南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

蘭渓道隆の渡日をめぐる人脈――「東アジアのなかの建長寺」序説(村井 章介)

蘭渓道隆の渡日をめぐる人脈――「東アジアのなかの建長寺」序説

村井章介蘭渓道隆の渡日をめぐる人脈――「東アジアのなかの建長寺」序説」(村井章介編『東アジアのなかの建長寺――宗教・政治・文化が交叉する禅の聖地』所収)、勉誠出版、2014年

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

解題

ここ十年ほど、豊かになった中国の人にあっては、古き良き自国の精神文化を見直そうという気運が高まって、失われたかつての中国のおもかげを求めて、奈良・京都、あるいは鎌倉へ訪れる人も多いと聞く。かの国では、俗に「漢・唐は日本にあり、宋・明は朝鮮にあり、民国は台湾にあり」などと言うが、本書は、蘭渓道隆(大覚禅師)を開山とする鎌倉の建長寺について書かれたものであるから、日本と南宋の話である。

ところで私は、今から30年以上前、その蘭渓道隆が開いたという長野県岡谷市の久保寺というところで参禅したものであるが、この寺は讒言によって鎌倉を追われた彼が、甲信を教化した際に開かれたものと思われ、もとは南箕輪村にあり、廃寺同然となっていたものを大正時代に移したものである。なお、久保寺が開かれた建治3年(1277)、禅師は赦されて鎌倉へ戻ったようである。なお、甲斐に配流されていたため、甲府にも禅師が再興したと伝わる東光寺があって、庭園は禅師の設計と伝わる。信玄が妙心寺派(関山宗)に帰依していたため、甲府五山ことごとく妙心寺派となった。快川国師恵林寺同様、甲州征伐で織田勢に焼き払われたとの由であるが、信玄も美濃攻めの際、快川の師で妙心寺の長老もつとめた希菴玄密を殺させたといい、罰当たりなことだと『甲陽軍鑑』にも書かれた。なお、甲府五山の選外ではあるけれど、塩山に向嶽寺という寺があって、ここには蘭渓が賛を書いた達磨図(国宝)が伝わっている。

ところで本書は、『東アジアのなかの建長寺――宗教・政治・文化が交叉する禅の聖地』の序説であって、道元をはじめ、信州上田の安楽寺の住持であった塩田和尚なる人物を含む大覚禅師の日本人脈について概説するものであるけれど、もう一人、ここでは日蓮について触れてみたい。無論、日蓮は蘭渓の渡日にかかわる人物ではないけれど、当時の建長寺のことをよく知っていた一人と見え、蘭渓を指して「建長寺道隆」と呼んで、痛烈な批判を加えている。日蓮もまた、甲斐南部氏の庇護を受けて身延山に拠ったが、ちょうどの頃、蘭渓死して霊骨となるという風聞があって、日蓮はそのことについて書簡のなかで書いている。「但し道隆が事は見ぬ事にて候へば如何様に候やらん。但し弘通するところの説法は共に本権教より起りて候しを、今は教外別伝と申して物にくるひて我と外道の法と云うか。其の上建長寺は現に眼前に見へて候。日本国の山寺の敵とも謂いつべき様なれども、事を御威によせぬれば皆人恐れて云わず。是は今生を重くして後生は軽くする故なり。されば現身に彼の寺の故に亡国すべき事当りぬ。日蓮は度度知つて日本国の道俗の科を申せば、是は今生の禍、後生の福なり。但し道隆の振舞は日本国の道俗知りて候へども、上を畏れてこそ尊み申せ、又内心は皆うとみて候らん」(『弥源太入道殿御消息』「建長寺道隆事」)。さらに、建長寺は所領を取り上げられて没落した連中のたまり場だと痛罵するのであるが、建長寺についての見聞も記している無住は、その『沙石集』のなかで、頭陀をする禅徒のうちに「非人」「乞食法師」と呼ばれ蔑まれた者があったことを記しているから(「建仁寺門徒の中ニ臨終目出事」)、あるいは没落した人たちがいたということがあったのかも知れぬ。

日蓮がこのように書くのは、鎌倉における法難の黒幕が蘭渓であったという見方に出るものでもあろうけれど、一方で建長寺からすれば、日蓮の助命に動いて建長寺にかくまったのは蘭渓だということであって、どちらを真とすべきか、正直はかりかねるものである。いずれにしても、日蓮からすれば念仏堕地獄、禅天魔であるから、折り合える相手ではなかったのであろう。参考までに記す。

 

所蔵館

県立長野図書館

 

 

東アジアのなかの建長寺 宗教・政治・文化が交叉する禅の聖地

東アジアのなかの建長寺 宗教・政治・文化が交叉する禅の聖地

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 勉誠出版
  • 発売日: 2014/11/12
  • メディア: 単行本
 

 
p.3 蘭渓道隆と無学祖元

蘭渓道隆、無学祖元は中国から渡日して法脈をもたらした者の代表格。蘭渓は、日本が禅宗布教に有望な地と聞いて1246年に博多へ。京都政権と対峙するために天台・真言に変わる権威づけを求めた時頼によって建長寺の開山に招かれる。文永の役でスパイの嫌疑をかけられて甲斐に追われ、在日33年にして建長寺に示寂。蘭渓はみずからすすんで来日したので、日本語能力に優れ、若い僧に中国への眼を開かせた。無学は幕府に丁寧に統治者としての自覚を説いた。この系統から夢窓疎石が出て、政治に参与したのは、無学にルーツがある。

 

p.7 塩田和尚との交流

蘭渓と同船で帰国した渡海僧に「塩田和尚」「塩田長老」と蘭渓が呼ぶ人がいて、建長寺住山後に蘭渓は「建長と塩田(安楽寺)と、各一刹に拠り、或いは百余衆、或いは五十衆、皆是れ聚頭して、仏法を学び禅道を学ばんと要(ほっ)す」(『大覚禅師語録』巻四「塩田和尚至引座普説」)と回想。この人は信州安楽寺開山の樵谷惟僊(しょうこくいせん)ではないかと言われるが、疑問もある。

 

p.11~12 道元との交流

無学らと違い、蘭渓は自らの意志で渡日した。蘭渓は天童山で覚妙房から道元の法語と偈頌を見せられたとき、「捧読過三、恍(こう)として面晤(めんご)するが如し、路は滄溟を隔つと雖も、大光明蔵中了(つい)に間隔無し」という気もちになった。日本でも道元に会いたがっていた。道元は蘭渓の書簡について「欣感惶恐、宛かも是れ寒谷の温至なり」と喜んだ。

 

p.14 蘭渓の書

円爾蘭渓道隆尺牘」の写真。

 

p.16~17 日本禅宗界への恨み

塩田和尚への書簡が残っている。北条氏が讒言を信じて蘭渓を排斥しようとしたので「空を望んで誓ひを発し、念念、只深山窮谷に於て一片の田をひらき〔撰者註。「ひらく」は余の下に田。活字なし〕、死を待たんと欲する而已」という苦境にあった。「此の国の人、水土浅薄にして久長の意無く、逓相妬☐〔撰者註。この字、ゴンベンに「疾」の字)〕し、無実を以て相伝へ、人をして風波を止(や)まざらしむ」「今時是非を闘合し、虚語を妄造すること、扶桑の人より出づるもの無し、大地を以て紙と作すも、亦書き尽くすこと能はず」と、日本禅宗界への恨みが吐き出される。文応元年(1260)7月21日付「前塩田方丈」宛書簡(「大覚禅師語録掌故」所収)。

 

p.17 塩田和尚と善光寺

建治三年(1277)11月の書簡では、「善光寺上品花鉢」等を贈られたことを塩田和尚に謝している。

乞食の変奏(山折哲雄)

乞食の変奏

山折哲雄「乞食の変奏」(日本文学研究大成『中世説話Ⅰ』、藤本徳明編、国書刊行会、1992年)

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

解題

宗教学者山折哲雄(1931~)の小論。初出は『乞食の精神史』(弘文堂、昭和62年3月)。基本的には網野善彦らの先行研究を敷衍したものではあるけれど、中世における遍歴民・遊行民、なかんづく〈乞食〉というものの社会的位置づけを、著者の着目する新たな史料をもとに、そのテキストや図像にみる表象から読み解こうとするものである。同様の研究に、〈歩き巫女〉や〈遊女〉を対象とするものがあるが、大枠の構図は〈乞食〉研究と同じものである。いずれも、土地生産に拠らない非定住型の遊行民の古態を解明し、その零落の背景と、それらの人々を卑賤視・罪悪視する観念がいかに生じたかを跡づけようとする研究である。

本論ではまず、〈乞食〉の遊行宗教家としての面を取り上げ、古代においては、定住民と非定住民が列島においてパラレルに存在し、両者が拮抗する関係にあったことを指摘する。遊行宗教家としての〈乞食〉は〈ホカイビト〉と称されるが、南北朝から室町にかけての動乱期を境に、定住的農耕民のプレゼンスが高まり、非定住民の周縁化が進行する。このような形で、〈乞食〉から宗教性が剥ぎ取られ、これを蔑視する風潮を生ずる、というのが本論の主張である。このように、単なる無産の流浪民と見られるようになった〈乞食〉は、土地生産以外の方法で食い扶持を得なくてはならなかったから、そこから〈見世物〉としての芸能にたずさわる人たちを分化させる。このようなことが主に網野を引用しながら説かれてゆくのである。

もとより古代・中世に記された文字史料や図像はかぎられているので、果たして中世前期までの〈乞食〉の社会的地位がどれほどのものであったのか、直接の証拠をもって示すことはできないけれど、〈乞食〉という生活様態が卑賤視されるようになったのは、11世紀から13世紀にかけてのことらしく、〈遊女〉の罪業観が定着したのとほぼ時期を同じくすることは注目されてよい*1。ここで示されるのは、〈乞食〉も〈遊女〉も、もともとは社会の最底辺の人々ではなく、ある時期から「化外の民」という烙印を押され、中心から疎外されてゆくという図式である。これは、水田的秩序に属さない人たちに対する卑賤視観というものがもともとの起源を有さないということ、定住民の社会文化の安定とともに新たに創始された神話である、という見方に立つものである。もともと賤民ではなかったものに付与された〈化外の民〉という周縁的なイメージは、一つのシミュラクルであって、社会的な線引きの移動によってこのようなアナクロニズムが惹き起こされ、オリジナル不在の現実が、かえって〈起源〉へと投影されることによって、これを行為遂行的に再生産したものと見てよいであろう。

このような形で〈乞食〉は、マイノリティとして周縁化されてゆくのであるけれど、服藤早苗はこれに〈遊女〉のたどった運命を重ね合わせ、13世紀を通じて、徐々に〈遊女〉への卑賤視観や罪業観が社会に浸透していったと見る。そして、それらを自己の内部からアブジェクシオンすることによって、武士社会における強固な家父長制と家制度が同時的に定立されていったと指摘するのであるが*2、このことについて立ち入るのは、本書が取り扱う〈乞食〉の社会的変容というテーマからいささかそれるので、別の機会に譲りたい。

なお、本書に見られるような語用や表象の比較によって、ある概念が時代ごとにどのように捉えられていたかを分析する方法論は、ジェンダー学やフェミニズムの分野でも応用されるものである。山折はそこからいささか哲学的に踏み込んで、〈乞食〉の社会的役割というにとどまらず、〈乞食〉当人の内面の問題、聖俗の理念的区分が無効化されるところの実在的な〈乞食〉の様態について『今昔物語集』の長増法師を例に考察しているけれど、「無知な物乞い」という他者から押しつけられた表象を限界まで演じ切ることによって、その境域を突破し、仏の化身としてあがめられるようになるという物語の構造は、一種、心理学的な興味をそそられるものでもある。ここでは自己を規定するものとしての自己表象も、他者からの解釈にすぎない他者表象も、ひとしく実在に対する差別にすぎないことが暴露されるのであるけれど、その境界を無効のものとする一切平等の表象が、〈極楽浄土〉であった。長増法師にとって、比叡山を出て、〈乞食〉という存在様態に転落することは、極楽往生を遂げるためにぜひとも必要なことであったのだが、このようなマゾヒスティックな心理は、自らが自我的な中心から疎外され、表象の主体ではなく客体の側へと超え出ることを要請する。すなわち、自らの姿を自らの目で眺めるような、ナルシシズムの視点がそこに形成されるのである。〈乞食〉や〈遊女〉の職場が大寺社の庭やあるいはその近辺に存在していたのは、その〈見世物〉としての性格と無縁ではないようである。

 

所蔵館

市立長野図書館(913.47 チ1)

