南山剳記

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マインドアサシンかほる 説法その1(③)(服部洋介)

マインドアサシンかほる 説法その1(③)

服部洋介『マインドアサシンかほる』説法その1(気がふれ茶った会 編『気がふれ茶った会』第1号)、気がふれ茶った会、1995年

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【服部 洋介・撰】

 

解説

かれこれ25年前、18歳の砌にものした、世にもくだらねー漫画。どれだけくだらないかについては、過去2回の記事を見れば明白である。ご覧になられた方は周知のとおり、賭け連歌に明け暮れる連歌師どものバトルを描いたような感じの展開となっているが、じつのところ本題は、まったくもってそのようなものではない。じゃあナンだと言われれば、続きをお読みいただくほかはないが、先にも書いた通り、小学生の時分に集英社版の学習漫画『日本の歴史』の8巻で、能書を生かして小遣い稼ぎをしたり、武士どもに官位を斡旋してボロい商売をしていた三条西実隆の活躍(?)を知ってしまったせいなのかナンなのか、後年ものした『SIMOYAN物語』といふ漫画にも、なぜか公家どもが登場、連歌はやらなかったが、甲州へ下向してそこで〈韻塞ぎ〉などに興じるというヘンに印象的なシーンがあった。

これは実隆の時代にもあったことで、和歌の因襲打破ということを掲げた戸田茂睡という歌学者の『梨本記』の2巻によると、当時の武士は、京から下ってきた浪々の連歌師などを師として、歌の勉強に励んだとのことであるし、公家などを交えて歌会なども催した。じっさい私も甲州武田信玄生誕の寺である積翠寺を訪ねたが、ここは天文15年(1546)に勅使の下向あって、和漢連句を催したといわれるところであって、このときは三条西実澄、四辻季遠のほか、東光寺、法泉寺の僧らを交えた歌会であったということのようである。三条西実澄というのは、実隆の孫である。実澄に随行した相玉長伝という禅僧が著したらしい『甲信紀行の歌』によると、実澄が甲斐へ下ったのは翌天文16年(1547)のことのようであるし、同じく相玉長伝の『心珠詠草』によると、四辻も甲斐に来てはいるようだが、年次は定かでないようであるから、これらの人びとが積翠寺で一堂に会したかどうかは疑わしい。『心珠詠草』は『続群書類従』にも入っているから、読まれるとよい。

 

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信玄公生誕の寺といふ万松山積翠寺(臨済宗妙心寺派)、甲府市

 

なお、『甲陽軍鑑』品第9によると、永禄9年(1566)、甲斐に権大納言菊亭晴季の下向があり、一蓮寺での信玄の歌会に飛び入りで参加したとある。私は一蓮寺には行ったことはないが、当時は、今の甲府城のふもとあたりにあったようである。どうもここでは和歌のほか、邪路と称して連歌なども行われていたらしい。さて、信玄は菊亭殿を歌会に相伴させたいがどうだろうかて思案していたが、当日になって菊亭殿が「歌会と承って参加しないわけにはいきませぬぞ」とやってきちまッたもんだから、信玄もことのほか喜んだという話である。さて、その後、食事の時分となって困ったことが発生した。会場は寺で、食事の用意も定員分しかない。もし菊亭殿が参られたとき、あらかじめ定まった参加者を一人立たせるのも忍びないということで、一計を案じた信玄は、寺島甫菴に「円光院に行って、北宋の林逋の梅の詩のことはどの本に書かれているのかを聞いて書きつけて参れ」と命じて寺から出したという。かように気遣いをされる方だったので、後に命を縮めることにつながったのだろう、なんどというようなことが書かれている。禅寺の長老たちは、信玄を評して「唐土の大将の中では諸葛孔明の如くである」と言ったという。諸葛亮の陣中での様子というのは、横山光輝の長編漫画『三国志』をお読みになった人ならよくご承知のように、士卒を第一にして、常に自分のことは後回し、激務に次ぐ激務で、それを仲達に悟られ、「コイツ、そのうち死ぬな」と見抜かれて、持久戦にもちこまれ、ついに五丈原で没したというものであるけれど、『軍鑑』の筆者は、この話を下敷きにして、まさに信玄公は諸葛のような立派な大将で、命長らえたならば天下をとることもできたであろうけれど、ついにそれを果たせなかった悲運の武将として描こうとしたもののようである。

