南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

藪雨女

前頭側頭自閉軒全集抄⑪
藪雨女[1]

藪雨女(『旭山玉繭洞妖怪図彙』より)

 

昔、長高てふ弓道班に、チャリにて流鏑馬しける女子二員ありけり。
介添ひきつれて矢道に乗り入れ、顧問大ひにうろたへぬ。
わけを聞くに
「妖怪・藪雨坊(ヤブサメンボー)の仕業なれば、身命惜しまずするなり」
とぞ答へける。
さても危なき女なるかなと人ぞ言ひける。


平成のはじめ頃のことであろうか、長高弓道班に、
「藪雨女(やぶさめ)」
という妖怪が出た、という。
よりによって、弓道場の矢道にケッタ[2]で乗り入れ、的を射ようとしたので、驚いた顧問から大目玉を食ったとの由である。もちろん、県弓連にでも知られたら一大事である。
さて、この藪雨女、一応、補助役として共犯の女子一名がついていたようだが、基本的には一人でケッタに乗り、それで弓を引いたというからトンでもねえ。曰く、
「一人でこいで矢を放ちます。命がけです。妖怪のせいですから、仕方ありません」[3]
だそうである。当時、明圓黌主先生もこれを見たりしが、
「反省しない女どもかな」
と、呆れた果てた由という。

一説に、女子生徒に取り憑いたこの妖怪は、
「藪雨坊」
といって、これが背中に取り憑くと。ケッタにまたがって矢を放ちたくなるという。按ずるに、「ズルビン」や「まゐ子」の同類であろう。このとき取り憑かれたのは玉繭先生だったというから、どうやら「弓教え」とは異類の妖怪のようである。

ところで、問題の弓道場、ヒョンなことから世間の注目を浴びることとなった。NHKでやっていたアニメ『ツルネ ―風舞高校弓道部―』に登場する弓道場のモデルになったのが、ここだというのである。もっとも、舞台となったのは現在の弓道場であって、妖怪が棲んでいた頃の古い弓道場は、今とはまったく別の、キャンパスの北西の隅にあった。今の弓道場は、平成5年(1993)に校舎が改築された際、図書館跡に建設されたものである。なお、図書館ができる前は奉安殿であった。

アニメのモデルになったという現在の弓道場(2020年撮影)

さて、妖怪が巣食うくらいであるから、弓道班の歴史は長い。旧制中学時代には「弓道部」といって、明治38年(1905)の創立である。当時は寄宿舎食堂の東に弓道場があったというが[4]、まだ校舎が西長野にあった頃の話だ。昭和15年(1940)に校舎が現在地に移転した後のことはよくわからない。生徒は校旗を先頭に四列縦隊をもって上野ヶ丘を出て金鵄ヶ台の新校舎に入城したとの次第である。
昭和16年(1942)には校友会が改組されて、
「報国団」
になった。名前の通り、尽忠報国のための組織である。そこに「鍛錬部」というのが置かれて、「弓道部」は「弓道班」となった。今でもクラブ活動のことを「班」というのは、ここに起源するのであろう。他県の人が驚くゆえんである。
さて、そうこうしているうちに敗戦となり、弓矢も記録も焼却処分に付され、さしもの妖怪も退散したものと思われたが、昭和35年(1960)、キャンパス北の空地に、不用となった下駄箱を並べて射場とし、砂を盛っただけの垜(あづち)をこしらえて、弓道場を再建したというのである[5]。さすがに気の毒だということになり、昭和42年(1967)にチャンとした弓道場が新設された。弓道班のOB会である「弦声会」が所有していた旧校長宅を道場に改築したという。旧制中学時代の地図と比較するに、私が在校していた頃の弓道場というのはこれであったと考えて間違いないようであるが、どうであろうか。
なお、当時の弓道場を作ったのは、なンと、玉繭先生の伯父の池田氏であったという話[6]がある。校史には生徒が土方をやったという話しか出てこないが、どういうことであろうか。ちなみにこの池田氏、甲冑の修復などを業とされていたが、案の定、コッチにも妖怪が出た。川中島あたりで死んぢまッた人のアレかも知れねえが、取り憑かれた人もいたという。

