南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

リング(鈴木 光司)

リング

鈴木光司『リング』、角川書店、1991年(文庫版=1993年)

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【服部 洋介・撰】

 

概要

言わずと知れたジャパニーズ・ホラーの代表格、どちらかといえば映画でご存知『リング』の原作本。内容はわかりきっているので、今回は『リング』を引き合いにして記号論的な考察を行なった小論を下記に掲出する。内容は『貞子講義』(『ブランチング18』所収、クマサ計画、2016年)と大略ひとしいが、貞子にあまり関わらない議論は省いた。

 

リング (角川ホラー文庫)

リング (角川ホラー文庫)

 

 

貞子と実体化する記号の恐怖 
服部 洋介

 

1.  貞子が世に出た頃の話

 若い頃、フジテレビで『リング 〜事故か! 変死か! 4つの命を奪う少女の怨念〜』(1995)という、とてつもなくベタなタイトルのドラマを見た。当時、世間はまだ貞子のサの字も知らず、貞子の話をしても誰も理解してくれず、さみしい思いをしたものだ。大して話題にもならなかったものらしい。
 その3年後、『女優霊』の中田秀夫監督がメガホンを取った映画『リング』(1988)が公開され、主演の松嶋菜々子と、テレビからヌルッと出てくるあの女優さんのおかげで大ヒット、今度は津々浦々まで貞子の名が知れ渡ったのであった。わりあいとすぐにビデオ化された記憶があり、当時、『呪いのビデオ』なる黒いレンタルビデオが店頭に置かれていたりと、ブームになったものだ(内容は貞子が井戸から出てくる例のシーンだけを収録したものだった。それだけのモノでレンタル料を取られたかどうかは定かでない)。

 さて、友人と一緒にビデオを鑑賞する段になって、私は知ったかぶって「実は貞子は両性具有なんだよ。まあ、見てればわかるよ」などと、テレビドラマ版のうろ覚えの知識を語るのであったけれど、無論、そんなシーンは一切あらわれず、三浦綺音も登場せず、「夢でも見たんじゃないの」と馬鹿にされて終わった。だが、原作小説でも貞子は半陰陽という設定、知らない人が多いようなので、念のためにお断りしておく。
 さて、テレビ、映画ときて、私は最後に原作小説を読んだのだけれど、結論的には、映画が1番、テレビが2番、原作よりも映像化されたものの方がよくできているように感じられた。テレビから出てくるのは傑作だね。考えた人、すごいね。

 

2.  アートハッカソン受賞展で貞子について言及した件

 それから18年たって、ひょんなことから私は、東京で開催されたアートハッカソンの受賞展『箱のなかに入っているのはどちらか?』*1 に解説者として呼ばれることになり、展覧会のフライヤーに簡単な文章を寄せることになった。タイトルは『実体化する記号――ホラーとしてのアート』というもので、貞子を引き合いにして、ハッカソンのユニット「耳のないマウス」のホラーな作品『カタツムリ』について書いた。

 

 手の甲に眼鏡をのせて作った顔〈のようなもの〉を作って喋らせてみる。〈それ〉を見た幼児が、ひどく怯えて目を背ける様子が印象深く思い出される。〈記号〉として与えられた〈それ〉は、もはや手でもなければ眼鏡でもなく、顔でもない。人の顔を歪に真似ようとする得体の知れない顔〈のようなもの〉なのである。
 〈記号〉は、モノ自体を代替する過程において、時にその不吉な相貌を覗かせる。間主観的に〈それ〉の意味するものが何であるかの合意が成り立つ時、私たちは「それはしかじかである」という肯定命題を得る。反対に、〈記号〉自体が真にモノとして現われる時、私たちは、〈それ〉を否定をもって指し示すことしかできない。〈記号〉がモノと入れ替わる時、そこにはある種のおぞましさを伴ったマイナスの現実が立ち現れる。意味から棄却された無意味は、意味の差延再帰が生み出す亡霊なのだ。
 今展に突如として現われたこのカタツムリ〈のようなもの〉は、ロボティクスと融合することで貞子的なメカニズムを獲得したビジブルな〈記号〉である。その奇怪さは、図らずもこの作品が一個のホラーであることを物語っている。*2

