から伊勢御師の幸福太夫甲府に屋敷地を賜っており、どうも商業活動にも従事していたもののようである。幸福太夫の本家は伊勢の山田で借上業を営んでいたが、こうした金融業は、諸国の旦那廻りをする宗教家が得意とするところのものでもあったし、比叡山の悪僧や山臥などもこれを営んでいたようである。このことには問題もあって、貨幣経済と年貢の銭納化が進むにつれて、こうした人たちが年貢や公事を立て替えたり、徴税を請負などして、農民と領主のあいだで中間利益を得るようになっていたようなのである。このような人を富裕者という意味で「有徳人」などと読んだが、「有徳の百姓」という言葉があるけれど、どうも実態は農民だけでなく、こうした商人なども含まれていたらしい。そのようにして得られる利益が得分権として所職化することで、その下にいた農民の負担が増していくことになったとも考えられる。石高制のもとでの初の本格的検地となった太閤検地では、耕作者に直接の納税義務が割り当てられたので、中世的な所職は否定され、土地の権利関係はだいぶスッキリとしたものになった。なお武田氏は、村々の有徳人に新たに軍役を割り当てていたことが知られている。

さて、外宮御師の幸福太夫の話が出たけれど、室町時代以降、伊勢山田の町衆は自治を行なって手形取引も活発であったことから、のちにそこから山田羽書と呼ばれる紙幣が生まれることになった。これは17世紀の初頭のことであるけれど、丁銀の切銀遣が禁止されたことを受けて、小額銀貨に代わるものとして発行されたもののようである。伊勢や今井の銀札は兌換のための正貨準備が十分であったことから、長く信用を保ち、明治政府が藩札を廃止するまで用いられたけれど、各地の藩札はしばしば取り付け騒動に発展した。じつは、この問題から戦国時代の撰銭令についての再解釈が試みられたものと考えられ、自領の良貨を他領で発行されたビタ銭まがいの藩札の使用によって吸い上げられないように、こちらでも自衛策として藩札を刷るというようなことが行われたことに鑑みると、単に「撰銭するな」ではいろいろと問題が生じたであろうことも想像できる。この点でも、正貨の確保と撰銭の一部公認というのは、セットで行なわれていたと考えられ、信長が悪銭ばかり使っていたとは考えにくいのである。当時の銭貨というのは商品貨幣でもあったから、銅の金属としての価値がものをいったわけで、良貨を集めて悪貨に改鋳して出目(益金)を得ることもできた。これを、撰銭を禁止する他国に大量に流してボロい商売をすることもできた。要は、悪貨による通貨膨張策というのは、領国間の為替レートの安定と、領国内の物価安定のバランスを考えて行わなくてはならないということである。

なお、この時代の貨幣は、堺銭などのように民間でも発行されていたから、事態はなかなか複雑であった。北条氏は永楽銭を国内鋳造し、武田氏は甲州金を発行して貨幣供給を増加させようとしたのであろうけれど、このようなことは市場拡大の過程で必要となるものであって、そうでなければ単にインフレを引き起こすものでしかない。あれだけ戦乱に明け暮れていたのに、戦国時代というのは経済成長期であったと考えられている。農村失業者は公界に逃げ込むか、さもなくば戦国大名に雑兵として雇われた。ほとんど軍事ケインズ主義である。西股氏もいうように、戦乱は失業者を生み出す一方で、常に雇用をも生み出していたのである。もっとも、彼らに給地はなかったから、他国を壊滅させて乱取りをすることで収入を得ていたわけである。信長軍が京で略奪をしなかったなどというのは、まったくのデタラメらしい。まったく困った経済成長である。

こうして巨大な領国を形成した大名たちは、次に商業統制に乗り出す。信長は六角氏や今川氏の楽市令に影響を受けたと考えられているけれど、結局は特権商人をつくって座を再結成させてしまった。これは何も信長に限ったことではないので、彼ひとりの責任ではない。武田氏にあっても商売役銭を徴収する商人頭のようなものがいて、徳川時代になってもそのまま居座っていた。どこでも大名による商業統制ということが進んでいたわけである。つまるところ、楽市なんてのは、もともと〈楽〉であった中世的な自治空間の都市法をそのまま認めたものであって、それを大名が公許して統制下に置いただけのものであるらしい。信長の創案になるものではなかったのである。そこから税金とってやれなんてのは、みんなが考えたことであったし、室町時代から行われていた。けっきょく、都市民も農民も、外部の暴力集団にカネを払って、自治を買っていたのである。

一方、北条氏領では永楽銭を基準銭にして貫高制を整備したわけだが、もともと永楽銭は畿内基軸通貨ではないから、北条氏が西国から物資を調達しようということになると、あるいは、もっと効率的な決済方法が必要になったことであろう。東国の伝統でいえば、武田氏や今川氏と同様、〈金遣い〉である。コメ現物や布を輸送して代用通貨として用いることもできるけれど、どう考えても不経済である。銅銭にしても、かさばることが嫌がられた節もある。ゆえに、大口の軍用品の取引や、家臣への恩賞ということに金を用いることは、不合理なことではなかった。銭と違って秤量貨幣であったから、秤さえあれば、どこでも使えたはずである。一方、マネー革命を庶民レベルにまで浸透させるためには、銭なり紙幣なりという軽量で信用度の高い小額貨幣が潤沢に投入され、使用されることが必要となるけれど、織田政権のそれは、不徹底なものに終わったもののようである。仕方がないので、いよいよブツである金や銀を貨幣として使うことになるのだけれど、一般の民衆経済にどの程度寄与したのか、けっきょくはコメなんじゃないの、という疑念はぬぐえない。なお、金は東国、銀は西国に産するものであった。石見銀山をもっていた毛利氏は、撰銭令を出す必要がなかったというのだが、いくら銀が出ても、切銀でもしないかぎりは、庶民はコメ経済に頼らざるを得ないような気もしてくる。なお、この時代の高額金属貨幣としての金や銀は、武田氏の甲州金以外は秤量貨幣である。江戸時代の話だが、じつのところ、庶民はほとんど金や銀を見たことがなかったという話もある。

さて、日本初の金貨といわれる甲州金の制度は整然としており、一見してじつに先進的である。しかし、ンなモンを自国だけで整備したって、領国貨幣など全国的には使えないから経済は発展しないという人がいる。銭の場合はそうであろうけれど、金の場合は、量って使えばいいわけである。計数貨幣としての信用は領国内にとどまったかもしれないが、秤量貨幣として他国で使えないということはなかったのであろう。それこそ、金なら砂金でもよいわけである。しかし、これにしても、民衆経済にどう影響したのか、小額貨幣の問題は残らざるを得ないし、現代社会の構造をそのまま中世末期に当てはめるわけにもいかないので、高額の金属貨幣によって補われた流動性が、どこにどのように作用したのかについては、もう少し検討を要するように思われる。けっきょく、この時代の貨幣経済に重要な役割を果たしていたのは、社会の一握りの人であったのではないかという疑念を抱かざるを得ないのである。民衆レベルでは、相対的に金属貨幣の重要性が低下して、コメ遣いが続いていたのではないかというようなことも考えなくてはならないであろう。一方で、戦国大名や豪商の手元流動性は、金銀の採掘量が増すにつれて高まっていくわけである。金属貨幣とコメのあいだにも互換性はあったと思われるけれど、現代にはないユニークな制度である。リアルマネーと地域通貨の問題などを考え合わせると、興味深い。

なお、甲州金の単位制度はのちに江戸幕府に引き継がれている。甲州大好きの権現様の思し召しか、甲州金自体も甲州での使用を許されており、信玄公の面目躍如というところであるけれど、当時の制度としては、領国貨幣の域を出るものでしなかった。甲州枡というのも似たようなもので、度量衡の統一を企てた過程で生まれたものであろうけれど、全国的に見れば国枡の一つである。それが幕府にも使用を認められて、大小切税法・甲州金とあわせて甲州三法などと呼ばれたが、これはまったくの特例である。そうした特例の存続活動を通じて、信玄公崇拝が今日まで残ることになった。恵林寺にあった信玄の墓は織田勢に寺ごと燃やされてしまったが、甲府市内の火葬地と伝わる場所には、今では立派な墓が建っている。かつては魔縁塚と呼ばれて不吉がられていたようだが、大僧正にまでなった信玄のこと、仏道修行者が天狗道に堕ちたものにたとえられたのであろう。あるいは京を望んで隠岐で死んだ後鳥羽上皇のようなものにたとえられたのかも知れない。信玄が京に執心していたことは『甲陽軍鑑』で、甲斐を滅ぼして勝頼の首と対面した信長の言葉にもよく表れている。なんでも信玄は、首ひとつになっても上洛して、天子様に参内つかまつりたかったというのである。なお、近くには武田氏に代わって甲州を治めて、しまいには一揆に殺された河尻秀隆の河尻塚というものもあるが、こちらはまったくひどい扱いを蒙っている。祟られるぞ。

 

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甲府市岩窪町の信玄公墓所。地元住民は「信玄公さんの墓」と呼んで崇敬しているそうである。ほとんど熊本の「清正公さん」(せいしょこさん)である。

 

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こちらが、信長に諏訪と甲斐の統治を任された河尻秀隆の「河尻塚」。圧政を敷いたということで恨まれ、死後、さかさに埋められたというので「さかさ塚」ともいう。なんと、信玄公墓所から歩いて1分のゲートボール場のフェンスの外にある。もっと祀っといた方がいいぞと思わないでもない。

 

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織田勢の検断を拒否して焼き討ちされた恵林寺山梨県甲州市)。「心頭滅却すれば」で有名な、この山門。

 

11. 畿内には信長の標的になりそうな金持ちがたくさんいた

さて、北条氏をはじめ関東では、永楽銭を精銭として定めたのであるけれど、信長のアピールにもかかわらず、これは上方では定着しなかったようである。東国に成立した江戸幕府も、新規の永楽銭の鋳造を停止して、畿内で流通していた京銭と呼ばれたビタ銭を基準にして、寛永通宝が出るまで1:4の交換レートを維持する方針をとった。この時代の京都あたりでは、宋銭の使い古されたものの方が、信用度が高かったのである。私も高校生の頃、古銭ガチャで怪しげな宋銭の使い古したようなものを100円で手に入れて喜んでいたものである。それはともかく、このように、悪銭を階層化してレートを定めるということは、どうも信長の独創に出るものではなくて、すでに各地で行われていたことのようである。畿内での明銭の信用は低かったが、徳川幕府は永楽銭の価値を悪銭4枚と高く定めている。本音では、永楽銭を基軸通貨にしたかったのであろう。けれど、当時優勢であった上方経済の慣行を温存せざるをえず、永楽銭を徐々に廃止する方向性で銅銭使用の統一を図ったもののようである。このようにして見ると、江戸初期まで貨幣経済は停滞したにせよ、経済成長は続いていたということらしいから、少なくとも信長のゼニ政策は奏功しなかったが、かといって経済が衰えるということもなかったようである。経済成長が先で、貨幣不足が後からついて来た、というようなことなのであろう。遅れて経済が発達した東国では、畿内から悪銭として排除された明銭を基準銭として採用した結果、貫高制の維持ということが可能となった、ということであろうか。似たような明銭の使用は、九州でも見られるようである。

いずれにしても、高信用の銭貨を鋳造できなかった織田政権にあっては、貨幣経済がコメ経済に転換し、それに金銀を加えて銅銭に代えるということが行われるようになった。貨幣不足そのものは、信長のせいではなく、撰銭令の意図というものも、「基本、コメはやめてビタ銭でも何でもを使ってくれよ」ということではあったのであろうけれど、しまいには「こうなりゃ、めんどくせえから、コメ決済でやっちまえ」くらいなことにもなったのかも知れない。決済手段がないとなれば、いよいよ経済が停滞してしまうからだ。生産物があっても、取り引きができないのでは、元も子もない。製品を作って包材足らずというようなものである。これは領国経済において深刻な問題である。

戦国大名といっても、銭なしで商人から商品を召し上げるなんてことはできなかったわけで、それこそ商人が逃げ出してしまう。さらに、強力な商人ともなれば、堺や今井のように武装して大名と戦うこともできたわけである。この時代の富商のほとんどは京都周辺にいたと言われているけれど、武田家にあっても直轄領の管理に当たった蔵前衆の頭役のうち、伊奈宗富は信州伊那郡の商人、諏訪春芳も諏訪の商人であったが、頭役の下には京都の商人であった松木珪林という人物も召し抱えられており、『軍鑑』にもしばしばその名前が見える。いささか学のある人間ではあったけれど、馬場信春あたりにやりこめられる話が出てくるので、武士の目線では卑しまれていたのかもしれない。もともと松木は京と甲斐の貿易で財を成した人であったらしい。信玄が駿河を領有すると、伊勢の小浜氏が知行を与えられて海辺に住みつくようになるが、これは海賊商人であったらしい。信長についた九鬼水軍との争いに敗れて、武田氏の招きに応じたもののようである。

信長の撰銭令をあたかも現代の金融緩和のようにいう人がいるが、これは言うほど画期的なものでもなければ、それほどの悪法でもなかったというのがじっさいのところなのであろう。悪銭の使用基準を定めた法令は室町幕府からもたびたび出されていたし、興福寺もすでに精銭と悪銭の交換レートを定めていた。いずれにしても銭の信用は落ち、しまいには甲州金なども出回り、美濃あたりでは、畿内から駆逐された悪銭が出回ってインフレに陥ったという話もある。けっきょく、織豊政権にあっては、東国のように整備された貫高制が維持できなかったことから、てっとり早く石高制に移行したものとも考えられるが、貨幣量を増やせば経済が活性化するという仕組みに鑑みれば、コメ経済も一種のマネー革命ではある。こうなってくると、コメ経済をやめさせて銭を大量に緩和したのが信長の功績だという説明は、いまひとつ腑に落ちない。むしろ、やむを得ずコメ経済・銀経済併用制に早期に移行せざるをえなかったことがかえって奏功したのではないか、というようなことも考えてみたくなるのである。いずれにしても、畿内はすでに経済的先進地であって、信長がいてもいなくても銭不足が深刻化するほどの商業的活況を呈していたのであろう。今では信長の功績は、せいぜい関所の廃止くらいで、これにしても、武田氏も含め、各地の戦国大名が一円支配の過程で実行に移していることである。もっとも、戦費が足りなくなると新たに関所を置くようなことをしたから、信長ほど徹底したものはなかったようである。もっとも、信長が上洛してから瀬田に関所を置いたという昔話もあって、信長の寵臣・森長可がそこを下馬もせずに通行して、とどめようとした関所の役人を切ったなんどという話もある。もちろん、信長様は笑って許した。「森さ、おまえ、五条大橋で人斬りをやった武蔵坊弁慶みたいな奴だから、武蔵って名乗ったらどうよ」。まったく、笑えない話である。