さて、歴史と伝統ある長高弓道班、藪雨女が出た頃の成績はどうであったかというと、平成2年(1990)の3月には、全国大会の決勝リーグに進出している。7月にはインターハイにも出ているから、なかなか強かった。私が在学していた平成6年(1994)にも近県大会で男女とも優勝しているから、存外立派である。[7]
しかし、県弓連が聞いたらまた怒られそうな件が、もう一つあった。どこで聞いたか定かな話ぢゃねえからアレだが、一応、書いておく。
じつは本校の文化祭には、
「ファイヤーストーム」
という、バンカラ時代から続く行事があって、要は、高々と木を組んで火をつけて騒ぐという、ただそれだけのものだが、なンと、その点火方式が弓道班の火矢だったというのである。もっとも、令和になっても、ここらの高校では弓道班が火矢をしていることが発覚、堂々とテレビ取材にも答えている。過去には消防署に届け出るのを忘れて大目玉という事件もあったようだが、してみると、このことは一応、黙認されているもののようである。
もっとも、これとは別に、本校には世に知られた
「ファイヤーストーム事件」
というのがあって、祭りを盛り上げようとした生徒が、火の粉を浴びで亡くなるという痛ましいこともあった。昭和56年(1981)のことである。[8]

じつは藪雨坊、こういうことが起こらないように、見守る妖怪なのかもしれない。だとすると、玉繭先生は自分の意志で流鏑馬をしたことになるが、今となっては真相は藪の中である。

                                  〈2023年5月26日〉

 

[1] 『旭山玉繭洞妖怪図彙』、2023年5月24日図。

[2] 愛知県を中心に、自転車のことを「ケッタ」という。仲由一郎氏の教示によると、長崎県の一部でも使われているとの由である。なお、和歌山県那智勝浦町で中学生をつかまえて「ケッタ」について問うたところ「知りません」との返答を得たと、『今橋日記』(『自閉軒日録』の一部なり)1998年5月1日条に見えたり。数時間後、三重県の某町で同じ質問をしたところ、この語が通じたことを記憶しているが、『日記』には見えず。

[3] 南澤玉繭メール(自閉軒宛、2023年5月25日付)に見えたり。「顧問はマジギレ、部長はオコ」との由である。女子らは「あんなことであんなに怒っちゃって」だそうである。

[4] 長野高校八十年史刊行会『長野高校八十年史』、長野高等学校同窓会、1980年、684頁。

[5] 長野高校八十年史刊行会、同書、831頁。

[6] 『自閉軒日録』、2023年3月24日条に「弓道班のことを聞く。葉子、流鏑馬で叱られるという。自転車で矢道に乗り入れて射るという。愉快。なお、旧校舎の弓道場は、葉子の伯父の池田氏が造ったものという。甲冑の修復などをする人であったらしく、詳しくは失念したが、例によって甲冑にナニか憑いていたとかいないとか、そんな話もあったやに思う」と見えたり。

[7] 長野高校同窓会百年史編集委員会『長野高校百年史』、長野高等学校同窓会、1999年、501~2頁。

[8] 長野高校同窓会百年史編集委員会、同書、504頁。

弓教え

前頭側頭自閉軒全集抄⑩
弓教え

弓教え(『旭山玉繭洞妖怪図語彙』より)

武州に美女木てふ所あり。
鎌倉の右大将、奥州を攻め玉ひし時、ここに屯し玉ひけり。
夢に八幡大菩薩の立ち玉ひて、御告し玉ひけるとかや。
のち鶴岡八幡、領家なりしとき、飛射騎とて流鏑馬しけるとか云ふぞ。
ここに一つの霊ありて、木に登りて流鏑馬を見たりしが、
東下りせし官女のために横領せられて信濃国へと逐電しぬ。
已後は土民に弓を教へて暮らしぬ。
美女には憎みて教へざるとか云ふぞ。
この事、林大学頭の一書に見えたり。[1]