 

 しかし、同時に公刊されたレビュー『〈存在〉のホラー――〈人間〉を棄却する快楽*3 には、貞子のサの字も出てこないというおかしな始末であったので、ちょうど貞子と伽椰子がアホな対決を繰り広げると聞いて(『貞子vs伽椰子』、2016年)、今度は別のアート系ペーパーに『貞子講義*4 という文章を書いた。どれだけ貞子が好きなんだ、という話で恐縮ですが、実際、貞子を通して考えるべきことはたくさんある。

 

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耳のないマウス『移動する主体』(2016年)
『箱のなかに入っているのはどちらか?』展より
『カタツムリ』のヴァリアント『移動する主体』の一部
3331 Arts Chiyoda(東京)
写真:石射和明
Ⓒ耳のないマウス

 

3.  映画版『リング』の見どころ

  まず、基本の基本だが、映画版『リング』の筋はこういうものだ。昔、貞子という人がいて、この人はとてつもない超能力者、わけあって井戸にポイされて、その中で死んでしまうわけだが、その怨念を一本のビデオテープに込めて世間様に送り込むことに成功した。その呪いのビデオを見た輩は、ビデオの指示にしたがわないと一週間以内に呪い殺されてしまうのですが……。

 

「この映像を見た者は、一週間後のこの時間に死ぬ運命にある。死にたくなければ、今から言うことを実行せよ。すなわち……」浅川はごくっとつばきを飲み込み、目を大きく見開いてテレビを見据えた。(文庫版、92頁)

 

 ところがどっこい、なんと、アホな奴が肝心な部分を消去してしまい、ビデオの指示が何なのか、サッパリわからなくなってしまうのである。

 

「(…)わかんねえじゃないか。どうしろってんだ? え? オレは何すればいいんだ?」/トイレの床に座り込み、浅川は恐怖に負けまいと大声を上げた。/「わかってくれよ。連中が消してしまったんだ。大事なところを……。オ、オレは知りようがない。勘弁してくれよぉ」(文庫版、94頁)

 

 いささかリアリティに欠けたセリフ回しで恐縮だが、そこは中田監督、原作を無視して浅川役を松嶋菜々子に置き換えて、余計なセリフはカット、あとは見る者の想像力に任せるということになった。
 さて、映画では、呪いの解除に失敗すると、いきなり自宅のテレビに件の井戸が映りこみ、そこから貞子が這い出てきて、終いには「よっこいせ」という感じで大儀そうにテレビのフレームに手をかけて、こっち側の世界にまでやってきてしまうのである。このとんでもない状況を、完全な実写ローテクで再現したところが大ウケにウケた。あのナマな感じはちょっとCGでは出ないでしょうな。

 

4.  呪いのビデオのアレゴリー的状況

  というわけで、『リング』のビデオは、貞子の思念の代理物、つまり一つの記号表現であり、その意志の主体は貞子であるとする考えから、主人公の松嶋菜々子と元旦那という設定の真田広之は、貞子を探して「呪いを解除するにはどうすればいいのか」を聞き出そうとするのだが、当の貞子はもうお亡くなりになっていて、超越的不在と化していることが判明、まさに「テクストに外部はなかった」のである(デリダ)。というわけで、実体が消滅してしまった以上、代理であるビデオだけが実体の唯一の痕跡だ。
 しかし、この代理品は意図的に劣化させられており、記号の意味は完全に外部化してしまっている。誰かが教えてくれないと言わんとするところは解読できない。まさにオーウェンスのアレゴリー論(ブルクハルトやシェリングアレゴリー論ではないことに注意)の示唆する状況が生まれてしまったのだ。
 たとえば、先行する他の作品の引用からなるアプロプリエーションは、オーウェンスによればアレゴリーである。作品の意味は外部にある。それが引用、参照だと理解できなければ、アプロはアプロだと気づいてもらえない。しかし、鑑賞者が引用に気づくかどうかは本人まかせであり、それを知らずに作品の印象だけを受け取っても、対象の全体を解釈したことにはならない。そこに一つの誤読が発生する。『リング』においても、貞子の意図を読み違えて、真田広之は呪い殺されてしまう。アレゴリー表現というものは、ある特定の状況でしか通用しない、きわめて限定的な表現の形態であり、決まり事が忘却されてしまえばそれまで、その表現が何を代理的に意味しているか、わからなくなるものなのである。

