南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

殺人動向から考える男性心理~進化心理学の視点 (長谷川 寿一)

殺人動向から考える男性心理~進化心理学の視点

長谷川寿一「殺人動向から考える男性心理~進化心理学の視点」(柏木惠子・高橋惠子編『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』所収)、有斐閣、2008年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

東京大学で副学長をつとめ、昨年退官された行動生態学者・長谷川寿一博士の小論で、詳しい書誌は控えていないが、2005年に書かれたものと思われる。2008年の『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』(柏木惠子・高橋惠子編、有斐閣)に収められたもの。副学長時代は、東大に海外からの留学生を増やそうと諸改革に尽力されていたように記憶している。2014年に総長選に打って出たが、理学部長の五神真氏にやぶれて涙をのんだ。妻の眞理子氏も行動生態学者で、こちらは総合研究大学院大学の学長で、共著も多い。いずれ剳記を書く予定の『進化と人間行動』(東京大学出版会、2000年)などが代表的である。

もともと心理学で博士号をとった人で、早い話が進化心理学の視点から男性の攻撃行動、なかんづく殺人について考えようという、刺激的な論文である。昨今、「人間とは何か」ということについて、脳科学が身も蓋もない知見を発表しては世間の顰蹙を買っているが(笑)、その点は進化心理学も同様で、人間の行動に隠されたなんだかガッカリな真相を、数理モデルを駆使して立証しようとするものである。しかし、その仮説には大いに納得させられるところがあって、人間というものについてのろくでもない幻想を払拭して、ものごとを現実的に考えるための材料を提供するものである。進化学は実験科学ではないので、その説明は、どこまでいっても統計的な仮説に留まるものであるけれど、じつに興味深いものである。

けっきょく、この分野の諸問題というものは、個体がいかにして適応度を高める繁殖戦略をとりうるかという命題に帰着するものであるから、ときにフェミニズム系の社会学における人間規定というものと、いろいろ衝突するところがあるのも事実であろう。このあたりの齟齬を埋めるのは意外とむずかしいことで、個々の人間は特殊な実存としての存在様態をとってあらわれるのであろうけれど、類としてのヒトというものに、ある特定の傾向が存在するということは、統計的な事実なのであろう。その傾向が生物学的な基盤にもとづいて決定されるのか、それとも社会制度や文化によって規定されるのか、いずれにしても、私たちがそのような規定に絶対的に服従しなくてはならないということはないということに違いはないように思われる。

ここで紹介する小論は、ひとまず性淘汰から男性の殺人動向について考えようというものであって、そのあたりを中心に内容を要約したものである。いわゆる若者の「ひけらかし行動」(見せびらかし)として、芸術表現を殺人と同列に置く下りは、いささかショッキングに思われるかもしれないが、これは米国の進化心理学者ジェフリー・ミラーの仮説を引いたものであろうと思う。ミラーからすれば、高度消費社会というのも「見せびらかし」の産物なのである。その一方で、若者の「ひけらかし行動」がなくなってしまえば、社会は活性を失い、あらゆる革新は停滞するであろうと、長谷川氏は予測している。また、小泉改革以降に拡大した経済格差は、若者のリスク行動を助長し、社会不安の懸念材料となることが指摘されている。将来の安定した展望が開けない状況で、リスク行動に訴えることが適応度を高める上で応分にペイするという見込みが高まれば、なるほど、犯罪が横行する危険は高まるのかもしれない(これは結果論として説明したほうが適切かもしれない)。あるいは、若者の家族回帰が進むなど、より慎重に生きることが適応度を高める上で寄与する行動ということになるのか、あるいはともに真なのかも知れないが、少なくとも、前世紀の終わり頃と比べれば、若者の考え方というものも、ずいぶん変わってきたように思われる。さらなる研究が望まれる分野である。

なお、進化心理学の本丸である配偶者選好や繁殖戦略の問題については、『進化と人間行動』の剳記に譲ろうと思う。参照されたい。

 

所蔵館

市立長野図書館(143ニ)

 

関連項目

柏木惠子「ジェンダー視点に立つ男性の心理学の課題~なぜ「男性の心理学」なのか」

高橋惠子・湯川隆子「ジェンダー意識の発達視点~男らしさもつくられる」

金井篤子「職場の男性~ワーク・ライフ・バランスの実現に向けて」

 

日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

 

 

p.45~46 性淘汰とは

・オス間で生じる配偶者をめぐる争い(同性間淘汰)。
・メスによる配偶者選択(今日ではメスが交尾の決定権を握る証拠が挙がっている)(異性間淘汰)。
・最近ではメス間の競争やオスによる配偶者選択の研究もある。
・配偶者えらびをしようとするメスをオスが妨害したり、行動の自由を奪う配偶者防衛行動(交尾後の同性間競争を含む)。雌雄の利害は一致せず、性的対立が存在する。

 

p.46 進化は種の保存という観点では説明されない

60年代までは生物は種の存続のために行動すると見なされてきたが、今日では、生物個体の繁殖と生存機会をめぐる競争の結果が進化であると説明され、雌雄の繁殖戦略は一般には一致しないとされる。

 

p.47 殺人は性淘汰と関連した人間の適応行動と結びついているという説

進化心理学の代表的創設者であるデイリーとウィルソン(1988)は、殺人の背景にある心理メカニズムは性淘汰と関連した人間の適応行動と結びついていると論じた。

 

p.48 若者の殺人率が低下することで日本の殺人率は40年にわたって低減

40年にわたって殺人率が下がっているのは日本固有の現象。このことは、日本では若者の殺人率の極端な低下によって達成された。ところが、80~90年代には、40~50代男性が20代前半より殺人率が高くなり、世界的には例がない(世界的には、ユニバーサルなパターンで20代前半の男性に殺人率のピークがある)。1935~45年の戦時中に幼少期を送った人々の殺人率は、中高年になっても落ちていない。

 

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戦後日本の年代・年齢別男性殺人率(長谷川,2004)

 

p.48 繁殖に有利な地位や資源を得るための攻撃行動

デイリーとウィルソン(1990)の研究では、年齢別同性内殺人率は10代後半~20代前半の男性に顕著なピークがある。これは性淘汰の理論からすると、繁殖行動が本格化する時期で、哺乳動物のオスの攻撃行動のピークも繁殖行動とリンクしている。多くの若いオスが事故や闘争で死んでゆく。ヒトの男性にとっても、この時期に地位を獲得し、資源を確保することがその後の繁殖の可能性に大きく寄与する。闘争心、自己顕示欲、メンツ、評判にこだわり、リスクをおかしてでもそれを守ろうとする。リスキーな乗り物に乗ること、激しい表現の芸術も、そのあらわれ。殺人の動機はつまらない意地の張り合いや、些細な口論からの喧嘩で、動物界と同じ。

 

p.50 成長時代においては将来が期待できるため、リスク行動は減る

若者の殺人率の低下は、高度成長、高学歴化と対応している。経済格差が縮まったのも、日本の特異性。アメリカとは異なり、みなが豊かになると同時に貧富差が縮小(所得格差の指標であるジニ係数の低下によって示される)。デイリー、ウィルソンによると、将来への期待予期が高いとリスク行動をとってもペイしないため、終身雇用社会では殺人は起きにくいとされる。だが、青年がひけらかし行動をとらなくなると、社会的活性は低下、不登校、鬱が増える。

若者のひけらかし行動は、どんな時代においても芸術や文化における創造性の源泉であり、社会革新の担い手である。(50頁)

バブル崩壊以後、殺人率の減少が止まり、今後は殺人率が上昇していくことが予想される。世界銀行の統計では、2005年現在、日本の経済格差は依然として世界最低水準だが、小泉政権以降、格差は拡大しており、社会不安の懸念材料となっている。*1

 

p.50~51 なぜ社会が豊かになっても戦中世代の殺人率が下がらないのか

戦中世代は、時代の風の利を受けた団塊世代と以降の戦後世代とは対照的に、戦前と戦後の価値観と社会制度の相違の中間で、自己の存在規定に最も苦しんだと思われる。あるいは、より直接的な影響として、幼年期の戦争に伴う体験(飢餓感や親の愛情の不足)が長期的効果をもたらしている可能性も考えられる。もし戦中世代が、戦後の世代より心の問題を多く抱えているとしたならば、メンタルヘルスにもその兆候があるのではないかと予測でき、精神疫学的な分析が望まれる問題である。(50~51頁)

 

p.51 男性の女性に対する攻撃と配偶者防衛

通文化的には、男性間殺人についで男性による女性殺しが多い。進化心理学的には、オスはメスの行動を強制的に制限する「配偶者防衛行動」を頻繁に行い、人間もその例外ではない。パートナーが他の男性と性的交渉をもつことを厳しく監視し、女性の行動をコントロールしようとし、不義の交配があると暴力的手段に出る。ストーキング、DVは監視心理の表現と考えられる。各国の男性の女性に対する殺人の動機を見てみると、性的嫉妬、性的コントロールを理由とするものが目立つ。地方裁判所判例分析の結果、1950年代の日本では全体の81%、90年代では86%が性的嫉妬・配偶者防衛がらみの殺人。デイリー、ウィルソンもこの傾向が通文化的であると指摘している。パートナーがすっかり他の男性のもとへ行ってしまった後でさえ起こりうる。

*1:ここで示された見解については、「アートと思考⑤「10×10」~アートをめぐる学芸会論争史~」(『ブランチング6』所収、クマサ計画、2013年)にいささか書いた。曰く「労働もまた超モノ化を遂げている。供給が需要を上回る「豊かな社会」では、われわれは、もはや、何のために、何の必要があって眼前の労働に取り組んでいるのか、どうしてこれ以上、人々の需要を喚起しなくてはならないのか、説明困難な不条理に陥っている。しかし、特に世間に必要がないからといって労働しないわけにはいかない。われわれはマネーを受け取り、(できれば金融機関に)貯蓄しなくてはならない。「現在のお金のシステムは、近代工業時代の世界観から無意識のうちに私たちが引き継いでいるもの」であり、「時代の支配的な感情と価値観とを設計し推進する最高実力者としてふるま」い、「また、この通貨は、使用者間で「協調」より「競争」を促進するように設計され」ており、「工業社会の旗印である「永続的な経済成長」を可能にした影の功労者であり、エンジン」にして、「このマネーシステムにおいては個人が財産の蓄積(富の貯蓄)を奨励し、それに従わない人々は懲らしめられるようになっている」(ベルナルド・リエター)からである。アートも必然的にマネー社会の中に位置づけられており、その中で目に見える形で現前化を遂げた者だけが、芸術家の名乗りを許される。この分析が正しいとすれば、協調的というよりは競争的な、リスクを恐れない闘争心や自己顕示欲に富む者ほど、現代アーティストとして成功する見込みがあるということになろう。進化心理学の視点からすると、これらの傾向は繁殖開始期のオスの性淘汰的な本性をあらわしている。ところが、戦後成長とポストモダン状況の進展の中で、日本は世界でも類のない男性殺人率(性淘汰的な顕示行動の最たるもの)のおどろくべき低下を実現した。残念ながら中高年男性の殺人率は大して下がらなかったが、若者は殺人率の低下と並行してリスク回避を強め、今度は内向き傾向に転じた。「若者のひけらかし行動は、どんな時代においても芸術や文化における創造性の源泉であり、社会革新の担い手である」と長谷川寿一は指摘する。しかし、自己顕示欲に取り憑かれた一部のエリートが主導する「一将功成りて万骨枯る」型の階級構造は、もはや永続困難な状況を迎えようとしている。クリントン政権に参画したロスコフ元アメリカ商務省国際貿易担当副次官が、グローバル・エリートたちに「もっとも恩恵を必要としていない者に恩恵をもたらし、権力者にさらなる力をあたえ、もっとも弱い者たちのもっとも差し迫った要求さえ無視」していると、その責を問うている現代世界の窮状が、性淘汰的な攻撃性と独占欲の発露によるものだとすれば、そうしたものに経済・文化・芸術といった人間的装いをこらしただけのシロモノに刺激や創造性を求めるといった発想は考え物だ。そうなると、学芸会とハイアートのどちらが世界の平和に貢献しているのか、ちょっと微妙な問題になってくるだろう」。文中、リエターの引用は『マネー崩壊――新しいコミュニティ通貨の誕生』(小林一紀・福元初男訳、日本経済評論社、2000年、11頁)、ロスコフの引用は『超・階級 グローバル・パワー・エリートの実態』(河野純治訳、光文社、2009年、524頁)による。web版はhttp://branching.jp/?p=1623

中空構造日本の深層(河合 隼雄)

中空構造日本の深層

河合隼雄『中空構造日本の深層』(中公文庫)、中央公論新社、1999年

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【徳武 葉子・撰】

 

中空構造日本の深層 (中公文庫)

中空構造日本の深層 (中公文庫)

 

 

関連項目

エーリッヒ・ノイマン『芸術と創造的無意識』

C・G・ユング『心霊現象の心理と病理』 

 

凡例

は撰者の書き込み(私的意見)

 

 p.11 現代の不安と知の不均衡

強烈な不安がどうして現代人に迫ってくるのであろうか。それは結論を先取りして述べるならば、われわれの自我の支柱となる知が極めて不均衡な状態であるためと思われる。

例えば人によって大きくばらつくのが時間の単位。宇宙や歴史の軸を持つ人にとって千年は軽く飛び越えられるが、経済第一主義の人にとって昨日の出来事も瞬時に腐敗していく。どちらが不均衡なるかは一目瞭然。

