南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

悪党と海賊(網野善彦)

悪党と海賊

網野善彦「悪党と海賊」(『悪党と海賊――中世日本の社会と政治』所収)、法政大学出版局、1995年

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【服部 洋介・撰】

 

所蔵館

市立長野図書館

 

関連項目

『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍隊』(西股総生)

『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』(藤木久志)

 

※なお、私の読んだのは、上に貼り付けたヤツとはチョット違うけれど、内容は同じだろう。 カバーもナンもついてないヤツである。

 

剳記『悪党と海賊』を読んでみた

 

1. 非農業的世界に注目した網野先生

 本書は、中世のチョット変わった人たち、非定住民や遊行する漂白民などに熱視線を注ぎ続けてきた網野善彦大先生の、わりあいよく知られた一篇で、悪党・海賊の研究を通じて、農本主義的な近世に定着した「日本社会=農業社会」というイメージに挑戦しようとするチョイと野心的なマトメ論文である。論文集『悪党と海賊』の終章として収められた短編だから、興味のある奴は読んでみな。甥っ子の中沢新一氏なんて人は、網野のオジさんから、こんな話ばっか聞かされてきたトカって、どっかで言って気がするが、なるほど、無理もない。

2. 金融経済の発達と神仏の権威

 さて、前に『戦国の軍隊』(西股総生)の剳記を載せたけれど、『雑兵たちの戦場』藤木久志)がその後日譚だとすれば、『悪党と海賊』は、 『戦国の軍隊』の前段にくる話だと言っていい。『雑兵たちの戦場』の頃には、石高制というのが定着しつつあったけれど、それまでに採用されていた貫高制というのは、まさに悪党が活躍した鎌倉時代以降にあらわれてくるもので、これってのも、ゼニの普及が社会に大きな影響を与えたことと関係してるワケだ。ここでは宋銭ってことだね。

 さて、貨幣経済が浸透するのと同時に、役所の徴税令書とか、「コレコレの物品を納めろ」なんて命令書が手形のように使われて、紙切れ一枚で取引をしようなンてアブねえことが盛んになって、まあ、ウッカリすりゃァこれも不良債権になっちまうわけだけど、そういう金融業で利を得ようとすれば、信用の保証ってことも大事だが、イザとなったら実力行使で資産を差し押さえたり、交易路の安全を維持するというようなことも必要だった。所領にへばりついている農民や御家人にはチョットできないことだったから、諸国に広範なネットワークをもっている、非農耕民がこれに大きな力を発揮したというのが、この時代の金融・経済の全体像なんだが、じゃァ、どういう人たちがこれを得意にしたのかというと、多少のムリでも、神仏の権威でこれを正当化できる宗教勢力、それを末端で担っていたのが神人・悪僧・山伏その他だったッてワケだ。逆に言えば、神仏の権威もなしにンなことをしたら、「ナニ勝手なことしてくれてンだ、エエッ?」っテナことになった。いや、もちろん、宗教勢力にしたって、やりすぎれば王朝や幕府から統制を受けた。

 さて、そんなわけで、寺社ときたら、公権力とは別に、神仏の権威をたのんで、しまいには裁判なんかも自前でやっちまッた。よくわかんねェから神判で裁いちまえってことで、この伝統は長く残って、『甲陽軍鑑』や『信長公記』にも大名が神明裁判を行なっていたことが見える。統一権力なんてのがない時代は、自力救済の代行で、こうしたことが権威者のもとで行われていたのだろう。近世に入っても、山伏なんかも身分法で私刑を許されていたが、〈石子詰め〉なンてのは有名である。花札の猪鹿蝶のもとになった話だな。

3. 悪党・海賊から商人へ

 そんな形で近世にも多少の名残はあるけれど、中世にあっては、神仏の権威において金融・商業が正当化されていたというのは、重要な指摘であるといってよい。逆にいうと、そうでなければただのインチキということにもなるのだろう。この連中への借金で首が回らなくなり、御家人が窮乏したから、徳政令なんてのが出され、北条氏による統制も強まったから、それで商売してる連中が一斉蜂起、これがこの時代の悪党・海賊問題だったというワケである。後醍醐天皇はそれを巧みに糾合して鎌倉幕府を打倒、南朝がしばし存続できたのも、この連中の支持があったからだということになる。

