南山剳記

読書記録です。原文の抜き書き、まとめ、書評など、参考にしてください。

戦国の軍隊(西股総生)

戦国の軍隊

西股総生『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』、学研パブリッシング、2012年

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【服部 洋介・撰】

 

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:西股 総生
  • 発売日: 2017/06/17
  • メディア: 文庫
 こ

※なお、本記で取り上げるのは、角川ソフィア文庫版ではなく、学研パブリッシング版です。悪しからず。

 

所蔵館

県立長野図書館 

 

剳記
『戦国の軍隊』を読んでみた

 

 

1.  本書の概要

本書は、現代軍事学の視点から戦国時代における軍隊組織と戦争形態について検証しようという野心的な著作である。もっとも、著者の西股氏は、中世城郭の研究者であって、現代軍事学の専門家ではない。著者略歴に「1961年、北海道生まれ。学習院大学文学部史学科卒業。同大学院史学専攻・博士課程前期課程卒業。目黒区教育委員会嘱託、三鷹市遺跡調査会、(株)武蔵文化財研究所を経て現在フリーライター。城館史料学会、中世城郭研究会、日本考古学協会会員」云々とある。博士前期は卒業ではなく修了の誤りであろう。学研でもう一冊、本を出されている。とすれば、なんだか『ムー』的なにおいが漂ってくるが、『ムー』に載った原稿の単行本化ではない。ときおり顔を出す挑発的な文体には、いささか『ムー』を感じさせるものがあるが、飛鳥昭雄先生ではないので、そこを期待することなかれ。

いずれにしても著者の西股氏は、この分野における学際的な研究を提言されており、戦国史を解明するためには、従来忌避されてきた軍事学的な視角がぜひとも必要であると力説されている。そこで目をつけたのが、「戦国の軍隊」における兵種別編成方式という組織的な軍制の発達と、本職の武士(重装備の士分)と、足軽・雑兵という兵の二重構造であった。そして、秀吉の国内統一戦までの期間において、最終的に威力を発揮したのは、組織的に運用された長柄足軽鉄炮足軽たちではなく、正規の重装歩兵である武士たちの突撃力であったと結論する。むろん「戦国の軍隊」は組織戦のために編成されていたけれど、それはどこの大名も同じことで、むしろその点にかんしては、天下まであと一歩だった信長よりも、東国のほうが進んでいたのではないかと、西股氏はいう。そこで西股氏は、信長・秀吉がなぜ他に先んじて天下統一事業をなしえたのかということについて別の決定因を探さなくてはならなくなった。結句、それはプロの殺し屋集団である武士たちの蛮勇に求められることになったのである。

 

2.  長篠で鉄炮の斉射戦術が用いられたというのは妄説だ

さて、本書は『戦国の軍隊』と銘打たれているけれど、なにぶん戦国時代のことであるから、体系立った陣中日誌や戦闘詳報があるわけでもなし、公刊戦史といえば参謀本部の『日本戦史』くらいで、当の西股氏もそのようなものは歯牙にもかけていないようだ。鉄炮の導入ということに関しても、信長が特別画期的であったというような見方はされていない。しかし、今でこそ広く知られるようになった「長篠の戦い鉄炮3000挺3弾撃ちなんてのはどうなのよ」という〈一斉射撃戦術〉否定説は、もともと藤本正行氏ら在野の研究者たちの指摘するところであって、世間に容れられるまでにはかなりの時間を要した、という*1

しかし、この3000挺の斉射なんて妄説(?)を誰が広めちまったのかというと、一説には先に挙げた陸軍参謀本部第四部が出した『日本戦史』の「長篠の役」だという話がある。桶狭間の戦いも含めて、参謀本部の連中は、どうも小瀬甫庵の『信長記』の記述に影響されるところが多かったようである。これらの戦いにはどうもよくわからないところもあって、信長会心の一戦であった桶狭間についても、西股氏は「ビギナーズラック」と膠もない。

しかし、わが国の史学系学会で、このようなあやふやな説がまことしやかに通用しているのとすれば、コリャ問題である。西股氏によると、これは戦後日本の歴史学に根ざす軍事アレルギーの結果であるという。

 

(…)戦国時代の戦争に関しては、戦前から語り継がれてきた英雄譚のような合戦物語――それらは青少年を戦場へと駆り立てるプロパガンダとしても利用されていた――が、あいかわらず通説・定説として充分な検証を経ないまま、再生産されつづけている。これは、にとっては、大いなる皮肉と言えよう。*2

 

3.  長篠合戦は鉄炮戦術の幕開けではなかった

ところで、戦前の青少年は言うに及ばず、小学生だった頃の私もすっかり魅了されたところの英雄伝説の代表格として槍玉にあがるのが、みなさんも大好きな織田信長である。NHKでドラマにもなった司馬遼太郎の『坂の上の雲』という小説に、のちに日露戦争でコサック騎兵を撃破する秋山好古が、留学先のサンシールの士官学校で老教官と騎兵戦術について議論するくだりが描かれるけれど、純粋な奇襲兵種である騎兵を、その本来の特性のままに運用できた天才は、ジンギス汗と、フレデリック(フリードリヒ)大王、ナポレオン1世モルトケの4人だけであったという話が登場する。秋山は反論して、源義経鵯越屋島)と織田信長桶狭間)の2人を付け加えるよう訂正させることに成功する。なるほど、『ムー』的には、義経はジンギス汗と同一人物であるから、もっともな話である(笑) 

なお、この場合の騎兵戦術というのは、源平合戦の時のような騎射戦のことではなくて、これを密集隊形で運用するモンゴル流のやり口である。後述するが、このような騎兵戦術の日本における革新者は、武田信玄であるという説が西洋の軍事史研究書においても取り上げられるようになる。もっとも、彼において頂点に達したそれは、同時に日本の騎兵戦術の終焉をも意味していたと言われるのであるけれど、要するにそれは、信玄の没後、信長によって確立された鉄炮の集団的運用が、これに取って代わったというような見方に出るものである。

しかし、西股氏の見立てによると、そもそも長篠合戦の戦闘主体は武田と徳川で、織田の奴らは武田軍の右翼が攻めかかると、援護射撃を浴びせながらのらりくらりと敵の消耗を待っていただけ、信長に鉄炮の集中使用などという考え方は毛頭なかったというのである。鉄炮3000挺説自体は、一概に否定していないものの、まったく、単なる作戦勝ちである。また、知られるかぎりの史料から見ると、鉄炮の装備率で信長が他の東国大名を圧倒していたという直接の証拠はなく、長篠合戦というものを、「信長が武田軍を鉄炮で撃破した戦いとは評価することはできない」*3というのである。なお、江戸初期は元和の頃にまとめられたと見られる甲州流の軍書である『甲陽軍鑑』にも、武田軍が馬を乗り入れたとは書かれておらず、これは信長めが言いふらした適当な噂だと憤慨している。なお、信長は、長篠の大勝に大喜びして、「信玄に勝った」と言って、信玄塚なんてモノを作った。これは西国のならいで、家康はそのようなという妄言は吐かなかったとされている。信長家には弓取りの空言が多く、義元に勝った時も6万の今川勢に勝ったなどと言いふらしたものだが、駿河遠江三河に6万もの人はいない、小国なのでせいぜい2万4千、信長もありように言えばなお手柄だったが、いらない嘘をついた、と痛烈に批判を加えている*4

もっとも、『甲陽軍鑑』自体、すでに信長の誇大宣伝を信じていたらしい節もあって、わずか数百か千の手勢で今川勢を破ったものと考えていたらしい*5。もうちょっとはいたんじゃないの、というのが今日の見方である。参謀本部の推計では、信長の支配圏を尾張一国の5分の2と見積もって、江戸初期の軍役にもとづいて計算し、その手勢を約4000人としている*6。『軍鑑』は、北条氏康が敵の油断をついて兵数にして10倍の相手を打ち破ったということも記しているから、当時の感覚では、それが可能と見られていたのであろうか。三河兵も西国兵の4倍は強いと書かれているから、そこは『軍鑑』の編者と見られる小幡景憲が、徳川様にゴマをすったものであると考えるにしても、戦術と武勇をもってすれば、数倍の兵力差を覆すことができるという観念がなかったとも言いがたい。そのあたりは、まったく謎である。もっとも、時代は下って鳥羽伏見の戦いでも、鳥羽街道を進んだ幕府軍は、半数に満たない薩摩軍に打ち破られているから、歴史上、ありえない逆転劇というのはまんざらありえないものでもない。けれども、たいがい、敗れた側のありえない油断が原因のようである。鳥羽の戦いでは、幕府軍はそもそも銃に弾さえ込めずに薩軍の正面突破を図ったのである。敵がビビって道を開けるものと信じ切っていたらしい。『軍鑑』も、桶狭間での信長の勝利を高く評価しているが、結句、義元の敗因は軽率さと油断であったと結論している。

一方、長篠の戦いについて、『軍鑑』は、信長が強敵である甲州武田軍を相手に柵を構えたことは、よい知略と評価している。信長が知将であることを否定していないのである。ところが先に書いたように、「武田武者馬を入る」などというのは虚言で、戦場には馬10騎を入れて並べる場所もなかった、と記している。もっとも、これも後世の編纂物で、高坂弾正の談話のように書かれてはいるものの、武田遺臣の負け惜しみのようなものもずいぶんと入り混じっているのではあろう。軍学書のような体であるのに、いちばん肝心な長篠の戦いの分析は、わりあいと簡潔で、柵から打って出た家康勢との戦いについてはいささか書かれているけれど、柵から出てこなかった信長勢のことはよくわからない。西国の奴らは臆病なので、陣地から出てこなかったというのである。そもそも武田軍は、これといった策を講じずに野戦に突入、そうこうしているうちに、山県昌景がたまたま鉄炮に当たったくらいの話で、鉄炮の斉射を食らって壊滅したなどという節はない。信長と家康の連合軍が10万に及んだというのは、そのままには信じがたいが、要するに兵力差のある相手に野戦を仕掛けて壊滅したという見方を示している。負けるべくして負けるいくさだったので、決定的な敗因というようなものが考察されていないのである。

ところで、わりあい信憑性が高いとされている『信長公記』の記述によると、何度も攻め寄せる武田勢に対し、くりかえし鉄炮を射かけて撃退しているようであるから、信長が鉄炮を用いて戦ったのは事実である。勝頼の軍勢は、けっきょく、力攻めで信長の防御陣地を攻略できずに大損害を出して引き上げたというのが、コトの顛末である。もちろん、甲州重臣は「無謀ですからやめましょうぞ」と勝頼を諫めるが、信長を引きずり出しての一大決戦というのは魅力的な選択肢であったらしい。信長弱しという風聞を真に受けてしまったような節もある。とかく勝頼というのは自信家であったということが『軍鑑』にもしきりに書かれるけれど、真相は不明というほかない。現場にいて『信長公記』を書いた太田牛一も、勝頼が鳶の巣山に布陣していたら織田方の作戦は台無しだったという見方を述べている。上杉に備えるため味方の兵力を十分に集中させることができなかったにもかかわらず、勝頼はこの方面で大きな戦果を挙げる必要に迫られていたのであろうけれど、結果は大変マズイことになってしまった。

 

4.  武田方は鉄炮戦をどのように認識していたか

のちのち、この戦いは、ウマと鉄炮の戦いのように喧伝され、この戦いを機に鉄炮の集団戦術が確立されたかのように言われるようになるのだが、話はそう単純ではない。『軍鑑』が伝えるように、諫言を聞き入れられなかった勝頼の重臣たちが、「こうなったらこの戦いで討ち死にするまで」と意地を張って、盛んに突撃を繰り返したようなことはあったかも知れないが、コリャ戦術以前の話である。しかし、東国の武士というのは意地を立てるのを名誉としたものであるらしい。武田軍が鉄炮の威力を知らずにウマで攻略を試みたというような単純な話ではない。もっとも当時、騎兵の速力を生かして敵陣に肉薄して、そこから下馬戦闘で白兵戦に持ち込めば、鉄炮隊を攻略できるという考え方もあったようであるし、鉄炮に当たって死ぬことは別に不名誉なことでもなかったけれど、少なくとも『軍鑑』は、武田方が騎兵の速力を生かして鉄砲隊の突破を試みたというようなことは書いていない。『軍鑑』は、実話半分、虚構半分の軍学書で、長篠の現場にいなかった人間が武田贔屓の考えで書いた本だから、じっさいのところはわからない。しかし、それにしても武田方でも信玄の頃から鉄炮の導入ということは行われていたから、鉄炮戦の知識は豊富にあった。そのことについて、西股氏は次のように書いている。

 

武田氏が兵種と数量を規定して軍役を賦課したもっとも古い残存史料、として挙げた永禄五年(一五六二)の大井左馬允宛の朱印状には、すでに鉄炮が記されている。また、永禄四年に後北条氏が多摩地方の三田氏という国衆を攻め滅ぼしたとき、三田氏の籠もる辛垣城の城内に一挺の鉄炮があって敵兵を撃ち倒したという。(…)
興味深いのは、『勝山記』(『妙法寺記』)の天文二十四年(一五五五)条に見える、次のような記録だ。

 

アサヒノ要害エモ、武田ノ晴信人数ヲ三千人、サレハリヲイル程ノ弓八百丁もテツハウヲ三百カラ入レ候、

 

「アサヒノ要害」とは、信濃善光寺平の北西に聳える旭山城という山城で、この時期、越後の長尾景虎上杉謙信)と善光寺平の覇権を争っていた武田軍にとっては、重要な軍事拠点であった。
『勝山記』の記手は僧侶だから、合戦関係の記事は伝聞にもとづいているはずで、誇張や誤情報が含まれている可能性はある。ただ、『勝山記』には川中島合戦に関する記事がかなり多く、内容も具体的で、川中島の戦況に関心をもって情報収集につとめていた様子も窺われるから、一概に作り話とは斥けにくい。*7

 

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旭山城(長野市) 山頂部を南側から見たところ。江戸時代に描かれた丹波島宿の絵図にも、ここに古城があったことが記されており、城の見える位置を基準に田畑の境目を判断していたらしい。

 

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旭山の南山麓の全体図。かつて北斜面にあった旭山観音は、現在では南斜面に移された。近くの登山口から、山頂の城跡に登ることができる。

 

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旭山の北斜面。裾花川を挟んだ新諏訪から望んだところ。こちら側は、崩れやすい急峻な崖である。

 

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旭山を南方から遠望したところ。背後は飯綱山。左方は、上杉方が立てこもった大峰から葛山へと連なる山並み。

 

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善光寺の北、箱清水の伊勢社から旭山北斜面を望む。山の手前の丘陵台地に往生地集落が立地する。伊勢社の裏山には、謙信の物見岩がある。

 

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旭山の東、妻科からの眺望。かつて妻科は、旭山の日陰になることから半日村と呼ばれたようである。

 

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第2次川中島の戦いの際、武田に属した善光寺別当の栗田鶴寿がここに籠城して上杉方と戦った。件の鉄炮300というのは、このときの話。鶴寿は武田氏滅亡の前年、高天神城の戦いで戦死した。

 

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旭山の東麓は長く伸びて、夏目ヶ原に突き出している。その麓が小柴見で、上杉方に属した小柴見氏という武士がいたらしい。

 

西股氏は、

 

初伝から十余年をへて、鉄炮が西日本の戦場に普及しつつあった天文二十四年(一五五五)の時点で、武田軍に三〇〇挺もの鉄炮があったとすれば、ちょっとした驚きだが、この話はどこまで信じてよいものだろうか。実のところ、これまでも多くの研究者が『勝山記』の記事を疑問符つきで引用してきているが、筆者は充分にありえる話だと思う。*8

 

と言っている。しかし、「前線の城一つに300挺ということになると、武田軍全体でどれだけの鉄炮があったのか」ということにもなるので、多くの研究者が違和感を覚えるのも事実だという。西股氏は、天文24年の時点で甲相駿の三国同盟が成っていたから、信玄は上杉との抗争の最前線である旭山城に、新兵器である鉄炮を100挺単位でまとめて投入したのではないか、というような解釈を示されている。その有効性が認められた結果、永禄に入るころから、信玄は一般の家臣にも鉄炮の調達・装備を指示するようになり、永禄5年には「鉄炮もって参陣せえよ」という旨の朱印状が発給されるようになっていたのだろうというのである*9。この事情は、後北条氏でも同じことで、鉄炮は東国へも急速に普及していたことがわかる。なお、いささか胡散臭い本で恐縮だが、『甲斐叢書』にも入っている伝・山本勘助の『兵法秘伝書』なる書物の目録には、拳法(柔術)、剣法、棍法(棒術)、長道具(鎗、長刀)、弓法、箭先積につづいて、「鉄炮」とある。その条目に次のようなことが書かれている。

 

鉄炮の日本に渡る事、文亀元年に到来し、天文年中に四方に広まる、故古来兵法家にこのさだなし、しかれども殺害の器用たる上は、侍是を外にする儀なし、所以に一図しゐて、一法の理記者也、*10

 

これによると、鉄炮は文亀元年(1501)に伝わったことになっている。『鉄炮記』にある天文12年(1543)の種子島渡来説をさかのぼること42年前である。これはむしろ、『北条五代記』にある「関八州鉄炮はじまる事」の永正7年(1510)渡来説に近い。もっとも、北条氏が実戦で用いたのは氏綱のときであるというから、永正16年(1519)以降ということになる。なお、『三河物語』では、永正3年(1506)に北条早雲鉄炮を使用したことが書かれており、そのように考えると、『兵法秘伝書』説も、東国で流布した説の一部をなすものであろうが、真偽のほどは何とも言えない。なお、『北条五代記』によると、鉄炮を氏綱に進上したのは、小田原の修験触頭であった玉瀧坊であったという。このことは『秋葉山の信仰』の剳記ですでに書いた*11

なお、『軍鑑』伝解本によると、天文11年(1542)に、伊那・木曽・松本の山家侍で、100貫、200貫知行して馬乗10騎・20騎ばかりもつ武士衆が、山中の狩人に弓・鉄炮をよく打ち射る者20を足軽にこしらえ、雑兵3000、4000におよぶ一揆をかまえて諏訪に攻め寄せて安国寺合戦となったという(品第14)。いわゆる「宮川の戦い」である。それにしても、種子島より1年前に、信州の田舎にまさかの在村鉄炮である。ここはちょっとハテナである。ご存じの通り、江戸時代になると、村の鉄炮というものは、城付鉄炮よりも数が多かった。松本藩では、ナント、村の鉄炮は藩の軍役よりも5倍多い1040挺だった。上田藩でも在村鉄炮は327挺で、上田城に置かれていたものより3倍以上多かった。島原の乱でも、土佐藩は猟師さんたちの鉄炮1000挺をアテこんでいたらしい。太閤は、刀狩はしても、鉄炮は取り上げなかったのである。

 

5.  兵種別編成方式で信長は出遅れていた

さて、西股氏は、信長や西国の事例をあわせて考察しながら、興味深い推論を行なっている。兵種別の軍団編成や鉄炮の大量導入ということについて、信長は特に先進的であったと言えず、むしろ軍隊の領主別編成方式から兵種別編成方式への転換ということについては、東国のほうが西国に先んじていたのではないかというのである。曰く、

 

