南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

働かない(トム・ルッツ)

働かない

トム・ルッツ『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』、小澤英実・篠儀直子訳、青土社、2006年

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【服部 洋介・撰】

 

書誌

Doing Nothing
A HISTORY OF LOAFFRS, LOUNGERS, SLACKERS, AND BUMS IN AMERICA
BY TOM LUTZ
COPYRIGHT Ⓒ 2006 TOM LUTZ

 

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

 

  

解題

 著者のトム・ルッツは、1953年生まれ、専攻はアメリカ文学・文化史。社会学や心理学を文学と融合させた独自の研究領域を展開し、スタンフォード大学アイオワ大学、カリフォルニア大学で文学、創作等を教えるいっぽう、脚本家としても活躍していると、見返しにある。この人には18歳になる息子がいて、実家に転がり込んできて、就職活動もテキトー、家ン中でブラブラしておったのであるけれど、最初は見守っていたルッツ氏、しまいにはどうしようもなくイラッときちまったようで、ついにはキレた。

かくいうルッツ氏も、テメエの親父にさんざん「無駄なことしやがって」と人生を否定されてきたから、息子の気持ちがわからないはずもない。にもかかわらず、ナンでこんなに腹が立つんだろう、チキショウメってことで、怠け者の歴史について調べ始めたというわけだ。人はなるべく楽な仕事に就きたいと願っているけれど、人が楽してるのはナンでか腹が立つ。あるいは、働きたくないのはやまやまではあるけれど、他人が自分よりも真面目に働いているように見えて、ついその罪悪感からすすんで過重な労働に走ってしまうものであるらしい。正直、労働なんざ1日4時間で結構、というのがおおかたの人の本音であろうけど、いざ「労働時間短縮」などと言われると、途端に文句が出るのは不思議なことである。

ところで、かのバートランド・ラッセルも、1日の労働は4時間で十分と言っていた。その意味では彼も立派な〈怠け者〉のひとりであった。しかしおどろくなかれ、本書では、過去に1日3時間労働を唱えた知識人がいたことが言及される。そうなってくると、「いやいや、せめて4時間は働きますよ」と愛想の一つも言いたくなるものである。

ところで、この原稿を書いている2020年3月23日現在、世界中に新型コロナウイルスというものが蔓延し、「第二次世界大戦以来の惨禍」といわれ、欧米あたりはすっかり恐慌状態に陥っている。ところがいかなることか、例のクルーズ船の入港以来、曖昧な対策しかとらなかったにもかかわらず、わが国においては、いまだ緊急事態宣言も行われず、外出禁止令の発令という事態にも陥ってはいない。理由のほどは不明ながら、ほとんど奇跡的なことである。いずれにしても、この先、爆発的な感染拡大が生じないことを祈るばかりであるけれど、時間の問題という見方もある。すでに社会的機能は制限され、経済活動は抑えられている。仕事の休止に追い込まれてしまった人にとって、もちろんこれは死活問題であるけれど、一方で、かえって仕事に追い回されなくなって一息つけると安堵する人がいるのは皮肉なことである。もちろん、このままでは消費経済は立ち行かぬであろうし、子どもの学校や高齢者施設の問題もある。ヨーロッパ並みに事態が悪化してしまえば労働禁止ということになり、必需品の調達もままならなくなるであろうから、こういった小休止にも限度はある。そのようなことを度外視すれば、本来、ノンビリと働くというのは、悪くない話であって、このくらいの仕事量で暮らせるような経済社会であることは、労働者にとっては一つの理想である。しかし、どれだけモノやコトを消費したかの規模の大小で経済発展の度合いが計られるような社会であるから、消費と雇用の関係は不可分のものとなり、いまや濫費もあながち無駄遣いとは見なされない。しかし、限りある実物資源の蕩尽による永遠の経済成長などという〈おとぎ話〉はもはや許されそうにはないので、いたずらに資源を浪費しないような形で無駄遣いを継続しようという、いわば持続可能な無駄遣い社会を模索しなくてはならなくなった。どのみち当面、仕事は減りそうにない。

ところで、ラッセルが4時間労働ということを言い出したのも、もとはと言えば、戦時下の経験によるもので、若者が兵隊にとられてドンパチやっているにもかかわらず、英国経済が回ってしまうという衝撃の事実があったからにほかならない。皮肉なことに、米国の国家安全保障会議第二次世界大戦の教訓としてこのことを学んでいる。もっとも、彼らは労働の効率化によって高い生活水準を維持するとともに、余剰生産力を軍事力の拡張に回すという、軍事ケインズ主義的な公共政策によって、いわば〈永続的な経済成長〉ということを目論んだのであり、労働時間を短縮させようとか、無駄な消費を合理化しようとか、そういうことを企図したものではない。枢軸国が軍事ケインズ主義によって大恐慌から立ち直ったのは、良くも悪くも一つの教訓であって、わが国も高橋是清以来、軍拡を含めたケインズ路線で景気回復を遂げてきたのではあったけれど、こんにちの感覚からすればトンデモないことである。「日本が戦争に突入しようとした目的は、1000万~1200万人の失業者が生まれることを恐れたからだ」云々というマッカーサーの証言は、このことであって、どういうことか、戦争をすれば失業からは逃れられるというのである。

軍事ケインズ主義によって、日本では重工業が一気に発達し、失業減という意味では好況に沸いたのであるけれど、むろん、資源はよそからパクる必要があったから、キレた国際社会から「海外から撤兵しろ、経済制裁だ」ということになれば、資源確保のために戦わなくてはならない。じっさい戦争が始まってしまうと、生活品は不足、仕事をしても欠乏から逃れられないということになった。このようなことが持続可能なのは、あくまでも米国のような莫大な資源と巨大な生産力を有する場合に限られるし、そのような国と本気の戦争ということになれば、コテンパンにされて国富を台無しにしてしまうおそれもあるため、高度国防国家建設という永田構想というのも、あるいは、米国に対抗する国防力を身につけるまで戦争を回避すると言うのは表向きのこと、結果的に雇用政策として機能したのかもしれない。

このように、軍拡と労働ということは深く結びついているのだけれど、これというのも、軍拡が公共事業の側面をもっていることに由来するものであった。さすがにそれはマズイ。そこで、その今日版として、赤字だろうと何だろうと、人びとのためにバンバン財政支出せよという〈反緊縮経済論〉という考え方が登場した。バーニー・サンダース氏は、この路線の人であるが、じつのところ、アベノミクスにも強い示唆を与えた論でもであった。この論に属する〈反緊縮三派〉とされるものに、ニューケインジアン左派、 MMT、そして信用創造廃止派とがある、といわれる*1松尾匡氏は「反緊縮経済論に共通する常識的見解」を次のようにまとめている。 

 

(…)人間の意識や制度から独立した客観法則としては、経済は次のように成り立っている。おおまかに把握するため、経済主体を、政府と中央銀行を合わせた「統合政府」と「民間」とにまとめて考えると、統合政府は公共の事のために通貨を作って民間に支出して財やサービスを買っている。しかしそれが出すぎて民間に購買力が溜まりすぎると、総需要が総供給能力を上回ってインフレがひどくなってしまう。そこで、民間から購買力を取り去って総需要を抑制し、インフレをコントロールするために租税が機能している。国債も、統合政府として見ると、正味民間との間でやりとりしているのは、利子率の調整のために機能している。

それゆえ、政府の収支のバランスをつけること自体に意味はない。失業が出ないよう、インフレが悪化しないよう、総供給能力と総需要のバランスを維持できていれば社会の再生産が維持される。総需要が総供給能力を下回って失業がある間は、統合政府が財やサービスを買うために民間に出す通貨が、租税で民間から吸収する通貨よりも上回ってこそ、総需要を高めて失業を解消することができるし、それによってインフレが悪化することはない。(外国を捨象すれば)政府と民間の間の貸しと借りは裏腹だから、民間の貯蓄投資バランスが貯蓄超過(貸し)なら、政府は財政赤字(借り)になるのは必然である。*2

 

しかしまあ、こうなるともう、無尽講である。この無尽のシステムによって、公共にとって必要なサービスを調達することが、政府にとっても国民にとっても是非とも必要なことなのであるけれど、それで必要なサービスをまかなうことができたならば、あとは失業対策などと余計なことはせんと、余剰生産力を遊ばせておいたらなんでアカンのか、疑問は深まるばかりであるが、私の理解を越えたことであるので、これを読んで、こうしたことに興味をもつ若い人があらわれ、労働の呪縛から人類を解き放つことを願うばかりである。

とはいえ、やるべき仕事などというのは、早々なくなるものでもない。もし、失業者が出て困るほどの余剰生産力があるならば、貧窮している国のために、その国で必要とされている仕事に精を出すとか、やらなアカンことはいくらでもある。国内でも人手の足りないところはいくらでもある。医療や介護、育児で人が足らんというのなら、私たちはある種の仕事を擲ってでも、そうしたことに労働力を投入するのが先決であって、余計な消費(これを〈不可欠な不足〉などという)を生み出して労働力をつぎ込んでいる場合でもないように思われる。今ある必要な仕事を手分けしてやればエエやんけ、というわけであるが、なかなかそうはならない。ふつう、このようなことは、介護職や保育士の賃金を上げさえすれば自然に解決するように思われているが、要するに、カネが動かなければ、人というのは、やらなアカンことがあってもやろうとはしないからである。カネさえ出回れば失業がなくなり、賃金収入が増えて消費も活性化する、企業の業績も上向く、というのが、世界的に行われた金融緩和のねらいであったが、日本ではまず大企業にカネを入れるということが重視され、結果、それがあらぬ方向に使われたため、企業の業績は上向いたが、労働者の実質賃金は変わらず、結果、株価ほどに消費は伸びなかった。また、先に書いたように、介護のような分野にこそ人もカネも入用なのだが、介護士の給料が上がるのは結構なことながら、この分野に投じられる社会保障費の支出ということが、消費増税となって有効消費を相殺するものであるから、皮肉な仕組みである。どうにもままならない。信用創造廃止派は、これというのも、マネーが私物化されているためだと考え、公共目的の貨幣システムの創設ということを提唱している。松尾教授によると、これは「貨幣発行と投資を、利潤目的で私的 になされるものから、公共的になされるものへ社会化する志向」であり、「設備投資財生産とそのための資源配分はマクロには抑制されなければなら」ず、そのことによって「労働などの生産資源配分を、高齢化などへの対応を中心とした部門へと公的に振り替えることを目指す」ものと解釈している*3。負債にもとづくマネーの創造をやめることで、政府が収支のバランスを気にすることなく、公的マネーの出し入れをおこなうことができるようになるというのであろう。

介護のような労働集約型の産業は、なかなか利益に結びつかないものである。そこで海外から労働力を移入して、労働量の補填と社会福祉分野のコストカットを同時に進めようという考え方が定着しつつある。わが国にとってはありがたい話ながら、諸外国の若い人からすれば、日本で働く前に、それぞれのお国の発展のために、もっとナンかやることがありそうなものだと思われなくもない。しかし、特に学歴を要さないような仕事であっても、出身国の公務員のウン倍の初任給が得られるため、大学を出たような優秀な人材であっても、日本において高卒の仕事で雇われる方が、よほど効率的に稼ぐことができる。これは貧富の差があるからこそ可能なことであって、本来、望ましいことなのかどうなのか、世界全体が豊かになる過程でやむを得ないことなのか、考慮を要するところであろう。なお、日本人が海外で働く場合は事情が逆になる。たとえばタイのように、国内雇用を守るために、日本人が現地人と同じ給料で働くことを禁じている国もある。日本人には高給を支払わなくてはならず、このようにコスト圧力をかけることで、なるべく現地の人を雇わせるように定めているのである。

