南山剳記

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バルテュスとの対話(バルテュス、コスタンツォ・コスタンティーニ)

バルテュスとの対話

コスタンツォ・コスタンティーニ編『バルテュスとの対話』北代美和子訳、白水社、2003年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

イタリアのジャーナリストであるコスタンツォ・コスタンティーニ(Costanzo Costantini、ローマの日刊紙Il Messaggeroの文化担当記者)が、1989年から1996年にかけて数回にわたって行われたバルテュスとの対談をまとめたもの。ノワール・シュル・ブラン社のヤン・ミハルスキー社主が好意的な序文を寄せている。

すでに『バルテュス、自身を語る』・『バルテュス』の剳記で、あらかたのことは書いたので、そちらを参照されたい。本記は主に、バルテュスの東洋美術への、またマティスブルトンデュシャン、ベーコンなど、同時代の芸術家への言及に着目して筆記したもので、ここでは、バルテュスが絵画の機能をいかに捉えていたかということが問題となる。これは存外、デュシャンと問題圏をともにするものであって、印象派以降に進展した芸術的潮流に物申す言説として共通点をもつものである。

おそらくバルテュスは、デュシャンの主知的な面を快く思ってはいなかったであろうけれど、芸術を単に物質的なフォームと見なすやり方に満足しなかったという点ではよく似通っているように思われる。実のところ、視覚芸術というものは長らく一つの思想であったし、見たものを見たままに描くのがアタリマエというような単純なものでもなかった。むしろ、それが〈虚構〉であるということのうちに、こんにち絵画のスペシフィシティというものが認められるのであろう。そしてデュシャンにあっては、〈芸術〉という名辞自体が、現実にそれを指示する対応物をもたない〈現象〉としての〈虚構〉であると看破され、その空虚な記号にすぎない〈芸術〉なる名辞が、いかにして使用可能なものとなるのか、その条件を考察しようとしたものであろう。

バルテュスは〈芸術〉の〈虚構〉を信じていたようであるけれど、デュシャンにとって〈アート〉と〈アンチ・アート〉は、けっきょくのところ同じものであったから、〈芸術〉そのものが〈虚構〉であった。芸術の経験において与えられる〈真理〉は、定量的に記述される科学的真理とは異なるものである。しかし、私たちが〈真理〉というとき、それは容易につかめない何か、むしろ万人自明のものではなく、限られた人だけが到達し得る何かというニュアンスを含みもっている。これはまったくハイデガー的設問である。客観的に示されることなく、絶対的な示される種類の真理(ハイデガー風に言えば「真理が活動している〔am Werk sein〕のであり、したがってただ真なるものだけが活動しているのではない」*1ということになるであろう)については、フレーゲラッセル、ヴィトゲンシュタインの系列において論理空間の外部に留保され、「問うことのできない問い」として、哲学の対象から除外されていくことになるのだけれど、ハイデガー、ガダマーないしデリダの系列において、一つの主題として問われ続けることになった。デリダによるとそれは〈知〉に属さず、〈信〉に属するものであったが、このことはトマス・アクィナスによって定式化された二分法の現代的な焼き直しである。ここでは、〈信〉によって理解される事柄をいかに取り扱うかということが議論の主題となるのであるけれど、そのような視点から見ると、少なくともバルテュスの側からは否定されたデュシャン主知主義というものが、〈知〉の側から〈信〉を逆照射することで〈虚構〉の領域を問うものであったということができるようにも思われるのである。バルテュスが〈芸術〉という言葉を嫌い、自らを〈職人〉と位置づけたのは、どこまで進んでも辿り着くことのできない創造者(真のクリエイター)としての〈神〉を前提としていたからであろうけれど、デュシャンが〈職人〉という言葉を好んだのは、芸術という言葉のみが存し、その使用状況をめぐって〈アート〉と〈アンチ・アート〉が対峙するという、〈虚構〉そのものを告発する意図に出たものであろう。フレーゲのようにそれを「見せかけの思想」と割り切ることもできようが、〈アンチ・アート〉が成り立つためには、存在前提としてのアートがなくてはならず、〈アート〉が存するためには、その前提として〈アンチ・アート〉がなくてはならぬというヴィトゲンシュタイン的な否定の論理からすると、〈アンチ・アンチ・アート〉としての〈アート〉の根源は奈辺にありやという、いささか神秘的な問題に突き当たるようにも思えるのである。デュシャンにせよ、バルテュスにせよ、どうも同時代の抽象芸術というものがその問題を回避して視覚的効果に終始しているように見えたことに不満を覚えていたらしく、これを拒絶しているのは興味深いところである(彼らの抽象美術に対する解釈が妥当なものであるかどうかは別問題である)。

