南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

坂本龍一先生を哭す

前頭側頭自閉軒全集抄①

坂本龍一先生を哭す


昨晩遅く、坂本龍一先生が亡くなられたとの報に接した。
言っておくが、坂本氏は私の先生じゃねえ。仇名が、
——教授。
であったから、ちょっと敬って呼んでみたまでだ。
ちなみに、私も学生時代、某国立大の医学部で、
——教授。
と、呼ばれていた。
「え、本当に教授なんですか」
それにしては若すぎるというんで、
「じゃ、講師ですか」
と、聞いてくる者がいた。まったく阿呆である。
で、医学部から広がって、何となくそのまま仇名として定着したが、ともあれ、しばし教授になりすましていたわけである。もっとも、北欧某国の王族になりすましたこともあり、例によって医学生と一緒に名鉄電車に乗り込んで、グラサンをかけて、英語で婦女子に話しかけるというハレンチな所業に及んだこともあったが、さすがに恥じて、即刻やめた。

さて、坂本龍一を初めて知ったのは、YMOではなくて、1992年のバルセロナオリンピックの開会式ではなかったかと思う。高校一年のときで、曲の方はナンも覚えていないが、スペインで開催される五輪で、ナンで日本人がオケ振ッてンだろうと、いくぶん誇らしく感じたものだが、要するに、ただの右翼だ。別にどこの国の人であろうと、考えてみれば赤の他人だ。何人でもいいじゃねェか。

さて、その次に衝撃を受けたのが、1993年の『題名のない音楽会』で聴いた、映画『ラストエンペラー』のメインテーマだった。朝の九時からやってた番組で、早速、その足でレコード屋に行って、サントラを買ってきた。どこのレコード屋だったのか、ほとんど覚えがない。下氷鉋だったような気がするが……。
当時、うちの高校の音楽系の班員(要するに部員つーことだ)は、〈ディスクアカデミー〉というレコード屋で、クラシックの名盤を調達していたらしい。私も一度行ったことがある。懐かしがって探してみたが、どこなのかわからない。誰か教えろ。

で、買ってみてどうだったか? たぶん、テレビで聴いたような感動はなかったと思う[1]。今、YouTubeでその時の映像*1を見ると、指揮は朝比奈千足(隆の息子さんである)、坂本はピアノを弾いており、二胡は姜建華、中国古箏は姜小青で、オケは新日本フィル(ちなみに小学生のときに新日の演奏を生で聴いたことがある)である。サントラとはちょっと異なった編成だったか知れねえが、なかなかエモい。監督のベルトリッチは、
「もっと、もっと、エモーショナルに!」
と、叫んでいたと、坂本は言っている[2]。まあ、世界の大島渚には負けるけどな。
しかし、サントラではどこのオケを使ったのか、わりとそういうところが気になっていけないが、書いてない。映画音楽ッてのは、譜面で納品する場合と、音源そのものをマルっとパッケージで納品するのとがあるから、改めてCDを作るために録ったのでないのであれば、クレジットされないのかも知れない。ちなみに『タイタニック』はロン響を使ってた。
坂本龍一が亡くなったと聞いて、早速に私は『ラストエンペラー』のサントラを聴いてみた。思った通り、特に何も感じない。みんながイイという『energy flow』も、私は大ッ嫌いである。もう、アリナミンのCMで消費されつくされた感があるな、アレは。

