南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

剳記と私(服部 洋介)

南山剳記編輯雑報①
剳記と私

服部 洋介

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〈剳記〉(さっき)の〈剳〉(さつ)というのは、ものを読んだり、人から話を聞いたときに、その内容を書きつけておく〈簡札〉のことで、そこに註して自分の意見や批評などを加えたものをいう。先人の教えを講義する際に講師が用意する講義ノートから発展して〈剳記〉となったと思われる例もあって、大塩平八郎の『洗心洞剳記』、吉田松陰の『講孟剳記』はその類であろう。そうしたわけで、ノートの体でありながらも、筆者の主張を述べる一個の著作となっているものも少なからずあって、そのように考えると、ハイデガーの『シェリング講義』や、フーコーの『ニーチェ講義』といった講義録も、一種の〈剳記〉であろう。なお、読書感想文や書評、あるいは題跋を〈剳記〉と呼ぶべきかどうか、判断に迷うところである。いわゆる〈剳記〉とは、もととなった書物の一字一句を徹底的に読み込んでその意を明らかにするものであるから、単なる書評や感想を〈剳記〉とは言わないのであるけれど、〈剳記〉のもとの意味は、つまるところ〈ノート〉〈メモ〉であるから、『南山剳記』においては、読書録に類する筆記全般を〈剳記〉として取り扱うことにする。

ところで私は、その読書感想文というやつが苦手で、学校で書かされたものはいずれもグダグダ、とても教師の期待するものは書けなかった。ところが、高校の同級生によくできる奴が二人いて、一人はシモヤンといって、理系のクセに全国読書感想文コンクールで一等賞なんぞとりやがって、学校に賞状が送られてきたものだった。もう一人はマルサンといって、学校の成績はサッパリだったが、浪人時代に全国の予備校生を対象とした小論文コンテスト(読書感想文ではなかったけれど)で一席をとった。

さて、アラビア石油に入社してわが国のエネルギー確保の橋頭堡たらんというのが、本校の「アラビア太郎」ことシモヤンの平生からの口癖であったが、果たして京大の学生だった頃に石油学会に属し、院に進んで後は「アメリカのほうが面白そうだ」ということでアッサリ中退、米国で博士号をとった。京大では「日本に帰ってきてもポストがあると思うなよ」と因果を含められ、そのままアメリカに居ついてしまったのであるが、ブッシュ政権下で潤沢な研究資金を与えられ、カネはうなるほどあったというけれど、使う暇がないほど忙しかったという話だ。そうこうしているうちにシェール革命のあおりで研究トレンドは一変、その後は州の役人として働いている。一方のマルサンときたら、今やまったくの行方知れずである。その文才をもっと有効に活用できていたならば、今頃もっと偉くなっていたであろうけれど、世の中、そうはうまくできていないものらしい。

さて、その頃の私は、自分の著述のために膨大な読書録をつけていたから、マルサンからもよくそれを貸してほしいと言われたものだった。当時のこととて、ルーズリーフに手書き、これを活字データにするのは一生かかっても無理だろうと半ばあきらめているけれど、そもそも私が『南山剳記』というプロジェクトを思い立ったのは、高校時代から現在に至るまでにとった紙ベースのメモをどうにか片づけなくてはならぬという切実な問題に根源するのであるから、ひとつ残らずネットに上げて万人の利用に供するというのが本当である。ところが、いざまとめ始めると、もう一度原書を読み返したり、別の本に食指が動いてしまったりと、まったく本末転倒、かえって紙が増えてしまうのではないかとウンザリした気もちにならないでもない。もっとも人間、つねに新しい知識を得るということは望ましいことであるけれど、私がどちらかといえば後ろ向きな、過去の読書録の整理などということに着手したのには、それ相応の理由がある。