こうした事例を見てくると、(…)鉄炮の大量導入や兵種別編成方式の採用に関して、信長が特別先進的だったとは言えないことになる。
それどころか筆者は、兵種別編成方式への転換に関しては、東国大名の方が早かったのではないかとすら考えている。九州の事例として挙げた沖田畷の合戦天正十二年だが、それ以前の大伴氏と島津氏との合戦についてのフロイスの記述を読んでも、兵種別編成方式を窺わせるような書き方は見られない。

また、『信長公記』の元亀元年の退却戦の事例でも、鉄炮五〇〇は「諸手」、つまり家臣たちの各部隊から抽出した臨時編成の部隊だと書かれている。だとしたら織田軍は、信長直属の弓兵隊や鉄炮隊を有し、戦場で家臣たちの各部隊から抽出して臨時編成の鉄炮隊を仕立てることまでは実現していたが、軍勢が集合した時点で兵種別に再編成する段階には至っていなかったのかもしれない。ちなみに、武田氏や後北条氏のような兵種と数量を明確に指定した「着到定書」は、信長の発給文書の中には確認されていない。*12

 

フロイスは『日本史』のなかで、天正12年(1584)、龍造寺隆信島津義久が争った沖田畷の戦いについて、龍造寺軍がヨーロッパと瓜二つの整然とした隊列を組んで、1000挺近い鉄炮を有し、槍、長刀、大筒の火縄銃、弓矢、その他、兵種別に編成された部隊が見事に配分されていたと書いている。西股氏によると、これが九州における兵種別編成方式の初見であって、それ以前には、そのようなやり方が見られないというのである。信長についても同様で、江戸幕府の軍役規定を思わせるような〈着到定書〉というのは、たしかに武田氏や北条氏の遺文において豊富に見いだされるものである。要するに、従来の領主別編成法方式ではなく、組織戦を可能とするような兵種別編成方式を早期に採用していた東国のほうが、戦国後期にいたるまで、軍事上の優位を確保していたのではないか、というようなことも考えられるのである。もちろん、戦国の末期にあって、信長もこのシステムを採用することになるのだけれど、だとすれば、軍事的革命者としての信長の評価というものは成り立たなくなる。

 

6.  いろいろと遅れていたらしい信長の政策

ところで、戦国時代から大名が用いるようになった印判状というものがあるけれど、その使用ということについても、先行していたのは東国大名であった。今川、北条、武田といった連中である。領主がバンバンとハンコを押す印判状の登場というのは、こうした大量の公文書を通じて百姓にいたるまで直接に統治する新たな政治体制が出現したことを意味するわけで、この点でも信長は東国の様式を踏襲した。ただし、信長の場合は花押を書かなアカンような上級文書にもバンバンとハンコをついたらしいから、彼の頃にはよほど忙しくなっていたのか、東国大名のシステムをさらに徹底させたものか、それとも「天下布武」のデザインがよほど気に入っていたかのいずれかであろう。要するに、ハンコだけで済ませるということは、強権的ということであって、行きつく果て、戦国大名というのはだんだんと尊大な存在になっていたとも考えられるわけである。なお『軍鑑』に、勝頼が海賊衆に御印判の感状を出したことについて、興味深い記述を載せている。信玄の頃には、他国から甲州に仕官して領地をいただくということがあったので、花押を記した判物を発給して所領を安堵したというのだが、長篠の敗戦以降、他家から武田家に仕官する人がいなくなったので、武田氏の直轄地に所領を与えるということもなくなり、花押の跡も稀となり、感状も印判状になったというのである(品第55)。このときは、伊勢から信玄に招かれて武田水軍を構成した小浜、間宮、向井といった海賊が北条水軍を破ったことを賞しているけれど、彼らの知行地は駿河にあった。

さて、このように見ると、信長が抑えた畿内というのは、なるほど先進地域ではあったけれど、案外と古い権威が幅を利かせていた分、因襲的でもあって、それだけ強引な改革が必要とされたもののようでもある。強大な寺社勢力や自治都市(要するに大名の検断権に服さない公界ということである)が、それぞれに寺社領や町を統治しており、そのことが可能であったのも、経済的な集積と自前の武力がモノを言ったためのであろう。一方の東国には、いわゆる戦国大名らしい特徴をもった大名が多かった。そのためか、戦国大名論というのは東国の研究にもとづいて行われ、一方で戦国大名室町時代からの連続性でとらえようとする戦国守護論というのは、室町殿御分国が多かった畿内以西の研究から進展したという研究史上の経緯がある。ゆえに、それがそのままに歴史上の実像であると考えることは躊躇われるけれど、畿内を東国並みの領国として経営するということになれば、いろいろと障害もあったのであろう。ウッカリと将軍と対立してしまい、いろいろと面倒なことに巻き込まれちまった信長は、そのことに忙殺されたのか、分国法も作れなかったし、軍法らしい軍法もなかったといわれている。大丈夫か、この政権? ヤベエと思った明智光秀が、有名な『明智光秀家中軍法』というのを定めるのだが(織田家の軍法については、それを示す文書がたまたま見つかっていないだけと指摘する人もあるようである)、石高に応じて、どんな兵種の者を何人出せとか、そんなことをようやく定めたところである。それが天正9年(1581)のこと。コリャ画期的だと江戸時代でも言われていたくらいであるけれど、北条氏なんかはチャンと、〈着到定書〉で知行高ナン貫文で兵数と軍備はどれくらいだということを明記していたのである。このことは、東国人である西股氏も力説されるところである*13

ところで、北条氏は貫高制をとっていたから、年貢というのは基本的に代銭納であった。コメ実物の物納ではなかったわけである。本題からそれるので、西股氏はこのことに言及してはおられないが、これは一考を要する問題である。当時の織田家中では、家臣の知行高の把握というのが喫緊の課題になっていたといわれている。一方、すでに東国では、検地にもとづく知行の把握が進んでいた。北条氏康は、永禄2年(1559)に『所領役帳』で、家臣たちの知行高を洗い出している。西股氏は、それを軍隊の兵種別編成化を推進するための調査であったとみている*14。もっとも、これらのことは、北条氏研究が進展する中で明らかになったことでもあるので、今後、織田氏の研究が進めば、結論が変わってくるということもありうる。信長検地というのは、少なくとも元亀4年(1573)には行われていたようであるが、史料が不足しており、効果のほどは明らかではない。なお、武田氏領では、永禄6年(1563)の検地で大幅に土地把握が進み、年貢収入が大幅に増加したらしいことが、恵林寺領の検地帳からわかっている。

 

7.  東国の制度が進んでいたのはなぜか

しかし、考えなくてはならないのは、どうして信長領で検地が遅れたのかということであるけれど、理由はよくわからない。信長が忙しかったためか、あるいは、非武家権門や既得層の抵抗が強かったためであろうか。室町将軍を擁して政権の正統性を獲得した信長が、室町時代からの由緒をタテに既得権益を主張してくる連中の要求を処理するのに忙殺されていたということは考えられなくもない。また、いわゆる『明智軍法』の軍役は、検地の進んでいた東国のような貫高ではなく、石高を基準として定められている。このことをどう考えるべきか、少しむずかしい。

周知のとおり、石高制は江戸幕府における近代封建制の統治基盤であるけれど、歴史的に新しく登場した制度とはいっても、貫高制よりも優れていたのか、よくわからない。貫高制が最も整っていたのは北条氏だが、織田政権ではおそらく、貫高制を維持するために必要な貨幣制度が混乱をきたしており、一部で石高制に移行せざるを得ない事情があったのであろう。これは、結果オーライのような形で豊臣政権から江戸幕府に引き継がれたが、どう評価すべきか、悩ましい点である。いずれにしても、西股氏の指摘を考え合わせれば、検地の遅れは、軍制の遅れに響いたようではある。

しかし、制度が進歩的に見えるからといって、その領国が経済的に豊かであるとはかぎらないし、経済的に豊かであるからといって、その勢力が戦争に強いということの保証にはならない。分国法を整備したからといって、それは戦国大名らしい制度とはいえるけれど、だからといって即座に天下が取れるわけでもない。貨幣経済が停滞していたというと、何かよくないことのように見なされがちだが、貫高制には、それ自体の問題もあったし、検地が進むほど民衆の負担は増えることになるから、無理がかさむことにもなるだろう。戦国大名の力が強まれば、年貢の未進や対捍なんてことは、とうていできなくなってしまうので、民衆としては、あとは逃げるしかない。東国で検地が可能だった一方、畿内でそれが進まなかったとすれば、生産力を背景に結合した惣荘の自治権がまだまだ強かったということなのであろうか。この時代、畿内では、まだ大名の一円支配と検断介入に抵抗するお百姓さんたちがいたのである。この惣結合が最も進んでいたのは近江であった。有名な菅浦などは1540年代に浅井氏に屈服させられ、その支配下に組み込まれたが、自前の武力で近隣と合戦までやらかしていたのである。信長に徹底的に刃向かった伊賀惣国一揆なども、国人から地侍(有力農民)までが広範に結合したものであった。伊賀・甲賀というのは、守護の検断権が及ばなかったために、広く自検断が行われたのであろう。また、室町幕府と結びついて守護使不入を認められた既得層が、そのまま戦国大名の一円支配に抵抗したものもあったであろうから、「これからは信長様のいうことを聞けよ」といっても、「ちょー待てや」ということにもなったに違いない。そういう意味では、畿内の権門が信長の朱印状だけでは納得できなかったのか、室町幕府の奉行人連署奉書の発給を求めていたという見方もあるようで、信長朱印状は奉行人奉書の副状であったという人もいる。分国法などがなかったのも、けっきょくは、室町幕府統治機構をある程度活用していたためなのかも知れない。室町幕府はもともと駿河以東のことに関心が薄かったらしく、そのために、戦国大名というものが東国で発展を見たということもあるのであろう。

上方を中心に見られた中世的な〈自治〉というもの、堺の町や一向宗の地内町(最近ではメガロシティとしての〈境内都市〉という概念で捉えられるようになっている)といった公界における「世俗の権力とは異質な「自由」と「平和」」(網野善彦*15といったものは、戦国大名の一円支配の終局に現れた織豊政権によって権力の内部に取り込まれ、その管理下に置かれるようになってゆくのであるけれど、かつて領主の私的所有に属さないということ、その支配の埒外にいるということに積極的な意味が自覚されていた〈公界〉とか〈楽〉、〈無縁〉といったものは、江戸期に入ると、まったく差別的なものに貶められ、いわゆる〈苦界〉に転落してしまったというようなことを、網野氏は指摘する。

 

〔西欧の自由・平等・平和の思想に比べれば、「無縁・公界・楽」の思想は体系的な明晰さと迫力を欠いてはいるけれど、これこそが〕日本の社会の中に、脈々と流れる原始以来の無主・無所有の原思想(原無縁)を、精一杯自覚的・積極的にあらわした「日本的」な表現にほかならないことを、われわれは知らなくてはならない。

こうした積極性は、織豊期から江戸期に入るとともに、これらの言葉自体から急速に失われていく。「楽」は信長、秀吉によって牙を抜かれてとりこまれ、生命力を大規模に浪費させられて、消え去り、「公界」は「苦界」に転化し、「無縁」は「無縁仏」のような淋しく暗い世界にふさわしい言葉になっていく。*16

 

中世前期に萌芽した「無縁」「公界」「楽」の精神は、寺院・都市・市・宿、あるいは一揆という形を取って戦国期にも存在したのであるけれど、網野はこれを「俗権力も介入できず、諸役は免許、自由な通行が保証され、私的隷属や貸借関係から自由、世俗の争い・戦争に関わりなく平和で、相互に平等な場、あるいは集団」と定式化している*17。その秩序原理は、〈老若〉と呼ばれる年齢階梯的な組織による多数決原理であったと見られている。むろん、そんな理想郷が現実に存在したとは考えられていない。

 

もとより、戦国、織豊期の現実はきびしく、このような理想郷がそのまま存在したわけではない。しばしばふれてきたように、俗権力は無縁・公界・楽の場や集団を、極力狭く限定し、枠をはめ、包み込もうとしており、その圧力は、深刻な内部の矛盾をよびおこしていた。それだけではない、こうした世界の一部は体制から排除され、差別の中に閉じこめられようとしていたのである。餓死・野たれ死にと、自由な境涯とは、背中合わせの現実であった。*18

 

それでも、宣教師が堺の町の自由と平和に目を見張ったのも厳然たる事実であると、網野氏は言う。もちろん、信長はこれを支配下に置こうとするのであるけれど、堺は、そうした「有主」の原理に抵抗して、自らを必死で貫徹しようとしていたというのである。そこまでのものは、東国にはなかったのであろう。という意味では、惣荘らしきものがあまり発達しなかった東国は、アッサリと戦国大名の領国経営に服属したけれど、裏を返せば、経済力を基盤とする民衆の成長というものが、畿内に比べて立ち遅れていたのであろう。それゆえに、見たところ近世的な政策を次々と打ち出すことができたということなのかもしれないが、それで畿内に匹敵する経済圏を築くことができるかといえば、限界もあった。

 

8.  信長の頃のゼニ経済

そのあたりの事情は、貫高制の基盤となる貨幣経済にも通うところがあるのではないかと考えられる。織田信長は、永楽銭を旗印にしていたが、彼が入った京都では、ンなモンは流通していなかった。一方、どうも北条氏は精巧な永楽銭を私鋳していたらしく、これで貫高制を維持していたもののようであるが、とにかく、ある程度、貨幣需要が満たされていたからこそ、貫高制が維持できたのであろう。新型コロナウイルスの流行で図書館が閉鎖されているので、手元に確かな研究書がないのでいけないが、Wikipediaによれば、永楽通宝が北条氏領の「公式の貨幣」となるのは、永禄7年(1564)のことであるという。しかし、別の資料には、この時に定められたのは、年貢に使われる貢納銭を精銭(良質な宋銭)とせよということであって、永楽銭による年貢の銭納を定めたのは、天正9年(1581)とする見方も載せられているから、永楽銭による貫高(永高)がどのように定着したのかということについては、いささか心もとないものがある。東国で貢納銭に永楽銭を指定したのは、北条氏のほか、武田氏もそうであったようであるし、遠江から三河の一部にも及んでいたことから、家康も永高を採用して、江戸に入ってからもしばらく続いた。その通用圏は、信長領の伊勢まで及んでいたため、信長自身は永楽銭に親しんでいたのである。

もっとも、北条氏領でも税の物納ということも行われていたから、貨幣量の不足という問題は進行していたように考えられる。北条も武田も撰銭令を発していることから、銭不足に直面していたのはまちがいない。甲州法度でも、市の外での撰銭を禁じている(反対に、大名の統制下にあった市のなかでは精銭を選り分けてもよいとされていた。近年の研究を見ると、撰銭令は、撰銭を公認することの有効性を意識して出されたのではないか、という意見があるようである。大名の手元に精銭を集めようとしたのであろう)。

手元に貨幣史の本がないからハッキリしたことは言えないが、信長の撰銭令というのは、一部の宋銭と永楽銭を基準銭として、他の悪銭を階層化して交換レートを定めるというものであった。尾張では永楽銭が通用していたようであるから、「オイコラ、京都でも永楽銭を使わんかい、ナロー、ンナロー」ということではなかったかと想像するところである。天正年間に、ビタ銭4枚と永楽銭1文というレートが東国の慣行として定着し、このレートは、江戸幕府にも継承されていることがわかっているけれど、信長のしたことというのも、あるいは、もともと東国で進んでいた永楽銭の使用を前提にした銭貨の階層化を京都でも適用したのにすぎないのではないか、というような気がしてくる。つまりは、尾張でしていたことを京でもやっただけのことであって、永楽銭が使えなくなったら、信長自身が困ってしまうのである。そうだと仮定すれば、信長が永楽銭を旗印にしたというのは、「コレ、まともな銭でっせ」という宣伝のためだったのではないかと思われる。だとすれば、さすが信長と、その点だけは誉めてやりたいものである。

当初は「撰銭した奴はブッ殺す」くらいな勢いだった信長だったが、こういうことは海の向こうの中国でも見られたことで、元王朝が交鈔という紙幣を発行したときにも同じ命令が出されたものである。中国では銅の不足から銭貨に代えて小額貨幣としては紙幣が用いられ、秤量貨幣としての銀の使用も始まっていたので、銅銭は日本との取引に使用され、日本国内で流通するようになったのであるが、室町時代には日本でも貨幣不足が進行していたのである。どこでも銭貨というのは、金属としての価値が信用の担保となっていたので銅不足というのは深刻なことであったらしい。朝鮮でも布などが物品貨幣としての役割を果たしていた。日本でも東国では布がその役割を果たしていたし、西国ではコメが使われていた。いきなり中国の紙切れを渡されて「紙幣です」と言われても、「ハテナ?」ということになったのかも知れない。

当の信長も、永禄末年の段階では良貨を確保できずに、畿内ではコメを代用通貨として使う羽目に陥っていた。兵粮米を確保できず、飢饉のときに米価が高騰する危険性もあったため、信長も撰銭令を出して悪貨の交換レートを定めて貨幣需要に応えようとしたわけだが、効果のほどは知られていない。いやいや、逆にビタ銭を積極的に使いまくって金融緩和をやったんだという話もあるが、これもハッキリしない。というのは、信長期から江戸時代の前期に至るまで、貨幣経済が停滞したという見方が依然として存在するからである。信長がマネー革命をやったのだの、信長の経済政策は明治維新並みだのということを言う人もあるけれど、だったら元朝のように不換紙幣くらい出してほしいものである。もっとも、交鈔を発行した金も元も、最後はインフレに陥って壊滅した。けっきょく、明代になって銅銭が復活することになるのだが、小額貨幣の信用保証ということがいかにむずかしかったということの証左であろう。もっとも、銭さえ作ることさえできればいいというのならば、北条氏のように永楽銭を私鋳すればいいのである。あるいは、信長もやっていた可能性を疑ってよいであろう。

しかし、日本でも紙幣を発行しようとした人がいた。後醍醐天皇である。楮で作った楮幣と呼ぶ紙幣であるけれど、どうも政権瓦解で実現しなかったようだ。じつは、日本では早くから債券を紙幣の代わりに使うということが行われていて、似たようなところで、平安時代の切符のようなものがその起源なのかもしれない。「この紙をもっていくと、コレコレの品物と交換できるで?」という命令書なのだが、これを使いまわせば紙幣のようなものである。のちに割符のような手形になってゆくのであるけれど、別に折紙というものもあった。要するにこれは「いくらいくらのお金を差し上げます」という贈呈目録のようなものなのだが、これを別のところで使いまわしたのであろう。借金と同額の折紙をもっていけば、それで負債を相殺することもできた。折紙の発給元が倒産すれば、そのときは不良債権である。これは西洋におけるゴールドスミスの金匠手形と同じような話で、ここでは、金の預かり証が紙幣のように使われていたのである。預かり証が発行されるということは、実物の金のほかに、金と同じ価値をもつ債券が振り出されたということになるわけだから、それが通用している間、マネーは2倍にふくらむことになる。後世、この仕組みが複雑に運用されて、今日のマネー制度が構築されるのであるけれど、おかげで世の金融資産は実物経済の数倍の規模に膨張してしまった。借金の返済がすべて終わると、もちろん、この預かり証は破棄されることになるから、めでたくマネーは消滅する、というわけである。日本銀行券というのは、国の借用書なのである。