と、森のヤンチャ伝説は、小牧・長久手の戦いで彼が戦死するまで続くわけだが、その初陣は、長島一向一揆討伐であった。これは伊勢湾の制海権をめぐる争いとなり、当時、堺と並び称される商業都市であった伊勢の大湊や山田の会合衆は、ナント、裏で一揆に手を貸して信長の支配に反抗していたのである。商売相手としては、信長よりも一揆の方がよかったということであろうか。よほどの嫌われ方である。最終的に、信長方の九鬼水軍がこのあたりを取り仕切るようになると、先にも書いたように、同じ海賊商人だった小浜衆は駿河に逃れて武田氏に仕えるようになった。その後は徳川氏に属して、小牧・長久手の水戦で活躍することとなる。

このようにして見ると、皮肉にも経済のことは、信長が敵に回した一向宗の方が進んでいたらしく、港湾都市の堺に対して「陸の今井」「今井千件」などと謳われた今井町といったものはその典型であった。のちに、各地の藩札に先駆けて、銀の兌換券である高信用の「今井札」という銀札を発行したのも今井町であった。信長もこれに保護を与えて赦免し、優遇して政権内に取り込むことになった。この当時の信長のやり方というのは、とりあえず脅迫である。堺に続いて石山本願寺にも脅迫で矢銭をかけて、まったく、それしかやることがないのかと、いささか呆れもするが、そうなってくると「アレ、けっきょくは経済よりも軍事力の出番か?」ということにもなってくる。カネは金持ちから脅し取る、何ともてっとり早い方法である。信長の経済的天才という人間像はどうなっちまったんだという感じも受けるけれど、堺や今井を支配下に置いて儲けようという発想は、まァ、悪くない。石山本願寺を退去させて大坂に遷都しようというのもアイディアとしてはよいであろう。惣百姓や自治都市はいうに及ばず、大名も寺社も、みな天下人のいうことを聞かなアカン。税はぜんぶ信長様に納めぇよ、というのは、理屈としちゃもっともではある。農民からの本年貢だけでなく、商人から冥加金をとって大儲けしたのが信長の目の付けどころなどということをいう人もいるが、信長に反抗した伊勢の大湊などは、もともと国司の北畠氏にカネを払って自治を敷いていたのである。チャンとやれば、もっと効率的にカネを取れたのである。「信長、やだな」という印象をもたれてしまったのか、この地域の人は長島一向一揆が壊滅するまで、信長に抵抗し続けたし、どうも隣国の伊賀・甲賀・近江あたりも一向一揆を支援していたらしい。長島の中心寺院であった願証寺は武田氏とも姻戚関係があり、勝頼の妹・お菊御料人が嫁いでいたという伝承もある(もっとも、『軍鑑』は、願証寺との婚約を変更して、菊姫上杉景勝正室となったことを伝えている(品第54)。こちらが史実である。なお信玄は、菊姫を家康の弟に嫁がせて味方につけようということも考えていたと、品第51にある)。そうしたわけで、武田氏は一向宗も含め、あらゆる宗派を馳走したと『軍鑑』にあるけれど、武田氏が尾張の大名であったなら、事情はまた違っていたかもしれない。けっきょく、太平洋海運をめぐって熾烈な争いになった可能性も否定できないし、自領の内部に独立状態の一揆などがいたらオチオチ夜も寝られないので、信長でなくとも、マトモな戦国大名なら弾圧に走ろうとするものらしい。

たとえば、今川義元は『今川仮名目録』の追加21条で守護不入権を否定して領国の一円支配を確立したと言われているが、これも三河一向一揆を始めとする一揆勢力に対するものであったらしい。武家領と並立していた公家荘園や他の寺社領への不入権は、それなりに認めていたという考え方もあるから、のちの信長ほど破壊的なことは起こらなかった。しかし、戦国大名の一円支配ということが進めば、おのずから権門相互の並立ということは否定され、荘園や寺社領といった非武家権門の自立的性格は抑えられる方向に進んだであろうと考えられる。一応、信長は天下静謐のことに責任をもっていたので、これは今川氏のバージョンアップである。寺だろうとナンだろうと、公儀の言いつけに叛く不届き者を成敗するのはもっともな話であるけれど、同じように延暦寺つぶしを画策した悪御所の足利義教と同じように果断な人であったらしいから、延暦寺なんか焼いちまえ、一向門徒はミナゴロシだ、とあんなことになっちまったものらしい。信長は「ウサ晴らしに長島で大虐殺してみた」みたいなことも言っているようだから、そこはちょっと変わった人であったらしい。さすが、乱暴者の森の上司である。人びとが現実的になって、寺社を恐れるということが衰えてきたことの結果のようでもあるけれど、しょせん、職業的暴力集団である武士のすることである。

一方で、武家と並立する寺社勢力の統制ということは、初めて中央高権として確立された武家政権である室町幕府の政策を引き継いだものとも考えられるわけで、それを徹底した信長の蛮勇によって、一元的な政治体制の地ならしが進んだから、秀吉、家康なんてのは、ずいぶんと恩恵を蒙ったはずである。このようにして、武士だけがエライ社会が到来したのであるけれど、網野善彦なんかにしてみればケッタクソ悪い話に違いない。なお、余談であるけれど、『甲陽軍鑑』によると、延暦寺の再興を嘆願された信玄は、「じゃア、身延山延暦寺を移転させるか」と思いついたらしいが、身延山の霊験あらたかなことに思い至らなかったと見えて、翌年の西上作戦の帰途、客死して帰らぬ人となった(品第39)。ま、そうとは書いちゃいないが、祟りである。なお、自分の招請に応じなかった美濃の希庵和尚を、透破を派遣してブッ殺しちまったという逸話もあって、案外、信玄にも信長とよく似たところがあった。もちろん、祟られた。それはいただけないにしても、この信玄、長遠寺住職の実了師慶という一向坊主を見込んで、浅井長政のもとへ軍使にやらせ、ついでに長島・大坂・堺・加賀・越中などからも信玄に味方する旨の証文をとらせたという。『軍鑑』は、信玄公は妙心寺派であったけれど、他宗を不公平に扱わず、他国の国主なら崇敬しない一向宗時宗も取り立てて、長遠寺相伴衆としたと、その大人物ぶりを誉めている(品第8)。長遠寺は越後へも派遣され、謙信に気に入られたようである。

もろもろ見てきたが、経済政策も不発、軍法もなし、それでも信長が天下人になれたのはなぜかというような問題は、じつに興味深い。それぞれについては場当たり的な応急処置であっても、時代によく即応できるということのほうが、あの局面では重要だったということであろうか。軍法は大敵と戦うために必要なものであって、信長には美濃斎藤氏以外に行く手に大敵がいなかったから、とくに軍法を要さなかったという『軍鑑』の指摘は、案外当たっているのかもしれない。信長というのは、精緻な理論より迅速な行動の人であったということであろうか。だいたい、すぐれた戦国大名には目見当の利く人が多かったらしく、それが下手な人は御家をつぶしてしまった、などという教訓めいた話がまことしやかに伝わっている。要は、正確な観察眼をもっているので、日ごろ目にしているものが、わりあい正しい数字と合致するのであろう。そうなると、いちいち計算をしなくとも、何がどれだけあって、どれだけ不足しているか、それを用いて何がどれだけ可能かというようなことを素早く判断することができるのであろう。把握可能な目の前の数字をもとに当面のことを小出しに判断し、その間に全体の計算をおこなって中長期的な見通しを立てるというのは誰にでもわかる合理的な方法ではあるけれど、状況が刻々と変化する中では、計算のやり直しということが頻繁に生じるので、そのうちに計画は破綻する。ものごとが定常的に推移しているときはよいけれど、目まぐるしい状況にあっては、もうパニックである。武田信繁の家訓81条に、『碧巌録』をひいて「定盤の星を認むることなかれ」とあるが、これも数量を計るのに計器の目盛りを読むなということである。直感と現実がどれだけ整合するかという、わりあいに感覚的な把握能力が必要とされたのである。こればかりは得手不得手で、おそらく、信長というのは、こうした能力に秀でていたのであろう。リスクを恐れないサイコな性格ということもあったのであろうけれど、アテが外れるまでは急成長を続けるもののようである。現代にもそんな企業がいくつかある。

ちなみに『駿河土産』によると、家康も軍法をもたなかったという。作戦を書面などにしておくと、その通りに実行して失敗した人間を叱るわけにはいかず、逆に、書かれていないことを実行して戦功をあげた人間を誉めたりすれば法が成り立たなくなるので、そのときどきの判断で行動したとのことである。どうも中小企業らしいところがあって、意思疎通が密だったようである。信長とは事情が異なっていたのかもしれない。のちに大阪の陣で諸大名を率いるようになった秀忠が、作戦を書面にして明示したことについては「それでよい」と、評価している。

 

12. 武田氏の軍役

さて、次に、武田氏の軍役について見てみよう。柴辻俊六氏が研究史を概観するところでは、武田氏の軍役については、平山優氏が多岐にわたって具体的な論考を展開され、武田氏の軍役が家臣の知行高と確実に対応していることを認めている*29。信玄の場合、永禄10年(1567)から、軍役を増やして、従来の知行高分軍役と、諸役を免除して軍役に就かせる増分の統合が図られ、永禄末年頃に多見される「軍役新衆」の創設につながったといわれる。これによって、郷村内で武装していた上層農民(地侍)も諸役免除の上、軍役の対象に組み込まれていくことになった。同年の『軍役条目』では、軍役内容の統一強化が意図され、弓・鑓・鉄炮の3種が重視され、鑓は長柄3間柄と規定されている*30。こいつはまったくスイス軍のパイクと同じものだと西股氏は書いている*31。こうした長柄足軽を大量に雇って密集隊形を組ませ、プロの武士ども(士分)に対抗したのが戦国時代の合戦だったというわけだが、足軽が非正規雇用の傭兵であったのか、恒常的に雇用されていたのかについては、議論の分かれるところである(足軽を侍身分に含めるか否かにも議論のあるところであるが、〈侍〉とか〈若党〉という末端戦闘員はというのは、つまるところ足軽のことのようである)。なお、同じく信玄期の永禄12年(1569)の『軍役条目』では、鉄炮を重視していることが窺われるけれど、勝頼の元亀4年(1573)では、弓・鉄炮へのさらなる重点化が進められているという*32。永禄の『軍役条目』を読むと、たしかに「弓・鉄炮が肝要、長柄・持鑓を略してでも持参しろ」と書いてある。相当にしつこく鉄炮のことが書いてあって、印象的である。さらに、「戦のときにヘンな百姓・職人・禰宜・幼弱の輩どもなんぞ連れてきたら謀反とみなすぞ」くらいのことが書いてある。これは、兵農分離論で「戦国大名なんてのは、もともと兵農分離していたわけで、そこらの農民を夫役以外で使うのはよほどの非常事態に限られていた」というような説明のためにしばしば引用されるところの史料でもある。信玄の場合、上杉との抗争が激化していた当時、知行高ごとに割り当てた軍役だけでは足りなかったので、知行ベースの軍役を基本としながらも、それに付加する形で地侍を戦闘員として駆り出すために、このような軍法を定めたということのようであるが、それにしても武道の心得のない貧農を戦闘に借り出したわけではなかった。

さて、一方の農民も、もともと農業に励んで年貢を納めるのが仕事、戦闘なんてやってられるかというようなことにもなったらしい。『兵農分離はあったのか』というマトメ本を書かれた平井上総氏は、勝俣鎮夫氏の「戦国法」(『戦国法成立史論』(1979年)所収、初出は1976年)を引いてまとめている。曰く、武士・奉公人は、大名から給地をもらい、代わりに軍役をつとめるのが義務になっていたが、百姓は、年貢を納めるのが義務であり、給地もなく、戦闘をするような社会的身分ではなかったというようなマトメをされている。本来、戦国大名は、百姓を戦闘員とは見なしていなかったのである。けれど、陣夫や夫丸(輜重兵)として非戦闘員の扱いで駆り出されることはあったので、村高に応じて、村の方で人選して供出したようである。北条氏領では、これすら農民に嫌がられたらしく、カネでどうにかしてくれと、夫銭なるものを出すこともあったらしい。まったく現代の町内会の出不足金である。その場合、大名側は、出不足金を使って別の陣夫を雇うことになっており、それでも雇えないときは村に対して「早よう夫役を出せ」と命じたとのことである。ということで、勝俣氏は、戦国時代から、この意味での兵農分離はすでに行われていたと指摘しているとのことである*33。それとは別に、給地の代わりに年貢を減免された地侍が軍役衆として存在していたわけで、こちらは侍同様、戦闘員であった。武田氏はバンバンと朱印状を出して、動員対象を拡大していたようである。この点は一考を要するところで、軍役衆、軍役新衆を増やした武田軍にあって、足軽・雑兵の雇用がどう推移したのかは気になる点である。西股氏によると、北条氏の着到状には、士分の構成についてはいろいろ定めがあるが、あとの者(=雑兵。ただし、陣夫のような夫役に駆り出された百姓を雑兵に含むか否かについては判然としない。少なくとも、戦闘員である〈侍〉(足軽)と非戦闘員である道具持ち(中間・小者・あらしこ)のような武家奉公人までは、まちがいなく雑兵である。雑兵と足軽の区分についても諸説ある)については兵種と人数の指定しかないという。じゃあ、誰を連れてくるのかということだが、上のような理由から、各領主がマトモな百姓を徴発するのはむずかしかったであろうから、そこで落ちぶれた牢人や社会の落伍者を大量に雇ってきたというのである*34。そうした人たちからすると、雑兵稼業は手っ取り早く食える仕事ということで、結構な人気があったらしいのである。ところが、この連中は武士扱いをしてもらえないので、死んでも恩賞なし、安堵される所領もなし(つまり給人層ではないのである)、イザとなったら逃亡といった手合いで、そもそも主従制の埒外にある人たちだったというのである。戦闘が終わると解雇、別のところで別の兵種で雇われるなんてこともあったらしい*35。こういう練度の低い連中を組織戦に駆り出すなど無謀もいいところだと思われるであろうけれど、そこで便利だったのが、誰でも使える長柄と鉄炮というわけである。まあ、何にしても、カネはかかる。そうなると、なにぶん貧しい山国であった甲斐・信濃にあって、在郷地侍の軍役賦課を増さざるを得なかった武田氏の事情というのも酌むべしである。その中で整った軍法を定め、兵種別に軍を組織し得たということは、軍事的なシステムの上で、しばし東国優位の状況を作り出すことに貢献したと言えるのかもしれないけれど、もっとも、信長もそれに追随したであろうから、その差は15年程度であったかもしれない。西股氏によると、少なくとも軍制の上で信長が兵種別編成方式に転換したのは、姉川の戦いよりも後のことであった。そうこうしているうちに、畿内で勢力を拡大した信長の経済力は急増、システム上の優位もなくなってしまえば、今度は東国大名が劣勢に立たされることになる。これは問題である。