2000年くらいのことだったか、モヤシって友達から、坂本の『ウラBTTB』ッてのとか、菅野よう子とかの曲が送られてきて、
こういうの作って?
と、頼まれた。
作れるわけねーだろ、バカヤロウ。
で、私が好きなのは、『戦場のメリークリスマス』だ。あれは静かだねえ。サビだけ聴いてりゃ飽きねえよ。ウッカリするとミニマルだね。『ラストエンペラー』のいくつかの曲も、あやうくミニマルになるところだった。俺もサビしか作りたくないからさ、わかるんだよ、ああいうの。マイケル・ナイマンの『ピアノレッスン』みたいなさ。アレは一九九二年だが、聴いたのは九五年くらいだったと思う。影響を受けまくって、似たようなのを作って失敗した[3]。つーか、似てねえよ、全然。テカ、俺が影響を受けたのは、坂本龍一じゃなくてマイケル・ナイマンだったのかよ? だとしたら、コリャいってェ何についての文章なんだよ……。
で、あとは普通に『The Other Side of Love』はよかったね。何かのドラマの主題歌で、早速に耳でコピって似たようなのを作った。イヤ、ぜんぜん似てねえけど、気に入ったんだろうね。
で、アレを歌ってた娘の美雨が、小室哲哉の大ファンで、あんまりに好きなもんだから、親父の機嫌を損ねたとかいう話もある。しかし、坂本龍一小室哲哉って仲良かったんじゃなかったか? 対談でパッドの音の話で盛り上がってなかったか、この人たち? 昔、インストゥルメンタルで共演してたが、まだ音がチャチな時代の産物だ。俺は聴かねえ。

にしても、坂本龍一の後釜はもう小室氏しかいねェと思うが、いかんせん、90年代に売れすぎちまッた。だが、売れなくなった後がスゲエ。『INSIDE feat.MARC』ッてのはイイ。スマホにイヤホン差し込んで聴いてみな。音圧がすごいね。
「ミョミョーン」
とか、
「ボーン」
とか、わけわかんねえよ、音が。マークもなに言ってるかわかんねェしさ、歌詞カードないしヨ。いきなりケー子をサンプリングしたっぽい声が割り込んでくる。曲ってより音になってる。ついにその境地まできたッてわけよ。
この年になると、そういうのだけが妙に頭に入ってくる。CDでクラシックとか聴いても入ってこねえ。オケは現場で聴くしかねェな。それも、アンサンブルが均質なのはダメだ。そこンとこは、素人のバラバラなヘッタクソなやつを聴いた方がイイ。でも、弦楽ナン重奏は聴くな。こればっかりは、ピッチが狂ってるとしょうがねェからな。金管入れてブワァーってやるやつにしときな。ま、タンホイザーだな。

しかし、坂本龍一ってのはチャンとした音楽を書く人だった。そこへいくと、小室哲哉のいくつかの曲はおかしい。たぶん、本人もわかっててやってるンだろうが、おかしい。理由は知らない。
高3のときだから、1994年ッてことになるが、あるとき、音楽の先生が、
「最近のジャリどもの音楽ときたら、和声の進行がメチャクチャで非道(ひど)いモンだよ」
と、言った。
コチトラ、音楽の授業なんざ選択してねェのに、なぜか音先(「音楽の先生」の謂である。決して軽んじて言っているわけだてはない)の世話ンなってて、勝手に音研に出入りしてピアノを弾いてたわけだ。X JAPANの『Tears』とかだな。勝手にイ短調にして、さらに編曲してだよ、著作人格権とか同一性保持権とか無視してガン弾きよ。さすがに音先に、
「主のいない部屋に勝手に出入りするのはよくないよ」
と、たしなめられた。
しょうがねェから、隣の音楽室のグランドピアノで、延々とインプロヴィゼーションをやりまくった。音楽の選択授業をしにやってきた下級生が、ノーリアクションで座ったまま黙って聴いてたよ。
馬鹿だねえ、この人
と、思ってたと思うよ、ホント。
で、コチトラも何事もなかったかのように蓋を閉めて立ち去るわけだ。ヤベエよ、絶対おかしいよ、コイツ。
ところで、そのピアノ、もしかしたら葉子先輩がドイツのナントカ市(ハンブルクじゃねえかな)の市制ウン周年記念の式典曲を書いた時に副賞でもらって母校に寄付したとかいうソレなんじゃないかって、今さらながらに思うんだが、真相はわからない。あと、校長室でプレイエル[4]を弾いた件とかイロイロあるが、またにする。ドラムも勝手に叩いて怒られた。今じゃスタインウェイセミコンサートグランドも寄贈されたから、俺がいたら危なかったな。スタインウェイ好きだからね。1350万くらいするんじゃないの、アレ?