 しかし、いくら神仏の権威といっても、あんまりインチキな商売をやられても困るから、どうにかしてこれを公権力の下に取り込もうと、後醍醐天皇は考えた。これは北条氏も同様だったようだが、強圧的な統制が反撥を招いて自滅した。そうこうしているうちに足利時代になり、後醍醐天皇の政策を参考にして、幕府も金融業の活用ということを考えた。次第に悪党・海賊というものも、秩序の中で活動するようになったらしく、商人道のようなものが確立されてくるけれど、けっきょくは自力の社会であったから、江戸時代の商人のような単なる町人ではなかった。そのあたりは、『戦国の軍隊』の剳記をお読みいただきたい。まァ、当時は、農業系の武士もいれば、商業系の武士もいたわけで、海賊衆なンてのは後者の代表格だった。非武士系の商人にしても、カネで牢人を雇って武装なンてことをやったし、悪僧ってのは僧兵だった。農民にしても自検断を遂行できる程度の武力はもっていただろう。

4. ゼニと〈悪〉

 さて、時代は下って信長のころ、奴に言わせれば、延暦寺を焼き払って悪僧を退治したってことだろうが、この〈悪僧〉の〈悪〉とは何ぞや、という話が、本書の終盤に出てくる。これは荒々しく統御しがたい力を積極的にいい表した言葉で、滅法強かった「悪源太」なんてのは、そのもともとの用例だというわけである。中世にあっては、殺生をなりわいとする人や、ゼニの力で金融を営む人たちも、この〈悪〉の系譜に連なっており、こうした人たちがムラの農民に対して、都市民として、あるいは、山海の民として、農業以外の仕事に従事していたわけである。

 ところで、山で狩猟をして暮らしていた人たちということについていえば、本書では触れられない話だけれど、鹿食免なんか出して殺生を赦免してきた諏訪社なンてのはチョット気になるアレだね。もっとも、諏訪社の御狩というのは、仏教思想で狩猟を儀礼的に正当化したものであって、一般の狩猟は抑制され、狩猟民の農耕定住化が促進されたとものと見る向きもある。けれど、殺生はアカンということで、鷹狩が禁止されたときも、お諏訪さんの免許があればイイってンで、御家人こぞって各地に諏訪社を勧請した。そこで諏訪神人というのがいて、諸国に免許を配ったというわけだ。場合によっては、日吉社祇園の神人のように、悪党につらなる者もあったかもしれないが、よくわからない。諏訪社の神人については、別の本で書かれていたように思うから、網野先生の全集を紐解かれるがよろしかろう。確か14巻かそこらではなかったかと思う。なお、鎌倉時代諏訪氏は北条得宗の身内人だったから、幕府滅亡まで従って主だったのはみんな死んだが、のちに「敵の敵は味方」の理屈で南朝に与して、宗良親王を推戴してしつこく抵抗したから、ある意味で〈悪党〉だった。そう考えると、甲州征伐で信長めが諏訪社を焼き討ちにしたのも、中世から続く〈悪〉の系譜に対する鬱憤晴らしだったのかも知れない。もっとも、この信長、自分は石清水八幡宮に戦勝祈願をしていたもんだから、どうも武田領に入っても八幡社は焼かなかったらしい。そんなような形跡があるね。その意味では、〈悪〉とは大名の一円支配に逆らう勢力であったり、天下人の威令に従わない、寺社・町といった〈公界〉をあらわす概念のような感じもしてくるね。