 

13. 信長の軍法

いずれにしても、前時代的な領主別編成方式で集められたテンでバラバラな部隊の寄せ集めから、戦国大名による兵種別編成方式へと移行する中で、もっとチャンと組織的に戦おうじゃないかという機運が高まっていくのは、それなりに自然な流れであったらしい。西股氏によると、高度な作戦術が勃興したと見られるのが15世紀末の太田道灌長尾景春の頃、その後、16世紀になってそれが明確に意識されてくるようになったという*36太田道灌なんてのは、戦国期に広まった「足軽之軍法」の発明者として有名な人で、すぐれた軍学者であったようである。そういう新戦術が必要になったのが、戦国初期の東国であったということになろう。そこで、『甲陽軍鑑』を読んでみると、信長家には軍法らしき軍法が存在していなかったと書かれている。なるほど、『明智軍法』が定められたのが織田家中の初めての軍法だとするならば、その評価は当たっているのかもしれない。けれど、『明智軍法』の意味での軍法というのは、北条氏の着到状や武田氏の『軍役条目』にあるような軍役規定が半分を占めていて、残りは戦陣における心得であるけれど、別途、法度が定められていたように読めるから、ザックリしたものである。また、言わずもがなの慣例を明文化したようなものでもあったらしい。まあ、それくらいのものは、どこの大名にもあったであろう。一方、『甲陽軍鑑』のいう〈軍法〉とは何であろうか? これも先に出た伝・山本勘助の『兵法秘伝書』「第十四 兵法与軍法分之事」に定義が記されている。

 

夫兵法与軍法とわかつゆゑんは、軍法は兼て城とりをよくし、軍に望で陣とりを堅まもり、旌旗金鼓の下知をなし、人数の懸引、強敵弱敵大敵に相ての、知略武略計略をなすを云、兵法は、遠を射て落し、近を切て落し猶近には組て勝負を決するを云、此二の道は一の心より出て分をなすなり、爰に予云、軍法の極みは兵法にあり、兵法の用は軍法にありと云、*37

 

『兵法秘伝書』のこの部分、『甲陽軍鑑』からの逆引用のような文章であるから、後世の筆であろうけれど、ともあれ〈軍法〉というのは、戦争のやり方というような意味のものである。それも体系だった法というようなものであろう。しかし、稀代の作戦家ということになっている信長に軍法なしとはどういうことであろうか。まんざらそういうことでもなかったとは思われるけれど、少なくとも、西股氏にあっては、信長を鉄炮の斉射戦術の発明者に擬すという考え方は放棄せられている。現実には難のある長篠合戦における鉄炮の集中使用説が流布したことについて、西股氏は、これは『信長公記』の誤読であり、先学諸氏が「長篠合戦=天才信長が鉄炮によって武田軍を撃破した戦い、という先入観に捕われながら史料を解釈していたためではないだろうか」*38と推測している。鉄炮隊を選りすぐって有能な武将に指揮させたという点では、長篠合戦における織田軍が、戦国後期に発達した組織戦の申し子であったことは事実ながら(もっとも、先に書いたように、その組織化は東国大名より遅れて実現したようであるけれど)、「けれども、それは武田軍も同様であり、両者の勝敗を分けた要因は火力でも鉄炮の使い方でもなく、信長と勝頼の用兵・作戦に求めるべきである」*39というのが、西脇氏の結論であった。その点は、『甲陽軍鑑』の結論と大差ないようである。

なるほど、強敵相手の野戦で有効な防御陣地を築いた信長の作戦は良しとしよう。もっとも、結論的には、少数の敵を大軍で迎え討ったという、それだけのことであった可能性も否定できない。要するに、領国の広さとカネの力である。信長の経済政策が奏功したか否かについては、先に述べたとおり、よくわかっていないのが実情である。けれど、武田領に比べて、信長の支配地域では軍事費捻出の手立てがいろいろとあったのは事実らしく、先に書いたように、堺あたりを脅迫してアッという間に莫大な額の矢銭を取り立てた。『甲陽軍鑑』でいわれている信玄秘蔵の上洛資金に匹敵する額である。まったく、たまったもんじゃない。ただの強盗である。もっとも、脅迫はしなくても武田領でもムチャクチャな税金はとっていた。信玄は上洛のために寡婦に後家役というのを課していたらしい。そんなこんなで資金は7000両に達していたが、謙信の死後に御館の乱というのが起こると、景勝はナント、勝頼に10000両の賄賂を贈って支援を求めたというのである(品第54品)。これを史実と考えてよいのかはわからないけれど、何かしらの請求書が武田から上杉に届いているのは事実なので、何らかの名目のカネが渡ったのは事実のようである。いずれにしても、越後の資金力もなかなかである。

さて、話は戻るが、信長の経済政策を重視する人は、こうしたマネー革命(ゆすり?)によって信長は鉄炮を大量に買い付けて、長篠で三段構えの一斉射撃を行なって武田軍を壊滅させたという結論にもっていきたがるのであるけれど、そのようなことを西股氏は認めない。カネは唸るほどあったかもしれないけれど、信長というのは、軍事史上、それほど革新的なことはやっていないというのである。むろん信長が、個々の戦いで機動力を生かした素晴らしい作戦を展開しているのは、事実であろう。しかし、あまり理論的ではなかったようである。『軍鑑』は、信長は軍法達者の信玄・謙信と直接に対決してこなかった上に、信玄とは縁者であったから、これまでは軍法というものを要さなかったという。しかし、信玄公が上洛戦を展開するにあたっては、ますます軍法が重要なのだということを馬場信春をして語らしめている。まさに、「ヒラメキ人間VS理論家の全面対決」といった構図である。もっとも、「信長というのは心が清く、刀の化身のようなまっすぐな武士だ」といって、ずいぶんと買っているのも確かで(品第40・上)、さすが桶狭間の勝者、油断のならない相手なのである。もっとも、信長は本能寺で横死、後継者の武道は弱く、家中は明智を討とうともしなかった(品第58)、これというのも、武道無穿鑿の家中は長続きしないというのが『軍鑑』全体の構想なのであって、対して、信玄没後も子息・勝頼の矛先がしばらくは鈍らなかったのは、武田家歴代の穿鑿が深かったからだという見方が示されている。虚飾に満ちた家中であっても、大将が武芸に秀で、強運ということでまたたく間に大身になることがあるけれど、無作法、無穿鑿の大将は、やがて弓矢の神に見放されて、栄華は一時のもので終わる。前代の穿鑿がよく、統治が行き届いていれば、いささか子息が心もとなくとも、しばらくは家を保つことができる(品第54)。『軍鑑』としては、一人の天才のヒラメキよりも、持続的なシステムの優位を重視したもののようである。『軍鑑』は北条早雲を評して一仏一神の化身でもあられたのかと評しているが、かといって、そうした創業の大人物のマネをするのはいけないとたしなめている。一代で大身になった人は運に恵まれているから危険なこともできるが、その地位を引き継いだ者は慎重を期さなくてはならない、というのである(品第22)。『軍鑑』は万事そういう発想に貫かれている。

 

14. 戦国の鉄炮戦について、西洋の研究者はどう考えたか

もちろん、鉄炮斉射説を支持する人もある。比較的最近に出たマイケル・E・ハスキューらの『戦闘技術の歴史5 東洋編』(2016年)という書物によると、長篠の戦いで信長は3500の鉄炮足軽を動員したとして、次のように書いている。

 

信長は、一五七〇年に石山本願寺一向一揆と戦った際、これに匹敵する数の火縄銃による攻撃を受けていた。(…)信長はこの自らの経験から、来るべき長篠の戦い火縄銃部隊に中心的任務を与え、鉄炮足軽に万全な斉射戦術訓練を行っていたのだ。*40

 

もちろん、武田軍にも火縄銃部隊が少なからずいたが、勝頼は騎兵主体の伝統的な編成を好んだらしく、現在あきらかになったところでは、鉄炮足軽はわずか650にすぎなかった、という*41。これには疑義もあるけれど、なんぼ武田軍の鉄炮装備率が織田方に劣るものではないとはいえ、鉄炮の総数で織田軍に劣っていたのは事実であろうし、問題は弾薬の調達のほうにあったという考え方もある。なにしろ輸入に頼らざるを得ない舶来の軍需物資であったから、買い付けるのは厳しかったに違いない。しかし、あれだけ信玄が鉄炮を重視していたのに、今さら勝頼が騎兵を好んだなどという説明が成り立つのかどうかは、眉唾である。もっとも勝頼には、増やしたくても鉄炮を増やせなかった事情というものもあったのであろう。ちなみに、裏ルートを使えば敵方からも鉄炮を買えたもののようで、武田方の穴山信君駿河の商人衆を使って、徳川方の商人から鉄炮と鉄を買い付けようとしたことが知られている。いずれにしても、鉄炮の装備率で武田軍が織田軍に劣っていなかったという西股氏の試算を信じるならば、武田方にももう少し鉄炮数はあったことであろう。なお、鉄炮を防ぐ竹束なるものもあって、これを考案したのは、『軍鑑』によると、信玄の家臣・米倉丹後守という人であるという。これは他家でも使われていたもののようであるし、これらを使わないと防御がおろそかになって、損害が大きくなるということまで『軍鑑』に書かれている。もっとも、大阪の陣では、竹束だけでは城方の射撃を防御できなかったらしく、土塁を築いたらしい。

ところで、いささか脱線するようであるけれど、『戦闘技術の歴史5』は、騎兵について興味深い見解を載せている。確かに鉄炮の導入は、日本の戦場を一変させた。けれど、そのために日本の騎兵が一方的に衰退したわけではなく、彼らは槍を操る専門的兵士へと役割を変化させたというのである。先に少し触れたけれど、このような逆風のなかで、もっとも効果的な対応を見せたのは、「才気豊かで革新的な騎馬隊指揮官」であるところの武田信玄であったという*42。彼の騎馬隊は伝説として語り継がれるほどに恐れられ、1572年の三方原の戦いでは、火縄銃で掩護された歩兵隊を騎兵による集団攻撃で打ち破った、という。しかし、最終的に彼らは下馬して戦わなくてはならず、急襲攻撃はそれほど圧倒的ではなかった。信長はこの教訓から、火縄銃の大規模な利用と、一斉射撃を行なわせて長篠の戦いに勝利したものの、騎馬隊の突撃は防いだが、個々の侍を押しとどめることはできなかったので、長時間の白兵戦を続けざるを得なかった。いずれにしても、この戦いを境に、日本の軍隊は、槍足軽と鉄砲隊、騎兵の混成軍となり、日本における本格的な騎兵戦術の幕開けは、同時にその終焉となったというのである*43

この描写は、西股氏の想定する長篠合戦とはずいぶん異なったものとなっているが、わりあい簡単に柵を突破されて白兵戦になったらしいことは、ものの本にも書かれている。もっとも、『軍鑑』によると、武辺の家康軍は向こうから討って掛かってきたもののようでもあるが、もっとも、西股氏からすると、これは当然のなりゆきということになろう。すでに戦国期には馬上戦闘ではなく、下馬戦闘がメインになっていたというのである。長柄足軽の密集隊形に弱い乗馬戦闘を積極的に行なうメリットがなくなっていたというわけだ*44。ほかならぬ武田氏が長柄足軽を配備しているのだから、騎馬隊だけで戦を決するなどという軍法があったとは考えにくい。もっとも、東国の武士は馬の扱いが巧みであって、西国の者にはチョット真似のできないようなところもあったようであるから、戦いの局面によっては、騎兵が威力を発揮したということもあったのであろう。少なくとも、それなりの騎兵はいたようである。けれど、この時代の武士は、馬上で戦うなどということはもうできなくなっていたらしく、西股氏によると、戦場まで行ったら徒歩で鑓働きをするというような戦闘形態をとる頻度が高まっていたらしい*45。あるいは、武田軍くらいになると、まだまだ馬上戦闘のできる武士がいたということなのかもしれない。赤備えで知られた上州の小幡勢などは「馬上巧者」などと書き留められている。「おお、すげえな」と、西国の奴らからするとインパクトはあったと思うが、それ自体は過去の遺制であって、勝頼にしても、そのことを主体にして戦おうというようなことは考えなかったであろう。ほかならぬ武田氏の軍装規定を見ても、馬上衆が重装歩兵としての役割を担わされていたことが窺えると、西股氏も書いている*46。もっとも、そもそも論ではあるけれど、騎馬隊不在説というのもある。『軍鑑』の品第14は、そもそも武田軍は、三方ヶ原へも馬を入れなかったと書いているのである。

ウマか鉄炮かはともかくも、前にも見たように、天正年間に西洋並みの整然とした鉄炮隊が登場したことは記録の上で確かなことのようであるから、どこでもそれなりに鉄炮の組織的活用ということが進んでいたのも事実であろう。先に挙げた『戦闘技術の歴史5』によると、密集隊形での一斉射撃という技術は、アジアにおいては、日本で考案されたという。その威力は朝鮮出兵の際に遺憾なく発揮されたという。

 

また、秀吉軍はヨーロッパ起源のマッチロック式火縄銃を装備していた。これは、当時のアジアのいかなる武器より優れていたことがこの戦いで明らかになる。日本人はいつの時代も外来の科学技術に関心を示してきたが、この戦いの武器には特に大きな可能性を感じていた。日本の弓より射程距離が長く、操作のための訓練も弓ほど必要ではなく、また密集隊形での一斉射撃という技術も日本で考案された。一六世紀の火器は再装填に手間取ったが、射手が交代すること、つまり、装填ずみの射手を前列に移動させ、その間に発射した射手は後方に退いて充填するという方法で、この問題を克服したのである。*47

   

この頃になると、鉄炮戦術は狙撃から一斉射撃に進化していたようである。誰がこの戦術の発明者であるかは、この際、わからない。しかし、西股氏の所説を読むかぎり、どうも信長であるという確証はないようである。少し考えりゃ誰でも思いつくことであるから、ある程度の鉄炮がそろって、鉄炮戦の経験を積んだところでは、どこでもやっていたことなのであろう。もちろん、兵種別編成が実現していればの話である。もっとも、武器弾薬の乏しいところでは、規模に限度はあったであろうから、そうこうしているうちに敵が前進してきて前線を破られるということにもなったにちがいない。結局、合戦に先立って、まずいわゆる〈鉄炮矢いくさ〉というのがあって、その後に重装備の武士が槍で突撃ということになり、続いて長柄の足軽隊が続くというのが、近世までに確立された合戦のパターンということになるのだけれど、この方式の戦闘を鉄炮主体のものと考えていいのかどうなのか、自動小銃でもあれば別だけれど、なにしろ原始的な火縄銃であるから、しばらくは速射可能な弓兵の需要が失われることもなかった(しかし、その員数は、江戸期には、かなり低らされていた)。だいたい、武士どもの観念は異常で、足軽や雑兵を投入してチャンバラやらせてから、自分はおいしいところをもっていけばいいところ、一番槍をつけようと、真っ先に自分から敵陣に飛び込んでいく始末、『戦闘技術の歴史5』の著者たちも、このあまりにマッドに思考にはいささか辟易しているような感があって、彼らの戦技の優秀さには敬服しながらも、ナンかおかしいよな、という違和感を覚えたような雰囲気すらある。『軍鑑』を見ても、「武士道の沙汰褒貶六ヶ条の事」として、敵兵1人を味方数人で討つ(相討)などはもってのほか、これは武道にそむくことで、弓矢の神への非礼だというのである。こういうことをしていると、「ばい頸」などといって、他者が討ち取った頸をカネで買ったり、襲って奪ったりという行為につながるというのである(品第53)。