「弓教え」
という妖怪がいる。
その名の通り、人に弓を教える霊である。
『旭山玉繭洞妖怪図彙』によると、文治五年(1189)、奥州合戦の際に当地に入った源頼朝の夢枕に八幡神が現れてお告げをしたというので、一社を建てて、この地を鶴岡八幡宮に寄進した、という。この笹目八幡社に長い参道があって、そこで流鏑馬が行なわれたため、流鏑馬をあらわす
「飛射騎(びしゃき)」
が転じて、
「美女木」
になったと、ものの本に出ているようである。[2]
しかし、弓書を徴するに「飛射騎」なる語は管見にして見当たらず、当を得たものとも思えない。

それはともかくも、この〈弓教え〉、八幡サンの社叢に住んでいたものらしい。流鏑馬を観覧するのを楽しみながら暮らしていたようだ。そこへあるとき、都から官女の一団が流れてきて、スッカリ定着してしまった。〈弓教え〉は住みにくくなったのか、八幡サンとゆかりのある信州善光寺の辺へ逃げてしまったという。
この話は林大学頭(述斎)のまとめた『新編武蔵風土記稿』(1830)に出ているという。曰く、

美女木村はもと上笹目と云ひしが、後今の村名となりし謂れは、
古へ京師より故ありて美麗の官女数人、當所に来り居りしことあり、
其頃近村のもの當村をさして美女来とのみ呼しにより、
いつとなく村名の如くなり(…)。[3]

という。
つまり、美女が来たから、
「美女来」
という地名が起こったという説明である。
何とも言えない話で、当の述斎も、
「いとおぼつかなき説なれど暫く傳のままを記しおけり」
と、書いている。
この述斎、とにかく本を作るのが好きで、『佚存叢書(いっそんそうしょ)』(1809)なンてのは、本家中国でも高く評価されている。大陸で亡失した古典を集めた遺文集である。他にもいろいろなことを調べて後世に遺した。『徳川実紀』なンてのは有名だ。
ともあれ、都から高貴の女人が下向したというような話はチラホラあって、信州でいえば、京から官女が流されてきたという〈鬼女紅葉伝説〉の鬼無里とか、南朝宗良親王に仕えた女官が尼になって親王の菩提を弔ったという「尼堂(あまんど)」という地名が、岡谷の柴宮付近(東堀区)に残っている。近くには「御所」という地名もある。[4]

柴宮(東堀正八幡宮=長野県岡谷市長地柴宮)
宗良親王の御在所を仮に柴で葺いたので柴宮という。

柴宮の境内はすっかり御柱に占拠されている。さすが諏訪地方である。

ところで、流鏑馬にまつわる地名のことは別にあって、『新編武蔵風土記稿』には
「藪サメ」
という小名が紹介されている。

古ヘ村内八幡へ奉納の流鏑馬ありし所なり。
因て此唱あり。故に元は流鏑馬と書きしといへり。

この「八幡」が笹目八幡で、今の美女木八幡神社である。してみると、ヤブサメという地名に「飛射騎」という適当なアテ字をつけたこともあったのかもしれない。
なお、「八幡社」の項には頼朝の話も出ている。頼朝が奥州下向の際に云々とあって、先に見た話と同じものだ。古くは八月十五日の祭礼に流鏑馬の興行があったというが、今は廃せりと云う。
なお、述斎の本は頼朝のことを、
「右大将頼朝」
と書いているが、頼朝が右大将に任じられたのは奥州合戦の後で、それも十日かそこらで辞任している。だが、頼朝といえば「右大将」「右幕下」で、だいたい、「幕府」ってのも征夷大将軍ではなくて、もとは右大将の府だ。和田秀松博士は、幕府は近衛大将唐名だと書いている[5]。もっとも、語義に照らすと、征夷大将軍の府といったほうがふさわしい。『漢書』「李広伝」の註に、

晋灼曰く、将軍の職、征行に常のところ無し。所在に治を為す。故に幕府と言うなり云々。師古曰く、幕府は軍幕を以て義と為す。古字通じて単に用うるのみ。軍旅には常の居止なし。故に帳幕を以てこれを言う。