すでに10世紀後半から11世紀にかけて、わが国では、役所が発給する徴税令書が為替手形、信用手形の機能を果たしていた。その信用を流通業者、問丸、商人、そして国家が保証していたことについては、佐藤泰弘氏が「十一世紀日本の国家財政・徴税と商業」で指摘するところである*19。こうした状況の中で、山僧や神人、山臥などの金融・商業活動が活発化し、海・山の領主というべき山賊・海賊といった武装勢力博徒に非人、犬神人などとも結びついて、ネットワークを拡大、悪党や廻船人、商人、金融業者などが農本主義的な鎌倉幕府の統制を超えて流通・交通を支配するようになったと、網野氏は書いている*20。14世紀の初頭に西海・熊野の海賊が蜂起して、鎌倉幕府は15ヵ国の軍兵を動員してこれを鎮圧した。このようなことから、鎌倉の農民系武士と、西国の商人系武士というものの相違が際立ってくるのだけれど、網野氏は「後醍醐天皇は、北条氏の強圧に反撥する商人・金融業者・廻船人のネットワーク、悪党・海賊を組織することに、少なくとも一時期は成功し、北条氏を打倒することに成功した」*21と綴っている。天皇は、単にこれを武力として組織するだけでなく、神人公事停止令、洛中酒鑪役賦課令、関所停止令を発してこれらのネットワークを掌握し、政権の基礎を商業・流通に置こうとした、という。

 

(…)建武政府の中枢である内裏に商人や「非人」と見られる人々が出入したのは、こう考えれば当然のことであり、後醍醐の紙幣発行の試みも、手形の流通という実態に応じたものと見ることができる。*22

 

そんなわけで、建武政権にあっては、銭と結びついた〈悪〉という言葉によってあらわされるような商業・流通ネットワークの組織化ということが企図されたのであるけれど、信長は、悪僧の伝統に連なる比叡山を焼き討ちにし、貨幣と結びついた〈悪〉の世界に積極的な意味で肯定を与え、都市民に幅広く支えられた一向一揆も討滅してしまった*23。こうした寺社勢力、一揆自治都市などによる流通・商業のネットワークに信長がどう対峙したのか、一意に評価するのはむずかしい。もちろん、信長に従った自治都市は、堺や今井のように赦免を受けて優遇されているから、信長もそこから旨味を吸うことができた。彼が経済に無関心であったということはできないであろう。しかし、網野氏の評価によると、信長による〈悪〉の徹底弾圧の結果、最終的には「農本主義」を建前とする近世の国家権力の中で、〈悪〉は厳しい差別の中に置かれ、商人・金融業者も低い社会的地位に甘んじることになったというのである*24。それを信長の責任に帰してよいのかはともかく、行きすぎた貨幣経済を是正するプロセスの中で、農村立て直しの意味もあって、貫高制から石高制の移行が行われたと考えるならば、興味深いことでもあるし、信長の評価を変えることにもつながるのかもしれない。もっとも、初期の石高制の目的を、軍役賦課のための基準づくりと考えるならば、農民にどれほどの恩恵があったのかは怪しいものである。

 

9.  貫高制と石高制

このように見ると、代銭納による貫高制から、物納による石高制への移行というものは、経済的な進化なのか退化なのか、まことに微妙な問題である、貫高制を維持していた東国が貨幣経済の優等生だったというような単純な問題でもない。もちろん、戦国の領国経済から織豊政権江戸幕府へと時代が進むにつれて、経済規模は拡大を続けたのであるから、どうにかして貨幣需要を賄う必要というものがあった。けれど、精銭を発行する信用能力を欠いていたためか、ビタ銭すら足りなかったのか、どうも、信長のゼニ対策は奏功しなかったようである。そこで、金や銀を物品貨幣として使用するということが進められ、このことには一定の評価がある。毛利氏などは早くから丁銀などを用いているが、これは石見銀山をもっていたからである。これを削って重さを量り、切遣いにしたのである。竹流金などというのも、この時代の秤量金貨である。信長が創案したものであるかのように書く人もいるけれど、おそらくそれ以前からあったもので、信長は、金や銀の交換比を定めて、どうにか通貨のように使えるように努力した人なのである。もっとも、庶民が使うものではなかった。

そこで、別の対応が必要になったのであろう。どうも、信長の禁止にもかかわらず、コメ経済は続いていたようで、撰銭令でコメを代用貨幣として禁じたというのも、コメ不足のときの対策であって、恒久的なものではなかったという見方もあるようである。ゼニ不足のところで貫高制もあったもんじゃないから、一部に石高制というものが採用されるようになったのであろうけれど、信長の定めた十合枡というのは、けっきょく、コメ経済の信用を高める効果があったということを言う人すらいるくらいである。あるいは武田氏の甲州枡も同じ意図で定められたものなのかもしれない。

ところで、信長が武田氏領を占拠して棟別銭を廃止したという話があるが、現象として見ると、棟別銭というものは、石高制の普及とともに姿を消してゆくもののようである。してみると、全体としては、銭納による税体系を維持することができなかったということなのかも知れないが、この場合は、棟別銭の高いことで知られた武田氏領における農民の逃亡(欠落)を防ぐためのものであったと見てよいであろう。室町時代からの貫高制のもとでは、大名の市場統制のため、米価は上がらなかった。これというのも、もとはといえば貨幣不足を原因とするデフレのためだとする見方もあるが、コメを換金する際に農民の負担が増す一因となっていたに違いない。であるならば、「貨幣不足なのに貫高制ってどうなのよ?」と考えることもできるわけである。そのような次第で、棟別銭の廃止は、結果として百姓の保護と生産の安定ということにつながったと思われる。武田氏が滅んで織田・徳川との戦争もなくなったので、戦費の取り立てが不要になったのかも知れないが、油断は禁物である。というのは、江戸時代にもチャッカリ、本年貢以外にも小物成という棟別銭まがいの雑税が設定されていたのである。あるいは、棟別銭がなくなった分だけ、年貢率が上がってしまったとするれば、元も子もない話である。信長は家臣に国掟を与えて、勝手に税を賦課することや、私に関所を設けて関銭をとることを禁じているから、公定の税をキチンと取れよ、ということで一貫していたらしい。ただ、信長の家来どもが甲信で行なった政治というのは、強引であまり評判がよくなかったようだから、ずいぶんと混乱もあったのであろう。

ついでながら述べておくと、ある種の棟別銭というのは、関所と同じで、寺社の造営費用に充てられるもので、神仏への上分の名目で賦課されたものである。中世初期には悪党関所もあって、むしろ、商業・流通業者が武力で交通路を押さえて、警護料として徴収していたものでもあった。商人ないし遊女の頭目であったと見られる女性が立てた関所すらあったのである*25鎌倉幕府も「勝手に関を立てるなよ」と西国新関停止令を発しているが、これは悪党禁圧令とセットであった。後醍醐天皇も商業・流通、そして交通路の支配権というものを一手に収めようとして、これを利用しつつ統制に乗り出している。けっきょく、鎌倉のように農本主義の姿勢をとっても、後醍醐天皇のように商業重視の姿勢をとっても、関所というのは廃止の方向に向かうもののようである。今日では、信長の数少ない独自政策として挙げられる関所の廃止というものも、前例に鑑みると、別に目新しいものではないのである。とはいうものの、信長より100年昔の一条兼良などは、美濃へ行く際、どこぞの守護が置いたらしい関所にキレているから、よほど不便なものであったらしい。

なお、貨幣経済が軌道に乗った江戸時代にしても、田年貢は物納であったけれど、代銭納が残された地域もあった。ほかならぬ甲州の国中三郡では、信玄の遺制とされる大小切税法という年貢の物納・金納併用システムが認められおり、その比率は4:5であったから、ここでは貨幣の入手ということがぜひとも必要であった。けれど、これは恩典であったらしく、最終的な年貢率が物納オンリーより低く抑えられたため、のちにこれを廃止しようとした明治政府に対して、山梨農民一揆が起こされた。どうもこのようなシステムを通じて、国中地方では早くから貨幣経済が浸透していたようである。この大小切税法、徳川様は信玄の遺制を認めて、江戸時代を通じて例外的に甲州一国にこれが適用されたものであるけれど、貨幣単位をはじめ、武田氏の制度を取り入れた江戸幕府からすると、これは特別な由緒であったのかも知れない。たしかに徳川の財務官僚に武田遺臣の大久保長安などがいて辣腕を振るったのは事実であるけれど、単に信玄の制度が優れていたから、そのまま残したと考えるのは早計である。武田ブランドは東国では伝説化していたから、武田氏の竜朱印を偽造した文書をもって由緒をタテに仕官を求める人も多くあったようである(このことはすでに、藤田和敏『〈甲賀忍者〉の実像』吉川弘文館、2012年)の剳記で書いた)*26。信玄の死を聞いて家康が泣いたという話があるくらいだから、彼にも武田氏への思い入れがあったのであろう。『軍鑑』にも、家康が信玄のようになりたいとつねづね思っていたことが書かれており、武田家の由緒には一定の敬意が払われていたもののようである。余談であるけれど、『駿河土産』という本の「巻の五」に「関東御入国時長柄持を八王子で召抱の事」という話があって、権現様が仰るには、秀吉から国替えを命じられたときに一番無念だったのは、甲州を手放さなくてはならないことであった、と書かれている。勝頼の頃に減った金が再び産出され始めていたためかもしれないが、生国の三河よりも甲州に思い入れがあったというのは、ひとかたならぬものである。なお家康は、八王子に長柄同心を置いて、甲州の物産を江戸で商わせたとのことである。

いずれにしても、武田氏の棟別銭の取り立ては執拗だったらしく、甲州法度にくどいくらい書いてあるから、人びとの負担にも重いものがあったのは事実であろう。信玄在世の頃は他国からの侵攻を受けなかったことで、甲信の人たちはずいぶんと経済的損失を免れたであろうから、それでも安全のためと思って渋々、負担に応じていたかもしれないが、もっと強そうなのが攻めてくると、国境などではいち早く敵方の保護下に入ろうとする者もあらわれる。この場合も、通常はカネで禁制を買って、略奪を禁止してもらうということが行われた。どっちにしても、カネを払わなければ何をされるかわかったものではなかった。敵対する勢力が拮抗している場合は、村は〈半手〉といって両属の姿勢を示して、双方に年貢を納めた。戦国時代の村というのは、大名が家臣に知行割をしてそれでオシマイというような簡単なものではなかったのであろう。むろん、領国が巨大化し、領内で戦争がなくなれば、自然、こうしたことは消滅する。武士にしても、戦場だけでなく、畳の上でのご奉公ということが重要なことになる。そのようなわけで、戦国大名による家臣の城下町集住ということが進められたのは事実であるけれど、主に、のちに役方といわれるような行政職を集住させるのが狙いであったようだ。武田氏もそのような段階に達していたし、信長の安土も同様であった。両者の様態はほとんど変わらなかったと言われているから、この面でも、信長の先進性は否定されている*27

ただし、信長が尾張を出て、岐阜、安土へと拠点の移動を行なったことは、武田氏とは対照的で、武田氏にあっては、甲府から新府への移転は60年間おこなわれなかった。もっとも、信長は東方での戦いは家康に任せて、自分は西へ進出したのであって、反対に信玄は東方で戦っていたから都には近づけず、首府の移転先といっても、領国の地理的中心ということだけを考えれば、諏訪くらいしかなかった。新府というのは韮崎市で、20万年前に起こった日本最大の火砕流である韮崎岩屑流によって形成された七里岩台地の突端に築かれた城である。甲府から目と鼻の先であるけれど、諏訪へも佐久へも出ることのできる要衝で、駿河へ行くのにも便利な立地であった。武田氏の滅亡直前のことで、家臣領民は大変に迷惑を蒙ったので、移転はうまくいかなかったようである。その点、信長は、いうことを聞かない家来の実家に火をつけて、強引に安土に引っ越しを迫ったという話が『信長公記』に見える。当時、信長の身辺警護を担う馬廻や弓衆が、安土に単身赴任していたのだけれど、男所帯の不注意とて、弓衆の家から火事を出してしまい、信長はカンカン、早く妻子を連れて来いと、尾張の実家をブッ壊してしまったというのである。その一方、依然、領地に居住していた武士も多くあったわけで、年貢の取り方は、基本的に地方(じかた)知行制であったので、大名が年貢を直接に管理して、そこから家臣に分配する俸禄制は進んでいなかった。おそらく武田氏にあっても、直轄地からの収入を蔵前衆が管理して、それを各領主との主従関係にない足軽・雑兵、あるいは奉公人の賃金に充てていたのであろうけれど、実態はよくわかっていない。それ以外の年貢収取は、各領主に任されたのであろう。

 

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山梨県北杜市武川町宮脇~韮崎の円野町のあたりから、西側に七里岩を望んだところ。この丘陵の向こう側が穴山氏を出した穴山というところ。新府城は、穴山梅雪の進言で築城され、真田昌幸がこれにかかわったとされるが、定かでない。

 

10. 当時のゼニ事情

話が西股氏の著作から離れてしまったけれど、北条氏による検地と貫高制の整備、そして兵種別編成の早期達成という事例を見ると、信長にあってなぜそれが遅延したのかという疑問は、それなりに重要なものであろうと思う。また、信長はそれらに代えてどのような制度で対応を進めたのか、興味深いところである。おそらく、信長によるビタ銭の異次元緩和は失敗し、信用度の高いブツを代用通貨として流通させざるを得ない事態が続いたのであろう。ついには、金や銀を決済手段として使用することになるのだが、このことは江戸幕府にも継承され、いわゆる三貨制度が確立を見ることになる。そもそも一条鞭法以降、明も銀決済で、ヨーロッパもそれにならったから、信長時代の貿易に必要だったのは銀ということになる。銀がなければ鉛も硝石も買えなかったのである。清代になって銭の使用が復活するけれど、そこで今度は日本の寛永通宝が中国やヨーロッパ勢力のあいだで使われることになった。その後、江戸時代になって、日本でもようやく紙幣と呼んで差支えないものが、銭と並んで庶民の間で流通するようになる。

なお信長は、茶道具をブランド化して恩賞のかわりにしたといわれているけれど、それはそれで画期的なアイディアと誉めてやりたいものである。滝川一益なんどというバカ者は、「甲州征伐でがんばったら、領地はいらんで、茶道具ちょーだやす」と信長にねだって無視された。けっきょく、領地として群馬に佐久・小県なんかをつけてもらって「こんな田舎、トホホ」ということになったのだが、まあ、茶道具も物品貨幣の一例ということなのかも知れない。茶道具はもらえなかったが、刀はもらえたようである。三条西実隆大内氏に官位の世話をしたときの礼銭が銭2000疋と太刀一本だったという話はすでに剳記に書いたが*28、そういうものであろうか。

しかし、これが武田氏なら、家臣には茶道具ではなく甲州金でも渡さなアカンところである。甲州金は日本初の整備された体系的な金貨であり、銅銭と同じ計数貨幣であったと見られている。しかし、こと民衆経済ということになると、庶民の場合は茶道具も金も使えないので、銭かコメ、あるいは布といった小額貨幣をどう担保するかということが問われなくてはならない。銀などは切って使ったから、小額銀貨として銭貨を補完したものとは考えられる。なお、畿内に限らず商取引の盛んな地域では、すでに銭不足が進行していたものか、今川氏領でも〈米方・代方制〉というのがあって、コメは石高、畠年貢や夫銭・屋敷銭は貫文高で定められていた。なお、貫文制といって、田年貢を貫文高であらわしたものもあったけれど、北条氏の貫高制とちがって、基準高はマチマチであったらしい。この、年貢を銭納とする、いわゆる〈石代納〉というのは、江戸時代を通じて主に畠年貢に継承され、地租改正まで続いた。今川氏が石高制を部分採用していた理由は不明で、いろいろ書いたことはおおむね憶測の域を出ないが、ゼニ経済が機能しているとか、検地が進んでいるからと言って、ただちに経済先進地であるとは言えないのであって、結果として東国で兵種別編成の軍制が進んだということについても、それ単体で評価することはむずかしい。また、民衆のための小額貨幣の問題と、大名や商人が大口の取引に用いた金や銀といった高額の金属貨幣の問題を一括りにしてしまってよいものか、その点も一考を要するものであろう。けっきょくのところ、コメは江戸時代でもある面で通貨の役割を果たしていたのである。

すでに書いたように、農民からすると、どうも金納よりも物納のほうが直接的で中間搾取のリスクが少ないという考え方もあって、税はすべて金納ということを定めた地租改正には反対一揆も起こった。ただ、逆の例もあって、酒田県の〈ワッパ騒動〉というのは、石代納を認めた新政府に対し、県が農民から物納で年貢を取って、それを転売して不正な利潤を得ていたことに起因するものであった。ついには過納米金の返還と減租、特権商人の廃止などを求めて訴訟となった。正直、戦国時代にあって、検地で土地把握をした後、さらに米の生産高を貫高に換算するなどという手間をかけることが領国経営の上で効率的であったのか否か、私にはよくわからない。江戸時代のように物納にしてから蔵屋敷で換金すべきか、そこはシステム上の問題もあって悩ましいが、いずれにしても大名の都合によったもので、別に民衆のことを慮ったわけではなさそうである。武田氏の蔵前衆も、各地の御蔵に集めた年貢米を、現地の市場で換金して甲府に送っていたようであるが、このことには信州や京都の富商がかかわっていた。そのようなわけで、市では精銭を使うことが求められたのであろう。

また、太平洋海運の進展にともなって、信虎の頃から伊勢御師の幸福太夫甲府に屋敷地を賜っており、どうも商業活動にも従事していたもののようである。幸福太夫の本家は伊勢の山田で借上業を営んでいたが、こうした金融業は、諸国の旦那廻りをする宗教家が得意とするところのものでもあったし、比叡山の悪僧や山臥などもこれを営んでいたようである。このことには問題もあって、貨幣経済と年貢の銭納化が進むにつれて、こうした人たちが年貢や公事を立て替えたり、徴税を請負などして、農民と領主のあいだで中間利益を得るようになっていたようなのである。このような人を富裕者という意味で「有徳人」などと読んだが、「有徳の百姓」という言葉があるけれど、どうも実態は農民だけでなく、こうした商人なども含まれていたらしい。そのようにして得られる利益が得分権として所職化することで、その下にいた農民の負担が増していくことになったとも考えられる。石高制のもとでの初の本格的検地となった太閤検地では、耕作者に直接の納税義務が割り当てられたので、中世的な所職は否定され、土地の権利関係はだいぶスッキリとしたものになった。なお武田氏は、村々の有徳人に新たに軍役を割り当てていたことが知られている。