 

5.  記号から意味が欠落するとどうなるか

  このように、代理としての記号は、何かのはずみで外的な意味を喪失すると、それ自体が自立して意味のない〈かたち〉だけの世界を形作る。意味という観点から見ると、それはむしろ〈象徴〉に近い。〈象徴〉というのは絶対的な意味の呈示様式であって、記号のように「それはこういう意味の図像です」というような明瞭なキマリゴトに拘束されるものではなく、言わずもがな、図像を呈示した瞬間に意味が一体となって入ってくるような「意味のある像」なのである。しかし、そうしたものが複数的な読みを可能にする「曖昧な意味」しか呈示できないのも、一つの事実であろう。外部に規定された実定的な意味(シニフィエ)から切り離された記号表現(シニフィアン)、すなわち〈かたち〉は、非実定的で自然的な、無規定の意味をまとうことになり、結果、「よくわからない意味」の巣窟となるのである。私はこれを実定的な、つまりポジティヴな意味に対して、ネガティヴな意味とかマイナスの意味と呼ぶ。 記号としてはまったく無能力なありようである。*5

 

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耳のないマウス『箱の中に入っているのはどちらか?』展
ダイアログの様子(2016年)

オープニング・レセプションに付随して行われた作家との対話
3331 Arts Chiyoda(東京)

 

6.  意味がよくわからないのはホラー

  ただ、このネガティヴな意味というものは、それを意味と認識する人からするとそれは自明で絶対的な意味であるから、それを振り回されるとちょっと迷惑なことにもなりかねない。たとえば、権力のある上司から「そんなことは言われなくてもわかるだろう」「おまえが第一にやるべきことはなんだ」「そんなことは人として当たり前のことだろう」「言わなきゃわからんのか」などなどと叱責を受けたとしよう。こうまで表現の意味が表現の主体なりによって内部的に独占されてしまうと、他の人に外から曖昧な判断をされてもしょーがないよなって話で、「何か猛烈に言いたいことがあるのはわかりますけど、正確にはわかりません!」「ですから、わかってほしかったら、きちんと説明してくださいよ」という話になる。今日のように集団に属さなくても、どうにでも生きていける社会になると、カネで雇った強みをよいことに従業員を言いなりにさせるなどという古典的搾取構造が通用するはずもなく、無理してまで上司の絶対的な価値観に追従する必要はなくなるであろう。いずれにしても、すべてを一から十まで明瞭に説明してくれる親切な上司が畏怖されないのと同じく、貞子のビデオにしても、「このビデオの意図はこういうものです」という明確な呈示があったなら、ホラーでも何でもないものだったにちがいない。この点は重要である。上司の言っていることは私たちにとっては無意味だが、彼にとっては有意味なものである。まさにジャイアニズムの構造だが、これこそがホラーなのだ。

 