と申すのも、かれこれ十年来、記憶力・思考力の衰えが着実に進んで、いつまでも学生気分でいたのが、コリャいよいよ気のせいじゃねえ、本気で年をとっちまったってことが身にしみるようになったこの頃、前は仕事のしすぎで死ぬなんざ、何をどう働いたらそうなるのか、それで死ぬなら死んでみねえと思ったくれえだが、いや、実際、この調子でいったら死んでもおかしくねえって感じが出てきたのが去年かそこらの話、もっとも、その前からアタマのほうはテンでダメで、二年かそこら前、仕事でシンガポールへ飛ぶ前に近所の脳外にかかってみれば、そっちの先生もすっかり代替わりしていて、前の老先生は人の話をよく聞いたもんだが、今度のはクソ生意気な若先生、どっちも高校の大先輩だが、ドタマに来て予約したMRIをすっぽかしちまった。まったく、今日日はこちとらみてえなのがゴマンと押しかけて、脳外も暇じゃねえのはわからんでもないが、ひでえ扱いだよ。

そんなわけで、何を書くにも、書くべきことがどこに書いてあったか、他人の言葉はいうに及ばず、てめえで思いついたことすら思い出せねえっつうんだから、仕事になりゃしねえ。コリャ終わったなということで、最期の仕事と思って、二、三年前に引き受けた、画家の山下康一氏の作品に寄せる文『山下康一氏の絵画と思想』*1に手をつけたのが、今年の六、七月という頃。しかしウッカリした話で、なにしろ一番アタマが弱ってた頃のことだったから、まとまるものもまとまらず、脳の症状は急激に悪化、しめえには右半身に振戦が出るようになっちまった。これはまあ、経験上、仕事が済めば自然に収まるものとはわかっちゃいたが、それにしたって、ナンかの芸術家が頭を掻きむしって叫び出すアレの気もちがよくわかったね。もっともこちとらの場合、老人がてめえの頭の上に載せた眼鏡を探して右往左往するアレと同じで、じつのところ、周囲から痴呆扱いされかけていたから、呆けちまった人の悲哀ってのも、ちょっとわかった。

 

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山下康一『不二』(2017) 紙に墨、100×72.7cm ⒸKoichi Yamashita Courtesy of the artist

 

その頃、とある企業経営者とそんな話をしたら、「それはいけませんな。じつは私も若い頃に同じ経験がありましてな」ってな話になり、とにかく生活を一新しなくちゃいけませんぞ、なかんづく十分な睡眠時間を確保するようにと奨められたのであった。しばらくして、いよいよ死相があらわれているという話になり、知人から検査を奨められたが、うまい具合に心身脱落、おのずから毎晩自宅で全オチという日々が続き、ほとんど自分の意思とは無関係に強制的に睡眠をとらされるような形となり、しばらくすると急性状態を脱し、半月くらいで死相も消えたってんで、検査のことは沙汰止み、すでに山下さんのはできあがっていたから、しばらくは何もしないで過ごすことにした。

さて、話は変わるが、この山下氏という人は、山が好きなあまりに松本市に本部を置く信州大学に進学され、以後、本県の人となったのであるけれど、在学中、理学部に籍を置きながら、ひとり「哲学科」の渾名を奉られるほど思索を好まれる方であったから、絵描きでありながら、ずいぶん多くの筆記を残されている。それを邪道という人もあるけれど、私は一寸ちがう。バウムガルテンって人は、〈美学〉〔aesthetica〕ってのを「可感的なもの〔aisthēta〕を対象とする感性の学」として、理性や悟性によって認識される「可知的なもの〔noēta〕」を対象とする論理学と区別したわけだが、この年になってみると、単に感覚的なものに訴えるだけの作品よりは、どちかっていうと、ある実践的な認識論としての芸術行為、すなわち「世界をどのように見るか」という、その捉え方を提起するものとしての芸術作品に興味を惹かれるもので、ちょうど山下氏の作品は、人類における芸術行為の機能を一通り網羅したようなところがあって、じつに興味深いものであったから、氏の作品のどのような面が、芸術史のどの段階と結びつくものか、それを論考するのはたいそう楽しいことであった。もっとも、上に書いた通り、私の記憶力はすでに限界にきていたので、「ソレっていつのどんな出来事だったっけ?」「アレって誰の何だっけ?」「コリャ前にも書いたことじゃないか」「そもそも何を書くんだっけ?」と、まったく前に進まず、いい加減、反吐も出た(けれど懲りずに、『山下康一、風景画における歴史と機能』*2、『山下康一と旅』*3と続けて、ほとんど山下さんの三部作である)。