と、ある。当の和田博士が引いている。

さて、この〈弓教え〉、最終的には信州に住み着いた。俺も会ったことがある。いつ会ったのか調査してみたが、詳しくはわからない。なんせ日記があまりに膨大で、どこに何の記事が出ているか、検索をかけても見つけられねえ。2002年から数年間のどこかだと思う。
話はこうだ。
ある日、弓道場で弓を引いていると、後ろから誰かがやってきて、右肩を叩いてきやがった。右の肩根を沈めよという意味だろうと思って、そうした。
矢はチャンと離れて、的に正中した。誰か先生が叩いたんだろうと思って振り向くと、誰もいねえ。廊下にいた人に聞いても、知らないと言う。
按ずるに、〈弓教え〉の仕業であろう。じゃなきゃ、歴代弓士の霊か、弓の神サン[6]か何かだろう。ともあれ、神棚に一礼してお礼を言っておいた。
だが、この〈弓教え〉、官女に遺恨あるものと見え、美人には弓を教えない。一緒に弓を引いていた玉繭先生[7]が〈弓教え〉に会わなかったのには、そういう理由があったのである。
なお、絵を見ると、〈弓教え〉は射手の後ろから狙いを見ているが、上位者の矢乗りは、頼まれない限りは見ないのが礼儀[8]だ。気をつけな。

                                  〈2023年5月20日

 

[1] 『旭山玉繭洞妖怪図彙』、2023年5月20日図。

[2] 岩井茂『さいたま地名考』、さきたま出版会、1998年、46~47頁。

[3] 『新編武蔵風土記稿』巻之百十五、足立郡巻二十一、内務省地理局、1884年、22頁。

[4]岡谷市史』上巻、岡谷市、1973年、505頁。なお、鬼無里にも「内裏屋敷」の地名あり、楠氏など南朝遺臣の姓があることはいささか注目される。なお、近隣の飯綱町(旧・三水村)に芋川氏あり、楠木氏の裔とも云う。本姓・藤原氏、のち、楠公の曽孫・正秀を養子に迎えて再興したと云う。中村八束博士は芋川氏の流れで、武田氏滅亡後、天正壬午のときに上杉氏に従った親正の兄弟である正保の子孫と云う。なお、『甲斐国誌』には、大月に「御所」という地名があり、高貴な女性が悲嘆にくれて住んでいたという。按ずるに武田氏に滅ぼされた笠原清繁の妻を小山田氏が妾婦として置いた地ではないかと云う。

[5] 和田秀松『官職要解』(訂正増補)、明治書院、1910年、283頁。

[6] 『自閉軒日録』2005年10月20日条に、大久保秀雄範士の講話として、弓矢八幡大菩薩を云うと見えたり。

[7] たとえば、自閉軒と南澤玉繭は、2002年6月28日の射会で立を組んでいる。玉繭が大前であった。『日録』同日条に見えたり。

[8] 長野県弓道連盟指導部『弓道における一般的注意事項』(2002年)に「上位者の矢乗り(狙い)を見ることは遠慮する。依頼された場合は別である」とある。

まゐ子奇譚

前頭側頭自閉軒全集抄⑨
まゐこ奇譚

まゐ子(『旭山玉繭洞妖怪図彙』より)

昔、武蔵国は戸田てふ所にマヰ子てふ者ありけり。
日頃、木の下にて遊びけるに、さみしき余りに
人にチョッカイして咳をさすとか云々。
人が構はず横臥せば、益々構って咳させ候。
村人困りて仏に苦情申しき。
仏怒りてマヰ子・眷属を調伏し玉ふこと、経に見へたり。
今、其の木を美女木と云ひ、マヰ子住みたるとか云ふぞ。[1]

埼玉に
「美女木」
というところがある。
去る3日、その美女木から姪が来た。
美女木というだけあって美人である(5歳)。
この姪、両親も理解できない不思議のところがあって、ときどき大人にもわからぬようなことを言う。なぜかはわからないが、私の部屋に入り浸っている。

さて、姪が来て2日もすると、何やら急に喉が痛くなり、その後、数日もすると、夜も寝られぬほど咳きこむようになった[2]。治ったと思うと、余計にひどくなる。眠ると休まるどころか悪化するからいけねえ。
そこで、人に勧められて近所の内科に行くと、
「じゃあ、レントゲンと血液検査させてもらっていいかい?」
ッてことになった。
「正直に言うよ」
この言い方は、医者が死期の迫った人に何か告知するときの口上だ。
「レントゲンだけど、肺に影は映ってないのよ」
ッて、なんなんだよ、死ぬんじゃねえのかよ。
「だけど、血液検査してみたら炎症が起きてる反応が出てるのよ」
見てみると、確かにCRPの値が高けえ。
で、その血液をさらに検査会社に回して、何の病魔が取り憑いてンのか、調べてもらうことになった。