 さて、もう一方の〈悪〉は都市にいた。今でこそ都市民なンていえばチョットしたセレブみたいな響きもあるけれど、日本が農耕社会としての基礎を固めつつあった鎌倉時代を経て、南北朝時代に入ると、「農耕をしない」ということに否定的な意味合いが付け加わってくる。「悪」というのも、否定的な意味で使われるようになってくると、要するに、土地もない、耕作もしない、なんかよくわかんない人たちっていう意味にもなってくるわけで、ゼニで利を得る都市の悪人もいたが、ゼニも土地もないってことになると、あとは差別である。「悪人正機」の「悪人」てのは、こうしたモロモロってことだ。都市機能の拡大と、商業の発展の一方で、南北朝あたりを境に農耕定住民のプレゼンスが高まって、非定住民や非農耕民を差別する社会構造が次第に形成されていったものと考えられているけれど、その行き着く先が、〈悪〉を徹底的に弾圧した織豊政権と、農本主義の国家体制を確立した江戸幕府だったというワケだ。もっとも、江戸中期になると、スッカリ商人にやられて〈悪〉の前に武士は屈服させられることになる。このへんは『雑兵たちの戦場』の剳記を参照されたい。この時代になると、もう悪党なンてのはいなくなり、商人は平和と秩序の内部の中で合法的に活動し、それで莫大な利益をあげていたわけだが、合法的だからといっても、それで何もかもがうまくいくかといえば、そうでもない。合法な経済活動が社会に迷惑をかけることもある。結果は、百姓一揆と打ちこわしである。

5. 悪の末裔としての金融経済

 この〈悪〉の文脈で一向一揆をとらえる研究があるのは面白いことで、時宗真宗日蓮宗が、広く悪党や都市民に受け入れられていく理由というものが本書の終わりに述べられているけれど、これも中世的な自力の最後の抵抗のようなもので、戦国大名の一円支配の終極に現れた信長権力によって叡山も一向一揆も壊滅させられ、つづく秀吉の惣無事令によって一切の私戦は停止、このようにして中世は終わった。同時に、寺社の権威も低落して、幕府寺社奉行の管下に入った。とはいえ、庶民の信仰でかなり儲けていたらしいから、まとまった資産を形成したところもあったのであろう。また、中世以来、商工民の座を管していた一部の公家には、引き続きナニかしらのカネが入ってきたと見え、ナント、江戸の札差商人が御家人に融資する際、出資して金主となっていたのは、こうした寺や公家だったらしいことがわかっている。まァ、これはまったくの後日譚ではあるけれど、今ではまったくアタリマエになってしまった金融経済が、当時としては神仏の権威と信用によってどうにか通用していたというのは面白い話で、なるほど、マネー経済というのも一つの信仰のようなものなのであろう。借金ジャブジャブのわが国の借用証書である日本銀行券が、エライことにならないよう願うばかりである。あなかしこ、あなかしこ。

                       〈『南山剳記』、2020年6月30日〉

 

本文『悪党と海賊』
(初出/『大谷学報』第73巻第2号、1994年1月)

 

p.361~362 研究史

13世紀後半から14世紀にかけて、社会・政治の中で大きな問題となった悪党・海賊については戦前から研究があるが、中世史研究者には避けて通れない重要な課題とされてきた。石母田正はこれを「頽廃」と見、松本新八郎は「革新的」という評価を与えた。戦後の研究の展開の中で、悪党と四一半打、天狗、時宗とのつながり、流通路支配、銭貨との関わりの中で悪党の動きの特質が研究されるようになり、新井孝重『中世悪党の研究』のように、悪党を山伏、漂白民、手工業生産者などとの関連でとらえるものもあらわれた。しかし、まだ新たな悪党についての理解が打ち出されたとはいい難い。しかし、「百姓」を頭から農民と思いこみ、そこから日本を農業社会と決めつけてきた見方から決別し、海賊まで視野に入れて悪党の問題を考え直すことによって、80年代以降の新たな研究の方向をさらに発展させることができると思われる。それとともに、この時期、悪党、悪僧、悪人などの「悪」がとくに問題にされたのはなぜかについても考え直したい。

p.362 水運が交通体系の基軸となる

(…)これまで、先述したような「百姓=農民」という思いこみのためもあって、荘園公領制の確立するまでの社会は、ときに「自給自足経済」といわれるほどに農業的な色彩の強い社会とされ、流通・交通が問題されても、せいぜい京都、畿内中心のそれに限られていたといってよかろう。
 しかし、塩や魚介、そして鉄製品の交易が古く遡ることは間違いないところであり、とくに受領による貢納物の請負体制が軌道に乗る十世紀以後、その調達に関わる交易が、京都とその周辺のみならず、各地域で活発だったことは、すでに明らかにされている通りである。またそのころは河海の交通が交通体系の基軸となり、瀬戸内海、日本海、太平洋、東シナ海を通じての船による物資の輸送がさかんに行われたのも、間違いないことと思われる。そしてその中で、貢納物の納入に伴う金融――出挙もまた、広くみられるようになってきた。(362頁)