 

p.17 思想に対する冷笑的虚無主義 

思想というものに対する冷笑的虚無主義が、現在では強くなっていると感じられる。

悲しければ涙を流さなくとも肩を落とし、床に伏せてもいいでしょう。喜びが舞い込んだら次の心配を探さず、飲めや歌えやで嬉しさに浸ればいいでしょう。しっかりと心を反応させる余裕を心がけたいものである。

 

p.20 内的な神話の知と外的な事物の照応 

人間は内的な神話の知を、外的な事物を通じて語らねばならない

ケレーニーいわく、本来神話というものは『なぜ』にこたえるものではなくて、『どこから』に呼応するもの。

 

p.24 一神教的な統合性と近代科学の合理性の結合 

西洋において一神教的統合性の希求と、近代科学の合理性とが結びついたとき、その統合は極めて一面的な性格をもつことになった。

 

p.43 男性原理と女性原理 

男性原理…合理的思考、判断、個人の責任における主張→ものごとを切断する機能を主とし、切断によって分類されたものごとを明確にする。
女性原理は、結合し融合する機能を主とし、ものごとを全体の中に包み込んでゆく。

 

p.46 日本の神話の中空的構造 

日本の神話においては、何かの原理が中心を占めるということはなく、それは中空のまわりを巡回していると考えることができる。正・反・合という止揚の過程ではなく、正と反巧妙な対立と融和を繰り返しつつ、あくまで「合」に達することがない。

繰り返し続けるという概念。結論やひとつの結果に達することだけを良しとせず、ぐるぐる回るものも良しとする。

 

p.56 日本における「国民的合意」 

森嶋通夫氏「日本では通常『国民的合意』は軽率に、しかも驚くべき速さで形成される。その上、いったん『合意』ができてしまうと、異説を主張することは非情に難しいという国柄である」

東京オリンピックのマラソン開催地が札幌へ。議論する余地がない展開の速さに唖然とし、IOCではなく札幌を非難するコメンテーターの脳みそに再び唖然。

 

p.63 無にして有としての中空 

中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば無であって有である状態にあるときは、それは有効であるが、ちゅうが文字通りの無となるときは、その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。

以上のことは人体内でも起きていることではないだろうか。

 

p.179 特殊と普遍の関係

フランス精神医学者アンリー・エー「意識しているということは自己の経験の特殊性を生きながら、この経験を自己の知識の普遍性に移すことである」

この作業をしているならば、「自分は分かっているがアイツは分かっていない」というセリフが減るはず。まだまだ足りない修行の我が身。

 

p.188 感性、悟性、理性の統合による革新 

安易に感性の世界を拡大しても、それをいかに統合するかという点で革新的なものを見出さぬ限り、それは本来的には大きい意義を持ち得ないし、古いものの塗りかえにすぎないものとなる。

スピリチュアルの範囲の広さと、哲学分野とも被りそうな単語の羅列に要注意。

 

p.215 日本人の集合的性格と母性原理 

日本の家族構造の亀裂…母性原理すべてのものを平等に包含=個性が犠牲、社会に従属して存在、家と社会を通じてはたらく母性原理に守られて父権を行使…をどのように癒すかは、昔にかえることによってなされるはずがなく、日本全体の相当な意識改革によってこそ可能ではないか。

 

p.225 美徳と影、善と悪は表裏の関係にある 

美徳の影の面に対する自覚をもたぬとき、それらはしばしば「善の名において悪を行う」ための標識になり下がってしまうのである。

「善」旗を掲げて迷うことなく悪者を斬っていく集団を、至るところで目撃できてしまう怖さ。

秋葉山の信仰(武井 正弘)

秋葉山の信仰

武井正弘「秋葉山の信仰」(鈴木昭英編・山岳宗教研究叢書9『富士・御嶽と中部霊山』所収)、名著出版、1978年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

『山岳宗教研究叢書』の9冊目に収められた小稿。著者の武井正弘(たけい・しょうぐ)は芸能史研究者、藤沢市の辻堂西海岸在住とある。秋葉山の三尺坊といえば、長野では戸隠の行者のように言われているが、この論考中で戸隠に触れる箇所はほとんどない(原註(7)の記述に見られるように、著者は戸隠を含む信州北部の地理にはあまり詳しくないようで、研究の中心は駿遠相の三ヵ国と三河、南信の信仰習俗にあるようである。他に奥三河の「花祭」に関する著書もある)。

秋葉信仰自体、大変に興味深いものではあるけれど、ひとまず祭神ならびに本尊にかんする考察は省略し、南北朝期以降における秋葉修験の動向について、気になる点だけを抜き書きした。いささか古い研究で概略的なものではあるけれど、南北朝の争乱以後に奥地への安全な交易路として行者道が使用され、山上に市が立つことで秋葉山が経済力をつけたこと、また戦国大名と結んで政治活動を担うようになった経緯に触れた箇所などは興味深いものである。なお本稿では、北遠江を領有した天野氏と秋葉山叶坊の去就を通じてこのことを説明しているけれど、いささかわかりにくい記述となっており、叶坊光幡の説得で家康に帰順した天野氏が離反して武田方につき、天野景貫(虎景の孫)の代で徳川方に追われて乾(犬居)を退去し、北条氏のもとに走ったことなどは書かれないから、この地域の歴史に疎い者には、ちょっと誤解を生じかねない記述となっている。なお、このようなことは隣国の駿河にも見られ、富士の村山修験は今川に属したようである。

さて、小田原北条氏のもとで修験触頭であった玉滝坊*1に対抗するために秋葉修験が小田原に移されるなど、当初は徳川氏の関東統治に利用されていたけれど、やがて修験の実践的な教義は抑えられ、幕府の寺社政策の中で統制されてゆくことになるのは、他の修験と異ならない。とはいえ、明治の修験禁止令を経てなお、古道である「あきはみち」(秋葉路)は、第二次大戦前まで信仰の道として命脈を保ったという。

 

所蔵館

市立長野図書館(188サ・9)

 

富士・御嶽と中部霊山 (山岳宗教史研究叢書)
 

 
p.202~203 タマシヅメとタマフリ

古来、葬所を「山」と呼ぶように、死出の旅の果てる他界であり、同時に霊魂が相続され新たな誕生をもたらすという、生命の根源としての山は、はじめ彷徨する荒魂を鎮めるというタマシヅメの地、すなわち鬼神を祀る聖地と考えられていただろう。それを祀ることで、その恐怖的性格を恩寵的性格に替え得るが、しかし、地霊は甦ることがない。霊魂の再生には、生命の復活を意味する天の思想と、それにもとづく儀礼としてのタマフリが必要だった。この二つの儀礼の結合は、たとえば、奥三河の花祭に見られる。天の思想は、山岳宗教―修験道―にもとづく祭祀に採りこまれてあらしい性格を帯びた。

 

p.203 諏訪から秋葉山までの回峰の道、南朝との結びつき

山岳修験道のメッカとして栄えた遠州秋葉山も、中世信濃諏訪から遠山郷和田下の熊伏山、遠江常光山・竜頭山を経て秋葉山・光明山に達する修験回峰の霊地の一つとしても熊野修験に開かれたものと伝えられている。天竜水系の山岳地域では、南北朝の争乱を契機にして、古くからの熊野修験に白山信仰が複合していくのだが、修験のなかでも天台派の人びとは、先の天台座主宗良親王との法縁により、両朝統一後の一世紀、南朝の遺統を推戴して信濃三河遠江の各地を転戦し、多くの者は敗死し、運よく山に逃れた者も、組織への復帰はかなわず、在家の禰宜などになって永らえてゆく(203頁)

この戦乱を機に、天竜川流域の秋葉山も、熊野・白山信仰の併存という形に急速に移ってゆく。

 

p.204 南北朝争乱後、行者道が奥地への輸送路となる

こうして修験道南北朝争乱期以降、熊野(真言派)・白山の融合という新たな形式で、天竜川流域の山岳地域に信仰圏を確立する。修験者たちは争乱の激しい平地をよそに、秩序ある共同社会を形造っていくが、この時期に奥地への必需物資の輸送路が、略奪の危険を伴う従来の交易路を避けて、修験の管理する尾根道を縫って開拓されていく。いわゆる塩の道である。坂道を人の背で担われた物資は、秋葉山上の市で取引され、ここから尾根道を馬の背で峰々の山坊を中継所としながら、遥かな国境いの彼方へと運ばれる。市では篝火が焚かれ、延年の湯立、火渡りが行なわれて、火と水を自在に操る修験の験力が証される。秋葉山における神楽の激しい舞踏―マジカル=ステップ―は、延年を乞い願い生死を越える喜びと、限りなく再生する喜びを象徴してのものだったという(204頁)

 

p.204~205 武田氏、徳川氏の探題・軍僧としての秋葉修験

秋葉山は不滅の浄火の燃える確かな目標として、遠州灘を航行する舟人たちから崇拝されていた。

こうして中世末期の秋葉山には、交易市の経済力を背景に、数多くの山坊が造られ、相互に勢力を競い合うが、各々の坊はその験力や知識、あるいは流派ごとに、帰依する民衆の組織に依拠し、やがて各地の豪族・戦国大名に所属する探題としての役目を自ら担っていく。なかでも甲斐武田氏は、乾城の天野氏を配下にし、一族の天野虎景(後の清水秋葉山開祖日光法印)を庵原郡司に任命するが、虎景は領地の袖師ヶ浦西窪真土山に秋葉三尺坊大権現を勧請し、信仰を通して民心の帰依を図ったという。武田氏はこの他秋葉山叶坊(後の浜松秋葉山)と結んで、遠州への勢力浸透を策したことで知られている。叶坊はこののち三河徳川氏と結び、探題としてのみでなく、軍僧としての役割も課せられているが、徳川氏支配下の大久保氏の帰依した秋葉山一月坊(後の小田原秋葉山)も、たんなる探題ではなく、宗教政策を通しての民心操縦という、政治的役割を担っていた(204頁)

こうした政治への帰属は、秋葉信仰が全国に広まる基礎ともなったが、同時に山岳道場としての秋葉山の衰亡を招いた。

 

p.207 小田原縁起に見る三尺坊

小田原秋葉山量覚院の『秋葉権現縁起』は、三尺坊について、信濃出身で越後の栃尾蔵王堂に属する修験とし、大同四年、秋葉権現に壱千日参籠も火定三昧によって妙力を得、遂に異形の姿になって野狐の背に乗って飛行昇天したので、人々は秋葉山に合祀して、秋葉三尺坊大権現と称するようになったという。

 

p.208~209 三尺坊の小田原移転、北条氏の修験触頭・玉滝坊の壊滅

平安末期以降、秋葉山武家の帰依を得たが、なかでも社頭造営を行なったという足利・新田、越後栃尾三尺坊大権現を造立した上杉謙信、霞引大僧正の位階を得て秋葉山叶坊・天野虎景(日光法印)と結んだ武田信玄秋葉権現に祈念して家康をもうけたという松平広忠らが知られる。三尺坊大権現の出現によって、現世的な救済宗教としての信仰組織が形成され、探題として政治的役割をも担ってゆく。

こうしたなかで、秋葉山の有力坊の一つで泰澄大師の後裔という一月坊竺禅が、天正十八年大久保忠世の小田原統治に際し、徳川家康の命で、北条氏の修験触頭として関東一円に勢力のあった本山派修験玉滝坊の影響力を一掃するため、大久保氏とともに小田原に移住する時、徳川氏の勢力を背景に三尺坊大権現の御本体を持運ぶという事件が起った。秋葉山の各坊では御本体奪還のため、安倍川渡河中の行列を襲撃したが、この襲撃は効果なく、大久保家の軍兵に撃退され、御本体は無事小田原に到着した。しかしこの時、鋳鉄製の御本体が河中に投げ出され、一部を破損するなどの事故があったという(208頁)

この時に白山系の記録は小田原に移り、秋葉山には後期以降の伝承のみが残されることになったという。

玉滝坊はこの後、江戸に入府した家康の大弾圧で壊滅し、一派の人びとは他山に逃れ、あるいは富士信仰の勧請をして世を過ごすようになった。こうして関東修験もまた一つの伝承を喪失することとなった(209頁)

 

p.210 神仏両部の裁可

なお小田原秋葉山は明治五年の神仏分離の際寺として届けたため、社領没収の処置を蒙ったが、明治二十年代の神体仏体改めの折には、秋葉権現修験道なので神仏両部であると主張し、取潰しの宣告を受けたものの、県令野村靖の斡旋で内大臣徳大寺実則を動かし、神仏両部を差許すとの裁可を得て、修験道にもとづく両部の寺院として現在に至っており、修験宗本庁が置かれている(210頁)

 

p.212~213 七十五膳献供式では両口屋の菓子が奉献される

秋葉寺の祭は、12月10日の精進潔斎から始まり、15日に神輿が御旅所まで行列する。17日の午前1時からは、諸々の天狗さまへの七十五膳献供式が燈火を消した漆黒のなかで午前4時頃まで執行されるが、天狗は秋葉三尺坊大権現の眷属と伝えられる。七十五膳献供式は修験道に基づく祭祀では天竜川水系の花祭でも行われる。もろもろの奉仕がなされるが、名古屋市西区の両口屋菓子舗から御百味菓子(百種)の浄菓が奉献される。この七十五膳献供式で秋葉寺の大祭は終了する。