 

 

p.302 乞食は神の祝言を伝える遍歴の芸能者で、蔑視もされたが畏敬もされた

「本来、乞食は「マロウト」であり「マレビト」であった。かれは流浪から流浪への旅のなかで共同体を訪れ、戸口の前で人々の前で神を演じ、神の託宣を伝えた。かれは共同体の定住民によって異彩の遍歴者であるゆえをもって侮蔑と賤視の対象とされたが、しかし他面で神を演ずる来訪者として畏敬の対象とされたのである。この「異人」としての乞食の面持にはいまだホカイビトとしての、すなわち神の祝言を運ぶ芸能者としての自らを律する矜恃が脈打っていた。万葉集の「乞食者の詠」には、そのような乞食の生き生きとした祖型が刻まれていたといっていいだろう」(302頁)

 

p.302 「乞食」と「神」の分離が始まったのは中世

「その乞食の運命が大づかみにいって中世を境に零落の道をたどっていく。折口のことばでいえば、古代の「巡遊伶人」が諸種の呪術師や芸人などへの分化をとげ「かたい」や「ほいと」としての乞食へと身をおとしていった。「非人乞食」や「乞食法師」の烙印を押された人々の群れが地の底から湧き出てきたのである、乞食のからだに宿っていた隠身の神が姿を消し、侮蔑と賤視をはりつけられた乞食の裸身が剥き出しになっていったといっていいだろう。「乞食」と「神」の分離が進行し、そして畏怖の感情と賤視のまなざしの剥離がはじまったのである」(302頁)

 

p.302~303 南北朝の内乱を期に遍歴・遊行民は没落して賤民の扱いを受けるようになった

「この乞食におけるいわば疎外の現象は、いうまでもなく一般に中世における「遍歴民」の身の上にふりかかってきた状況の変化を端的に反映するものでもあった。そのような状況の変化について、たとえば網野善彦は次のようにいっている。すくなくとも、鎌倉・南北朝期ごろまでの遍歴民は、けっして卑賤視の重圧にしばられることなく、なおそれなりに自由に、ときには奔放に、自らの生活を営んでいたのだ、と。かれら遍歴民は、定住的農耕民や、かれらの水田的秩序に立つ見方にたいして、十分に拮抗するだけの力をもち、ある場合は重大な脅威となり、またあるときは強い魅力をもって、定住民や秩序内の人々をひきつけてやまなかった。その意味において、この時期までの遍歴、遊行民を、体制から「疎外」され、国家的秩序の最下層に「差別」された賤民としてみることはできない、と氏はいう。それが南北朝の内乱期を境にして、遍歴、遊行民が次第に賤民の側に押し込められ、化外の民として過酷な卑賤視を浴びるようになった」(302~303頁)

 

p.303~304 絵巻物に見る遍歴民の姿の変遷

中世の数多くの絵巻物に登場する遍歴、遊行民(山伏、狩人、釣人、琵琶法師、絵解、市の販女(ひさぎめ)などとならんで乞食や非人たちがつぎつぎと登場)の姿態は生き生きとしており、「理不尽な社会の卑賤視の重圧の中で呻吟などしていないといっていいだろう」(303頁)。蓑帽子をかぶった狩人は、胸を張って従者を連れている。小屋かけをして住み着いている乞食たちも、みじめな姿はしているが、煮炊きをしたり鴉を棒で追う姿からは、たくましい生活の息吹が立ちのぼっている。網野は『一遍聖絵』を取り上げて指摘、「信濃伴野市」の場面では、乞食、非人は生気にあふれている。そこは市庭(いちば)だが、たまたま市は立っておらず、念仏を唱える一遍と従僧の背後に、覆面をした乞食や非人の集団が一遍たちを見つめ、念仏に耳を傾けている。その顔は好奇心にみち、精悍な感じすら受ける。ところが、多少時代が降る『一遍上人絵詞伝』(『遊行上人縁起絵』)になると、そこに登場する遍歴、遊行民の姿ははるかに頼りなく、貧弱。乞食や非人もあらわれるが、長吏と推定される覆面の僧に監督されており、円陣をつくって施行を受けているその姿に、『一遍聖絵』に見られる生気溌剌とした息吹は感じられないという。

そのような時代の変化の意味について網野は、農業社会の成熟という要因を指摘している。それは高取正男にいわせれば、定着社会の成熟による種族文化統合の時期にあたっていたといえるだろう(『日本的思考の原型』)。

遍歴民に対する定着民の優位が確定し、固定化していく時期であった。その画期が網野によれば南北朝期の十四世紀であり、そのとき以降、遍歴民は社会的劣位に立たされるようになる。こうして定住的社会が成熟していくにつれて、さきにのべたように神の領域からは乞食の分身が遊離し、異人としての「まれびと」にたいする畏敬と怖れの念がしだいに不別と賤視のまなざしを分出するようになったのである。(303~304頁)

 

p.304~305 『今昔物語』の伊予の門乞匃

『今昔物語』巻第十五「比叡山の僧長増往生の話、第十五」。昔、比叡山の東塔に長増という僧がいて、師について顕密の奥義を極めた。師が亡くなって、自分も師と同じ極楽に往生したいというようになった。あるとき、厠へ行ったまま姿をくらまし、数十年が経った。長増の弟子・清尋(しょうじん)というのがいて、伊予守の藤原知章に従って四国へ下った。知章は清尋を師と尊び、国の人も彼をあがめて帰依して、彼の庵がにぎわうようになった。そこに真黒な田植え用の笠をかぶった老法師があらわれた。いつ洗ったかもわからないようなひとえものを肌につけ、破れ蓑を腰までたらしている。片足だけ藁沓をはいて、竹の杖を突いて庵に入ってきた。土地の人は「門乞匃(かどかたい)がきた」とののしって追い返そうとしたが、その叫び声を聞いて清尋が障子を開けてみると、乞食は師の長増であった。清尋は長増を板敷にあげて二人で泣いた。長増によると、厠で世間を棄てようという気もちになって、仏法のあまり広まっていないところへ行って乞食になって命を長らえようと思ったという。念仏だけを唱えて極楽に生まれ変わろうと思ったのである。それで山崎へ行って便船をつかまえて、伊予に下ったが、伊予・讃岐と乞食をして過ごすうちに、般若心経すら知らぬ乞食坊主といわれるようになり、日に一度だけ人の家の門の前に立って乞食をするところから門乞匃といわれるようになったという。なつかしさのあまりに弟子のところへ来てしまったが、これ以上、人に知られるのは本意ではないと、庵を去ってまた姿をくらました。清尋はのちに伊予守とともに都に去った。そののち、再び門乞匃が伊予にやってきて、今度は土地の人々の尊敬を得たが、ほどなく西に向かって端座して眠るように極楽往生した。人々は、この門乞匃はかりにこの世にあらわれた仏の化身なのだろうと語り伝えたという。

 

p.305 門乞匃の異形の衣装は神仏の象徴だった

定住の生活を送っていた長増が世俗化した比叡山を棄てて辺土で遁世する。「聖」とはもともとそういう遁世者で、聖たちが遍歴すべきフロンティアは荒れ果てた片田舎だった。門乞匃のいでたちは異様で、長増は身分を隠すためにこれを用いたのだが、しかしこのような服装は、異形のものを迎える里人たちからすると、鬼や神や姿を象徴するもので、物語の最後で、村人たちは門乞匃が仏の権の化身だったのかと言い合うことになる。この門乞匃の服装も、鎌倉以降はもしだいに非人と同類の衣装とされ、差別と賤視の烙印を押される対象となっていく。

 

p.305 乞食行為の内的な規定と外的な規定は無効化される

『今昔』のこの話の中で、長増が身をやつす門乞匃は「次第乞食」ともいわれているが、もともとは宗教的な行の一つで、つぎからつぎへと家ごとに食を乞うて歩くことをいった。次第乞食は極楽往生を願う修行であるけれど、門乞匃は反対給付の用意もなく、ただ物を乞う行為であるにすぎない。次第乞食は聖としての長増の自称だが、門乞匃は、たんなる物もらいをののしっていう他称。

次第乞食という自恃の想いが、いつのまにか門乞匃という沈淪の意識へと反転していく。逆にその沈淪の自虐が行乞の至福へとかけのぼっていく。その意味では、さきほどの自称も他称も乞食という行為に外部からはりつけられた限定的な烙印でしかないだろう(305頁)

 

p.306 乞食生活は意外と楽しかった

『今昔』巻第十六「無縁の僧、清水の観音に仕へ乞食の聟となりて便りを得たる話、第三十四」では、身寄りのない若い僧が清水寺の観音にお参りして法華経を唱えていると、美しい女がともの女童をつれて話しかけてきた。僧の身の上を聞くと、女が自分の家に泊まれと言うので、客座敷にあげられて饗応を受けた。何度か通ううちにねんごろとなり、ある夜、ひそかに這い寄ると、女は拒まなかったので、そのまま一緒になって生活した。あるとき、女が魚のご馳走をとりつくろってもってきたので事情を聞くと、実は女はかつて乞食の頭目であった者の娘であり、魚は手下のものから贈られたという。いつしか僧はその家に婿入りした形となり、乞食仲間と交わって楽しく暮らすようになったという。本文に曰く、

よく聞けば、早うこの家は乞食の首にてありける者の娘なりけり。それに伴の乞食の、主といふことしける送物を持て来たるなりけり。聟の僧も人も交らふまじかりければ、それも乞食になりてぞ、楽しくてありける。(306頁)

この話では、まだ乞食という生活形態に陰湿で暗い影はさしていない。色仕掛けと魚で僧の精進を破らせることで法師はほとんど僧の身分を喪失しているが、

しかしそこからは肩ひじはらない解放感が立ち昇っている。市井の一般人との交際は断たれたにしても、乞食の娘の聟になりその乞食の生活にひたることが気どりも屈曲もなく肯定されている。「乞食になりてぞ、楽しくてありける」といわれているのである。人との交際が思うにまかせないところに、「異人」にたいする差別の萌芽がほのみえているが、それはかならずしも乞食の「楽しみ」と矛盾するものではない。賤視の重圧と過激な排除の論理が、その乞食夫婦の身辺にはまだ及んでいないのである。(306頁)

 

p.308~310 説経文学に見る乞食の没落

このような乞食の風景にもかげりが見え始め、『説経』の世界にそのような事例が見える。『説経』というのは「刈萱」とか「山椒大夫」で知られる近世の語り物であり、『説経浄瑠璃』ともいうが、江戸時代の17世紀に盛んにおこなわれた。その物語世界の原型はすくなくとも15世紀の末、安土桃山時代までさかのぼるといわれている。室木弥太郎によると、「説経」を語る人々は当時、簓(ささら)乞食ともいわれたという。簓というのは茶筅を長くしたような形で、竹の先を細かに割って、それで刻みをつけた細い棒(簓子)をこするとサラサラと音がするので、それを伴奏にして説経を語った。説経語りは芸能者であって、ただの乞食ではなかった。江戸時代の記録では、説経の人々は醍醐天皇の第四皇子・蝉丸を祖としていた。蝉丸は琵琶の名手で、盲目であったため逢坂山に捨てられ、山を上下する旅人に乞食して、ひとえに衆生の済度を願った。その本体は妙音菩薩であって、乞食はかりの姿であった。説経の「しんとく丸」の場合、彼は河内の長者の子に生まれ、和泉の長者の娘の乙姫と恋仲になるが、継母の呪いで癩になり、父の命令で四天王寺の西門にある念仏堂に捨てられてしまう。夜、手さぐりで枕を探ると、雨露をしのぐ蓑笠と、道しるべの細杖、袖乞いのための円座と小御器が置いてある。しかし、恥辱から袖乞いはすまいと思って眠りにつくと、清水観音の夢告があり、袖乞いをして命をつなぐことになった。天王寺の七ヶ村の人が弱法師(よろぼし)とあざけった。そののち、再び観音の導きで熊野に向けて旅立つが、途中で乙姫の屋敷に立ち寄って正体を見破られる。恥辱に耐えかねてそのまま四天王寺に逃げ戻るが、侍女から事情を聞いた乙姫が追ってきて、四天王寺でしんとく丸に再開し、二人で袖乞いをして町屋の人の涙を誘うという話。このしんとく丸にとっては袖乞いは恥でしかなく、古典的な乞食たちの自恃や隠士の想いはすでに喪失している。他人の意思によって放棄された者は、ただあざけられる存在でしかない。「をぐり」で小栗判官が蘇って餓鬼阿弥陀仏になった恥辱も同じで、

