南山剳記

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蘭渓道隆の渡日をめぐる人脈――「東アジアのなかの建長寺」序説(村井 章介)

蘭渓道隆の渡日をめぐる人脈――「東アジアのなかの建長寺」序説

村井章介蘭渓道隆の渡日をめぐる人脈――「東アジアのなかの建長寺」序説」(村井章介編『東アジアのなかの建長寺――宗教・政治・文化が交叉する禅の聖地』所収)、勉誠出版、2014年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

ここ十年ほど、豊かになった中国の人にあっては、古き良き自国の精神文化を見直そうという気運が高まって、失われたかつての中国のおもかげを求めて、奈良・京都、あるいは鎌倉へ訪れる人も多いと聞く。かの国では、俗に「漢・唐は日本にあり、宋・明は朝鮮にあり、民国は台湾にあり」などと言うが、本書は、蘭渓道隆(大覚禅師)を開山とする鎌倉の建長寺について書かれたものであるから、日本と南宋の話である。

ところで私は、今から30年以上前、その蘭渓道隆が開いたという長野県岡谷市の久保寺というところで参禅したものであるが、この寺は讒言によって鎌倉を追われた彼が、甲信を教化した際に開かれたものと思われ、もとは南箕輪村にあり、廃寺同然となっていたものを大正時代に移したものである。なお、久保寺が開かれた建治3年(1277)、禅師は赦されて鎌倉へ戻ったようである。なお、甲斐に配流されていたため、甲府にも禅師が再興したと伝わる東光寺があって、庭園は禅師の設計と伝わる。信玄が妙心寺派(関山宗)に帰依していたため、甲府五山ことごとく妙心寺派となった。快川国師恵林寺同様、甲州征伐で織田勢に焼き払われたとの由であるが、信玄も美濃攻めの際、快川の師で妙心寺の長老もつとめた希菴玄密を殺させたといい、罰当たりなことだと『甲陽軍鑑』にも書かれた。なお、甲府五山の選外ではあるけれど、塩山に向嶽寺という寺があって、ここには蘭渓が賛を書いた達磨図(国宝)が伝わっている。

ところで本書は、『東アジアのなかの建長寺――宗教・政治・文化が交叉する禅の聖地』の序説であって、道元をはじめ、信州上田の安楽寺の住持であった塩田和尚なる人物を含む大覚禅師の日本人脈について概説するものであるけれど、もう一人、ここでは日蓮について触れてみたい。無論、日蓮は蘭渓の渡日にかかわる人物ではないけれど、当時の建長寺のことをよく知っていた一人と見え、蘭渓を指して「建長寺道隆」と呼んで、痛烈な批判を加えている。日蓮もまた、甲斐南部氏の庇護を受けて身延山に拠ったが、ちょうどの頃、蘭渓死して霊骨となるという風聞があって、日蓮はそのことについて書簡のなかで書いている。「但し道隆が事は見ぬ事にて候へば如何様に候やらん。但し弘通するところの説法は共に本権教より起りて候しを、今は教外別伝と申して物にくるひて我と外道の法と云うか。其の上建長寺は現に眼前に見へて候。日本国の山寺の敵とも謂いつべき様なれども、事を御威によせぬれば皆人恐れて云わず。是は今生を重くして後生は軽くする故なり。されば現身に彼の寺の故に亡国すべき事当りぬ。日蓮は度度知つて日本国の道俗の科を申せば、是は今生の禍、後生の福なり。但し道隆の振舞は日本国の道俗知りて候へども、上を畏れてこそ尊み申せ、又内心は皆うとみて候らん」(『弥源太入道殿御消息』「建長寺道隆事」)。さらに、建長寺は所領を取り上げられて没落した連中のたまり場だと痛罵するのであるが、建長寺についての見聞も記している無住は、その『沙石集』のなかで、頭陀をする禅徒のうちに「非人」「乞食法師」と呼ばれ蔑まれた者があったことを記しているから(「建仁寺門徒の中ニ臨終目出事」)、あるいは没落した人たちがいたということがあったのかも知れぬ。