 

p.214 三尺坊は戸隠で修行したという伝承

清水秋葉山の伝承では、三尺坊は「信濃国下伊奈郡千代村」の出身で、観音への願掛けで出生、七歳のとき戸隠山顕光寺で修験となり、十五歳で阿闍梨となり、のち越後長岡の蔵王堂の三尺坊に居住、不動明王の三昧を体得して神通力を得た、とある。

 

p.215~216 あきはみち

中世期を通して、各地で商業交易と結んで活躍した修験の伝承は、熊野を除いては秋葉山のみが、微かではあるが塩のルート、山岳地域を縦走するあきはみちにより、その事蹟を伝えている。(…)今、遠江信濃三河尾張にまたがる各地に、すぎし日のあきはみちが名残をとどめているが、それらの「信濃みち」「三河みち」「遠州みち」を軸とした無数のあきはみちを、秋葉講中、代参、月参りの人びとが、白衣の道者姿で団体をつくり、杖を頼りに越えたのであろう。幅三尺ほどの小路の辻々には、浄火をともした常夜燈や、勧請碑、あきはみちの道標が立てられていて、かつては秋葉の役寮や茶屋・馬宿も配置されていたという。これらのみちの多くは、山の尾根、谷越えに切開かれた古くからの修験の回路で、道行することが、修行であると伝えられてきた信仰のみちである。争乱期には唯一の、安全な物資輸送のルートでもあった。交易路は、徳川期以降里の整備した街道に移ったが、信仰のみちとしては、第二次大戦前まで利用されてきたという。しかし、現在ではほとんど踏み跡が絶えていて、鋭い葉先や汗の匂いに群がる虻に悩まされながら、辿らねばならない(215~216頁)

 

原註

 

p.217 スサノヲの二面性

(3)天(あま)の思想導入後、天と地という二元論的世界観が山岳宗教に普遍する。例を挙げれば、天上で罪を得、冥府に追放されたスサノヲが、ミノガサを着て彷徨する祟り神であると同時に、助厄を約束する地神として位置づけられ、罪業をあがなう〝わざ〟としての芸能に採り込まれて、修験・聖達によって地域に定着し、延年の祭事へと受け継がれたごとくにである。

 

p.217 三尺坊は木島平で生まれたという説

(7)小田原縁起では、三尺坊は現在の長野県下高井郡穂高町木島平〔ママ。木島平村の大字に穂高がある。撰者注す〕の曹洞宗長光寺で出生したという。

*1:小田原市本町にあった本山派の修験寺で、松原神社の別当であった。『北条五代記』巻三之三「関八州鉄炮はしまる事」によれば、堺で購入した鉄炮を初めて関東に持ち帰り、北条氏綱に進上したのは「玉瀧坊」であるという。これは享禄元年(1528)のこととされ、鉄炮は中国から伝来したことになっているので、通説とは異なる記述として注目される。

江戸時代、漢方薬の歴史(羽生 和子)

江戸時代、漢方薬の歴史

羽生和子『江戸時代、漢方薬の歴史』、清文堂出版、2010年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

著者は1931年、大阪市船場の生まれ。1952年、帝国薬学専門学校(現・大阪薬科大学)卒業、塩野義製薬勤務を経て、2007年に関西大学大学院文学研究科博士課程を修了、関西大学文学博士。医史学が専門であられるようである。私も書庫の本を待つ間にパラパラとページを繰った程度で、目に留まったあたりを書き留めてみたものである。著者は「薬の町」船場に生まれ、薬剤師としてもご活躍の由で、幕府、諸藩の薬園の設立から、江戸時代における唐薬流通の実態まで、道修町に残されたものを中心に史料を渉猟して詳述されている。

我が国における江戸期の医史学については、まだよく知られていないことも多いようだが、江戸も後期になると、農村にも在村蘭方医と呼ばれる洋方医が相当数いたことが知られており、農村における国学の普及ばかりが注目されてきた従来の常識を疑う人もある。田崎哲郎氏は、平田派の門人帳がよく残っているのに比べ、漢学者のそれは乏しいと言われるけれど、蘭学塾関係の門人帳は医学のそれを含めて割合と残っているようであって、加えて明治7年の調査では、全国の医師における洋方医の数は全体の5分の1にのぼっており、農村洋学無縁説は成り立たないという見解を示されておられる*1。もろもろ興味深いことどもであって、研究の進展が待たれるところである。

 

所蔵館

市立長野図書館(499ハ)

 

江戸時代、漢方薬の歴史

江戸時代、漢方薬の歴史

 

 


p.19~46 同仁堂と胡慶余堂

中国の康熙年間に創立された北京の「同仁堂」、清末に江南一大巨商と称された胡雪岩(1823~1885)の漢方薬店「胡慶余堂」の視察記録。「北に同仁堂あれば、南に胡慶余堂あり」と併称された。あわせて明代に進士であった范欽が、1561年、寧波に一族の図書館として建てた天一閣を紹介。個人の蔵書楼で、珍本、史料が多く、「南国書城」と呼ばれ、現在では30万冊を所蔵。現在は一般にも開放。1982年、国務院から国家重点文化財に指定された。

 

p.148 官製の御薬園、諸藩の薬園

官製の薬園は家光が江戸城の南北(麻布、大塚)に開設したものを統廃合した小石川御薬園、駒場御薬園。長崎、京都に御薬園を設けた。朝鮮人参などの栽培園を下野や佐渡に設けた。上田三平『日本薬園史の研究』によると、江戸中期になると、松代を含め、全国の諸藩に薬園が設けられる。蘭学者本草学者を積極的に採用した。

 

p.149 各地の薬園

幕府や各藩の庇護の元で活躍した裕福な薬種商本草学者などが作った薬園としては、享保7年(1772)に薬種商・桐山太佐衛門が幕府の許可で下総国千葉郡小金原に開設したものなどが知られ、本草学者によるものとしては、寛永14年(1637)の板坂卜斎の薬園は2000種を栽培、文政6年(1823)に江戸参府のシーボルトを驚かせた尾張の水谷豊文の薬園、シーボルトに師事した伊藤圭介が安政5年(1858)名古屋朝日町に開園した「旭園」などが著名。特殊な例としては、長崎代官末次平蔵が密貿易品を植えるために作った「十禅寺薬園」、享保14年(1729)に森野藤助が幕府の御薬草御用係・植村左平次の大和での採薬道中を案内し、報酬に薬草をもらって始めた「森野薬園」がある。

 

p.149 森野藤助

森野薬園は享保14年(1729)に森野藤助(賽郭)が開いた。唐薬が高価で庶民に入手困難であったので、国産の薬物で代用するため、徳川吉宗は諸国に人を遣わした。その一人が幕府採薬使の植村佐平次〔佐の字、原文ママ〕で、享保14年に大和に入り、大和代官の推挙で御薬草見習として藤助が出仕、室生山で薬草採取。

 

p.150 森野薬園

森野はカタクリを発見、以降カタクリ粉製造の端緒をえて、吉野葛の産業化に貢献、幕府は度重なる採薬の功を賞して、官園に栽培されていた貴重な薬草木の種苗を下付した。享保20年(1735)、藤助46歳のとき苗字帯刀、薬園は次第に幕府の補助機関となった。その後、各地の薬園はほとんど廃絶したが、森野薬園のみは250年の長きにわたって継続、往時のままに250種が現存。現在地は奈良県宇陀市大宇陀区上新1880、文化財史跡。

 

p.150~153 薬のメッカ、江戸本町三丁目

江戸本町三丁目は薬のメッカ。当時の川柳にも「得体知れない 物を乾しとく 三丁目」「本草を 道へ並べる 三丁目」「三丁目 匂わぬ見世が 三、四軒」などとある。これら疫病の有効な治療薬と見なされたのが輸入唐薬で、特に江戸後期「江戸八品」と呼ばれていた。白朮、木香、肉桂、檳榔子、麻黄、厚朴、縮砂、酸棗仁の八品。

 

p.173 薬種中買仲間

大阪道修町は江戸中期から昭和20年まで薬業仲間の寄合所で保存された約3万3000点の文書が残されている。道修町船場にあって薬の町として知られ、江戸時代に中国やオランダからの薬を一手に扱う「薬種中買仲間」が店を出し、日本に入ってくる薬は一旦、道修町に集まってから全国に流通。その関係で現在も大手製薬会社の本社が存在する。日本初の薬学専門学校(現在の大阪薬科大学)が設置された。享保年間(1716~1736)に、幕府に公認された薬種中買仲間124軒(本店)以外にも脇店やセリ売商人(大坂市中や近郊の医家、薬店に売る)など数多くの薬種屋があった。和薬種の独占的地位は与えられなかったが、漢方薬(唐薬種)の元卸を独占した(長崎会所→薬種問屋→薬種中買仲間→江戸本町三丁目などへ)。品質と分量を正しく確認し、正当な価格で供給するのが義務で、そのため薬の神様(神農と少彦名命)の神前で気をひきしめてその仕事を遂行したと伝えられている。

 

p.291~300 生薬の写真つき解説

生薬の写真、効能、効能の解説、代表的な漢方薬の処方など。

 

*1:田崎哲郎「在村蘭学の具体像」(『地方知識人の形成』所収)、名著出版、1990年、273~276頁。初出は『三河地方史研究会会報』16号、1989年。

『周作人読書雑記5』(周作人)

周作人読書雑記5
周作人『周作人読書雑記5』(東洋文庫892)、中島長文訳注、平凡社、2018年

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【服部 洋介・撰】

 

解題

魯迅の弟・周作人の読書録。日本に留学し、羽太信子と結婚、英文学ついで日本文学を学んだ知日派。兄とともに雑誌『語絲』を刊行、のちに神格化された魯迅とは対照的に対日協力者として漢奸の扱いを受け、文革の混乱の中で没した。尾崎文昭は『語絲』について、「この小雑誌《語絲》は、一九二〇年代後半の中国において、知的にまた文学的に非常に高い水準を示し、相当に大きな社会的影響力をもった。その編集にまた文章に心血を注いだのが、近代中国が生んだ最高の知性の中に数えるべき魯迅と周作人、世に言う周氏兄弟であり、彼らがこの雑誌の「顔」となった」*1と評している。兄の魯迅とは1923年に絶交したとされ、兄弟不和の原因は、作人の妻・信子にあったといわれているが*2、詳しいことはわからない。けれど、五・四運動以降、ともに思想革命を推し進めてきた間柄で、末弟の周建人の仲介もあって、『語絲』の創刊ということになったらしい。*3

さて、この雑誌は北京で創刊され、作人の北信書局で編集されていたけれど、張作霖支配下の1927年に発禁処分を受け、作人も友人宅に身をひそめることになる。魯迅と北信書局の間には印税不支払いなどのトラブルがあったようだが、『語絲』の編集は上海の魯迅に引き継がれ、北京派とのグチャグチャの挙句、1930年まで続いて廃刊となった。この間、語絲派の江紹原ら北京の人士が『大公報』を魯迅の元へ送っているが、これも反感を買っただけで終わったようだ*4。今回、剳記に紹介する作人の『江州筆談』読書録は、この『大公報』に載せられたもののようである。

さて、周作人は科挙にはスベったものの、大変な読書家であったらしく、今回紹介する『周作人読書雑記』は東洋文庫から5冊が刊行されており、ほとんどどんなものか、今となっては中身もわからないような本がいろいろ載せられていて、読みだしたらきりがないものの、内容はわりと独断的である。いちいち突っ込んでいたらきりがないのでここでは論じない。

『読書雑記5』は「筆記」と「旧小説」を取り上げるものであるけれど、前者は雑記的内容の散文であって、後者の代表的なものとしては『水滸伝』や『紅楼夢』を思い浮かべていただければよい。ここでは、主に『江州筆談』『日知録』などの筆記についての作人の見解を紹介したいと思う。本文の用語については、中国史の知識のない者にはいささか難解なものも含まれているけれど、特に注はつけないので、それぞれに調べて読解せられたい。

なお、『江州筆談』を評する周作人の文章には、科挙にスベった私憤も含まれていると見られ(笑)、科挙において用いられる八股文に対する王侃(おうがん)の批判を大々的に抜き書きしている。なお、王侃の『衡言』に覚えるだけ無駄な難解な文章の例として「周誥(しゅうこう)」と「殷盤」が登場するが、前者は『書経』の「周書」に見る天子の制誥(すなわち詔。「大誥」「酒誥」など)をいうのであろうが、「殷盤」というのは、私にもよくわからない。『大学』に見る湯盤銘のことか、「商書」の「盤庚」の下りをいうのか、何を指しているのかは不明である。なお、湯王の盤銘には「苟(まこと)に日に新(あらた)にせば、日日に新に、また日に新なり」と書かれていたと言われるが、私の母校には、この故事に由来する「日新鐘」という半鐘があって、高校生であった頃は大して興味も惹かれなかったが、応援歌の一つにも『日新鐘の歌』というのがあって、「日に新たなりわが血潮」と歌われていたものであった。今さらながらに思い出される次第である。

また、「旧小説」の部からは、『水滸伝』と『紅楼夢』を比較した文章を拾ったが、それ以外にも興味深い読み物が少なくない。紹介したい雑知識はいろいろとあるけれど、紙幅も時間も限られているので、これくらいにしておきたい。

 

所蔵館

県立長野図書館

 

 

周作人読書雑記5 (東洋文庫)

周作人読書雑記5 (東洋文庫)

 

 

筆記

 