その恥辱と無惨には解放への回路がどこにも開けてはいない。かれらにとって、袖乞いや餓鬼の状態のなかに一条の光すら射しこむことはないであろう。それだからこそ、かれらの救いは、そのような状態の脱却によってしかもたらされない。そのため〔原文ママ。「の」一時脱落か〕外在的な仕掛けが、清水の観音や熊野権現の「霊験」であった。それは外部から、太陽の光線のようにかれらの身の上にふりそそぐものであったが、しかしその霊威はけっしてかれらのうちに本来的に内在するものではなかったのである。(309~310頁)

 

p.310 病苦から乞食に

13世紀の後半に、無住一円が編集した仏教説話集『沙石集』に、栄西の流派についての記述が出てくるが、かれらのうちには戒律を守って「僧正」となる者もいるが、遁世して頭陀をする聖者たちを、今日の人が「非人」といい「乞食法師」といってさげすんでいると書いている(巻第十末、「建仁寺門徒の中ニ臨終目出事」)。ここでいう今日の人(「末代の人」)のうちには高僧も一般人も数えられていたと見ていいだろう。また『沙石集』には大和の松尾寺の中蓮房が中風にかかってしまい、「乞匃非人」に身を落として命を長らえているという話が出てくる。若いころ修行、学問して弟子も多数あったが、もし妻子があれば自分もこれほどみじめな境涯に落ちずともすんだ、貴僧らも早いうちに妻をもうけた方がよいと僧らに妻帯の勧進をしていたという(巻第四、「上人の妻セヨト人ニ勧タル事」)。遁世と色欲の許容が同時に進行していくありさまがわかるが、時代はすでに色欲を「隠すは聖人、せぬは仏」といわれるところまでいっていた。この中蓮房の意識が『今昔』の長増法師の乞食意識といかにかけ離れているかは一目瞭然。

 

p.310~311 無産の浮浪者が散所で芸能にしたがった

「乞食」が生活の拠点を置いていた現場の一つが「散所」。

散所とは古来、特定の住民が各種の雑役を勤める地域をいい、やがてその住民をさす言葉となった。かれらは地代や様々な賦課を免れるために散所入りをしたのである。その多くは浮浪生活者で、中世になるとかれら散所住民(散所者)は大社寺に隷属して、掃除、狩猟、交通の雑役などに従事する一方、陰陽師や雑芸人として奉仕するものもいた。かれらはこのような雑役に従うことで世間から賤視され、乞食非人とも呼ばれるようになっていった。荘子だけの労役では生活のたつきに間にあわず、物乞いをしなければならなかったからである。(310~311頁)

散所のなかから千秋万歳を演ずる「乞食法師」なるものがあらわれ、『明月記』に芸態が記されている。正月になると「散所の乞食法師」が仙人の装束をつけ小松をもって家々を訪れ、さまざまな祝言を述べるという。季節限定の祝福芸だったが、のちに芸能化して、二人一組の現在の万歳のもととなった。

この祝福芸を演ずる乞食法師には、たしかに神を演ずるホカイビトの面影が揺曳しているといえるであろう。しかしながら彼らの身分は、すでに散所の民として賤視の額縁に凍結されはじめている。神を演ずる乞食が道化を演ずる乞食へとその芸態を変容させていく。乞食の所業そのものが、即自的に芸能の一種と受け取られるような世論がすでに形成されはじめているといっていいのである。そしてそのような非情な世論が、たとえば若き日の世阿弥の身の上にも容赦なくふりかかっていたことは興味あることである。

世阿弥はまだ少年のころ、足利義満の寵童としてその身辺に侍り、人々の注目の的となっていた。あるときかれは義満に従って祇園会におもむき、主人とともに桟敷に坐った。たまたまそれをみた押小路公忠は、その世阿弥の芸能を「散所者乞食ノ所行」であるとその日記のなかに書きつけているのである(『後愚昧記』永和四年(一三六八)六月七日)。(311頁)

 

 

p.311 乞食が見世物であった背景

11世紀から悲田院のような福祉施設の収容人数は大幅に減少、その頃から清水坂などの特殊な地域に病者や乞食が集中するようになった。一種の乞場と見ることができるが、横井清によれば、鎌倉末期になると、交通の要衝や市や町、社寺の近辺に「乞場」が設けられるようになったという。施す側とすれば「施場」で、癩者も重病の非人も、人手に助けられてでもそこにたどりつき、その日の稼ぎをえなければならなかった(『中世民衆の生活文化』)。「乞場」は網野によれば「乞庭」とも呼ばれたという。相撲の行なわれるところも「庭」であり、獅子舞の舞場も「舞庭」、同じように物乞いをする領域が「乞庭」といわれた(『演者と観客』)。乞食の営みが芸能の一種に数え上げられた社会的背景がここに見出される。したがって季節ごとにおこなわれる社寺の祭礼では。その境内や前庭が「乞庭」に変貌するのも当たり前の光景であっただろう。南北朝期のことだが、信濃諏訪神社の祭礼に、白拍子、獅子、田楽、呪師、猿楽、盲聾病者にまじって「乞食非人」が集まってきたという(『諏訪大明神絵詞』)。

 

p.312 乞食と公界

右の網野によれば、祭の場はすなわち公界の場であり、そこに多くの公界者が集まって、芸能が興行されたのである。そしてこのような公界としての乞庭は、乞食がおこなわれる場であるとともに一つの権益、縄張と化す特殊空間ともなったのである(『演者と観客』)。(312頁)。

 

p.312 乞食の身分の画期となった中世

中世は、乞食の身分が社会の変動につれて大きく揺れ動いていく時代であった。よくいわれるように南北朝の内乱期、そしてそれにつづく室町期が、その画期であったといっていいだろう。乞食についてのイメージや観念が、『今昔物語』の世界から『説経』の世界の流れのなかで際立った相違をみせているのも、そのことを明らかにする状況証拠の一つである。そのような乞食の変貌の実態を知る上で、散所や乞場などにおける乞食行動の究明は欠かすことのできない課題であるといっていいだろう。(312頁)

 

*1:服藤早苗『古代・中世の芸能と売買春~遊行女婦から傾城へ』(明石書店、2012年)、235~239頁を見よ。なお、余計な話かもしれないが、どうも昔の絵巻の表現などは、現代人にはよくわからない部分が多くて、室町時代の『結城合戦絵詞』では、切腹しようとする足利持氏(結城氏朝という説もある)を守る弓を構えた武士の顔などは、妙に楽しげであるし、江戸時代の『結城戦場物語絵巻』に至っては、持氏と対面して話す武者はほとんど笑っている。ちょっと何を表現したのかはかりかねるところもある。

*2:服藤、同書、239~243頁。

コンシュのギヨーム「プラトン・ティマイオス逐語註釈」(ギヨーム・ド・コンシュ/大谷啓治訳)

コンシュのギヨーム「プラトンティマイオス逐語註釈」

コンシュのギヨーム「コンシュのギヨーム「プラトンティマイオス逐語註釈」」(上智大学中世思想研究所 編訳・監修『中世思想原典集成8 シャルトル学派』所収)、大谷啓治訳、平凡社、2002年

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

解題

西欧における〈十二世紀ルネサンス〉という知的覚醒期に、フランスでその中心的拠点となったのは、シャルトルの司教座聖堂付属学校と、そこで活動した〈シャルトル学派〉の学匠たちであった、とされてきた。本記で取り上げるギヨーム・ド・コンシュ(Guillaume de Conches 、1080ないし90頃~1154。スコラ哲学者)もその一人とされる思想家である。本書を収める上智大学中世思想研究所の『中世思想原典集成8』の「総序」(岩熊幸雄)によると、シャルトル学派の特徴は次のようにいいあらわされるという。

彼らの特徴を成すのは、プラトン主義的思想と古典人文学的素養とである。諸学問の調和を目指し、新たにアラビア語から訳された自然学書にも目を配り、独自のプラトン主義的自然哲学を打ち立てた。そういう意味で、独自の修道院哲学を発展させたサン=ヴィクトル修道院の人々やスコラ哲学の揺籃地となったパリと並んで、シャルトルの地は十二世紀前半期を通じてヨーロッパの知的中心地であった。十二世紀中葉以降には知的中心地は急速にパリに移っていくにしても、シャルトル学派の影響は十二世紀末のアラスのクラレンバルドゥス(Clarenbardus Atrebatensis 一一八七年頃歿)やアラヌス・アブ・インスリス(Alanus ab Insulis 一一一六頃-一二〇二/〇三年)にまで及んでいる。*1

この「シャルトル学派」という語は、19世紀末の思想家プールが用いだしたものとのことであるが*2、1970年代以降、このカテゴリは実質的なものではなかったという指摘がなされるようになり、たとえば、コンシュのギヨームにしても、シャルトルで聖職についていたのは事実だとしても、実際に教授活動をしていたのはパリであったというようなことが指摘されるようになる*3。岩熊氏自身も、〈シャルトル学派〉なる、シャルトルに根差した一貫する学統を想定することに否定的である。

さて、私が本記で抜き書きするのは、ギヨーム・ド・コンシュによるプラトンティマイオス』註釈の冒頭部分、「序言」と「導入」にかぎられる。ゆえに本記においては、中世の人が『ティマイオス』をどのように受容したかについてはほとんど明らかにされないから、その点はご容赦いただきたい。ぜひ原書に当たることをお薦めする。もっとも、『ティマイオス』自体がいかなる書物であるかについては、この抄訳を読んでもほとんど理解できないであろうことを付言しておく。

また、『ティマイオス』の眼目は自然論にあり、シャルトル学派にくくられる人々は、この点に目をつけて、被造物を通じて神の理解をめざした(トマスにおいては「結果からの論証」と呼ばれる方向性である。『神学大全』第一部第一問第七項の主文を見よ)。また、神の創造した被造世界はすべて善なるものであるから、自然の秩序のうちに、本性的な〈自然的正義〉が見てとれると考えられ、そこから一つの法思想が発達を見ることとなった。〈正義〉とは何か? ギヨームは、『ティマイオス』の解題というべき「導入」において、ソクラテスの見解を次のように引用する。

正義とは、最も力のない者にとって、最も役に立つものである。最も力のある者は、自分や自分のものをいかなる正義なしにも維持するが、最も力のない者は、〔正義なしでは〕まったく維持しないからである。*4

〈正義〉にかんする上の定式を示してから、ギヨームは、正義の二つの区分、すなわち〈実定的正義〉と〈自然的正義〉を比較して、『ティマイオス』の主題が後者にかかわることを説明する。この二分法は、法の次元では〈実定法〉と〈自然法〉としてあらわれる。自然法〔lex naturalis〕にかんしては、ルドルフ・フォン・イェーリング(Rudolf von Jhering、1818~1892、ドイツの法学者)は、『法における目的』において、スコラ哲学の泰斗であるトマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225頃~1274)の法思想を、19世紀の法哲学の水準に匹敵するものと高く評価しているけれど*5、トマスにおいては、自然法は、神の永遠なる世界統治の理念としての〈永遠法〉〔lex aeterna〕の人間における分有として理解されている。一方の〈実定法〉は、私的協約による「同意あるいは共同的合意による正」〔ex condicto sive ex communiplacito〕を〈実定的正〉〔jus positivum〕として確定する人定法であり、あくまで〈自然的正〉〔jus naturale〕に反するものとしては確定されえないものであった*6。問題は、〈自然的正〉として確定されていない〈正〉をいかにして実定的に確定するのか、ということであるけれど、これらの議論はいささか深いものであって、容易に言い尽くせないので、問題の構図だけを挙げるに留めさせていただく。いずれにしても、ギョームらに代表される〈十二世紀ルネサンス〉期は、トマスに代表される十三世紀のアリストテレス受容の前段に位置する知的転換を体験した時代であったことを申し述べておくこととしたい。岩熊氏が引くノジャンのノートル=ダム修道院ギベールの『自伝』(1115年頃)によると、彼が幼年であった頃には都市に行っても知識のある教師はほとんどいなかったが、『自伝』を著す頃になると知識層のありさまは一転し、若者たちは各地を旅して知識を求め、各分野に多くの教師を輩出するようになったという*7