 そう考えると、世界はまだまだ貧しく、怠けるなどということはトンデモない話のように聞こえるけれど、ラッセルからすれば、それは人々の労働が足りないからというよりは、労働の仕方や労働力の配分方式が誤っているためではないかということになる。あまりイメージはよくないが、恐慌下や戦時下のような集産体制をとれば、労働など1日4時間で十分というのが、ラッセルの見立てであったと思われる。ところで、じっさいの戦時下経済などというものは、日本にあっては、所得が倍増しても生活必需品は不足状態、とりあえず暮らせるという程度のものであったから、それで人間が幸福であるということはできない。たとえ労働時間が短縮されたとしても、自由な消費もままならない社会が招来されることを、多くの人は望まないであろう。ラッセル自身も、それで上等な葉巻が吸えなくなるような社会ではアカンと、別のところで書いている。労働時間は減らしたい、だけど贅沢もやめられない。そこそこに贅沢(「メチャクチャに贅沢」は、この際ご遠慮いただきたい)でいて、なおかつ仕事は少ない、そういう方向に社会が進展することが望ましいのではあるけれど、何もかもが矛盾なく両立するということはないであろうから、技術の革新が望めない限りは、何かを犠牲にせざるを得ない。

しかし、失業といえば何か恐ろしいことのようではあるけれど、社会全体からすれば、仕事をしたくても仕事がないというのは、要するに、差し当たってしなくてはならない仕事がないからこそのことであるように見えるものでもあるから、そのような意味で人間が働かなくてもよいということになれば、まこと結構なことである。じっさい、ランズバーグは次のように言っている。

 

ジャーナリストは失業率を経済全体の良し悪しを表わす指標に使いたがる。だが失業をめぐる議論においては、ふつう、失業が人々の望む状態であるという事実が見過ごされている。余暇を何もせずにのんびりと、あるいは好きなことをして過ごすのは、一般に好ましいこととされている。しかし、それが「失業」という名で呼ばれるとなると、突然、悪者のように聞こえる。*4

 

私たちはみな、週に八〇時間、労働搾取型工場で汗を流していた一〇〇年前の先祖に比べれば半失業状態なのだ。だが、先祖と入れ替わりたいと思う者はいないだろう。このように考えると、失業率が経済的福利の物差しとしては不完全だという警告の正しいことがわかる。

二〇世紀後半に生きる私たちの労働が祖父の時代よりも少ないのは、私たちの方が彼らよりも豊かだからである。雇用の減少が、時代が良くなったことを意味する可能性もある。(…)悪い時代に嫌な仕事にしがみついていた労働者も、時代が良くなれば、給与外の所得が増えたために、あるいはもっと良い仕事につくチャンスがあると思って、自発的に失業するかもしれない。*5

 

ところでラッセルは、AIに仕事を奪われるといって騒然となっている現代の人たちを予見するかのように、次のようなことを書いている。

 

「創世記」では、労働は、アダムが罪を犯したためにその子孫に運命づけられた呪いということになっているが、現代の世界では、それはひとつの祝福のようになって、その総量も決して減殺されてはならないものとされている。*6

 

ラッセルによれば、もし労働者が働くことを生産の〈手段〉としてではなく〈目的〉そのものとみなすならば、一定数のトラクターをより少ない労働力で生産できるための工夫は彼らの敵意をかきたてるであろう、という。それは失業を誘発し、生計を失う危険性を増大させるからだ。しかし、生計も何も、何でもカンでも機械まかせでまかなわれ、社会にはもう人の携わる仕事などないのだから、最終的には仕事をする必要性すらないのではないかという議論は、おそらく通用しないように思われる。たしかに仕事は必要ないが、私たちはカネでモノを買って暮らしている。そのカネときたら、労働と引き換えに手に入れるものと決まっている。仕方ないから、次の労働を考えようということになるのであろうか。

その労働にしたところで、カネになる労働とそうでもない労働があって、社会が必要とする労働であっても、対価が低く抑えられているものもある。カネがないと暮らせないから、社会的課題を解決するよりも、まずはカネという話にもなるのである。これは江戸時代の農民が現金収入を目当てに商品作物の栽培に手を出して幕府から怒られたのと同じで、農家としちゃカネがなくては肥料も買えないし、コメは年貢に取られて蓄財ということもままならぬから、カネ目当ての作付けということも理にかなったことではあった。けれど、ひとたび飢饉ということになれば、他国からコメの支援があるわけでもなし、カネ目当ての産業ばかりにふけっていては国家の害になると松平定信あたりは考えたのであろう。植民地におけるプランテーション経済と同じである。こんにちのわが国は、かような農本主義をとってはおらず、食糧は他国まかせ、カネになりにくい産業もすべて諸外国に肩代わりしてもらっているから、頼りになるのはカネばかり、円が高すぎても安すぎても困ったことになるが、とにかくマネーを生み出し続けることが肝要、これからは投資で生きようなどという話にもなるのである。もっとも、それで儲かったところで、ご親切にも誰かの仕事や、のちのち返すべき負債を増やしてやっているようで、気が進まないところもある。まわりまわって自分の仕事が増えて泣きを見ないように祈るばかりである。

現代のマネーは負債をもとに創造されているから、自分では借金をせず、他人にどんどん借金させないことには、マネーは増えない。借金を返そうとする分だけ労働が必要になるため、金融資産の総量と労働の総量は、相関している。ある意味、この仕組みで失業が解消されることになるのだけれど、このようにしてマネーと消費が結びついた高度消費社会の経済システムにあっては、〈働く〉ということを「人間、額に汗して働くのは当たり前」というような、素朴な労働倫理の問題に矮小化して論じても片落ちの謗りを免れ得まい。そうでなくて、われわれはどんどんと仕事を増やされ、何かしら働くように誘導されているのである。仕事量、すなわちカネの量が、労働力の増加スピードを追い越してしまったら、ちょっとした問題が起こる。もっとも、失業率は下がるので、不安な労働者たちは喜ぶかもしれない。

長期的に見れば、貨幣価値は低減するようにできているから、物価が上がっても「ちょこっと売ればガッポリもうかりまっせ」なんてのは、カネの値打ちが下がっているだけのことで、実質賃金はそうそう上昇しない(給料の額面がちょこっと上がってなんとなく納得していてはアカンのである)。われわれの預貯金は目減りして、将来的に購入できるサービス量は、現在購入できるそれを下回ることになるであろう。カネは今つかっちまうほうがお得なのである。マネーシステムに手を加えずにこれらの問題を解決するには、何といっても技術革新が必要になる。これにはいささか時間を要するが、すぐれたサービスをかぎりなく安価に使用できるようになってはじめて、私たちは長時間の労働から解放されることになるのである。そうしたわけで、私たち全員がめでたく失業するためにも、ロボット技術の進歩ということは不可欠の要件となるであろう。ただ、すべてのサービスが無料化されるところまで進展してしまうと、今度は企業が儲からない。そんなこんなで、20世紀にあっては、機械技術が進歩しても、思ったほどに労働は減らなかった。労働が減ること、つまり〈怠ける〉ことはアカンという強迫観念が邪魔をして、働くこと自体が自己目的化してしまっているのではないか、というような指摘もあった。ラッセルによると、問題はいわゆる中部ヨーロッパ以北を席巻した勤労精神であった。

 

北ヨーロッパの人たちは、仕事は美徳という信条が身にしみついたために、今も南ヨーロッパにかろうじて残っている優美さを失ってしまった。北ヨーロッパ人の勤労第一主義の信条によれば、重要なのは、ものを作る時の経過や仕方ではなくて、結果としての産物それ自体ということになる。われわれはけっして美しいとは言えない家を建て、その中でただ栄養をつける食物をとり、愛情もなしに子供を作っては、彼らの自発性と優美さを破壊する教育にゆだねる。*7

 

じつのところ、産業の機械化は、製品を効率よく作ることには寄与したが、人々を労働から解放することを目的としているわけではなかった。おおむね、20世紀を通じてはそうであった。もっとも、先に書いたように、国債の借用書を通貨として使っているようなマネーシステムが通用しているかぎり、われわれは労働してマネーを得、税金をバンバン納めて国の借金を返済せずには済まされない。すべての必要が満たされたからと言って、借金が自然消滅するわけではないから、債権者(じつはわれわれである)が徳政令に応じないかぎりは、労働に終わりはないのである。そのへんの問題をどうするかはともあれ、ひとまずラッセルは、機械文明のさらなる活用によって、人類を労働そのものから解放することを主張する。さすれば、アングロサクソン資本主義における、上のような事態は回避されると、彼は考えた。

 

このような事態は人間が機械化されるにつれて、避けられない不幸であろうか。私はそうは思わない。われわれは今までにあまりにも仕事にふりまわされてきて、肉体的および知的労働の束縛からの解放の手段として機械を十分に活用してこなかった。われわれはその気になれば、もっと余暇を持てる。われわれはその気になれば、われわれの子供たちを、組織の中の便利な歯車にしてしまわないで、彼らの衝動を芸術的に表現できるように教育することもできるはずである。われわれがそうしないのは、われわれは美よりも力に愛着するからである。しかし、ひたすら力のみを追い求めることが、幸福になる最良の策であろうか。人間性にはほかにいろいろな要素があり、それらは少なくとも同等に尊重すべき価値を持っている。機械時代が人間性の他の諸要素にも然るべき位置を与えるようになるまでは、新しい文明は本当に健全だとは言えない。*8

 

ロボット時代になっても、マネーがなければ食料も買えないなどという状態が続くならば、まるで意味がない。現代の経済社会においては、たとえ生産過剰に陥ったとしても、カネがない人に食料を配ってしまっては、生産コストを取り返すことができないから、早々に赤字である。もっとも、食品メーカーはわりあい気楽で、コンビニなりに商品を納品しちまえば、あとは消費者が買おうが買うまいが関係ない。食べ物が余っても、儲けは確保することができる。こんにち、食料の3分の1が廃棄の運命をたどることになっているけれど、そうであれば、本来、労働も3分の1で済むはずである。こうしたことを生産と情報技術、そしてロジスティクスを結びつけて解決しようという試みが出始めているけれど、そのような意味での労働の組織化、労働の削減ということは、やがて可能となるであろう。ただし、消費経済のモデルにおいて、それは必ずしもメーカーに利益をもたらさない。ますます失業が促進されるのではないかとも考えられるけれど、そのようにして削減された労働を補わなくてはならない理由が他にあるとしたら、それはとりもなおさず、カネである。ロボット時代においては、人はそもそもすべき労働をもたないし、したがって追求すべき利潤もないのであるけれど、カネの問題だけは悩ましい。もはや労働する必要はないけれど、マネーを通用させるために労働の撤廃はまかりならんということになると、私たちはカネを手に入れるために、何はともあれ労働しなくてはならないということになるのであろうか。

さて、経済が十分に組織化されていないことからくる労働の無駄遣い、あるいは生産物の無駄遣いという問題について触れたけれど、すでにこのことは、ラッセルの時代から指摘されていた。彼の時代、すでにアメリカでは食品ロスの問題が深刻化していたのである。

 

頭が正常な人たちは、生産過剰による失業は、長時間かけて解決さるべきだと言うが、経済の機構を再び正常にもどすには、個々の経済活動が常に利潤を生まねばならぬという要請を捨てることが不可欠である。アメリカの西部やカナダでは、食料が腐っているのに、世界中の工業地帯では、飢えた失業者の群れがひしめいている。もしあまった食料が飢えた人々に届けられ、彼らがアメリカ西部の農民の需要を満たしうる労働に従事するならば、個々の資本家が利潤をあげなくとも、世界は全体としてずっと豊かになる。個人的利潤という動機が今では通用しないことは明らかであり、世界の経済状態を回復しうるものは、組織化された社会の努力だけである。*9

