南山剳記

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自由教育・科学教育(トマス・ヘンリー・ハクスリ)

自由教育・科学教育

ハスクリ「自由教育・科学教育」(『世界教育学名著選15(ハクスリ、ラッセル)』所収、梅根悟編、佐伯正一・栗田修・鈴木祥蔵訳、図書月販、1974年)

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【服部 洋介・撰】

 

概要

ダーウィンと親交の深かった英国の動物学者ハクスリ(Thomas Henry Huxley、1825~1895)の1893年の論文から7編を抜粋したもの。『世界教育学名著選15(ハクスリ、ラッセル)』所収。かつてデリダは「〈人文学〉はつねに、学術の世界とは無縁な、収益性が見込まれる資本投資に関係する純粋科学や応用科学の学部のための人質となる」(『条件なき大学』)*1と警鐘を鳴らしたが、今日の日本においても、人文系の諸学部は同様の危機にさらされている。ただちに実用に結びつかない学問についてどう考えるか。ハクスリの時代、英国の大学ではすでにこのことが問題になっていたらしく、古典研究において英国はドイツに比べ、ほとんど何の業績も挙げることができなくなったと嘆く。これらの問題は、こんにち科研費を獲得するための説明に労力を費やさなくてはならない理系の諸学部においても無縁のものではなく、むしろ文科省の判断に従っていては成果を挙げることができないという批判の声もある。この問題については、『姫の歴史を研究するのは無意味か*2で一考したが、学問に限らず、人類にとって何が有意味で何が無意味かなどという区分はなべて恣意的なものなので、絶対的な議論に還元することはできない。各人で考察されたい。なお、同書には『ラッセルの教育と社会体制』(1932年、英国・米国で刊行)がカップリングされているが、こちらは明治図書から出たものをそのまま入れているので、ここでは扱わない。

 

世界教育学名著選15 (ハクスリ、ラッセル)【自由教育・科学教育】【教育と社会体制】

世界教育学名著選15 (ハクスリ、ラッセル)【自由教育・科学教育】【教育と社会体制】

 

 

p.31~32 英国の大学の衰退

当時の大学教育について、リンカーン・カレジのマーク・パティスン学長がオクスフォードについて語った談話を引く。カレジというのは一般自由教育の基礎ではなく、年長の人が特殊な学問領域を深く研究するための施設で、総合大学(ユニバーシティ)はこの2つの目的を兼ねていた。カレジはたまたま基礎教育の手助けをすることはあっても、もっぱら最高の学問に捧げられていた。これが中世紀の総合大学とカレジであった。しかし歳月とともに変わってしまい、カレジは科学の研究も専門的な研究の指導もしない。20歳未満の若者の基礎教育は、今日では総合大学の唯一の機能であり、またカレジ施設のほとんど唯一の目的である。カレジは知識の中でも最も高度で深遠な部分を一生かかって研究するためのいわば過程であったが、今や学問用語(ギリシア語・ラテン語)の基礎を教える寄宿学校になってしまった、という。1850年のオクスフォードの審議委員も、オクスフォードから深い研究が出ず、科学の開拓と大学教育の指導に一生を捧げる学者の一団がないと嘆く。ハクスリ曰く

「学識ある人物は、校外より校内におけるほうが少ないこと。また知識の進歩はカレジの特別(フェロー)研究員の目的ではないこと。またその芝生の高弟の哲学的静寂とめいそう的沈黙とのなかでは、哲学は栄えず、めいそうは実を結ばないといったことを」認めざるをえない。(32頁)

 

p.32~33 ドイツの三流大学に劣る英国の古典研究

「科学や文学における現代英国の活躍ぶりを知りたいと思う外国人が、もしそのような目的でわが国の諸大学を訪れるとすれば、彼はきっと時間と苦労をただむだにするにすぎないだけである、とわたしは信じている。また、なんであれ、ある問題の深遠な研究活動についていえば、とりわけ、わが国の大学が、ほかのほとんどのいっさいをそのために犠牲にしていると公言する・あの古典の学問における研究活動についていえば、なんとドイツの三流どころの貧乏大学でさえも、わが国の大きくて富裕な大学が一〇年もかかって仕あげるよりもずっと多い生産物を、その方面において、わずか一年のあいだに作り出しているのである」(32~33頁)