で、音先が言ってたジャリどものおかしな音楽って、アレ、小室哲哉だと思うんだよ。もちろん、彼もチャンとした人だから、そりゃ私よりは音楽もチャンとしてる。『マドモアゼル・モーツァルト』のミュージカルなんてチャンと書いてるよ。しかし、プロデュース業に手を染め始めた90年代前半の曲を聴くと、
「なんで、こうしたのかなあ」
と、たまに頭がグラッとくる。
そもそも、小室哲哉が多用する6451コード(いわゆる〈小室コード〉)が、メジャーキーの楽曲なのに、平行調マイナーのⅠ度から入ってみたり、それが長調カデンツみたいなのにくっついたり、メロディが長調くさいのに和声がマイナーっぽくて浮遊してるとか、ポピュラー和声ではよくても藝大和声とかではアウトな進行だということもあるのかも知れないが、ソリャ、どンだけクラシック耳なんだよという話で、そこまでうるさく言われたら、もうポップスなんて何も作れやしねェ[5]
もっとも、ジャズやってる女子なンかは、
「音先はクラシック耳」
と、言ってたくれえで、当の音先も、
「わたしゃコード記号なんて知らないよ」
と、言ってたから、ポップス和声に暗かったのは確かだ。ま、確かに昔の『音楽通論』にはコードなんて載ってなかった。今のは載ってるから見てみな。
しかし、音先から昔使ってた『音楽通論』を借りたとき、自由対位法のページに勝手に書き込みをしちまッた俺って奴は、トンでもねえ阿呆だな。音先は何も咎めずに、新品の『音楽通論』を一冊くれたよ。偉い人だよ。別に音大受験なんてしないのにね。

しかし、話は戻るが、音先が言ってたのはインチキなポップス和声のことじゃないような気がするんだよ。やっぱ、小室サンの曲のいくつかは、明らかにおかしいというか、ひねるにしてもこなれないところがあったと思うんだよ。今じゃ絶対にそんなことはしないと思うけどね。まあ、俺も人のことは言えねえよ。とある曲の終止で、バスにトニックの三音を配置して専門家に怒られたよ。和声法では絶対にアウトなやつだ。ソリャわかってるよ、だけど、いろいろ試した結果、それが一番よかったんだからしょーがねーだろ、バロチキショォ。バッハの時代にも変な配置の和声があるが、時代時代で禁則の考え方もチョット違ったわけだ。覚えといたほうがいいぜ。

高校の話ついでに書いとく。
高2、高3のときの担任は、
——三輪サン。
と、いった。
この人の学級通信のタイトルを
——元気の星。
といい、最終号は48号であった。発行日は1995年の3月7日だ。
「卒業、おめでとう」
と書いてあるから、卒業式の日だろうか。だとすると、少しおかしい。俺は卒業式なんざ出ちゃいねえ。図書館の前から在校生に混じって、卒業生に手ェ振ってたよ。絶対おかしいだろ、コイツ。ヤベエよ。
だが、そのへんの謎は一生かかっても解けそうにないから、措いとく。
で、この学級通信の最終号の見出しが、
——散開にあたって。
で、あった。なかなかサッパリしたイイ文だから、載せとく。

さて、二組も、今日をもって、ひとまずの区切りを迎える。解散とは言わず、散開と呼ぼう。このことばは、YMO(イエローマジックオーケストラ)が、グループとしての活動に区切りをつけた時に使ったことば。散開星団ということばは知らなくても、その実例がプレアデス星団、つまりすばるはよく知っているでしょう。YMOは散開したけれど、坂本龍一をはじめ3人のメンバーは、それぞれの強烈な個性で、それぞれの場で輝いている。卒業して全国に散開した皆は、それぞれの意志と力で、それぞれの場所で、もと二組の元気の星として、輝いてほしい。


そう、三輪先生は坂本龍一の大ファンだったのである。
しかしまあ、先生の目には巣立ちゆく若者はスバルのように輝いて見えたかも知らんが、今の体たらくを見たら泣くよ、もう。しかし、わかるよ、その気持ち。教え子ってのは、かわいいモンだよ。大人はみんな失っちまった何かを、若者に託すものなんだよ。