 

なるほど、企業というのは資本家が利潤を上げるためのものではなく、社会に必要なモノをキチンと生産するために営まれるべきものであるという考え方である。ただし、当時の情報技術やロジスティクスでは、真にモノを必要とする人たちに、いかにして必要なモノを供給するか、その実現可能な方式については、人類の知恵を結集しても創案不可能だと考えられていた。貨幣経済というものも、その高い流動性のゆえに、物々交換ではなしえなかった流通の革新ということに寄与し、世界全体が豊かになることに確かに貢献したであろうと考えられるけれど、同時にそこには、世界が豊かになることを阻害する構造的な問題が内在しているもののようでもある。人類全員を養うに足る生産量があっても、カネのないところにモノは行きわたらないからである。

ロボット技術さえ完璧なものになれば、労働自体が消滅し、個人の利潤追求という考え方も疑わしいものとなろう。労働=カネに追い回されなくてすむのだから、技術の進歩と労働の組織化によって、十分な物資が世界のすみずみにまで行き届くであろうという、希望的観測もある。それでは個人の利潤追求はどうなるんだとおさまりのつかない人もいることであろうけれど、このコロナ騒ぎを見ていると、組織化されない労働に依存して、今後も経済をカネ次第にしておくのは、いささか不安なものだと思わされなくもない。

今般のコロナ禍に際しては、期せずして労働の量であるとか、その形態といったことについて考えさせられることが多々あって、まこと皮肉なこととしかいいようがないが、これを機に、経済や教育のIT化、テレワーク化、あるいはベーシック・インカム導入の是非といった方向に大きく議論が進むものと想像されるから、日本社会にとっても一つの転機となることであろう。当初、株価は暴落と反発を経て、米国の対策への不信という形でかえって日本株が値上がりを見せるなどの乱高下をくりかえしているが、これというのも、当初の円高から一転して円安基調の流れがあらわれたこと、日銀による日本株の買い支え期待が背景にあるものと考えられている。そうでなくても、アベノミクスを通じて日銀はETFで年間6兆円を投じて企業株の買い支えを続け、今やその保有額は26兆円に達している。GPIFも基本ポートフォリオにおける国内株式の構成比率を目標値25%に設定して、公的年金をつぎこんだ。われわれの年金資産で株価を支えてきたわけである。日本国民の資産はおそるべしである。今やコロナで企業がつぶれないようにと、政府も国民もいろいろと気をもんでいるけれど、このような事態に至らずとも、企業がつぶれたらアカンなんてのはわかりきったことであって、政府は企業がつぶれないように、国民に代わってバンバンと金を入れたきたのである。

つまり、われわれにとって、この国に必要な企業(何が必要で何が不必要かは必ずしも明確ではないけれど)をつぶしてはならない、などというのは言わずもがなのことであって、このような隠れ社会主義に手を染めるくらいなら、いっそ堂々と社会主義にしたらよいではないか、などと考えるのも一興ではある。多くの平凡な人からすれば、路頭に迷いかねない危険にさらされながら生きるよりは、絶対につぶれない会社でほどほどの人生を送ることができれば、今日日、御の字である。そのように考えると、企業活動は大いに組織化できるであろうから、ラッセルを信じるならば、1日4時間労働ということも可能になるのであろう。残りの4時間をまるまる余暇にあてるか、あるいは自由に業を興して、やりたいような経済活動(芸術活動でもスポーツでも何でもよろしい)にいそしむかは、個々人の自由に任せてよい。なお、芸術家やスポーツ選手が1日4時間の活動でどれだけの技術を維持できるか、それは心もとないかぎりである。ただし、この際、かれらの技量がディレッタントのレベルにとどまったとしても、私は苦しからず思う。すでに『音楽と教育——社会学的アプローチ*10社会とつながる芸術家*11の剳記で書いたように、エキスパート教育を放棄した音楽大学もあるくらいで、音楽家なりスポーツ選手なりを必ずしも単なるその道の専門家としてのみ評価する必要はないのである。ただ、やる人にしても観る人にしても、不満な人はいるだろうけれどもね。

 けれど、そのようなことも含めて、社会にとって不可欠と思われる4時間の義務的な〈組織労働〉を人々にどう割り当てるかということになると、これはむずかしい問題である。社会主義の方式をとるならば、少なくともこれは、経済活動の自由とか、職業選択の自由という考え方がスンナリあてはまるようなものではないからである。たとえば、社会においてラーメン屋の数がいくつ必要で、それらのラーメン屋にどれだけの多様性をもたせるか、などといった設計は、甚だ困難を伴うものである。官の命令で、不味い店主を解任して別の仕事に異動させ、新しい店主を選任するなどというのも、いささか乱暴な気もする(もっとも、現下の経済体制でも結果的に同じ成り行きとなることであろうけれど)。もっとも、情熱のある人は、これとは別に自由な経済活動の範囲内でこれを行なうのもよいであろうけれど、往々にして、そういうものが官許のラーメン屋のクオリティをしのいでしまうため、結局、自由主義経済でいいんじゃないのという話にもなるのである。けっきょく、十分に経済が組織化された社会において人びとが安逸な生活を送れるようになれば、次はもっと刺激的な経済活動に乗り出そうというのはありそうな話であるから、一考すべきことではある。ラッセルは全体主義国家を敵視していたが、文化的自由を認めながらも政治的統一ということには固執していた。戦争を経験した世代だからこそと言えるのかもしれない。一方で、本書でも引かれるように、ケロッグ社のような方式で、生産組織を何かしら合理化することによって、より多くの人を雇用し、応分の給料を支払い、かつ労働時間を引き下げるといったことが可能となるならば、経済活動の自由を保障しながら、労働時間を短縮することも可能となるのかもしれない。私たちにとっては、そのほうがスンナリと飲み込めるものであろう。そのためには、過剰な労働を生み出す過剰な消費についても一考されなくてはならないであろうけれども。

失業を補うために消費を推奨するなら、他に何かもっと必要なモノでも作ればいいんじゃないの、という素朴な問いもある。それが軍備だという考え方はこの際、除外するとして、もう少しマシなものはないだろうか。松平定信という人は、贅沢な自由な社会というよりは、とにかく安定した社会ということを重要視したもののようであるから、つまらん倹約令を出して、今も昔も「田沼の方がよかったんじゃないの?」という評価をする人がいる。もっとも、研究が進むにつれて、存外、重商主義といわれた田沼と変わらんこともわかってきたらしい。天明の大飢饉に際して自藩からは一人の餓死者も出さなかったというのは言い伝えであろうけれど、かつては日本でもヨーロッパでも、何はなくとも春に餓死者が急増し、冬を越すのに一苦労であったことが知られているから、そうしたことをよくよく考えておくことも大事なことである。そのような状況が一段落するのは、日本では江戸時代に入ってからのことであるけれど、火山噴火や異常気象などが起こると、たちまちにして大飢饉ということになった。何もないところで質素倹約では、生きている甲斐もないけれど、死んじまったら元も子もない。今般のコロナ騒ぎ、中国人は政府の宣伝にビビって経済活動がどうなろうと、命には代えられないと自宅に引きこもったというけれど、「中国らしいよな」と、対岸の火事見物をきめこんでいた欧米各国も、今や外出禁止にロックダウンである。目下、生活に直結する経済活動を除いては、すべて営業禁止ということになってしまった。わが国にはこれから地震も来ることであるし、本来、よくよく経済のありようについては検討を加えておかねばならぬところである。経済の本質は生産ではなく消費にありといわれるけれど、コロナのオーバーシュートが起これば、消費云々ではなく、生産自体がストップする可能性もあるから、いよいよ〈真の欠乏〉が到来することになる。この先、医療崩壊、国境封鎖、必要物資の囲い込みというようなことになるくらいなら、平素、人びとが飛びつきそうな消費をいたずらに拡大するよりは、ECMO(人工肺)でも作って備蓄しとけということにもなるのであろう。貧困国がえらいことになるって話なら、ふだんから貧困国の物資をまかなう仕事もあるだろうと言いたいが、そういうのは〈仕事〉とは言わないらしい。なぜかというと、支払いを受けることができないからである。ナンのために働いているんだろうなって話ではあるけれど、無償の仕事は、寄付とボランティアに頼るほかないのが実情である。

じっさい、労働禁止、生産停止の危険性も高まりつつあるこの頃、上のようなことは、わが国でも他人事ではなくなろうとしている。災害は滅多に訪れない。けれど、たまにはやってくる。そのようなリスクをどう評価するかは、むずかしい。この騒ぎのために景気の落ち込みを批判された与党は、コロナウイルス大流行はまさかの不測事態である旨、国会で答弁したけれど、野党は、そういうことも含めて消費増税の影響を考えるのは当然のことだとかみついた。この理屈でいくと、気象庁が切迫性の高まりを訴えている首都直下地震南海トラフ巨大地震の恐れがあるこの列島で五輪を開くことの可否も問われようし(そのことが免責されるか否かについては、すでに『メタロギコン』の剳記で問うた)*12、このような緊急時にまっさきに食い詰めるであろう職業には最初から就くべきではないというような話にもなりかねない。もっとも、そうなっても経済が落ち込まないように、そもそもからして消費増税などすべきではないのだという論旨なのであろうけれど、早い話がコロナなどあろうとなかろうと、消費増税はアカンということなのである。それならそれで筋も通っているのかもしれないが、緊急時にわりを食う種類の職業が現にあるということも、経済社会の課題として考慮しておく必要はあるのであろう。

グローバルに展開しているような企業は、過去30年の経験から、人やモノの国際的な移動がストップした場合を想定して、ある程度の対策を講じていることであろうけれど、たとえば、今般、官から名指しで営業自粛を要請されたライブハウスや飲食店はどうしたものであろうか。イギリス人はパブに通うために生きているし、イタリア人はカルチョのために生きている。これらの産業がつぶれては困るということであれば、われわれは、それらがつぶれないようにするほかないであろうし、騒動が終息したのちは、いち早く再開できるような仕組みを考えなくてはなるまい。ライブハウスの人たちが言っているように、補償さえ確約してくれれば、いつハコを閉めても苦しからずである。もう少しインセンティヴが働けば、すすんで自粛に協力しようという人も出てくるであろうけれど、「自粛した方が得でっせ」というモデルを示すのはなかなか容易ではない。また、今日日、津波や大雨のときの避難勧告は「もし災害が起こらないとしても、ためらいなく発表すべし」と容認されるようになっているけれど、なにぶん新型コロナウイルスの流行は初めての事態であるから、いわゆる「自粛要請」というものも、いちど惨禍を経験しない限りはスンナリ受け入れられそうにない。むずかしい問題ではある。反緊縮派であれば、バンバン財政支出する腕の見せどころである。

もちろん、迷惑をこうむっているのはライブやカルチョに従事する人ばかりではないであろうから、あらゆる産業が社会のために必要であるというならば、同様にその従事者を扶持することを考えなくてはならない。このことから考えると、平時であろうと緊急時であろうと、それらの仕事が不可欠だというのならば、みんなで協力して、最初からつぶれないようにやっていこうという考えが出てきても不思議ではない。しかし、実際は大して必要でもない仕事や、似たか寄ったかの企業が多々あるので、競争で淘汰されるというのが実情のようである。淘汰された側は深刻なことに陥ってしまうのであるけれど、たいていの場合、より優れた企業やサービスが生み出されて社会や消費者の便益が拡大されるから、競争を阻害すべきではない、という結論に落ち着く。その興亡劇に自分自身が巻き込まれない限りは、という留保つきではあるけれど。私なんかは、逆に人が寄り付かないような店に入ってみたくなるものだけれどもね。