7.  シニフィアン専制

  さて、〈作者の死〉によって自立を遂げた呪いのビデオは、ますますプレゼンスを増大させ、実体にとってかわろうとする。実のところ、呪いのビデオというのは(後ほど判明するのだが)、それをコピーして他人に見せないと呪いを解除できないというシロモノで、「なんでそんなことになってんの?」と、理由を作者に問いたいのはやまやまだが、すでに死亡しているので、それはできない。残されたのはシニフィアンだけで、それがそういう仕掛けになっているんだからしょうがない。こうして記号は代補〔supplément〕化して暴走をはじめ、ダビングという模倣行為を通じて、コンテンツはミームのように広がりまくるのである。貞子があとで「あ、それ停止」と考えたとしても、ちょっと止まりそうにない勢いである。作者の意志を超えて記号が猛威を振るう事態は、シニフィアン専制などと呼ばれる。ガタリなどは「本来、意味のあるのは記号の内容なのに、資本主義的なシステムは記号を有意なものにして、その内容であるモノや人間を無意味なものにしてしまった」とかなりキレていたものだ。*6 資本主義に限ったこっちゃないが、人間てのは、いつしか人を道具みたいにして、都合のいいように記号化して操作するようになるってことである。営業成績とかを数値化して、「うーん、こいつはちょっと戦闘力が低いな、クビだな」なんて簡単にできちゃうのも、人間を数字に置き換えているからだが、それが自分の親しい身内だとしたら、PCのファイルをボタン一つでデリートするような感覚で人を消去するようなことはなかなかできないだろう。記号化の極点には、データ化、断片化というべき事態が招来され、実物の内容というのは切り詰められ、不要な部分は省略される運命にある。逆に〈象徴〉であれば、意味-価値は実物に内在するため「人間には存在するだけで意味がある。それぞれの人にそれぞれに大事なモンがあるんだ」くらいなことは言える。もっとも、それを他人がすんなりと受け入れてくれるかは別問題、人は常に他者を記号化し、実在の都合の悪い部分からは目を背けようとするものだからだ。〈象徴〉というのはどこか独りよがりなもので、上司が〈象徴〉的であるのはパワハラであろうけれど、部下が〈象徴〉的であっても、意思疎通は困難なものとなろう。しかし、本来、人間は伝達可能な意味のやり取りだけで満足できる生きものではないから、コミュニケーション万能などという妄想を抱く方がどうかしているのである。そこで、明示可能な記号のやり取りですべてを済ませる合理的なやり方が推奨されるようになるのだけれど、それで事足れりということになると、人は内実の脱落した記号世界に従属することになるのである。こうして、断片的なものが本体よりも重視される事態が、シニフィアン専制による惨禍である。

 

8.  ビデオにきちんとメッセージが残っていれば問題はなかった

  〈呪いのビデオ〉の真意は、ホラー映画の定石ということで、案の定、情報は早々に損壊され、内容のよくわからないものになってしまった。ゆえに当初の貞子のメッセージとは相違して、ビデオはダビングされることなく無駄に死人だけ増えてしまう。考えてみると、みんながダビングをくりかえしたら、これはホラーでも何でもないわけで、ビデオのせいで死人が増えることがホラーなのである。
 ホラー映画としての『リング』を見る時、貞子の真意というのは、実はホラーではないということに気づく。この映画は貞子というより、代補としてのビデオの恐怖を描いたものだったのだ。そして、終いにはテレビの中から実物の貞子が出てくるに及んで、実体と記号、オリジナルとコピーの境界は無化され、両者は混交し、汚染しあうことになる。その運動の一面のあらわれとして、端的に記号は実体化され、実体は記号化されるのである。その不穏で危険な関係こそが〈呪い〉であり〈ホラー〉なのだ。むしろ、ダビングによってもたらされる安定的な状況、つまり固定化された意味の正統的継承という(本来の意味での)アレゴリー的な状況、つまり実定的に意味の定められた記号規則のうちに〈ホラー〉はないのである。〈呪いのビデオ〉の意図が明確であったら、ちょっと考えれば、こんな呪いを打ち止めにすることは、どうとでもできてしまうからである。
 しかし、この実定的、アレゴリー的な意味がいつまで現前可能であるかは保証の限りではない。世界は常に欠如と代補の危険にさらされている。作中で、呪いのビデオは貞子の〈子〉に擬せられている。嫡出の〈意味〉が存続するためには、差異を生み出す異物としての代補、私生児的な〈意味〉は抹殺されなくてはならない。結局、〈ホラー〉というのは、その私生児性に由来するのであって、オリジナルの圏域を蝕み、拡散させ、すっからかんにしてしまう蕩尽であり、戯れやナンセンス、不毛性、そして死との親和性が高い〈象徴〉的、意味不明的な事態をあらわす言葉なのだ。『リング』の〈呪い〉は、より可視的(ビジブル)なものである。テレビの中なら「ウソモノだな」という感じだが、テレビの外にリアル貞子が這い出てくるに至っては、実在感満点である。これは私生児的な〈意味〉が発現した瞬間であり、記号が代補化した転位の一点なのだ。ダビングさえしていれば〈呪い〉は発現しない。ダビングという行為は、エコノミーな回帰を保証する供犠なのだ。

 