しかし、三輪先生も坂本龍一が逝っちまッたことをどう思ってるんだろう。今にして思えば、先月三十日に朝刊に出た小池都知事宛の神宮外苑再開発に反対する書簡ってのは、坂本サンの絶筆だったッてことになる。

樹々を犠牲にすべきではない。


ッて書いてあったよ。
木、かわいそうだからね。ま、むずかしいよ。
こうも書いてある。

音楽制作も難しいほど気力・体力とも減衰しています。残念ながら手紙を送る以上の発信や行動は難しい。[6]


しかし、考えてみれば、そのときはもう、坂本サンはこの世にはいなかった。なんとなくそんな気がしたよ。彼が旅立ったのは、たしか二十八日のことだ。

坂本龍一は、映画音楽の巨匠でもあった。
これに匹敵する劇伴の作曲家ということになると、なかなかむずかしい。彼のあの雰囲気はチョット独特だからね。独自性というだけなら、佐藤直紀もイイね。シンセだか弦だかわからんが、すげえリバーブのかかった荘厳な音は印象に残ったよ。『永遠の0』とか『青天を衝け』、『教場』のアレだな。複数同時リズムとかも面白いね。『るろ剣』は『龍馬伝』の焼き直しだと思ったが、自作の焼き直しや再利用なんてバッハの時代は常識だったからね。ワーグナーだって似たようなモンだよ。
菅野祐悟は『マチネの終わりに』がよかった。CDで聴くと、ちょっと内声とバスの響きが干渉してるような気もするが、好きだよ。マジメな音楽も書いてるが、そっちは聴いたことがない。交響曲とかだな。この人もウマイよ。
で、たぶん、多くの人は久石譲を挙げるだろうと思うね。実はさっき話に出た音先、久石サンの同郷で(つまりは天領の中野だ)、それがほとんど唯一の自慢という人だった。音研にもトトロのぬいぐるみとかがいたような記憶があるよ。まあ、世界の久石だからね。音先も有名人の知り合いがいて鼻が高かったんだと思う。
私もイロイロ将来を期待されて、何も習っちゃいないのに、高級ご飯をゴチになったり、古楽の音源をダビングしてもらったりと[7]、ずいぶん世話になったが、なンの恩返しもしてねえ。バチあたりな生徒だよ。だけど、すげえ感謝はしてるんだよ? イイ先生だよ。