さて、そんなことであるから、「御侍衆(士分)が鑓を付けるまで、雑兵の槍襖の出番はないぞ」というようなことが、雑兵の心得本である『雑兵物語』にも書いてある。このことは西股氏の著書にも引かれているが*48、ここでちょっとした疑問に突き当たる。長柄足軽の密集隊形は、馬上衆の騎兵突撃を防ぐのに有効だったはずなのに、その出番はどこにあるんだという問題である。武士が下馬戦闘に移行した結果として、こういうことになってしまったのか? 緒戦で敵陣を突き崩す役目を負わされたのは、キチンと給地をもらっているプロの武士の仕事で、イザとなったら脱走する雑兵どもではなかった。鉄炮をかいくぐって武士同士が前線に進出、味方の射撃が効果を発揮し始めたところで突撃、その後から長柄部隊が出てくるわけであるから、もう乱戦である。じっくりかまえて鉄炮に弾を装填しているどころではない。もっとも、そうなったら鑓騎兵が文字通り、側面から横槍を入れてくることはあったかも知れない。武田信繁の99ヶ条の遺訓の83条に面白いことが書いてある。1000人が敵に向かうよりも、100人が横から割って入る方が効果的だというのである。こうしたことを整然とやってのけたというのが、武田信玄であって、彼がサッと軍配を振ると部隊が手足のように自在に動くというのは、よく知られたイメージである。なるほど、たしかに信長も強かったではあろうけれど、彼にそのようなイメージはない。さりとて、信玄伝説にもどれほどの根拠があるのか不明だが、いわゆる〈軍法〉の起源を信玄に求める考え方というのは、『甲陽軍鑑』による武田ブームのおかげもあって、江戸時代には広く流布していたもののようである。ただ、当の『軍鑑』の編者という小幡景憲の弟子に北条氏長という兵学者がいて(北条氏康の曾孫)、この人は中世の軍配法(軍学)を改めて実践的な北条流兵学というものを興しているから、信玄の軍法にも迷信的な面が多分に含まれていたのも事実であろう。私も甲府で信玄直筆(?)という「運気の図」というものを見たが、モヤモヤっと立ち上る戦気を読んで、敵情や戦況を知るというものであるから、なんとも怪しい。その他にも迷信的な故実が多々あって、およそ実戦的とはいえないものもある。

なお、『軍鑑』には、じっさい信玄は、敵の旗色を占って勝機の有無を判じていたという話が載っている。世間では信玄の圧勝といわれている三方ヶ原の戦いであるが、信玄はたいそう慎重で、家康をやぶっても織田の援軍が9隊も来ているから、勝ち目は薄いと考えたらしい。ところが、小山田信茂が偵察したところ、家康の布陣は悪く、信長の援軍は旗色が悪く、敗北の兆候ありというのである。なお信玄は迷ったらしく、さらに偵察を重ねさせ、けっきょくは占いよりもリアルな理由で合戦を決断したようである。もっとも、このあたりの経過は、なんともあやふやで、信玄の死に至るまで、読んでいてよくわからない部分もある。なお、勝ち目ありなんどと申した当の小山田は、酒井忠次に追い散らされている(品第39)。

もう一点、当時の軍法を窺い知る面白い逸話がある。『軍鑑』によると、信玄は陣所に制札を立てて、病人や死人などの黒不浄が出た場合は、何の穢れかを占わせ、不浄を出した陣の責任を問い、関係者から過銭をとったという。軍役新衆もその対象に含められたとのことである。なお、牛馬を放してしまった場合も過銭を取られた。火事や喧嘩の責任は重く、成敗ということもあった(品第43)。余談ながら、この過銭、どうなるのか気になって『軍鑑』をめくってみると、どうも陣中での過銭は、武者奉行や旗奉行に納められ、そこから中間・小者などの給金が出ていたらしい(品第53)。国法に背いたものは罰金ということになっており、妻帯した日蓮宗の僧なども妻帯役を納めさせられていた。信玄公は大慈大悲の大将だから、法華経の趣旨を理解したうえで、日蓮宗の僧侶が妻帯するのは可として、僧侶を処刑したりするようなことはなさらなかったというのである(品第48)。かわりに、うまいことして税金をかけてカネを取ったのであった。さすが、カネにうるさい信玄である。甲府では寺と民衆の訴訟沙汰がしばしばあって、仏教に詳しかった信玄は、宗派ごとに裁いて、説教を垂れていたようだ。それを楽しんでるんじゃないのかというくらいである。余談ながら記しておく。

なお、当時の軍配者がどこか神がかっていたことを示す逸話が他にもあって、『軍鑑』の品第7によると、甲州の小笠原源与斎という軍配者は、いろいろと不思議な奇特を起こしたという。しかしまあ、そんなのは座興で、馬場信春に言わせると、武士は武道第一で、軍配に奇特を頼めば、禰宜・山伏のようだと言われるばかりだ、とのことで、軍配に奇特など期待せず、チャンと武芸を磨いて、戦略を練れよという教訓となっている。ちょっとやそっとの霊験があっても、戦場で役に立つかというと、そうでもないというわけである。続く品第8には、文殊菩薩から夢窓国師八卦占いを夢伝されたという徳厳という者が登場するけれど、信玄は「聖人でもないのに、むずかしい八卦の本がそんな夢の伝授で理解できるわけないだろ。ンなモンは偽りで、奇術のようにして人の心を盗むものだ」と相手にしなかったという。そのへんはさすがにリアリストであったらしい。

なお、信玄の軍法といえば、風林火山の〈孫子の旗〉というのが有名だが、信長に対抗心を燃やしたのか、信長と手切れとなったのちは、孫子の旗に「天上天下唯我独尊」の八字を付け加えたという(品第43)。二人とも「俺が一番」という性格では共通していたらしい。

 

15. 信長軍は弱かったのか?

一方、信長弱しということは、『軍鑑』にもしばしば書かれている。けれど、信長を英雄視する考えは昔からあった。明治末年から大正初年にかけて、県立諏訪中学に在学した小口太郎(1897~1924、『琵琶湖周航の歌』の作詞者、「有線及び無線多重電信電話法」の考案者)という人は、文集の中で「大胆細心」というテーマで信長について書いていた。してみると、当時の青少年にも人気があったもののようである。参謀本部が信長の快挙を『日本戦史』の真っ先に書き立てていることからもわかるけれど、どうも幕末の因縁を引きずっているところもあるらしく、「桶狭間役」をよく読むと、そもそも織田と今川の関係を、

 

楠新田等ノ諸家、挙族王事ニ殉シタル後、海内ノ武士、復タ一人ノ心ヲ皇室ニ存スル者ナク、足利ノ党類兄弟相鬩キ、上下相戕ヒ、応仁以後、殊ニ甚シク群雄割拠、互ニ攘奪ヲ事トスルノミニシテ(…)此際ニ崛起シテ能ク奸兇ヲ誅鋤シ、大義ヲ表掲シ、億兆ヲシテ再ヒ天日ノ光ヲ仰クコトヲ得セシメタル者、独織田信長アリ。*49

 

なんどと書いてある。一方の今川は、「将軍足利ト同宗」であって、勤王の信長に対して「奸兇」の側にあるもののようである。ご存じの通り、幕末には徳川将軍を足利将軍に擬して、足利三代の木像の首を切るなどという事件もあったが、そういう発想から抜け切れていないもののようである。もっとも、近代の歴史認識において、足利尊氏が公的に大悪人ということになるのは、南北朝正閏問題が政治的にヒートアップした明治末年のことであって、参謀本部がこの本を出した1896年の段階では、まだ決定的なものではなかった。大方、『日本外史』あたりを真に受けた連中が筆をナメナメして書いちまったんだろう(ちなみにこの問題、南朝贔屓で知られた山県有朋というのは、胡乱な話ながら、長篠で鉄炮に当たって戦死した山県昌景の同族だという説もある)。もっとも、信長政権を室町幕府の延長線上でとらえようという現代の研究では、信長の勤王的政策が着目されているのも事実であるけれど、さりとて、信長が天下の大忠臣というわけではなく、案外とただの常識人であったという説もある。公方とうまくやれなかったので、天子様を立てたということなのかもしれない。その公方様にしても、信長以上に公方に無礼を働いた奴はゴマンといた。幕府の奉行人奉書の発給数を見ると、信長よりも三好長慶のほうが、文書の発給ということについての独自性が高かったと見る人もいる。

ともあれ、江戸の初めには不人気だった信長も、すっかり人気者、小泉改革のときにも革命児として合理主義者・信長に注目が集まったが、まあ、戦国大名なんてのはみんな合理的、すでに信長の経済政策にもアヤがつき始めているこの頃、なぜに信長だけが成功したのか(そもそも成功しているのか?)ということについては、もう少し異なった観点から考察することが求められるようになってきているように思われる。敵方である『甲陽軍鑑』の筆者からすれば、信長が日本屈指の名将であることに疑いを入れるものではないが、尾張に生まれたことが何よりの果報であったという見方にほぼ尽きるようだ(信玄もそう見ていたらしい)。信玄は強い敵に周囲を囲まれて苦労をしたが、信長ときたら、まともな敵は斎藤程度、今川が負けたのは油断のため、畿内の武士は弱いことで知られている。信玄曰く、東国の武士は弓矢の形儀、面々の意地をたてる者が10人に9人いるが、上方は20人に1人と、かつて山本勘介が言う通りであった、云々。近江の浅井ほどの意地をたてる武士がいたなら、たとえ信長に果報があっても、50までに天下を取ることはできないだろう、云々*50

これは、当時書かれたものと見られる『人国記』の評価と通ずるところもあるけれど、ともあれ、畿内の兵は弱かったという考え方をあらわしている。強いのは東国の武士であって、具体的には三河より東ということになる。『軍鑑』で特に印象的に語られるのは、何度叩いても容易に降参しない信州勢と、武辺で知られた徳川家である。信州の武士たちの戦達者ぶりは何度も記述されるから、信州に愛着をもった人が書いたものとも察せられるけれど(上杉に通じた信州衆4人が切腹に追い込まれるところでも、さすが信州武道の国とて、鮮やかな最期であったと誉めている。甲府の一蓮寺で瀬場という侍を始末したときも、信州衆は武芸のつわもので、悴者から非戦闘員の中間まで逃げずに戦ったとある。品第31)、徳川様の世に成立した本ということもあって、家康の武勇については信玄も斜めならず感心していたと、たいそう持ち上げている。こうした強敵ぞろいの国では、服属した先方衆を手厚く遇することが必要だったというようなことも書かれている。先方衆から牢人、寺社まで身の立つように取り計らうのが、為政者のつとめだというのである。『軍鑑』は、尾張出身者を優遇して内衆に領地を任せるようになった信長の統治法は危険であるというような見方を示している。近年、本能寺の変の原因をこの辺りに求める人もいるようだが、どうであろうか。

ところで、『人国記』というのは、鎌倉の5代執権・北条時頼が、水戸の老人のように諸国を漫遊して書いた本だと伝えられている。噂の出所は『人国記』の愛読者だったという武田信玄という話で、『井伊家秘書』という本に、まことしやかに書かれている。それはあやふやな話であるけれど、近代の研究者の中には、どうも『人国記』は信州人が書いたのではないかという見方をする人もいる。道理で「信濃国之風俗ハ武士之風俗天下第一也」「百姓町人之風儀モ其徤儀ナル事、伊賀・伊勢・志摩之風俗ニ五畿内ヲ添タルヨリハ猶モ上也」なんどと良いことが書いてあるわけである。義理をわきまえ、勇敢で、悪に染まらないというのである。天正壬午の際、家康が甲州に入ったとき、武田遺臣に一人の老士があって、代々相伝の一書であるとして『人国記』を井伊家に託したというのだが、じっさいの成立年はよくわからない。江戸時代には偽本が出回るほどには読まれたようである。なにやら、のちの「長野県は教育県」という伝説にも通じるような、信州のマジメな県民性がうかがわれるが、どうもあれは「長野県民は勉強熱心でアタマがいい」という意味ではなく、もともと経済的にゆとりのある者が進む旧制中学に、本県の場合は、家計にゆとりのない者も多く進学し、結句、学資が続かずに志半ばにして学校を去るということが、ままあったらしく、他県の人はそれを見て「長野県の人はそうまでして教育を望むのか」と畏敬したというのが、コトの真相らしい。ところが、本県独自の信州教育ってぇのもあって、受験のことはお構いなし、学力の方はイマイチだった。さすがに県教委から怒られて、われわれの次の世代から引き締めが始まった次第である。

ところで、対する尾張の風俗はどうだったかというと、これが傑作である。私の親はこの地方の出身であるから悪くも言えないが(もっとも、信長に反抗して一向一揆なんかやっていた服部党である)、尾張の人は「進走の気」が強く、善を見れば善に進み、悪に慣れれば悪に染まり、身内に少し善をなした人がいれば、それを大げさに喧伝し、悪さをした人がいれば隠して、のちのち過ちの内容に反省することがないというのである。この評価は『甲陽軍鑑』のそれと、よく似ている。どうも根本をおろそかにするようなところがあったらしく、「唯大風洪水之出タルカ如クニシテ」云々とある。これは、『軍鑑』の品第59にある、信長の一生が、大風が吹いたような一時的なものであったという評価によく似ている。ともに信州人(?)が、まことしやかに書いたことなのかも知れない。