なお、自然的なものと実定的なものという二分法は、美学の分野にも応用され、私の考えるところ、シェリングにおける〈象徴〉は前者、〈アレゴリー〉は後者に属する表現のありようであろう。ロマン主義は前者の芸術であって、その神的なメッセージを受容するに際しては、知識や説明、キマリゴトの理解といったものを要さない。一方のアレゴリーは、図像学的なキマリゴトの世界であって、人定的な規則に支配された表現ということになる。トマスが人間心理における自然本性のあらわれという形で「自然的正」というものを想定したのは、今日からすると本質主義にすぎるものであって、人間をある理念的な様態に規定するものであったけれど、ロマン主義的な芸術理解のありようもまた、一面的なものとして批判にさらされるようになる。シェリングはむしろ自然的なものを実在的なもの、つまり、観念に服さず、そのために尽きることのない〈意味〉をもつ何かとして措定したのであるけれど、私はこのような〈意味〉を〈自然的意味〉、ないし〈ネガティヴな意味〉と呼んだことがある。何かの機会に改めて申し述べたいと思う。

なお、〈シャルトル学派〉とされる人たちは、〈自由学芸〉〔artes liberale〕の復興に寄与したということが言われるけれど、これは三学(文法学、論理学、修辞学)、四科(算術、幾何、天文、音楽)の7科目をいう。ギヨームは『ティマイオス』がこれらの学を用いて著述されていることを指摘する。本記では、参考までに各科の体系図*8を引用して示す。ソクラテスの時代、哲学における本質的なものは音声(パロール)にあり、テキストはそれより劣るエクリチュールにすぎなかったといわれ、この考えは中世にも持続して、大学者と呼ばれる人ほとんど記憶に頼って学問をしたなどというけれど、ギヨームはいささか異なった見解を示しており、「声だけでなく目で見えるもののほうが頭に入りやすく、学知的である」という考えを示している*9。今日では形式科学に含まれる数学だが、この時点ではもっとも視覚に訴える〈学知的哲学〉と呼ばれていることは注目に値するものである。さしずめ、今日では実験再現的な自然科学こそが視覚的な学の代表格ということになろうけれど、当時の段階では、思惟の中で明確に思い描ける数学の方が純粋に〈視覚的〉であった、ということなのであろうか。興味深いことである。数学(マテマティカ)について、ギヨームは次のように言う。

マテシスとは憧憬をともなった学知であり、憧憬がなければ虚栄となる。それは換称的な意味で学知的と言われている、他の学芸よりも四科における学知のほうが完全だからである。*10

ここでいわれる「憧憬」とは、思うにエロースによるイデアへの憧憬であろうから、つまるところ感覚を介すことのない〈思惟〉としての数学は、その最高の神的模範、神の知を探求する学ということになるのであろう。それは偶有的な現実の事物を対象とする自然学よりも確実な、絶対的な学ということができるのであろう。時代によっていささか定義は異なるが、ギヨームにおける〈理性〉とは、物体的特性を把捉する魂の力であり、〈知性〉は非物体的なものに対するそれであり、プラトンによれば、〈知性〉とは、神とせいぜいわずかな人間のみがもつものとされるから*11、その分有の度合いも人それぞれで、神的な叡知界への憧憬による想起の度合いに比例するのであろう。ドイツ観念論の頃になると、人間の諸力に〈悟性〉というカテゴリがあらわれ、これを〈知性〉と訳す人もあるけれど、むしろ今日、〈理性〉は非経験的な基盤に立つ推論能力という意味合いが強く、〈悟性〉というのは感覚的に得られた経験を統合する認識能力といわれている。シェリングプラトンの〈ヌース〉を〈理性〉と訳すのは誤りで、むしろ〈悟性〉というべきだと述べている*12。創造主の〈悟性〉こそが観念的な仕方で被造世界を生み出したのである。対して、〈理性〉は、すべての人間にほぼ普遍的にそなわっており、これを用いる学は数学と論理学ということになるであろう。ここでは、〈悟性〉の拡張によって、偶有的なものと見える現実世界を必然的なものとして見ること、その極まったところに〈絶対者〉としての神が措定され、神の思惟と世界のありようは絶対的に一致するというになるのである。シェリングはこのことをソクラテスプラトンを引いて説明しているけれど、とにかく用語が錯綜を極めていて、日本人からすると難解である。

私自身は、『ティマイオス』における〈コーラ〉の概念を中世人がどのように捉えたのかについて知りたくて本書を紐解いたのであるけれど、特に得るところはなかった。ゆえに「序言」と「導入」を中心に、ここで述べた事柄にしぼっていささか本文を抜き書きするのみにとどめたけれど、存在論の歴史上、興味深い記述が多々見られるほか、本性の上で善なるものであるはずの世界になぜ悪が生じるのかについての護教学的な見解も述べられているので、関心のある方はページを繰られるがよいだろう。

 

所蔵館

県立長野図書館(132・チュ・8)

 

 

中世思想原典集成〈8〉シャルトル学派

中世思想原典集成〈8〉シャルトル学派

 

 

 

解説(大谷啓治

 

p.406~408 著者と著書について

コンシュのギヨーム(Guillaume de Conches; Willelmus de Conchis 1090頃~1154頃)による、カルキディウス(Calcidius; Chalcidius 400年頃活動)によってラテン語訳されたプラトンの『ティマイオス』の註釈。カルキディウスが冒頭しか訳していないため、ギヨームの註釈もその部分に限られている。『ティマイオス』がキリスト教徒であるシャルトル学派の人々に尊重されたのは、「創世記」とのあいだに親近性があると意識されたため。シャルトルのティエリ(Thierry de Chartres; Theodoricus Carnotensis 1156年以降歿)の「創世記」の註釈と言うべき『六日の業に関する論考』は、「創世記」の有用性は「ひとり宗教的信仰を捧げるべき神を、神によって創られたものから認識することである」としている。ギヨームの『ティマイオス』註釈の「導入」(accessus)を比べてみると、「創世記」と『ティマイオス』の両者に、同じ有用性を認めていたことがわかる。このような意識は、カルキディウスの翻訳と註釈の影響によるところが大きい。ここに抄訳したのは、序言、accessusおよび第一部の27Dから31Aまで。翻訳の底本として、Guillaume de Conches, Glosae super Platonem. Texte critique avec introduction, notes et tables par Édouard Jeauneau(Textes Philosophiques du Moyen Age XIII), Paris 1965, pp. 55-62; 98-118を用いた。

 

本文

 

序言

 

p.410 プラトンの註釈について、その方針

多くの人がプラトンについて註釈し、多くの人々が逐語註釈をしたのは疑いのないところだが、注釈者たちは言葉の続き具合を探ることも、言葉を説明することもなく、ただ文章に含まれた意見だけに気を配り、一方、逐語註釈者たちは簡単なることについては多くを語っているのに、むずかしいことについてはきわめて曖昧であることが、少なからず見られるので、あらゆることにおいてわれわれの誠実でなければならない仲間たちの願いに動かされ、上述のプラトンについてなんらか述べてみることにした。その際、他の人たちの述べた余分なことは切り取り、見逃したことは付け加え、曖昧なことは明らかにし、間違ったことは取り除き、正しく述べられたことは真似することにした。

しかし、これだけ大きな仕事を短い歩みで踏破することは不可能であるから、量が多くなることは許していただきたい。友人たちに対して、理解を減らすことよりも、四倍の量を増やすことのほうがよいと思うからである。(410頁)

 

ティマイオスへの導入(accessus)

 

p.411 正義なしには力ない者は自身を維持できない

プラトンがこの著作を著した理由。正しく哲学するすべての人々のあいだで、国家の維持にとって正義が主要な位置を占めることは確かなことであったので、正義の探求が最大の関心事となっていたから。

彼らのなかで雄弁家トラシマクス〔トラシュマコス〕の正義を次のように定義した。「正義とは、最も力ある者にとって、最も役に立つものである」。この定義は、正義を維持するために、最も力ある者に国家の統治が委譲されるということに注目している。トラシマクスのこの定義がソクラテスの学校に伝えられると、〔ソクラテスは〕述べている。「そうではない。むしろ正義とは、最も力のない者にとって、最も役に立つものである。最も力のある者は、自分や自分のものをいかなる正義なしにも維持するが、最も力のない者は、〔正義なしでは〕まったく維持しないからである」。(411頁)

弟子たちの求めに応じて、ソクラテスは正義の一部、実定的正義について論じた。

 

p.412 実定的正義と自然的正義

正義には、実定的正義と自然的正義とがある。実定的正義とは、盗みの禁止などのように、人々によって案出されたものである。一方、自然的正義とは、両親への愛やそれに類したことのように、人間によって案出されなかったものである。実定的正義は国家の制度に関して特に現れるため、それについて論じるにあたって、国家に目を向けることでこの正義を示そうとした。しかし、いかなる国家にも、模範といえるような完全な正義を見出すことができなかったので、アテナイ人の古い国家にもとづいて新しい国家を考え出した。次いで彼の弟子のプラトンが、国家に関する一〇巻の書物を書いた後、自分の師が企てたことを完成させようと望んで、自然的正義についてこの著作を書いたのである。

自然的正義は特に宇宙の創造において現れるため、宇宙の創造に目を向けている。したがって、この本の題材は自然的正義すなわち宇宙の創造である。自然的正義のために宇宙の創造について論じている。(412頁)

 

p.413~414 哲学の区分

哲学とは、存在し見えないものと、存在し見えるものを真に理解することである。哲学には二種類、実践哲学と理論哲学がある。(413頁)

実践哲学には3種類、倫理哲学(エティカ。習慣を教える)、経済哲学(エコノミカ。一人ひとりが自分の家族をどのように管理しなくてはならないかを教える管理哲学)、政治哲学(ポリティカ。国家がどのように支配されるかを教える国家哲学)。理論哲学は3種、神学(テオロギア。神に関する理論)、数学(マテマティカ、学知的哲学。四科を含む。四科の学知のほうが他の学芸よりも完全だから学知的と言われる。他の学芸においては、学知は音声だけで生じるが、四科においては、音声と目によって生じるのであり、著者が述べることを規則が目に見える形で示してくれるから。代数学音楽学幾何学天文学)、自然学(フュシカ。自然、諸物体の結合についての哲学)。

マテシスとは憧憬をともなった学知であり、憧憬がなければ虚栄となる。それは換称的な意味で学知的と言われている、他の学芸よりも四科における学知のほうが完全だからである。(413頁)

叙述したことは目に見えるようにしたほうが頭によく入るので、哲学自体の類である学問から始めて示す(414頁の図)。

f:id:Nanzan-Bunko:20191119173140j:plain

学問と哲学の分類図(ギヨーム・ド・コンシュによる、414頁)

 

p.415 学の適用範囲

この著作では、実定的正義を要約する際には実践哲学から、宇宙の始動因、形相因、目的因および魂について語られるところでは神学から、数や比例についてのところでは数学から、四元素、動物の創造、原初的質料についてのところでは自然学からというように、哲学のあらゆる分野から何かが含まれている。(415頁)

 

宇宙の四原因および宇宙の創造についての論考

 

p.417 常に在り出生を欠くもの(神の本質)と、生み出され変化するものについて

27D

プラトンは(…)、常に在り出生を欠くものと、生み出されて常にあることのないものの両者について説明をしている。前者についての説明は次の通りである。理性の導きにより知性によって把握されうるもので、常に同一である。後者についての説明は次の通りである。非理性的な感覚のともなう意見によって把握されうるものである。(417頁)

 

p.417 感覚、想像力、理性、知性

27D

このことがよりよく理解されるように、魂の諸力について何かを述べることにしよう。創造主は人間の魂に分解不可能の本質、知識の完成、意志の自由を与えた。しかし、多様な種類の事物が知識の対象となり、また同一の事物がしばしば多様な仕方で把握されるので、多様なものを把握し、あるいは同一のものを多様な仕方で把握するために、人間の魂に多様な力すなわち感覚、想像力、理性、知性を与えたのである。

感覚とは、それによって人間が現存する事物の形や色を把握する魂の力である。この力は、形と色だけをもつものの物体が現存するときでなければ働かない。この力は外から自分にもたらされる情念に始まりを有する。

想像力とは、それによって人間が現存しない事物の形を把握する力である。この力は感覚に始まりを有する。というのは、われわれは想像するものを見たものとして想像するか、あるいはウェルギリウスに出てくるティテュルスが自分の街の類似としてローマを想像したように、すでに見たことのある他のものの類似として想像するかのいずれかだからである。

理性とは、それによって人間が物体の特性や物体に内在するものの差異を判別する魂の力である。この力は想像力と感覚に始まりを有する。感覚するか、あるいは想像するかするものについて識別するからである。