学問を研究する人に尋ねれば、経済学と物理学は例外にしても、英語の本よりもドイツ語の本を5、6倍も多く読まなければならないのではないか、と言うことだろう。これらの英語の書物のうちに、カレジのフェローや総合大学の教授の著作が10冊に1冊あるだろうか。英国には確かに知的伝統を生かし続けている人たちがいるが、彼らが今日あるのは、

「彼らの生来の知性の力と・障害をものともしない性格の強さとに、よるのである。彼らは〈科学の殿堂〉の庭のなかで教育を受けるのではない。彼らはありとあらゆる不規則なやりかたで、またたいへんな時間と労力とをかけて、彼らの正当な地位をえるために、この殿堂の外壁を襲うのである」(33頁)

 

p.34~35 ドイツでは優れた人に道を譲る

「ドイツ人は、ナポレオンを古きヨーロッパの支配者たらしめたものと、まったく同じ簡単なひけつによって、知的世界を支配している。つまり彼らは、「世に出る道は能ある人に」と宣言しているのである。(…)ドイツにおいては、彼がきっと輝かしいものにする役職に彼がつく機会を、烈しい求職活動や・うぞうむぞうのいなか牧師たちの最終決定に、まかしてはおかないのである」(34~35頁)

ドイツには英国の大学にないものがある。しかし、パティスン学長のような人の改革が成功しない限り、パブリック・スクールでもオクスフォードでもケンブリッジでも、自由教育は手に入らず、狭隘な、本質的に非自由な教育しか提供できないだろう。*3

 

p.80~82 実用主義以外の教養はなぜ必要か

実用主義の観点からすると、国の工業の発展を促すという目的に、教養や純粋科学がどう関わるのか、応用科学だけで十分だと提案するかもしれない。応用科学という言葉は、純粋科学なしに実用的な科学が研究できるかのような印象を与えるのでよくない。応用科学は、純粋科学を特定の問題に応用すること以外のなにものでもない。ハクスリは、科学一本による教養より、もっと広い教養が望ましいとする理由を、「工業は手段であって、目的ではない。人間が働くのは、ただ欲しいものを得るためである」(81頁)と説明する。欲しいものは欲望によって決定されるので、工業に由来する富が無価値なものに費やされては堕落のもとになる。教育によって欲望のあらわれを変えることができるので、文学や芸術に喜びを見出すような選択をさせることができる。この種の快楽は枯れることがなく、苦々しい思い出ともならない、という。

 

p.98 美しいだけで内容空虚なほどむかつくものはない

「知恵と正義によって、国家は立派に栄えることができる。そして美は、とくに招かれなくても、この知恵と正義にきびすを接して現われる。これに反して、他人の書いたもの以外は何も知らず・みたところ道徳的信念や指針に欠け・ただ美的感覚だけは大変鋭く、表現力がよく啓培されていて、さかりのついた猫のように発するそのうるさい声が、天体の音楽とまちがえられるような人間ほど、この世のなかであわれで胸くそ悪くなるものはない、のではないだろうか」(98頁)

教育は表現力と文学における美的感覚を養うのにかかりきりで、他人の意見の寄せ集め以上のことを言うとか、神的なものと悪魔的なものとの間にけじめをつけるとか、美的な基準を持つということは省略されている。科学が教育の基礎になれば、こういった事情は一変するだろう。

*1:ジャック・デリダ『条件なき大学』、西山雄二訳、月曜社、2008年、16頁。原書はJacques DerridaL’Université sans condition, Galilée”, 2001

*2:服部『姫の歴史を研究するのは無意味か』、web、2018年。『命題論集』より。

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*3:参考)マーク・パティスン(1813~1884)は、英国の学者で、英国国教会の改革を訴えたオックスフォード運動の理論的指導者であるJ・H・ニューマンに影響を受けた。運動が破れたのち、自由主義に傾斜。著書に『ある大学人の回想録―ヴィクトリア朝オクスフォードの内側』など。