CRP(C-リアクティブプロテイン
基準値は0.30mg/dL。炎症状態で上昇するため、細菌・ウイルス感染症などが疑われる指標。

その4日後、結果を聞きに行くと、
「検査の結果なんですが」
と、医者はクイズの正解を発表するみたいに言いやがる。
「なんと、まゐ子プラズ魔肺炎でしたー」
「えー、マジかー」
「そうなんですよ」
そんな子どもがかかるやつ、どこから来やがったんだ。まあ、美女木からだろうな。姪もコホン、コホンとやってたよ。
「新型コロ助やインフルエン蔵の勢いに押されて影を潜めてるんだけど、まゐ子や百日咳もまだまだしつこく隠れてるんだよ、ウン」
そういう次第で、抗生物質を数日分もらって、しばらく飲んだ。
玉繭先生からも薬草が届いたので、煎じて飲んだ。さらに梅干を胸に当てて寝ると、咳にイイって言う。それをまゐ子が喜ぶのか嫌がるのかわからねえが、玉繭子はそれで治ッちまうらしい。

マイコプラズマ抗体半定量PA法)
1gMクラスの抗体の測定値。発症後1週間目で上昇するため、マイコプラズマ肺炎への感染がわかるという仕組み。基準値は40倍未満。

ところで、『旭山玉繭洞妖怪図彙』によると、このまゐ子、人にかまってもらいたさに、そこらの人に取り憑いて咳をさせるというので、仏が怒って調伏したと経に書いてある、という。妄説と思って侮る人もあるが、チャンと経に出てる。
宋の施護が訳した
『仏説一切如来真実摂大乗現証三昧大教王経』
ッて経がある。
これはいわゆる『金剛頂経』の30巻本で、唐の不空三蔵が訳した3巻本は、その最初のパートだけだったというので、
『初会金剛頂経
などという。日本で『金剛頂経』と言ったら、普通はコレだ。
で、その30巻本の巻第十『降三世曼拏羅廣大儀軌分第六之二』に、こんな話がある
「時に金剛手大菩薩、亦た鉤召一切瘧疾等鬼の大明を説いて曰く」
金剛手菩薩という人が、一切の〈瘧疾〉等の鬼を召喚する呪文を説いて言った。呪文の方は長げえから割愛する。なお、〈瘧疾〉ッてのはマラリアのことだが、他にもいろんな病気たちがやって来た。
「是の大明を説く時、彼の瘧疾等諸持病鬼、鉤召に悉く須彌山頂外の曼拏羅に来たる。周匝して住す」
この調子だと話が終わらねえから簡単に言うと、病気たちの言うには、
「菩薩様、手前どもは人の精気を吸って露命をつなぐ者にございます。それをやめよと仰せられては、手前どもは立ち行きませぬ」
そこで菩薩は
「清淨自業智印大明」
ッていうありがたい呪文を唱えて、印を結んで病気たちに見せた。そして、
「是の如き印契を随応に顯示し已(おわん)ぬ。汝諸瘧疾等鬼、速かに当に馳散すべし。もし然らざる者は必ず其の命を壊すべし」
と言うと、病気たちは教勅をかしこんで、それぞれの本処に帰ったという。
〈随応〉とは〈随類応同〉であろうから、病気たちの種族に応じて教化したという意味だ。呪文の名前からして、彼らのもつ業を浄める方法を教えてやったものらしい。
「話を聞いたらとっとと去るがよい、じゃないと北斗神拳でアベシだぞ」
と、脅しを加えたので、病気たちは逃げ帰った。自分で呼んでおいて勝手なものである。ともあれ、あとは病気たちが教わった通りに真言を唱え、印を結べば、問題は解決である。病気たちも人に迷惑かけずに生きられるって寸法だ。
しかし、どうもまゐ子は言うことを聞かなかったらしい。菩薩の目を盗んで、姪にくっつき、俺んちまで来やがった。