知性とは、それによって人間が、非物体的なものをなぜそのようであるか確かな根拠をもって把握する力である。この力は理性に始まりを有する。人間は理性によって物体の特性を把握したとき、人間の身体〔物体〕が本性的に重力をもつものであり、重力が運動に反することを知る。そこで人間の身体が動くことを見たとき、このことが他のものによることを知る。探求することによって、身体の中にある霊が存在し、それが身体に運動を与えていることを知る。しかし重いことは霊に反するので、あるものの知恵が霊を身体に結びつけ、身体の中に霊を保っていることを知る。しかるにすべて知恵というものは誰かの知恵である。そこで誰かの知恵であるかを尋ねることにより、それはいかなる被造物のものでもありえず、それゆえ創造主のものであることを見出すのである。(417~418頁)

 

 

p.418~419 知性は神とわずかな人間のみがもつことを許されている

27D

そしてこのように人間は理性に導かれて、非物体的なものの知解へと到達する。〔理性は〕原因として〔知性に〕先立っているように、時間によっても先立っている。人間はまず幼児期に感覚、次に想像力、その後理性、そして神がそれを許すならば知性をもつようになる。プラトンが述べているように、ただ神のみとせいぜいわずかな人間が知性をもつにすぎないからである。(418~419頁)

 

p.419 理性と物体的なもの、知性と非物体的なもの

27D

これらの力のほかに素質、記憶、意見といった理性と知性に仕える力がある。素質とは、何かを速く把握するための魂の本性的な力である。素質(インゲニウム)と言われるのは、いわば内に(イントウス)生みつけられて(ゲニトウム)いるからである。記憶とは、認識したものをしっかりと保持する力である。意見とは、疑いをはさみながら事物を把握することである。この把握が物体的なものについて確証されれば理性となり、非物体的なものについて確証されれば知性となる。(419頁)

 

p.432 真理が真らしいものより優れているのは必然的なものであるから

29C

Quantoque. 論述の前後関係。創造主については、真実で必然的でない限りいかなる理拠も挙げるべきではないが、宇宙については真らしさだけで十分である。しかし人によっては〈なぜ真理は真らしさに優るのか〉と言うこともありうるので、それに対して答えている。「本質」、すなわち始まりと変化を欠いているもの「が出生において」、すなわち生まれ出て変化するものより「より良いものであればあるほど、真理は不確実なもの」、すなわち宇宙についての理性の不確実性「より優れたものである」。しかし、このことを言わなければならなかったので、この不確実なものの種類、すなわち「評判と意見」を挙げている。すべて人間の理性は評判あるいは意見である。われわれは受け取ったことを話すか、自分で信じたことを話すかであるが、前者の場合は評判であり、後者の場合は意見である。(432頁)

 

p.432 被造の物体については偶有的でも真らしい説明でよい

29C

Quare predico. 宇宙について真らしいが必然的でない理拠で十分であるので、私がかならずしも必然的なことを言わなくても、驚かないでほしい。プラトンによれば、神については真実で必然的なもの以外は何も言ってはならないが、物体については他のありようが可能であるにしても、われわれに真らしく見えることを言ってよいのである。それゆえ、どの場合にも必然的な論証を導入しなくても、われわれは非難されるべきではない。(432頁)

 

p.434~435 神は意志によって世界を創造した

30A

Quam quidem. 今まで述べてきたことの結論は上述の通りである。神は意志のみによってすべてのものを作ったのであるから、もし誰かが神の意志が事物の起源であると言う人があるならば、私はその人に同意しよう。それは神の意志と善性が事物の原因であるということに反対するものではない。(434~435頁)

 

p.435 創造されたものは本性上、善なるものである

30A

Volens, etc. あらゆるものが善であることを欲したので、いかなる悪の後裔も残さなかった。そこで次のようになる。悪い被造物を作りもしなければ、被造物に悪い本性を付与することもしなかったがゆえに、「神はあらゆるものが善として現れることを欲して、いかなる悪の後裔も残さなかった」のである。後になって、自ら堕落した本性が悪を行ったのである。このことは、創造主が善い本性と悪い本性という二つの本性を事物に付与したと言う人々に反対するものである。したがって、人間は罪を犯すといった本性の者なのではなく、こうした堕落をするものであると言わなければならない。(…)われわれの目にする悪は本性からではなく、本性の堕落からであると言ってもよいであろうか。悪魔もまた本性によれば善であるのに、意志と業によって悪だからである。(435頁)

 

*1:岩熊幸雄「総序」(上智大学中世思想研究所 編訳・監修『中世思想原典集成8 シャルトル学派』所収)、平凡社、2002年、11頁。

*2:岩熊、同書、12頁。

*3:岩熊、同書、12頁。

*4:コンシュのギヨーム「コンシュのギヨーム「プラトンティマイオス逐語訳註釈」」(上智大学中世思想研究所 編訳・監修『中世思想原典集成8 シャルトル学派』所収)、大谷啓治訳、平凡社、2002年、411頁。

*5:稲垣良典トマス・アクィナス』、勁草書房、1979年、191頁。

*6:稲垣、同書、193~200頁。

*7:岩熊、前掲書、8~9頁。

*8:ギヨーム、大谷訳、前掲書、414頁。

*9:ギヨーム、大谷訳、前掲書、413頁。

*10:ギヨーム、大谷訳、同書、413頁。

*11:ギヨーム、大谷訳、同書、418~419頁。

*12:ヴィルヘルム・フリードリヒ・シェリング「哲学的経験論の叙述」(岩崎武雄編『世界の名著 続9 フィヒテ シェリング』所収、中央公論社、1974年)、535頁。

職場の男性~ワーク・ライフ・バランスの実現に向けて(金井 篤子)

職場の男性~ワーク・ライフ・バランスの実現に向けて

金井篤子「職場の男性~ワーク・ライフ・バランスの実現に向けて」(柏木惠子・高橋惠子編『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』所収)、有斐閣、2008年

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

解題

『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』所収の一篇。著者の金井篤子博士は名古屋大学大学院教育学研究科教授、専攻は教育心理学。労働者のメンタルヘルス、ワーカホリズム(仕事中毒症)、職務ストレス、キャリア開発、ワーク・ファミリー・コンフリクト(仕事家庭葛藤)、企業内シニアのストレスなどの研究を行われているとの由である。

ここでは単刀直入に、どれだけの人が仕事に苦痛を感じているか、それを示す統計と、関連グラフだけを取り上げる。金井氏の調べによると、早い話、男性の正規雇用労働者の約半数が仕事についての楽しみが低いとされ、自発的に仕事に取り組み、かつ仕事を楽しむ〈仕事享楽者〉と呼ばれる群は、全体の約32%に留まるという。中にはいい性格の者もいて、仕事はわりあい適当だが、仕事自体は楽しみ、自分の職務についてもそれなりに大切に思っているという人たち(〈仕事を楽しむ労働者〉)が約20%、ストレスも少なく、健康上の不満も低い。うらやましいかぎりである。

問題は〈ワーカホリック〉と〈やる気のない労働者〉ということになるが、後者は意外と〈仕事を楽しむ労働者〉と似通っていて、唯一の違いは〈職務関与〉(職務を大切に思って取り組む程度)の度合いで、当然のことながら〈仕事を楽しむ労働者〉の方が高い水準を示している。もっとも、仕事を完璧にこなす動機などは両者とも同程度、仕事を抱え込まないところもよく似ていて、この人たちは基本的にストレスフリーなのである。ということで、一番心配なのは、〈ワーカホリック〉と呼ばれる人たちということになる。詳しくは剳記をご覧いただきたい。

それにしても、「仕事は生きがい」とは言われるけれど、これではなんとも空しい話である。昔は、「会社のため」といえば何でも通ったが、働くだけ苦痛が増すのでは、現実離れしたスローガンというほかない。企業は単なる道具であって、仕事は単なる手段にすぎないということが自覚されてくるにつけ、仕事の量を調整しようという発想が生まれてくるのは自然の成り行きであろう。そこから逆算していくと、仕事の量というものは自ずから決まってくるであろうし、同様に賃金というものも、ある妥当な金額に定まるであろう。その範囲で提供されるサービスの総量は、現在のそれを下回るであろうから、不要な仕事は行なわれなくなるであろう。バートランド・ラッセルは戦時下の体験から、1日4時間労働でも社会は回るという見解に達したのであるけれど、必要な労働量はそれで満たされても、経済にはいささか厄介な問題があって、すなわちそれは「借金をどう返すか」という問題である。借金を返すための労働は必需にもとづくものではないため、われわれは知恵を絞って、マネーを稼ぎ出すための労働を余分に案出しなくてはならない。このようにして、増えすぎた金融負債とともに高度消費社会が招来されることになったけれど、負債をテコにして実物経済の数倍の規模に膨張を続ける金融資産が行き場を失ってしまったら富裕層は破滅であるから、何としても、地球を何個も買えてしまうだけの量に増加してしまったマネーの総量分だけ、貧しい人間に労働を強いなくては収まりがつかないのである。結果、無駄としか思えない似たような仕事がいくつも並び立って競争へと駆り立てられるのであるけれど、これが無駄とはいわれないのは、人にとって是が非でも必要であるからというよりは、結局は国の借金を返すために貢献しているから、というほかないように思われる。

話が脇道にそれてしまったけれど、ともあれ、産業領域における心理臨床は、今後ますます重要性を増す分野であろうから、新たな知見が示されることを望むばかりである。

 

所蔵館

市立長野図書館(143ニ)

 

関連項目

長谷川寿一「殺人動向から考える男性心理~進化心理学の視点」

柏木惠子「ジェンダー視点に立つ男性の心理学の課題~なぜ「男性の心理学」なのか」

高橋惠子・湯川隆子「ジェンダー意識の発達視点~男らしさもつくられる」

 

日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

 

 
p.217 社会の半数は仕事が楽しくない

仕事の楽しみが低い群は49.1%もいる。ワーカホリズムに関する近年の研究では、正規雇用の男性回答者のうち、自発的に仕事に取り組む衝動が強く、かつ仕事を楽しむ仕事享楽者の割合は31.8%にとどまり、仕事は楽しむが内的衝動は低い群(19.0%)、ワーカホリック(21.2%)、やる気なし(27.9%)という結果に終わった。ワーカホリックは、仕事は楽しくないが、やらなければと取り組む群をいう。

 

p.218 ワーカホリック・タイプのグラフ

f:id:Nanzan-Bunko:20191115224049j:plain

ワーカホリック・タイプ別特徴(男性)

ジェンダー意識の発達視点~男らしさもつくられる (高橋惠子・湯川隆子)

ジェンダー意識の発達視点~男らしさもつくられる

高橋惠子・湯川隆子「ジェンダー意識の発達視点~男らしさもつくられる」(柏木惠子・高橋惠子編『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』所収)、有斐閣、2008年

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

解題

『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』の収められた一篇。著者の高橋惠子博士(聖心女子大学名誉教授)は、全編の編者でもある。本論は、〈男性学〉の視点から、「男らしさ」とは何かという男性自身の現実認知の問題を論じ、男性もまたジェンダーイデオロギーの被害者であることを解き明かそうとするもので、支配動機や、競争的手法によって利得を得ようという動機の低い人には共感できるものであろう。逆に言えば、積極果敢な人、能力に自信のある野心家、競争すればいくらでも利得を得られる人、サイコパス性の高い人からすると、自分のやりたいことにブレーキをかけられかねないトンデモな理論と言えなくもない(笑) 

この問題、古くはバートランド・ラッセルも論じており、ラッセルからするとナポレオンなんてのは、ヨーロッパにおける災厄そのもの以外のなにものでもなかった。ラッセルからすれば、競争社会などというのは、できる奴だけが得をするトンデモない社会ということになるのである。本論で示された視点は、ほとんどラッセルによって先取りされているけれど、彼はそれをただエッセイの中で示すにとどまり、学術的な研究に発展させることはなかった。対する〈男性学〉は、構築主義的手法によって、社会の中で「男らしさ」という人工的観念がいかに構成され、個人の現実認識に影響するのかを研究する学問分野である。

さて、本稿では、伝統的に女性が担わされてきた諸価値というものが、エリート男性において軽視されるものであったために、男権社会のジェンダーイデオロギーにおいて下位の徳として位置づけられてきたことを指摘するものであるが、このことは、早くも18世紀後半に、エドマンド・バークの『崇高と美についての我々の観念の起源の哲学的研究』において見られる価値判断で、これがカント『美と崇高にかんする観察』に継承されたことは、これらの書を読めば一目瞭然のことである。