1 『江州筆談』
民国23年6月/1934年6月16日刊『大公報』『夜読抄』

 

p.12 著者

著者は棲清山人王侃(おうがん)で、字が遅士、四川温江の人、州判〔州知事の補佐〕に推薦されたが、職に就かず、乾隆六十年乙卯(1795)生まれ。

 

p.13 内容

彼の一般の書物に対する常識と特識は面白く、随所に明瞭通達な識見がある。『江州筆談』はおそらく江津で書かれたもので、やや雑記的なもの。子どもの勉強について述べたところが面白い。

 

p.13~14 ただ言葉を暗誦させるのは役に立たない

「子どもを教えるのに、その言葉を理解させようとせずただやみくもに暗誦させたのでは、口には出るだろうが、結局何の役に立つのか。まして合点がいけば自然に記憶できるし、一言一事長年忘れず、人に意味を伝えるにもいい加減ではない。これは再三暗誦するだけでできることだろうか」(13~14頁)

 

p.14 むずかしい古代の文章を覚えさせても無駄

その『衡言』巻一に曰く。周誥(しゅうこう)や殷盤の文は意味を考えてもわかるのは数語、ことさらにむずかしく深遠にしたもので、当時の民がどうして理解できただろうか。その時の文体がこういうものを尊んだのか、下吏の手になったものか。こんなものを子どもに教えて無理に読ませたところでいたずらに苦しめるだけで何の効果もない、という。

 

p.15 型や題を最初に決めて詩作をしろというのは無理

また『筆談』巻上では、八股文を憎悪している。また、詩は情を表現し、出逢いに感じて、思いを吐露し、景物は目の前にあるものから採り、あれこれ考える暇などないものだが、詩情がなくて無理やり詩を作ったところで、よしや警句はできても胸中から流れ出たものではない。八股の作法で詩を論ずるに至っては、題を決めてから詩を作るようなもので、それでは詩作がむずかしいと思われても仕方がない、という。

 

p.15 八股文は実用をなさない

八股文はその道の名家でもいくつも作れないし、結局は無用なもの。ちゃんと作ったところで科挙に通らないこともある。昌黎〔韓愈〕のいわゆる「巧みなりといえども世に何の補があるか」というものであるが、それでも事物を記録し、功徳を褒めるには何とかなるというくらいのもの、という。

 

p.16 伝えるべき意味もないのに文飾を連ねて文を書くということ

その『放言』巻上に

「筆を執り文を書くのは意味を伝えるためである。意味を伝えられないばかりか、伝えるべき意味もないのに、いたずらに古人の言葉をこねくり回して、(…)さまざまな醜態を演じ、目くらましの技量を争い、しかも聖賢に代わって言を立てると思っている」(16頁)

という。


17 筆記を語る
民国26年/1937年3月10日作『秉燭談』

 

p.152 清代の筆記について

「最近わたしは前人の筆記を読みたく思う。中国の筆記はもともと多く、以前にもあれこれ少なからず読んだが、今の考えは少し違う。わたしが読みたいのは目下のところ近三百年を基準にする。言葉を換えればほとんどが清代のものである。本来もう少し遡ってもかまわないのだが、晩明にはこの類の著作が多すぎ、集める資力がない。現代も中に含めないが、その理由はこれまたあまりに少なすぎるからで、新式の雑感随筆は別の項目とするしかない」(152頁)

 

p.152 すぐれた筆記は題跋に通う性質がある

「近年わたしは少しばかり尺牘の書を集めた。貴重で得がたいものは結局手に入らなかったが、それ以外にたぶん百二十種ほどあり、気ままに繰っても面白い。よく書けているものとしては自ずと東坡と山谷しか推せないけれども。彼ら二人の尺牘は実にその題跋と同じ根っこで、だから題跋も同様に喜んで読む。そして筆記はたいてい――いや、よいものは多くが題跋の性質がありあるいはその態度で書かれ、たとえば東坡の『志林』などさらに明らかな実例である」(152頁)

 

p.153 筆記の分類

『四庫全書総目提要』巻一一七子部雑家類の分類解説によれば、

「説を立てるものを雑学と云い、弁証するものを雑考と云い、議論をし兼ねて叙述するものを雑説と云い、傍ら物理を極め繊瑣な事を並べるものを雑品と云い、旧文を類輯しさまざまな方法を兼ねるものを雑纂と云い、諸書を合刻して一つのタイトルに名づけられないものを雑編と云い、すべて六類ある」(153頁)

と云う。又巻一四〇子部小説家類では、「その流別を跡付ければ、全部で三類あり、その一は雑事を述べ、その一は異聞を記録し、その一は瑣語を綴ったものである」と云う。

「上の分け方によれば、雑家の中でわたしが評価するものはただ雑説のみで、雑考と雑品ではたまに百に一つぐらいは取るべきものがあり、小説家ではただ雑事を取るだけ。異聞は小さいころは最も好きだったが、今では役に立たず、しばらくこれを高閣に束ねることにする。蒲留仙の『聊斎志異』、紀暁嵐の『閲微草堂筆記』五種は、それらが中国伝奇文と志怪の末代の優れた子孫で、文章も悪くないことは認めるが、今は彼らの出番はない。ここで必要とするのは故事ではなく、散文小篇でしかない。そう、小品文と言ってよいかもしれない。もしこのようにはっきり区別できるなら。わたしはもともとこの名前には賛成でないのだけれども。しばらく妄りにこれを言う狐鬼の話でも本来はかまわないのだが、ただ残念なことに世の中にはそうした優れた人は何人もおらず、中間の多数はとりこにならないにしても要するに信じ込み、応報を語るに至ってはまったく下流であり悪趣味である。『広陵詩事』第九に成安岩の『皖游集』を引いて大平寺に豚が一頭婦人の足を現し、まるで弓なりになっていた(実は婦人が豚のような足をしていただけであるのに、残念ながら男も女もそれが解らない)と云い、そこで品行の悪い妻が豚になるのは決してでたらめではないと信じてしまう」(153~154頁)

 

p.157~158 すぐれた筆記とは

「上では各作者の筆記をあれこれ述べたが、たいていは不満足である。それではいったいよいのは何人いるのか、これは一言では言いにくい。ただ簡単に云うと、読める文章があるほかに思想が寛大で、見識が明達、趣味が深く穏やかで、人情物理が解り、人生と自然について巨細を談ずることができ、虫魚の微小、風俗の些細を、生死の大事と同じように見なし、しかもごく普通の話としてみんなに語らなくてはならない」(157~158頁)

 

p.158~159 宗教的な盲信はだめ

なかなかよい筆記はないが、ましなものもある。不思議なのは顧亭林の『日知録』で、顧君の人品と学問には定評あるから、その『日知録』は理屈としては、わたしに好印象を与えるはずだが、そうでもない。部分的にはよいし、見識と思想も朴実で尋常のように見えてそうではない。

「巻十三の館舎、街道官有の樹、橋梁、人の集まりを述べた詩篇などはみなそうである。しかしわたしはどうしても彼の儒教徒の気を感じるのである。わたしは別に他人が儒家になったり法家や道家になることを軽蔑するものではない。しかし宗教の気が合って教徒になるのはだめである。もしそうならお辞儀主義を実行して、鬼神を敬してこれを遠ざけるしかない」(158~159頁)

儒教徒の宗教的な気があって敬遠したいものもある。たとえば、『日知録』巻十五「火葬」の条に、宋は礼教をもって建国したが火葬の俗を改めなかったので、それが滅ぶと楊璉真伽(ようれんしんか)の事が起こったとかいうのは呪い師の言葉のようなものだし、巻十八「李贄・鐘惺」にもはっきりと正統派の凶相があらわれている。その「朱子晩年の定論」の一条は、陽明学派を攻撃してややはっきりしないが、その末節に云う。

「一人を以て天下を変える。その流風が百余年の後まで久しいのは、昔からあった。王夷甫〔衍〕の清談、王介甫〔安石〕の新説、今では王伯安〔守仁・陽明〕の良知がそれである。孟子は言った。天下の生ずるや久しいが、一治一乱、と。乱世を収めて正に返すのは、後世の賢者にかかっていないわけがない」(158~159頁)

 

p.159 『剳記』と『膚語』

また、その巻十九「修辞」の一条の末節に云う。

「嘉靖以後人は記録の文雅でないことを理解して、そこで王元美〔世貞〕の『剳記(さっき)』、范介儒〔守己〕の『膚語』が出て、上は揚子雲を規範とし、下は文中〔王通か、号は文中子〕を法とし、得るところに深浅はあるものの、知言と言うべきであろう」(159頁)

 

p.159 「文人模倣の病」について

次条の「文人模倣の病」と題する文では、のっけから

「近代文章の欠点はすべて模倣にある。たといいかに故人に似ていても完璧にそれに到達してはいない。ましてその神理を放っておいてその皮毛を手にした者においてをやである」(159~160頁)

という。

 

p.160 筆記の効用

これらの文の末節は正しくても、誠意はどこにあるのか信用できず、疑問が残る。わたしには先賢を誹謗するつもりはなく、ただ筆記の得がたさを説明する例としてこれらを挙げただけである。

「わたしは筆記に対してある人々が神聖と認めるいわゆる経に対すると同様に要求し、いささかの滋味と栄養を吸収したく思う。それが手に入る時は経と同様に受け入れ、手に入らなくとも同様に愛惜するところなく傍らに打ち棄てておこう。民国二十六年三月十日、北平にて記す」

 

旧小説


61 『水滸』と『紅楼』
1951年4月6日刊『亦報』『飯後随筆』 文類編第三巻 散文全集第十一巻

 

p.304~305 水滸伝の後半は偽の任侠

水滸伝』『紅楼夢』は旧小説の二本柱だが、評価に軽重ある。比較的に『紅楼夢』に傾く。しかし、読書人はともかく、庶民の眼光を基準とすれば、『紅楼夢』の富裕層の生活感覚はわからない。芝居も『水滸伝』は多いが、『紅楼夢』は滅多にない。

「「黛玉花を葬る」を演じても、知識分子の眼鏡にしか適わない。これは落花によって身世を慨嘆する情緒が労農大衆の中には得がたいからである。話はこうだが、わたしが『紅楼夢』を読むとして全部読み切ることができるが、『水滸伝』は大半でしかない。祝家荘を攻め落としてからは、宋江はしだいに皇帝派の頭目になるようで、まさしく金聖歎の言う偽の仁、偽の義の馬脚が顕れる時かもしれないが、そうなればいつ本を置いてもよいと思われる」(305頁)

*1:尾崎文昭「章廷謙という人、彼と周氏兄弟の関係」(明治大学教養論集刊行会『明治大学教養論集193号』所収、1986年)31~32頁。

*2:尾崎、同書、34頁。

*3:尾崎、同書、47~48頁。

*4:尾崎、同書、60頁の引く「一九三〇年二月二十二日致章廷謙書信」より。

心霊現象の心理と病理(C・G・ユング)

心霊現象の心理と病理

C・G・ユング『心霊現象の心理と病理』、宇野昌人・岩堀武司・山本淳訳、法政大学出版局、1982年

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【服部 洋介・撰】


解題

本書は、その前半にユングの学位論文「いわゆるオカルト現象の心理と病理」(Zur Psychologie und Pathologie sogenannter occulter Phänomene, 1902)を「心霊現象の心理と病理」と題して収録し、後半に週刊誌Die Zukunft XIII(1905)に掲載された評論「潜在記憶」(Kryptomnesie)を収めたものである。訳者のひとりである岩堀氏はチューリッヒユング研究所におられたようだが、詳しいことはわからない。

さて、第一の論文は、ユングが、交霊会における自身の従妹の様子を観察した記録を主に、このような人たちが夢遊状態で発現する人格の変容、知的能力の増進といった現象について考察を加えたものである。その最後の方で、霊媒が語る壮大な作話が、潜在記憶を体系化したものであるという仮説が示される。ここでは、当人が何らかの形で知り得た様々な情報を、覚醒時にあっては到底不可能な能力を発揮して、知的創作物へとまとめあげる無意識の能力というものが強調されている。続く「潜在意識」では、この考えがいささか展開されて、のちに披瀝される「創造性の源は集合的無意識にある」という考えが萌しているように思われる。このあたりから早くもフロイトとの路線の違いがあらわれはじめるのであろう。

ところで、私も小学生の頃から所謂〈こっくりさん〉の観察記録をつけており、症例収集には余念がなかったので、西洋版〈こっくりさん〉というべき〈テーブル・ターニング〉を用いた交霊会の様子を記述した本書の姿勢は、それなりに誠実なものであると首肯できるものである。もっとも、ユング霊媒の回答の正確さを評価しているけれど、私の小学生時代の経験では、霊媒が未知の真実を言い当てた驚嘆すべき事例は一例しかない(知人の報告を含めても、わずかに二例である)。しかし、〈こっくりさん〉のお告げは、しばしば参加者を惹きつける魅力的な生彩を放つ文学的な内容をもって語られるのであって、それ自体、興味深いものである。私みたいな意識に覚醒しきった人間には、到底真似できない芸当である。