 

p.363 諸国神人の金融活動

こうした10世紀後半から11世紀にかけの徴税制度については、大石直正、勝山清次、大津透らの研究で明快にされてきたが、

 

(…)それらの研究を継承しつつ、佐藤泰弘は「十一世紀日本の国家財政・徴税と商業」*1で、諸司・諸家・諸国の発給する切下文、返抄、仮納返抄、国下文、国府等の指摘する徴税令書ないし請取が、為替手形、信用手形の機能を果たしており、それが流通業者、問丸、商人、そして国家によって保証されていたと指摘し、とくにそこで蔵の機能が重要であった点に着目している。(363頁)

 

これは非常に重要な提起だが、さらにそこに神人・悪僧が借上・出挙を通じて深く関わっていたことも、借上の初見史料として安部猛、戸田芳実らの注目している保延2年(1136)9月の明法博士勘文案(『壬生家文書』)によって明らか。

 

ここでは日吉大津神人による日吉上分米の借上、出挙が問題となっているが、それを借りた人々の中に能登守、三河守、讃岐守、美作守、越中国庁官、大膳進、内匠助が見え、その際、庁宣、返抄、請文が質物、証文とされている点に注目しなくてはならない。日吉神人はこのように、手形の機能を持つ庁宣、請文等を集め、それによって取立を行なっていたのであるが、その活動範囲は九州、瀬戸内海から北陸に及んでおり、神人の広域的な組織がこうした上分米の出挙、金融活動の背景にあったことは明らかといってよかろう。(363頁)

 

13世紀にかけて日吉大津神人は北陸道諸国神人といわれる広域的な組織を定着させていき、佐藤の指摘した手形の流通、商業・金融等の活動は、荘園公領制の形成期には、こうした海上交通等を基盤に広い地域にわたって組織された神人等のネットワークによって保証されていたと考えることができる。保元元年(1156)の新制が、諸社神人、諸寺諸山の悪僧、諸国寺社の神人・講衆等の濫行をいましめ、治承2年(1178)の新制はさらに「遊手浮食の輩」の殺生、出挙の利の一倍を上回ることを禁ずるとともに、諸社神人、諸寺悪僧が京中を横行し、訴訟を決断し、諸国で田地を侵奪することを厳禁、延暦寺興福寺の悪僧、熊野山先達・日吉神人らを名指しで抑制。

 

p.364 神仏の権威を背景とした金融・交易活動

 

 笠松宏至が『日本中世法史論』で鮮やかに指摘しているように、公権力の行う裁判とは全く違った場で、沙汰を請け取って決断し、神仏の権威を背景に沙汰を寄せた者の自力救済を代行する行為を実力で行い、負累を乱責し、運上物を点定する神人・山臥・悪僧(山僧)等の行動は、寛喜三年(一二三一)の新制によっても知られるように、荘園、屋舎、在家、行路の別なく展開され、それは公権力の側からすれば、まさしく緑林・白波―山賊・海賊そのものにほかならなかった。しかし神人・山臥・悪僧の立場に立てば、これは当然の金融、交易活動の実現、執行にほかならず、流通・交易を保証するその広域的な組織の正当な機能の発現だったのである。(364頁)

 

公権力―王朝は、たびたび新制を発して、この組織の度を外れた動きを抑制する一方、神人にて委員の枠を定めるなどして、神人・供御人制というべき制度を軌道に乗せることにつとめ、雑訴を興行して、神仏の権威を背景とした神人・悪僧―商人・金融業者の独自な動きを抑えようとした。結果、この制度は13世紀前半までにともあれ確立するが、それも束の間、宋銭の大量流出による銭貨の社会への浸透は、13世紀後半になると本格化、それとともに商人・金融業者などの動きも新たな展開を見せはじめる。悪党・海賊の問題はまさしくその中に起こってきた。

