南山剳記

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ジェンダー意識の発達視点~男らしさもつくられる (高橋惠子・湯川隆子)

ジェンダー意識の発達視点~男らしさもつくられる

高橋惠子・湯川隆子「ジェンダー意識の発達視点~男らしさもつくられる」(柏木惠子・高橋惠子編『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』所収)、有斐閣、2008年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』の収められた一篇。著者の高橋惠子博士(聖心女子大学名誉教授)は、全編の編者でもある。本論は、〈男性学〉の視点から、「男らしさ」とは何かという男性自身の現実認知の問題を論じ、男性もまたジェンダーイデオロギーの被害者であることを解き明かそうとするもので、支配動機や、競争的手法によって利得を得ようという動機の低い人には共感できるものであろう。逆に言えば、積極果敢な人、能力に自信のある野心家、競争すればいくらでも利得を得られる人、サイコパス性の高い人からすると、自分のやりたいことにブレーキをかけられかねないトンデモな理論と言えなくもない(笑) 

この問題、古くはバートランド・ラッセルも論じており、ラッセルからするとナポレオンなんてのは、ヨーロッパにおける災厄そのもの以外のなにものでもなかった。ラッセルからすれば、競争社会などというのは、できる奴だけが得をするトンデモない社会ということになるのである。本論で示された視点は、ほとんどラッセルによって先取りされているけれど、彼はそれをただエッセイの中で示すにとどまり、学術的な研究に発展させることはなかった。対する〈男性学〉は、構築主義的手法によって、社会の中で「男らしさ」という人工的観念がいかに構成され、個人の現実認識に影響するのかを研究する学問分野である。

さて、本稿では、伝統的に女性が担わされてきた諸価値というものが、エリート男性において軽視されるものであったために、男権社会のジェンダーイデオロギーにおいて下位の徳として位置づけられてきたことを指摘するものであるが、このことは、早くも18世紀後半に、エドマンド・バークの『崇高と美についての我々の観念の起源の哲学的研究』において見られる価値判断で、これがカント『美と崇高にかんする観察』に継承されたことは、これらの書を読めば一目瞭然のことである。

本稿を含む『日本の男性の心理学』全体の編者の一人である東京女子大学名誉教授の柏木惠子博士は、〈女性役割〉の次元として「美と従順」を性的役割の識別因子に挙げているが、対する〈男性役割〉にかんする次元として割り当てられるのは「知性」と「行動力」であるとされる*1。青年期になると、男子は、男性が男性因子を身につけ、女子が女性因子を身につけるのが望ましいという認知パターンを受け入れるようになるが、女子は、男性が男性因子を獲得することを期待するものの、自身が女性因子を身につけることについては消極的になるというのが柏木博士の研究報告の概略である。つまり、女子は「美と従順」という役割特性を認めたがらなくなり、そのような期待に対して葛藤を抱くというのである。これは60年代後半から70年代前半にかけての研究であって、2009年に行われた追試では、だいぶ事情も変わってきており、「男子の方が伝統的性役割観を強くもっている」という傾向は見られなくなったものの、柏木氏の設定した三因子については、守秀子氏のような次のような研究報告がある。

 

「行動力」「知性」の因子では男性役割としての方が女性役割より有意に大きく望まれており(それぞれF = 26.85, p < 0.01;F = 59.53, p < 0.01)、「美と従順」の因子では女性役割としての方が男性役割より有意に大きく望まれていた(F = 59.03, p < 0.01)。やはり、男性次元と女性次元は、はっきりとその役割期待として識別されている様子がみられた。