日蓮がこのように書くのは、鎌倉における法難の黒幕が蘭渓であったという見方に出るものでもあろうけれど、一方で建長寺からすれば、日蓮の助命に動いて建長寺にかくまったのは蘭渓だということであって、どちらを真とすべきか、正直はかりかねるものである。いずれにしても、日蓮からすれば念仏堕地獄、禅天魔であるから、折り合える相手ではなかったのであろう。参考までに記す。

 

所蔵館

県立長野図書館

 

 

東アジアのなかの建長寺 宗教・政治・文化が交叉する禅の聖地

東アジアのなかの建長寺 宗教・政治・文化が交叉する禅の聖地

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 勉誠出版
  • 発売日: 2014/11/12
  • メディア: 単行本
 

 
p.3 蘭渓道隆と無学祖元

蘭渓道隆、無学祖元は中国から渡日して法脈をもたらした者の代表格。蘭渓は、日本が禅宗布教に有望な地と聞いて1246年に博多へ。京都政権と対峙するために天台・真言に変わる権威づけを求めた時頼によって建長寺の開山に招かれる。文永の役でスパイの嫌疑をかけられて甲斐に追われ、在日33年にして建長寺に示寂。蘭渓はみずからすすんで来日したので、日本語能力に優れ、若い僧に中国への眼を開かせた。無学は幕府に丁寧に統治者としての自覚を説いた。この系統から夢窓疎石が出て、政治に参与したのは、無学にルーツがある。

 

p.7 塩田和尚との交流

蘭渓と同船で帰国した渡海僧に「塩田和尚」「塩田長老」と蘭渓が呼ぶ人がいて、建長寺住山後に蘭渓は「建長と塩田(安楽寺)と、各一刹に拠り、或いは百余衆、或いは五十衆、皆是れ聚頭して、仏法を学び禅道を学ばんと要(ほっ)す」(『大覚禅師語録』巻四「塩田和尚至引座普説」)と回想。この人は信州安楽寺開山の樵谷惟僊(しょうこくいせん)ではないかと言われるが、疑問もある。

 

p.11~12 道元との交流

無学らと違い、蘭渓は自らの意志で渡日した。蘭渓は天童山で覚妙房から道元の法語と偈頌を見せられたとき、「捧読過三、恍(こう)として面晤(めんご)するが如し、路は滄溟を隔つと雖も、大光明蔵中了(つい)に間隔無し」という気もちになった。日本でも道元に会いたがっていた。道元は蘭渓の書簡について「欣感惶恐、宛かも是れ寒谷の温至なり」と喜んだ。

 

p.14 蘭渓の書

円爾蘭渓道隆尺牘」の写真。

 

p.16~17 日本禅宗界への恨み

塩田和尚への書簡が残っている。北条氏が讒言を信じて蘭渓を排斥しようとしたので「空を望んで誓ひを発し、念念、只深山窮谷に於て一片の田をひらき〔撰者註。「ひらく」は余の下に田。活字なし〕、死を待たんと欲する而已」という苦境にあった。「此の国の人、水土浅薄にして久長の意無く、逓相妬☐〔撰者註。この字、ゴンベンに「疾」の字)〕し、無実を以て相伝へ、人をして風波を止(や)まざらしむ」「今時是非を闘合し、虚語を妄造すること、扶桑の人より出づるもの無し、大地を以て紙と作すも、亦書き尽くすこと能はず」と、日本禅宗界への恨みが吐き出される。文応元年(1260)7月21日付「前塩田方丈」宛書簡(「大覚禅師語録掌故」所収)。

 

p.17 塩田和尚と善光寺

建治三年(1277)11月の書簡では、「善光寺上品花鉢」等を贈られたことを塩田和尚に謝している。