しかし、ふと考えた。
まゐ子の潜伏期間は2、3週間だ。
だとすると、まゐ子を連れてきたのは、姪じゃねえ。
まゐ子は美女木だけじゃねえ、どこにでも潜んでいる。
医者も言ってるよ。
そして、今日もどこかで、誰かにかまってもらいたくて、行旅人が来るのを待っている。

 

                                 〈2023年5月17日〉

 

[1] 『旭山玉繭洞妖怪図彙』、2023年5月17日図に見えたり。

[2] 『自閉軒日録』、2023年5月5日条ほかに見えたり。

この世とあの世をつなぐ橋

前頭側頭自閉軒全集抄⑧
この世とあの世をつなぐ橋[1]

「この世とあの世をつなぐ橋」
ッてのがある。
何処かは言えない。阿呆が押し寄せて、大挙してあの世に行かれても、あの世の人が迷惑するだけだ。
だが、うまくしたもので、俺なンかは何度通っても不思議と異変がない。なぜかというと、ありがたい阿弥陀の九字明を三遍、唱えて渡っているからだ。
覚鑁(かくばん)に『五輪(ごりん)九字明秘密釈(くじみょうひみつしゃく)』てのがある。九字明というのは、
「オン・ア・ミリ・タ・テイ・セイ・カ・ラ・ウン」
の九字だ。早い話が阿弥陀真言である。
ところが、俺は訛って、
「オン・ア・ミリ・タ・テイ・セイ・キャ・ラ・ウン」
と言っていた。
日本で梵語を読むとき、
「中天音」
南天音」
という二つの流儀がある。前者は中天竺の発音とされ、真言宗での読み方だ。後者は南天竺での発音で、天台宗の読み方である。言ってみれば方言のちがいだ。だが当時、本当にインドの発音がそのように分かれていたのかどうか、ちょっと定かな話ではない。いわゆる悉曇(しったん)梵音というのは、現代の梵音とは非常に異なっているというから、アテにならない。[2]
ところで、特に台密で重視される経に、
「蘇悉地羯囉経」
というのがある。
「ソシツジカラキョウ
と、読む。
東密のほうでは
「ソシツジキャラキョウ」
と、読む。
漢訳したのは中天竺出身の善無畏(ぜんむい)三蔵で、梵では「Susiddhi(スシッディ)kāra(カーラ) Sūtra(スートラ)」といい、意味は「妙成就・作業・経」ということになる。真言を成就させるためのキマリゴトがイロイロ書いてある。面白れぇから読んでみるといい。諸本によって内容はちょっと相違する。
さて、これで何となくわかったと思うが、俺が「カ」を「キャ」と訛っているのは、中天音のせいということになる[3]。何となく言いやすいからだ。

開山興教大師像(覚鑁)=照光寺(長野県岡谷市

だが、ちょっと待て。本当に阿弥陀さんの真言をそんなふうに訛って大丈夫なのか?
ふと気になって、還梵したやつを見てみた。するとどうも、
「oṃ(オーン) amṛta(アムリタ)-teje(テジェ) hara(ハラ) hūṃ(フーン)」
だという。
「カ」でも「キャ」でも何でもねえ。
「ハ」ぢゃねえか。
この際、どちかってえと「カ」のほうが近いから、「キャ」はやめた。
それはいいんだが、日本でいう経ってのは漢文だから、これをどう読むかというのにも流儀があった。漢文訓読法も東密台密では異なっていて、ヲコト点の付け方も違う。微妙に意味も変わってくる。加点法にも西墓点、池上阿闍梨点、東大寺点、浄光房点などいろいろあって、宗派ごとに伝承があった。これは近世儒学でも一緒で、テキストの訓点をどうするかは先生ごとで異なっていたからややこしかった。

何にしても、阿弥陀さんのおかげで、俺は今日も無事に生きている。
まさに、
「三塗の黒闇ひらくなり」[4]
云々だよ。
ナマンダーツ、ナマンダーツ、ナマンダーツ。

 

                                 〈2023年3月3日〉

 