さて、外宮御師の幸福太夫の話が出たけれど、室町時代以降、伊勢山田の町衆は自治を行なって手形取引も活発であったことから、のちにそこから山田羽書と呼ばれる紙幣が生まれることになった。これは17世紀の初頭のことであるけれど、丁銀の切銀遣が禁止されたことを受けて、小額銀貨に代わるものとして発行されたもののようである。伊勢や今井の銀札は兌換のための正貨準備が十分であったことから、長く信用を保ち、明治政府が藩札を廃止するまで用いられたけれど、各地の藩札はしばしば取り付け騒動に発展した。じつは、この問題から戦国時代の撰銭令についての再解釈が試みられたものと考えられ、自領の良貨を他領で発行されたビタ銭まがいの藩札の使用によって吸い上げられないように、こちらでも自衛策として藩札を刷るというようなことが行われたことに鑑みると、単に「撰銭するな」ではいろいろと問題が生じたであろうことも想像できる。この点でも、正貨の確保と撰銭の一部公認というのは、セットで行なわれていたと考えられ、信長が悪銭ばかり使っていたとは考えにくいのである。当時の銭貨というのは商品貨幣でもあったから、銅の金属としての価値がものをいったわけで、良貨を集めて悪貨に改鋳して出目(益金)を得ることもできた。これを、撰銭を禁止する他国に大量に流してボロい商売をすることもできた。要は、悪貨による通貨膨張策というのは、領国間の為替レートの安定と、領国内の物価安定のバランスを考えて行わなくてはならないということである。

なお、この時代の貨幣は、堺銭などのように民間でも発行されていたから、事態はなかなか複雑であった。北条氏は永楽銭を国内鋳造し、武田氏は甲州金を発行して貨幣供給を増加させようとしたのであろうけれど、このようなことは市場拡大の過程で必要となるものであって、そうでなければ単にインフレを引き起こすものでしかない。あれだけ戦乱に明け暮れていたのに、戦国時代というのは経済成長期であったと考えられている。農村失業者は公界に逃げ込むか、さもなくば戦国大名に雑兵として雇われた。ほとんど軍事ケインズ主義である。西股氏もいうように、戦乱は失業者を生み出す一方で、常に雇用をも生み出していたのである。もっとも、彼らに給地はなかったから、他国を壊滅させて乱取りをすることで収入を得ていたわけである。信長軍が京で略奪をしなかったなどというのは、まったくのデタラメらしい。まったく困った経済成長である。

こうして巨大な領国を形成した大名たちは、次に商業統制に乗り出す。信長は六角氏や今川氏の楽市令に影響を受けたと考えられているけれど、結局は特権商人をつくって座を再結成させてしまった。これは何も信長に限ったことではないので、彼ひとりの責任ではない。武田氏にあっても商売役銭を徴収する商人頭のようなものがいて、徳川時代になってもそのまま居座っていた。どこでも大名による商業統制ということが進んでいたわけである。つまるところ、楽市なんてのは、もともと〈楽〉であった中世的な自治空間の都市法をそのまま認めたものであって、それを大名が公許して統制下に置いただけのものであるらしい。信長の創案になるものではなかったのである。そこから税金とってやれなんてのは、みんなが考えたことであったし、室町時代から行われていた。けっきょく、都市民も農民も、外部の暴力集団にカネを払って、自治を買っていたのである。

一方、北条氏領では永楽銭を基準銭にして貫高制を整備したわけだが、もともと永楽銭は畿内基軸通貨ではないから、北条氏が西国から物資を調達しようということになると、あるいは、もっと効率的な決済方法が必要になったことであろう。東国の伝統でいえば、武田氏や今川氏と同様、〈金遣い〉である。コメ現物や布を輸送して代用通貨として用いることもできるけれど、どう考えても不経済である。銅銭にしても、かさばることが嫌がられた節もある。ゆえに、大口の軍用品の取引や、家臣への恩賞ということに金を用いることは、不合理なことではなかった。銭と違って秤量貨幣であったから、秤さえあれば、どこでも使えたはずである。一方、マネー革命を庶民レベルにまで浸透させるためには、銭なり紙幣なりという軽量で信用度の高い小額貨幣が潤沢に投入され、使用されることが必要となるけれど、織田政権のそれは、不徹底なものに終わったもののようである。仕方がないので、いよいよブツである金や銀を貨幣として使うことになるのだけれど、一般の民衆経済にどの程度寄与したのか、けっきょくはコメなんじゃないの、という疑念はぬぐえない。なお、金は東国、銀は西国に産するものであった。石見銀山をもっていた毛利氏は、撰銭令を出す必要がなかったというのだが、いくら銀が出ても、切銀でもしないかぎりは、庶民はコメ経済に頼らざるを得ないような気もしてくる。なお、この時代の高額金属貨幣としての金や銀は、武田氏の甲州金以外は秤量貨幣である。江戸時代の話だが、じつのところ、庶民はほとんど金や銀を見たことがなかったという話もある。

さて、日本初の金貨といわれる甲州金の制度は整然としており、一見してじつに先進的である。しかし、ンなモンを自国だけで整備したって、領国貨幣など全国的には使えないから経済は発展しないという人がいる。銭の場合はそうであろうけれど、金の場合は、量って使えばいいわけである。計数貨幣としての信用は領国内にとどまったかもしれないが、秤量貨幣として他国で使えないということはなかったのであろう。それこそ、金なら砂金でもよいわけである。しかし、これにしても、民衆経済にどう影響したのか、小額貨幣の問題は残らざるを得ないし、現代社会の構造をそのまま中世末期に当てはめるわけにもいかないので、高額の金属貨幣によって補われた流動性が、どこにどのように作用したのかについては、もう少し検討を要するように思われる。けっきょく、この時代の貨幣経済に重要な役割を果たしていたのは、社会の一握りの人であったのではないかという疑念を抱かざるを得ないのである。民衆レベルでは、相対的に金属貨幣の重要性が低下して、コメ遣いが続いていたのではないかというようなことも考えなくてはならないであろう。一方で、戦国大名や豪商の手元流動性は、金銀の採掘量が増すにつれて高まっていくわけである。金属貨幣とコメのあいだにも互換性はあったと思われるけれど、現代にはないユニークな制度である。リアルマネーと地域通貨の問題などを考え合わせると、興味深い。

なお、甲州金の単位制度はのちに江戸幕府に引き継がれている。甲州大好きの権現様の思し召しか、甲州金自体も甲州での使用を許されており、信玄公の面目躍如というところであるけれど、当時の制度としては、領国貨幣の域を出るものでしなかった。甲州枡というのも似たようなもので、度量衡の統一を企てた過程で生まれたものであろうけれど、全国的に見れば国枡の一つである。それが幕府にも使用を認められて、大小切税法・甲州金とあわせて甲州三法などと呼ばれたが、これはまったくの特例である。そうした特例の存続活動を通じて、信玄公崇拝が今日まで残ることになった。恵林寺にあった信玄の墓は織田勢に寺ごと燃やされてしまったが、甲府市内の火葬地と伝わる場所には、今では立派な墓が建っている。かつては魔縁塚と呼ばれて不吉がられていたようだが、大僧正にまでなった信玄のこと、仏道修行者が天狗道に堕ちたものにたとえられたのであろう。あるいは京を望んで隠岐で死んだ後鳥羽上皇のようなものにたとえられたのかも知れない。信玄が京に執心していたことは『甲陽軍鑑』で、甲斐を滅ぼして勝頼の首と対面した信長の言葉にもよく表れている。なんでも信玄は、首ひとつになっても上洛して、天子様に参内つかまつりたかったというのである。なお、近くには武田氏に代わって甲州を治めて、しまいには一揆に殺された河尻秀隆の河尻塚というものもあるが、こちらはまったくひどい扱いを蒙っている。祟られるぞ。

 

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甲府市岩窪町の信玄公墓所。地元住民は「信玄公さんの墓」と呼んで崇敬しているそうである。ほとんど熊本の「清正公さん」(せいしょこさん)である。

 

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こちらが、信長に諏訪と甲斐の統治を任された河尻秀隆の「河尻塚」。圧政を敷いたということで恨まれ、死後、さかさに埋められたというので「さかさ塚」ともいう。なんと、信玄公墓所から歩いて1分のゲートボール場のフェンスの外にある。もっと祀っといた方がいいぞと思わないでもない。

 

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織田勢の検断を拒否して焼き討ちされた恵林寺山梨県甲州市)。「心頭滅却すれば」で有名な、この山門。

 

11. 畿内には信長の標的になりそうな金持ちがたくさんいた

さて、北条氏をはじめ関東では、永楽銭を精銭として定めたのであるけれど、信長のアピールにもかかわらず、これは上方では定着しなかったようである。東国に成立した江戸幕府も、新規の永楽銭の鋳造を停止して、畿内で流通していた京銭と呼ばれたビタ銭を基準にして、寛永通宝が出るまで1:4の交換レートを維持する方針をとった。この時代の京都あたりでは、宋銭の使い古されたものの方が、信用度が高かったのである。私も高校生の頃、古銭ガチャで怪しげな宋銭の使い古したようなものを100円で手に入れて喜んでいたものである。それはともかく、このように、悪銭を階層化してレートを定めるということは、どうも信長の独創に出るものではなくて、すでに各地で行われていたことのようである。畿内での明銭の信用は低かったが、徳川幕府は永楽銭の価値を悪銭4枚と高く定めている。本音では、永楽銭を基軸通貨にしたかったのであろう。けれど、当時優勢であった上方経済の慣行を温存せざるをえず、永楽銭を徐々に廃止する方向性で銅銭使用の統一を図ったもののようである。このようにして見ると、江戸初期まで貨幣経済は停滞したにせよ、経済成長は続いていたということらしいから、少なくとも信長のゼニ政策は奏功しなかったが、かといって経済が衰えるということもなかったようである。経済成長が先で、貨幣不足が後からついて来た、というようなことなのであろう。遅れて経済が発達した東国では、畿内から悪銭として排除された明銭を基準銭として採用した結果、貫高制の維持ということが可能となった、ということであろうか。似たような明銭の使用は、九州でも見られるようである。

いずれにしても、高信用の銭貨を鋳造できなかった織田政権にあっては、貨幣経済がコメ経済に転換し、それに金銀を加えて銅銭に代えるということが行われるようになった。貨幣不足そのものは、信長のせいではなく、撰銭令の意図というものも、「基本、コメはやめてビタ銭でも何でもを使ってくれよ」ということではあったのであろうけれど、しまいには「こうなりゃ、めんどくせえから、コメ決済でやっちまえ」くらいなことにもなったのかも知れない。決済手段がないとなれば、いよいよ経済が停滞してしまうからだ。生産物があっても、取り引きができないのでは、元も子もない。製品を作って包材足らずというようなものである。これは領国経済において深刻な問題である。

戦国大名といっても、銭なしで商人から商品を召し上げるなんてことはできなかったわけで、それこそ商人が逃げ出してしまう。さらに、強力な商人ともなれば、堺や今井のように武装して大名と戦うこともできたわけである。この時代の富商のほとんどは京都周辺にいたと言われているけれど、武田家にあっても直轄領の管理に当たった蔵前衆の頭役のうち、伊奈宗富は信州伊那郡の商人、諏訪春芳も諏訪の商人であったが、頭役の下には京都の商人であった松木珪林という人物も召し抱えられており、『軍鑑』にもしばしばその名前が見える。いささか学のある人間ではあったけれど、馬場信春あたりにやりこめられる話が出てくるので、武士の目線では卑しまれていたのかもしれない。もともと松木は京と甲斐の貿易で財を成した人であったらしい。信玄が駿河を領有すると、伊勢の小浜氏が知行を与えられて海辺に住みつくようになるが、これは海賊商人であったらしい。信長についた九鬼水軍との争いに敗れて、武田氏の招きに応じたもののようである。

信長の撰銭令をあたかも現代の金融緩和のようにいう人がいるが、これは言うほど画期的なものでもなければ、それほどの悪法でもなかったというのがじっさいのところなのであろう。悪銭の使用基準を定めた法令は室町幕府からもたびたび出されていたし、興福寺もすでに精銭と悪銭の交換レートを定めていた。いずれにしても銭の信用は落ち、しまいには甲州金なども出回り、美濃あたりでは、畿内から駆逐された悪銭が出回ってインフレに陥ったという話もある。けっきょく、織豊政権にあっては、東国のように整備された貫高制が維持できなかったことから、てっとり早く石高制に移行したものとも考えられるが、貨幣量を増やせば経済が活性化するという仕組みに鑑みれば、コメ経済も一種のマネー革命ではある。こうなってくると、コメ経済をやめさせて銭を大量に緩和したのが信長の功績だという説明は、いまひとつ腑に落ちない。むしろ、やむを得ずコメ経済・銀経済併用制に早期に移行せざるをえなかったことがかえって奏功したのではないか、というようなことも考えてみたくなるのである。いずれにしても、畿内はすでに経済的先進地であって、信長がいてもいなくても銭不足が深刻化するほどの商業的活況を呈していたのであろう。今では信長の功績は、せいぜい関所の廃止くらいで、これにしても、武田氏も含め、各地の戦国大名が一円支配の過程で実行に移していることである。もっとも、戦費が足りなくなると新たに関所を置くようなことをしたから、信長ほど徹底したものはなかったようである。もっとも、信長が上洛してから瀬田に関所を置いたという昔話もあって、信長の寵臣・森長可がそこを下馬もせずに通行して、とどめようとした関所の役人を切ったなんどという話もある。もちろん、信長様は笑って許した。「森さ、おまえ、五条大橋で人斬りをやった武蔵坊弁慶みたいな奴だから、武蔵って名乗ったらどうよ」。まったく、笑えない話である。

と、森のヤンチャ伝説は、小牧・長久手の戦いで彼が戦死するまで続くわけだが、その初陣は、長島一向一揆討伐であった。これは伊勢湾の制海権をめぐる争いとなり、当時、堺と並び称される商業都市であった伊勢の大湊や山田の会合衆は、ナント、裏で一揆に手を貸して信長の支配に反抗していたのである。商売相手としては、信長よりも一揆の方がよかったということであろうか。よほどの嫌われ方である。最終的に、信長方の九鬼水軍がこのあたりを取り仕切るようになると、先にも書いたように、同じ海賊商人だった小浜衆は駿河に逃れて武田氏に仕えるようになった。その後は徳川氏に属して、小牧・長久手の水戦で活躍することとなる。

このようにして見ると、皮肉にも経済のことは、信長が敵に回した一向宗の方が進んでいたらしく、港湾都市の堺に対して「陸の今井」「今井千件」などと謳われた今井町といったものはその典型であった。のちに、各地の藩札に先駆けて、銀の兌換券である高信用の「今井札」という銀札を発行したのも今井町であった。信長もこれに保護を与えて赦免し、優遇して政権内に取り込むことになった。この当時の信長のやり方というのは、とりあえず脅迫である。堺に続いて石山本願寺にも脅迫で矢銭をかけて、まったく、それしかやることがないのかと、いささか呆れもするが、そうなってくると「アレ、けっきょくは経済よりも軍事力の出番か?」ということにもなってくる。カネは金持ちから脅し取る、何ともてっとり早い方法である。信長の経済的天才という人間像はどうなっちまったんだという感じも受けるけれど、堺や今井を支配下に置いて儲けようという発想は、まァ、悪くない。石山本願寺を退去させて大坂に遷都しようというのもアイディアとしてはよいであろう。惣百姓や自治都市はいうに及ばず、大名も寺社も、みな天下人のいうことを聞かなアカン。税はぜんぶ信長様に納めぇよ、というのは、理屈としちゃもっともではある。農民からの本年貢だけでなく、商人から冥加金をとって大儲けしたのが信長の目の付けどころなどということをいう人もいるが、信長に反抗した伊勢の大湊などは、もともと国司の北畠氏にカネを払って自治を敷いていたのである。チャンとやれば、もっと効率的にカネを取れたのである。「信長、やだな」という印象をもたれてしまったのか、この地域の人は長島一向一揆が壊滅するまで、信長に抵抗し続けたし、どうも隣国の伊賀・甲賀・近江あたりも一向一揆を支援していたらしい。長島の中心寺院であった願証寺は武田氏とも姻戚関係があり、勝頼の妹・お菊御料人が嫁いでいたという伝承もある(もっとも、『軍鑑』は、願証寺との婚約を変更して、菊姫上杉景勝正室となったことを伝えている(品第54)。こちらが史実である。なお信玄は、菊姫を家康の弟に嫁がせて味方につけようということも考えていたと、品第51にある)。そうしたわけで、武田氏は一向宗も含め、あらゆる宗派を馳走したと『軍鑑』にあるけれど、武田氏が尾張の大名であったなら、事情はまた違っていたかもしれない。けっきょく、太平洋海運をめぐって熾烈な争いになった可能性も否定できないし、自領の内部に独立状態の一揆などがいたらオチオチ夜も寝られないので、信長でなくとも、マトモな戦国大名なら弾圧に走ろうとするものらしい。

たとえば、今川義元は『今川仮名目録』の追加21条で守護不入権を否定して領国の一円支配を確立したと言われているが、これも三河一向一揆を始めとする一揆勢力に対するものであったらしい。武家領と並立していた公家荘園や他の寺社領への不入権は、それなりに認めていたという考え方もあるから、のちの信長ほど破壊的なことは起こらなかった。しかし、戦国大名の一円支配ということが進めば、おのずから権門相互の並立ということは否定され、荘園や寺社領といった非武家権門の自立的性格は抑えられる方向に進んだであろうと考えられる。一応、信長は天下静謐のことに責任をもっていたので、これは今川氏のバージョンアップである。寺だろうとナンだろうと、公儀の言いつけに叛く不届き者を成敗するのはもっともな話であるけれど、同じように延暦寺つぶしを画策した悪御所の足利義教と同じように果断な人であったらしいから、延暦寺なんか焼いちまえ、一向門徒はミナゴロシだ、とあんなことになっちまったものらしい。信長は「ウサ晴らしに長島で大虐殺してみた」みたいなことも言っているようだから、そこはちょっと変わった人であったらしい。さすが、乱暴者の森の上司である。人びとが現実的になって、寺社を恐れるということが衰えてきたことの結果のようでもあるけれど、しょせん、職業的暴力集団である武士のすることである。

一方で、武家と並立する寺社勢力の統制ということは、初めて中央高権として確立された武家政権である室町幕府の政策を引き継いだものとも考えられるわけで、それを徹底した信長の蛮勇によって、一元的な政治体制の地ならしが進んだから、秀吉、家康なんてのは、ずいぶんと恩恵を蒙ったはずである。このようにして、武士だけがエライ社会が到来したのであるけれど、網野善彦なんかにしてみればケッタクソ悪い話に違いない。なお、余談であるけれど、『甲陽軍鑑』によると、延暦寺の再興を嘆願された信玄は、「じゃア、身延山延暦寺を移転させるか」と思いついたらしいが、身延山の霊験あらたかなことに思い至らなかったと見えて、翌年の西上作戦の帰途、客死して帰らぬ人となった(品第39)。ま、そうとは書いちゃいないが、祟りである。なお、自分の招請に応じなかった美濃の希庵和尚を、透破を派遣してブッ殺しちまったという逸話もあって、案外、信玄にも信長とよく似たところがあった。もちろん、祟られた。それはいただけないにしても、この信玄、長遠寺住職の実了師慶という一向坊主を見込んで、浅井長政のもとへ軍使にやらせ、ついでに長島・大坂・堺・加賀・越中などからも信玄に味方する旨の証文をとらせたという。『軍鑑』は、信玄公は妙心寺派であったけれど、他宗を不公平に扱わず、他国の国主なら崇敬しない一向宗時宗も取り立てて、長遠寺相伴衆としたと、その大人物ぶりを誉めている(品第8)。長遠寺は越後へも派遣され、謙信に気に入られたようである。