本稿を含む『日本の男性の心理学』全体の編者の一人である東京女子大学名誉教授の柏木惠子博士は、〈女性役割〉の次元として「美と従順」を性的役割の識別因子に挙げているが、対する〈男性役割〉にかんする次元として割り当てられるのは「知性」と「行動力」であるとされる*1。青年期になると、男子は、男性が男性因子を身につけ、女子が女性因子を身につけるのが望ましいという認知パターンを受け入れるようになるが、女子は、男性が男性因子を獲得することを期待するものの、自身が女性因子を身につけることについては消極的になるというのが柏木博士の研究報告の概略である。つまり、女子は「美と従順」という役割特性を認めたがらなくなり、そのような期待に対して葛藤を抱くというのである。これは60年代後半から70年代前半にかけての研究であって、2009年に行われた追試では、だいぶ事情も変わってきており、「男子の方が伝統的性役割観を強くもっている」という傾向は見られなくなったものの、柏木氏の設定した三因子については、守秀子氏のような次のような研究報告がある。

 

「行動力」「知性」の因子では男性役割としての方が女性役割より有意に大きく望まれており(それぞれF = 26.85, p < 0.01;F = 59.53, p < 0.01)、「美と従順」の因子では女性役割としての方が男性役割より有意に大きく望まれていた(F = 59.03, p < 0.01)。やはり、男性次元と女性次元は、はっきりとその役割期待として識別されている様子がみられた。

また、男女各々の性役割意識でみられた3つの因子間の差は、男性役割においても女性役割においても有意なものであった(それぞれ F = 101.00, p < 0.01 ; F = 8.81, p < 0.01)。男性役割においては、「行動力」>「知性」>「美と従順」という順でいずれも5%水準の有意差がみられた。女性役割においては「行動力」>「美と従順」=「知性」という風に、行動力の因子だけが他の2つの因子より有意(5%水準)に大きく望まれており、女性次元より男性次元の「行動力」の方が上回る結果となった。もっとも、ここでは性別との間で交互作用がみられたため、さらに検定を加えたところ、この差は女子学生自身の評定によるところが大きいことがわかった。女子学生は女性の望ましさとして「行動力」を他の2つより有意に高く評定しており(5%水準)、これは先行研究で報告されてきた「女子は女性役割の受け入れに消極的であり、自らの役割に男性次元を望む」というものと同様の結果である。一方男子学生は、女性にとっての望ましさにおいて「行動力」と「美と従順」の間に有意な差をつけておらず、この2つより「知性」を有意に低く評定している(5%水準)。男子学生がこれまで女性に強く求めて来た「美と従順」と、あまり求めていなかった「行動力」の差はなくなったことになり、これは先行研究とは異なる様相を示すものである。*2

 

18世紀末において、社会的に重要なものとされた「崇高の徳」(男性的な望ましさ)と、社会的重要度の低い「美の徳」(女性的な望ましさ)という二分法は、そのまま現実の男性役割と女性役割として割り当てられ、後者の役割を下位に位置づけてきたのであるけれど、柏木氏の研究では、「美の徳」のうち、「美と従順」という特性を女性性の識別因子として抽出し、女性自身がこの役割について否定的であることについて、守氏は次のような見解を示された。

 

先行研究から、男性次元とされる役割には、社会的望ましさ(人間性)と一致するものが多く、高い評価が与えられていることが確かめられている(伊藤, 1978; 伊藤・秋津, 1983; 後藤・廣岡,2003 )。すなわち、男性次元とされる役割は、「男性にとって」とか「女性にとって」という以前に、「人として」望ましいとされる項目が多いのである。それに対して女性次元とされる役割には、あまり価値がおかれていない。確かに、「従順」「依存的」などが人として望ましいこととは思われないし、「容貌の美しい」「かわいい」などは、人間性というよりは外見に関わるものである。このことから、男子はすんなりと己の役割期待を受け入れるが、女子はその役割を受け入れる際に葛藤があるとされてきた。*3

 

たしかに、従順や依存ということを自己の属性として積極的に引き受けたいという人はいないであろうけれど、従順かそうでないかと問われたら、自分はどちらかといえば従順であるという人はいるであろうし、そのような生き方を是とする人もいるであろう。外見についても、その人の能力や人格とは取り換えのきかないかけがえのない要素の一つに違いないから、私はこれを軽視してはならないと思うけれど、どれだけ外見が立派でも、私に苦痛を与えるような人格の人と一緒にいたいとは思わないであろうから、すべてはメリットとデメリットの差し引きである。女性の人格が最低でも見かけがかわいけりゃそれでいいなんてのは、男権時代だからこそどうにかなったものであって、もはや男尊女卑などというタテマエを誰も信じないような世の中になったら、女性の攻撃的主張を男性側が優越的な権力で抑え込むことなどできないことは理知的に考えて明白であるから、外見のみならず人格が大事というのもうなずける。もちろん、人格の望ましさが同程度であれば、外形に優れた人を選好するのは一般的な傾向であろうから、そのこと自体が否定されるべきこととは思われない。もっとも、世間の男女がみな美しければこういう問題は起こらないであろうけれど、役割期待としての〈美〉を求められて、女性側が困惑するのも無理はない。ナンダそりゃって話である。

質問紙法で問うかぎり、人の心の機微に触れた回答を期待することはもとより無理な話で、タテマエみたいな調査に終わってしまうのは仕方のないところであるけれど、タテマエであれ、人間が社会的に振舞う際にどうあるべきかという意識というものはずいぶんと変化してきたようだ。ジェンダーイデオロギーによる男権社会というハイパーリアルは、けっきょくのところ、女性のみならず、多くの男性にも利得をもたらさないことが自覚されてきたようでもある。ただ、女性が男性的とされてきた役割を担うことにタブーがなくなった社会で、今度は女性が「男らしさ」の桎梏に苦しむことにならないか、その点はいささか気になる点でもある。男性的な〈崇高さ〉を身につけたって偉くもなんともないということは、これまでの男性社会を見れば明白である。女性が自らの特性からアブジェクトしてきた〈美〉の諸属性にも、じつは大きな価値があるのではないかという可能性についても考えてみたいものである。〈美〉とは、18世紀の哲学者に言わせれば、決して外見だけを指していうタームではないのである。それは一つの徳の体系なのである。その点で、社会的に重視されてきた男性的道徳観に対して、女性的道徳観というもう一つの価値観に着目したギリガンの研究は評価されてよいものであろう。なお、守氏は報告の末尾で、これからは男性が伝統的に女性役割とされてきたものを担う際に葛藤に直面する場面が現われるのではないかと予測されているが*4、このようなことも〈男性学〉的な課題ということができるであろう。

なお、男性がこのような支配動機にまみれた競争的な社会を造り上げてしまった背景について、進化心理学であれば実効性比の問題からくる男性間競争という構造に結論を帰着させるのであろうけれど、今のところ、仮説の域を出ないものである。この手の研究は、どこまでいっても仮説のままという気がしないでもないが、参考までに記しておく。

 

所蔵館

市立長野図書館(143ニ)

 

関連項目

柏木惠子「ジェンダー視点に立つ男性の心理学の課題~なぜ「男性の心理学」なのか」

 長谷川寿一「殺人動向から考える男性心理~進化心理学の視点」

金井篤子「職場の男性~ワーク・ライフ・バランスの実現に向けて」

 

日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

 

 
p.54~55 男らしさとジェンダーイデオロギー、男性支配のシステム

「男らしさ」とは、支配と権力に象徴される他者への「優越性」を増大させ、継続する特性だといえるであろう。すなわち、「男らしさ」とは知的優越性(学歴が高く、学業に優れ、知識が豊富、論理的で想像性が高い、指導力がある、知的専門職に携わる)、身体的、活動的優越性(体格がよく、体力があり、たくましく、運動能力に優れている、大胆で冒険好きで、闘争心がある)、経済的優越性(経済力があり、稼ぎがよく、高い職位につき、政治・経済に関心が高い)、そして精神的優越性(達成志向が強く、挑戦的、意志が強く、我慢強い、寡黙で冷静、弱みを見せない、理性的で感情に走らない)をもつことである。そして、この背景にあるのがジェンダーイデオロギーであり、それを強化するための社会制度、社会システムである。ジェンダーイデオロギーとは、男性が女性に対して優勢な立場に立つ一方、男性同士に競争を強いるものである。勝者が敗者を従わせ、支配するという仕組みを当然にする。すなわち女性を最下層に位置づけ、上層の男性間にも力による階層構造を考えるという、差別的構造と意識の総体である。(54~55頁)

 

p.55 ジェンダーイデオロギーと男性性の理想

ジェンダーイデオロギーの支配のもとでは、男性の理想的要件は他者への「優越性」を示す特徴の全部か、そのいくつかを達成すること。

 

p.64 エリート男性中心の道徳観を頂点に位置づける発達体系への反論

しっかり生きよと育てられた男性協力者のみを相手に道徳判断の研究をしたコールバーグ(Kohlberg, 1969)は、「個人の権利の優越性や正義で道徳判断をする」ことを頂点とする冷徹な道徳判断に至る一つの発達段階を示し、これを普遍的なものとし、女性はその第三段階くらいに多くの回答が集中し、道徳発達の上で未成熟な存在と報告された。弟子のギリガンは男性中心の社会で「価値が低い」という理由から女性が担ってきた道徳観に注目した。

 

p.66 男女における攻撃性の社会的意味

男女では攻撃性の社会的意味が異なっている。女性には攻撃性の表出そのものが「女らしさ」に反するとされるのに対して、男性に対しては、攻撃性が社会的に容認されるだけでなく、ある種の攻撃衝動は望ましい社会行動だと奨励される。それは攻撃性が「男らしさ」の証しである「優越性」を示すだけではなく、攻撃的であることが他者との競争に勝つための手段の一つとなりうるから、攻撃性は多様な方法で表出される。

 

p.66~67 男性は支配のために攻撃性を表出するスキルを求められる

男性においては攻撃性の表出が時に望ましいものとして求められる。乱暴な言葉づかいや命令、叱責、非難などの言語的な方法、悪口、無視、排除、威圧、脅迫、示威、わがままさ、過度の自己主張など、攻撃的な自己表現。

 

また、「野心」「闘争心」「上昇志向」「挑戦的」などといわれるような心理特性は、攻撃性が社会的に容認されるように形を変えたものだといえよう。幼い時から男性にはこのような意識された方法で攻撃性をオープンに表出するスキルをもつことが期待されるのである。(66頁)

 

しかし、社会的に容認される攻撃性と反社会的なそれとの線引きはむずかしい。しつけと体罰、軍隊という武力と暴力などと同じ。時に暴力も政治的に正当化される。エリート男性だけを調査対象としてコールバーグが見出した道徳的規範は、「権利と正義」の価値をもっぱら重視、相手を思いやったり、擁護的な観点で責任を取ろうとする「ケアの道徳」観は「男らしさ」になじまない。

 

p.67 男も「やせ我慢」を強いられている

つまり、男性は勇気を出して「男を降りる」ことをしない限り、おそらく永久に「優越性」を是とする「やせ我慢」のスパイラルから抜け出せないのである。(67頁)

 

p.68 男性問題。男性もジェンダー化され、差別されている

男性学」は「男らしさ」についての解明に学問的に取り組み、「男らしさ」が引き起こしているさまざまな心と身体の問題にメスを入れてきている。男性の個人の問題としてだけではなく、個々の男性がおかれている社会構造やそれを作り出しているジェンダーイデオロギーにも迫っている。「男性学」が提示しているのは、「女性だけでなく、男性も差別されている」し、「男性もジェンダー化された存在である」という認識と「男性問題」の発見であった(渡辺、1986;伊藤、1993、1996;多賀、2006)。(68頁)

これは評価できることだが、男性の問題だけを独立に論じても不十分。

 

p.70 性差はジェンダーイデオロギーの産物

性差は厳然として存在するという証拠を次々ともちだす人がいるが、諸研究を見ると、両性の差異は少なく、通文化的なのは空間認知能力と数学能力における男子の優位性と、言語能力における女子の優位性くらいで、脳の構造と機能の違いではないかと仮定されているが、まだ未解明(Rogers, 2001)。性差神話が蔓延するのは、「ジェンダーのレンズ」でものを見る習性のため(Bem, 1993)。男女の性差はほとんどなく、ほとんどはジェンダーイデオロギーがつくり上げてきたもの。

 

p.70~71 男性が作ったシステムに男性が疎外される

「優越性」を奨励され続け、それによって社会的に優遇されてきた男性ではあるが、今や、自分たちが創り、享受してきたこの仕組みにしっぺ返しを受けていることに、気づくべきである。勝つか負けるかという競争原理がとりわけ重視される社会構造は、勝者にも敗者にもきわめて残酷で、人間の本質になじまない。(70~71頁)