でもまず、一応のことを書き終えて、何もせずに怠惰に過ごしていたところ、慢性的な脳機能の衰えはどうにもならないけれど(私の思考の限界は一日に二時間程度である)、ひとまず死地は脱した次第である。それよりちょっと前の春先、いつ死んでも迷惑のかからないようにと、早々に身辺整理というのも始めたわけだけれど、そこで問題になったのが、例の膨大な紙の山。しかし、余命がわからないってのは困ったもんで、明日死ぬとわかっていれば遺書の心配だけして気楽なもんだが、しばらく時間があるらしいってことになると、それなりに段取りってモンを考えたくもなる。ふつう、自分の遺作とか、そういうのに心血を注ぐところなんだろうけれど、生来の飽きっぽさから、剳記の整理の方に関心が移っちまって、たまたま十五年ぶりに再会した、トロンボーンの楽団支配人にして翻訳家、寺子屋師匠でもある徳武葉子先輩と語らって『南山剳記』を始めたという次第である。

さて、元来の私の〈剳記〉ってのは、原書の抜き書きや要約に続いて、所見や参考資料を列記するスタイルで、ちょうど『二松学舎講義録』に収められた渋沢栄一の『論語講義』原文を逐条的に考察した笹倉一広氏の『渋沢栄一論語講義』原稿剳記』(一橋大学語学研究室『言語文化』49巻、2012年)に近いもの、ウン、まあ、〈剳記〉だ。前に出た『講孟剳記』についていえば、松陰は思うところあってこれを『講孟余話』に改題しちまったが、昔の〈剳記〉というのは、やはり一つの著作であったから、案外と重いものであったらしい。それにしても、人に講義するのが目的ならまだしも、こちとらのは他人のためにつけた註ではないから、人が読んでも脈絡がよくわからない。それ自体を世に出す意義があるものか、いささか疑問がないでもなかったが、そんなときに魯迅の弟の読書録をまとめた『周作人読書雑記』を思い出した。アレも好き勝手なことを書いた雑文もいいとこの読書日記だけれど、その行間に時折、著者の生きた当時の事情、社会の様子などをしのばせるものがあって、なかなか面白いものである。そういう意味では、読み捨てにされる週刊誌の記事にも見るべきものはあって、どこを探してもまじめに論じられる機会のないような、その場かぎりの下らない読みものこそ、得がたく貴重な資料ということもできるのである。そのようなものの書き手や読み手というものが、表立って文化の形成に決定的な役割を果たせるほどの立場にないため、それらが後世のためによく保存されるということはかつて稀であったけれど、web上で検索し放題、コピペし放題、リンクし放題と、やりたい放題の超複製技術時代にあっては、有象無象の同じような情報があふれかえり、かえって後世の人が想像を膨らませる楽しみを奪ってしまうのではないかと、気の毒に思わないでもない。

そんなことで始めた〈剳記〉のまとめだけれど、あまりに私的な書き込みはこの際カットして、まず冒頭に〈解題〉を付し、思うところはひとまずそこに記すこととした。本文に関係のない雑感もあえて述べてみたけれど、場合によっては、〈解題〉や巻末の〈註〉のほかに、本文に即して私見を述べる元来の形式も併用する予定である。また、どこにどのような文章が載っているかを明示するため、小見出しをつけてページ番号も添えてある。なお、私以外の撰者の方針は、各人随意のものとなっているから、この限りではない。

本来、どこの図書館にもあるような本よりも、遠隔地の人の利便に資すべく、当地の郷土資料などを多く紹介すべきところであるけれど、私にも気分というものがあって、世のため人のためは後回し、気力・体力にもおのずから限界があることゆえ、できることから手をつけていこうと思うのである。時にどれだけネットを引いても出てこないような情報も収めてあるので、その点はお役に立つこともあろうかと思う。参考にしていただければ幸いである。

 

令和己亥歳。十一月十一日。
扶桑日本国。信陽善光寺乾方旭山山中浄土玉繭洞。

*1:南山文庫雑書刊行会編『美術雑誌』第一輯、所収、2019年。

*2:山下康一作品展『山を描く、沈黙を描く』(高崎シティギャラリー、高崎市、2019年7月19日~23日)に掲出。2019年7月12日。

*3:山下康一《新作小品展》(ギャラリー鬼無里長野市、2019年8月2日~30日)に掲出。2019年7月28日。