もろもろ見てきたが、経済政策も不発、軍法もなし、それでも信長が天下人になれたのはなぜかというような問題は、じつに興味深い。それぞれについては場当たり的な応急処置であっても、時代によく即応できるということのほうが、あの局面では重要だったということであろうか。軍法は大敵と戦うために必要なものであって、信長には美濃斎藤氏以外に行く手に大敵がいなかったから、とくに軍法を要さなかったという『軍鑑』の指摘は、案外当たっているのかもしれない。信長というのは、精緻な理論より迅速な行動の人であったということであろうか。だいたい、すぐれた戦国大名には目見当の利く人が多かったらしく、それが下手な人は御家をつぶしてしまった、などという教訓めいた話がまことしやかに伝わっている。要は、正確な観察眼をもっているので、日ごろ目にしているものが、わりあい正しい数字と合致するのであろう。そうなると、いちいち計算をしなくとも、何がどれだけあって、どれだけ不足しているか、それを用いて何がどれだけ可能かというようなことを素早く判断することができるのであろう。把握可能な目の前の数字をもとに当面のことを小出しに判断し、その間に全体の計算をおこなって中長期的な見通しを立てるというのは誰にでもわかる合理的な方法ではあるけれど、状況が刻々と変化する中では、計算のやり直しということが頻繁に生じるので、そのうちに計画は破綻する。ものごとが定常的に推移しているときはよいけれど、目まぐるしい状況にあっては、もうパニックである。武田信繁の家訓81条に、『碧巌録』をひいて「定盤の星を認むることなかれ」とあるが、これも数量を計るのに計器の目盛りを読むなということである。直感と現実がどれだけ整合するかという、わりあいに感覚的な把握能力が必要とされたのである。こればかりは得手不得手で、おそらく、信長というのは、こうした能力に秀でていたのであろう。リスクを恐れないサイコな性格ということもあったのであろうけれど、アテが外れるまでは急成長を続けるもののようである。現代にもそんな企業がいくつかある。

ちなみに『駿河土産』によると、家康も軍法をもたなかったという。作戦を書面などにしておくと、その通りに実行して失敗した人間を叱るわけにはいかず、逆に、書かれていないことを実行して戦功をあげた人間を誉めたりすれば法が成り立たなくなるので、そのときどきの判断で行動したとのことである。どうも中小企業らしいところがあって、意思疎通が密だったようである。信長とは事情が異なっていたのかもしれない。のちに大阪の陣で諸大名を率いるようになった秀忠が、作戦を書面にして明示したことについては「それでよい」と、評価している。

 

12. 武田氏の軍役

さて、次に、武田氏の軍役について見てみよう。柴辻俊六氏が研究史を概観するところでは、武田氏の軍役については、平山優氏が多岐にわたって具体的な論考を展開され、武田氏の軍役が家臣の知行高と確実に対応していることを認めている*29。信玄の場合、永禄10年(1567)から、軍役を増やして、従来の知行高分軍役と、諸役を免除して軍役に就かせる増分の統合が図られ、永禄末年頃に多見される「軍役新衆」の創設につながったといわれる。これによって、郷村内で武装していた上層農民(地侍)も諸役免除の上、軍役の対象に組み込まれていくことになった。同年の『軍役条目』では、軍役内容の統一強化が意図され、弓・鑓・鉄炮の3種が重視され、鑓は長柄3間柄と規定されている*30。こいつはまったくスイス軍のパイクと同じものだと西股氏は書いている*31。こうした長柄足軽を大量に雇って密集隊形を組ませ、プロの武士ども(士分)に対抗したのが戦国時代の合戦だったというわけだが、足軽が非正規雇用の傭兵であったのか、恒常的に雇用されていたのかについては、議論の分かれるところである(足軽を侍身分に含めるか否かにも議論のあるところであるが、〈侍〉とか〈若党〉という末端戦闘員はというのは、つまるところ足軽のことのようである)。なお、同じく信玄期の永禄12年(1569)の『軍役条目』では、鉄炮を重視していることが窺われるけれど、勝頼の元亀4年(1573)では、弓・鉄炮へのさらなる重点化が進められているという*32。永禄の『軍役条目』を読むと、たしかに「弓・鉄炮が肝要、長柄・持鑓を略してでも持参しろ」と書いてある。相当にしつこく鉄炮のことが書いてあって、印象的である。さらに、「戦のときにヘンな百姓・職人・禰宜・幼弱の輩どもなんぞ連れてきたら謀反とみなすぞ」くらいのことが書いてある。これは、兵農分離論で「戦国大名なんてのは、もともと兵農分離していたわけで、そこらの農民を夫役以外で使うのはよほどの非常事態に限られていた」というような説明のためにしばしば引用されるところの史料でもある。信玄の場合、上杉との抗争が激化していた当時、知行高ごとに割り当てた軍役だけでは足りなかったので、知行ベースの軍役を基本としながらも、それに付加する形で地侍を戦闘員として駆り出すために、このような軍法を定めたということのようであるが、それにしても武道の心得のない貧農を戦闘に借り出したわけではなかった。

さて、一方の農民も、もともと農業に励んで年貢を納めるのが仕事、戦闘なんてやってられるかというようなことにもなったらしい。『兵農分離はあったのか』というマトメ本を書かれた平井上総氏は、勝俣鎮夫氏の「戦国法」(『戦国法成立史論』(1979年)所収、初出は1976年)を引いてまとめている。曰く、武士・奉公人は、大名から給地をもらい、代わりに軍役をつとめるのが義務になっていたが、百姓は、年貢を納めるのが義務であり、給地もなく、戦闘をするような社会的身分ではなかったというようなマトメをされている。本来、戦国大名は、百姓を戦闘員とは見なしていなかったのである。けれど、陣夫や夫丸(輜重兵)として非戦闘員の扱いで駆り出されることはあったので、村高に応じて、村の方で人選して供出したようである。北条氏領では、これすら農民に嫌がられたらしく、カネでどうにかしてくれと、夫銭なるものを出すこともあったらしい。まったく現代の町内会の出不足金である。その場合、大名側は、出不足金を使って別の陣夫を雇うことになっており、それでも雇えないときは村に対して「早よう夫役を出せ」と命じたとのことである。ということで、勝俣氏は、戦国時代から、この意味での兵農分離はすでに行われていたと指摘しているとのことである*33。それとは別に、給地の代わりに年貢を減免された地侍が軍役衆として存在していたわけで、こちらは侍同様、戦闘員であった。武田氏はバンバンと朱印状を出して、動員対象を拡大していたようである。この点は一考を要するところで、軍役衆、軍役新衆を増やした武田軍にあって、足軽・雑兵の雇用がどう推移したのかは気になる点である。西股氏によると、北条氏の着到状には、士分の構成についてはいろいろ定めがあるが、あとの者(=雑兵。ただし、陣夫のような夫役に駆り出された百姓を雑兵に含むか否かについては判然としない。少なくとも、戦闘員である〈侍〉(足軽)と非戦闘員である道具持ち(中間・小者・あらしこ)のような武家奉公人までは、まちがいなく雑兵である。雑兵と足軽の区分についても諸説ある)については兵種と人数の指定しかないという。じゃあ、誰を連れてくるのかということだが、上のような理由から、各領主がマトモな百姓を徴発するのはむずかしかったであろうから、そこで落ちぶれた牢人や社会の落伍者を大量に雇ってきたというのである*34。そうした人たちからすると、雑兵稼業は手っ取り早く食える仕事ということで、結構な人気があったらしいのである。ところが、この連中は武士扱いをしてもらえないので、死んでも恩賞なし、安堵される所領もなし(つまり給人層ではないのである)、イザとなったら逃亡といった手合いで、そもそも主従制の埒外にある人たちだったというのである。戦闘が終わると解雇、別のところで別の兵種で雇われるなんてこともあったらしい*35。こういう練度の低い連中を組織戦に駆り出すなど無謀もいいところだと思われるであろうけれど、そこで便利だったのが、誰でも使える長柄と鉄炮というわけである。まあ、何にしても、カネはかかる。そうなると、なにぶん貧しい山国であった甲斐・信濃にあって、在郷地侍の軍役賦課を増さざるを得なかった武田氏の事情というのも酌むべしである。その中で整った軍法を定め、兵種別に軍を組織し得たということは、軍事的なシステムの上で、しばし東国優位の状況を作り出すことに貢献したと言えるのかもしれないけれど、もっとも、信長もそれに追随したであろうから、その差は15年程度であったかもしれない。西股氏によると、少なくとも軍制の上で信長が兵種別編成方式に転換したのは、姉川の戦いよりも後のことであった。そうこうしているうちに、畿内で勢力を拡大した信長の経済力は急増、システム上の優位もなくなってしまえば、今度は東国大名が劣勢に立たされることになる。これは問題である。

 

13. 信長の軍法

いずれにしても、前時代的な領主別編成方式で集められたテンでバラバラな部隊の寄せ集めから、戦国大名による兵種別編成方式へと移行する中で、もっとチャンと組織的に戦おうじゃないかという機運が高まっていくのは、それなりに自然な流れであったらしい。西股氏によると、高度な作戦術が勃興したと見られるのが15世紀末の太田道灌長尾景春の頃、その後、16世紀になってそれが明確に意識されてくるようになったという*36太田道灌なんてのは、戦国期に広まった「足軽之軍法」の発明者として有名な人で、すぐれた軍学者であったようである。そういう新戦術が必要になったのが、戦国初期の東国であったということになろう。そこで、『甲陽軍鑑』を読んでみると、信長家には軍法らしき軍法が存在していなかったと書かれている。なるほど、『明智軍法』が定められたのが織田家中の初めての軍法だとするならば、その評価は当たっているのかもしれない。けれど、『明智軍法』の意味での軍法というのは、北条氏の着到状や武田氏の『軍役条目』にあるような軍役規定が半分を占めていて、残りは戦陣における心得であるけれど、別途、法度が定められていたように読めるから、ザックリしたものである。また、言わずもがなの慣例を明文化したようなものでもあったらしい。まあ、それくらいのものは、どこの大名にもあったであろう。一方、『甲陽軍鑑』のいう〈軍法〉とは何であろうか? これも先に出た伝・山本勘助の『兵法秘伝書』「第十四 兵法与軍法分之事」に定義が記されている。

 

夫兵法与軍法とわかつゆゑんは、軍法は兼て城とりをよくし、軍に望で陣とりを堅まもり、旌旗金鼓の下知をなし、人数の懸引、強敵弱敵大敵に相ての、知略武略計略をなすを云、兵法は、遠を射て落し、近を切て落し猶近には組て勝負を決するを云、此二の道は一の心より出て分をなすなり、爰に予云、軍法の極みは兵法にあり、兵法の用は軍法にありと云、*37

 

『兵法秘伝書』のこの部分、『甲陽軍鑑』からの逆引用のような文章であるから、後世の筆であろうけれど、ともあれ〈軍法〉というのは、戦争のやり方というような意味のものである。それも体系だった法というようなものであろう。しかし、稀代の作戦家ということになっている信長に軍法なしとはどういうことであろうか。まんざらそういうことでもなかったとは思われるけれど、少なくとも、西股氏にあっては、信長を鉄炮の斉射戦術の発明者に擬すという考え方は放棄せられている。現実には難のある長篠合戦における鉄炮の集中使用説が流布したことについて、西股氏は、これは『信長公記』の誤読であり、先学諸氏が「長篠合戦=天才信長が鉄炮によって武田軍を撃破した戦い、という先入観に捕われながら史料を解釈していたためではないだろうか」*38と推測している。鉄炮隊を選りすぐって有能な武将に指揮させたという点では、長篠合戦における織田軍が、戦国後期に発達した組織戦の申し子であったことは事実ながら(もっとも、先に書いたように、その組織化は東国大名より遅れて実現したようであるけれど)、「けれども、それは武田軍も同様であり、両者の勝敗を分けた要因は火力でも鉄炮の使い方でもなく、信長と勝頼の用兵・作戦に求めるべきである」*39というのが、西脇氏の結論であった。その点は、『甲陽軍鑑』の結論と大差ないようである。

なるほど、強敵相手の野戦で有効な防御陣地を築いた信長の作戦は良しとしよう。もっとも、結論的には、少数の敵を大軍で迎え討ったという、それだけのことであった可能性も否定できない。要するに、領国の広さとカネの力である。信長の経済政策が奏功したか否かについては、先に述べたとおり、よくわかっていないのが実情である。けれど、武田領に比べて、信長の支配地域では軍事費捻出の手立てがいろいろとあったのは事実らしく、先に書いたように、堺あたりを脅迫してアッという間に莫大な額の矢銭を取り立てた。『甲陽軍鑑』でいわれている信玄秘蔵の上洛資金に匹敵する額である。まったく、たまったもんじゃない。ただの強盗である。もっとも、脅迫はしなくても武田領でもムチャクチャな税金はとっていた。信玄は上洛のために寡婦に後家役というのを課していたらしい。そんなこんなで資金は7000両に達していたが、謙信の死後に御館の乱というのが起こると、景勝はナント、勝頼に10000両の賄賂を贈って支援を求めたというのである(品第54品)。これを史実と考えてよいのかはわからないけれど、何かしらの請求書が武田から上杉に届いているのは事実なので、何らかの名目のカネが渡ったのは事実のようである。いずれにしても、越後の資金力もなかなかである。

さて、話は戻るが、信長の経済政策を重視する人は、こうしたマネー革命(ゆすり?)によって信長は鉄炮を大量に買い付けて、長篠で三段構えの一斉射撃を行なって武田軍を壊滅させたという結論にもっていきたがるのであるけれど、そのようなことを西股氏は認めない。カネは唸るほどあったかもしれないけれど、信長というのは、軍事史上、それほど革新的なことはやっていないというのである。むろん信長が、個々の戦いで機動力を生かした素晴らしい作戦を展開しているのは、事実であろう。しかし、あまり理論的ではなかったようである。『軍鑑』は、信長は軍法達者の信玄・謙信と直接に対決してこなかった上に、信玄とは縁者であったから、これまでは軍法というものを要さなかったという。しかし、信玄公が上洛戦を展開するにあたっては、ますます軍法が重要なのだということを馬場信春をして語らしめている。まさに、「ヒラメキ人間VS理論家の全面対決」といった構図である。もっとも、「信長というのは心が清く、刀の化身のようなまっすぐな武士だ」といって、ずいぶんと買っているのも確かで(品第40・上)、さすが桶狭間の勝者、油断のならない相手なのである。もっとも、信長は本能寺で横死、後継者の武道は弱く、家中は明智を討とうともしなかった(品第58)、これというのも、武道無穿鑿の家中は長続きしないというのが『軍鑑』全体の構想なのであって、対して、信玄没後も子息・勝頼の矛先がしばらくは鈍らなかったのは、武田家歴代の穿鑿が深かったからだという見方が示されている。虚飾に満ちた家中であっても、大将が武芸に秀で、強運ということでまたたく間に大身になることがあるけれど、無作法、無穿鑿の大将は、やがて弓矢の神に見放されて、栄華は一時のもので終わる。前代の穿鑿がよく、統治が行き届いていれば、いささか子息が心もとなくとも、しばらくは家を保つことができる(品第54)。『軍鑑』としては、一人の天才のヒラメキよりも、持続的なシステムの優位を重視したもののようである。『軍鑑』は北条早雲を評して一仏一神の化身でもあられたのかと評しているが、かといって、そうした創業の大人物のマネをするのはいけないとたしなめている。一代で大身になった人は運に恵まれているから危険なこともできるが、その地位を引き継いだ者は慎重を期さなくてはならない、というのである(品第22)。『軍鑑』は万事そういう発想に貫かれている。

 

14. 戦国の鉄炮戦について、西洋の研究者はどう考えたか

もちろん、鉄炮斉射説を支持する人もある。比較的最近に出たマイケル・E・ハスキューらの『戦闘技術の歴史5 東洋編』(2016年)という書物によると、長篠の戦いで信長は3500の鉄炮足軽を動員したとして、次のように書いている。

 

信長は、一五七〇年に石山本願寺一向一揆と戦った際、これに匹敵する数の火縄銃による攻撃を受けていた。(…)信長はこの自らの経験から、来るべき長篠の戦い火縄銃部隊に中心的任務を与え、鉄炮足軽に万全な斉射戦術訓練を行っていたのだ。*40

 

もちろん、武田軍にも火縄銃部隊が少なからずいたが、勝頼は騎兵主体の伝統的な編成を好んだらしく、現在あきらかになったところでは、鉄炮足軽はわずか650にすぎなかった、という*41。これには疑義もあるけれど、なんぼ武田軍の鉄炮装備率が織田方に劣るものではないとはいえ、鉄炮の総数で織田軍に劣っていたのは事実であろうし、問題は弾薬の調達のほうにあったという考え方もある。なにしろ輸入に頼らざるを得ない舶来の軍需物資であったから、買い付けるのは厳しかったに違いない。しかし、あれだけ信玄が鉄炮を重視していたのに、今さら勝頼が騎兵を好んだなどという説明が成り立つのかどうかは、眉唾である。もっとも勝頼には、増やしたくても鉄炮を増やせなかった事情というものもあったのであろう。ちなみに、裏ルートを使えば敵方からも鉄炮を買えたもののようで、武田方の穴山信君駿河の商人衆を使って、徳川方の商人から鉄炮と鉄を買い付けようとしたことが知られている。いずれにしても、鉄炮の装備率で武田軍が織田軍に劣っていなかったという西股氏の試算を信じるならば、武田方にももう少し鉄炮数はあったことであろう。なお、鉄炮を防ぐ竹束なるものもあって、これを考案したのは、『軍鑑』によると、信玄の家臣・米倉丹後守という人であるという。これは他家でも使われていたもののようであるし、これらを使わないと防御がおろそかになって、損害が大きくなるということまで『軍鑑』に書かれている。もっとも、大阪の陣では、竹束だけでは城方の射撃を防御できなかったらしく、土塁を築いたらしい。

ところで、いささか脱線するようであるけれど、『戦闘技術の歴史5』は、騎兵について興味深い見解を載せている。確かに鉄炮の導入は、日本の戦場を一変させた。けれど、そのために日本の騎兵が一方的に衰退したわけではなく、彼らは槍を操る専門的兵士へと役割を変化させたというのである。先に少し触れたけれど、このような逆風のなかで、もっとも効果的な対応を見せたのは、「才気豊かで革新的な騎馬隊指揮官」であるところの武田信玄であったという*42。彼の騎馬隊は伝説として語り継がれるほどに恐れられ、1572年の三方原の戦いでは、火縄銃で掩護された歩兵隊を騎兵による集団攻撃で打ち破った、という。しかし、最終的に彼らは下馬して戦わなくてはならず、急襲攻撃はそれほど圧倒的ではなかった。信長はこの教訓から、火縄銃の大規模な利用と、一斉射撃を行なわせて長篠の戦いに勝利したものの、騎馬隊の突撃は防いだが、個々の侍を押しとどめることはできなかったので、長時間の白兵戦を続けざるを得なかった。いずれにしても、この戦いを境に、日本の軍隊は、槍足軽と鉄砲隊、騎兵の混成軍となり、日本における本格的な騎兵戦術の幕開けは、同時にその終焉となったというのである*43