 

p.71 不安が競争社会とジェンダーイデオロギーを維持してきた

男性の多くが、「男らしさ」を拒否し、「男らしさに象徴される人間像」を目標とすることをやめたとき、この男性優位社会の原理である競争自体が意味を失うだろう。「男らしさ」そして「女らしさ」を失うことを怖れる心理そのものが、ジェンダーイデオロギーを強化し、維持させてきたことにまず気づくべきなのである。(71頁)

 

*1:柏木惠子「青年期における性役割の認知」(日本教育心理学会編『教育心理学研究』15巻4号所収、1967年)、193~202頁。「青年期における性役割の認知Ⅱ」(『教育心理学研究』20巻1号所収、1972年)、48~59頁。

*2:守秀子「大学生における性役割認知の変化」(『文化女子大学長野専門学校研究紀要』第2号所収、2010年)、25頁。

*3:守、同書、26頁。

*4:守。同書、32頁。

ジェンダー視点に立つ男性の心理学の課題~なぜ「男性の心理学」なのか(柏木 惠子)

ジェンダー視点に立つ男性の心理学の課題~なぜ「男性の心理学」なのか

柏木惠子「ジェンダー視点に立つ男性の心理学の課題~なぜ「男性の心理学」なのか」(柏木惠子・高橋惠子編『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』所収)、有斐閣、2008年

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

解題

複数のレポートをおさめた『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』の編者による、いわば全編の総序。ここだけ読めば一冊のあらましはだいたいわかってしまうので、時間のない人にはおすすめである。実際には各レポートの要点をかいつまんだものであるけれど、ここでは特に出典は示さないので、気になる方はご自身で確かめられるがよろしかろう。ただ、先に挙げた長谷川寿一博士の『殺人動向から考える男性心理~進化心理の視点』について触れた箇所については、対応ページを記した。

この序論のなかで興味深いのは、米国の心理学者ホーナーが提唱した女性における成功回避動機(the motive to avoid success)という考え方と、それに続くギリガンによる女性には男性とは異なる特有の道徳的発達の様態があるという指摘(高橋惠子・湯川隆子「ジェンダー意識の発達視点~男らしさもつくられる」)であるけれど、成功回避動機の研究には問題点が多く、そもそも〈成功を回避する〉とは何ぞやという構成概念の曖昧さから始まって、手法の信頼性という問題もあって、諸研究において定まった結果を得られないという難点があった。ホーナーの考えた〈物語作成法〉なる手法にしても、「こんなんで実際、成功不安があるかないのかなんてわかるんかいな」という話であるけれど、私にやらせたら、徹底的にネガティヴな話を作って「こいつ大丈夫か!?」ということになるであろうから、なんか違うことがわかってくるような気すらしてくる(笑)。

統計を取れば何らかの傾向が数値化されてくるのは当たり前のことではあるけれど、それをどう解釈するかということになると、問題は当初ホーナーが想定していたよりも複雑だったようで、今日では単純に成功回避動機の有無を性差に回帰させるのは困難と見なされているようである。また、質問紙法による成功回避動機尺度の質問項目にも今一つ答えにくいものが多くて、〈成功〉というものを是が非でも競争と結びつけなくては気がすまないようなものが多く、〈成功〉とは所詮、集団のトップに立つことであったり、ゲームに勝つことであったりと、今じゃ大して魅力的とは思えないことばかりである。それに、一口に集団といってもいろいろなものがある。

人間、握れることなら多少の権力も握りたかろうし、人に支配されるよりは対等でありたいと思うであろうけれど、どうでもいい分野で一番になっても仕方がない。という意味では、成功回避動機というのは、この種の事柄から受けるデメリットがメリットを上回っているという考え方の度合いを示すものであろうけど、なんか雑多な要素も入り込んでいて、自分が成功することと他人が成功することをどう評価するかをゴッチャにしているようで、イマイチよくわからないものもある。ひとまずのところ、個々の質問項目を一通り読んだ上で、唯名論的に「成功回避とはそういうものだ」と理解しておけばよいだろう。研究者が特定したい性格特性が把握できれば、活用の道も開けるであろう。ただ、〈成功〉という字面から受けるイメージと内実が異なることもあるだろうから、レポートを読むときには注意したいものである。

研究によっては面白い報告もあって、1990年に発表された藤岡秀樹・高橋久美子両氏の「成功回避動機についての研究」(『岩手大学教育学部附属教育実践研究指導センター研究紀要 第1号』所収、1991年)によると、高校生と大学生を被験者として成功回避動機を測定する質問紙(FOSS)を実施し、達成欲求・支配欲求や性役割期待との関係を調べたところ、その主な結果は、

 

(1)高校生・大学生共に、成功回避動機に性差は見られなかった。
(2)成功回避動機の強い者は弱い者と比べて、男女共、達成欲求は弱く、男子のみ支配欲求が弱いことを見出した。
(3)成功回避動機と性役割期待尺度の女性性とは関連性が認められなかったが、男性性とは部分的に関連性が認められた。つまり、成功回避動機の強い者は弱い者と比べて、伝統的な性役割観(男性性次元)を強く持っていることが、部分的に認められた。
(4)Hornerの用いた物語作成法で測定された成功回避動機は、FOSSとある程度の関連性を認めることができた。(以下省略)*1

 

とのことである。これだけでは何のことかわかりにくいとは思うけれど、参考までに挙げておく。

いずれにしても、いわゆる〈成功回避〉ということのうちに、何らかの効用を認めようという姿勢は、倫理的なものにある新しい次元を切り拓くものと見てよく、なんでもかんでも〈成功〉側の尺度で評価するのはどんなモンよと思う人は、ぜひ本論からインスパイアされるがよろしかろう。かつて当たり前のように行われていたパワハラが、今ではイカンというのも、かつて〈成功〉を促進するものとして評価されていた男性的属性のある種のものが、今では社会的デメリットを生じさせるものと見なされるようになった結果であろう。もちろん、目的と手段は別のものであって、今日なお目的としての〈成功〉そのものは否定されるものではないけれど、その〈成功〉に他人を全面的に巻き込んで同一化しようなどということは、たとえ〈成功〉をめざす企業の内部であっても許されえないということになるであろう。ということになると、自然、〈成功〉の程度にも制限を課すということが出てきても不思議ではない。資本主義終焉論というのは、その一つのあらわれということができるように思われるが、ジョヴァンナ・フランカ・ダラ・コスタ風にいえば、資本主義こそは、女に対する男の暴力としての家事労働を根拠づける制度ということになろうから*2、〈成功〉の評価にかんする性差の研究であるとか、〈成功〉の押しつけ問題というのは、資本主義における価値観の問い直しという面をもっているのであろう。けっきょくそれは、男性における伝統的な役割期待を問い直すことでもあるのだ。

 

所蔵館

市立長野図書館(143ニ)

 

関連項目

長谷川寿一「殺人動向から考える男性心理~進化心理学の視点」

高橋惠子・湯川隆子「ジェンダー意識の発達視点~男らしさもつくられる」

金井篤子「職場の男性~ワーク・ライフ・バランスの実現に向けて」

 

日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

日本の男性の心理学―もう1つのジェンダー問題

 

  
p.1 セックスとジェンダー

「性は人種・民族と並んで個人の力で獲得・変更が不可能な生得的特性を基盤におく、優劣とは無関係な社会的カテゴリーである。にもかかわらず、長らく多くの社会で男性と女性は序列化され、女性は男性より劣る存在として位置づけられ、公私さまざまの場面で差別の対象となってきた。20世紀後半になってようやくその不当さが認識され、差別を生んできたメカニズムが探求されるなかで生物学的性と社会・文化的性が区別され、前者をセックス、後者をジェンダーとすることとなった」(1頁)

 

p.4~5 女性における成功回避動機

「達成動機づけは、業績や成功が重視される工業化社会において格好のテーマとして盛んに研究されてきた。その強さは成功物語に対する反応の分析によって測定され、男性が女性よりも強いという性差が認められて、女性は業績・達成への動機づけにおいて劣ると暗黙に考えられてきた。ホーナーはこれに疑義を唱えた。すなわち男女の達成動機づけの特徴は単に達成動機づけの高低、つまり達成志向の強弱としてとらえることでは不十分である。その差は単に強弱という量的な差異ではない、何をもって「達成」とするかについての質的な差が重要であると。さらに何事かをする場合、女性は失敗しないように努力するばかりではない、(失敗ではなく)「成功」回避というメカニズムさえあることにも、ホーナーは注目した。女性の達成行動は(男性とは異なり)常にトップになること、成功することだけが目標になるとは限らない、女性にとってはトップになることは=成功でも達成でもない、むしろそれを回避する傾向さえあるとの指摘であった」(ホーナー(Horner, 1968))(4~5頁)

 

p.5 男性の尺度で女性を評価するのは間違い

「このような達成の質に留意し成功回避というメカニズムに注目したのは、女性は行動する場合に常に周囲の人々との調和や他者からの期待や評価を大事にする、せざるをえない立場にあるという、女性の社会・文化的状況に注目してのことである。このことから、それまで人間の動機づけとして一般化されてきたものは男性には該当するが、異なる社会・文化的状況に生きる女性には必ずしも該当しないことにホーナーは注意を喚起したのである。心理学において人間=男性であり、その物差しで女性を理解することの不当さを批判し、人がおかれている社会・文化的状況の重要性を指摘したのである」(5頁)

 

p.5 男性と女性では求められる道徳的資質が異なる

ギリガン(Gilligan, 1982)『もうひとつの声』は、男性とは異なる女性の道徳性発達の特質を指摘。女性の場合、身近な他者との関係が否応なく大きな位置を占めるため、

 

「他者の期待に応え、他者に配慮し調和的な関係をもつことは女性にとって公正だの正義だのといった抽象的な原理によって行動すること以上に必要とされ重要であると。女性と男性はそれぞれの生活圏で求められ必要とされる資質の差が異なり、これが男女の道徳的発達を質的に異なるものとしているのであり、この差を無視して同一の物差し上で高低や遅速、優劣を論じるべきではない、と」(5頁)

 

p.16~17 家族をもつことが一人前の男性の条件だが、家族役割は担わない

「「家族もち」という言葉があるが、それは男性の属性(身分)を示すものとして用いられるのが通例で、女性にはほとんど用いられない(ちなみに女性の属性用語としては「子もち」があり、女性にとっては子の有無が重要視されている)。このことは、男性にとって家族・妻子をもつことが一人前の条件のように見なされる、その反映である。しかし男性は「家族をもつ」が「家族をする」、つまり家事や育児など家族役割を担うことはきわめて少ない。(…)家族はもつが、家族は自らはしない、そして生活はもっぱら職業なのである。このような状況は日本の男性の心と行動の発達と無縁ではないのである」(16~17頁)

 

p.17 殺人の危険世代

殺人の多さは若者より中高年。「かつては殺人は20代がピークであったが、近年、それは激減し、40代、50代男性の増加が注目されて危険世代と見なされている」「若者のひけらかし行動は、どんな時代においても芸術や文化における創造性の源泉であり、社会革新の担い手である」。(長谷川寿一「殺人動向から考える男性心理」(48~50頁))。長谷川によると若者は殺人率の低下と並行してリスク回避を強め、今度は内向き傾向に。

 

p.17 過労死は男性特有の現象

過労死は男性特有のもの。男性は一家の大黒柱を自認し、また、そのように期待されており、「積極的」「理性的」「リーダーシップ」などの役割期待を負わされている。これを重視するほど職業にのめり込み、それ以外の活動は余計なこと、窓際やリストラは男性の沽券にかかわる。妻子を養うために地位を高めたいが、それは男性である自分の存在意味とかかわること。妻を働かせるのは男の甲斐性のなさという考え方は今でもある。うつ、出社拒否、過労死はこうした仕事中毒の延長線上にあると言えよう。当人は仕事中毒自体をよいことと思い、仕事に酩酊している。これが過労死の前駆的症状ではないか。過労死については、労働時間からすると女性の方が男性より長いのに、過労死は男性が多い。出典はp.14、p.15にあり。米国では女性の過労死の方が多いが、男女の差は小さい。オランダでは週あたり900分、日本より家事労働が少ない。女性は家事にも従事して複数の活動で応用や柔軟な対応を可能にし、それが気分転換や発想の転換をもたらす。これが、女性が過労死しない背景と見なせよう。

*1:藤岡秀樹・高橋久美子「成功回避動機についての研究」(岩手大学教育学部附属教育実践総合センター編『岩手大学教育学部附属教育実践研究指導センター研究紀要 第1号』所収、1991年)、161頁。

*2:ジョヴァンナ・フランカ・ダラ・コスタ『愛の労働』、伊田久美子訳、インパクト出版会、1991年、8頁。

剳記と私(服部 洋介)