有名人ッていや、高校ンとき、シモヤンて同級生がいて、京大を裏切って渡米した男だが、帰国の際、なぜか百万遍の本屋で買ったという『ローエングリン』の総譜を私に送ってきて、*2
「僕にも有名人の知り合いが一人くらい欲しい」
と、言う。
ローエングリン』を勉強して大作曲家になれって意味なのか何なのか、そこんとこはイマイチわからねえが、とにかく、励ましてくれた。ニューヨークのドーバー・パブリケイションズが一九八二年に出したフルスコアで、原版はブライトコプフ・ウント・ヘルテルがライプツィヒで刊行した1887年の〈新版〉(Neue Ausgabe)と呼ばれるシリーズだ。むしろ現代では〈旧版〉といわれるやつで、歴史あるオーケストラでは、今でもこの19世紀のスコアを使っているところがある。
ブライトコプフ社は現存する最古の楽譜出版社で、一時期、ピアノも作った。リストやワーグナーも使ったらしい。リストはけっこう気に入ってたらしい。『ローエングリン』の初演を振ったのはリストだ。当のワーグナーは五月蜂起に失敗して全国指名手配中、もうテロリスト扱いである。スイスに逃げていたが、初演見たさにドイツに密入国しようとしてリストに止められた。
ブライトコプフ版は1852年のワーグナー自筆譜にもとづいているが、『ローエングリン』の初稿が成ったのは1848年のことだから、この版は「グラール語り」などを削除した改訂版ということになる。
ま、シモヤンには悪りィが、俺は有名人にはなれそうにねえ。ただ、この話には続きがあって、このシモヤン、もう一人、別の音楽家を励ましていたらしい。高校ン時の同学年で、シモヤンと同じクラスにササヤンてのがいた。このササヤン、三歳の時からクラシックピアノを弾かされていて、親父さんは音先の大学の後輩で、うちの弟が高校で音楽を教わったチュージ先生と言った。音先と同じ大学でも、チュージ先生は〈特別音楽〉ッて学科だったらしく、音先曰く、レベルが違うらしいね。
で、そのササヤン、ウィキペディアにも載ってることだから書いちまうが、埼玉大学に進んでオケに入った。クラシックは嫌いとか言いながら[8]、オケだよ。彼は高校ンときはテクノをやっていて、
——ササバンズ
ッてバンドで市内のライブハウスにも出没してた。
で、あるとき、コンピュータで音楽をやるにはどうすりゃいいんだと思って、当時、班員でもないのに居候していたSF研と文芸班の合同班室までササヤンにご足労願って、話を聞いたんだよ。で、MIDIキーボードかなんかでササヤンが弾いた『展覧会の絵』のプロムナードの出だしのところをテープに録音してもらって、サンプルとしてもらったわけだ。[9]
で、当時の俺ときたら、奥ちゃんバンド奥ちゃんて奴からYAMAHAの
——QY8。
ッて、たしか五音のシーケンサで、エレクトーンと同じAWM音源、サンプリングした41音色が使えるという、当時としたらスゲエ機械を借りて、けっこう激しい曲を作ってた。それはそれでほとんど完成していたが、ササヤンに耳コピで作り直してくれッて頼んだら、
「うーん、かなり複雑な曲だから、むずかしいなあ。ぜひ、MIDIを買うことをお勧めしますよ」
と、言う。ま、QY8はほとんど他機と互換性がないから、無理もない。
で、大学に入ると、今度はモヤシって友達からFM音源とPSGを使えるソフトを入れてもらって、ファミコンみたいなピコピコ音でユーロビートを作った。人に言わせると、
石野卓球くらい、すぐなれるんじゃないの?」
というくらいのものだったらしいが、石野氏も軽く見られたモンだよ。ま、適当な話だね。電グルをナメたらイカンぜよ。
で、かなりそのピコピコ音を極めたっていうか、芸術だね、あの音って。昔のファミコン、最高だよ。
で、モヤシがなんかソフトを入れ替えたせいで、データが全部飛んぢまッた。あらかたテープに録音してあったから、それをダビングしてササヤンに送ったわけよ。
耳コピで採譜たのむ」
ッて、どんだけだよ、コイツわ。ヤベエだろ。
さすがに返事はなかったね。ササヤンもいい人だから、どう返事していいか困ったんだと思うよ。彼は彼で将来の進路に悩んでいたらしい。音楽の仕事に就くか、普通のサラリーマンになるか、迷ってたらしい。
で、ササヤンが言うには、
「シモヤンさんの励ましがあったおかげで、僕は音楽の道に進む決心がついた」
と、ずいぶんと感謝してたッていう。当のシモヤンは、
「俺、なに言ったか覚えてないよ」
ともかく、ササヤンは有名になった。嵐の曲なンかたくさん編曲してるね。とにかくジャニーズの仕事が多いね。あとは乃木坂と欅坂と、なんでか徳永ゆうき、なかなかイイじゃねえか、チョイスがさ。

話は久石氏に戻るが、5年かそこら前、フリースタイルスキーの日本チャンプだった角皆さんの集まりで、むかし東京藝大で助手かなンかしてた川北先生という人にお会いした。音楽じゃなくて美術のほうの先生だが、話が音楽論になると、
「僕は久石譲のコンサートが来るなら、何を差し置いても聴きたい」
と、言っていた。
角皆さんは、ベートーヴェン批評を書くほどの音楽通だったが、
「ひ、ひ、久石……ナニさん? 誰ですか
と、キョトンとされていた。ジブリの曲とか、CMとか……まア、いろいろあると思うんだけど、私は黙っといた。その他の人もあまり知らない様子であった。
久石譲ってそんなモンかー)
と、思った。イヤ、有名でしょ、久石譲だよ? 
信州ローカルじゃないでしょ?
ところで、高校ンときの一つ上の先輩の親父は、某国立大学の音楽教授だったが、同じ信州人でも久石氏には批判的な意見をもっていた。理由は措いとく。世の中、いろんな考え方があるんだろうよ。
彼はまぎれもなく名作曲家だ。けど、チョイと日本人の琴線に触れすぎる。「琴線」ッて言い方は、アンマリ好きじゃねえからな。