 消費経済というものが進展すると、何かのはずみで消費がなくなると労働力は余り、逆に消費が拡大することで人手不足などということも出てくる。少子高齢化ということもかかわってくるから、無駄な消費で仕事を増やしている場合なのかどうなのか、問題と言えば問題である。だからこそ、消費によってカネを増殖させようという考え方も出てくるのであろう。カネというのは便利なもので、カネさえあれば、人やモノが国境を越えて入ってくる(もちろん、日本に来た方が稼げるという見込みがある場合に限られるけれど)。そのような形で、労働時間の短縮と、生産量の増進ということを実現することも可能であろうけれど、むろん、安価な労働力の移入による人件費の削減とあわせて、機械化の進展ということも求められるであろう。もしカネが万能ということであるならば、日本は対外的には債権国であるから、これからはいっそ投資で生きていくという考え方もできなくはない。もちろん、コロナのようなことが起こると、思わぬ被害をこうむることにもなろうから、株もよいが、資産構成における現金比率もある程度に保っておくことも必要ではある。手元流動性を軽んじると、エンロンが破綻したときに給与の一部をストック・オプションでもらっていた社員たちのように、とんでもないことにもなりかねない。

しかし、カネさえあればどうにかなるというのは、それほど自明のことなのであろうか。潤沢なカネの背後に借金ありである。米国の好景気を演出してきたのは、低金利のアブないカネである。ちょっとアカン企業にもジャブジャブ貸してきたから、ひとつのバブルである。あんまり簡単に借金ができるようになると、仕事は増えるが、有効需要が失われた際に生産過剰に陥ることにもなる。それが今般のコロナ問題に際して、裏目に出てしまったということであろう。今回は金融恐慌ではなく、実物経済の冷え込みからくる恐慌であるから、仕事もできず、借金を返すところではない。個々の人たちの救済ということについては、経済活動の自粛を余儀なくされた従業員1000人に、NBAの選手がドンと1000万円を寄贈するという美談もあった。なるほど、現金収入が途絶えて生活に困る人も出るであろうから、カネさえ配ればどうにか助かるという人も出てくるであろう。出前などが機能している限りは、配られたカネでどうにか暮らしていくことはできる。一方で、どれだけカネを積んでもいかんともしがたいものもある。たとえば、マスクなどというのは、どれだけカネがあっても、ないものはないから、買えない。それこそ〈真の欠乏〉である。しかし、カネを出してマスク工場を建てるなどということは、感染の蔓延していない地域であれば可能な方策と言えるのかもしれない。もちろん、ラッセルが言うように、個人の利潤追求の視点でこのようなことを行なうのは、むずかしい。コロナが収まってしまえば、マスク工場など不要のものとなってしまうからだ。しかし、このことからもわかるように、カネは、新たな労働を生み出すという機能をもっていて、「カネさえあれば豊かに暮らせる」と思いこんでいる人がいるうちは、イッチョ働いてやってもいいという人も出てくるものである。このようにして膨張するマネーこそが、近代以降の工業社会を大きく推進させた旗振り役であったのだ。このことをベルナルド・リエターは、こう書いている。

 

現在のお金のシステムは、近代工業時代の世界観から無意識のうちに私たちが引き継いでいるものだが、それは現在でも社会に君臨しながら、時代の支配的な感情と価値観とを設計し推進する最高実力者としてふるまっている。(…)また、この通貨は、使用者間で「協調」より「競争」を促進するように設計されている。お金はまた、工業社会の旗印である。「永続的な経済成長」を可能にした影の功労者であり、エンジンでもあった。そして、このマネーシステムにおいては個人が財産の蓄積(富の貯蓄)を奨励し、それに従わない人々は懲らしめられるようになっている。*13

 

要するにカネというものは、それがいたずらに労働を増やす原因となるか、十分に足りているモノが、それを必要としている人のところへと行きわたらないことの原因にならない限りはナンてことのないシロモノなのであるけれど、短所であれ、その機能を全否定してしまうと、カネのもつ利点というものも同時に消滅してしまうもののようである。先にも書いたように、ラッセルからすれば、食料が大量に余っているのに、それをみすみす腐らせて、貧しい人を飢えさせるなどというのは、カネになるかならないかのせいか知らんが、ナンかアタマおかしいんじゃないのってことになるのだけれど、当面わたしたちは、カネのもつ長所を有効に活用し、短所をなるべく抑えるという仕方をもってこれに当たるほかないもののようである。となれば必然、労働の問題も考えざるを得なくなるのは、自然な帰結のように思われる。

そう考えてみると、必要なモノが足りない大変なときこそ、何か仕事があるのではないか、という問いは一考に値するものである。今こそ、必要なモノを、それを必要とする人のもとへ届けるべきである。今回の場合、とりもなおさず、それはマスクである。ところが、手仕事でチョコチョコ作るくらいのことはできるが、業としておこなうということになれば、本業のマスク会社を除けば、小さな手袋メーカーが技術転用で製作するのがせいぜい、これから政府の声掛かりで、異業種の企業が名乗りを挙げてくることであろうが、本職のメーカーからすれば、コロナが収まってしまえば不要になる設備に自腹は切れない。先に書いたとおりである。人々にとって必要なモノを作るのが仕事といえばそうだけれど、企業も生き残らなくてはならない、カネを稼ぐ方が先決である。それこそ、「マスク増産しますけど、見返りはもらえるんでしょうな?」ということである。というわけで、補助金が約束されたからこその増産体制確立ということなのであろうけれど、実のところ、国と企業なんてのは平素からもちつもたれつ、だからしてわが国では自国民に背を向けるグローバル企業なんてのがあらわれにくいのかも知れないが、米国ではそのことが顕在化して、もはやグローバル企業は自国民の敵とまで言われるようになった。そのことが、アメリカン・ファーストのトランプの台頭を許すことにもつながった。

さて、カネと労働の関係について、営業自粛のインセンティヴとして、休業した人たちが生活に困らないように現金を配るという設定で考えてみよう。現段階では、食品メーカーやお百姓などは休業しないので、食料をはじめ、必需品に困ることはない、と仮定するならば、休業した人たちが収入の補償を受け取れば、食べるのに困ることはないであろう。となると、足りないのはマスクとアルコールだけで、他に仕事といえば、医療や介護、けれど後者は被介護者との濃厚接触にあたるから、やりたくてもすることはできない。無資格の者が医療従事者になることもできないが、今後は准看護師ならぬ、准医師のような制度を用意しておく必要があるかもしれない(イタリアでは医師の資格を緩和して対応しているようである)。一方、Youtubeのサーバーがパンクしているという話もあるから、IT企業なども人手が足りないところかもしれないが、ある意味、こういうときはユーチューバーも必需産業のように思えてくるから不思議なものである。クソジャリどもが外出禁止命令も聞かず、やたら出歩いて困る諸外国では、まこと重宝されている。結果、わが国では、これらの自粛によって家計の9%程度が圧縮されることになるわけだが、「仕事がない」というのは、この意味では「カネを使う人がいない」ということと同値である。皮肉な話だが、カネさえ使わなければ、労働は減るということのようである。しかし、仕事を自粛した人にカネを配っても、労働は増えない。食品メーカーの仕事は、コロナの前と後で変わることはない(事態が進行すれば、自炊できない人の需要で、外食産業が休業した分、フードデリバリー等の発注が増えることはあるかもしれないし、さらに進めば食品メーカーも営業自粛に追い込まれるかもしれないけれど)。ただ、カネを配らなければ、収入の途絶えた人は飢えてしまうし、腹を空かせた人が食品を買うこともできないため、食品メーカーの仕事自体も減ってしまうであろう。そうなれば、必要なモノを生産する能力があったとしても、メーカーはそれを生産することはない(マスクと同じである)。まさにラッセルが危惧したとおりになってしまう。

この場合は、コロナという問題があらわになっているけれど、おそらく、コロナがなくてもこういったことはすでに世界中で起きているのではないかと思われる。コロナだからこそ、政府のカネ対策も大きく取り上げられるけれど、ふだんから潰れそうな会社はいくらでもあるし、非自発的失業者や貧困者も多数いるわけである。ただカネがないばかりに、みな困っている。これは金融の問題である。もっとも、本当の意味での失業というのは別にあって、労働する人はいるけれど、生産の手段を欠くという、〈真の欠乏〉である。どちらかといえば後者のほうが深刻な欠乏といえるのかもしれないが、前者の欠乏も問題なしとはいえない。たとえば、かつての日本では、飢饉ともなれば、食い詰めた人が富裕者の下人となって扶養を受け、どうにか生き延びるということが頻繁にくり返された。戦争でとっ捕まった人も下人として売り払われて、主人のもとで耕作などに従事した。これは前者の例で、ラッセル風に言えば、労働の組織化と生産物の配分方式が不合理だったゆえの悲劇ということになる。今ではこのようなことは許されないから、こうした欠乏から他者に隷属するような人があらわれてはなるまいが、これは、カネさえあればどうにかなる種の欠乏である。一方、かつて九州あたりでより深刻な飢饉があった際、戦場で乱捕りした人たちを売り払おうにも、耕す畑もなく、誰も下人を買っても扶持できなかったから、国内では買い手がつかず、海外で使役するためにポルトガル商人に二束三文で売り払われた。それはそれでなおさら悪い話であった。こうなると、金融というよりは実物の問題である。もっとも、コロナの問題も、金融から財政の問題へ、そしていよいよ実物生産の問題へと進展しつつあるように思われる。その点は、非常の事態と言える。

ところで、前者の欠乏については、こんな話がある。金融市場というのは、今やグローバルカジノもいいところ、取引の98%が投機目的だと、リエターは言った*14。相場師からすれば、値動きのないところで儲けるなんてことはおぼつかないから、マーケットに波乱の一つも起きてくれなきゃアカンのかも知れないが、リエターに言わせれば、このような人びとは「不安定性を好む人々」である。このような人びとが活動することで通貨危機が演出されてきた、というのである。「誰もが、恐ろしくて口に出せない問いがある。「次の犠牲は誰なのだ? ラテンアメリカ? 西ヨーロッパか、それとも中国? 世界一の債務国である米国がターゲットになるのはいつなのか? もしそうなったらどうなるのか?」」*15。これはアジア通貨危機のことをいっているのだが、通貨の下落であれ、株式の暴落であれ、基本、そのような恐慌に発する欠乏が起こらないような経済の仕組みを作ってしまうほうが、よほど平和的である。本書でも、労働時間短縮を勝ち得たはずの労働者が、再び8時間に戻ってゆくといった事例が述べられているけれど、これは恐慌による失業をおそれた労働者たちの、いわば〈労働囲い込み〉というべき事態が起こったからのようである。失業した人と仕事を分け合えば、自分の分け前が減ってしまうという感じを受けるからであろう。この場合の分け前というのは、要するにカネである。ケロッグ社は大恐慌に際して労働時間を6時間に短縮して、失業者を雇い入れて3シフト制から4シフト制に切り替え、カネも応分に支払った。それでも第二次世界大戦が終わると、労働者はなんだかんだで8時間労働に戻ってしまったのである。著者は、ベンジャミン・ハニカットを引きながら、ケロッグ社が消費社会の進展に抗えなかったこと、労働者が自身の特権的感情を喪失したくなかったことを原因として挙げている。たしかに、われわれが多少のわがままを言えるのは、「俺はこんなに働いてるんだ。まだナニかあんのか?」という感じをアピールするときにかぎられるから、この感情はわりあい理解できるものである。愚かな話だが、よほどがんばっていないと、他人からあれこれといらん指図を受けることにもなりかねないので、自分の仕事を手放さないということは、保身の手段でもある。今般のコロナ禍でも、トランプ氏の経済対策が不発の場合、米国の失業率は30%に達するという試算があるようである。こんなときこそがんばらなアカンのに、「えっ、俺ら仕事せんでエエのんか? 仕事ないんか?」って話である。ナニかあっても生活に困らない社会を作ることが文明の進歩というように思われるのだが、もはや不可解としかいいようがない。 