また、男女各々の性役割意識でみられた3つの因子間の差は、男性役割においても女性役割においても有意なものであった(それぞれ F = 101.00, p < 0.01 ; F = 8.81, p < 0.01)。男性役割においては、「行動力」>「知性」>「美と従順」という順でいずれも5%水準の有意差がみられた。女性役割においては「行動力」>「美と従順」=「知性」という風に、行動力の因子だけが他の2つの因子より有意(5%水準)に大きく望まれており、女性次元より男性次元の「行動力」の方が上回る結果となった。もっとも、ここでは性別との間で交互作用がみられたため、さらに検定を加えたところ、この差は女子学生自身の評定によるところが大きいことがわかった。女子学生は女性の望ましさとして「行動力」を他の2つより有意に高く評定しており(5%水準)、これは先行研究で報告されてきた「女子は女性役割の受け入れに消極的であり、自らの役割に男性次元を望む」というものと同様の結果である。一方男子学生は、女性にとっての望ましさにおいて「行動力」と「美と従順」の間に有意な差をつけておらず、この2つより「知性」を有意に低く評定している(5%水準)。男子学生がこれまで女性に強く求めて来た「美と従順」と、あまり求めていなかった「行動力」の差はなくなったことになり、これは先行研究とは異なる様相を示すものである。*2

 

18世紀末において、社会的に重要なものとされた「崇高の徳」(男性的な望ましさ)と、社会的重要度の低い「美の徳」(女性的な望ましさ)という二分法は、そのまま現実の男性役割と女性役割として割り当てられ、後者の役割を下位に位置づけてきたのであるけれど、柏木氏の研究では、「美の徳」のうち、「美と従順」という特性を女性性の識別因子として抽出し、女性自身がこの役割について否定的であることについて、守氏は次のような見解を示された。

 

先行研究から、男性次元とされる役割には、社会的望ましさ(人間性)と一致するものが多く、高い評価が与えられていることが確かめられている(伊藤, 1978; 伊藤・秋津, 1983; 後藤・廣岡,2003 )。すなわち、男性次元とされる役割は、「男性にとって」とか「女性にとって」という以前に、「人として」望ましいとされる項目が多いのである。それに対して女性次元とされる役割には、あまり価値がおかれていない。確かに、「従順」「依存的」などが人として望ましいこととは思われないし、「容貌の美しい」「かわいい」などは、人間性というよりは外見に関わるものである。このことから、男子はすんなりと己の役割期待を受け入れるが、女子はその役割を受け入れる際に葛藤があるとされてきた。*3

 

たしかに、従順や依存ということを自己の属性として積極的に引き受けたいという人はいないであろうけれど、従順かそうでないかと問われたら、自分はどちらかといえば従順であるという人はいるであろうし、そのような生き方を是とする人もいるであろう。外見についても、その人の能力や人格とは取り換えのきかないかけがえのない要素の一つに違いないから、私はこれを軽視してはならないと思うけれど、どれだけ外見が立派でも、私に苦痛を与えるような人格の人と一緒にいたいとは思わないであろうから、すべてはメリットとデメリットの差し引きである。女性の人格が最低でも見かけがかわいけりゃそれでいいなんてのは、男権時代だからこそどうにかなったものであって、もはや男尊女卑などというタテマエを誰も信じないような世の中になったら、女性の攻撃的主張を男性側が優越的な権力で抑え込むことなどできないことは理知的に考えて明白であるから、外見のみならず人格が大事というのもうなずける。もちろん、人格の望ましさが同程度であれば、外形に優れた人を選好するのは一般的な傾向であろうから、そのこと自体が否定されるべきこととは思われない。もっとも、世間の男女がみな美しければこういう問題は起こらないであろうけれど、役割期待としての〈美〉を求められて、女性側が困惑するのも無理はない。ナンダそりゃって話である。