 

p.364~365 貫高制の登場、神人・山僧の経済活動が御家人を動揺させる

この時期に貨幣が浸透し、その「魔力」が人々の心を捉えることになったのは一応認められているが、「農本主義」的な史観に強く影響され、それが社会の根本である田畠―農業をとらえるまでにいたっていない表層的な動きにとどまっていることが、強調されてきたきらいがある。しかし、早くから明らかにされているように、このころになると、先述した原初的な手形の流通を背景として、商人・金融業者たちのネットワークに保証された為替手形が活発に流通、送金の手段としてふつうに用いられていた。また一方、鎌倉幕府御家人の公事は銭高で表示され、やがて所領自体が貫高で示されるようになりつつあり、貨幣の社会への浸透は従来、考えられていたよりもはるかに深刻なものだったと見なくてはならない。こうした状況の中で、山僧・神人・山臥などの金融・商業活動がさらに発展し、海・山の領主というべき武装勢力、さらには「遊手浮食の輩」といわれた博奕をこととする集団、「非人」、犬神人などとも結びつき、王朝はもとより、鎌倉幕府の統制をこえて、その基盤である地頭、御家人を大きく動揺させるにいたった。13世紀中葉、幕府が四一反打―博打を厳しく停止するとともに、神人の寄沙汰を制止し、山僧を地頭代、預所とするのを禁止して、山賊・海賊を抑制したのは、こうした動きに対応した処置。

 

p.365~366 実力で交通路を保った悪党、「ぼろぼろ」と悪党

しかし、『一遍聖絵』の詞書に、13世紀の後半、一遍に帰依した美濃・尾張の悪党たちが札を立て、一遍の布教・遊行に対する妨げを禁止した結果、3年間、一遍は山賊・海賊の妨害を受けることなく平和に伝道できたとあるように、悪党たちは交通路の平和・安全を自らの実力で保ち得るほどの組織となっていた。

 

この『聖絵』の詞書は、甚目寺での施行の場に続いているが、その場面にあらわれる尾張国萱津宿の「徳人」が、黒田目出男の「ぼろぼろ」と推定したような*2、女性を従えた異形な人物だった点について注意すべきで、この「徳人」が悪党と重なる蓋然性は大きい。実際、周知の『峯相記』の記述にもあるように、海や山の交通路を中心に、海賊、寄取、強盗、山賊などともいわれた悪党は、柿帷に六方笠を着し、鳥烏帽子・袴を着けず、人に顔を見せない「異類異形」の姿をしていたのであり、非人、山臥にも通ずる衣装で、博奕を好むこうした人々こそが、さきの商業・金融・流通のネットワークの末端にあってその機能を実力で保証していたと考えられる。(365頁)

 

(…)そこにはなお呪術的な、人の世界をこえたものの力を背景としている一面があり、交通路の安全を保証するためにこうした人々が収め取った関料は、神仏に対する上分の名目で正当化されていた。
実際、十三世紀後半以降、勧進上人によって寺社修造等の名目で、幕府・天皇に公認されて津・泊に設定された関も、やはり上分を名目にしており、状況によっては悪党・海賊ともいわれたこれらの人々に支えられて関料徴取が実現していたのである。正和四年(一三一五)十一月、兵庫関所において守護使と合戦した山僧を中心とする悪党の実態はこのことをよく物語っており、摂津・山城にわたる広域的な地域に根拠を持ち、巨倉池、淀川から大阪湾一帯に分布する悪党・海賊のネットワークにより、関は維持されていたと考えなくてはならない。そして、「籠置悪党交名注進状案」の交名に、「悪党関所」とあるのを「悪党」自身の立てた関と考えるならば、そこに「得万女」という女性の姿が見える点にも注意すべきで、想像をめぐらせば、この人を含む交名に現れる女性たちは、女商人、あるいは遊女の世界にもつながる人であったかも知れない。*3(366頁)

 