カネがなければ仕事もない。そいつは知らないうちに、われわれの頭の上を飛び越えて、どこかに行っちまっているのである。もはやカネはジャブジャブの状態だが、どういうわけか、俺らの手元にカネはない。もっとも、タンスに預金はあるけれど、それは虎の子、景気のために吐き出せと言ってもなかなか吐き出せるものでもない。しかし、てっとり早いことに、それは、金融市場にある。そこで、かつてビル・クリントンの選挙運動を指揮したジェームズ・カービルは、こう言った。

 

以前私は、もし生まれ変われたら、大統領かローマ教皇になりたいと思っていた。今は金融市場に生まれ変わりたいと思う。なぜなら、誰をも脅かすことができるのだから。*16

 

まったく、ジョージ・ソロスのような奴である。しかしソロスには、いささか正義心や理念というものもあって、例の悪名高いポンド売りにしても、英国財務省のメンツはつぶれたが、英国経済は立ち直った(もっとも、これは結果論であった)。この場合の「立ち直る」というのは、物価上昇や失業率の改善、経済成長ということをいうわけだが、アベノミクスと同じで、つまりは通貨安の結果にすぎない。結果、英国が欧州為替相場カニズムからの脱退を余儀なくされ、同国が英国病を脱するきっかけになったというのは皮肉なことであるけれど、要するに、これはカネと仕事が増えただけのことである。一方のリエターは、当の欧州通貨単位(ECU)の設計者であったから、暴力化する金融市場をナンとかせんと、「不可欠な不足」*17が永続的に作り出されてしまうと警鐘を鳴らしていた。当然、終わりなき経済成長を要求する現行のマネーシステムからすると、欧州為替相場カニズムなんてのは、不況を永続化させるだけのシステムということになるのかもしれない。〈国際金融のトリレンマ〉によって、EU圏の失業率は依然、高い水準にとどまりつづけている。このあたりは、カネと仕事をどうとらえるかという問題にもかかっており、なかなか哲学的だ。ただ、一概にカネが悪いと言うつもりはない。カネがもらえるのはよいことと思いこむことで、われわれは今後も未知の労働に駆り立てられるわけだけれど、結果的にそれが世界をよりよい場所に作り替えることになるかも知れないからだ。目的がそれなら、最初から自由に任せないで、組織的かつ効率的にやれよとラッセルは言うであろう。カネでだまして労働させるのは、まわりくどいし、もうかるのも一部の奴らと決まり切っているからだ。もっとも、富裕層が一度にカネをぜんぶ吐き出しても、カネの利点が失われるだけで、物事は大して変わらないような気もする。カネは貧富の差がないところでは大して機能しないからだ。だったら、善い目的のために効果的にカネを使ってもらった方がてっとり早い気もするが、あまり期待できそうにない。かつて、ビル・ゲイツがそんなことに自信を示していたが、どうであろうか。

そしてもう一点、興味深いことがある。ソロスの念願とするポパー流の〈開かれた社会〉〔open society〕は、クリントン政権の目指すそれでもあったであろうけれど、〈国際金融のトリレンマ〉の応用ヴァージョンである〈世界経済の政治的トリレンマ〉という仮説が正しければ、グローバル化の進展と国家主権、民主主義の三極は両立しないということになるから、なかなか意味深である。どれか一つを放棄すれば他の二つが成り立つ。EUは国家主権を縮小して、グローバル化と民主主義をとった。他方、グローバル化を阻害するのは国家主権と民主主義だと言われているから、まわりまわってヒラリーがトランプに負けちまったのも、このあたりに要因があるのかもしれない。

 なお、本書は、労働倫理の時代的な移り変わりを社会学的に考察したものであって、今さらながらで恐縮であるが、労働時間短縮のための処方箋ではない。けれど興味深いことに、人々が労働というものをどのように捉えてきたのか、中にはおとろくべき記述もあって面白い。かつて他のアジア諸民族と同じように、わりあい勝手気ままにやっていた日本人は、アングロサクソンを見習って規律というものを重視して、工業化に邁進してきたのであるけれど、当のアングロサクソン労働者も、19世紀のはじめはずいぶんと気ままだったらしく、まったく江戸あたりにいる酒浸りのダメ職人のような体たらくであった。仕事なんてのは、せいぜいそんなものだったのである。その後、このダメな生活を守るための一揆が引き起こされ、死人まで出して鎮圧されるわけであるけれど、面白いことに、20世紀はじめの日本を見たラッセルは「日本ではアメリカほど労働争議が弾圧されていない」と言っている。いささか意外なことではある。

また、米国で社会保障制度を縮小した張本人としてクリントン政権が名指しで登場するけれど、こうしたことは先んじて英国で問題になったことどもであって、サッチャー以降、福祉国家モデルの縮小、ケインズ型の財政支出による完全雇用モデルの廃止というようなことが順次進展し、めぐりめぐって21世紀では日本における問題となった。ブレア政権でも、母子家庭における低所得の母親に対して就労を促進する支援策がとられたけれど、このことは、本書で扱われるクリントン政権の事例にも通じるものである。金がないなら、家庭で子育てをするよりも、外に出て働け、というわけである。そのためには保育所もバンバン作りまっせという話なのだけれど、要するにこれは、フルタイムで働かないと、ひとり親家庭の子どもは貧困に陥ってしまうし、金銭給付だけでものごとを解決しようとすると、福祉依存や差別といった社会的排除を助長してしまうからという考え方に出るものである。つまるところ、福祉国家モデルが英国の経済的競争力を低下させ、好き勝手に離婚しても社会保障で子どもを養えるとたかをくくった連中のモラル低下を招いている云々という批判などと相まって*18、国民はマネー稼ぎに全員参加、自立せよ、ということになったのである。もちろん、この考え方に問題なしとはしないけれど、いずれにしても、子どもを貧困のサイクルから守るということを最優先した結果、このような考え方に到達したもののようである。参考までに書いておく。

 縷々書いたけれど、20日から23日まで、わが国では3月の三連休ということで、これまで自粛自粛でウンザリさせられてきた人たちが鬱憤晴らしに動き出すような事態(いわゆる〈コロナ疲れ〉に〈コロナ慣れ〉)も見られた。これも致し方ない人のさがである。その前に出された専門家会議の自粛緩和のすすめを人々が拡大解釈したもののようであるけれど、コリャしゃあないなと、そのときは、政府も専門家も人々の反発を恐れてたしなめることはしなかった。2週間後にオーバーシュートなどということにならないことを祈るばかりである。けれど、コロナで死なずとも経済苦で死ぬという人も出るであろうから、私はためしに大いに浪費してみることにした。それが真にカネを必要としている人のところへ行きわたるかと言えば甚だ疑問であるけれど、経済という語は本来、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」の意味であるから、経済活動の本旨というのは、必要なものを必要なところへ届ける活動ということになるのであろう。これで物流が止まったら何をほざいてもどうしようもないけれど、カネがあるとかないとかいうことではなくて、必要なものを十分に行きわたらせることのできる社会的な能力をそなえるということが、本来、経済社会というもののあるべき姿であろう、と思うところもあるのである。という意味で、みなが本当に必要だと思うお店には、たとえそのサービスを利用しなくても、サービスを受けたような気になってお金を置いていったらどうであろうか。これはつまり、働かない人に対価を支払うということであるけれど、誰かが損をしても、別の誰かが便益を得るならば、そいつは経済学的にはトントンである。みんなでやれば、カネは回る。真の意味での無尽である。ちょっとひどい話ではあるけれど、ランズバーグはこんなことを言った。もし、無駄なシャワーがでないようにする特定の蛇口を使用するよう定めたシャワー用蛇口法案について、この法案が「利己的な個人が他人にコストを押しつけるのを禁じた法律」なのだと考えるなら、それは間違った経済学の餌食になることである。曰く「無駄なシャワーを使えば、水の価格上昇を通じて他の使用者に迷惑を及ぼすことは事実だが、他の使用者が受ける被害とちょうど同じ分だけ供給者を助けていることも事実」なのである*19。誰かが損をしても、ほかの誰かが得をするならば、便益の総計は同じである。しかし、金も払わずに過重な負担を出品者に強いる楽天の送料無料サービス化であるとか、反対に、これまでと同じ運賃はとるけれど、激増するネットショッピングの翌日配達サービスはお断りなどという事例はどう考えればよいのだろうか。「経済学に倫理はない」とランズバーグは言ったけれど、これ以上の労働や負担は、正直ご勘弁である。仕事がないならないで、それでよい。サービスの総量を減らして生活を成り立たせること、つまりは、働かない人にもお金を払うということは、案外、意味深な問いなのである。

 

所蔵館

市立長野図書館

 

関連項目

グレン・カールーザース「社会とつながる音楽家」
ジョン・H・ミュラー「音楽と教育――社会学的アプローチ」
バートランド・ラッセル『人生についての断章』

 

 

本文

 

p.13~17 怠け者を見ると、なぜか腹が立つ

1970年頃には、大半の人間は、両親に反抗するのは頭がからっぽではない証拠ぐらいには思っていたが、2001年の今では、息子が私との共同生活を望んだのは、30年前に私がやっきになって両親から逃れようとしたのと同じくらいありふれたことである。同居生活をしてすぐにジェネレーション・ギャップとよく似たものがあらわれてきたのは悔しながら事実であって、息子はスラッカー〔怠け者〕になってしまったのかとショックだった。私はあまりに怒りすぎており、息子の置かれている状況に思い至ることもできなかったが、このことが最大のおどろきだった。私自身、癇癪持ちの父親の激怒をかわしながら成人したので、子どもに即座に怒りをぶつけるようなことはしてこなかったが、息子が来る日も来る日もカウチに寝そべっている光景が、自分を怒り狂わせると知ってショックを受けた。この怒りはなぜ生まれるのか? 息子が時間を無駄にしているのがなんだというのだろうか? 私が大学に入る前までの期間だってすべて無駄だったと言えるし、事実、私の父親はそう主張していた。今や世間は変わったし、やり直しのチャンスはいくらでもある。そう自分に言い聞かせ続けても、どうして自分が怒っているのか、納得がいかなかった。息子が35歳で、ソファーの上に大の字になっているのならともかく、まだ18歳。怠慢さが誘発する感情のなかで、怒りはもっとも共通するものの一つだろう。

 

p.18~19 生活保護制度への怒り

スラッカーへの怒りとしては、ここ12年ほどのあいだに激化していった社会保障制度への怒りが挙げられる。その一部には、「生活保護制度の女王(ウェルフェア・クイーン)」への憤りがある。1995年、ミズーリ州上院議員ジョン・アッシュクロフトは、ヘリテージ財団での演説で、生活保護で暮らしている一家で娘が犠牲になった事件について触れた。娘が泣き叫ぶのにうんざりした母親が娘に満足な食事を与えなかったというもの。しかし、アッシュクロフトが怒ったのはそこではなくて、この女性がただ生活保護の小切手を増やすためだけに子どもを産んだことで、彼は母親の出産をそう捉えていた。こうした話は、社会福祉制度への異議を唱える扇動家たちが、ここ半世紀以上にわたって利用してきた古典的神話の一つ。ジョージ・フォレスによる「怠け者の生活保護受給者(ウェルフェア・ローファー)」攻撃や、扶養児童への経済支援プログラムは「乱れた性行為へのご褒美」だというレスター・マドックス、社会保障制度は子どもたちに「働かず、所得をもたず、読み書きを習わず、ぶらぶらして生活保護の小切手を待つこと」を教えたというニュート・キングリッチの主張なども同様。多くのメーリングリストやブログの投稿も、生活保護の不正受給を悩みの種にしている。その一例にこんなのがある。