 

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瑞巌山円光禅院(臨済宗妙心寺派)、甲府市

 

なお、これは余談であるけれど、信玄が円光院で調べるように命じた宋の詩人・林逋の子孫は日本に渡ったようで、戦国時代には和漢の歌学に通じた饅頭屋こと林宗二を輩出している。信玄の同時代人で、武田家滅亡の前年まで存命であった。饅頭を日本に伝えたのは林家であったというが、これを発明したのは孔明だという話もあるにはあった。

 

関連項目

マインドアサシンかほる 説法その1(①)
マインドアサシンかほる 説法その1(②)
マインドアサシンかほる 説法その1(④)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑤)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑥)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑦)

 

前回までのあらすじ

賭け連歌で一儲けしようとしてヤクザに身ぐるみ剥がされた村川氏。暗黒歌道の総帥・マルサンに頼み込んでみたところ、ひょんな理由から引き受けてもらえることになり……。そんなわけで開催されることになったヤクザVS暗黒歌道の一戦、期待させるだけ期待させといて、いきなり脇句をしくじったマルサン、ヤクザの凶刃を前に、その命は風前の灯火状態に……。

 

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タマをとりにきたヤクザを返り討ち、歌人とは思えないマルサンだった。

 

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自らの失敗を「破格」と言い逃れるマルサン

 

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もちろん、『応安新式』にそのようなたわごとは書かれていない。

 

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あたりまえである。

 

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冷泉派の権威で乗り切ろうとするマルサン

 

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反発するヤクザ。

 

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もっともな言い分である。

 

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暴力に訴えるヤクザたち。

 

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得体のしれない音を発するマルサン。

 

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意外に強かった。

 

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歌人というより仕事人である。

 

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斬新な擬音である。

 

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ナンか謎な流派の登場だ。

 

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そのたとえはどうなんだ!?

 

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なお、マルサンの発したセリフは不謹慎につき、墨塗とさせていただきました。悪しからずご了承ください。

 

あらかたおわかりと思うが、もう連歌などどうでもよくなってゆく、『マイアサかほる』であった。なお、途中で登場する二条良基というのは北朝の大立者で、連歌に独立した地位を与えた、いわば連歌の大成者でもあった。『菟玖波集』などというのは、彼の編である。なお、歌道の二条派というのを伝えた二条家は良基とは別系統で、南朝に近く、ほどなく廃絶したけれど、二条派そのものは歌の主流となり、古今伝授の形で宗祇から三条西家へと伝わり、実澄から細川幽斎を経て、再び三条西家に返伝された。良基も、歌学上の立場は冷泉派ではなくて二条派であったらしい。冷泉派には正徹という禅坊主がいて、松本麻子氏の指摘によると、室町時代の著名な連歌師には正徹の弟子だったものが多く、この連歌的な表現が和歌に還流し、あるいは二条派にも影響したらしいということが述べられている。もっとも、三条西実隆は「正徹の歌なんか学ぶもんじゃない」てなことも言ってはいるが、そのじつ、ずいぶんと正徹の歌に関心をもって摂取していたらしい痕跡が『実隆公記』にもうかがわれるというようなことが指摘されている*1。古今伝授を創始した東常縁も最初は正徹に学び、のちに二条派に転じた。なお、同時代の人に冷泉為広という人があって、足利義澄の和歌の師でもあったことから、勅許を得て和歌宗匠となっているけれど、それ以前は飛鳥井家が将軍家の和歌・蹴鞠の両道師範であった。三条西実隆の師は飛鳥井雅親であった。

なお、マルサンがどこで冷泉派を学んだのかは、まったく不明である。むしろ、北斗神拳でもやってたんじゃなかろうかと思うのは、私一人ではないだろう。

*1:松本麻子「歌連歌連歌歌―正徹の和歌を軸に―」(『中世文学』58 巻 所収)、中世文学会、2013年、66~72頁。