参考南北朝時代に書かれた播磨の地誌「峯相記」には、当時の悪党たちについての記述がある。「所々の乱妨、浦々の海賊、寄取、強盗、山賊、追落などやすむことのないありさまで、その異類異形のありさまといったら、およそ人間の姿とも思えない。柿色の帷子に女物の六方笠をつけ、烏帽子、袴をつけることはしない。持ち物といったら、不揃の竹矢籠を負い、柄、鞘の剥げた太刀を佩き、竹ナカヱ、サイハウ杖程度で、鎧、腹巻ほどの兵具などはまったくない。こうした輩が十人二十人あるいは城にこもり寄手に加わり、かといえば敵を引き入れ裏切りを専らにする始末で、約束などはものともしない」(新井孝重「悪党の世紀」)。

p.366~367 悪党の蜂起

このように、海・山の領主、それらと重なる廻船人、商人、金融業者、倉庫業者などの独自のネットワークによって、流通・交通が支配されるということに対して、鎌倉幕府は、その主導権を掌握するために全力を挙げなくてはならなかった。文永から弘安にかけての悪党禁圧令、西国新関停止令、沽酒禁令等は、農本主義的な基調に立つ徳政の興行を通じて、こうしたネットワークを押さえこもうとする幕府の懸命な努力だったが、それを推進した安達泰盛霜月騒動で倒れてからは、むしろこのネットワークの一部を取り込みもその中に自らの力を扶植するために悪党・海賊の禁圧を強行する得宗専制的な路線が主導的になる。しかし、これが悪党・海賊―海上勢力との全面的な激突を呼び起こす。14世紀の初頭に西海・熊野浦の海賊が蜂起して、鎌倉幕府は、承久の乱以来となる15ヵ国の軍兵を動員してこれを鎮圧した。14世紀に入って最高潮に達した東北北部・北海道南部の「蝦夷」を含む悪党の蜂起も同様の性格をもつと考えられ、アイヌの北東アジア交易とも関連し、日本海交易とも結びついた北の海の領主、海民たちのネットワークと深く結びついていたのではないか。

p.367 悪党の戦法と出立ち

熊野海賊の蜂起を境として、北条氏は西国の海上警固を強化(元応の海上警固)、海の領主の組織をとりこみ、列島買いに及ぶ海の交通・交易の押さえこみに全力をあげるが、『峯相記』にあるように、悪党・海賊の活動は「先年ニ超過シテ、天下ノ耳目ヲ驚カス」といわれるほどになっていた。但馬・丹波因幡伯耆にいたる広範なネットワークを持つ播磨の悪党は、飛礫・撮棒を用いた戦法を駆使し、「山ゴシ」*4と呼ばれる事前の賄賂をとり、後日に報酬をとる契約を結んで、「沙汰」を請け取り、実力で所々を押領し、海・山の交通路を押さえた。その姿も金銀をちりばめた鎧・腹巻をつけた「ばさら」で、50騎・100騎という大きな軍勢にまでなるにいたっていた。

 

p.367 後醍醐天皇は悪党を動員した

後醍醐天皇は、北条氏の強圧に反撥する商人・金融業者・廻船人のネットワーク、悪党・海賊を組織することに、少なくとも一時期は成功し、北条氏を打倒した。実際、悪党・海賊の中に供御人・神人がいたことは間違いないが、後醍醐はこれを武力として動員しただけでなく、そのネットワークを掌握すべく、神人公事停止令、洛中酒鑪役賦課令、関所停止令を発し、政権の基盤をまさしく商業・流通に置こうとした。建武政府の中枢である内裏に商人や「非人」と見られる人々が出入したのは、こう考えれば当然のことであり、後醍醐の紙幣発行の試みも、手形の流通という実態に応じたものと見ることができる。また「新御倉」を設定し、地頭の所領の所出二十分の一を「新御倉公事用途」として賦課したのも、土倉を公方御倉とした室町幕府の政策の先取りと考えてよかろう。(367頁)


p.367~368 海賊はやがて海上商人の独自の組織として秩序化する

後醍醐の政権が短期間で崩壊したのちも、南朝がしばらくは海賊―海の領主の支持をえて存続したのは、このような背景があったのであるが、十四世紀後半以降は、もはや悪党・海賊のネットワークを統制する求心的な公権力の力は失われ、それとともに「悪党」という言葉自体、社会問題に関わる語としては用いられなくなり、「海賊」はむしろ積極的なプラス価値を含む言葉になってゆく。それはこのネットワークが商人や「船道者」とよばれた廻船人たちの独自の組織となり、「商人道の故実」「廻船の大法」などを持つ自立的な秩序として確立されてゆく過程でもあったが、いまはそれに立ち入る暇はない。(367~368頁)