そしてもう一つ、ユングは先行研究を参照しながら、入眠・出眠時幻覚についての興味深い記述を行なっている。詳しいことは、当該箇所の抜き書きを参照してほしいが、入眠・出眠時幻覚の達人である私からすると、いささか物足りない感じがしなくもない。網膜のかすかな自己発光現象が幻覚の引き金となるというユングの記述には、疑問が残る。たしかに、暗闇で眼球運動を行なった際に、かすかな光知覚が起こるというのは経験上、確かなことであるし、わずかな光を過敏に知覚するようになるというのも事実であろう。しかし、そのようなきっかけがなくとも、この種の幻覚というのは起こり得るもののようである。ユングとしては、なるべく合理的な説明をしようとしたもののようであるけれど、ユングほど感受性の高い人物であれば、もっとブッ飛んだ幻覚体験の一つや二つ、きっとしていたはずであると勘繰るのは私だけではあるまい。*1なお、本書の原注50に示された幻覚事例は、白昼堂々、私が体験したものとよく似ていたので、書き留めた次第である。このような幻覚は、ある種の霊媒が示す創造性に比べれば、ありふれてとるに足らないものであろう。

なお、本書の初っ端に、論文が考察の対象とする人たちを「精神病質」と名指しする箇所が出てくるけれど、これは〈サイコパス〉の訳語ではないので、注意されたい。そのあたり、ユングが何を言わんとしているのか、訳者もいろいろと困惑した形跡が見られるが、今とは病名も疾患単位も異なる時代のこと、むべなるかなと思われる。

また、関連する剳記については「関連項目」を参照されたい。

 

関連項目

エーリッヒ・ノイマン『芸術と創造的無意識』

鈴木國文『時代が病むということ――無意識の構造と美術』

河合隼雄『中空構造日本の深層』

 

所蔵館

市立長野図書館(146 ユ)

 

心霊現象の心理と病理

心霊現象の心理と病理

 

 

 

「心霊現象の心理と病理」(1902)

 

p.1 精神病質の病像と天才との近縁性

「精神病質(精神病に近い生来性の性格異常で、その程度のはなはだしいものという意味で使ったものと思われる)といわれるものの範囲は広いが、学問的にはてんかん、ヒステリー、神経衰弱の病像とは区別されている。しかしこの精神病質という広い領域において、めずらしい意識状態が、個別的にではあるが観察されており、その解釈に関しては、諸家の一致した見解はまだない。つまり文献に散見されるナルコレプシー(急に発作的に眠り込んでしまう病的状態)、嗜眠症(ねむけのような形で意識混濁をおこすもの)、自動遊行症(てんかんやヒステリーの患者で無意識にさまよい歩くもの)、周期性健忘(心因による部分的記憶脱落が周期的に繰り返されるものであろう)、二重意識(二重人格のことであろう)、病的夢想、病的虚言(空想を真実として述べ、自分では真実でないと承知していながら真実であるかのごとくふるまい、みずからもその芝居に夢中になっているもの)などがこれである」(1頁。カッコ内は訳者の割注)

これらの状態は、一部はてんかん、一部はヒステリー、一部は神経系の疲労状態(神経衰弱)、あるいは一部は独立した疾患と分類されることもあって、患者は様々な診断を受ける。

「実際、この状態は、前記精神障害からの区別がきわめて困難であるばかりか、場合によってはその区別はまったく不可能でさえあるが、他面その特徴のなかには、病的に劣ったものというのではなく、正常な心理現象と、いやそれどころか優秀なもの、つまり天才の心理現象と、ただ似ているという以上に近縁なものもある」(1~2頁)

 

p.3 原発性夢遊症はわりと稀な現象

「重症ヒステリーの部分現象としての夢遊症は、未知の現象ではないが、病理学的な一特殊型としての、つまり独立した一疾患としての夢遊症は、ドイツ語の関連文献が数えるほどしかないということからもわかるように、かなりまれなものといえよう。ヒステリー性色彩をおびた精神病質に基づくいわゆる原発的夢遊症は、決してありふれた現象ではなく、さらに詳細な研究に値するものである。というのは、それがときとして多くの興味ある観察を提供するからである」(3頁)

 

p.19~20 精神病質研究の意義

ヒステリー性の色彩をもった精神病質の領域には、あれこれの疾患のものだとされる症状が見られるが、どの疾患にも確実に分類されえない多くの現象がある。この状態の一部はすでに独立した疾患とされていて、たとえば、病的虚言症、病的夢想症。これらは、まだ科学的逸話として記録されているにとどまっている。この状態を示すのは、常習性幻覚者か熱狂者で、詩人、芸術家、聖者、予言者、宗派創設者などとして周囲の注目を引いている。多くの場合、精神状態の成因は不明。観察する機会がめったにないから。

「こうした人物がしばしばもっている大きな歴史的意義を考えると、彼らの特質の心理的発達がより詳細に洞察できるような科学的資料を所有することが望ましいのである。今日ではほとんど無価値となってしまった一九世紀初頭における霊物学派の所産をのぞくと、ドイツ語圏の科学的文献中、この問題に関する観察をおこなったものはきわめてすくない。そればかりかこの領域の研究をはじめから嫌悪しているのではないかとさえ考えられるのである。われわれのこの領域に関する知見は、もっぱら英仏語圏の研究者の業績に負っている。それゆえ、この方面におけるドイツ語圏の文献を豊富にすることは望ましいことであろう。このような考えからわたしは、いくつかの観察を発表しようとするに至ったのである」(19~20頁)

 

p.21~24 S・W嬢の観察

1899年、1900年にS・W嬢の観察。ユングの母方の従妹。医者として診察したわけではないので、ヒステリー性ディグマータ(無痛感、ヒステリー球、咽頭反射欠如などの身体症状)などの身体的検査はしていない。S・Wは15歳6ヵ月、改革教会派。父方祖父は教養の高い牧師、しばしば覚醒時幻覚があった。以下にエピ・パトグラフィ的な親族の病歴が述べられる。つづいてS・W本人の生育歴。夢遊病が進行するまで程度の高い内容の本を読んだことがない。テーブル・ターニング(Tischrücken)に興味をもって、1899年7月、女友達や兄弟とやってみると、彼女がすぐれた霊媒であることがわかった。荘重なお告げ、とくにお告げの牧師調の響きが皆を驚かせた。心霊は霊媒の祖父であると称した。

 

p.24~26 トランス時のS・Wの様子

以下に、ユングの観察の様子が記述される。夢遊症の会話においては、亡くなった親族の特徴をすっかりそなえた調子で、きわめて巧みに真似て、参加者に強烈な印象を与える。陶酔、雄弁、まなざしは輝いて情熱的、もっぱら文語体のドイツ語で話し、覚醒時の心もとなく当惑しきった態度とは対照的に、自信に満ちて流暢だった。気高いまでの上品さ、変化する感情状態をこのうえない美しさで表現。エクスターゼのあとにカタレプシーが起こり、一分間に100回という呼吸促迫が二分続く。のちには自分で発作を誘発できた。霊媒になったときの会話をどれほど記憶しているかについてはよくわからないが、おぼろげながら知っているようだった。トランス時に語った内容を再現して聞かせると、その内容について怒ることが多く、何時間も不機嫌になった。

 

p.29~30 まとまった幻覚は心霊会以降に生じた

S・Wは、ついに白昼でも心霊の姿を見るようになった。5、6歳の頃、夜半に指導心霊である祖父の姿を見たというが、この幼児期幻影があったという客観的な証拠はない。このあと最初の心霊会までこうしたことはなかった。入眠時に暗がりの中で火花が見える光視症(Funkensehen)をのぞけば、要素的幻覚が生じたことはなく、幻覚は当初から系統的に、全感覚に同じように生じた。S・Wは、心霊の話が真実かどうかについては知らないが、心霊の実在はまちがいなく、見たり触れたりできると述べていた。

 

p.32~33 参加者の質問に答える

半夢遊症様状態でのS・Wの雰囲気はおごそかで、宗教性がかもされていたが、指導心霊の語る聖書や宗教書からのおしゃべりの影響はなく、作り話の多くが、覚醒時の関心事を総動員した内容となっていた。テーブル・ターニング実験のときにこの状態が突如出現、エクスターゼに移行、会合参加者の比較的簡単な質問を言いあてたり、答えたりすることができた。テーブルの上に手を置くか、彼女の両手に手を重ねればよい。だが、物理的接触なしに心の中で念じても、以心伝心は成功しない。

 

p.38 ゼノグロッシーらしき事例

第五回の交霊会(1899年9月)における夢遊症発作。S・Wは会話調の外国語訛で話し続けた。その訛はフランス語、イタリア語の響きに似ており、あるときは、フランス語、イタリア語を思わせるものだった〔表現が重複しているが、あくまで原文の要約〕。流暢で優雅だが、きわめて早いテンポでいくつかの言葉が理解できるだけで、記憶できない。ときどきwena、wenes、wenai、weneといった言葉がくりかえされる。話し方は自然そのものであって、おどろくばかり。外国語で話したことを後でS・Wに伝えると、怒り出した。翌日に再び発作が起こってS・Wが寝入ると、ウルリッヒ・フォン・ゲルベンシュタイン(U・ v・ G)なる男があらわれた。北ドイツ訛の標準語で話し、なかなか雄弁。

 

p.45 文句のつけようのない標準語を話した

S・Wは標準語をほとんど話せないのに、U・ v・ Gはほとんど文句のつけようのないドイツ語を、愛嬌のある慣用句やお世辞をいっぱい使ってしゃべった。

 

p.46 エクスターゼと人格交代

S・W嬢はエクスターゼ中の自動的現象を全部忘れてしまっていることが多いが、その場合には、これらの現象は彼女の自我とは違った人物たちのものである。大声で語ることや舌語り(特に宗教的エクスターゼ中にわけのわからないことを言い出すこと。語る人がこれまでに知らなかったギリシャ語、ラテン語を話すこともある)といった、彼女の自我と直接に関連のある現象は、すべてよく覚えているのが普通だった。42~43頁によると、祖父の霊が憑いて自作(?)の詩句を口にした。内容や表現からして、何らかの宗教冊子に由来する文章であることは明らか。

 

p.61 次第に失調してインチキに

やがてエクスターゼは生彩を失ってきたのでユングは脱会、S・Wは他の集まりで発作を試みるようになったが、インチキに走った。今ではかなり大きな商店の店員で、勤勉、忠実、性格もよくなって、落ち着いて好感をもたれるようになっているという。

 

p.84~85 入眠時幻覚

眼球内現象の役割が大きく、幻覚性朦朧状態の前に光視症が出るのは、きわめて弱い網膜の自己発光現象が強く見えたもの。幻覚発生の際に眼球内の光知覚が役割を果たして、入眠前の空想的表象に素材を与えるとシューレは言っている。完全な暗闇というものはなくて、かすか光があちこちにあらわれて、多種多様な形をとる。そして空想が生き生きとしていれば、容易に何らかの既知の形姿をつくりだす。暗闇における眼球内現象と視覚領野の興奮は幻覚を起こしやすい。

「入眠とともに判断力が消滅し、空想の自由にかける場が与えられ、その結果、ますますいきいきとした形姿がつくりだされるようになる。暗い領野内のかすかな光とか、もやとか、変化する色とかに変わって、特定のものの輪郭が現われる。入眠時幻覚(眠りに入ろうとする状態に現われる幻覚で、正常人にもあり、夢と同じく見える像であることが多い。目がさめているという意識があり、また自分が見ているという意識がある)はこのようにして生ずる。幻覚形成の主力は当然空想であるから、空想ゆたかな人が入眠時幻覚を見やすいことにもなる」(85頁)*2

 

p.85 入眠時幻覚と夢の関係

「入眠時の形象が、正常な睡眠の夢の形象と同一であるとか、あるいは夢の形象の視覚的基盤になっているということは、十分にありうることである。たとえば、モーリーは、自己観察によって、入眠時に浮かんだのと同じ形象が、ひきつづいて見た夢の対象でもあったことを確認している。同じことをG・トルムブル・ラッドは、もっとはっきりと証明した。練習によって彼は、入眠二分ないし五分後にぱっと覚醒することができるようになった。このとき往々にして彼は、網膜に輝いて見える形姿が、たったいま夢に見ていた形象の輪郭であることに気づいた。そのうえ彼は、ほとんどあらゆる視覚的な夢は、その形を網膜の自己発光現象から受けとっているとまで考えている」(85頁)

 

p.85~86 光の形象化という幻覚のあらわれ方について、他の事例

このような光の形象化は、他の幻想家にも見られることで、ジャンヌ・ダルクの場合、最初は光雲が見えていたが、しばらくたってそこから、聖ミカエル、聖カタリーナ、聖マルガレータが現われた。スウェーデンホリーには、一時間ばかり輝く球と明るく燃える炎以外なにも見えなかったが、一時間後、ちゃんとした形をもったものを見て、天使の霊だと考えた。エルゲンスブルクにおけるベンヴェヌート・チェリーニの太陽の幻影も同じようなものだろう。フルールノアのエレーヌ・スミスの場合の幻覚の出現の仕方は典型的。

 

p.111~112 無意識の能力増進

無意識の能力増進の分野について論及、精神病質のあらゆる面を公平に考慮に入れたいと思う。これは自動症的過程であって、本人の意識的な心的活動の産物ではない。テーブル・ターニングを通して、他人の比較的長い一連の考えを読み取ることが、果たして企図振戦から帰納的推論によってできるだろうか、わたしにはわからない。熟練すれば可能かもしれないが、そのような熟練はわれわれの症例ではただちに除外されるので、意識的感受性よりもすぐれた無意識の感受性の存在を想定するほかない。夢遊症者についてのたくさんの観察がこの想定を支持する。