この描写は、西股氏の想定する長篠合戦とはずいぶん異なったものとなっているが、わりあい簡単に柵を突破されて白兵戦になったらしいことは、ものの本にも書かれている。もっとも、『軍鑑』によると、武辺の家康軍は向こうから討って掛かってきたもののようでもあるが、もっとも、西股氏からすると、これは当然のなりゆきということになろう。すでに戦国期には馬上戦闘ではなく、下馬戦闘がメインになっていたというのである。長柄足軽の密集隊形に弱い乗馬戦闘を積極的に行なうメリットがなくなっていたというわけだ*44。ほかならぬ武田氏が長柄足軽を配備しているのだから、騎馬隊だけで戦を決するなどという軍法があったとは考えにくい。もっとも、東国の武士は馬の扱いが巧みであって、西国の者にはチョット真似のできないようなところもあったようであるから、戦いの局面によっては、騎兵が威力を発揮したということもあったのであろう。少なくとも、それなりの騎兵はいたようである。けれど、この時代の武士は、馬上で戦うなどということはもうできなくなっていたらしく、西股氏によると、戦場まで行ったら徒歩で鑓働きをするというような戦闘形態をとる頻度が高まっていたらしい*45。あるいは、武田軍くらいになると、まだまだ馬上戦闘のできる武士がいたということなのかもしれない。赤備えで知られた上州の小幡勢などは「馬上巧者」などと書き留められている。「おお、すげえな」と、西国の奴らからするとインパクトはあったと思うが、それ自体は過去の遺制であって、勝頼にしても、そのことを主体にして戦おうというようなことは考えなかったであろう。ほかならぬ武田氏の軍装規定を見ても、馬上衆が重装歩兵としての役割を担わされていたことが窺えると、西股氏も書いている*46。もっとも、そもそも論ではあるけれど、騎馬隊不在説というのもある。『軍鑑』の品第14は、そもそも武田軍は、三方ヶ原へも馬を入れなかったと書いているのである。

ウマか鉄炮かはともかくも、前にも見たように、天正年間に西洋並みの整然とした鉄炮隊が登場したことは記録の上で確かなことのようであるから、どこでもそれなりに鉄炮の組織的活用ということが進んでいたのも事実であろう。先に挙げた『戦闘技術の歴史5』によると、密集隊形での一斉射撃という技術は、アジアにおいては、日本で考案されたという。その威力は朝鮮出兵の際に遺憾なく発揮されたという。

 

また、秀吉軍はヨーロッパ起源のマッチロック式火縄銃を装備していた。これは、当時のアジアのいかなる武器より優れていたことがこの戦いで明らかになる。日本人はいつの時代も外来の科学技術に関心を示してきたが、この戦いの武器には特に大きな可能性を感じていた。日本の弓より射程距離が長く、操作のための訓練も弓ほど必要ではなく、また密集隊形での一斉射撃という技術も日本で考案された。一六世紀の火器は再装填に手間取ったが、射手が交代すること、つまり、装填ずみの射手を前列に移動させ、その間に発射した射手は後方に退いて充填するという方法で、この問題を克服したのである。*47

   

この頃になると、鉄炮戦術は狙撃から一斉射撃に進化していたようである。誰がこの戦術の発明者であるかは、この際、わからない。しかし、西股氏の所説を読むかぎり、どうも信長であるという確証はないようである。少し考えりゃ誰でも思いつくことであるから、ある程度の鉄炮がそろって、鉄炮戦の経験を積んだところでは、どこでもやっていたことなのであろう。もちろん、兵種別編成が実現していればの話である。もっとも、武器弾薬の乏しいところでは、規模に限度はあったであろうから、そうこうしているうちに敵が前進してきて前線を破られるということにもなったにちがいない。結局、合戦に先立って、まずいわゆる〈鉄炮矢いくさ〉というのがあって、その後に重装備の武士が槍で突撃ということになり、続いて長柄の足軽隊が続くというのが、近世までに確立された合戦のパターンということになるのだけれど、この方式の戦闘を鉄炮主体のものと考えていいのかどうなのか、自動小銃でもあれば別だけれど、なにしろ原始的な火縄銃であるから、しばらくは速射可能な弓兵の需要が失われることもなかった(しかし、その員数は、江戸期には、かなり低らされていた)。だいたい、武士どもの観念は異常で、足軽や雑兵を投入してチャンバラやらせてから、自分はおいしいところをもっていけばいいところ、一番槍をつけようと、真っ先に自分から敵陣に飛び込んでいく始末、『戦闘技術の歴史5』の著者たちも、このあまりにマッドに思考にはいささか辟易しているような感があって、彼らの戦技の優秀さには敬服しながらも、ナンかおかしいよな、という違和感を覚えたような雰囲気すらある。『軍鑑』を見ても、「武士道の沙汰褒貶六ヶ条の事」として、敵兵1人を味方数人で討つ(相討)などはもってのほか、これは武道にそむくことで、弓矢の神への非礼だというのである。こういうことをしていると、「ばい頸」などといって、他者が討ち取った頸をカネで買ったり、襲って奪ったりという行為につながるというのである(品第53)。

さて、そんなことであるから、「御侍衆(士分)が鑓を付けるまで、雑兵の槍襖の出番はないぞ」というようなことが、雑兵の心得本である『雑兵物語』にも書いてある。このことは西股氏の著書にも引かれているが*48、ここでちょっとした疑問に突き当たる。長柄足軽の密集隊形は、馬上衆の騎兵突撃を防ぐのに有効だったはずなのに、その出番はどこにあるんだという問題である。武士が下馬戦闘に移行した結果として、こういうことになってしまったのか? 緒戦で敵陣を突き崩す役目を負わされたのは、キチンと給地をもらっているプロの武士の仕事で、イザとなったら脱走する雑兵どもではなかった。鉄炮をかいくぐって武士同士が前線に進出、味方の射撃が効果を発揮し始めたところで突撃、その後から長柄部隊が出てくるわけであるから、もう乱戦である。じっくりかまえて鉄炮に弾を装填しているどころではない。もっとも、そうなったら鑓騎兵が文字通り、側面から横槍を入れてくることはあったかも知れない。武田信繁の99ヶ条の遺訓の83条に面白いことが書いてある。1000人が敵に向かうよりも、100人が横から割って入る方が効果的だというのである。こうしたことを整然とやってのけたというのが、武田信玄であって、彼がサッと軍配を振ると部隊が手足のように自在に動くというのは、よく知られたイメージである。なるほど、たしかに信長も強かったではあろうけれど、彼にそのようなイメージはない。さりとて、信玄伝説にもどれほどの根拠があるのか不明だが、いわゆる〈軍法〉の起源を信玄に求める考え方というのは、『甲陽軍鑑』による武田ブームのおかげもあって、江戸時代には広く流布していたもののようである。ただ、当の『軍鑑』の編者という小幡景憲の弟子に北条氏長という兵学者がいて(北条氏康の曾孫)、この人は中世の軍配法(軍学)を改めて実践的な北条流兵学というものを興しているから、信玄の軍法にも迷信的な面が多分に含まれていたのも事実であろう。私も甲府で信玄直筆(?)という「運気の図」というものを見たが、モヤモヤっと立ち上る戦気を読んで、敵情や戦況を知るというものであるから、なんとも怪しい。その他にも迷信的な故実が多々あって、およそ実戦的とはいえないものもある。

なお、『軍鑑』には、じっさい信玄は、敵の旗色を占って勝機の有無を判じていたという話が載っている。世間では信玄の圧勝といわれている三方ヶ原の戦いであるが、信玄はたいそう慎重で、家康をやぶっても織田の援軍が9隊も来ているから、勝ち目は薄いと考えたらしい。ところが、小山田信茂が偵察したところ、家康の布陣は悪く、信長の援軍は旗色が悪く、敗北の兆候ありというのである。なお信玄は迷ったらしく、さらに偵察を重ねさせ、けっきょくは占いよりもリアルな理由で合戦を決断したようである。もっとも、このあたりの経過は、なんともあやふやで、信玄の死に至るまで、読んでいてよくわからない部分もある。なお、勝ち目ありなんどと申した当の小山田は、酒井忠次に追い散らされている(品第39)。

もう一点、当時の軍法を窺い知る面白い逸話がある。『軍鑑』によると、信玄は陣所に制札を立てて、病人や死人などの黒不浄が出た場合は、何の穢れかを占わせ、不浄を出した陣の責任を問い、関係者から過銭をとったという。軍役新衆もその対象に含められたとのことである。なお、牛馬を放してしまった場合も過銭を取られた。火事や喧嘩の責任は重く、成敗ということもあった(品第43)。余談ながら、この過銭、どうなるのか気になって『軍鑑』をめくってみると、どうも陣中での過銭は、武者奉行や旗奉行に納められ、そこから中間・小者などの給金が出ていたらしい(品第53)。国法に背いたものは罰金ということになっており、妻帯した日蓮宗の僧なども妻帯役を納めさせられていた。信玄公は大慈大悲の大将だから、法華経の趣旨を理解したうえで、日蓮宗の僧侶が妻帯するのは可として、僧侶を処刑したりするようなことはなさらなかったというのである(品第48)。かわりに、うまいことして税金をかけてカネを取ったのであった。さすが、カネにうるさい信玄である。甲府では寺と民衆の訴訟沙汰がしばしばあって、仏教に詳しかった信玄は、宗派ごとに裁いて、説教を垂れていたようだ。それを楽しんでるんじゃないのかというくらいである。余談ながら記しておく。

なお、当時の軍配者がどこか神がかっていたことを示す逸話が他にもあって、『軍鑑』の品第7によると、甲州の小笠原源与斎という軍配者は、いろいろと不思議な奇特を起こしたという。しかしまあ、そんなのは座興で、馬場信春に言わせると、武士は武道第一で、軍配に奇特を頼めば、禰宜・山伏のようだと言われるばかりだ、とのことで、軍配に奇特など期待せず、チャンと武芸を磨いて、戦略を練れよという教訓となっている。ちょっとやそっとの霊験があっても、戦場で役に立つかというと、そうでもないというわけである。続く品第8には、文殊菩薩から夢窓国師八卦占いを夢伝されたという徳厳という者が登場するけれど、信玄は「聖人でもないのに、むずかしい八卦の本がそんな夢の伝授で理解できるわけないだろ。ンなモンは偽りで、奇術のようにして人の心を盗むものだ」と相手にしなかったという。そのへんはさすがにリアリストであったらしい。

なお、信玄の軍法といえば、風林火山の〈孫子の旗〉というのが有名だが、信長に対抗心を燃やしたのか、信長と手切れとなったのちは、孫子の旗に「天上天下唯我独尊」の八字を付け加えたという(品第43)。二人とも「俺が一番」という性格では共通していたらしい。

 

15. 信長軍は弱かったのか?

一方、信長弱しということは、『軍鑑』にもしばしば書かれている。けれど、信長を英雄視する考えは昔からあった。明治末年から大正初年にかけて、県立諏訪中学に在学した小口太郎(1897~1924、『琵琶湖周航の歌』の作詞者、「有線及び無線多重電信電話法」の考案者)という人は、文集の中で「大胆細心」というテーマで信長について書いていた。してみると、当時の青少年にも人気があったもののようである。参謀本部が信長の快挙を『日本戦史』の真っ先に書き立てていることからもわかるけれど、どうも幕末の因縁を引きずっているところもあるらしく、「桶狭間役」をよく読むと、そもそも織田と今川の関係を、

 

楠新田等ノ諸家、挙族王事ニ殉シタル後、海内ノ武士、復タ一人ノ心ヲ皇室ニ存スル者ナク、足利ノ党類兄弟相鬩キ、上下相戕ヒ、応仁以後、殊ニ甚シク群雄割拠、互ニ攘奪ヲ事トスルノミニシテ(…)此際ニ崛起シテ能ク奸兇ヲ誅鋤シ、大義ヲ表掲シ、億兆ヲシテ再ヒ天日ノ光ヲ仰クコトヲ得セシメタル者、独織田信長アリ。*49

 

なんどと書いてある。一方の今川は、「将軍足利ト同宗」であって、勤王の信長に対して「奸兇」の側にあるもののようである。ご存じの通り、幕末には徳川将軍を足利将軍に擬して、足利三代の木像の首を切るなどという事件もあったが、そういう発想から抜け切れていないもののようである。もっとも、近代の歴史認識において、足利尊氏が公的に大悪人ということになるのは、南北朝正閏問題が政治的にヒートアップした明治末年のことであって、参謀本部がこの本を出した1896年の段階では、まだ決定的なものではなかった。大方、『日本外史』あたりを真に受けた連中が筆をナメナメして書いちまったんだろう(ちなみにこの問題、南朝贔屓で知られた山県有朋というのは、胡乱な話ながら、長篠で鉄炮に当たって戦死した山県昌景の同族だという説もある)。もっとも、信長政権を室町幕府の延長線上でとらえようという現代の研究では、信長の勤王的政策が着目されているのも事実であるけれど、さりとて、信長が天下の大忠臣というわけではなく、案外とただの常識人であったという説もある。公方とうまくやれなかったので、天子様を立てたということなのかもしれない。その公方様にしても、信長以上に公方に無礼を働いた奴はゴマンといた。幕府の奉行人奉書の発給数を見ると、信長よりも三好長慶のほうが、文書の発給ということについての独自性が高かったと見る人もいる。

ともあれ、江戸の初めには不人気だった信長も、すっかり人気者、小泉改革のときにも革命児として合理主義者・信長に注目が集まったが、まあ、戦国大名なんてのはみんな合理的、すでに信長の経済政策にもアヤがつき始めているこの頃、なぜに信長だけが成功したのか(そもそも成功しているのか?)ということについては、もう少し異なった観点から考察することが求められるようになってきているように思われる。敵方である『甲陽軍鑑』の筆者からすれば、信長が日本屈指の名将であることに疑いを入れるものではないが、尾張に生まれたことが何よりの果報であったという見方にほぼ尽きるようだ(信玄もそう見ていたらしい)。信玄は強い敵に周囲を囲まれて苦労をしたが、信長ときたら、まともな敵は斎藤程度、今川が負けたのは油断のため、畿内の武士は弱いことで知られている。信玄曰く、東国の武士は弓矢の形儀、面々の意地をたてる者が10人に9人いるが、上方は20人に1人と、かつて山本勘介が言う通りであった、云々。近江の浅井ほどの意地をたてる武士がいたなら、たとえ信長に果報があっても、50までに天下を取ることはできないだろう、云々*50

これは、当時書かれたものと見られる『人国記』の評価と通ずるところもあるけれど、ともあれ、畿内の兵は弱かったという考え方をあらわしている。強いのは東国の武士であって、具体的には三河より東ということになる。『軍鑑』で特に印象的に語られるのは、何度叩いても容易に降参しない信州勢と、武辺で知られた徳川家である。信州の武士たちの戦達者ぶりは何度も記述されるから、信州に愛着をもった人が書いたものとも察せられるけれど(上杉に通じた信州衆4人が切腹に追い込まれるところでも、さすが信州武道の国とて、鮮やかな最期であったと誉めている。甲府の一蓮寺で瀬場という侍を始末したときも、信州衆は武芸のつわもので、悴者から非戦闘員の中間まで逃げずに戦ったとある。品第31)、徳川様の世に成立した本ということもあって、家康の武勇については信玄も斜めならず感心していたと、たいそう持ち上げている。こうした強敵ぞろいの国では、服属した先方衆を手厚く遇することが必要だったというようなことも書かれている。先方衆から牢人、寺社まで身の立つように取り計らうのが、為政者のつとめだというのである。『軍鑑』は、尾張出身者を優遇して内衆に領地を任せるようになった信長の統治法は危険であるというような見方を示している。近年、本能寺の変の原因をこの辺りに求める人もいるようだが、どうであろうか。

ところで、『人国記』というのは、鎌倉の5代執権・北条時頼が、水戸の老人のように諸国を漫遊して書いた本だと伝えられている。噂の出所は『人国記』の愛読者だったという武田信玄という話で、『井伊家秘書』という本に、まことしやかに書かれている。それはあやふやな話であるけれど、近代の研究者の中には、どうも『人国記』は信州人が書いたのではないかという見方をする人もいる。道理で「信濃国之風俗ハ武士之風俗天下第一也」「百姓町人之風儀モ其徤儀ナル事、伊賀・伊勢・志摩之風俗ニ五畿内ヲ添タルヨリハ猶モ上也」なんどと良いことが書いてあるわけである。義理をわきまえ、勇敢で、悪に染まらないというのである。天正壬午の際、家康が甲州に入ったとき、武田遺臣に一人の老士があって、代々相伝の一書であるとして『人国記』を井伊家に託したというのだが、じっさいの成立年はよくわからない。江戸時代には偽本が出回るほどには読まれたようである。なにやら、のちの「長野県は教育県」という伝説にも通じるような、信州のマジメな県民性がうかがわれるが、どうもあれは「長野県民は勉強熱心でアタマがいい」という意味ではなく、もともと経済的にゆとりのある者が進む旧制中学に、本県の場合は、家計にゆとりのない者も多く進学し、結句、学資が続かずに志半ばにして学校を去るということが、ままあったらしく、他県の人はそれを見て「長野県の人はそうまでして教育を望むのか」と畏敬したというのが、コトの真相らしい。ところが、本県独自の信州教育ってぇのもあって、受験のことはお構いなし、学力の方はイマイチだった。さすがに県教委から怒られて、われわれの次の世代から引き締めが始まった次第である。

ところで、対する尾張の風俗はどうだったかというと、これが傑作である。私の親はこの地方の出身であるから悪くも言えないが(もっとも、信長に反抗して一向一揆なんかやっていた服部党である)、尾張の人は「進走の気」が強く、善を見れば善に進み、悪に慣れれば悪に染まり、身内に少し善をなした人がいれば、それを大げさに喧伝し、悪さをした人がいれば隠して、のちのち過ちの内容に反省することがないというのである。この評価は『甲陽軍鑑』のそれと、よく似ている。どうも根本をおろそかにするようなところがあったらしく、「唯大風洪水之出タルカ如クニシテ」云々とある。これは、『軍鑑』の品第59にある、信長の一生が、大風が吹いたような一時的なものであったという評価によく似ている。ともに信州人(?)が、まことしやかに書いたことなのかも知れない。