南山剳記編輯雑報①
剳記と私

服部 洋介

剳記一覧 :: 南山剳記

 

〈剳記〉(さっき)の〈剳〉(さつ)というのは、ものを読んだり、人から話を聞いたときに、その内容を書きつけておく〈簡札〉のことで、そこに註して自分の意見や批評などを加えたものをいう。先人の教えを講義する際に講師が用意する講義ノートから発展して〈剳記〉となったと思われる例もあって、大塩平八郎の『洗心洞剳記』、吉田松陰の『講孟剳記』はその類であろう。そうしたわけで、ノートの体でありながらも、筆者の主張を述べる一個の著作となっているものも少なからずあって、そのように考えると、ハイデガーの『シェリング講義』や、フーコーの『ニーチェ講義』といった講義録も、一種の〈剳記〉であろう。なお、読書感想文や書評、あるいは題跋を〈剳記〉と呼ぶべきかどうか、判断に迷うところである。いわゆる〈剳記〉とは、もととなった書物の一字一句を徹底的に読み込んでその意を明らかにするものであるから、単なる書評や感想を〈剳記〉とは言わないのであるけれど、〈剳記〉のもとの意味は、つまるところ〈ノート〉〈メモ〉であるから、『南山剳記』においては、読書録に類する筆記全般を〈剳記〉として取り扱うことにする。

ところで私は、その読書感想文というやつが苦手で、学校で書かされたものはいずれもグダグダ、とても教師の期待するものは書けなかった。ところが、高校の同級生によくできる奴が二人いて、一人はシモヤンといって、理系のクセに全国読書感想文コンクールで一等賞なんぞとりやがって、学校に賞状が送られてきたものだった。もう一人はマルサンといって、学校の成績はサッパリだったが、浪人時代に全国の予備校生を対象とした小論文コンテスト(読書感想文ではなかったけれど)で一席をとった。

さて、アラビア石油に入社してわが国のエネルギー確保の橋頭堡たらんというのが、本校の「アラビア太郎」ことシモヤンの平生からの口癖であったが、果たして京大の学生だった頃に石油学会に属し、院に進んで後は「アメリカのほうが面白そうだ」ということでアッサリ中退、米国で博士号をとった。京大では「日本に帰ってきてもポストがあると思うなよ」と因果を含められ、そのままアメリカに居ついてしまったのであるが、ブッシュ政権下で潤沢な研究資金を与えられ、カネはうなるほどあったというけれど、使う暇がないほど忙しかったという話だ。そうこうしているうちにシェール革命のあおりで研究トレンドは一変、その後は州の役人として働いている。一方のマルサンときたら、今やまったくの行方知れずである。その文才をもっと有効に活用できていたならば、今頃もっと偉くなっていたであろうけれど、世の中、そうはうまくできていないものらしい。

さて、その頃の私は、自分の著述のために膨大な読書録をつけていたから、マルサンからもよくそれを貸してほしいと言われたものだった。当時のこととて、ルーズリーフに手書き、これを活字データにするのは一生かかっても無理だろうと半ばあきらめているけれど、そもそも私が『南山剳記』というプロジェクトを思い立ったのは、高校時代から現在に至るまでにとった紙ベースのメモをどうにか片づけなくてはならぬという切実な問題に根源するのであるから、ひとつ残らずネットに上げて万人の利用に供するというのが本当である。ところが、いざまとめ始めると、もう一度原書を読み返したり、別の本に食指が動いてしまったりと、まったく本末転倒、かえって紙が増えてしまうのではないかとウンザリした気もちにならないでもない。もっとも人間、つねに新しい知識を得るということは望ましいことであるけれど、私がどちらかといえば後ろ向きな、過去の読書録の整理などということに着手したのには、それ相応の理由がある。

と申すのも、かれこれ十年来、記憶力・思考力の衰えが着実に進んで、いつまでも学生気分でいたのが、コリャいよいよ気のせいじゃねえ、本気で年をとっちまったってことが身にしみるようになったこの頃、前は仕事のしすぎで死ぬなんざ、何をどう働いたらそうなるのか、それで死ぬなら死んでみねえと思ったくれえだが、いや、実際、この調子でいったら死んでもおかしくねえって感じが出てきたのが去年かそこらの話、もっとも、その前からアタマのほうはテンでダメで、二年かそこら前、仕事でシンガポールへ飛ぶ前に近所の脳外にかかってみれば、そっちの先生もすっかり代替わりしていて、前の老先生は人の話をよく聞いたもんだが、今度のはクソ生意気な若先生、どっちも高校の大先輩だが、ドタマに来て予約したMRIをすっぽかしちまった。まったく、今日日はこちとらみてえなのがゴマンと押しかけて、脳外も暇じゃねえのはわからんでもないが、ひでえ扱いだよ。

そんなわけで、何を書くにも、書くべきことがどこに書いてあったか、他人の言葉はいうに及ばず、てめえで思いついたことすら思い出せねえっつうんだから、仕事になりゃしねえ。コリャ終わったなということで、最期の仕事と思って、二、三年前に引き受けた、画家の山下康一氏の作品に寄せる文『山下康一氏の絵画と思想』*1に手をつけたのが、今年の六、七月という頃。しかしウッカリした話で、なにしろ一番アタマが弱ってた頃のことだったから、まとまるものもまとまらず、脳の症状は急激に悪化、しめえには右半身に振戦が出るようになっちまった。これはまあ、経験上、仕事が済めば自然に収まるものとはわかっちゃいたが、それにしたって、ナンかの芸術家が頭を掻きむしって叫び出すアレの気もちがよくわかったね。もっともこちとらの場合、老人がてめえの頭の上に載せた眼鏡を探して右往左往するアレと同じで、じつのところ、周囲から痴呆扱いされかけていたから、呆けちまった人の悲哀ってのも、ちょっとわかった。

 

f:id:Nanzan-Bunko:20191111232656j:plain

山下康一『不二』(2017) 紙に墨、100×72.7cm ⒸKoichi Yamashita Courtesy of the artist

 

その頃、とある企業経営者とそんな話をしたら、「それはいけませんな。じつは私も若い頃に同じ経験がありましてな」ってな話になり、とにかく生活を一新しなくちゃいけませんぞ、なかんづく十分な睡眠時間を確保するようにと奨められたのであった。しばらくして、いよいよ死相があらわれているという話になり、知人から検査を奨められたが、うまい具合に心身脱落、おのずから毎晩自宅で全オチという日々が続き、ほとんど自分の意思とは無関係に強制的に睡眠をとらされるような形となり、しばらくすると急性状態を脱し、半月くらいで死相も消えたってんで、検査のことは沙汰止み、すでに山下さんのはできあがっていたから、しばらくは何もしないで過ごすことにした。

さて、話は変わるが、この山下氏という人は、山が好きなあまりに松本市に本部を置く信州大学に進学され、以後、本県の人となったのであるけれど、在学中、理学部に籍を置きながら、ひとり「哲学科」の渾名を奉られるほど思索を好まれる方であったから、絵描きでありながら、ずいぶん多くの筆記を残されている。それを邪道という人もあるけれど、私は一寸ちがう。バウムガルテンって人は、〈美学〉〔aesthetica〕ってのを「可感的なもの〔aisthēta〕を対象とする感性の学」として、理性や悟性によって認識される「可知的なもの〔noēta〕」を対象とする論理学と区別したわけだが、この年になってみると、単に感覚的なものに訴えるだけの作品よりは、どちかっていうと、ある実践的な認識論としての芸術行為、すなわち「世界をどのように見るか」という、その捉え方を提起するものとしての芸術作品に興味を惹かれるもので、ちょうど山下氏の作品は、人類における芸術行為の機能を一通り網羅したようなところがあって、じつに興味深いものであったから、氏の作品のどのような面が、芸術史のどの段階と結びつくものか、それを論考するのはたいそう楽しいことであった。もっとも、上に書いた通り、私の記憶力はすでに限界にきていたので、「ソレっていつのどんな出来事だったっけ?」「アレって誰の何だっけ?」「コリャ前にも書いたことじゃないか」「そもそも何を書くんだっけ?」と、まったく前に進まず、いい加減、反吐も出た(けれど懲りずに、『山下康一、風景画における歴史と機能』*2、『山下康一と旅』*3と続けて、ほとんど山下さんの三部作である)。

でもまず、一応のことを書き終えて、何もせずに怠惰に過ごしていたところ、慢性的な脳機能の衰えはどうにもならないけれど(私の思考の限界は一日に二時間程度である)、ひとまず死地は脱した次第である。それよりちょっと前の春先、いつ死んでも迷惑のかからないようにと、早々に身辺整理というのも始めたわけだけれど、そこで問題になったのが、例の膨大な紙の山。しかし、余命がわからないってのは困ったもんで、明日死ぬとわかっていれば遺書の心配だけして気楽なもんだが、しばらく時間があるらしいってことになると、それなりに段取りってモンを考えたくもなる。ふつう、自分の遺作とか、そういうのに心血を注ぐところなんだろうけれど、生来の飽きっぽさから、剳記の整理の方に関心が移っちまって、たまたま十五年ぶりに再会した、トロンボーンの楽団支配人にして翻訳家、寺子屋師匠でもある徳武葉子先輩と語らって『南山剳記』を始めたという次第である。

さて、元来の私の〈剳記〉ってのは、原書の抜き書きや要約に続いて、所見や参考資料を列記するスタイルで、ちょうど『二松学舎講義録』に収められた渋沢栄一の『論語講義』原文を逐条的に考察した笹倉一広氏の『渋沢栄一論語講義』原稿剳記』(一橋大学語学研究室『言語文化』49巻、2012年)に近いもの、ウン、まあ、〈剳記〉だ。前に出た『講孟剳記』についていえば、松陰は思うところあってこれを『講孟余話』に改題しちまったが、昔の〈剳記〉というのは、やはり一つの著作であったから、案外と重いものであったらしい。それにしても、人に講義するのが目的ならまだしも、こちとらのは他人のためにつけた註ではないから、人が読んでも脈絡がよくわからない。それ自体を世に出す意義があるものか、いささか疑問がないでもなかったが、そんなときに魯迅の弟の読書録をまとめた『周作人読書雑記』を思い出した。アレも好き勝手なことを書いた雑文もいいとこの読書日記だけれど、その行間に時折、著者の生きた当時の事情、社会の様子などをしのばせるものがあって、なかなか面白いものである。そういう意味では、読み捨てにされる週刊誌の記事にも見るべきものはあって、どこを探してもまじめに論じられる機会のないような、その場かぎりの下らない読みものこそ、得がたく貴重な資料ということもできるのである。そのようなものの書き手や読み手というものが、表立って文化の形成に決定的な役割を果たせるほどの立場にないため、それらが後世のためによく保存されるということはかつて稀であったけれど、web上で検索し放題、コピペし放題、リンクし放題と、やりたい放題の超複製技術時代にあっては、有象無象の同じような情報があふれかえり、かえって後世の人が想像を膨らませる楽しみを奪ってしまうのではないかと、気の毒に思わないでもない。

そんなことで始めた〈剳記〉のまとめだけれど、あまりに私的な書き込みはこの際カットして、まず冒頭に〈解題〉を付し、思うところはひとまずそこに記すこととした。本文に関係のない雑感もあえて述べてみたけれど、場合によっては、〈解題〉や巻末の〈註〉のほかに、本文に即して私見を述べる元来の形式も併用する予定である。また、どこにどのような文章が載っているかを明示するため、小見出しをつけてページ番号も添えてある。なお、私以外の撰者の方針は、各人随意のものとなっているから、この限りではない。

本来、どこの図書館にもあるような本よりも、遠隔地の人の利便に資すべく、当地の郷土資料などを多く紹介すべきところであるけれど、私にも気分というものがあって、世のため人のためは後回し、気力・体力にもおのずから限界があることゆえ、できることから手をつけていこうと思うのである。時にどれだけネットを引いても出てこないような情報も収めてあるので、その点はお役に立つこともあろうかと思う。参考にしていただければ幸いである。

 

令和己亥歳。十一月十一日。
扶桑日本国。信陽善光寺乾方旭山山中浄土玉繭洞。

*1:南山文庫雑書刊行会編『美術雑誌』第一輯、所収、2019年。

*2:山下康一作品展『山を描く、沈黙を描く』(高崎シティギャラリー、高崎市、2019年7月19日~23日)に掲出。2019年7月12日。

*3:山下康一《新作小品展》(ギャラリー鬼無里長野市、2019年8月2日~30日)に掲出。2019年7月28日。