さて、『軍鑑』は信長弱兵論を唱えているようにも見えるが、弱かったのは信長ではなく、当時の上方の武士たちだったのかもしれない。信長はそれに付け込んで、上方の武力の衰えた国々、五畿内・中国の町人まがいの弱敵、一向坊主どもを脅しあげて勢力を急速に拡大したと述べている*51。どうも情報戦に長けていたらしく、5騎、10騎が腰兵粮で京都にかけつけ、信長の武力を喧伝してまわり、弱敵を従わせたというのである(品第54)。一方、信玄・謙信が在世のみぎりは、ひたすら和睦につとめて、両雄が耄碌するのを待った。この信長、些細なことは気にしない人であったらしく、世間の評判も外聞も気にせず、ヤバいときは逃げ、また戦ってとにかく領地を増やせばそれでよし、というタイプであると見られていた*52。現代では、信長の兵はカネで雇われた雑兵でまかなわれていたから、劣勢になると迷わず逃げたというようなことを言う人もいるが、それならそれで使い道もあったのである。それで勝てる方がよっぽどシステマティックで見事だとも思えるくらいだ(もっとも、逃げるときの尻ぬぐいは、いつも武勇の家康だったというから、ひどい話だ)。また、軍法に秀でた上杉謙信あたりについても「戦はつよいが、無意味に強がるところがあって、判断力に欠けるから、強引で目先の戦いのことしか考えなかった。退却の仕方が粗雑で、いたずらに兵を損ねた」くらいに書かれているので、まんざら信長が低評価というわけでもない。危急に際しては機動力を発揮して逃げまくり、再び出陣するなど、大変に活動的であったという評が残っている。対して信玄公は、どんなときでも崩れずに退却するように気を配り、味方の城は小城ひとつとて攻め取られぬように執心していた。信長からすると、国境の小城の一つや二つ取られて名声が失墜しても、あとで挽回すればそれでよしということであったらしい。『明知年譜』や『甲陽軍鑑』には、東農をめぐる武田氏との戦いで、信長がどうにか死地を脱して逃げ延びたようなことが書かれているから、いつも万全の戦いというわけにはいかなかったらしい。反対に言えば、信玄は慎重な作戦を取ったから、寿命が尽きて天下を取れなかったという見方にもつながったのであろう。

信長の面白いところは、強そうな相手には下手に出て、しばらくは我慢という現実的な作戦をとることができるところであって、信州人のようにやたら意地を張るということはなかったのかもしれない。その方式で短期間に領国を広げたこと手腕については、『軍鑑』も否定はしていないのである。信玄に言わせれば、息子の義信をはじめ、北条氏政今川氏真なんどというドラ息子が束になってかかっても、信長の小指一本にもならんとのことである。

一方、『人国記』を見ると、尾張人には気質として「勇気ノキヒシキ」ところもあって、伊賀・伊勢・志摩を合わせたよりは上だと、なかなかの評価である。しかし、三重県の人は踏んだり蹴ったりである。ちなみに私の祖先は、元をたどれば伊賀者とも通ずるものであるけれど、『人国記』によれば、伊賀なんかは最低評価である。どうも『人国記』の筆者は、どの国であれ、一揆をおこすような奴はダメだという価値観をもっていたらしい。尾張の連中も一揆を構えると書かれているけれど、なるほど、長島一向一揆はそれである。ともあれ、尾張の人が弱いとは書かれておらず、総合的な評価は、「中」である。

 

16. 信長軍は強かったという説

一方、信長の軍勢が強かったという考えを提起する説も多くあって、西股氏もその一人であるし、前に出た参謀本部の『日本戦史』も同様である。『日本戦史』「桶狭間役」曰く、

 

兵僅ニ四千内外ノミ、員数ヲ以テ較スレハ、復タ今川ニ當ル可カラサルナリ。而シテ其能ク之ト頡頏シ得タル者ハ何ソヤ。豈軍紀訓練及将士ノ大ニ優レル者アリシニ非サルカ。茲ニ試ニ之ヲ考究セン。*53

 

という次第で、信長の軍紀は厳正で、将士の訓練が行き届いていたからこそ、彼の軍は強かったのではないかという考え方を提示している。そのほか、彼の政令は厳明で、ゆえに尾張では夜でも家に施錠しなくてもよかったし、夏に野宿しても盗賊に襲われることはなかった、ゆえに民俗がよく、兵の軍紀も察するべし、云々と、なんだか昔話のようなことが書かれている。信長は平素から近臣に竹槍試合をさせており、兵の練度が高かったのも疑いない、などなど、ありがちな推測が述べられているが、このあたりの考え方は、多かれ少なかれ『甲陽軍鑑』も同様で、信玄公の軍がどれだけ強かったかについての教訓めいた話がいろいろ出てくるけれど、じっさいのところは、よくわからない。なお、『日本戦史』の「桶狭間役補伝」というのがあって、それによると、信長16歳のとき、林通勝が諸国の国主の話をして聞かせると、武勇に優れた国主の話を好むというので、上杉謙信武田信玄の話をして聞かせたという、小瀬本からとった逸話が引かれている。そこでは、謙信が小勢で大勢の敵を破ったのは、軍法が正しいからであり、信玄は国家を治めるために正しい法度を定めたとして、甲州法度が11箇条にわたって引用されている。信長は、これを見て浅からず同心したという*54

もっとも信長は、甲州法度に感心はしたけれど、これといった分国法を定めなかったようであるし、謙信の軍法に感心しながらも、織田家中には軍法もなかったとされている。そこで明智光秀が『明智軍法』を定めることになるのだが、この場合の軍法というのは、前にも書いたように、軍役規定のことのようである。くりかえしになるが、『軍鑑』は、信長には戦争理論としての〈軍法〉もなかったと書いている。分国法なし、軍役規定も理論もなし。かなり心配な集団である。『軍鑑』によると、信長は美濃で7年戦ったことで軍法を強くしていったというのだが、それ以外の敵は大したことがなかったので、世に喧伝されるような軍法を定めなかったと書いている。後世に伝わる〈軍法〉は、おおむね武田と上杉から出ているというわけだ*55。だからして、特筆すべき理論はなくても、信長が無策だったということはない。なお、参考までに家康はどうだったかというと、先にも書いたように、権現様はその時の状況次第で判断をして戦勝を得ていたと『駿河土産』にある。ところが、小牧・長久手の後、石川数正が出奔してしまい、徳川家の軍機が秀吉方に筒抜けになると家臣たちは大慌て、ところが権現様には困った様子がない。じつは、裏で甲州に手をまわして、信玄時代の軍書から武具まで、何でも取り寄せよと命じていたというのである。で、「ウチはこれから万事、武田流でいくで?」ということを徹底させ、そのことは上方でも評判になり、数正は古暦などと仇名されたという。

ところで、西股氏の所説によると、信長軍に革新的な戦争理論があったということは書かれていないが、さりとて、実戦で信長軍が弱かったとは言われていない。まず性急な多正面作戦を展開した信長家にあっては、慢性的な人材不足に陥っていた、と西股氏はいう。戦場の荒廃にともなって社会から落伍した人たちが大量に生み出されたから、非正規雇用足軽・雑兵はいくらでも雇い入れることができた。その面で、信長軍の多くがザコから構成されていたのは事実であろうけれど、その点は他国も同様であった。もっとも、非正規兵を戦場に大量投入するという着想は、太田道灌にはじまり、最初の戦国大名といわれた北条早雲の創案によるところが大きいといわれるから、信長こそが非正規兵の寄せ集めで戦場を民主化した革命児などというのは、西股氏には容認できない考え方なのである。とはいえ、戦争に明け暮れていた信長家にあって、足軽・雑兵が継続雇用された結果、その練度が上がったのではないかという推測は述べられており、信長の非正規兵運用に一顧を与えてはいる。

しかし、信長軍の強みはそこにあったのではない。西股氏は、むしろ蛮勇をふるって前線を突破するプロの武士連中(「強力な上層部分」)に注目する。ムチャクチャな多正面作戦の結果、信長家には腕に覚えのある勇猛な侍がひっきりなしに仕官にくるという事態が発生する。その中で強い淘汰圧が発生し、結果、信長や秀吉は、白兵戦を得意とする強力な侍どもを手に入れることができたというのである*56

こうしたことは、結果論的に生じてきたことであって、計画的なことではなかった。最終的には、このような戦いが可能であったのは、信長の判断力の良さと、強運のためであるというのが、西股氏の結論である。秀吉の小田原戦役における山中城攻略にしても、西股氏の考えでは、秀吉軍は火力で決着をつけることができず、精強な武士の突撃でこれを攻略したというのである*57。けっきょく、鉄炮矢いくさで相手の火力を制圧しつつ、敵前線に肉薄し、そこから白兵戦で敵陣を完全に制圧するという、戦闘群戦闘のようなことをやっていたということなのであろうか。私も戦争に出たことがないから、よくわからない。しかし、肉弾戦がある程度有効であることは、西南戦争で抜刀隊なんてものが必要とされたことからも理解できなくはない(日清戦争では、「抜刀隊など、今日日の日本陸軍はそんな幼稚なものではない!」と出動を却下されたけれど)。けっきょく、火力網が不十分であったということの帰結なのだろう。

もう一点。このような多正面作戦の実行に当たって、信長が思い切った人材登用を行なったのではないか、という考えについて、西股氏は一考を加えている。信長が、他の戦国大名とは異なり、きわめて合理的に実力主義を採用したなどと早合点するのは禁物だ。これは西股氏も書いていることだけれど、武田家でもあらかた事情は同じであったし*58、『軍鑑』の筆者に擬せられる高坂弾正も、やはり百姓から取り立てられた人であった(信玄の親父・信虎はそのことが気に入らなかったと『軍鑑』にあるが、見てきたようなことを書いた虚構のようである。なお、西股氏は、信虎時代からこのような実力主義による登用が行われていたと匂わせる書き方をしている)。とはいっても、秀吉のように胡散臭い階層から立身した人なんてのは、そうはいない、戦国時代はシビアな階級社会であったというのが西股氏の立論である*59。プロの殺し屋集団である武士と、非正規兵の足軽・雑兵という「軍隊の二重構造」はどこでも同じで、後者を「下級歩兵として大量動員し、組織戦に適応した兵種別編成方式の軍隊を成立させる、という軍事的な革新」*60が成し遂げられたのは事実ながら、これは実力主義とは程遠いもので、足軽から大出世した秀吉などというのは例外中の例外だったというのである。非正規雇用の人がわりを食うのは、今も昔も変わらない。そうしたわけで、西股氏が、「戦国時代のRMA*61と呼ぶ、劇的な軍事革命のもとにあっても、最終的な切り札となるのは、強力な殺しのプロ集団である武士層だったのである。

 

17. マッドすぎる戦国の御侍衆

しかし、先に挙げた『戦闘技術の歴史5』の著者は、一つの疑問を呈している。火器の有効性に気づいた日本の武士たちが、なぜ大砲の導入ということにさほど積極的ではなかったのか、という疑問である。朝鮮出兵の際、火力と戦技に勝る日本軍が次々に半島を制圧していく様子が語られるけれど、李舜臣あたりがあらわれると、彼の巧みな戦術で日本軍は窮地に追い込まれるようになる。このへんは韓国の研究を参考にしたらしく、李舜臣をベタ誉めしているが、逆に日本語版Wikipediaは冷ややかな見解を載せている(研究の中立性が問われるゆえんである)。同ページの脚注13によると、米ボールステイト大学のケネス・スオープ准教授(現・南ミシシッピ大学教授/中国軍事史)は、朝日新聞2006年6月28日夕刊文化面「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから 上」の中で、朝鮮戦役の本質は明と日本の戦いであって、当時の両国について「『明軍は弱い』というイメージは明を倒した清により作られたもので、当時は武器も優秀で精強だった。一方の秀吉軍は戦乱で鍛え上げられた世界最強の軍団。両者の激突は16世紀世界最大の戦争だった」と述べている。ずいぶんと高評価である。この戦争をどう評価するかについては、諸説あるようである。

それはともかくも、朝鮮でのサムライたちの無謀な突撃はナンなんだろうと、西洋人である『戦闘技術の歴史5』の著者たちは訝っているようだ。もしかすると、これは日本の戦場文化のようなもので、もし戦争が機能的になりすぎて、雑兵の組織的運用だけで済むようになってしまったら、サムライによる個人技の出る幕はない。奴らは基本、自分の手柄しか考えていないのである。もちろん、当時の史料から、持ち場でキチンと指揮をとることが武士の戦功であるとする考え方が定着しつつあったことも読みとれるけれど、『雑兵物語』を見るかぎり、重装歩兵として配備された武士たちが手柄を立てるのを雑兵が邪魔するような戦術はそもそも論外であったようにも見えるから、用兵面で不合理な点もあったのではないかと考えられる。足軽というのはまだしも戦闘員であるから、手柄を立てることもできたが、兵ではあっても非戦闘員である道具持ちの草履取りが、鑓戦闘に移行しようとする主人に鉄炮で加勢しようとして怒られる場面も描かれているから、気の毒なものである。この点、元寇の昔から、武士のメンタリティはあまり変化しておらず、もう少し反省してほしいものである。

手柄が明確にわかるような戦い方をするということが、日本の戦闘習慣であったけれど(個人戦闘でどうやって手柄を立てるかという方法論も、『甲陽軍鑑』で指南されている)、海外でこれをやったら、まさしく異様に映ったに違いない。『戦闘技術の歴史5』の著者たちも、そのマッドぶりにはビビっている。鉄炮と大砲で勝負がついてしまったら、サムライとしては面白くない。そのことが結局、日本における火器戦闘の発達を妨げてしまったのかもしれない。もっとも、硝石不足が大砲使用を躊躇させた一因であるという説もあるようで、判然としない。清正も鉄炮の達者な者を召し抱えよという命令を出しているから、そこは合理的な戦国武将のこと、単なるクレイジーではなかったということも付言しておく。ただし、誰でも使える長柄や鉄炮の出現で戦場が民主化されたとする『戦闘技術の歴史5』の見方は、いささか理念的にすぎるものであって、足軽雑兵の頸などいくつとっても手柄にはならないのが当時の慣習で(とはいうものの、頸帳には足軽の頸数も載せたようであるから判然としない)、さらに逃げる敵を追撃して頸をとってもダメ(追首)、死体から頸をとってもダメという(拾い首)、シビアな決まりがあった。もっとも、信長家にあっては、人から頸を横取りしたり、カネで頸を買ったりという「奪首」とか「買首」というようなインチキが横行していたと『軍鑑』は呆れている。ものの本には、味方から襲われて頸を奪われ、命まで落としたという話が載っているから、油断も隙もあったもんじゃない(同士討ちは最も不忠だと『軍鑑』は書いている)。もっとも、手柄にもならない頸をたくさん取って自慢の種にしていた者もあったようだ。いずれにしても、手柄を立てるのはいつも武士ばかり、足軽未満は戦場で略奪稼業に夢中になっていたようでもある。なお、討ち死にした味方の頸を、敵から守って持ち帰るのも手柄であったらしい。小牧・長久手で戦死した森長可などは、そうやって頸だけになって帰還した。長篠で鉄炮に当たった山県昌景の頸を持ち帰ったのは、信州から出た志村又左衛門とか文左衛門とかいう人であったが、後に徳川様に従って八王子の千人同心の千人頭の一家となったが、どうも先にコロナで亡くなった志村けんという人は、ここに連なる家系から出たようである。