9.  記号の同一性はホラーによって担保されている

  ただの記号が代理から代補へと転位する時、それは暴力性を帯びることになる。国会議員はさも国民の忠実な代理のようにふるまっているが、議員は単なる大衆の代弁者ではない。頼んでないことだって必要次第でやっちゃうのである。テレビは新聞の代理品ではなく、ネットはテレビの代理品でもない。単なる便利な記号、手軽で省略された縮約版のようなものが、いつしか独自なものへと変貌した時、それは記号ではなく代補というべきものとなる。しかし、実体と記号、代補の関係は単なる二項、ないし三項の対立ではない。貞子の真意の通りビデオがダビングされるためには、〈呪い〉の存在は不可欠である。だって、ただの善意や遊びで誰があんなのダビングしてくれるんだよ。デリダの喩えだが、嫡出の子(愛される子というくらいな意味で、法律上の語ではないことに注意)でいるためには、子は常に親に似像を送り返す必要がある。親に似ていなかったり、言うこと聞かなかったりする子は「あんたなんかうちの子じゃない」とか言われていじめられる。似像を忠実に送り返す嫡出の〈意味〉は、親の恐怖の権力、つまりは〈ホラー〉によって同一化されているのである。好き勝手にやっていいって話になったら、子どもなんてもうめちゃくちゃだからね。
 親の嫡出子への愛が期待通りに満たされ、子が親の似像でありつづけるためには、愛は、愛の代補であるホラーと適度に一体のものでなくてはならない。愛とホラーは不可分の関係にあり、報酬の得られない愛は容易にホラーへの傾斜を強めるものである。似像や見返りがホラーによって強制搾取されたものならば、真の贈与関係にないことは明らかであるが、実際、完全な贈与なるものは現前せず、愛は、権力・ホラーと互いに汚染しあうことでかろうじて語りうる相補的なものとして存在しているにすぎないし、そうじゃないほうが不自然だ。しかし、ホラー(それは愛自体と不可分のものでもあるのだが)の行き過ぎで子が親という実体の単なる記号、代理となってしまったら、人生おしまいだ。それでは人の忠実な道具である機械と同じだ。そこはぜひ代補となり、実体として生きるようにおすすめしたい。なぜなら、人間、なぜか単なるマシーンには苛立ちを覚えるらしく、終いには「人間みたいな機械を作ろう」と言い出して、よせばいいのにロボットに意識や自由意志をもたせようなどと画策するからである。シェリングも「単なる記号としての実在にわれわれは魅力を感じない」的なことを言っている。*7 愛されるためには、適度にアサーティヴな代補であるほうが無難ということらしい。人の言いなりは、いじめられるもとである。

 

10.  フランケンシュタイン症候群と貞子的なマシーン

  しかし、実在が真に実在となり、〈象徴〉や代補になったら、もう以前のように、単なる代理として顎でこき使うことはできない。機械が人間にとってかわって復讐するという恐怖をフランケンシュタイン症候群というが、それは人間同士でも同じで、パワハラ上司の信長と同じ末路を辿らないためにも、実体ないし代補を扱う際には、くれぐれも愛や権力の押し付けはつつしむことだ。ただ、それでも権力と才能が勝れば、かのクソ上司スティーブ・ジョブズのように古巣に返り咲くことも可能なのだが、私は勘弁してほしいね(ジョブズもまた彼自身が〈象徴〉であり、彼の意味は彼のうちに内在していたし、内部と外部の区別がない変に神秘主義的なところがあった。現実歪曲空間という彼のあだ名はそれを示している)。
 いずれにしても、人間を相手に記号が実体化するには、何らかの権力を行使できるだけの存在感が必要である。現実を代補するVRやARの技術的進歩には確かに目覚ましいものがあるが、その一方で、AIとマニピュレーション機能を兼備したロボットは、端的に実在であり、人間が観念によって断片化できるシロモノの域を超えている。これが意志でももとうものなら、厄介な隣人がまたぞろ増えてしまうのである。いい人だといいんですけど、ホラーな人かもわからない。記号は単一の意味と結びついているうちは、意味の従属物である。人間の指示を聞くだけなら機械は記号である。外部からの意味が隠蔽された時、またそれが弱化した隙をついて、記号は代補として意味や実体にとってかわるのである。意識=精神の発生とはそういうもので、自らの圏域において自己の内部で意味を作り上げるのだ。デリダからすると、代補と実体の境界は決定不可能であり、代補は常に実体の内部で動く〈内部の内部〉である。その〈内部の内部〉を外部化するうちに、最後には実体自体が外部化し、内部には記号が残されるのである。クリステヴァのアブジェクシオンも類似の概念だといえるだろう。
 あやしげなギミックを組み込まれて貞子的に蠢く「耳のないマウス」の『カタツムリ』は、テレビから外部化を遂げた貞子と同じ、フランケンシュタイン的な危険物としての代補であり、実体的実在である。それは、人間が棄却され、外部化され、消滅する道程のささやかな第一歩なのかもしれない。人間が、自身の生存と繁栄のために実体を生産の掟のみに特化して規定し、自身と他者を記号化しようとするとき、その内部ではすでに危険で呪わしい代補が動き始めている。『カタツムリ』はそうしたことを示す一つの〈象徴〉なのだ。
 なお、実体と代補の関係を貞子以上に暴露するホラー作品として堀井拓馬の小説『なまづま』(角川書店、2011年)を挙げておこう。日本語はひどいが、内容は秀逸だ。おもろいで?