 

p.112~116 潜在記憶、無意識の思いつき

次にみられる無意識の能力増進の例は、潜在記憶(Kryptomnesie)と呼ばれる過程。

「潜在記憶というのは、記憶像を意識化することであるが、この場合はじめから記憶像そのものが認識されるのではなく、偶然の機会にあとからの再認か抽象的判断を通して、二次的にはじめてそれとわかるのである。潜在記憶の特徴は、出現する像がそれ自体としては、記憶像の徴表をもっていない点、つまり、該当する上意識の自我コンプレックスと結びついていない点である」(112~113頁)

イメージが感覚領域の媒介なしに精神内界を通して意識にのぼる「思いつき」などもそれ。その因果の連鎖は本人にも不明のままで、これ自体はよくある現象。研究者、文筆家、作曲家が潜在記憶のために誤って自分たちの着想を独創的なものと確信するが、あとから批評家から原典を指摘されるということがよくある。多くは個性的な表現になっているので、盗作との非難をまぬがれるが、重要な考えが含まれている章句などの類似は、盗作と疑われても仕方がない。というのは、重要な考えというのは多少なりとも自我コンプレックスと結びついているので、まったく意識から消えてしまうということはないから。ニーチェも、若い頃に読んだとるにたらない内容の詩を半意識的あるいは無意識的に、ツァラトゥストラの中でかなり正確に再現している。

 

p.119 潜在記憶による体系を組み立てる無意識の能力

潜在記憶が感覚を介して幻覚として意識にのぼる場合、潜在記憶が運動性自動症(テーブル・ターニングなど)を介して意識に現われる場合についての説明があり、結論的に、潜在記憶は夢遊症者がときおり示す直観的認識という、めずらしく驚嘆すべき事例の基本現象というべきものだという考えが示される。企図振戦運動の解読には、敏感というだけでなく、感情的な繊細さも必要で、これは個々の知覚を結合してまとまった統一のある思考にする。このことは、無意識の領域における認識過程が、意識の認識過程と類似していると仮定した場合。とにかく、無意識においては感情と概念がそれほど明確に分かれておらず、場合によっては一つになっているという可能性に留意すべき。多くの夢遊症者がエクスターゼにおいて示す知的高揚はめずらしいものだが確かな観察される事実であり、ケルナーにおけるハウフェ夫人の例は、彼女の正常な知能を超えた能力増進と見なしたい。ハウフェ夫人が潜在記憶で知り得たことを体系化するのにどれだけの知力が費やされたか、それをどう評価するかは好みの問題だが、患者の若さと知性の程度からすると、これは尋常なことではない。

 


「潜在記憶」(1905)

 

p.131 新しいものはあらかじめ無意識で考えられている

精神的に創造的な仕事をしている人はみんな無意識に依存していて、あらゆる新しい考えや思考連合は、あらかじめ無意識において考えられている。あらたな精神の道をたずねる者はみなこの不安定な地盤の上をさまよっているが、嘆かわしいのは自己批判なきもの。空想の世界では何事も手に入るので、新しい考えをさぐっているものはたちどころに仮象に喜ばされる。しかし、これは宗教史や群集の心理だけでなく、詩人、作曲家なども同様、ある思いつきが目新しいものだと信じたい気持ちにならなかったものはいないだろう。この上なく偉大で、独創的な天才でも、錯誤とその結果から逃れることはできない。

 

p.132 ヒステリー患者の性質は天才にふさわしい

「このためゆたかな精神の持ち主と精神病者は渾然としていて、ロムブローゾのことばを借りれば、天賦の才をそなえた狂人もいれば、狂気の天才もいるということになる。きわめて日常一般的な変質徴候のひとつに、ヒステリー、つまり自己統制と自己批判の欠如がある。ノルダオのように、えせ精神医学的な仕方で天才の中の狂気をかいでまわらなくても、ヒステリーに類似したある種の精神状態なしには、たしかに天才など考えられないといえる。シューペンハウアーがいみじくも述べているように、強い感受性、つまりヒステリー患者のもつ繊細性と情動性といったものは、天才にふさわしいものなのである」(132頁)

 

p.132 天才の才能はひとつのヒステリー症状

ヒステリー患者の大部分の発症理由は、強い情動が付与され、無意識の奥深くの記憶群が制御されなくなり、患者の意識と意志とを制圧するから。女性なら恋の幻滅であったり不幸な結婚であったり、男性なら社会的地位の不遇、不当な評価など。患者は日常の情動を抑圧しようとするが、これが悪夢や発作の原因になる。天才も精神的コンプレックスを背負わなくてはならないが、背負える場合は喜んで引き受け、背負いきれない場合にも苦しみながら耐えていく。つまり天才は自分の才能がもたらす「症状行為」の遂行を強いられているわけで、自分の苦悩を詩作し、描き、作曲する。これらの前提は、創造的才能に恵まれたものすべてに多かれ少なかれ妥当する。

 

p.133 芸術作品は過去の着想の継承と再構成

新しいのは組み合わせだけで、素材の方はほとんど変わらない。

ベックリンの色彩も全部、すでにそれ以前の巨匠たちに見られたものではないだろうか。ミケランジェロの作品の指、腕、足、鼻、首は、すでに古代ギリシャ・ローマになんらかの手本があったのではないだろうか。たしかに、傑作の細部は、必ずといっていいほど昔からあるものであり、やや大きめな(組み合わされた)まとまった部分も、たいてい継承されてきたものである。だからといって巨匠は、過去のものの全断片をひとつの新作品へと同化することを、軽んじはしない。われわれの心は、たえず根っから新しいものをつくりだすほど、際限なくゆたかなわけではない」(133~134頁)

 

*1:ユングの秘書であったアニエラ・ヤッフェによると、ユングの超常的体験は当初はさほど頻繁ではなかったというから、この学位論文を書いた当時は、後年よりもいささか醒めていたのかもしれない。

*2:入出眠時幻覚の説明については、ユングの原注50に興味深い話が載せられている。スピノザは出眠時に「汚ない黒色のブラジル人」を見た(Hagen, Zur Theorie der Hallucination, p.49)という。また、「オティリエは、ときどき薄暗闇のなかで、にぶく光った部屋にいるエドワードの姿を見る。Cardanus, De subtilitate, p.358:ベッドのすそにわたしは像を見た。それはいわば円と曲線から成っていて、樹木や動物や男たちや、整列した軍隊や、武器や、楽器などをあらわしており、交互に上下し、次々と出てくるのである」(146頁)とある。

芸術と創造的無意識(エーリッヒ・ノイマン)

芸術と創造的無意識

エーリッヒ・ノイマン『芸術と創造的無意識』(ユング心理学選書6)、氏原寛・野村美紀子訳、創元社1984

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

解題

著者ノイマン(Erich Neumann、1905~1960)はユングの高弟で、深層心理学の基礎を築いた一人。本書はそのKunst und schöpferische Unberwusstes, Rascer Verlag; 1954の全訳。巻末の解説によると、ノイマンは1905年生まれ、1927年にベルリンで哲学の博士号をとり、1933年に医師の資格試験に合格したとある(Wikipediaには、エアランゲン大学で哲学博士号とある。どちらが正しいのかはよくわからない)。1934年と36年にチューリッヒユングのもとで研究に従事、ユング派の分析家としてエラノス会議でも活躍、1960年に没した。どちらかというと、その業績は臨床面より理論面に顕著とされる。*1

さて、この頃は、まだ前代の天才崇拝の余韻が残っていたのか、ノイマンの芸術論というのは、ほとんどロマン主義を論じる哲学者の風で(バーリン卿は、ベルクソンの観念にあってシェリングのうちにないものはほとんどないと言ったが、ユング派の芸術理論もシェリングを思わせるものである)、芸術家というのは、いわば「超個人的なもの」にアクセスした「聖なる狂人」なのである*2。曰く、芸術家はその預言者的な性格から、その時代精神に最も欠けたものを作品として時代にもたらすのであるが、このようにして日常性を超えるとき、彼らはその時代の外的な文化規範を参照するのではなくて、直接に自身の内的な体験から新しいイメージを生み出すのであって、この内的体験は現実の体験とは直接に関わらない、「超個人的なもの」に由来する体験だというのである。この「超個人的なもの」をふつう「集合的無意識」と呼んでいる。ユングはこれを次のように定義している。

 

集合的無意識とは心全体の中で、個人的体験に由来するのではなくしたがって個人的に獲得されたものではないという否定の形で、個人的無意識から区別されうる部分のことである。個人的無意識が、一度は意識されながら、忘れられたり抑圧されたために意識から消え去った内容から成り立っているのに対して、集合的無意識の内容は一度も意識されたことがなく、それゆえ決して個人的に獲得されたものではなく、もっぱら遺伝によって存在している〔個人的無意識がほとんどコンプレックスから成り立っているのに対して、集合的無意識は本質的に元型によって構成されている〕。*3

 

なるほど、創造的なイメージがある特異な心理状態から生み出されるという言明は、経験的には真らしく思える。そうして意識上にもたらされたイメージの内容、ないし創造性の全体というものが、漸次あらわれでてくるような種類のものではなく、ときに突発的に、あたかも一夜にして作品の外観を激変させることがあるということも、同様に真らしく思われる。大芸術家ともなると、常にこのような内発的な力と外界の矛盾と格闘し、無意識的なものを自覚的に統御して、無時間的で永遠の、超越的な芸術作品を生み出すというのである。

このような意味で、創造的な経験というものは、他の日常的な経験とは様態を異にする特殊な経験ということができるのであるけれど、このような状況をユングは元型的なそれと呼んでいる。元型〔archetypus〕とは、集合的無意識の原古的な型のことで、「太古から存在している普遍的なイメージ」*4である。したがって、この種の芸術家を調べれば、その作品中に、大昔から受け継がれたある〈型〉 が見出されるはずである。それはあらゆる文化に普遍的に見られるシンボルであったり、物語においてくりかえされる同一のモチーフであったりするわけだけれど、肝心なのは、それが個人的な創案になる意識の産物ではなく、人類共通の普遍的な無意識に由来する生得的なイメージであるという主張にある。それは単に先行する表象から知識として学ばれるものではない。たとえばユングは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「禿鷹シンボル」を扱ったフロイトの論文を引き合いにして、レオナルドが当時の教養人に読まれていたホラポルロの『象形文字』からこのシンボルを知った可能性について言及している*5。なるほど、禿鷹シンボルは元型的なモチーフではあるけれど、レオナルドがそれを文献で知っていたとすれば、それは単に文字で書かれた情報を摂取しただけのことであるから、そのような図像が、人類が普遍的かつ先天的に保有している心理的イメージのあらわれということはできないのである。まして、互いに何の影響もないところで、元型が時間不変的に世界のあらゆる文化において発現しているということを証明しようにも、クリーン・ルーム内の実験とは異なるので、科学的には困難を伴うであろう。

そうしたわけで、純粋なフォームに注目する現代美学の洗礼を受けた研究者の中には、芸術を語るのにフロイトはもちろん、ましてユングだのはさらにご法度という人もいて、この連中の理論をもちだしたら最後、学問の体が保てなくなると考えられているもののようである。アートの解説をする者が精神分析だの、分析心理学だのの理論(つまり、個人的なものであれ普遍的なものであれ、目に見えない無意識を原理とする理論)に頼っては、ただの憶測に堕してしまう、というわけである。とりわけ日本では、精神分析はさして陽の目を見なかったけれど、どういうわけか、文化庁長官までつとめた河合隼雄は日本初のユンギアンであった。ユングと同じで、幼いころから感受性の強い人であったらしい。なお、生物系を標榜する東大医学部の精神科では、精神分析は敵視されていたもののようで、本邦における精神分析研究は慶應義塾大学を中心に発展を見たもののようである。もっとも、古沢平作は東大の脳研究室に日本における精神分析の拠点を置こうと考え、当時の精神科主任教授の内村祐之の賛意を取りつけた。慶應が主流となるのは、1954年以降のことであるといわれる*6

学生時代、私は個人的に女子美術大学村山久美子教授(芸術心理学、当時は助教授)に教えを受ける機会があったが、彼女が若かりし頃には、フロイトユングもまったく教わる機会がなかったと嘆かれていた。もともと実験系の心理学を専攻された先生であるから、むべなるべしとも思われるけれど、芸術家の創造性に関する研究もされていたから、私がお話を伺った頃には、力動系の臨床家のようなことも仰っていた。友人の絵を題材に絵画投影分析などをして議論したものである。当の私は、高校の現代文の試験でさんざん深層系の心理学テキスト(フロイトユングアドラーなど)を読まされてきたから、フロイトだのユングだのは、当時におけるほとんどブームであった。かくいう私であるが、高校時代、とにかくよく授業をサボっていたので、しまいには職員室に呼び出され、そこで「アニマ・ムードに取り憑かれていますので」と、ユングばりの自己分析を披露して、担任を呆れさせたという次第である。

本書は、芸術家の超越的性格を力説するもので、芸術家諸君が泣いて喜ぶような内容になっているけれど、いささか芸術家の天才神話が独り歩きしているような感もなきにしもあらずで、現代の歴史学の進歩から見るに、内容的にいささか古びたものとなっている。たとえば、ベートーヴェン交響曲の意義というものを、その音楽的天才に求めるような見方は、こんにちではいささか安易に過ぎるような気もしないでもない。今や、大交響曲の普及ということに関して、作品そのものが果たした役割は比較的に小さなものであったという考え方が提起されるようになっている。しかし、ノイマンの理論からすると、文化・社会の分野における新思潮というものは、当代の時代精神を補償する集合的無意識の働きによって生み出されるものであるから、今度は、民衆における音楽聴取の態度を変化させることに大きな役割を果たした哲学者や文学者というものが、預言者的な天才としてフォーカスされることになるであろう。しかし、この〈起源探し〉に絶対的な正答が存するか否か、疑問といえば疑問である。もっとも、ノイマンの立場からすれば、当時の時代精神の限界を突破して、ベートーヴェンの芸術作品が今なお評価されているということが重要なのであって、19世紀初頭の経緯はさして問題ではないのかも知れない。これこそが現前する「芸術の超越」の証拠とされるからだ(なお、ノイマンベートーヴェンらしき人物に言及しているのは本書では1カ所のみであって、詳細なものではない)。