 

18. 秀吉が小田原攻めで勝てたのはなぜか

さて、話は戻るが、西股氏は、信長・秀吉軍が精強であった理由を、精強な武士身分からなるプロの殺し屋集団を獲得できたことに求めるのであるけれど、その根拠は、秀吉の小田原攻めの経過にあった。これは要するに、当時は兵粮の確保という問題がネックとなり、大軍を動員したからといって戦いに勝てるわけではないから、秀吉が勝てたのには、何か別の理由があるはずだ、というわけである。われわれのイメージからすると、小田原攻めなんてのは、圧倒的な物量作戦を展開した秀吉からすれば楽勝のいくさであったということになっているが、西股氏によると、この時代の兵力大量動員は、逆に自滅を招きかねない暴挙でもあったというのである。確かに、武田・上杉も小田原城を囲みながらも攻めきれずに撤退している。というより、チョロッと攻めてやめちまったらしい。謙信のときは10か月に及ぶ大遠征のつけたしのようなもので、信玄のときは何をしに行ったのかもよくわからない。『軍鑑』の筆者という高坂弾正にしても、この出兵には懐疑的だったようだ。謙信のときは寄せ集めとはいえ、10万という大軍であったから、補給のことは問題に上がっていたし、そのときは北条氏としても、武田・今川を動かして謙信を牽制することに成功しているから、後年の小田原征伐とは事情が異なっていた。

さて、西股氏は、秀吉の小田原征伐について、フロイス『日本史』の「関白の軍勢は、遠征で疲弊し、食料不足に陥っている、数か月で小田原を落とせるはずはないので、退却せざるを得ないだろう」との見方を重視し、ついで『家忠日記』の、小田原の陣で雑兵の脱走が相次いでいるという記述にも注目されている*62。家忠というのは家康の下にいた松平家忠という人物で、小田原の陣では秀吉方の包囲網に加わっていた。少なくとも、小田原攻めくらいの規模で戦いをしようとすると、このような事態は避けられないと、西股氏は考えたようだ。逆に、天正壬午の乱や、小牧・長久手の戦いにこのような記述は見られないので、小田原攻めにおける雑兵逃亡の原因は、兵粮の欠乏に求められるというのである。なお、当然のことながら、小牧・長久手のとき、家忠は家康の陣中にいたので、雑兵が脱走しなかったというのは、家康軍の事情をいいあらわしている。念のため、補足しておく。

ところで、正直、『家忠日記』が記す雑兵脱走の真相はよくわからない。西股氏も多くを負っている『雑兵たちの戦場』の著者・藤木久志氏は、『家忠日記』の「中間かけ落ち候」(中間が脱走した)という記述は、戦争終結を見越した奉公人どもが、次の稼ぎ場である奥羽仕置の戦場をめざしたものではないかと見ている。じつは、雑兵の脱走の理由は書かれていないのである*63。西股氏説も藤木氏説も、今のところ推測の域を出ないものではあるけれど、この記述は意味深なものである。

もっとも、今ではもう少し研究が進んでいて、先に引いた平井氏の『兵農分離はあったのか』は、いわゆる身分統制令と人掃令の検討を通じて、かなり説得力のあるマトメをされている。まず、中間のような武家奉公人の脱走は、中世末期から相次いでおり、要するにブラック企業である戦国大名の下でこき使われるのが嫌になって、ときたま逃げだしていたというのである。で、逃げた奉公人を勝手に雇うなだの、元の主人に返せだのというようなことが取り決められていたのであるが、小田原出兵から朝鮮出兵と遠征がつづき、大名たちは、使えそうな奉公人の確保ということに躍起になっていたというのである。一方で、農村の百姓が奉公人になってしまうと、今度は百姓として年貢を払い、戦争では陣夫として輜重兵をつとめる人もいなくなってしまうので、百姓が村を出て奉公人になることもマズイということになった。で、加藤清正などは「マトモな奉公人を集めて出陣してね」と家臣に命令したものだったが、その際、質の高い人材の確保を強調している。人数だけは集まってきたもののようで、集まっては逃げる、ということのくりかえしだったらしい。そんなことであったから、俗にいう秀吉の身分法令と人掃令は、朝鮮出兵のために奉公人(雑兵)と陣夫(百姓)をそれぞれに確保しようとして出された命令だったというのである(同書、第3章を参照されたい)。

なるほど、そうなると雑兵がアテにならないのは確かだが、チャンとした雑兵がいなければ、武士たちは道具も自分で持たなければならず、そもそも働くことができない。清正も、待遇を改善して過分に給金を取らせたようだが、それでいて後から逃亡されたらアカンから、チャンと役に立つ奴を頼むで、無駄な奴はいらん、とまで命じている。もっとも、どのみち低待遇だったには違いないだろうから、雑兵がマズイ飯を食わされて嫌になって逃げた、という西股氏の説明を否定するものではない。しかし、雑兵なしで戦えるものでもないから、戦闘不能に陥らない程度に雑兵を確保しておくことは、大名自身の課題であった。

要するに、西股氏としては、動員兵力の多寡は信長・秀吉軍の強さの決定的要因ではないということを説明するために、当時の兵站能力がいまだ未熟で、ウッカリ大軍など動員したらとんでもないことになるということを論証しようというものであるけれど、おそらく大名たちは、戦国期からすでに雑兵が逃亡するということを理解していて、対策を講じていたものと思われる。九州征伐、小田原の役と秀吉軍は大勝したが、兵粮不足の深刻さについては、その程度を示す直接の証拠がない。そこで、食いモンすらまともに運べない状況で、こうした遠征を企てようとするほど、戦国の軍隊は無謀であったのか、妥当に推論しなくてはならないということになる。

もちろん、雑兵の食いモンはままならなかったらしい。『雑兵物語』にも、戦場はさながら飢饉のようだと書かれているから、当時としては、そのようなことは折り込み済みの前提として考えなくてはならない。もう、食いモンが足りなかったら勝手に調達しろという世界である。三成あたりが算盤はじいて兵粮の輸送計画を立案したところで、どうにかなるものでもないと西股氏は言っているが、おそらく、それはその通りだろう。雑兵の食い物まで満足に調達することはできなかったに違いない。

この当時、マトモな兵粮は、自領から輸送するか、商人を通じて調達していたもののようで、朝鮮戦役の際、島津軍の船団を整えたのも伊丹屋なんどと申す大商人で、どうも朝鮮の奥地まで勝手に侵入して略奪を働いた島津の動きとも結託していたもののようである。藤木氏は、これを海賊の棟梁と見ているが、当時の豪商なんてのは、こんなものであったらしい。そんなわけで、朝鮮の戦場には多くの町衆が出入りしており、盛んに商売を仕掛けていたわけである。厳冬の蔚山で孤立した加藤清正の陣中では、ナント、日本商人が法外な値で米を売り歩いていたのである。ふざけろよということでキレた武士どもに脅されて、ビビって刀・脇差と引き換えに米を売ったとのことである*64。ン、兵粮不足とか言いながら、チャンと米はあるじゃねーか、とチョットした疑問を抱かないでもない。その米の出所については、伊丹屋のように朝鮮で苅田狼藉をしてパクってきたものであったかも知れないから、三成あたりが手配したものかどうかは不明である。三成は、島津に対して略奪を禁ずる軍令を発しているから、もともと明への侵攻拠点である朝鮮を荒廃させる意図はなかったというようなことが言われている。いずれにしても、御用商人が半島の奥地まで進出していたことがわかる。もはや商人とは名ばかりの実力集団である。

例によって日本語版Wikipediaによると、朝鮮出兵における日本軍の兵站確保は、全軍引き上げに至るまで完全に遂行されたと書かれているけれど、鵜呑みにするのは躊躇われる。なにぶん現代の軍隊ではないので、「現場での飯は自分で何とかしろ」で済まされてしまった部分もあるわけで、日本軍が無事に渡海して撤退を終えたことは事実ながら、兵粮輸送が万全であったと解釈できるかどうか、心もとないものである。

となると、当時、兵粮について、どの程度のことができれば、戦争遂行可能と判断するに充分であったということになるのであろうか。まともな戦闘ができる士分の兵粮さえ確保できれば、あとは、カッパライで済ませるという認識でよいのであろうか。なるべく十分な兵粮を調達しておくことは、マトモな武将なら考えたに違いないであろうけれど、敵に補給線を遮断されたらそれまでである。そうならないように秀吉は作戦を考えた。しかし、それが結果通りになるかどうかということである。小田原攻めでは、秀吉の外線作戦は破綻しなかった。これは偶然のことだったのであろうか? もちろん、当時のことだから、予測不可能なことはしばしば起こった。当時の武士は運というものを軽視してはいなかった。いろいろと考えても、思わぬことがよく起きたわけである。であるから、秀吉の作戦も、もとより完全情報下に近い状態で策定されたわけではない。しょせんは経験的な蓄積がものをいったのであろう。九州征伐の成功は、大きな参考になったことであろう。ただ、秀吉がいくら綿密に計画を立てたからといって、それで兵粮不足が解消される保証がないことも確かである。問題はその程度である。秀吉には自信があったとは思われるけれど、この際、彼の意志と結果にはあまり関係がない。秀吉が物量作戦を企図していたからといって、結果としてそれが秀吉軍の勝利につながったかといえば、これだけでは論証不可能である。しかし、奥羽の情勢をにらみながら、関東一円に外線作戦を展開するうえで、兵数の大なることは不可欠であったから、その意味では、大兵力を投入したことには作戦上の意味があった。

なお、これも一つの英雄譚のものであるから、そのままには信用ならないけれど、たとえば『甲陽軍鑑』品第36には、永禄12年(1569)に小田原から撤退した信玄が、懲りずに駿河・相模・伊豆の国境へ侵攻を企てた際、山中に布陣する際に水の確保をいかにするかということで、侍大将を集めて協議した記事が載せられている。信玄公は憐み深かったのかナンなのか、水に不自由な場所に陣取ったら、人夫や地元の人が困るだろうからと、山本・荻原2名を遣わして国境の水の様子を見分させたとのことである。もともと信玄というのは、他国の地理人情を用心深く調べるのを常として、戦場の地形や退路についても熟知していたという記述があって、戦場にあっては敵兵1騎、2騎の動きまで観察していたという念の入れようである。『軍鑑』は軍学書の触れ込みで広まった本であるから、教訓めいた作り話ということもできるけれど、それにしても、水や兵粮の確保ということは軽視されていない。もちろん、国を富ませるために他国でカッパライを働くのは常套手段であり、甲斐の人たちはそれで富裕になったとさえ言われているから、これは当時として必須のことであった。もちろん、武士が戦闘そっちのけでそれをやってしまうと白い目で見られたから(もっとも、鎌倉の昔は「山賊・海賊は侍のならい」などと言われたものだったけれど)、カッパライは足軽・雑兵の仕事であったろうし、こうした人たちは、もともと専門の盗賊出身だったという話もある(『陰徳太平記』)。とはいえ、敵地のこととて、カッパライもアテにならないものである。略奪はアテこむにしても、初動の兵粮を用意しておくのはマトモな大名なら当たり前のことであろう。それが現代的な意味で十分に足りていたかは別問題である。

秀吉自身は、小田原攻めにそれなりの自信があったのであろう。秀吉の本隊が上陸してからから2ヶ月、先遣隊が戦端を開いてから9ヶ月に及んだ九州征伐が成功しているところをみると、小田原のそれも、それなりに勝算あっての大動員であったようにも思われるのである。なお、秀吉は朝鮮でのカッパライを禁じる旨の命令を出している。朝鮮で人を捕まえたら、元の土地に戻せというわけである。国内でも同様で、豊臣領でのカッパライは基本的にはアウトであった。小田原攻めの際に出された真田昌幸宛の書状にもチャンと書いてある。小田原攻めでは、最後まで敵地だった小田原町中だけが公認のカッパライ場所となってしまったが*65、小田原の外では、人身売買は禁止され、還住令が出されている。なお、朝鮮におけるカッパライ禁止令だが、けっきょくは守られず、秀吉も職工などを捕まえたら献上するように命じている。

もろもろ考え合わせると、稼ぎ場を求めて集まった雑兵あたりがひもじいのは、程度の差こそあれ戦場の常で、規模の大きな戦いになればその度合も目立ったものになるであろうけれど、それで戦闘が継続できなくなるというようなことを秀吉は想定していなかったのではないか、というような気がしてくる。全体で7ヶ月、小田原城を囲むこと3ヶ月程度になったであろう小田原戦役のように滞陣が長引くと、あるいは、雑兵としてもはかばかしくないことにはなったであろう。朝鮮の戦いでは、奉公人の集団脱走ということもあったらしい。どうせ雑兵、死ぬまで戦う義理もないので、勝ち目がでてきたところで、戦場にいさえすればそれでよいわけである。雑兵がそういう存在であることは、西股氏も指摘されているとおりである。もっとも、雑兵というのは、農村で耕してもまともには食えないから戦争に参加して何とか食いつなごうという人たちの集まりであって、さもなくば盗賊悪党、手柄を立てる機会もないので、お目当ては飯の配給と戦後の略奪である。マトモな扱いではないことは、誰もが先刻承知である。似たようなものでも足軽正規雇用だから、組織戦の主力だったという人もいるから、何とも言えないが、それを度外視すれば、戦いで頼りになるのは武士階級に属する重装歩兵だという西股氏の説もわからないではない。もし、信長や秀吉の軍が強かったとすれば、マトモな武士がヤバイほど強かったからだ、ということになるが、マトモな武士がヤバイほど強かったのか、単にマトモな武士の数量が多かったからだけなのか、そのあたりは判然としない。もちろん、マトモな武士が多いということは、その分の兵粮もかさむということであるし、奉公人も必要ということになる。小田原の役を見ても、北条の精鋭はあらかた小田原城に集められていて、最後まで干戈を交えることはなかったから、秀吉軍と北条軍の武士同士の精強さの度合いを比較することはできそうにない。真田文書にある昌幸宛の秀吉書状からもわかるように、秀吉の方針は「関東八州の物主共残らず相籠め候間、城内の奴原悉く干殺しに仰せ付けられ、出羽・奥州、日の本の果てまでも相改められ、御仕置等堅く仰せ付けらるべく候」というものであった。要するに兵糧攻めである。しかし、包囲軍の兵粮が先に尽きたとしたら、もうシャレにならない。