なお、本記に引用したバルテュスの作品は、すべてスタニスラス・クロソフスキー・ド・ローラ編『バルテュス』(野村幸弘訳、岩崎美術社、2001年)より採った。私見は脚注に出した。

 

所蔵館

市立長野図書館(2階/723・ハ)

 

バルテュスとの対話

バルテュスとの対話

 

 

ヤン・ミハルスキー(ノワール・シュル・ブラン社社主、2001年) 

p.3~4 バルテュスの記憶の美化は許してやれ

バルテュスの神秘は計画的な行動という人もいるが、それは違う。

「自分は画家としてのみ公に属するのであり、私生活は自分の作品を理解するのになんの役にも立たない、それどころかその知覚を曇らせるというのが、バルテュスの口癖でした。(…)バルテュスの話にあるわずかな矛盾や間違いを探し求める一部評論家の探偵もどきの精神は、私には教条的な合理主義者のさもしさと思えます。あの人びとは、心の奥をより明晰な光で見るために個人的な内面の一貫性を見出そうとして事実を美化したり、手がかりを消したりもするこの性向を理解できないのです」(3~4頁)*2

 

p.9~10 バルテュスの見解を世間の意見と突き合わせるのは困難

バルテュスの信仰は芸術家社会ではめずらしく、自分が宗教画家であるとの発言は現代ではめずらしい。「画家は揺らぐことなく、支配的な様式や流行、遠くの文化による幻惑の影響の埒外にいるように見えます」(9頁)。忍耐強く15世紀のヨーロッパ的伝統にとどまり、ヨーロッパ的伝統の核心である聖なるもの(サクルム)を実現しようとした。バルテュスは作品の形式的分析にはほとんど重要性を与えなかった。タブローの目に見える主題は、普遍的なもの、神の創造物を探す手段。それは自身を芸術家ではなく職人とする態度にあらわれていた。しかし、バルテュスの言葉を、エロティックな嗜好への非難、曖昧性を告発する意見と突き合わせるのは容易ではない。バルテュスからすると「それは同時代人における無垢の喪失、感受性の喪失を表わす兆候のようなもの」(10頁)。

バルテュスは芸術の知覚の問題に立ち返りました。それは形態の分析に終始する傾向にあり、もはや目に見えぬものの存在をつかむことができずにいます。バルテュスには、女性の裸体とその無垢とによって創造者を誉め讃える能力が、自らが求める真実に最も近いと思えたのです」(10頁)

 

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テレーズ(1938)


バルテュスとの対話

 

p.20 伝記は不要

バルテュスは「自分のこと、自分の個人的な生活を語るのにはいつもためらいを覚えてきました。こう思っていたのです。他人の興味を引きうるとすれば、せいぜいがわたしの仕事、わたしの絵画であって、わたしの伝記ではない、と」(20頁)と言った。

 

p.41 東洋は中世との断絶を経験しなかった

バルテュスによると、シエナ派的な自然描写は遠近法の使用で終わって、写実主義が発展。東洋は中世と自然との断絶を経験せず、プリミティヴ。クールベシエナ派、ブリューゲルらは「中国人、中国の風景画家の壮麗さに達する数少ない画家のひとり。クールベもまた、ものを表象することではなく、ものと同一化することを目標にした絵画を描きました」。西洋の近代芸術は好かないが、過去の西洋芸術は愛している(バルテュス)。*3*4

 

p.40~41 東洋美術は抽象美術と関わりない

「東洋の、あるいは日本の芸術は、ロラン・バルトによって「表徴の帝国」という言葉で完璧に定義されています。正確で、具体的な言葉、抽象美術とはなんのかかわりもない伝達方法が問題なのです。たとえすべての創造が、ある意味では、抽象化であるとしても、今日の抽象美術は深い意味合いのない、純粋な美学的事実にすぎません」(40~41頁)

 

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まどろむ裸婦(1980)

 

p.47 ナルキッソスが流行、自画像としての絵画

コスタンティーニは、最近はナルキッソスが流行っていて、アルベルティが『絵画論』でナルキッソスは絵画の発明者だとしたことを引用する風潮がある、と指摘。絵画は自画像として、自画像としての肖像画として生まれたという。バルテュスは興味深い説としながらも、理論から絵は生まれないと答える。*5