そんなことを思い出しながら、もう一度、『ラストエンペラー』を聴いてみた。
イイ曲だと思ったね。
朝にはつまんねえと思ったのが、夕べには面白れぇって、不思議だよ。
イイ曲だよ。もっと聴いていたくなる。
俺も坂本龍一みてェな音楽をしてみたかったよ。

 

                             〈2023年4月3日・一部敬称略〉

 

[1] 四庫全書・千明文庫編纂会編『四庫全書』第八巻(1998)所収『僕という人の音楽史』なる文章の中で、このサントラについて私は「シンプルながらも堂々とした曲が多い」と述べていた。同巻一所収『思ひ出といふこと』(1998)なる文章の中では『題名のない音楽会』を「「ちっぽけコンサート」(?)みたいなネエミングの番組」と呼び、「黛さんの音楽番組な…しぶいわ…。しぶいわ、ホンマ。アレ見て僕、坂本龍一の『ラストエンペラー』のサントラ買うたんやで?」と書いている。

[2] 大場正明ラストエンペラーサウンドトラック、ライナーノーツ(1988)より、坂本龍一の言葉。なお、私が買ったのは93年盤。ライナーノーツは同一。

[3] 『FF NEWS芸術対論』Vol.1(1997)の第5章『思考の大衆化』なる丸山真との対談の中で、グリーナウェイの映画にナイマンの楽曲が使われたことに絡めて「『ピアノレッスン』のサントラのメイン・テーマがよかった。スコットランド民謡をベースにしてる曲。東芝EMIから出てたかな。ナイマン、怒ったらしいね。音楽だけアカデミー取れなくて」「昔、車のCMに使われてたし。映画もBSで見たし」と発言している(27頁)。

[4] 高校のときは「プレヱル」と呼んでいた。後年、『長野高校八十年史』(1980)を再読するに、「(明治32年の春)外人教師より世界的に価値の高いフランス製ピアノ「プレイエル」を二百円で購入した」とある(68頁)。このことについては別に書く。

[5] このことは、Fスタイル主催『哲学講座』第2回『哲学とは何か 人類思想の特異点としての哲学』(2022年2月9日、オンライン)で話した。

[6]信濃毎日新聞』朝刊、2023年3月30日付。

[7] 『自閉軒日録』1994年9月13日条に「音先に会う」とある。「バッハ『ブランデンブルク協奏曲』の古楽レコードが手に入ったので、テストが終わったら聴きにおいで」と音先に誘われたと別の史料にあるが、出典は失念した。『日録』によると、9月15日に模試、十九日に前期第二回定期考査が実施され、22日に古楽盤を借りたとある。

[8] ササヤンの親友ヤノさんとの対談をまとめた『ニュースをリバースする男』によると、反骨精神でクラシック嫌いを標榜していたらしい。しかし、当時のササヤンは音楽教師の道を歩んでいたとある。教育学部に進学したことをいうのであろう(前掲『FF NEWS芸術対論』Vol.1、38~39頁)。

[9] 「高校のとき、彼とあやしいユニット・プロジェクトが出たときに、MIDI対応キーボードでどんな音が出るかサンプルとるために、彼にピアノとハープシ[ハープシコード]とオルガンの音で弾いてらったけど、ハープシコードではバッハのインベンションを弾いてきてね。ピアノでは『展覧会の絵』。プロムナードね」(前掲『FF NEWS芸術対論』Vol.1、39頁)。

*1:この動画はすでに削除された

*2:自閉軒メール(平家ウーウン斎宛、2003年1月15日付)に「さて、先日シモヤンからいきなり荷物が届き、(略)ローエングリンの総譜でした。ぜひ後学の資とすべしということで大変貴重なものが手に入りました。今までに第三幕前奏曲のスコアはしばしば読んで研究材料にしましたが、芸術的価値の高い第一幕前奏曲なども入っているフルスコアは手にしたことがありませんでした」と見えたり。自閉軒とシモヤンは2003年1月2日に会っている。