質問紙法で問うかぎり、人の心の機微に触れた回答を期待することはもとより無理な話で、タテマエみたいな調査に終わってしまうのは仕方のないところであるけれど、タテマエであれ、人間が社会的に振舞う際にどうあるべきかという意識というものはずいぶんと変化してきたようだ。ジェンダーイデオロギーによる男権社会というハイパーリアルは、けっきょくのところ、女性のみならず、多くの男性にも利得をもたらさないことが自覚されてきたようでもある。ただ、女性が男性的とされてきた役割を担うことにタブーがなくなった社会で、今度は女性が「男らしさ」の桎梏に苦しむことにならないか、その点はいささか気になる点でもある。男性的な〈崇高さ〉を身につけたって偉くもなんともないということは、これまでの男性社会を見れば明白である。女性が自らの特性からアブジェクトしてきた〈美〉の諸属性にも、じつは大きな価値があるのではないかという可能性についても考えてみたいものである。〈美〉とは、18世紀の哲学者に言わせれば、決して外見だけを指していうタームではないのである。それは一つの徳の体系なのである。その点で、社会的に重視されてきた男性的道徳観に対して、女性的道徳観というもう一つの価値観に着目したギリガンの研究は評価されてよいものであろう。なお、守氏は報告の末尾で、これからは男性が伝統的に女性役割とされてきたものを担う際に葛藤に直面する場面が現われるのではないかと予測されているが*4、このようなことも〈男性学〉的な課題ということができるであろう。

なお、男性がこのような支配動機にまみれた競争的な社会を造り上げてしまった背景について、進化心理学であれば実効性比の問題からくる男性間競争という構造に結論を帰着させるのであろうけれど、今のところ、仮説の域を出ないものである。この手の研究は、どこまでいっても仮説のままという気がしないでもないが、参考までに記しておく。

 

所蔵館

市立長野図書館(143ニ)

 

関連項目

柏木惠子「ジェンダー視点に立つ男性の心理学の課題~なぜ「男性の心理学」なのか」

 長谷川寿一「殺人動向から考える男性心理~進化心理学の視点」

金井篤子「職場の男性~ワーク・ライフ・バランスの実現に向けて」

 

日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

 

 
p.54~55 男らしさとジェンダーイデオロギー、男性支配のシステム

「男らしさ」とは、支配と権力に象徴される他者への「優越性」を増大させ、継続する特性だといえるであろう。すなわち、「男らしさ」とは知的優越性(学歴が高く、学業に優れ、知識が豊富、論理的で想像性が高い、指導力がある、知的専門職に携わる)、身体的、活動的優越性(体格がよく、体力があり、たくましく、運動能力に優れている、大胆で冒険好きで、闘争心がある)、経済的優越性(経済力があり、稼ぎがよく、高い職位につき、政治・経済に関心が高い)、そして精神的優越性(達成志向が強く、挑戦的、意志が強く、我慢強い、寡黙で冷静、弱みを見せない、理性的で感情に走らない)をもつことである。そして、この背景にあるのがジェンダーイデオロギーであり、それを強化するための社会制度、社会システムである。ジェンダーイデオロギーとは、男性が女性に対して優勢な立場に立つ一方、男性同士に競争を強いるものである。勝者が敗者を従わせ、支配するという仕組みを当然にする。すなわち女性を最下層に位置づけ、上層の男性間にも力による階層構造を考えるという、差別的構造と意識の総体である。(54~55頁)

 

p.55 ジェンダーイデオロギーと男性性の理想

ジェンダーイデオロギーの支配のもとでは、男性の理想的要件は他者への「優越性」を示す特徴の全部か、そのいくつかを達成すること。

 

p.64 エリート男性中心の道徳観を頂点に位置づける発達体系への反論

しっかり生きよと育てられた男性協力者のみを相手に道徳判断の研究をしたコールバーグ(Kohlberg, 1969)は、「個人の権利の優越性や正義で道徳判断をする」ことを頂点とする冷徹な道徳判断に至る一つの発達段階を示し、これを普遍的なものとし、女性はその第三段階くらいに多くの回答が集中し、道徳発達の上で未成熟な存在と報告された。弟子のギリガンは男性中心の社会で「価値が低い」という理由から女性が担ってきた道徳観に注目した。

 

p.66 男女における攻撃性の社会的意味

男女では攻撃性の社会的意味が異なっている。女性には攻撃性の表出そのものが「女らしさ」に反するとされるのに対して、男性に対しては、攻撃性が社会的に容認されるだけでなく、ある種の攻撃衝動は望ましい社会行動だと奨励される。それは攻撃性が「男らしさ」の証しである「優越性」を示すだけではなく、攻撃的であることが他者との競争に勝つための手段の一つとなりうるから、攻撃性は多様な方法で表出される。