さて、『軍鑑』は信長弱兵論を唱えているようにも見えるが、弱かったのは信長ではなく、当時の上方の武士たちだったのかもしれない。信長はそれに付け込んで、上方の武力の衰えた国々、五畿内・中国の町人まがいの弱敵、一向坊主どもを脅しあげて勢力を急速に拡大したと述べている*51。どうも情報戦に長けていたらしく、5騎、10騎が腰兵粮で京都にかけつけ、信長の武力を喧伝してまわり、弱敵を従わせたというのである(品第54)。一方、信玄・謙信が在世のみぎりは、ひたすら和睦につとめて、両雄が耄碌するのを待った。この信長、些細なことは気にしない人であったらしく、世間の評判も外聞も気にせず、ヤバいときは逃げ、また戦ってとにかく領地を増やせばそれでよし、というタイプであると見られていた*52。現代では、信長の兵はカネで雇われた雑兵でまかなわれていたから、劣勢になると迷わず逃げたというようなことを言う人もいるが、それならそれで使い道もあったのである。それで勝てる方がよっぽどシステマティックで見事だとも思えるくらいだ(もっとも、逃げるときの尻ぬぐいは、いつも武勇の家康だったというから、ひどい話だ)。また、軍法に秀でた上杉謙信あたりについても「戦はつよいが、無意味に強がるところがあって、判断力に欠けるから、強引で目先の戦いのことしか考えなかった。退却の仕方が粗雑で、いたずらに兵を損ねた」くらいに書かれているので、まんざら信長が低評価というわけでもない。危急に際しては機動力を発揮して逃げまくり、再び出陣するなど、大変に活動的であったという評が残っている。対して信玄公は、どんなときでも崩れずに退却するように気を配り、味方の城は小城ひとつとて攻め取られぬように執心していた。信長からすると、国境の小城の一つや二つ取られて名声が失墜しても、あとで挽回すればそれでよしということであったらしい。『明知年譜』や『甲陽軍鑑』には、東農をめぐる武田氏との戦いで、信長がどうにか死地を脱して逃げ延びたようなことが書かれているから、いつも万全の戦いというわけにはいかなかったらしい。反対に言えば、信玄は慎重な作戦を取ったから、寿命が尽きて天下を取れなかったという見方にもつながったのであろう。

信長の面白いところは、強そうな相手には下手に出て、しばらくは我慢という現実的な作戦をとることができるところであって、信州人のようにやたら意地を張るということはなかったのかもしれない。その方式で短期間に領国を広げたこと手腕については、『軍鑑』も否定はしていないのである。信玄に言わせれば、息子の義信をはじめ、北条氏政今川氏真なんどというドラ息子が束になってかかっても、信長の小指一本にもならんとのことである。

一方、『人国記』を見ると、尾張人には気質として「勇気ノキヒシキ」ところもあって、伊賀・伊勢・志摩を合わせたよりは上だと、なかなかの評価である。しかし、三重県の人は踏んだり蹴ったりである。ちなみに私の祖先は、元をたどれば伊賀者とも通ずるものであるけれど、『人国記』によれば、伊賀なんかは最低評価である。どうも『人国記』の筆者は、どの国であれ、一揆をおこすような奴はダメだという価値観をもっていたらしい。尾張の連中も一揆を構えると書かれているけれど、なるほど、長島一向一揆はそれである。ともあれ、尾張の人が弱いとは書かれておらず、総合的な評価は、「中」である。

 

16. 信長軍は強かったという説

一方、信長の軍勢が強かったという考えを提起する説も多くあって、西股氏もその一人であるし、前に出た参謀本部の『日本戦史』も同様である。『日本戦史』「桶狭間役」曰く、

 

兵僅ニ四千内外ノミ、員数ヲ以テ較スレハ、復タ今川ニ當ル可カラサルナリ。而シテ其能ク之ト頡頏シ得タル者ハ何ソヤ。豈軍紀訓練及将士ノ大ニ優レル者アリシニ非サルカ。茲ニ試ニ之ヲ考究セン。*53

 

という次第で、信長の軍紀は厳正で、将士の訓練が行き届いていたからこそ、彼の軍は強かったのではないかという考え方を提示している。そのほか、彼の政令は厳明で、ゆえに尾張では夜でも家に施錠しなくてもよかったし、夏に野宿しても盗賊に襲われることはなかった、ゆえに民俗がよく、兵の軍紀も察するべし、云々と、なんだか昔話のようなことが書かれている。信長は平素から近臣に竹槍試合をさせており、兵の練度が高かったのも疑いない、などなど、ありがちな推測が述べられているが、このあたりの考え方は、多かれ少なかれ『甲陽軍鑑』も同様で、信玄公の軍がどれだけ強かったかについての教訓めいた話がいろいろ出てくるけれど、じっさいのところは、よくわからない。なお、『日本戦史』の「桶狭間役補伝」というのがあって、それによると、信長16歳のとき、林通勝が諸国の国主の話をして聞かせると、武勇に優れた国主の話を好むというので、上杉謙信武田信玄の話をして聞かせたという、小瀬本からとった逸話が引かれている。そこでは、謙信が小勢で大勢の敵を破ったのは、軍法が正しいからであり、信玄は国家を治めるために正しい法度を定めたとして、甲州法度が11箇条にわたって引用されている。信長は、これを見て浅からず同心したという*54

もっとも信長は、甲州法度に感心はしたけれど、これといった分国法を定めなかったようであるし、謙信の軍法に感心しながらも、織田家中には軍法もなかったとされている。そこで明智光秀が『明智軍法』を定めることになるのだが、この場合の軍法というのは、前にも書いたように、軍役規定のことのようである。くりかえしになるが、『軍鑑』は、信長には戦争理論としての〈軍法〉もなかったと書いている。分国法なし、軍役規定も理論もなし。かなり心配な集団である。『軍鑑』によると、信長は美濃で7年戦ったことで軍法を強くしていったというのだが、それ以外の敵は大したことがなかったので、世に喧伝されるような軍法を定めなかったと書いている。後世に伝わる〈軍法〉は、おおむね武田と上杉から出ているというわけだ*55。だからして、特筆すべき理論はなくても、信長が無策だったということはない。なお、参考までに家康はどうだったかというと、先にも書いたように、権現様はその時の状況次第で判断をして戦勝を得ていたと『駿河土産』にある。ところが、小牧・長久手の後、石川数正が出奔してしまい、徳川家の軍機が秀吉方に筒抜けになると家臣たちは大慌て、ところが権現様には困った様子がない。じつは、裏で甲州に手をまわして、信玄時代の軍書から武具まで、何でも取り寄せよと命じていたというのである。で、「ウチはこれから万事、武田流でいくで?」ということを徹底させ、そのことは上方でも評判になり、数正は古暦などと仇名されたという。

ところで、西股氏の所説によると、信長軍に革新的な戦争理論があったということは書かれていないが、さりとて、実戦で信長軍が弱かったとは言われていない。まず性急な多正面作戦を展開した信長家にあっては、慢性的な人材不足に陥っていた、と西股氏はいう。戦場の荒廃にともなって社会から落伍した人たちが大量に生み出されたから、非正規雇用足軽・雑兵はいくらでも雇い入れることができた。その面で、信長軍の多くがザコから構成されていたのは事実であろうけれど、その点は他国も同様であった。もっとも、非正規兵を戦場に大量投入するという着想は、太田道灌にはじまり、最初の戦国大名といわれた北条早雲の創案によるところが大きいといわれるから、信長こそが非正規兵の寄せ集めで戦場を民主化した革命児などというのは、西股氏には容認できない考え方なのである。とはいえ、戦争に明け暮れていた信長家にあって、足軽・雑兵が継続雇用された結果、その練度が上がったのではないかという推測は述べられており、信長の非正規兵運用に一顧を与えてはいる。

しかし、信長軍の強みはそこにあったのではない。西股氏は、むしろ蛮勇をふるって前線を突破するプロの武士連中(「強力な上層部分」)に注目する。ムチャクチャな多正面作戦の結果、信長家には腕に覚えのある勇猛な侍がひっきりなしに仕官にくるという事態が発生する。その中で強い淘汰圧が発生し、結果、信長や秀吉は、白兵戦を得意とする強力な侍どもを手に入れることができたというのである*56

こうしたことは、結果論的に生じてきたことであって、計画的なことではなかった。最終的には、このような戦いが可能であったのは、信長の判断力の良さと、強運のためであるというのが、西股氏の結論である。秀吉の小田原戦役における山中城攻略にしても、西股氏の考えでは、秀吉軍は火力で決着をつけることができず、精強な武士の突撃でこれを攻略したというのである*57。けっきょく、鉄炮矢いくさで相手の火力を制圧しつつ、敵前線に肉薄し、そこから白兵戦で敵陣を完全に制圧するという、戦闘群戦闘のようなことをやっていたということなのであろうか。私も戦争に出たことがないから、よくわからない。しかし、肉弾戦がある程度有効であることは、西南戦争で抜刀隊なんてものが必要とされたことからも理解できなくはない(日清戦争では、「抜刀隊など、今日日の日本陸軍はそんな幼稚なものではない!」と出動を却下されたけれど)。けっきょく、火力網が不十分であったということの帰結なのだろう。

もう一点。このような多正面作戦の実行に当たって、信長が思い切った人材登用を行なったのではないか、という考えについて、西股氏は一考を加えている。信長が、他の戦国大名とは異なり、きわめて合理的に実力主義を採用したなどと早合点するのは禁物だ。これは西股氏も書いていることだけれど、武田家でもあらかた事情は同じであったし*58、『軍鑑』の筆者に擬せられる高坂弾正も、やはり百姓から取り立てられた人であった(信玄の親父・信虎はそのことが気に入らなかったと『軍鑑』にあるが、見てきたようなことを書いた虚構のようである。なお、西股氏は、信虎時代からこのような実力主義による登用が行われていたと匂わせる書き方をしている)。とはいっても、秀吉のように胡散臭い階層から立身した人なんてのは、そうはいない、戦国時代はシビアな階級社会であったというのが西股氏の立論である*59。プロの殺し屋集団である武士と、非正規兵の足軽・雑兵という「軍隊の二重構造」はどこでも同じで、後者を「下級歩兵として大量動員し、組織戦に適応した兵種別編成方式の軍隊を成立させる、という軍事的な革新」*60が成し遂げられたのは事実ながら、これは実力主義とは程遠いもので、足軽から大出世した秀吉などというのは例外中の例外だったというのである。非正規雇用の人がわりを食うのは、今も昔も変わらない。そうしたわけで、西股氏が、「戦国時代のRMA*61と呼ぶ、劇的な軍事革命のもとにあっても、最終的な切り札となるのは、強力な殺しのプロ集団である武士層だったのである。

 

17. マッドすぎる戦国の御侍衆

しかし、先に挙げた『戦闘技術の歴史5』の著者は、一つの疑問を呈している。火器の有効性に気づいた日本の武士たちが、なぜ大砲の導入ということにさほど積極的ではなかったのか、という疑問である。朝鮮出兵の際、火力と戦技に勝る日本軍が次々に半島を制圧していく様子が語られるけれど、李舜臣あたりがあらわれると、彼の巧みな戦術で日本軍は窮地に追い込まれるようになる。このへんは韓国の研究を参考にしたらしく、李舜臣をベタ誉めしているが、逆に日本語版Wikipediaは冷ややかな見解を載せている(研究の中立性が問われるゆえんである)。同ページの脚注13によると、米ボールステイト大学のケネス・スオープ准教授(現・南ミシシッピ大学教授/中国軍事史)は、朝日新聞2006年6月28日夕刊文化面「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから 上」の中で、朝鮮戦役の本質は明と日本の戦いであって、当時の両国について「『明軍は弱い』というイメージは明を倒した清により作られたもので、当時は武器も優秀で精強だった。一方の秀吉軍は戦乱で鍛え上げられた世界最強の軍団。両者の激突は16世紀世界最大の戦争だった」と述べている。ずいぶんと高評価である。この戦争をどう評価するかについては、諸説あるようである。

それはともかくも、朝鮮でのサムライたちの無謀な突撃はナンなんだろうと、西洋人である『戦闘技術の歴史5』の著者たちは訝っているようだ。もしかすると、これは日本の戦場文化のようなもので、もし戦争が機能的になりすぎて、雑兵の組織的運用だけで済むようになってしまったら、サムライによる個人技の出る幕はない。奴らは基本、自分の手柄しか考えていないのである。もちろん、当時の史料から、持ち場でキチンと指揮をとることが武士の戦功であるとする考え方が定着しつつあったことも読みとれるけれど、『雑兵物語』を見るかぎり、重装歩兵として配備された武士たちが手柄を立てるのを雑兵が邪魔するような戦術はそもそも論外であったようにも見えるから、用兵面で不合理な点もあったのではないかと考えられる。足軽というのはまだしも戦闘員であるから、手柄を立てることもできたが、兵ではあっても非戦闘員である道具持ちの草履取りが、鑓戦闘に移行しようとする主人に鉄炮で加勢しようとして怒られる場面も描かれているから、気の毒なものである。この点、元寇の昔から、武士のメンタリティはあまり変化しておらず、もう少し反省してほしいものである。

手柄が明確にわかるような戦い方をするということが、日本の戦闘習慣であったけれど(個人戦闘でどうやって手柄を立てるかという方法論も、『甲陽軍鑑』で指南されている)、海外でこれをやったら、まさしく異様に映ったに違いない。『戦闘技術の歴史5』の著者たちも、そのマッドぶりにはビビっている。鉄炮と大砲で勝負がついてしまったら、サムライとしては面白くない。そのことが結局、日本における火器戦闘の発達を妨げてしまったのかもしれない。もっとも、硝石不足が大砲使用を躊躇させた一因であるという説もあるようで、判然としない。清正も鉄炮の達者な者を召し抱えよという命令を出しているから、そこは合理的な戦国武将のこと、単なるクレイジーではなかったということも付言しておく。ただし、誰でも使える長柄や鉄炮の出現で戦場が民主化されたとする『戦闘技術の歴史5』の見方は、いささか理念的にすぎるものであって、足軽雑兵の頸などいくつとっても手柄にはならないのが当時の慣習で(とはいうものの、頸帳には足軽の頸数も載せたようであるから判然としない)、さらに逃げる敵を追撃して頸をとってもダメ(追首)、死体から頸をとってもダメという(拾い首)、シビアな決まりがあった。もっとも、信長家にあっては、人から頸を横取りしたり、カネで頸を買ったりという「奪首」とか「買首」というようなインチキが横行していたと『軍鑑』は呆れている。ものの本には、味方から襲われて頸を奪われ、命まで落としたという話が載っているから、油断も隙もあったもんじゃない(同士討ちは最も不忠だと『軍鑑』は書いている)。もっとも、手柄にもならない頸をたくさん取って自慢の種にしていた者もあったようだ。いずれにしても、手柄を立てるのはいつも武士ばかり、足軽未満は戦場で略奪稼業に夢中になっていたようでもある。なお、討ち死にした味方の頸を、敵から守って持ち帰るのも手柄であったらしい。小牧・長久手で戦死した森長可などは、そうやって頸だけになって帰還した。長篠で鉄炮に当たった山県昌景の頸を持ち帰ったのは、信州から出た志村又左衛門とか文左衛門とかいう人であったが、後に徳川様に従って八王子の千人同心の千人頭の一家となったが、どうも先にコロナで亡くなった志村けんという人は、ここに連なる家系から出たようである。

 

18. 秀吉が小田原攻めで勝てたのはなぜか

さて、話は戻るが、西股氏は、信長・秀吉軍が精強であった理由を、精強な武士身分からなるプロの殺し屋集団を獲得できたことに求めるのであるけれど、その根拠は、秀吉の小田原攻めの経過にあった。これは要するに、当時は兵粮の確保という問題がネックとなり、大軍を動員したからといって戦いに勝てるわけではないから、秀吉が勝てたのには、何か別の理由があるはずだ、というわけである。われわれのイメージからすると、小田原攻めなんてのは、圧倒的な物量作戦を展開した秀吉からすれば楽勝のいくさであったということになっているが、西股氏によると、この時代の兵力大量動員は、逆に自滅を招きかねない暴挙でもあったというのである。確かに、武田・上杉も小田原城を囲みながらも攻めきれずに撤退している。というより、チョロッと攻めてやめちまったらしい。謙信のときは10か月に及ぶ大遠征のつけたしのようなもので、信玄のときは何をしに行ったのかもよくわからない。『軍鑑』の筆者という高坂弾正にしても、この出兵には懐疑的だったようだ。謙信のときは寄せ集めとはいえ、10万という大軍であったから、補給のことは問題に上がっていたし、そのときは北条氏としても、武田・今川を動かして謙信を牽制することに成功しているから、後年の小田原征伐とは事情が異なっていた。

さて、西股氏は、秀吉の小田原征伐について、フロイス『日本史』の「関白の軍勢は、遠征で疲弊し、食料不足に陥っている、数か月で小田原を落とせるはずはないので、退却せざるを得ないだろう」との見方を重視し、ついで『家忠日記』の、小田原の陣で雑兵の脱走が相次いでいるという記述にも注目されている*62。家忠というのは家康の下にいた松平家忠という人物で、小田原の陣では秀吉方の包囲網に加わっていた。少なくとも、小田原攻めくらいの規模で戦いをしようとすると、このような事態は避けられないと、西股氏は考えたようだ。逆に、天正壬午の乱や、小牧・長久手の戦いにこのような記述は見られないので、小田原攻めにおける雑兵逃亡の原因は、兵粮の欠乏に求められるというのである。なお、当然のことながら、小牧・長久手のとき、家忠は家康の陣中にいたので、雑兵が脱走しなかったというのは、家康軍の事情をいいあらわしている。念のため、補足しておく。

ところで、正直、『家忠日記』が記す雑兵脱走の真相はよくわからない。西股氏も多くを負っている『雑兵たちの戦場』の著者・藤木久志氏は、『家忠日記』の「中間かけ落ち候」(中間が脱走した)という記述は、戦争終結を見越した奉公人どもが、次の稼ぎ場である奥羽仕置の戦場をめざしたものではないかと見ている。じつは、雑兵の脱走の理由は書かれていないのである*63。西股氏説も藤木氏説も、今のところ推測の域を出ないものではあるけれど、この記述は意味深なものである。

もっとも、今ではもう少し研究が進んでいて、先に引いた平井氏の『兵農分離はあったのか』は、いわゆる身分統制令と人掃令の検討を通じて、かなり説得力のあるマトメをされている。まず、中間のような武家奉公人の脱走は、中世末期から相次いでおり、要するにブラック企業である戦国大名の下でこき使われるのが嫌になって、ときたま逃げだしていたというのである。で、逃げた奉公人を勝手に雇うなだの、元の主人に返せだのというようなことが取り決められていたのであるが、小田原出兵から朝鮮出兵と遠征がつづき、大名たちは、使えそうな奉公人の確保ということに躍起になっていたというのである。一方で、農村の百姓が奉公人になってしまうと、今度は百姓として年貢を払い、戦争では陣夫として輜重兵をつとめる人もいなくなってしまうので、百姓が村を出て奉公人になることもマズイということになった。で、加藤清正などは「マトモな奉公人を集めて出陣してね」と家臣に命令したものだったが、その際、質の高い人材の確保を強調している。人数だけは集まってきたもののようで、集まっては逃げる、ということのくりかえしだったらしい。そんなことであったから、俗にいう秀吉の身分法令と人掃令は、朝鮮出兵のために奉公人(雑兵)と陣夫(百姓)をそれぞれに確保しようとして出された命令だったというのである(同書、第3章を参照されたい)。

なるほど、そうなると雑兵がアテにならないのは確かだが、チャンとした雑兵がいなければ、武士たちは道具も自分で持たなければならず、そもそも働くことができない。清正も、待遇を改善して過分に給金を取らせたようだが、それでいて後から逃亡されたらアカンから、チャンと役に立つ奴を頼むで、無駄な奴はいらん、とまで命じている。もっとも、どのみち低待遇だったには違いないだろうから、雑兵がマズイ飯を食わされて嫌になって逃げた、という西股氏の説明を否定するものではない。しかし、雑兵なしで戦えるものでもないから、戦闘不能に陥らない程度に雑兵を確保しておくことは、大名自身の課題であった。