西股氏が引き合いに出す山中城の戦いにしても、単に山中城の防備が間に合わず、守兵の数が少なかったことが、山中城がわずか半日で落城した決定因であるという見方も存するわけで、秀吉軍の七万に対して、城方は三、四千の兵力で応戦を余儀なくされたから、勝ち目は薄かった。もっとも、当初10倍の兵力差で4ヶ月もちこたえたという韮山城の例もあるから、このことは、小田原戦役全体の作戦上の出来事として位置づけられるべきであろう。なお、山中城における北条方の抗戦は苛烈だったらしく、関白方では、猛将の一柳直末まで鉄炮に当たって戦死している。なお、一応は信玄が勝ったらしい三増合戦でも、赤備えで知られた浅利信種が北条方の狙撃で戦死しているから、こういうことはしばしばあったらしい。どこでも手柄争いが苛烈だったのは事実らしい。小牧・長久手では、森長可鉄炮に撃たれて戦死しており、確かに命知らずな猛将というのはいた。余談ながら、このときに森勢と激突したのは、武田遺臣をつけられて信玄流の戦術を受けついだ、赤備えの井伊直政であったという話で、この活躍は都でも評判に上ったらしい。

さて、小田原陥落後、宣言通り秀吉は、北関東から奥州まで兵を進めているから、まだ余力を残していたもののようである。もろもろ憶測の域を出ないことではあるけれど、いずれにしても、小田原の役をどう評価すべきか、私にはまだ釈然としないものがある。けっきょく、秀吉が総合力で北条氏を上回っていたという、それだけのことに尽きるような気もしてくるが、どうであろうか。西股氏は、ナポレオンもモルトケも、ヒトラーですらなしえなかった輸送体制の確立ということを秀吉に成し遂げられたのかと疑義を呈しているが、まあ、その意味では、なしえなかったんだろうね、これは。なしえなくても何とかなっちゃうような、無責任な時代だったんじゃないのかねえ。小田原に内線作戦の名手だったナポレオンでもいれば、広範に展開する敵を迅速に各個撃破ということにもなったのかも知れないが、これというのは、補給線が短くて済むからこそ可能なものでもあるわけで、十分な拠点をもたずにロシアまで長駆したらコリャもう、物資は現地調達しかない。これも西股氏が指摘する通りである。フランス軍は後方の防備にも兵力を割かなければならなかったから、ナポレオン得意の兵力一点集中も不発に終わってしまったが、いやいや、そもそもナポレオンの機動戦というのは、現地でカッパライをやることで可能だったという考え方もあるわけで、ロシアの焦土作戦さえなければ、あるいは補給の目的は達せられていたのである。コリャ、ほとんど戦国大名の手口である。上杉謙信の関東遠征なんてのは略奪行だったと藤木氏は書いている。つづくライプツィヒの戦いでは、敵方は外線作戦を展開し、結局は兵力差でフランスが敗北した。それがコトの顛末である。

しかし、こういう前時代的な考え方が良いというのではない。2003年の「イラクの自由作戦」(OIF-1)で、米陸軍第三歩兵師団は、3日で560キロという陸上部隊の進撃速度の最速記録を叩き出した。江畑謙介氏の『軍事とロジスティクス』(日経BP社、2008年)によると、このスピードにイラク軍は驚いたが、当の米軍もびっくらこいたということである。戦闘部隊の進撃に補給が追い付かなかったのである。もっともこれは、戦闘部隊と補給部隊の通信網にトラブルが発生したため、前線が必要とする物量の把握が遅れたためであるとのことであって、作戦の本質的な失敗というわけではなかった。むしろ、このような高速進撃が可能となったのは、必要な物資を必要な量だけ必要なときに補給する「ジャスト・イン・タイム」(just-in-time)型補給のシステムを米軍が構築していたためである。そうでなければ、半年以上かけて「鉄の山」などと呼ぶ物資集積場所を作って、進撃とともに移動、それを待って、また進撃を再開という方式で進まなくてはならなかった。これが湾岸戦争までのまっとうな戦争のやり方だったのだ*66

もう一点、江畑氏は日本の事例についても述べている。日露戦争の頃までは補給の重要性ということを認識していた日本軍も、太平洋戦争ではこれを軽視、インパール作戦においては、「食糧は敵が置いていったものを奪え」ということで、これを「マッカーサー給食」と呼んでいたという。もちろん、そんな物資は当に焼却されてしまっていた*67。ナポレオンのロシア遠征と同じ結末である。希望的観測にすがってイチかバチかということになったのだけれど、もともと無理なものは無理、インパール作戦は無残な結果に終わった。そういう意味では、略奪だけをアテこんでいたら、秀吉軍も壊滅ということになった可能性はあったと思われる。

そのように見ると、秀吉の小田原攻めは、どうであったか。こんにちに比べれば補給の脆弱さは疑いようもないけれど、この戦いは、味方である徳川・上杉領から、いわば隣国である北条領に攻め入るようなものであったし、背後を脅かす敵もおらず、海上も封鎖して敵水軍を無力化していたから、補給を絶たれる恐れはなかった。東海道方面の拠点となった長久保城は家康領で、北条方の前線拠点である山中城とは、目と鼻の先であって、秀吉自身もここに立ち寄っている。もちろん、西股氏もその可能性を考慮して、駿河あたりに大量の兵粮を集積して、それを大名軍に分配したのであろうと見ている。そうしたことは秀吉の得意とするところで、小牧・長久手の後にも家康討伐を企てて、大垣あたりに物資を集積していたようである(天正地震が起きて水泡に帰してしまったが)。しかし西股氏によると、けっきょくは兵粮を運ぶ輜重兵も飯を食うわけで、またしても兵粮量を必要とするから、よほど綿密なシミュレーションが必要だというのである*68。なるほど、それはその通りであろう。しかし、すでに述べたとおりの理由で、戦国時代の武将なんてのは、そのつもりで戦いをしているから、輜重部隊で使役されていた陣夫なんてのは、『雑兵物語』の雑兵と同じで、「配給が足りなくなったら、自分で何とかしてね」で済まされてしまった、と考えることもできる。困った話だが、その程度の動員計画なのである。そのことは、西股氏も認めていて、第二次大戦のバルバロッサ作戦に至るまで、世の軍隊というものは、けっきょくは略奪まがいの現地調達方式で物資をまかなっていたというのである*69。つまり、それでも戦争遂行は可能であった、というのがこの命題の結論であるように思われる。しかしながら、アテが外れたら大変なことになるのも事実であって、雑兵の飯をどの程度、現地略奪でアテこんでおくのか、その計算をどうするのか、依然として謎と言えば謎である。それは西股氏の論法からして、秀吉だけでなく、近代の軍隊も同様である。まして秀吉は、占領地で勝手に略奪しちゃイカンと言っている。だとすると、秀吉は相当量の兵粮を見事に事前調達したということになるのであろうか。あるいは、現地で勝手な略奪はさせなかったが、軍令による徴発はしたということなのであろうか。曹操あたりなら屯田でもしたかも知れないが、それよりは、すでに占領を終えた関東各地の領国化に着手した方が早いだろう。いずれにしても、ここは証拠に基づいて実証的に考えるほかはない。

しかし、いずれにしても物事には限度があるから、事前の兵粮準備にせよ、現地調達方式にせよ、それが破綻してしまえばそれまでである。それが破綻するかしないかを正しく判断できれば、一定期間内に一定の軍事行動を行なうことは、可能であるということになるのであろう。西股氏による『家忠日記』の読みが正しければ、小牧・長久手の戦いでは、逆に兵粮が足りていたからこそ雑兵の逃亡ということがなかったのであり(もっとも『家忠日記』に拠るので、これは家康方の話であって、秀吉軍のことはわからない)、その意味では、(少なくとも家康方の)動員計画は成功していたということになる。であるならば、雑兵が慢性的に陣中で飢餓していたという『雑兵物語』の逸話を引用したのはナンだったのかという話にもなり、まったくおさまりがつかない。メシは足りてるのか足りてないのか、どっちなのよ? どっちにしても、雑兵がたらふく食えなかったのは想像がつくから、芋でも何でも掘って何とかせえよ、というサバイバル教育は必要であった。俵を刻んで馬の飼料にしろとか、ずいぶんな念の入れようである。『雑兵物語』も戦国時代が終わってずいぶんたってから世に出た本で、これまた作者として『甲陽軍鑑』の編者と目される小幡景憲の名が挙げられることもあるから、小幡サマサマである。もとより「雑兵生活やってみた」的なあからさまなフィクションではあるけれど、足軽以下の武家奉公人の心得としてまとめられたものであるらしい。戦場はさながら飢饉だから、こういうことに気を付けろよ、という訓話なのである。足軽が戦場で迷惑かけないように、いろんな注意が述べられている。これは一つの仕事術なのである。

いずれにしても西股氏としては、武田・上杉も落とせなかった小田原城を、どうして秀吉が落とせたのかということについて、「兵力や物資のうえで秀吉が有利だったから」「包囲戦略が成功したから」という結論には、どうしても納得がいかなかったようである。そこで、「万全の補給ができなくても秀吉が天下統一できたのはなぜ?」という疑問から、秀吉軍には、およそ地方の田舎大名の旗下にはいないようなイッちゃった殺し屋集団がたくさんいたという結論に至るのであるけれど、関ヶ原大坂の陣と、その後も大動員は続くわけで、このことをどう考えるべきか、これらの戦いはすべて無謀な補給体制のもと、飢えた雑兵はバタバタと逃散、殺し屋集団の蛮勇だけで片がついたと見てよいものか、私にはチョット躊躇われるものがある。もっとも、大坂冬の陣は家康の出陣から2ヶ月ちょっと戦って、講和となったもので、小田原城とは異なり、城は落ちなかった。家康が大坂に着陣してからは1ヶ月の包囲戦である。豊臣方は、敵方の大坂での現地調達を妨げるために、兵粮を買い占めたらしく、一時的な効果を上げたようである。改めて大坂城の堀を埋め、野戦にもちこんだ夏の陣は、3日で片がついてしまった。家康が駿府を出てから、およそ1ヶ月である。『駿河土産』によると、大坂夏の陣のとき、権現様は「秀頼討伐なんて腰兵粮で十分」と余裕だったという。もっとも、家臣たちは内心では「冬の陣のときは、100日もかかったのになあ」と訝っていたようだ。現代的な意味での補給体制は整わなかったが、大動員は何度でもできた。このこと自体をどう解釈すればいいのか、私には答えようがない。なお、関ヶ原のときは、会津征伐のために家康が出陣してから、西軍に勝利するまで3ヶ月かかっている。その後にも島原の乱というのがあった。これは攻囲戦になり、原城兵糧攻めにしたわけである。兵糧攻めということになると、コリャもう、作戦の本体がそれであるわけで、武士の蛮勇は最後の突撃だけである。蛮勇なくして戦闘のしようもないとは思われるけれど、小田原攻めも原城攻略も、包囲戦に入ってからの本質は兵糧攻めなのである。これは背後から補給の見込みが立つ分には、可能な戦略なのである。

一方で、カエサルのアレシア包囲戦のように、包囲陣地の中の兵粮は30日分、さらに外から敵の解囲軍が駆け付けるという状況になると、むずかしい判断を迫られることになる。このときはカエサルが勝って、ウェルキンゲトリクスを降した。余談ながら、知人の画家がフランスでジェゼケル氏という人と結婚されてパリで暮らしているが、このジェゼケル氏、もとをただせばケルトの王に由来する名字なのだという。当然、ウェルキンゲトリクスの話になったが、どうもこのジェゼケルさん、語源の方は定かではないらしい。なお、フランスの話ついでに、かつて西ローマ時代に当時ナルボと呼ばれた今のナルボンヌが西ゴートに包囲されたとき、ローマのリトリウス軍は、各人2ブッシェルの小麦を馬に積んで進撃したという話がある。これによって市民は飢えから解放され、やがて北方から「最後のローマ人」といわれたフラウィウス・アエティウス(カタラウヌムでアッティラをやぶったローマの将軍)が駆けつけて攻囲軍をやぶり、今度は西ゴートがトロサに籠城する羽目に陥った。西ゴートの兵粮は尽き、あわや全滅寸前というところであったけれど、リトリウスは軽率にも陣頭に立って戦って捕虜となり、結句、ローマ軍とフン族の傭兵部隊は壊滅ということになったのである。このときにやぶれていたら、後年の西ゴート王国はなかったわけである。

話を『戦国の軍隊』に戻そう。西股氏は、北条氏康が第二次国府台合戦で補給を度外視して戦勝を得たのは、機動作戦をとったためであると説明されている。3日程度の短期戦の場合、腰兵粮で何とかなったのである。長篠合戦にしても、西股氏は、兵力差は倍ながら、信長が勝利した理由を作戦の優秀さに求めている。ここでは補給ではなく、作戦が重要視されているのである。けれど、つまるところそれは、大がかりな補給を必要としない作戦だったということになる。一方、小田原攻めの場合、北条の主力が本城に集まってしまい、周辺地域は次々と秀吉の連合軍に制圧されてしまったので、個々の作戦の効用もしかとは確かめられない。房総あたりを攻めたときには、あまりに歯ごたえがないので、秀吉も「こんなのは戦功と認めない」と言っている。局地戦の戦術についていささか論評することはできるけれど、問題は戦略のレベルに格上げされざるを得ない。そこで、長期戦に伴う補給問題というのが深刻になるのはもっともなことではある。補給の限界が作戦の限界でもあって、どんなに素晴らしい作戦を思いついても、補給が追いつかなければ実現することはできない。ゆえに、成功した作戦というのは、あくまでも補給能力の限度内で実行された作戦であるということになる。それは短期戦でも長期戦でも同様であろう。西股氏は、『家忠日記』を引いて、小牧・長久手の戦いでの家康軍と、小田原戦役における秀吉軍の兵粮事情を比較することで、秀吉軍の勝因をプロの武集団の精強さにあると考えた。だとすると、小牧・長久手で数に勝る秀吉軍が、少数の家康軍を撃破できなかったのはなぜかというような問題も問われなくてはならない。なるほど、物量作戦だけで勝敗が決するというのは早計のようだけれど、そんなものに頼らずとも、秀吉軍には最強のイッちゃったマッド軍団がいたはずである。雑兵が逃亡しようが何しようが、小田原戦のように勝てるはずではなかったのか? おかしな話である。

一方、家康軍はどのようにして秀吉軍の攻撃をしのいだのであろうか。その点、小牧・長久手の戦いが局所戦に終わり、あちこちで反秀吉包囲網が攻勢に出ていたから、最終的な決戦に至らなかったということも考慮しなくてはならないのであろう。秀吉得意の物量作戦は不発に終わったのである。局所戦については家康の戦術が秀でていたのであろうし、戦略面では反秀吉包囲網が機能したことを評価しなくてはならない。秀吉は四国や紀州からも本拠地を脅かされ、前線を離れなくてはならなかったのである。信玄や本願寺顕如による信長包囲網のようなものである。つまりは作戦勝ちである。小田原北条氏は、そのような有効な戦略をとることができなかった。このことは問題とされなくてはならない。