[1] この話、自閉軒メール(南澤玉繭宛、2023年3月3日付)に見えたり。

[2] 渡邊英明『悉曇梵語初學者の為めに (二)』(『密教研究』巻五二号、密教研究会)、1934年、71頁。

[3] 渡邊、同書84頁に「迦字を、カとキャと両様に発音するので、中にはकはカと発音すべきものにて、キャと発音す可きものでないと云ふ先匠もあるが、カの拗音はキャと呼ばる可きものにて、直拗二音の関係からすれば、何れにてもよいのである。而し此の事は悉曇の相承に於て、南天は直音、中天は拗音などの相異もあれば、其の人の相承如何に依つて又自ら云々するものである」とある。

[4]正信念仏偈』のオマケについている『浄土和讃』の一節。

ズルビン奇談

前頭側頭自閉軒全集抄⑦
ズルビン奇談

最近、世にも奇妙な事件が出来した信濃国

山深い信州のどん詰まりに、かつて芋井草堂と呼ばれた一宇の寺がある。百済から来た仏を祀ったことから、
百済寺
ともいった。今の善光寺である。
その西之門といわれるあたりに、齋藤下総守、惣太夫[1]という神官がある。善光寺の鎮守社の神主である。かつて中村博[2]と齋藤神官家を訪れて昔の話を聞いた。齋藤神主の申されるには、自分祖先は、水内郡司の金刺氏で、善光寺を開いた本田善光を庇護して西の一室を与え、阿弥陀如来を祀らせたところ、軒を貸して母屋を取られる始末となり、神領はまったく寺に横領されたと云う。
善光寺はウチの土地」
が、この神主の口癖である。
この阿弥陀さん、難波の堀江に捨てられていたところを本田に無理矢理くっついて、はるばる信濃の山奥までやってきて、そこで寺に収まった。後に信玄公が甲府にお遷し申し、さらに信長めが岐阜に遷し、太閤は方広寺の本尊にしたが、夢枕に如来が現れ
信濃に返せ~」
と言うので、恐れて戻そうとしたが、間に合わずに死んだ。してみると、阿弥陀さんを動かした連中は、みな滅んだので、阿弥陀さんの祟りと恐れられた。
ところで、善光寺に兄部坊(このこんぼう)という一坊がある。そこの若麻績住職[3]は、中村先生とは高校の同級生で、よく昔話を聞いたと云う。中村先生からのまた聞きだから、いささか歴史に合わないようなところもあるが、話してやろう。
なんでも、この若麻績一族、本願上人と一緒に阿弥陀さんにくっついて行く先々で暮らしていたが、阿弥陀さんを長野に戻そうッて話になったとき、甲府から兄部坊が阿弥陀さんを背負って、長野まで夜逃げしてきたッて云う。これを按ずるに、また阿弥陀さんが取り憑いたのであろう。まったく、人の背中に乗り移るのが好きな仏である。
この善光寺阿弥陀よりもっと有名な仏がいる。名前を、
「ズルビン」
という。
このズルビン、最近、肥後国の人の背中に乗り移って、本堂から脱出を企てた。人々は、慌てふためいて大騒ぎとなった。三百年来なかったことである。
すわ一大事ということで、奉行所の役人も出動して、松本かそこらでお縄にした。その人が言うには、
「こんなものがあるから祟りが起きる、だから埋めようとした」
という。
不届き千万ということでお白州に引き出されるところであったが、ズルビンのそそのかしということにされ、不起訴になった。
かくしてズルビンはもとの本堂に連れ戻され、今日も誰かの背中に乗り移ろうと善男善女の訪れを待っている。

                                  〈2023年4月30日〉

 

[1] 西之門齋藤家、齋藤安彦宮司。なお、明治時代に齋藤安幸がまとめた『齋藤神主家年中行事録』に「自分祖先ハ不詳ト雖モ、往古諏訪伊那より数社ノ神職、建御名方富命彦別神社ニ奉仕ニテ、其神社ト善光寺仏堂ト混淆シテ、仏威益々盛ニ相成、終ニ神社ノ地ヲ横領セラレ、社家ノ私共ハ旧領ト相成、当時中衆十五坊ト申者ナリ。自分一家ノミニテハ旧来ノ職ヲ相守、惣太夫ト称呼致候」とある。2010年1月20日中村博士夫妻とともに安彦氏と会い、談論した。博士の妻は齋藤家の係累である。博士が会話を録音した音声データが残っているが、雑音が多く、聴き取るのはむずかしい。