 

(…)社会を支えているのは労働……つらい労働なのだ。だから、怠け者の生活保護受給者たちよ、掃き溜めから出て、仕事を持ちなさい。恨み辛みを言うのはやめ、君たちを養う税金のためにせっせと働いている私や他の人々を当てにするのもやめなさい。私のように、額に汗して自分自身の食い扶持を稼いだらどうだ。仕事をしろ! 私は真剣に怒っている!(19頁)

 

p.19~20 社会的労働のみが労働というクリントン政権

この種の怒りは、議会闘争へと流れ込み、1990年代には多数の「勤労福祉制度」や「賃金福祉制度」法案が提出され、そのなかでビル・クリントンは「1996年の福祉改革」と呼ばれる法案を導入、「社会福祉制度の終焉は誰もが知るとおりだ」と言った。同年に「個人責任・就労機会調停法」として成立。そもそもこの名称が問題の核心をついている。

 

(…)つまりアメリカでは、労働とはただの機会ではなく、私たち個人の責任であり、恐らく私たちの最も重要な道徳規範なのだ。一九七〇年代後半には、家庭で子育てをする女性を「働いていない」とほのめかそうものなら、人々は逆上しただろう。彼女の労働は支払われていないだけであり、家事はけっして終わることがない、とフェミニストと伝統主義者たちの見解はこの点で一致していた。ところが一九九〇年代に入ると、社会福祉論争が示唆するところはこれとは正反対になった。何人かの子供を養育しながら家にいる女性が、公的支援を受けているとすれば、彼女はずるい人間であり、スラッカーなのだ。彼女は家の外に出て働かなくてはならない。たとえそれがファースト・フードの接客であっても、自尊心を持ち、子供に正しい見本を示すために(これに反対する勢力は、同情や歴史的展望のなさや、社会保障制度の解体をめぐる無情な政治操作に対し、昔も今も憤っている。社会保障制度は一九三〇年代の悲惨な貧困状況を受けて発足し、一九六〇年代の貧困撲滅運動のなかで進展してきたものだ。ダニエル・パトリック・モイニハン上院議員は一九九六年の制定法について「南北戦争以降でもっとも残忍非道な法律である。この制定に関わった人間には、墓まで恥辱がついてまわるだろう」と述べている)。(20頁)

 

p.20~21 労働の価値というけれど、マックジョブはそれに反した労働なのでは?

職を持っていると証明できなければ、社会計画の「セーフティ・ネット」に近づくことも許されないという社会福祉の姿は、私たちの労働に対する信念がいかに矛盾したものかをはっきりと示している。私たちはすべての人間が働くようにと主張する――最近の研究が示すところによれば、勤労福祉制度は青少年の犯罪を増加させ、学校の成績を低下させるなど、家庭にとっては悪影響をもたらすというにもかかわらず。また私たちは、経済の底辺にいる人々の大半に与えられている職では、生活費も稼げないと知っているにもかかわらず。そして最低賃金の値上げに対しては、揺るがぬ抵抗が(政治の同じ方面から)あるにもかかわらず。ほとんどの人々、こういった法律の制定を推進した多くの人々ですら、安月給の仕事はする価値のないもの、自己実現やモラル育成の手段としては程遠いものだと感づいている。(20~21頁)

 

スラッカー的人物の代表であるジェネレーションXの作家ダグラス・クーブランドは、このような仕事を「マックジョブ」と呼んだ。幸運にもこうした職に就かなくてもよい階級にいる人々にとって、それはキャリアの失敗を意味する記号の原型。「ご一緒にポテトはいかがですか?」と冗談を言って笑えるのは、バーガー・キングで働いていないときだけ。映画『アメリカン・ビューティ』(1999)でホワイトカラーの職を失った中流階級の男性がファーストフード店のドライブスルーで働く。主人公は「以前よりも幸せ」だというけれど、私たちには、それは映画監督の現代をとらえたジョークであると同時に、誇張された社会抗議や、敗北の告白でもあることがわかる。自動でポテトを上げる機械を見つめている仕事は、私たちが労働の価値について話すときに、労働という言葉が意味するものとはかけはなれているけれど、賃金保障制度の支持者たちや社会福祉への反対勢力は、こうした仕事を善い営みだと信じ込ませようとする。ただし、自分たちがやるのでなければ、という括弧づきで。

 

p.21 労働自体を愛しているというのは感覚的におかしい

「労働の価値」とはある意味、矛盾した言い回しである。遊びや余暇とは反対に、労働とはそれ自体が目的なのではなく、何かの手段としておこなわれる。バスケットボールをするのは私たちにとって遊びだが、NBAの選手ならばそれは仕事である。私たちは気晴らしに庭を耕すこともあるが、ロサンゼルスの農園労働移民にとってそれは仕事である。この等式の両者にとって、その活動は楽しみにもなれば、避けがたい苦痛や不満にもなる。だが、たとえ農園労働者やNBA選手がその仕事を愛していたとしても、必ずしも労働の側面を愛しているわけではない。どんな活動でもそれを手段として、つまり生計手段や義務としてとらえれば、その価値を高めも損ないもする(例えば「プロ芸術家」、「セックス・ワーカー」、「プロ学生といったレッテルの違いについて考えてみてほしい」)。だが、一七〇六年にジョン・ロックが言ったように「労働のための労働はその本質に反する」し、あるいは一世紀のちのジェレミーベンサムが言ったように「適正な感覚に鑑みれば、「労働への愛」とは矛盾した言葉である」。私たちは給与をもたらす活動を愛するだろうし、生活のためにバスケットをしなくてはいけない状況を幸運だと感じるかもしれないが、私たちが愛しているのはゲームや金銭であって、「労働」ではないのである。(21~22頁)

 

p.167~168 産業化以前の労働形態は残存していた

マルクスとラファルグが記述していたのは、前世紀に決定的な変貌を遂げた産業社会の仕事場についてである。今日のイメージでは、子供時代の早期に始まり、早すぎる死までつづく、過酷で、途切れることのない、殺人的な、煤まみれの労働という地獄絵図。当時の調査記録などに記述されているもの。しかし、産業化以前の労働の世界から、水力あるいは蒸気を動力とする工場の世界へという変容は、この世紀をとおしてゆるやかに、また中途半端に進んだため、様々な妥協や反発を引き起こし、労働者たちは工場側が押しつけようとする過度に管理された労働スケジュールを受けいれようとはしなかった。

 

(…)農業労働や職人的な仕事からなる産業化以前の世界は、歴史家E・P・トンプソンが言う「集中した労働と無為に過ごす時間とが交互に繰り返すこと」から構造化され、それは「人々が自分たちの労働生活の主導権を握っている場のどこにでもあった」。というのも、その理由は、輸送と市場の関係がまだ不規則だったことや、農業労働のもつ性質にある。農業労働は季節により変化し、雨に妨げられ、雨の予測に背中を押されと、制御不可能な自然のプロセスに左右された、長くしみついた文化的慣習の力が働きつづけたため、非連続な作業から工場での規則化された労働への移行は、けっして滑らかには進まなかった。労働者たちは、自分たちの労働生活の主導権をやすやすとは引き渡したりしなかったのだ。(167~168頁)

 

p.168~169 19世紀の労働者はかなり好き勝手だった

1887年、ニューヨークのある葉巻製造業者が、自分のところで働く労働者がシフト制をとれないことを『ニューヨーク・ヘラルド』紙上でぼやいていた。彼らはいつも、朝、作業場に降りてきて葉巻を2、3本つくると、それから酒場でトランプやゲームに興じていたという。気が向くと戻ってきて、さらに数本の葉巻をつくり、それからまた酒場へ行くので、結局、1日に2、3時間しか働いていないという。これはラファルグが法律で定めるべきと考えていた1日の労働時間とちょうど同じである。実際、ミルウォーキー州の葉巻職人たちは、1882年にストライキに入ったが、その目的は、いつでも工場長の許可なく工場を離れる権利を保持することだった。

 

ここからわかるように、葉巻職人たちはいかにもアメリカらしい製造業労働者だった。彼らはフランクリンが推奨し、また産業経済が支援しつつ押しつけようとする、規律正しい労働習慣なるものを拒否した。十九世紀をとおして、産業家たちは労働者の怠惰と反抗とみなせるものを声高に訴えた。ある製造業者の主張によれば、「月曜日は」いつも「浮かれ騒ぎ」で締めくくるか、週末の深酒からの回復にあてられる。給料日の土曜は、ビールを積んだ荷馬車が工場を訪れ、それから三日間の浮かれ騒ぎの始まりだ。結果として四日の労働日も名目だけで、つねに飲酒をともなうものとなった。仕事中に「ちょっと一杯」で休息をとるのはよくあることで、労働者たちは作業場を自由に出たり入ったりした。一八四六年、あるイギリス出身の家具職人は、本国に宛てた手紙のなかで、アメリカ人の仕事仲間は好き勝手に「まるで暗黙の了解でもあるかのように……仕事をいっせいに中断する」のがしょっちゅうで、見習いたちはよく「ワイン、ブランデー、ビスケット、チーズ」を買いにやらされると述べている。食事や軽食、飲酒、または新聞を仲間に読み聞かせるときに、仕事が中断するのは日常茶飯事だった。仕事に来る時間も切り上げる時間もまちまちで、その一身上の理由もまた、まちまちだった。(168~169頁)

 

p.170~176 ラッダイト運動から1886年の敗北まで

まっ昼間からの飲酒休憩をやめさせようとする経営者側の試みは、決まってストライキや、暴動というかたちで抵抗を受けた。このような組織化されない自然発生的な作業停止は、一世紀が経過するうちに、組織化され、特定の工場や職種の労働者たちを団結させた。労働者たちは、彼らが産業主義の害悪とみなしたものに対して抵抗、その最も劇的な例が、ラッダイトによる「紡織機」すなわち動力織機の破壊。ラッダイトとは、新式の紡織機が自分たちをお払い箱にすると確信した1810年代の紡績工たちのことで、実際、それは真実だった。ラッダイトたちは夜中に徘徊して工場を襲撃、産業階級に恐怖の念を引き起こした。このような産業破壊活動はアメリカではそれほど顕著ではなかったが、労働者ストライキが広範囲に生じることになった。しかしながら、労働組合主義者たちが何をしたところで、最終的に労働者の生活が産業的な変容を遂げていくのは止められなかった。工業機械台数は増えたか、労働者数は伸びなくなった。加速しつづける生産ペースと、それにともなう疲労によって、労働者の死傷事故が一世紀にわたって増え続けた。ストライキ自体でも死者が出ることになり、合衆国の歴史には、血塗られた労働闘争が刻まれた。

そして、労働者は敗残者となった。十九世紀の雇用者たちは、ストライキアジテーションにもかかわらず、規律訓練によって労働習慣を作り上げ、それを規則化することに成功したのである。十九世紀初頭の工場労働者が享受した自由な勤務時間、気が向いたら好きな時にぶらぶら出歩き、ラム酒を一杯ひっかけるという自由な勤務時間は、もう二度と――ドットコム企業が娯楽室を盛んに設置した一九九〇年代においてさえ――労働者たちに戻ることはなかった。(173頁)

 

労働運動の主要な訴えは、一世紀を経るうちに、労働者たちが就業時間を自己管理することから、拘束時間そのものの削減へと移っていく。1日10時間、8時間、そして短命に終わったが6時間労働を求める運動に展開していく。1840年、ビューレン大統領は、連邦政府で働く者すべてに対し、1日10時間労働を命じたが、それはやがて8時間に短縮された。8時間労働運動は当初は成功したように見えた。グラント大統領は、時間短縮の制度化にともない、減給されてはならないと布告した。