けっきょく、秀吉は、小牧・長久手の戦いでは家康を屈服させることができず、対して小田原の役では北条氏を降すことができた。いずれも秀吉は物量作戦を展開したが、結果は真逆に終わった。なるほど、兵の多寡だけが勝敗をわけるものではないであろうけれど、もし作戦を度外視すれば、この結果、西股氏の論理でいくと、最強なのは信長・秀吉軍ではなくて、家康軍だということになるのではなかろうか。これでは『甲陽軍鑑』とほとんど同じ結論である。そうでないとしたら、たんなる武士の蛮勇が、こうした大名間戦争の勝敗をわける決定因だという考えを改めるほかはない。蛮勇以上に戦略の有効性をどう評価するのかという視点が、最後の最後で脱落しているのは、西股氏にしては不思議なことである。しかし、それには理由がある。補給のままならない軍隊に戦略があっても、それは絵に描いた餅である。つまり、ここでは作戦と補給は一体のものとして捉えられているのである。西股氏は、「(秀吉は)決して万全の補給体制など構築できなかったにもかかわらず、天下を統一できたのである」として「では、秀吉が全国統一をはたしえた理由、つまり秀吉軍の強さの秘密は何だったのだろうか」*70という問いを立て、腕っぷしの強い猛将や、その旗下にいた個人技に長けた蛮勇の重装歩兵の突破力に解決を見いだした。西股氏はそのような武将の例として、小牧・長久手で戦死した池田恒興を挙げておられるが、残念ながら、かの愛すべき乱暴者・森長可は漏れている。これも口達者な信長家の空言といわれればそれまでだが、槍を振るって一向一揆を27人殺しただの(もっとも、『甲陽軍鑑』には長刀一つで数百人を押しとどめて70人くらい斬ったつわものも登場するから、いい勝負である)、高遠城で敵兵の返り血に染まって戦い続けただの、川中島に入部してから芋川一揆を女こどもまで大虐殺しただの、ムチャクチャなことをやらかしている。さすがにこれは怖い。行動が機敏で妙に適確なのは、さすが信長の家来である。この行動力は只者ではない。どちらかというと理論派で自分のやり方を通したがる長野県人からすると、もっとも苦手なタイプである。そうしたわけで、北信州の人は森にはなつかなかったらしく、農民から一向一揆まで反旗をひるがえす羽目に陥ったようである。事前の準備がいささかお粗末だったらしく、数日で壊滅させられた。このようなわけで、武将の個人的な蛮勇がとてつもない威力を発揮したのも、一定の事実であろうということは思うけれど、それが家康軍に通用しなかったのはどうしてなのかという疑問も、当然に出てくるわけである。『家忠日記』の記事からすると、家康軍の補給が足りていたことが勝因なのだろうか? だとしたら逆に、小田原で秀吉が勝てたということは、秀吉軍の兵粮は足りていたのではないかということになるような気もしてくるのだが、いかかであろうか? むろん、これは論理的に後件肯定の誤謬ではあるけれど。

しかしこの点、軍法を強調する『軍鑑』も似たかよったかで、小牧では、徳川勢は10分の1の軍勢で秀吉軍をやぶって勝利したと書いている。家康がそれでも勝てると踏んだのは、前年に家康衆の酒井左衛門〔忠次〕が尾州羽黒山で森に勝っていたからだと述べている(品第59)。森のヤンチャ伝説も形なしである。それにしても、ずいぶんザックリな書き方である。なお、この森、秀吉にあてた遺言もムチャクチャで、「こいつ、アタマおかしんぢゃね?」と思われたのか、秀吉も読まなかったことにしてしまった。かなりウケることが書いてあるので、興味のある人は調べてみるがよろしかろう。

 

19. けっきょく、小田原を力攻めにはしなかった

しかしながら、小牧・長久手の戦いは度外視するとして、小田原の役にかんしては、次のように考えることもできる。かつて、すぐれた軍法を有していたにもかかわらず、武田・上杉の両雄は、補給の限界から作戦の遂行ということがままならず、小田原からの撤退を余儀なくされた。同じことが秀吉軍について言えるにもかかわらず、秀吉は小田原を開城させることに成功している。だとすれば、この膠着状態を打破することができたのは、秀吉軍に、作戦の優秀性や補給力以外に何らかの切り札があったからに違いない、と。作戦の限界が補給の限界であるとするならば、秀吉は小田原を包囲したとしても、最終的には補給が尽きて撤退せざるを得ない。これでは、武田・上杉の二の舞である。地方大名の補給力にはおのずから限界もあって、なかなか互いを殲滅するのはむずかしかった。問題は、秀吉の補給力をどう評価するかということにかかっているが、西股氏はこれをまったく評価しないので、秀吉の勝因を〈補給=作戦〉路線には見いださなかった。

そこで西股氏は、山中城攻略の際に威力を発揮した士分からなる重装歩兵の蛮勇に着目したのであるが、この山中城にしても、たかだか数千の敵を相手に、主将の秀次は力攻めを仕掛けて多大な損害を出している。それでも城は落とせたのである。おまけに戦いは半日の短期戦で、少ない敵に対して無理な攻撃を仕掛けて秀吉の宿将まで死なせてしまった。事実だけ見れば、ナンダコリャ、って話である。西股氏からすると、北条氏側の少数ながら効果的な火力運用が奏功したものらしい。さらに秀吉軍は、圧倒的な兵力と火力をもってしても小田原城の惣構を突破できず、不本意な持久戦に持ち込まれて兵粮不足に陥った、とする*71

しかし、山中城攻略の決め手が、秀吉側が育成した精強な人殺し軍団の突破力であったという説明はそれなりに事実であろうけれども、七万人がよってたかって三千かそこらの北条勢を倒したというだけの話で、それにしても小田原本城は抜けなかったのであるから、説得力は薄い。わざわざ大軍を動員した秀吉が、そんなマッドな個人技集団に頼っていたのか、どうもよくわからない。

なお、この山中城の戦いの直前、城将の松田康長は箱根神社宛に「秀吉軍は兵粮が不足していて、山でトコロを掘って食べている。米一升でビタ銭100文の高値で売られていたが、それすらもう買えない。今は汁椀一杯10銭の雑炊売りだけ。これでは長陣は無理だろう」というようなことを書き送っている。北条氏政もこの情報を信じて、味方の将に伝えているけれど、西股氏は、このネタは真実であったと見ている。

 

(…)これを秀吉が相手を油断させるために謀略情報を流していただとか、欺騙工作を行っていただとか評している方もあるようだが、はたしてそのように考えてよいものだろうか。*72

 

この情報は、松田が敵方の雑兵から得たことになっているが、一方の藤木氏は、

 

結果から見れば、この雑兵は徳川方が放った忍びらしく、北条方の油断を誘う作り話にすぎなかった。しかし、こんな偽の飢餓情報は早くから流され、山中城兵はこれをほとんど信じかけていた。陣中の飢餓も兵粮売りも雑炊売りも、戦場の常で、虚構とは思えなかったのであろう。*73

 

と、述べており、雑兵の兵粮不足はよくある話という点では一致しているけれど、秀吉軍の小田原陣中での様子を正確に伝えたものかどうかについては、意見の相違があるようである。いずれにしても、秀吉が、長期滞陣における兵粮不足という常識を覆して16世紀の世界に例のない完璧な補給を実現するという偉業を達成し得たのか否か、その前に行なわれた九州征伐と合わせて検討してみる価値はあるであろう。もっとも、そのような完璧な補給体制などなかったという点で、私は一概に西股氏の所説に異を唱えるものではない。けれど、小田原攻めから大坂の陣まで、当時の日本には、大混乱を引き起こさずに大動員を可能とする程度の補給体制があったと考えた方がスッキリするような気がしている。もちろん、民衆はいろいろと迷惑を蒙ったことであろうし、その意味で補給が滞らなかったということが立派なことであったと言うつもりはないし、具体的にどんな補給手段が講じられていたのか、その点が明らかになったわけでもない。そのように考えると、コロナ対策が不徹底なものであったにもかかわらず、なぜか致死率が低く抑えられているわが国の不可解な状況と同じで、いまだ真相が解き明かされたとは言いがたいものがある。その意味では、西股氏の問題提起は重要なものであったと思うのである。

 

20. 本能寺の変はなぜ起きたか

さて、最後に西股氏は、異常な淘汰圧の働いた織田家中にあっては、機を見るに敏な野心家が立身出世を遂げ、しまいには明智なんどというファッキン・スマート(クソ優秀)な武将が現れ、勝機ありと見るや、それだけの理由で信長を殺っちまったと書いている。要するに、怨恨とか理想とか、そんな動機なんかいらないのである。天下が取れると思ったから、謀叛しちまったというわけだ*74織田家中にはそういう軍事的才能と謀才をそなえた、上昇志向のカタマリのような危険な連中がゴロゴロしていたというのである。「信長のような経営をすると、部下にタマとられるからやめたほうがええで?」と、西股氏も注意喚起しているくらいである。しかし、光秀が危険人物だったことについては、フロイスの証言が引かれているけれど、四国問題における信長の場当たり的なやり口が、この時期の光秀の地位を危ういものにしていたことも一つの事実であるし、信長が光秀に暴力を振るったということを書いているのも当のフロイスである。怨恨がなかったとも言い切れない。いずれにしても憶測の域をでないことではあるけれど、ついでながら記しておくと、ナント、『甲陽軍鑑』には、武田氏滅亡の直前、甲州征伐が始まった天正10年の2月に、光秀から勝頼に謀叛の誘いがあったが、勝頼は呼応しなかったというようなことが書かれている*75。さすがに誰も取り上げないような奇説であるけれど、書いてあるものはしょうがない。

結句、信長は討たれ、やがて徳川様の世となるのであるけれど、『軍鑑』を書き継いだとされる高坂弾正の甥・春日惣次郎は最後に「信長のマネはしちゃイカン」と批判を加えてしめくくっている。曰く、信長は、代替わりして武道の衰えた上方の国々を支配して急速に大身になった。数々の戦いに勝ったけれど、少々の不覚は気にせずに、反省をしなかった。こういう態度は感心しない、云々と。信長没後3年、天正十三年三月三日と記す。

*1:西股総生『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』、学研パブリッシング、2012年、7頁。

*2:西股、同書、7頁。

*3:西股、同書、239頁。

*4:甲陽軍鑑』品第十四。

*5:甲陽軍鑑』品第三十七。

*6:参謀本部第四部編『日本戦史』「桶狭間役」、元真社、1893年、9頁。

*7:西股、同書、136~137頁。

*8:西股、同書、137~138頁。

*9:西股、同書、138~140頁。

*10:慧文社史料室編『山本勘助「兵法秘伝書」』、慧文社、2007年、71頁。

*11:『南山剳記』、2019年11月8日記事、web。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2019/11/08/101132

*12:西股、同書、146~147頁。

*13:たとえば、西股、同書、114頁に、元亀3年(1572)の北条氏政による宮城四郎兵衛泰業宛の「北条家着到定書」などが挙げられている。

*14:西股、同書、135頁。

*15:網野善彦『無縁・公界・楽 中世日本の自由と平和』平凡社、1987年、5頁。

*16:網野、同書、129~130頁。

*17:網野、同書、125頁。

*18:網野、同書、125~126頁。

*19:『新しい歴史学のために』209号、1993年。網野善彦「悪党と海賊」(『悪党と海賊――中世日本の社会と政治』所収)、法政大学出版局、1995年、363頁(初出は『大谷学報』第73巻第2号、1994年1月)。

*20:網野、同書、365~366頁。

*21:網野、同書、367頁。

*22:網野、同書、367頁。

*23:貨幣と〈悪〉の結びつき、農民と国人の結合によると考えられてきた一向一揆が都市民に支えられたことについては、網野の同書369~370頁を見よ。

*24:網野、同書、370頁。

*25:網野、同書、366頁。なお、女性の名は「得万女」と言った。これが遊女につながるというのは、網野氏の推測であって、今のところ確認された事実ではない。

*26:『南山剳記』、2019年9月13日記事、web。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2019/09/13/161343

*27:平井上総『兵農分離はあったのか』、平凡社、2017年、190頁。

*28:マインドアサシンかほる』説教その1②(web。2020年2月28日記事。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/02/28/162029)。

*29:柴辻俊六『戦国期武田氏領の研究――軍役・諸役・文書』、勉誠出版、2019年、112頁。

*30:柴辻、同書、113~114頁。

*31:西股、前掲書、115~117頁。

*32:柴辻、前掲書、114~115頁。平山優氏、則竹雄一氏の研究による。

*33:平井、前掲書、70~72頁。もっとも、奉公人層については、給地を受けていたのか、戦国大名の蔵米を受けていたのか、同書の253~254頁を見るとよくわからなくなる。

*34:西股、前掲書、176~180頁。

*35:西股、同書、185~189頁。

*36:西股、同書、156頁。

*37:慧文社史料室編、前掲書、23頁。

*38:西脇、前掲書、239~240頁。

*39:西脇、同書、240頁。

*40:マイケル・E・ハスキュー/クリステル・ヨルゲンセン/クリス・マクナブ/エリック・ニデロスト/ロブ・S・ライス『戦闘技術の歴史5 東洋編』、杉山清彦監修、徳永優子・中村佐千江訳、創元社、2016年、68頁。

*41:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、同書、68頁。

*42:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、同書、123~124頁。

*43:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、同書、123~124頁。

*44:西股、前掲書、166頁。

*45:西股、同書、169頁。

*46:西股、同書、168頁。

*47:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、前掲書、277~278頁。

*48:西股、前掲書、167~168頁。

*49:参謀本部第四部編、前掲書、1頁。なお、句読点は撰者が補った。

*50:甲陽軍鑑』品第三十七。

*51:甲陽軍鑑』品第五十四。

*52:甲陽軍鑑』品第五十三。

*53:参謀本部第四部編、同書、9頁。なお、句読点は撰者が補った。

*54:参謀本部第四部編『日本戦史』「桶狭間役補伝」、元真社、1893年、5頁。

*55:甲陽軍鑑』品第四十上。

*56:西股、同書、244~245頁。

*57:西股、同書、241頁。

*58:西股、同書、244頁。

*59:西股、同書、183~184頁。

*60:西股、同書、250頁。

*61:西股、同書、251~252頁。

*62:西股、同書、209~210頁。

*63:藤木久志『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』、朝日新聞社、2005年、123~124頁。

*64:藤木、同書、140頁。

*65:藤木、同書、55~56頁。

*66:江畑謙介『軍事とロジスティクス』、朝日新聞社、2008年、19~22頁。

*67:江畑、同書、15頁。

*68:西股、前掲書、211頁。

*69:西股、同書、212頁。

*70:西股、同書、223~224頁。

*71:西股、同書、241頁。

*72:西股、同書、209頁。

*73:藤木、前掲書、139頁。

*74:西股、同書、247~248頁。

*75:甲陽軍鑑』品第五十八。