 

p.70 変態と言われる

ピエール画廊での個展の時に匿名で記事を書いたピエール・ジャン・ジューヴとは1956年から親しかったが、むずかしい性格で、絶交した。パリに二時間ほど戻った時にピエールに電話を入れなかったところ、後になって手紙か来た。「あなたが変態だとは知っていたが、裏切り者でもあるとは知らなかった」。ピエールは精神分析医の奥さんに強い影響を受けていた。

 

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夢見るテレーズ(1938)

 

p.75~76 芸術は外見を表わすものではない

「西欧の偉大な芸術はものごとを表わす芸術ではなく、それと同一化する芸術です」(75~76頁)

 

p.78 デュシャンについて

「非常にとぎすまされた知性の持ち主だった。またチェスの大家でもありました」。芸術家としてはどうかと問われると「いま申しあげたことで充分ではありませんか?」。

 

p.82~83 禅僧の絵は認める

マティスは恐ろしく教師ぶっていたところがあって嫌い。画家としては称賛。しかし、作品は壮麗だが、単純化しすぎている。単純すぎる画家、あまりに速く描く画家は好きになれない。クールベ、仙厓、白隠のように「長い瞑想のあと一気に、そして熟達した技量で描く日本の禅僧の一部については、速描きも受け容れます」(82頁)。しかし、マティスは絵画の伝統技術を破壊し、透明絵の具の使用も廃した。これは模写をしてわかった。師のモローが「マティス、きみは絵画を単純化している」(83頁)といったのは正しい。

 

p.110 ブルトンは嫌な奴だった

ブルトンは興味を引く人物で、頭は良かったが感じは悪かった。子どもじみたところがなにか警察官、人民裁判の裁判長みたいだった。

 

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緑と赤の少女(1944)

 

p.111 ルソーの原文はフランス語ではない

バタイユの娘のひとり、ロランスはバルテュスのモデルだった。母親はとても美しい女優でジャック・ラカンと再婚。バルテュスはロランスの学校の宿題を手伝った。「あるとき、ルソーにならって散歩者の夢想を書くのが宿題で、かわいそうなロランスはひどい点をもらってきた。ルソーの本物の文章を完全に写して提出したのです。先生の評は「これはフランス語ではありません」でした」。ルソーの『孤独なる散歩者の夢想』。

 

p.112 無意識の根本には言葉がある

コスタンティーニがラカンの逸話を紹介。ローマの講演会で聴衆の誰かが「「ラカン先生、先生はすべての原点、無意識の根本には言葉があると主張されています。しかし、そのことを聖ヨハネがすでに言っているのではないでしょうか?」するとラカンは五分間「聖ヨハネ、聖ヨハネ、聖ヨハネ……」と繰り返し続けました」。『ヨハネ福音書』第一章の「初めに言ありき」のこと。

 

p.157~158 バルテュスは下手?

イタリアの古美術の専門家フェデリコ・ゼーリはイタリアの週刊誌『レスプッソ』のインタビューで、バルテュスは「B級シリーズの画家」で、頭のいいやり方で始めたが、その後はマンネリに陥ったと批評(157頁)。バルテュスの絵画は下手で、「貧者のピエロ・デッラ・フランチェスカ」だ(158頁)。

 

p.159 芸術家の伝記的知識は無意味

ゼーリについて

「芸術家のすべて、誕生年月日、結婚や死亡の日付、伝記のもっともつまらないディティールを知っている人びとに関心はない。こういったことはいずれも、芸術とは、あるいは芸術作品の理解とはなんの関係もありません。美術評論家、あるいは美術史家は、美学的基準にしたがって判断しなければならない。美術作品は、その作者の伝記上の浮き沈みとは独立して、作品それ自体によって判断されます」(159頁)

と述べる。

 

p.170~171 フランシス・ベーコンは友人
ベーコン、レナート・グットゥーゾとローマのレストランで食事をした。愉快な夜だった。グットゥーゾはタブローのことをよろこんで話したが、ベーコンはバルテュス同様、それを拒否した(170~171頁)。バルテュスは芸術家という言葉が嫌いで、むしろ自分は画家、あるいはよりよくよく言えば職人だと言った。絵筆と絵の具という絵画に特有のマティエールを使って仕事をする人間。ベーコンもピカソも芸術家という言い方を嫌っていた。*6