 

p.66~67 男性は支配のために攻撃性を表出するスキルを求められる

男性においては攻撃性の表出が時に望ましいものとして求められる。乱暴な言葉づかいや命令、叱責、非難などの言語的な方法、悪口、無視、排除、威圧、脅迫、示威、わがままさ、過度の自己主張など、攻撃的な自己表現。

 

また、「野心」「闘争心」「上昇志向」「挑戦的」などといわれるような心理特性は、攻撃性が社会的に容認されるように形を変えたものだといえよう。幼い時から男性にはこのような意識された方法で攻撃性をオープンに表出するスキルをもつことが期待されるのである。(66頁)

 

しかし、社会的に容認される攻撃性と反社会的なそれとの線引きはむずかしい。しつけと体罰、軍隊という武力と暴力などと同じ。時に暴力も政治的に正当化される。エリート男性だけを調査対象としてコールバーグが見出した道徳的規範は、「権利と正義」の価値をもっぱら重視、相手を思いやったり、擁護的な観点で責任を取ろうとする「ケアの道徳」観は「男らしさ」になじまない。

 

p.67 男も「やせ我慢」を強いられている

つまり、男性は勇気を出して「男を降りる」ことをしない限り、おそらく永久に「優越性」を是とする「やせ我慢」のスパイラルから抜け出せないのである。(67頁)

 

p.68 男性問題。男性もジェンダー化され、差別されている

男性学」は「男らしさ」についての解明に学問的に取り組み、「男らしさ」が引き起こしているさまざまな心と身体の問題にメスを入れてきている。男性の個人の問題としてだけではなく、個々の男性がおかれている社会構造やそれを作り出しているジェンダーイデオロギーにも迫っている。「男性学」が提示しているのは、「女性だけでなく、男性も差別されている」し、「男性もジェンダー化された存在である」という認識と「男性問題」の発見であった(渡辺、1986;伊藤、1993、1996;多賀、2006)。(68頁)

これは評価できることだが、男性の問題だけを独立に論じても不十分。

 

p.70 性差はジェンダーイデオロギーの産物

性差は厳然として存在するという証拠を次々ともちだす人がいるが、諸研究を見ると、両性の差異は少なく、通文化的なのは空間認知能力と数学能力における男子の優位性と、言語能力における女子の優位性くらいで、脳の構造と機能の違いではないかと仮定されているが、まだ未解明(Rogers, 2001)。性差神話が蔓延するのは、「ジェンダーのレンズ」でものを見る習性のため(Bem, 1993)。男女の性差はほとんどなく、ほとんどはジェンダーイデオロギーがつくり上げてきたもの。

 

p.70~71 男性が作ったシステムに男性が疎外される

「優越性」を奨励され続け、それによって社会的に優遇されてきた男性ではあるが、今や、自分たちが創り、享受してきたこの仕組みにしっぺ返しを受けていることに、気づくべきである。勝つか負けるかという競争原理がとりわけ重視される社会構造は、勝者にも敗者にもきわめて残酷で、人間の本質になじまない。(70~71頁)

 

p.71 不安が競争社会とジェンダーイデオロギーを維持してきた

男性の多くが、「男らしさ」を拒否し、「男らしさに象徴される人間像」を目標とすることをやめたとき、この男性優位社会の原理である競争自体が意味を失うだろう。「男らしさ」そして「女らしさ」を失うことを怖れる心理そのものが、ジェンダーイデオロギーを強化し、維持させてきたことにまず気づくべきなのである。(71頁)

 

*1:柏木惠子「青年期における性役割の認知」(日本教育心理学会編『教育心理学研究』15巻4号所収、1967年)、193~202頁。「青年期における性役割の認知Ⅱ」(『教育心理学研究』20巻1号所収、1972年)、48~59頁。

*2:守秀子「大学生における性役割認知の変化」(『文化女子大学長野専門学校研究紀要』第2号所収、2010年)、25頁。

*3:守、同書、26頁。

*4:守。同書、32頁。