 

p.368~369 「悪」とは何か

平安後期の「悪」は、粗野で荒々しく、人の力ではたやすく統御し難い行為と結びついて、悪源太、悪左府などはそこに積極的な意味を与えた用例。漁撈・狩猟などの殺生、濫妨、殺人につながる行為、さらに人の石で左右できない博打・双六、「穢」も「悪」としてとらえられた。商業・金融によって利を得る行為も「悪」で、「悪僧」はその用例。とはいえ、それは行為を神仏と結びつけることで正当化され得たので、こうした生業に携わる人が、神仏に直属する神人・寄人となり、王朝が神人・供御人制を軌道にのせることができたのはそのため。しかし、13世紀以降の社会の大きな転換の中で、このような力と結びつきつつ、貨幣の魔力は社会をとらえ、「悪」と結びついた荒々しい力を社会の表面に噴出させた。政治・宗教はひれと直面しなくてはならなくなった。宗教も「悪」に直面して大きく二つの流れに分かれた。


p.369 悪を肯定する宗教の登場

(…)悪人こそが往生しうるとする「悪人正機」を説いた親鸞、信・不信、浄・不浄、善人・悪人を問わず、すべての人が阿弥陀の本願で救われるとした一遍は、「悪」の世界に積極的な肯定を与え、商工業者、さらに非人、博打、遊女を含む女性にまで、支持者を広く広げていった。
 これに対し、親鸞に対する弾圧、一遍の行動についての『天狗草紙』『野守鏡』の激しい非難に見られるように、非人・河原者や女性を「穢」と結びついた「悪」として徹底的に排除しようとする、主として大寺社側の動きも、一方に顕著に現われてくる。律宗禅宗は北条氏の権力と密着しつつ、商業、貿易、金融、建設事業等に自ら勧進上人として積極的に動き、非人に対する救済に力をつくしつつも、むしろ大寺社の中にそれを積極的に位置づける方向に進み、日蓮は逆にこうした律宗禅宗と結びついた権力と戦闘的に対決することで新たな道をひらこうとしたのである。(369頁)

 

p.369~370 「悪」と結びついた一向一揆の弾圧と、商業蔑視の近世社会

 十三世紀後半から十四世紀にかけて、いわば徹底した一元論に立つ時宗が、新たに形成されてきた都市および都市的な場に広くその教線をひろげてゆくが、十五世紀以降、非人・河原者、遊女、博打に対する社会の差別が次第に定着しはじめ、都市自体の光と影が明確になってくると、これに代わって真宗日蓮宗が都市民の間に大きな力を持つようになってゆく。
 もはやそれに立ち入る力は私にはないが、少なくとも「百姓=農民」という思いこみから、これまで農民と国人の一揆と考えられてきた一向一揆が、すでに井上鋭夫・藤木久志が指摘しているように、むしろ都市民に幅広く支えられていたことは確実である。そして、織豊政権によってそれが徹底的に弾圧され、キリスト教江戸幕府によって完全に抑圧された結果、建前の上で「農本主義」を掲げた近世の国家権力の下で、〈悪〉はきびしい差別の中に置かれ、商人・金融業者も低い社会的地位に甘んずるようになってゆくが、これもまた今後の課題として残さなくてはならない。(369~370頁)

*1:〔原注12〕『新しい歴史学のために』209号、1993年。(372頁)

*2:〔原注24〕「ぼろぼろ」(暮露)の画像と「一遍聖絵」『月刊百科』346号、347号、1991年。

*3:〔原注30〕「悪党関所」を立てたのは得万女のほかに、入道五郎、大蔵丞が見えるが、ここにあげられた十四名のうち、得万女、犬女、きぬや、姫鶴女、若菊女の五名が女性と推測される。この中に商人・金融業者のいたことはまず間違いなかろうが、遊女との関わりも、決して荒唐無稽な憶測とのみはいい難い。(373頁)

*4:〔原注34〕なぜこれを「山ゴシ」というのか、考えてみる必要がある。『日本国語大辞典』(小学館)によると、盗人仲間の隠語で、「垣根・壁などを乗り越えて忍び込むこと」、あるいは「強姦」を「山越」といったといわれるが、恐らくこうした意味の源流はこの「山ゴシ」であろう。(373頁)