*1:マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』、関口浩訳、平凡社、2002年、78頁。

*2:所見)これは、けっきょくバルテュスの言明が詩的な〈虚構〉であることを意味している(ハイデガーの文章が「学術論文ではなく詩だ」と言われたのに等しい)。アリストテレスは、その『詩学』において、事実としての〈歴史〉が偶有的なものであるのに対し、虚構としての〈詩〉は理念的で必然的なものであると指摘している。このように考えると、事実において完全に展開しえなかった理念が、虚構においてよりもっともらしく、十全に語らしめられるということはありそうなことである。真に語ろうとするところを語ろうとすれば、現実の出来事を語るだけでは不十分である。これが科学的命題とは異なる「芸術の命題」における真理問題である。このことは、すでに『バルテュス』の剳記で取り上げたので、参照されたい。

*3:参考)遠近法とともに西洋が経験したある種の〈断絶〉について、ユベール・ダミッシュは「芸術の領域において、ブルネッレスキは断絶を成し遂げた人物であるように思われる。それも単に(…)透視図法の実験、証明に関してだけでなく、(…)空間の幾何学化、すなわち建築空間をユークリッド幾何学の空間と同じものと見なすことを中世の経験主義に置き換えた」と述べている(『雲の理論 絵画史への試論』松岡新一郎訳、法政大学出版局、2008年)。ここから西洋において絵画が果たしてきた〈機能〉が大きく転換してゆくことになる。この絵画の〈網膜化〉というべき事態については、デュシャンも苦言を呈している。古い時代、絵画はもっと別の機能を持っていた。宗教的でも哲学的でも道徳的でもありえた。抽象主義者のやってきたことは網膜に浸かっていて最悪としかいえない、と(マルセル・デュシャン、ピエール・カバンヌ『デュシャンの世界』岩佐鉄男小林康夫訳、朝日出版社、1978年、84頁)。また、「私は、絵画は表現手段であって目的ではないと思います。他の多くのなかの一つの表現手段であって、人生を満たすべき目的ではありません。色彩も同じです。それは表現手段の一つであって、絵画の目的ではありません。言い換えれば、絵画はもっぱら視覚的あるいは網膜的であるべきではないんです。絵画は灰色の物質〔筆者註・脳のこと〕、われわれの理解衝動にもかかわるべきなんです」(デュシャン「対談 マルセル・デュシャンとジェームズ・ジョンソン・スウィニー」(デュシャンマルセル・デュシャン全著作』所収、ミシェル・サヌイエ編、北山研二訳、未知谷、1995年)、278頁)とも言っている。バルテュスが現実の対象の奥に隠された聖なる本質を描き出そうとしたことは、網膜を越えた精神的な行為であったかもしれないけれど、デュシャンはよりダイレクトに観念そのもの(コンセプト)を芸術の本体として捉えていた。これは美術が悟性や理性ともかかわりをもつべきだという主張に等しい。反対に、バルテュスの場合は、精神の深奥に到達するには、言語や理論を経由しない、感覚におけるある直接性が重要視されたのであろうけれど、これは19世紀以来、まず音楽の分野で先鞭がつけられた、理性崇拝に対する反動としての自律美学の考え方に属するものであろう。悟性や理性に頼らず、神的精神に触れる、音楽におけるロゴスの脱落をヴァッケンローダーは〈冒涜的無垢〉と呼んだ。世紀末の芸術的潮流は、ロマン主義とオカルティズムのリヴァイバルという雰囲気が濃厚であったから、カンディンスキーが自らの作品を音楽に例えたのも頷けるところである。抽象美術が悟性的な内容を放棄し、標題を喪失してゆく背景には、文学の間接性に対し、視覚の直接性によって精神的なものに到達しようという目論見があったように考えられるのだけれど、視覚理論や色彩理論の実験としか思われない流儀もあったので、バルテュスの反感を買うことになったようである。

*4:なお、参考までに、クールベに対する評価は、デュシャンバルテュスでは正反対であった。

*5:参考)「私は自分の友だちの間では、詩人の詩句にしたがって、あの花に変身したナルキッソスこそ、絵画の発明者であったというのである。絵画がすべての芸術の花であるとすれば、ナルキッソスの物語こそ、そっくりそのまま、これにあてはまるのである。絵画を、泉の水面に映ったものと同様に、芸術的なものでないとどうしていうことが出来ようか」(アルベルティ『絵画論』第二巻)(レオン・バッティスタ・アルベルティ『絵画論』、三輪福松訳、中央公論美術出版、1992 年、33頁)。

*6:それを言うと、デュシャンも同じクチだった。おそらく、バルテュスからすると相容れない相手であろうけれど、変に似通ったところがあった。