 

しかし、この短縮も長くは続かなかった。一八七〇年代の工業不景気や、組合を持たない廉価な移民たちの労働力、そして雇用側からの絶えざる反発により、一八七〇年代の終わりまでに、ほとんどの職種が十時間労働に戻ることになった。そして一八八六年のメイデーに始まるシカゴのマコーミック・ハーヴェスター・マシーン社での八時間労働ストライキ、ここから時間短縮運動は新局面を迎えた。二日後の五月三日、アメリカでもっとも有名な労働争議のひとつである死亡事故が起きる。サウスサイドにあるマコーミックの芝刈り機工場で、ストライキ阻止の実力行使の最中に、二名の労働者が警官隊により殺されたのだ。その翌日には有名なヘイマーケット事件が起きる。これは当初、前日の警官隊の暴挙に対する平和的な抗議運動であった。だが、おそらく警官隊、あるいは労働者が鉄パイプ爆弾を爆破させ、七名の警官が死亡し、警官隊が群衆に発砲したため、四名のデモ参加者が死亡した。八名の労働組合委員が無政府主義者であるとして裁判にかけられ、証拠不十分のまま七名が有罪判決を受け、四名が絞首刑に処せられた。この後、世論は混乱し、過激な労働闘争から脱落する労働者も増え、約半世紀にわたって、八時間労働の適用は下火になった。連邦政府によって、(ほとんど)すべての労働者に対して八時間労働が正式に適用されたのは、ようやく一九三八年になってからのことだった。(175~176頁)

 

p.176 失業率を下げるための短時間労働

労働時間短縮の根本的理由は、つねに労働者の余暇を楽しむ権利に基づいていたが、次第に失業率に歯止めをかけるという主張もその理由のうちに含まれるようになる。例えば、一九三〇年代にジョン・メイナード・ケインズは、不況期には雇用機会を最大限にするため、ひとりあたりの労働を三時間にすることを主張している。一九三〇年、ミシガン州バトルクリークのケロッグ工場では、より多くの人々に働き口を与えるため、八時間ずつの三交代シフトから六時間ずつの四交代シフトに切り替え、これは一九四〇年代の戦需景気までつづけられた。戦争が終わると、六時間制を維持した労働者もいたが、徐々に様々な部門の労働者たちが、ときに圧力を受けながら、八時間労働制に戻りたいという意志を表明するようになる。一九八五年には、ケロッグ社のなかで最後まで六時間労働で踏ん張っていた労働者たちも、あめとむちと圧力を与えられ、八時間労働に切り替えた。(176頁)

 

p.176~177 三時間労働の要求

歴史家のベンジャミン・ハニカットによれば、大恐慌前の100年間において、労働争議の中心には、労働時間を延長したい雇用主の欲望と、自由な時間への労働者たちの欲望が拮抗していたといい、労働者たちはほぼ一様に、「自由な時間」の増加を、可能なもの、望ましいもの、経済成長の自然な帰結と見なしていた。1933年、世界産業労働組合のラルフ・チャップリンゼネストを呼びかけ、いかなる労働者も、日に2時間45分ないし3時間の苦役につくべきではないと主張した。チャップリンの第一の目標は、労働者の搾取を阻止し、資本家階級を餓死させることだったが、結果的に労働時間短縮の要求という付加価値がついた。余暇を欲したのは労働者だけではなく、ジョン・ステュアート・ミルら多くの経済学者も同じ目標を有していて、継続的な生産性を得るためには、ゆくゆくは労働者ひとりあたりの労働時間を減少させていかなければならないと論じた。ミルが期待したのは、その結果、労働者が「心身に対する充分な余暇をもち、自由に生活の恩恵を享受する」ことだった。ここではキケロのいう「余暇(オティウム)」が誰もが手に入れることのできる民主的なものにされている。

 

p.177~179 三時間労働の世界

トマス・モアの『ユートピア』(1516)は6時間労働、ウィリアム・ディーン・ハウエルズの『アルトゥリアからの旅人』(1894)などは3時間労働を打ち出していた。

 

ポール・ラファルグや世界産業労働組合と同じように、ハウエルズも、平等とは社会の全域に仕事の負荷を均等にすることであり、そうすればひとりあたりの労働時間を一日平均三時間に削減できるはずだと考えていた。一日の労働が十二時間であれ、十時間や八時間であれ、それは労働者の暮らしではなく、働かない有閑階級の人々の暮らしを支えるために必要なものにすぎない。ハウエルズ、ベラミー、ジェロームユートピアのなかで、怠ける権利とは、勤労の義務と同様に、社会全体で分かち合われているだろう。なにしろユートピアは三時間労働の国だ。万人のためのスラッカーの王国とは、近代化の果てにある、甘い果実であるだろう。(178~179頁)

 

p.179 大恐慌の影響で無職は罪悪視されるようになる

ところが20世紀になると、勃興する消費主義と大恐慌の影響とで、労働時間短縮のアジテーションはかき消され、ハニカットによれば、ケロッグの労働者たちは長時間労働に戻ることを決めたが、そこには複雑な理由があり、そのすべてが経済的な私欲と結ばれていたわけではなかった。労働にイデオロギー的な価値が失われた社会において、労働者がその特権に対する喪失感を抱いたことが原因であるとハニカットは言う。

 

そしてこの情感ゆえに、ケロッグ社の男性労働者たちのあいだでは、増えつつあった余暇が「女々しい男」や「若い娘」のためのものと見られたのだと。さらに大恐慌によって、人々はあらゆる形態の無職を、ひとしく経済発展の成果と考えるのではなく、一週間に四十時間、あるいはそれ以上の「フルタイム労働」こそ、経済成長の真の原動力であり、そして経済成長こそ究極の目標であると考え始めた。ケロッグの計画の失敗は、こうした世論や要求が、労働時間の短縮に打ち勝ちはじめたあらわれであり、ハニカットはこれを文化の悲劇とみなして、ラファルグとさほど変わらぬ労働観を提示するにいたる。(179頁)

 

p.179~180 短時間労働の言説は敗北を喫した

ハニカットは言う。

 

産業化という病に対する伝統的な労働者階級の治療法であった「労働時間の革新的な短縮」は、もはや言論のうえではほぼ負けを喫している。いまや事実上、労働の支配は問題にされず、ほぼ難航〔ママ〕不落のものとなっている。こうして仕事とは、世俗の宗教や、将来有望な人間のアイデンティティ、救済、目的や方向性、共同体、そして人生の混沌から意味をもたらす「勤勉」の価値を、単純にかつ心の底から信じる人々にとっての手段となる。仕事が生活の中心となることにいまなお懐疑的な少数派は異端者の烙印を押される。そして「娯楽」や科学技術のおもちゃのない、労働と消費以外の時間とは、誰も足を踏み入れたことのない、新たな荒野なのである。(179~180頁)*20

 

p.469~172 新宿ゴールデン街でフリーターについて尋ねてみた

東京の新宿ゴールデン街は、数十年のあいだ日本のスラッカーたちの聖地だった。1960年代までには、賃料の安さから、娼婦や、芸術家、知識人、この辺りの商売に携わる主流を逸れた人々といった雑多な住民を惹きつけ、東京の社会的・政治的・芸術的ラディカリズムの中心になった。それゆえ、日本のスラッカーの中心地にもなっていた。西へ数ブロック行くと、新宿特融の超現代的ショッピングネオンが、ほとんど労働倫理への献身を叫んでいるかのようにきらびやかな祭典を繰り広げている。それとは対照的に、ゴールデン街は、昼はほとんど古風な趣きに、そして夜にはわずかに威嚇的に見える。ガイドブックは、常連や近隣の住民たちのバーであり、西洋人はそう歓迎されるわけではないと警告している。私は「オレンジ」というバーに入って、そこでバーテンダーをしている日本人の女優の卵に「フリーター」のことを尋ねた。日本の開放的なスラッカーのサブカルチャーの構成員で、多くは男性の若者たちのこと〔後述のJIL調査によれば六割が女性〕。フリーターとは、ドイツ語の「frei」と「arbeiter」、すなわち「フリー」と「働くこと」を縮めた言葉だといわれる。それは恐ろしい短縮で、アウシュビッツの入口には「Arbeit Macht Frei」〔働けば自由になれる〕と読める鉄の唐草模様への言及になっているからだ(言うまでもなく、1920年代にヒトラーが政権を獲得していくうえで、ドイツの無職の若者たちが重要な役割を担っていたし、もっと最近ではヨーロッパで頻発した、無職のスキンヘッドたちによる移民殴打事件もある)。フリーターは日本のジャーナリズムやアカデミックな記事で取り上げられ、その内容は、価値観や、社会的連帯、孝行心、義務の衰退を嘆くものだった。アメリカの場合と同じく、大衆文化や、裕福さによってフリーターが生まれたという意見で多くの記事が一致している。アメリカとくらべて親のしつけの悪さが引き合いに出される頻度は低く、経済的な不景気が言及されることのほうが多い。日本の多くの論説委員にとって、この問題は深刻なもので、そのひとりは、「若者の全体数は低下し続けているにもかかわらず、彼らがフルタイムで働くことを拒否することは、社会に悪影響を及ぼす」(472頁)と指摘し、多くの人は、フリーターをたんに「パラサイト」と呼ぶ。

 

p.472~473 フリーターの分類

バーテンダーの女性は、フリーターには3種類あるという。「ただ怠けている人」「引きこもり」(ここではパラサイトシングルのことで、その後、ヒキコモリとは、広場恐怖症になったことを表わすことの方が多いことがわかってきた)、三つ目が、「夢」を持っている人だという。「夢」はそれぞれだが、より多くの場合、芸術的な達成と関係があると彼女は思っていた。「君はフリーターか」と尋ねると、彼女は否定して、私は働いているし、両親とも住んでいないと言う。「でも、君には夢があるんでしょ?」と聞くと、うん、と言って、夢は映画女優になることだが、差し当たっては、自活するために一生懸命働かないと、と真剣に言った。彼女は自分をフリーターとは見なしていなかったが、経済学者の意見は違っていて、日本労働研究機構研究書(JIL)〔現在の独立行政法人労働政策研究・研修機構〕がまとめた報告書によれば、フリーターの定義は、パートタイム、あるいは本職ではない仕事(「アルバイト」)だけを最長5年間続ける18歳から35歳まで労働者となっている。その三分類は、正規雇用を得ようとして挫折して非雇用のままとなっている「やむをえず型」、直近の未来に展望がない「モラトリアム型」、そして芸能界などの専門職で働きたいという「夢追求型」。その3分の2は実家にいる。バーテンダーは、夢を持たない人を臆病者、怠け者、やる気のない人、やる気がなくかつ親からの援助もない人に分類していたが、JILは、三分類を横断して、親からの援助と、やる気があることを前提にしている。

 

p.473~474 フリーターはサラリーマン文化の脅威だ

フリーターたちの周囲を取りまく危機の感覚とは、経済的な現実に基づくものではない。平日四・九時間労働していることを考えればわかるとおり、フリーターたちは「路上で」暮らす結果にはいたらないし、彼らは社会を混乱させはしない——日本人の労働に対する価値観を除いては。文化的理想とされていた「サラリーマン」は、「灰色の服を着た男」のようなもの、善いことというより悪いことを象徴する人物へと推移していった。そしてフリーターは、ローファーやラウンジャーやスラッカーたちのように、一般に広く受け入れられている労働倫理の拒絶、サラリーマン的理想の拒絶としての役目を果たしているのだ。(473~474頁)

 

p.474 フリーターをやってみた感想

文部省〔現在の文部科学省〕は、1996年から98年のあいだに高校を卒業した者を対象に、より広範な調査を実施した。フリーターの27%は「本当にやりたいことがわからなかったため」、21%が「(正規の職に就く以外に)やりたいことがあり、自分たちの雇用形態を後悔していなかった」、16%が「(将来について)もっと真剣に考えていればよかった」、14%が「自由にやりたいことができ、正規の就職をしなくてよかったと思っている」。

 

p.474~475 フリーターたちはよく働いているのでは?