いまひとつ、オランダ絵画の黄金時代に出現した風景画の傑作を例に考えてみよう。それを描いた芸術家が、神話画や歴史画を頂点に位置づける当時の時代精神に反発し、その天才的直観をもって近代の精神を先取りしていたと見るべきか、単に富裕な市民が力をもったオランダ社会において、新たに画家のパトロンとなった市民層が、彼らの見慣れた北ヨーロッパの広々とした海洋風景を好んだことが、地誌的風景画の発達を促したと説明すべきか、われわれはどちらの説明に納得を感ずるのかという問題である(どちらの説明も卵と鶏の関係で、けっきょくは何も説明していないのではあるけれど)。前者は著名な偉人の天才性を重視する傾向にあるけれど、たとえばアナール学派をかじった人であれば、(いささか退屈を感ずるかもしれないけれど)そのような解釈に同意しないだろう。時代に画期をもたらした社会構造の変化、それを促した技術の革新などに、文化表象の移り変わりの背景を求める考え方もあるのである。

もっとも、その点はノイマンも自覚していたようで、芸術家がある時代の文化に欠けていたものを補い、次の時代精神を先取りしてゆくという説明が結果論にすぎないという批判については、理解していたもののようである。すべての文化のすべての芸術をそのようにして理解できるのか、ロマン主義以前の芸術についても同じような解釈が成り立つのか、一応、疑問としておかなくてはならない点であろう。このあたりは、ガダマーが『真理と方法』で一考しているところである。そこでノイマンも、本書が考察の対象とするところを20世紀前半の同時代美術に限定せざるを得なかった。ノイマンの説にしたがえば、少なくとも現代の芸術家というものは、まず当代の社会制度や価値観に肯ぜず、かつ、その作品が元型的なものを表出し、かつ集合的なものを個人のうちに統合したと見なされる人に限られるので、そのようなものが芸術だと一方的に言われても、いかがなものかという意見が出るのも事実であろう。ノイマンからするとシャガールはよくてダリはクソだということになるのだが、私からすればシャガールもダリもナンボのモンか、大して興味はない(マグリットにはいささか興味を覚えるけれども)。芸術の永遠性にかんする真理問題のあたりから、ノイマンの話はまったくよくわからなくなる。けっきょく、ダリはたんに俗悪な個人的無意識の表現者であり、シャガールは時代を補償する真の芸術家であったという言説がよくわからなくなるのは、「時代の補償」という概念が十分に定量化されていないためである。シャガールが何をして、時代がどのように補償されたのかという説明変数と目的変数の関係が今ひとつ不明瞭であるし、ことによっては説明変数と目的変数の取り方がさかさまであるかもしれないから、そうなると、シャガールの位置づけというものも、せいぜい時代の一現象というようなところへ格下げせざるをえないものとなるであろう。

とはいえ、芸術が教会や宮廷に従属していた頃でさえ、いわゆる芸術家というものが、たんに芸術という分野に特別な才能を発揮するだけの平均的な人間であったかというと、それはそれで疑問が残るものである。もちろん、たんに絵が得意であったとか、彫刻がうまかったとか、音感に優れていたというような、それだけのことで偉大な作品を残した人もいたには違いないであろうけれど、往々にして風変わりな人も少なくはなかった。これは芸術家に限らず、その時代の偉大なる変人すべてに当てはまることで、政治家でも哲学者でも軍人でも科学者でもよいのだけれど、元型は造形的なものとして表出されるというユング派の理論からすると、そのようにして生み出された芸術作品を、臨床的に観察された元型的状況にある患者たちの作品と比較することが重要視されたのであろう。

そのようなわけで、〈創造的な〉人間といえば、多くの人は芸術家を思い浮かべるのであろうけれど、病跡学の対象とするところは、芸術家のみにとどまらない。上に挙げたように、すべての〈創造的な〉人たちの内面や行動というものを記述的に追っていくことで臨床的な知見を積み重ね、何らかの了解をめざすということが、病跡学の目的である。ある種の創造性の発現というものが、きわめて特異な出来事として経験されること、また、ある創造的な人がものを認識するときのやり方が、創造にたずさわらない人たちのそれから大きくかけ離れているという見解は、私の観察するところ、(他に例外はいろいろあるにしても)あながち的外れなものとは思われない。実際、そこに理論に還元可能なナニかが存在するか否かもよくわからないけれど、理論というのはしょせん理念的なもので、すべての人間にすっかり当てはまるというものではない。創造的であるとされる人たちの間でも、その創造性の様態というものはかなり異なるように思われるからだ(そこで〈真に〉〈創造的な〉人たちとはだれかということになると、理論がない以上、私にはまるで答えようがない)。

集合的な文化規範のなかから特異な個人があらわれるということを、どのように説明すればよいのか、また、そこに何か人類共通の目的論的な意義を見出せるかどうか、その点、ノイマンの説明には腑に落ちない点が多々あるけれど、それにしても、傑出して創造的な偉人があらわれるには何か理由があるはずだと考えるのは、もっともな思いつきである。サルトルは『方法の問題』(1957)において「ヴァレリーが一個のプチ・ブル・インテリであるということ、このことに疑いはない。しかし全てのプチ・ブル・インテリがヴァレリーであるわけがない」と述べたというが*7、早い話が、特殊のなかにあらわれる時代の普遍性と、普遍性のなかにあらわれる個の特殊性の相関がここで問われることになるのである。この図式も何やらシェリング哲学の焼き直しのような気がしないでもないが、個人と時代というものを、厳密な伝記的研究と社会調査によって結びつけようというのが、サルトルの〈伝記的評論〉という方法論なのである(学術的なものに対して、「評論」といって語尾を濁しているわけである。オルテガ・イ・ガセットが「明示的論証なき学問」と呼んだエッセイに通じる濁し方である)。

こういうことは、人文科学の方法でちゃんとやれば、相応に妥当な推論が可能になるようにも思われるけれど、ただし、それが自然科学の物的事実ではないということには注意を要するところである。たとえ歴史学的に実証が可能といっても、それは実験による実証とは異なったものなのである。経験科学が、その場で経験的に真偽を判ずることのできる悟性的な真理にかかわるのに対し、数学や論理学は、経験を待たずに真偽を判ずることのできる理性的な学ということができようが、一方、人文学的な〈出来事〉というものは、その結果を待ち、後世になって初めて真偽の判断が可能となる、特殊な意味論に属するものである。たとえばノイマンは、ヒトラーというエセ予言者を例に挙げているが、ヒトラーが登場した時点では、米国にすらその手腕を高く評価する世論があったほどで、あのままドイツが勝っていたら、ヒトラーは自己成就的に真の予言者となっていたことであろう*8。かれが時代を補償する英雄であったのか否か、かれが出現した時点で客観的に確定することはできなかったのである。新規の芸術作品の評価についても、同様の問題がつきまとうであろう。このように、人為が介在する事象を安易に物的事実と比較することはできないが、実は、そこにも生物学的な(いわゆる)〈本能〉と同じ程度には〈経験的な〉法則が働いていると見るのが、ユングの考えのようである*9

なお、剳記に取り上げたのは、本書のごく一部「芸術と時間」という一篇のみである。いろいろ書いたわりにはお粗末な話だが、ご容赦いただきたい。なお、あわせて、『時代が病むということ――無意識の構造と美術』(鈴木國文)の剳記もお読みいただければ幸いである。上に書いた事柄を補うものである。

 

 

所蔵館
市立長野図書館(書庫)

 

関連項目
鈴木國文『時代が病むということ――無意識の構造と美術』

C・G・ユング『心霊現象の心理と病理』

河合隼雄『中空構造日本の深層』

 

芸術と創造的無意識 (ユング心理学選書 (6))

芸術と創造的無意識 (ユング心理学選書 (6))

 

 


「芸術と時間」

 

p.92~93 人間の内奥における集合的無意識

本書の考察の対象は、みずからが生まれる時代に対する芸術の関係、とくにわれわれの時代に対する現代芸術とする。これは文化心理学による試論なので、集団にとっても個人にとってもきわめて重要な心の現象として芸術を捉えることが大切。その出発点は無意識の創造的機能でなくてはならない。無意識はつねにもっぱら造形的にはたらく。無意識は

「「自然」と呼ばれる、外界の形象をみずから生みだす未知のものに照応する、もうひとつの未知のものが集合的無意識、すなわち宗教、儀式、社会秩序、意識、さらに芸術も含めて、人類の内部のすべての精神的形成物が生まれる場である。(92~93頁)

 

p.93 元型は時代や文化のなかでさまざまな形姿をとる

集合的無意識の元型はそれ自体は形をもたない心理的な構造であるが、人間が形づくる芸術のなかで外化され可視的になる。この場合元型は媒体を通ることによって変化を蒙る。すなわち元型がとる形は、元型が現れる時代、場所、集団、個人の布置、によってさまざまに変る。(93頁)

 

p.93~94 様式史は取り扱わない

「われわれの課題は、ひとつの文化の内部で個との元型の発展のあとを辿ることでもなければ、同一の元型がさまざまの文化の中でとるさまざまな形を追求することでもない」(93頁)。様式の時代区分ごとに元型がとる表現形式に美学的様式史的な観点からかかわるつもりもない。人類にとっての芸術の意味と、人類の発達のなかで芸術が占める位置を問うのが目的。

 

p.94 原初的な状態においては芸術も集団的な現象としてあらわれる

人間の意識発達が始まるころの心の原初的状態にあっては、無意識的、集団的、超個人的な因子のほうが意識的で個人的な因子よりも重要で目立ちやすい。同じく芸術もはじめは集合現象で、集団の生のなかに統合されている。個人として芸術がおこなうそのやり方も、やはり集合的状況の表現である。無意識の創造活動がもっとも活発な「偉人」が集合体に方針を与える立場にあるときも、みずからの創造物を個人としての自分のわざとは考えず、先人、祖霊、トーテム、神のはたらきに帰すという形であらわれる。

 

p.96 芸術作品とは無意識を意識化したものである

意識が発達しすぎるほど発達してしまったこんにちでこそ、ほとんどの場合に情緒や感情の要素が芸術的なものの本質と結びついているようにみえるが、意識の未発達な段階ではそうではない。未開人や古代の文化にとっては聖なるものに形を与えることは意識を与える、いやそもそも意識を創造する現象である。意識を通過してはじめてまだ漠然とした、しばしば混沌としているようにみえる、神秘のさまざまの力によって動かされている世界に、区別の可能性と秩序が生まれる。つまり古代の人間にとってはまさに芸術的な造形力によってこそ、世界の内部における関係の認識が可能になるのである。(96~97頁)

 

p.99 芸術家が専門化することで、他の成員は創造的活動の受容者に転じる

芸術という創造的な造形現象のなかに、人間が歴史の経過のなかで心の原初的状態が崩壊していくあとを辿ることはできる。発達に伴う個人の個性化を意識の相対的独立化によって芸術の創造性が集団のなかに統合されているという状態は解体、分化がすすめば、詩人、画家、彫刻家、音楽家、舞踏家、俳優、建築家などが職業集団として個別の機能を果たすようになり、集団の他の大多数の成員は創造活動から離れ、受容するのみになってしまう。しかしも個人の孤立も、芸術家の集合体からの分離もじつはそれほど進行していない。

 

p.100 集団の集合的無意識時代精神の補償へとはたらく

集団のなかにも集合意識(文化の規範、教育の向う方向、めざす目標、個人の意識の発達を決定する、文化の最高価値の体系)と、新しい展開、変化、革命、革新を準備する集合無意識という二つの心の組織がはたらいている。

 

p.101 決定的なのは集合的無意識である

自我と意識ではなく集合無意識と自己こそ窮極の決定因である。人間とその意識の発達は、内発する力と無意識の内的な方向とによって決まる。意識と無意識の間にすでに対話のある、弁証法的な稔り豊かな関係が成立していても、この事情に変りはない。(101頁)

 

p.105 偉大な芸術は時代の価値観と対立する

芸術の時代へのかかわりかたは、ユングのいうように文化規範に対する補償。

だが、このような心の布置は、この種の偉大な芸術にほとんど必ず伴う宿命的な悲劇を理解させてくれるものでもある。文化規範を補償する、とは文化規範に対立することであるが、これはすなわち時代の意識および価値観に対立することである。(105頁)

 

p.105~106 芸術家は同時代人の意識から遠く隔たる

芸術家の内部の創造的な層が一定の段階に達し、根源的なイメージがかれの内部で形をとり、その時代にとって必要なものとして生まれでようとするとき、芸術家は周囲の人びとの意識から遠く隔たり、それだけいま生起しようとしている決定的な事象のほうに近い。そのとき芸術家は、みずからの時代の今後の運命となるものを語り、形づくるのである。(105~106頁)