[2] 中村八束理学博士(信州大学名誉教授)。自閉軒の茶飲み仲間。

[3] 若麻績千冬氏とされる。兄部(このこうべ)とは堂童子の上座をいう。自閉軒メール(中村八束宛、2009年6月10日付)等に阿弥陀さんの夜逃げ一件のことが出ているが、若麻績氏の話とどれほど整合するのか、確証はない。

半過擬古

前頭側頭自閉軒全集鈔⑥
半過擬古[1]

左が半過岩鼻、右が塩尻岩鼻(長野県上田市)

険なるかな、半過(はんが)の岩、千曲南岸に屹立す。
懸崖峭絶四十丈、崖下に巨窟二穴あり。
嘗て小鸇(しょうせん)、巣を営みて子孫殷殷たり。
今や鳥飛の絶へんとするや悲しき。
黒雲山上に翻り好雨まさに降らんと欲す。
下土に水ふらせ、物を潤して殆ど声なし。
而して信陽に春の闌(たけなわ)は過ぎぬ。

半過岩鼻、上田市にあり。断崖絶壁、120メートル、太古は千曲北岸の塩尻岩鼻なる斜面急峻の崖谷と一続きの河床であったものが、千曲川に侵食され、今の奇観を呈するに至る。半過は石英角閃石斌岩(ひんがん)、マグマが上昇してできた半深成岩の岩体で、柱状節理が発達し、巨大なノッチあり。チョウゲンボウが営巣す。近年見ること稀なりと云う。塩尻岩鼻にはグリーンタフが露出、いわゆる内村層に属す。
                                 〈2023年4月7日〉

 

[1] 『自閉軒日録』2023年4月7日条に同文あり。

奇獣ヲゴルの図

前頭側頭自閉軒全集抄⑤

奇獣ヲゴルの図[1]

『ヲゴルノ図』(江戸後期?) 仏壇から出てきたという古図。

 

玉繭子(ぎょくけんし)、知友宅の仏壇より見つかりし『ヲゴルノ圖』[2]なる古図を予に示す。詞書に「尾は五色、天鵞絨(びろうど)の毛のごとし」とあり。阿蘭陀渡りの奇獣なり。予また何物かを知らず。
額に一角あり。江戸の世に一角の獣を「うにこおる」と言ひしことあり。この語は英に「ユニコーン」と言ふ。イッカクを言ふなり。
木村蒹葭堂に『一角纂考』(1795)あり。蒹葭堂、大槻玄沢に嘱してキルヒャー『地下世界』(ムンドゥス・スブテラネウス)を訳せしむ。その挿図[3]よりウニコールの海獣たることを知りき。私に思へらく、「ウニコール」の些か「ヲゴル」に音の似たるものの如しと。
本邦に「ウニコール」の知られし始めは、遠藤元理(えんどうげんり)が『本草弁疑』(1681)なるべし。益軒は「ウニカウル」と書きたる由、『大和本草』(1709)に具なり。疱瘡に効くとかや。白石また七歳にして痘瘡を発す。「ウンカフル」を服して癒ゆ[4]となむ。また溺死人に飲ましめば則ち蘇生すと益軒書きたり。益軒、これを陸獣と思ひける由なり。
一考を付して識者の見解を俟つ。或いはこれ「ヲゴルノ」か。

                                   〈2023年4月16日〉

 

[1] 南澤玉繭宛、自閉軒メール(2023年4月16日)は、ほぼ同内容。

[2] 自閉軒宛、南澤玉繭メール(2023年4月16日付)に「知り合いの家の仏壇から登場したらしいです」とある。

[3] アタナシウス・キルヒャ―『地下世界』(『Mundus subterraneus』)。蒹葭堂『一角纂考』中の「一角魚身有鱗図」は、蘭語版『D' Onder-Aardse weereld』(1665年、アムステルダム)の一角獣図を写したもの。

[4] 新井白石『折りたく柴の記』(1716頃)。