                              〔2019年9月20日

 

 なお、本稿は「貞子講義」(『ブランチング18』所収、クマサ計画、2016年)を『南山剳記』のために改稿したものである。

*1:3331 Gallery(3331 Arts Chiyoda、東京)、2016年5月19日~29日。

*2:服部『実体化する記号――ホラーとしてのアート』2016年。

*3:『存在の恐怖――人間を棄却する快楽』http://www.miminonaimausu.com/(ページ中ほどのExhibition Reviewのサムネイルからweb版をDLできます。英語/日本語)

*4:「貞子講義」(『ブランチング18』所収、クマサ計画、2016年)

*5:「象徴において、〈意味〉とは「同時に〔対象それ自体で「ある(Sein)」という意味において〕存在(Sein)であり、意味が対象の内に移行して対象と一つになっている」 のである。ここにおいて、特定の人間的尺度を事物に当てはめる実定的意味〔positive meaning〕に対し、それが「ある」ということ自体を意味とする自然的意味〔natural meaning〕の領域が開かれる。人工的な〈記号〉の領域に属する実定的意味に対し、〈記号〉の〈意味〉を一意に定めることを妨げるという反-機能において、自然的意味はマイナスの意味〔negative meaning〕といってもよいだろう。ただ「ある」ということが直接に体験されること――それが、象徴の自然的意味なのである。存在が「ある」ことの〈意味〉(直接の理由ないし価値)が判読されるのは、〈絶対者〉における絶対的主観のうちにおいて、実在の認識が透徹される場合に限られる。そこでは主観の表象こそが実在のありようを決定づけるのである。このように、ドイツ観念論は、実在を観念に従属させる観念的原理の優勢を認める哲学立場を取ったが、シェリングにおいては、これと対置される実在的原理、すなわち主観における他者性の果たす役割が重視され、実在と観念が絶対的に同一であるとする汎神論が導かれた。ヘーゲルから「すべての牛が黒くなる闇夜」と論難されたこの無差別性、絶対的同一性というコンセプトは、一方で、固有のものと非固有のもの、自己と他者、主観と客観、それらの対立と分離不可能性という、哲学における〈他者性〉というべききわめて現代的な主題をパラドクシカルに展開したものであった」(服部「第二版に寄せる序文」(『〈存在〉のホラー――〈人間〉を棄却する快楽』所収、2016年)、志賀高原ロマン美術館『内在する触感』展における「耳のないマウス」の展示資料)。

*6:フェリックス・ガタリ『人はなぜ記号に従属するのか 新たな世界の可能性を求めて』杉村昌昭訳、青土社、2014年、28~29頁。

*7:フリードリヒ・シェリングシェリング著作集3 同一哲学と芸術哲学』所収『芸術の哲学』小田部胤久・西村清和訳、燈影社、2006、275 頁。