 

p.106 ルネサンスの芸術から地の元型が復権する

たとえばルネサンスの造形作品は永らく西洋の芸術を規定したが、人間の自由な動きとか、遠近法、立体感、客観的色彩など、純粋に芸術的なこととはまったく別の意味がある。外界の風景を忠実に描くために中世の象徴的な世界が放棄されたということではなく、ここで大事なのは、中世を支配していた天の元型に対立する地の元型が戻ってきたということで、この時代の「自然主義」もやはり心の背景で元型の構造に転換が起ったことの象徴的な表現なのである。

 

p.108 地の元型のはたらきはフランス革命にも作用

フランス革命、哲学的唯物論、聖母被昇天の教義まで、抬頭する地の元型のはたらきは及んでいて、この元型は新しい文化規範の中心要素となるもの。

 

p.108~109 時代の規範を顚覆するときに芸術家の機能は宗教的なものに高まる

その時代にとっての必要なことが芸術家の身の上におこるが、かれはそれを知らず、欲さず、たいていはその本来の意味を理解すらしない。それゆえ芸術家は予知能力者、預言者、宗教家に近い。現存する規範を表出するのではなく、それを顚覆するときにこそ、芸術家の機能は宗教的な意味にまで高まる。

 

p.109 人類は意識化して文化規範を代表する人は既存の社会を守る側に立つ

人類が発達し、専門化と分化が起った結果、根源的な心の状態ではだれもがもっていた深層との近さは失われた。文化規範を表出する規範の代理人たちは内的な直接的体験という根源の火に近いところにはいないし、意識された合理的な面、芸術と文化の容器を守り強化する勢力をかれらは代表する。聖なるものとの創造的な対決は、文化規範の表出を目的としない個人のものとなる。

 

p.110 芸術家は文化を超え出るが、一方で、文化と最も深く結ばれている

集合体および時代に対する芸術家の関係について。

芸術家が文化規範を補償すべきであるとするなら、まずかれが文化規範によって捉えられ、それをみずからのうちで体験し、その先へ出ることが、前提となる。みずからの属する文化の時代が抱える困難に無意識であれ悩まなくては、芸術家は時代の渇望を将来鎮めるものと定められている、あらたに湧きだしてくる泉に到ることはない。すなわち創造的な人間は、しばしば眼にはみえなくとも、みずからの属する集団とその文化に深く、文化という容器とその価値に守られて暮らしている一般の人よりも深く、文化の代理人にくらべてさえさらに深く、結ばれているのである。(110頁)

 

p.111~112 芸術家は集合的無意識に導かれ、やがて個性化する

創造的な人々は、それぞれ別個に自分の運命を捉えているが、心の場の統一性に結ばれていて、同一の方向へ動かされる。ふつうこれを「時代精神」と呼んですませている。これはあらゆる領域で同時に超個人的な無意識的なものが自己を実現し、その時代の精神を形成すると公式化して言ってみても、まだ控えめな言い方である。決定的なのは、自覚されている意識ではなく、集合的無意識の方である。最初は集合体に条件づけられているのが個人の宿命だが、やがて個別化して、当初の無名性や、集団に統合されたありよう、彼を包み込んでいる様式の支配からも自由になる。これが時代に対する芸術の個性化の端緒。

 

p.112~113 芸術の超越

これを芸術の超越と呼びたいが、集合体に縛られたありようからの超越で、無意識の道具でも、元型の一断面の表出でもない。無時間性、永遠に達したもの。文化規範に捧げられた面は強いので、それを周到に認識した上で論ずべきだが、そもそも他文化の芸術を理解できるかという反論もあろう。

 

p.113 芸術の永遠性は実在のものか

芸術の永遠性は一目見てそれとわかるものではない。世界中の芸術を体験することのできる可能性自体、われわれ現代人に特有の現象のひとつであって、キリスト教の教義なしに、どんなキリスト像が、仏教の教義なしにどんな仏陀像が理解されようか。もしわれわれが経験できるのは、じつはわれわれに対する、またみずからの時代に対する、芸術作品の関係だけだとしたら、超越の段階とは幻想で、芸術家もかれらの時代に一歩先んじていたというだけのことなのだろうか。

 

p.114 個性化した芸術家はわれわれの範例

芸術家の伝記に興味を抱くこと――これも、個人が前面に出てきた西洋の前世紀の産物である――にわれわれは慣れている。かれらの生涯を古代の英雄の神話的な生涯のようにわれわれは経験するが、ただこの偉人たちのほうがわれわれに近いので、かれらの悩みや勝利のほうを身近に感じ、実際の隔たりの大きさにもかかわらずわれわれの個別存在の尊厳がかれらによって保証されるように思うのである。かれらの生涯の紆余曲折のあとを辿らせるものは、無意味な好奇心ではない。かれらの作品と生涯が、われわれが個性化とよぶある統一を表現しているという意味で、かれらがわれわれの範例だからである。(114頁)

 

p.114~115 時代に欠けている新しいものを作り出すゆえに芸術家は孤独

芸術家のだれもが無意識の自己表現のような創造への衝動に応えることから始め、成長するにつれて時代によって規定され、学ぶものとして文化の伝統を相続し、伝統の子になる。だが、時代の伝統を徐々にこえて成長してゆくにせよ、いっきにとびこえてその時代に欠けている新しいものをもってくるにせよ――文化規範の表出の段階にとどまるのではないならば、そして真に偉大な芸術家は決してとどまることはないのだが、ついに孤独となることはほとんどまちがいない。だがこの孤独は、なだたる大家として讃仰を受けるか、小さな社会の名オルガン奏者として暮らすか、聴覚を失って、あるいは貧窮のうちにあるいは狂気のうちに生涯を終えるか、ということとは関係がない。このような偉人の場合はつねに、みずからのうちで動く力とのまた外界の時代との対決が結局は自己表出になってゆくようである。そしてそのときかれらは芸術もみずからの創造的な生活がもつ象徴的な現実をも、ほとんど超えてしまう。その作品のなかで元型的な力というこの世ならぬものが、この世界の内的生命として現実のものになる。(115頁)

 

p.115 大芸術の無限感は時代の拘束を受けない無時間的なもの

大芸術家の場合は元型的な内的な力と外界の時代との対決が結局は自己表出になっていくようで、この段階の人間の作品には聖なるものの象徴的な世界があらわれ、この世界では内と外、自然と人為の対立も克服されているようだ。時代に縛られた形式の条件づけられたありようを、人格の創造的な統合が超越するので、作品の様式の特徴を述べることはもはやできず、意識的にも無意識的にも歴史上のいかなる時代にかかわりをもつということはない。この超越的な芸術を宗教的と呼ぶこととする。バッハの信仰心と中国の風景画が示す無神論的な無限のひろがりこそ、このような超越のふたつの形としてわれわれが経験できるからであり、この最後の段階のさまざまな表現形をも、創造的な人間が生み出しうるかぎりのもっとも宗教的なものと見なせる。

 

p.130 芸術はもともと規範に反する無意識的なものの侵入だったが、デタラメでもない

実際は非合理的なものの芸術への侵入は、シュールレアリスムが看板として利用するずっと以前から、時代の表現として正統的なものであった。意識による統御の放棄は、意識一般の関係認識のてがかりとなる文化規範および価値が崩壊したことの結果であるにすぎない。そして夢、病気、狂気がシュールレアリスムによって芸術の本来の内容へと高められ、無意識に書いたり色を塗ったりすることが最高の目標と定められたとしても、これは偉大な創造的人物が苦しみ悩んで学んだことの、後代の戯画でしかない。かれらはすべてマイナスたちによってひき裂かれたオルペウスの印をつけているのである。

それゆえ芸術は、われわれの時代の表現であるかぎりにおいて、個別にみれば「作品」というものの完成された性格をもはやもたない断片のよせ集めでしかないようにみえる。また多数の「凡庸」な芸術家にとっては状況に規範が欠けているということが「規範」となり、こうしてさまざまの「イズム」が生まれる、ということも理解できないことではない。(130~131頁)

 

 

p.131 大芸術家は無意識を意識に統合して制御するが、ダリみたいなのはダメ

だが、ここでも大芸術家は群小芸術家とはことなって、

前者はこのような状況を完全に意識して道具として利用し、内面から湧いてくるのだが実際はやはり制御されている感情と内容のさまざまな動きからなるひとつの流れに、このような外界の現状を溶かしこむ。かれらの名はクレー、シャガール、あるいはジョイストーマス・マンという。だが凡庸な者たちは規範がないという原則を綱領としてそれに身を委ね、たとえばダリのように、自分と世間を喜ばすために自分の排泄物を文学的または造形的に描いてみせたり個人的なコンプレクスを展示したりする。(131頁)

 

*1:エーリッヒ・ノイマン『芸術と創造的無意識』(ユング心理学選書6)、氏原寛・野村美紀子訳、創元社1984年、171~172頁。

*2:ノイマン『意識の起源史』(下)、林道義訳、紀伊國屋書店、1985年、567~568頁の記述を見よ。もっとも、このあたりは、ユング『「こころ」の諸問題』を敷衍した説とのことである。かくいうユングも「台頭しつつある自然科学的方法論から見れば、「ロマン主義的な」記述心理学はすべて異端であった」などと書いているが(カール・グスタフユング『元型論』、林道義訳、紀伊國屋書店、1999年、78頁)、唯物論的な経験科学が実験によって前進不可能になるところでは、理論的な先入観から自由な立場をとる記述的な方法論が要求されると述べている(ユング、同書、79頁)。このことは、後段で述べる病跡学的な方向とかかわってくる。

*3:ユング、同書、12頁。

*4:ユング、同書、24頁。

*5:ユング、同書、16~20頁。

*6:岡田靖雄「精神科医療史のなかの東京大学精神科」(東京大学精神医学教室120年編集委員会東京大学精神医学教室120年』、新興医学出版社、2007年)、8頁。

*7:第57回日本病跡学会総会における鈴木道彦氏の特別講演『文学研究者の方法――プルーストサルトルをめぐって』(2010)の講演資料より。

*8:林道義は、ユングが『元型論』でトリックスター元型について述べた箇所「しかし意識が危険で不確かな状況の中で動揺すると、影は決してなくなっていたのではなく、少なくとも隣人に投影される絶好の機会をうかがっていたことが、明らかになる。ひとたび投影がなされると、投影する側とされる側のあいだにふたたび原始的な暗黒状態が生じ、そこではトリックスター像の特徴であるすべてのことが――最高の文明段階においてはすら――起こりうるのである。これは俗に適切にもそのものずばり「猿芝居」と呼ばれる。その舞台の上では、すべてが考えられないほどに醜くなり、くだらないものとなる。知的なことが起こるのはほんの例外か、それとも最後の瞬間だけである。政治がこの最もよい例である」(ユング、同書、228頁)を、ヒトラーの事例であると捉えている。「こうして影の性質がしだいに薄れていくと、それはふたたび無意識の中に戻っていき、ふたたび外界へ投影されるようになって、ナチスのような猿芝居が生まれる無意識の要因となる、というのである」(林道義「訳者解説」。ユング、同書、493~494頁)。

*9:「もう一つの誤解は、次のような意見が出てきたところにある。(…)いずれにせよ、そのような意見は全く誤ったものであって、深層心理学は経験科学ではなく、一定の目的に役立てるための工夫にすぎない、という広く流布した見方にもとづいている。集合的無意識という考えは〝形而上学的〟である、という浅薄で知的でない意見もこれと同様である。ここでは実は、本能の概念とくらべることのできる〝経験的〟な概念が問題になっているのである。多少注意深い読者なら、このことは誰でも明らかに理解できる筈である」(ユング「第二版のための序文」(C・G・ユング/R・ヴィルヘルム『黄金の華の秘密』〔新装版〕所収)、湯浅泰雄・定方昭夫訳、人文書院、2018年、9~10頁)。私もおおむね同意見であるが、本能という概念はもとより、物理法則といわれるものにも突き詰めると形而上学性を排除できない部分があるため、これらを唯物的に定式化するためには、観測可能なものだけを事実として取り扱い、数量的側面にのみ着目して定量的な関係構造をモデル化しなくてはならない。しかしこれは本質論ではないため、集合的無意識が存在するか否かの証明というよりは、人類に普遍的なイメージの型が存するか否かの証明ということになるであろう。その型が生得のものか、文化的に学ばれるものであるか、情報の伝播によって共有されるものかを語るものではないのである。ここでは使用された標本の有効性と、その来歴ということが重要になるが、これは歴史学的な問題でもあって、すでに実験不可能な過去の事柄を取り扱う時点で(少なくともヴィトゲンシュタインあたりからすれば)形而上学的なものである。現在観測される事実だけを対象にする分にはよいが、神話や伝承が定着するまでにどのような伝播経路を辿ったかということは、現前的に経験可能な事柄ではないので、どこまでいっても推論にとどまるであろう。ユング集合的無意識という概念を理解する困難さについて「われわれのコンプレックス心理学の概念は、根本的に重要なものはすべて、知的な定式化ではなくて、ある範囲の体験を言い表わしたものであり、たしかに記述することはできるが、しかしそれを体験したことのない者には死語であり、思い当たるところがないのである」(ユング『元型論』、232頁)と述べている。そこで神話比較を通して人類の心的イメージの普遍性を立証する必要性に思い至ったのであるけれど、人間が人間として同じような心の構造をもち、結果として類同的な心の体験をすることがあるのは、おそらくは確かなことであろうけれど、その類似をどこまで拡張して文化的表象に当てはめることが可能かということについては、今のところ慎重にならざるを得ない。