(…)結局のところ、フリーターたちもまた、アメリカのスラッカーに類似していることがわかる――つまり、彼らは怠け者のアイデンティティよりもそのポーズを多く有するという点において。こうした調査に登場するフリーターたちは、自分たちのライフワークが見つからなかったかもしれないが、ずいぶんとよく働いている。あるロックバンドでベーシストをするオガワヨシノリは、クリーニング店で働く。十時から六時までを週五日間、これは法定の週四十時間を少し下回る程度だ。一時雇用の形態は彼に合っている、というのも、彼は七年前に高等専門学校を卒業してから、いまも父親の扶養で健康保険に入っている。つまりは有給休暇もないから、結局は正社員と同じぐらいの時間を、それより安い給料で働くことになる。だが彼は、ミュージシャンの仕事やレコーディングのために時間をつくれる自由や、ミュージシャンとして以外には、職業的なプレッシャーや不安がないことを気に入っている。言い換えると、彼の労働からの自由とは、その多くが錯覚である。だがそれは、彼やその仲間たちにとっては、機会を選び取る感覚を形成するのに役立っている。と同時に、それが親たちや、労働関係機関に勤める公務員たちや、論説委員たちのあいだに文化的な危機感を形成しているのである。(474~475頁)

 

p.475 働くより怠けるほうがよい

人々が懸念することのひとつは、伝統的価値観の喪失である。一九七二年の学生を対象にした国際比較調査では、人生の目標に「働きがいのある仕事」をと答えた学生の割合は、イギリスが十三パーセント、日本が二十八パーセントだったのに対し、アメリカとフランスではたったの九パーセントだった。また一九七五年の別の調査では、日本とアメリカで「怠けて時間を無駄にするよりも、働く方を選びますか?」と質問をしたところ、怠ける方を選んだアメリカの高校生・大学生は日本の三倍以上であり、日本の学生たちの九十パーセントは働くほうを選んだ。だがその後の調査が示すとおり、一九八〇年代の後半までには、こうした国ごとの差異はすでに消滅していた。(475頁)

 

p.475~477 勤労観が強固な社会でスラッカーの文化が活性化

怠け者の増加という危機が差し迫っていたのと同時に、「カロウシ(過労死)」が蔓延しているのではないかと考える者たちもいた。最初の例は1969年。1989年には川人博が率いる弁護士や医者たちのグループが過労死ホットラインを開設。心臓発作や脳卒中がほとんどだった。長谷川吉則博士によれば、犠牲者のほとんどが、時には週百時間におよぶ時間外労働に対して一切の報酬を受けていなかったこと、彼らは「侍のような誇り」から絶え間なく働きつづけたことを主張する。ところが、報道や文化的な論評の内容では、過労死の懸念よりフリーターへの懸念のほうがはるかに多かった。日本の根強い勤労主義は有名で、過労死の原因でもあれば、戦後復興の要因ともなった。忠節心や勤勉さ、協調性、忍耐強さなどは高く評価されたが、こうした背景を見れば、フリーターが、これほど影響力ある文化的造型になったのもなんら不思議ではない。どんな労働観もスラッカーを必要とし、産業的な労働のあるところどこにでも現れる。勤労観が強固なほど、スラッカーの文化は活気づく。日本は、西洋と同じく、その両方が突出している。

 

p.477~478 自分は怠けても他人が怠けるのはダメ

最近、ある家ぐるみのパーティーに出たとき、私は両親の世代の男性と雑談をした。華々しい職歴の人で、引退後は公務員の職を得て、楽で給料がよい、やるべきことは1時間半で終わる仕事だと断言した。週8時間程度の労働でフルタイムの給料をもらう。素晴らしい首尾の良さだと感じている。ところが、私がスラッカーの歴史を書いていると知ると、彼は辺りを見回して人に聞かれていないことを確認すると、言っちゃいけないことではあるけれど、スラッカーのことを書くなら、怠け者の黒人のことを書かなきゃならん、と言ってきた。

ああ、こうした態度のなんと永遠なることよ! 週七時間半の労働でフルタイムの給料を得ていると自慢した男が、いたって真面目に、他人の乏しい勤労意欲に文句を言うのである。彼の発言はいっぽうで完全に人種差別であるが、人種差別だけでは充分な説明にはならない。それは単純に労働倫理が機能するときの仕組みである。労働倫理の最も声高な擁護者が、そのもっとも無頓着な冒涜者となることは多い。社会学的調査には、労働倫理には人種ごとに固定観念があるという根拠となるようなものはまったく存在しない――ここ三十年にわたる二十一の主要な調査を概観しても、出世のためには懸命に働かなくてはならないという信念に、アフリカ系アメリカ人・ヨーロッパ系アメリカ人・アジア系アメリカ人のあいだで目立った違いはまったくない。(478頁)

 

p.478~480 労働倫理は現実を反映していない

最終的に、労働倫理は、現実とはほとんど関係がなく、ただ、私たちやほかの人々が日々をどう暮らしているかから生じる態度や感情で、誰が、誰をどんな瞬間に見ているのか、それ次第。私のコミューン暮らしの経験では、2人で仕事の半分を分担すると、私は3分の2を負担したように考えるようになるということがわかった。反対に、他人は私の3分の1しか仕事をしていないと思いこむようになる。自分自身が怠けているとき、何もしないで何かを得るという考えの周囲には、罪悪感や喜びが生じるいっぽう、他人が怠けているときには、笑いや嫉妬や怒りの感情が引き起こされる。私たちのほとんどがその両方の自己イメージを抱いている。ほかの人々は私たちよりも真面目に働いていると確信するのと同時に、自分はほかの人々よりも真面目に働いていると確信する傾向がある。スラッカーの歴史とは、働くことに対する嫌悪や、働くことから逃れる幻想の歴史(であるとともに、実際にそこから逃れた人々に向けた罵詈雑言の歴史)であるだけでなく、複雑に捻じれた認識の歴史である。

 

(…)ある男の税金を啜る「生活保護制度の女王(ウェルフェア・クイーン)」は、また別の誰かにとっては奮闘する母親である。ある男のスラッカーの息子は、やがてアーティストになるときに備えているところかもしれず、また別の息子は、クリス・デイヴィスの父が言ったようにただ単純に「使えないやつ」なのかもしれない。だがどちらの父親も、それを判断する最適な立場にいる人間ではないだろうし、どちらの父親もたいていはスラッカーではない。父親たちやほかの人々は、私たち皆に向かって鏡を掲げることがある。だがそのときスラッカーたちは、鏡に映る自分の姿を、うまく捉えることができないのである。(480頁)

 

p.479~480 休暇病もあらわれた

私たちは1日何時間もテレビを見ているスラッカー民族で、1950年以来、カウチポテト化した世界を生きていて、それ以前の1920年代にはラジオをめぐって同じ議論が交わされていた。18世紀に小説が人気を集めたときには、モラリストたちは、努力や奮闘という既存の美徳が、子供だましの絵空事の無為な消費によって追い払われてしまうのではないかと心配した。正反対の議論もあって、いわく、

 

(…)私たちはあまりに忙し過ぎるからスローダウンするべきだ、仕事にあまりにも多くの時間や心配や精力を注ぎすぎている、給料よりも週の労働時間が上がる方が早いなんて馬鹿げた忙しさは前代未聞だ、等々。いまの私たちはリラックスするべき時間にもジムで猛然とワークアウトをし、気晴らしのためのスポーツも達成や努力としてとらえ、けっしてスローダウンしないという人々もいる(私たちに認められた最小限の自由時間すら楽しめなくなっているかのように、ある研究者が「休暇病」――与えられた休暇時間に具合が悪くなる傾向――の増えつつあることを示している)。(479~480頁)

 

p.481~482 執筆のプレッシャー

また私にとって、本書の執筆に向かうのには非常な困難が伴ったことも告白しなくてはならない。資料調査はいつでも楽しい作業だったが、そのあとの執筆という難局に差しかかると、私はただぐすぐすしつづけた。それはあたかも、スラッカー主義には伝染性があり、私自身が重症で倒れたかのようだった。ためしに私の編集者に、エージェントに、妻に聞いてみるだけでいい。少なくとも最初のふたりは、私が死んでしまったのではないかと不安がり、妻のほうは、私が長引く植物状態にでもいるのだろうと見ていた。まったく進展のない状態が何ヶ月もつづき、代わりに時間が掛かるだけの無益な計画に取り組んだ。それもひとえに、いわゆる筆をとること、つまりキーボードに指を置くことから逃れるため、執筆を先送りしようとしてのことだ。

けれども、このときの私は、小説を書こうとしていた若い頃と違って、書いていない状態を楽しむことができず、得意がることもできず、ホイットマンが言ったような楽しいぶらつきへと魂を招くこともできなかった。私はただ、その役柄に何のユーモアも、何の楽しみも見いだすことができなかった。歳を取りすぎたんだろう、と思った。あるいは、幻想から醒め、現実的になりすぎてしまったのだろうと。(…)いずれにせよ、そのプレッシャーは、最終的に書くことを余儀なくされるか、完全に頭がおかしくなってしまうか、そのいずれかにいたるまで、日に日に重くのしかかっていた。(481~482頁)

*1:松尾匡『反緊縮三派の議論の整理』(学術コンファレンス 「長期停滞・低金利下の財政・金融政策: MMTは経済理論を救うか?」配布資料、2020年1月31日開催、主催/日本金融学会機関誌『金融経済研究』・ 慶応義塾大学経済学部・ 慶応義塾大学経済研究所)、1頁、2020年。

*2:松尾、同書、3~4頁。

*3:松尾、同書、6頁。

*4:ティーヴン・ランズバーグ『ランチタイムの経済学』佐和隆光監訳、吉田利子訳、ダイヤモンド社、1995年、181頁。

*5:ランズバーグ、同書、181~182頁。

*6:バートランド・ラッセル『ヒューマン・ソサエティ――倫理学から政治学へ』、勝部真長・長谷川鑛平訳、玉川大学出版部、1981年、56頁

*7:バートランド・ラッセル『人生についての断章』、ハリィ・ルージャ編、中野好之・太田喜一郎訳、みすず書房、1979年、22頁。

*8:ラッセル、同書、23頁。

*9:ラッセル、同書、71頁。

*10:『南山剳記』、2020年2月5日記事、web(https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/02/05/160334)。

*11:『南山剳記』、2020年2月7日記事、web(https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/02/07/211844)。

*12:『南山剳記』、2020年1月3日記事、web(https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/01/03/225056?_ga=2.203533648.1921663816.1578055817-1803839563.1481601444)。

*13:ベルナルド・リエター『マネー崩壊――新しいコミュニティ通貨の誕生』、小林一紀・福元初男訳、日本経済評論社、2000年、11頁。

*14:リエター、同書、26頁。

*15:リエター、同書、42頁。

*16:リエター、同書、10~11頁。

*17:リエター、同書、69頁。

*18:所道彦『ブレア政権の子育て支援策の展開と到達点』(国立社会保障・人口問題研究所『海外社会保障研究. 2007 (Autumn) (160)』所収)、88~89頁。

*19:ランズバーグ、前掲書、314頁。

*20:私註:出典はベンジャミン・ハニカット『ケロッグの6時間労働』(“Kellogg’s Six-Hour Day”, Philadelphia: Temple University Press, 1996.)であろう。なお、邦訳本の事項検索からハニカットの名前は欠落しているが、参考文献には同書が挙げられている。