要するに、西股氏としては、動員兵力の多寡は信長・秀吉軍の強さの決定的要因ではないということを説明するために、当時の兵站能力がいまだ未熟で、ウッカリ大軍など動員したらとんでもないことになるということを論証しようというものであるけれど、おそらく大名たちは、戦国期からすでに雑兵が逃亡するということを理解していて、対策を講じていたものと思われる。九州征伐、小田原の役と秀吉軍は大勝したが、兵粮不足の深刻さについては、その程度を示す直接の証拠がない。そこで、食いモンすらまともに運べない状況で、こうした遠征を企てようとするほど、戦国の軍隊は無謀であったのか、妥当に推論しなくてはならないということになる。

もちろん、雑兵の食いモンはままならなかったらしい。『雑兵物語』にも、戦場はさながら飢饉のようだと書かれているから、当時としては、そのようなことは折り込み済みの前提として考えなくてはならない。もう、食いモンが足りなかったら勝手に調達しろという世界である。三成あたりが算盤はじいて兵粮の輸送計画を立案したところで、どうにかなるものでもないと西股氏は言っているが、おそらく、それはその通りだろう。雑兵の食い物まで満足に調達することはできなかったに違いない。

この当時、マトモな兵粮は、自領から輸送するか、商人を通じて調達していたもののようで、朝鮮戦役の際、島津軍の船団を整えたのも伊丹屋なんどと申す大商人で、どうも朝鮮の奥地まで勝手に侵入して略奪を働いた島津の動きとも結託していたもののようである。藤木氏は、これを海賊の棟梁と見ているが、当時の豪商なんてのは、こんなものであったらしい。そんなわけで、朝鮮の戦場には多くの町衆が出入りしており、盛んに商売を仕掛けていたわけである。厳冬の蔚山で孤立した加藤清正の陣中では、ナント、日本商人が法外な値で米を売り歩いていたのである。ふざけろよということでキレた武士どもに脅されて、ビビって刀・脇差と引き換えに米を売ったとのことである*64。ン、兵粮不足とか言いながら、チャンと米はあるじゃねーか、とチョットした疑問を抱かないでもない。その米の出所については、伊丹屋のように朝鮮で苅田狼藉をしてパクってきたものであったかも知れないから、三成あたりが手配したものかどうかは不明である。三成は、島津に対して略奪を禁ずる軍令を発しているから、もともと明への侵攻拠点である朝鮮を荒廃させる意図はなかったというようなことが言われている。いずれにしても、御用商人が半島の奥地まで進出していたことがわかる。もはや商人とは名ばかりの実力集団である。

例によって日本語版Wikipediaによると、朝鮮出兵における日本軍の兵站確保は、全軍引き上げに至るまで完全に遂行されたと書かれているけれど、鵜呑みにするのは躊躇われる。なにぶん現代の軍隊ではないので、「現場での飯は自分で何とかしろ」で済まされてしまった部分もあるわけで、日本軍が無事に渡海して撤退を終えたことは事実ながら、兵粮輸送が万全であったと解釈できるかどうか、心もとないものである。

となると、当時、兵粮について、どの程度のことができれば、戦争遂行可能と判断するに充分であったということになるのであろうか。まともな戦闘ができる士分の兵粮さえ確保できれば、あとは、カッパライで済ませるという認識でよいのであろうか。なるべく十分な兵粮を調達しておくことは、マトモな武将なら考えたに違いないであろうけれど、敵に補給線を遮断されたらそれまでである。そうならないように秀吉は作戦を考えた。しかし、それが結果通りになるかどうかということである。小田原攻めでは、秀吉の外線作戦は破綻しなかった。これは偶然のことだったのであろうか? もちろん、当時のことだから、予測不可能なことはしばしば起こった。当時の武士は運というものを軽視してはいなかった。いろいろと考えても、思わぬことがよく起きたわけである。であるから、秀吉の作戦も、もとより完全情報下に近い状態で策定されたわけではない。しょせんは経験的な蓄積がものをいったのであろう。九州征伐の成功は、大きな参考になったことであろう。ただ、秀吉がいくら綿密に計画を立てたからといって、それで兵粮不足が解消される保証がないことも確かである。問題はその程度である。秀吉には自信があったとは思われるけれど、この際、彼の意志と結果にはあまり関係がない。秀吉が物量作戦を企図していたからといって、結果としてそれが秀吉軍の勝利につながったかといえば、これだけでは論証不可能である。しかし、奥羽の情勢をにらみながら、関東一円に外線作戦を展開するうえで、兵数の大なることは不可欠であったから、その意味では、大兵力を投入したことには作戦上の意味があった。

なお、これも一つの英雄譚のものであるから、そのままには信用ならないけれど、たとえば『甲陽軍鑑』品第36には、永禄12年(1569)に小田原から撤退した信玄が、懲りずに駿河・相模・伊豆の国境へ侵攻を企てた際、山中に布陣する際に水の確保をいかにするかということで、侍大将を集めて協議した記事が載せられている。信玄公は憐み深かったのかナンなのか、水に不自由な場所に陣取ったら、人夫や地元の人が困るだろうからと、山本・荻原2名を遣わして国境の水の様子を見分させたとのことである。もともと信玄というのは、他国の地理人情を用心深く調べるのを常として、戦場の地形や退路についても熟知していたという記述があって、戦場にあっては敵兵1騎、2騎の動きまで観察していたという念の入れようである。『軍鑑』は軍学書の触れ込みで広まった本であるから、教訓めいた作り話ということもできるけれど、それにしても、水や兵粮の確保ということは軽視されていない。もちろん、国を富ませるために他国でカッパライを働くのは常套手段であり、甲斐の人たちはそれで富裕になったとさえ言われているから、これは当時として必須のことであった。もちろん、武士が戦闘そっちのけでそれをやってしまうと白い目で見られたから(もっとも、鎌倉の昔は「山賊・海賊は侍のならい」などと言われたものだったけれど)、カッパライは足軽・雑兵の仕事であったろうし、こうした人たちは、もともと専門の盗賊出身だったという話もある(『陰徳太平記』)。とはいえ、敵地のこととて、カッパライもアテにならないものである。略奪はアテこむにしても、初動の兵粮を用意しておくのはマトモな大名なら当たり前のことであろう。それが現代的な意味で十分に足りていたかは別問題である。

秀吉自身は、小田原攻めにそれなりの自信があったのであろう。秀吉の本隊が上陸してからから2ヶ月、先遣隊が戦端を開いてから9ヶ月に及んだ九州征伐が成功しているところをみると、小田原のそれも、それなりに勝算あっての大動員であったようにも思われるのである。なお、秀吉は朝鮮でのカッパライを禁じる旨の命令を出している。朝鮮で人を捕まえたら、元の土地に戻せというわけである。国内でも同様で、豊臣領でのカッパライは基本的にはアウトであった。小田原攻めの際に出された真田昌幸宛の書状にもチャンと書いてある。小田原攻めでは、最後まで敵地だった小田原町中だけが公認のカッパライ場所となってしまったが*65、小田原の外では、人身売買は禁止され、還住令が出されている。なお、朝鮮におけるカッパライ禁止令だが、けっきょくは守られず、秀吉も職工などを捕まえたら献上するように命じている。

もろもろ考え合わせると、稼ぎ場を求めて集まった雑兵あたりがひもじいのは、程度の差こそあれ戦場の常で、規模の大きな戦いになればその度合も目立ったものになるであろうけれど、それで戦闘が継続できなくなるというようなことを秀吉は想定していなかったのではないか、というような気がしてくる。全体で7ヶ月、小田原城を囲むこと3ヶ月程度になったであろう小田原戦役のように滞陣が長引くと、あるいは、雑兵としてもはかばかしくないことにはなったであろう。朝鮮の戦いでは、奉公人の集団脱走ということもあったらしい。どうせ雑兵、死ぬまで戦う義理もないので、勝ち目がでてきたところで、戦場にいさえすればそれでよいわけである。雑兵がそういう存在であることは、西股氏も指摘されているとおりである。もっとも、雑兵というのは、農村で耕してもまともには食えないから戦争に参加して何とか食いつなごうという人たちの集まりであって、さもなくば盗賊悪党、手柄を立てる機会もないので、お目当ては飯の配給と戦後の略奪である。マトモな扱いではないことは、誰もが先刻承知である。似たようなものでも足軽正規雇用だから、組織戦の主力だったという人もいるから、何とも言えないが、それを度外視すれば、戦いで頼りになるのは武士階級に属する重装歩兵だという西股氏の説もわからないではない。もし、信長や秀吉の軍が強かったとすれば、マトモな武士がヤバイほど強かったからだ、ということになるが、マトモな武士がヤバイほど強かったのか、単にマトモな武士の数量が多かったからだけなのか、そのあたりは判然としない。もちろん、マトモな武士が多いということは、その分の兵粮もかさむということであるし、奉公人も必要ということになる。小田原の役を見ても、北条の精鋭はあらかた小田原城に集められていて、最後まで干戈を交えることはなかったから、秀吉軍と北条軍の武士同士の精強さの度合いを比較することはできそうにない。真田文書にある昌幸宛の秀吉書状からもわかるように、秀吉の方針は「関東八州の物主共残らず相籠め候間、城内の奴原悉く干殺しに仰せ付けられ、出羽・奥州、日の本の果てまでも相改められ、御仕置等堅く仰せ付けらるべく候」というものであった。要するに兵糧攻めである。しかし、包囲軍の兵粮が先に尽きたとしたら、もうシャレにならない。

西股氏が引き合いに出す山中城の戦いにしても、単に山中城の防備が間に合わず、守兵の数が少なかったことが、山中城がわずか半日で落城した決定因であるという見方も存するわけで、秀吉軍の七万に対して、城方は三、四千の兵力で応戦を余儀なくされたから、勝ち目は薄かった。もっとも、当初10倍の兵力差で4ヶ月もちこたえたという韮山城の例もあるから、このことは、小田原戦役全体の作戦上の出来事として位置づけられるべきであろう。なお、山中城における北条方の抗戦は苛烈だったらしく、関白方では、猛将の一柳直末まで鉄炮に当たって戦死している。なお、一応は信玄が勝ったらしい三増合戦でも、赤備えで知られた浅利信種が北条方の狙撃で戦死しているから、こういうことはしばしばあったらしい。どこでも手柄争いが苛烈だったのは事実らしい。小牧・長久手では、森長可鉄炮に撃たれて戦死しており、確かに命知らずな猛将というのはいた。余談ながら、このときに森勢と激突したのは、武田遺臣をつけられて信玄流の戦術を受けついだ、赤備えの井伊直政であったという話で、この活躍は都でも評判に上ったらしい。

さて、小田原陥落後、宣言通り秀吉は、北関東から奥州まで兵を進めているから、まだ余力を残していたもののようである。もろもろ憶測の域を出ないことではあるけれど、いずれにしても、小田原の役をどう評価すべきか、私にはまだ釈然としないものがある。けっきょく、秀吉が総合力で北条氏を上回っていたという、それだけのことに尽きるような気もしてくるが、どうであろうか。西股氏は、ナポレオンもモルトケも、ヒトラーですらなしえなかった輸送体制の確立ということを秀吉に成し遂げられたのかと疑義を呈しているが、まあ、その意味では、なしえなかったんだろうね、これは。なしえなくても何とかなっちゃうような、無責任な時代だったんじゃないのかねえ。小田原に内線作戦の名手だったナポレオンでもいれば、広範に展開する敵を迅速に各個撃破ということにもなったのかも知れないが、これというのは、補給線が短くて済むからこそ可能なものでもあるわけで、十分な拠点をもたずにロシアまで長駆したらコリャもう、物資は現地調達しかない。これも西股氏が指摘する通りである。フランス軍は後方の防備にも兵力を割かなければならなかったから、ナポレオン得意の兵力一点集中も不発に終わってしまったが、いやいや、そもそもナポレオンの機動戦というのは、現地でカッパライをやることで可能だったという考え方もあるわけで、ロシアの焦土作戦さえなければ、あるいは補給の目的は達せられていたのである。コリャ、ほとんど戦国大名の手口である。上杉謙信の関東遠征なんてのは略奪行だったと藤木氏は書いている。つづくライプツィヒの戦いでは、敵方は外線作戦を展開し、結局は兵力差でフランスが敗北した。それがコトの顛末である。

しかし、こういう前時代的な考え方が良いというのではない。2003年の「イラクの自由作戦」(OIF-1)で、米陸軍第三歩兵師団は、3日で560キロという陸上部隊の進撃速度の最速記録を叩き出した。江畑謙介氏の『軍事とロジスティクス』(日経BP社、2008年)によると、このスピードにイラク軍は驚いたが、当の米軍もびっくらこいたということである。戦闘部隊の進撃に補給が追い付かなかったのである。もっともこれは、戦闘部隊と補給部隊の通信網にトラブルが発生したため、前線が必要とする物量の把握が遅れたためであるとのことであって、作戦の本質的な失敗というわけではなかった。むしろ、このような高速進撃が可能となったのは、必要な物資を必要な量だけ必要なときに補給する「ジャスト・イン・タイム」(just-in-time)型補給のシステムを米軍が構築していたためである。そうでなければ、半年以上かけて「鉄の山」などと呼ぶ物資集積場所を作って、進撃とともに移動、それを待って、また進撃を再開という方式で進まなくてはならなかった。これが湾岸戦争までのまっとうな戦争のやり方だったのだ*66

もう一点、江畑氏は日本の事例についても述べている。日露戦争の頃までは補給の重要性ということを認識していた日本軍も、太平洋戦争ではこれを軽視、インパール作戦においては、「食糧は敵が置いていったものを奪え」ということで、これを「マッカーサー給食」と呼んでいたという。もちろん、そんな物資は当に焼却されてしまっていた*67。ナポレオンのロシア遠征と同じ結末である。希望的観測にすがってイチかバチかということになったのだけれど、もともと無理なものは無理、インパール作戦は無残な結果に終わった。そういう意味では、略奪だけをアテこんでいたら、秀吉軍も壊滅ということになった可能性はあったと思われる。

そのように見ると、秀吉の小田原攻めは、どうであったか。こんにちに比べれば補給の脆弱さは疑いようもないけれど、この戦いは、味方である徳川・上杉領から、いわば隣国である北条領に攻め入るようなものであったし、背後を脅かす敵もおらず、海上も封鎖して敵水軍を無力化していたから、補給を絶たれる恐れはなかった。東海道方面の拠点となった長久保城は家康領で、北条方の前線拠点である山中城とは、目と鼻の先であって、秀吉自身もここに立ち寄っている。もちろん、西股氏もその可能性を考慮して、駿河あたりに大量の兵粮を集積して、それを大名軍に分配したのであろうと見ている。そうしたことは秀吉の得意とするところで、小牧・長久手の後にも家康討伐を企てて、大垣あたりに物資を集積していたようである(天正地震が起きて水泡に帰してしまったが)。しかし西股氏によると、けっきょくは兵粮を運ぶ輜重兵も飯を食うわけで、またしても兵粮量を必要とするから、よほど綿密なシミュレーションが必要だというのである*68。なるほど、それはその通りであろう。しかし、すでに述べたとおりの理由で、戦国時代の武将なんてのは、そのつもりで戦いをしているから、輜重部隊で使役されていた陣夫なんてのは、『雑兵物語』の雑兵と同じで、「配給が足りなくなったら、自分で何とかしてね」で済まされてしまった、と考えることもできる。困った話だが、その程度の動員計画なのである。そのことは、西股氏も認めていて、第二次大戦のバルバロッサ作戦に至るまで、世の軍隊というものは、けっきょくは略奪まがいの現地調達方式で物資をまかなっていたというのである*69。つまり、それでも戦争遂行は可能であった、というのがこの命題の結論であるように思われる。しかしながら、アテが外れたら大変なことになるのも事実であって、雑兵の飯をどの程度、現地略奪でアテこんでおくのか、その計算をどうするのか、依然として謎と言えば謎である。それは西股氏の論法からして、秀吉だけでなく、近代の軍隊も同様である。まして秀吉は、占領地で勝手に略奪しちゃイカンと言っている。だとすると、秀吉は相当量の兵粮を見事に事前調達したということになるのであろうか。あるいは、現地で勝手な略奪はさせなかったが、軍令による徴発はしたということなのであろうか。曹操あたりなら屯田でもしたかも知れないが、それよりは、すでに占領を終えた関東各地の領国化に着手した方が早いだろう。いずれにしても、ここは証拠に基づいて実証的に考えるほかはない。

しかし、いずれにしても物事には限度があるから、事前の兵粮準備にせよ、現地調達方式にせよ、それが破綻してしまえばそれまでである。それが破綻するかしないかを正しく判断できれば、一定期間内に一定の軍事行動を行なうことは、可能であるということになるのであろう。西股氏による『家忠日記』の読みが正しければ、小牧・長久手の戦いでは、逆に兵粮が足りていたからこそ雑兵の逃亡ということがなかったのであり(もっとも『家忠日記』に拠るので、これは家康方の話であって、秀吉軍のことはわからない)、その意味では、(少なくとも家康方の)動員計画は成功していたということになる。であるならば、雑兵が慢性的に陣中で飢餓していたという『雑兵物語』の逸話を引用したのはナンだったのかという話にもなり、まったくおさまりがつかない。メシは足りてるのか足りてないのか、どっちなのよ? どっちにしても、雑兵がたらふく食えなかったのは想像がつくから、芋でも何でも掘って何とかせえよ、というサバイバル教育は必要であった。俵を刻んで馬の飼料にしろとか、ずいぶんな念の入れようである。『雑兵物語』も戦国時代が終わってずいぶんたってから世に出た本で、これまた作者として『甲陽軍鑑』の編者と目される小幡景憲の名が挙げられることもあるから、小幡サマサマである。もとより「雑兵生活やってみた」的なあからさまなフィクションではあるけれど、足軽以下の武家奉公人の心得としてまとめられたものであるらしい。戦場はさながら飢饉だから、こういうことに気を付けろよ、という訓話なのである。足軽が戦場で迷惑かけないように、いろんな注意が述べられている。これは一つの仕事術なのである。

いずれにしても西股氏としては、武田・上杉も落とせなかった小田原城を、どうして秀吉が落とせたのかということについて、「兵力や物資のうえで秀吉が有利だったから」「包囲戦略が成功したから」という結論には、どうしても納得がいかなかったようである。そこで、「万全の補給ができなくても秀吉が天下統一できたのはなぜ?」という疑問から、秀吉軍には、およそ地方の田舎大名の旗下にはいないようなイッちゃった殺し屋集団がたくさんいたという結論に至るのであるけれど、関ヶ原大坂の陣と、その後も大動員は続くわけで、このことをどう考えるべきか、これらの戦いはすべて無謀な補給体制のもと、飢えた雑兵はバタバタと逃散、殺し屋集団の蛮勇だけで片がついたと見てよいものか、私にはチョット躊躇われるものがある。もっとも、大坂冬の陣は家康の出陣から2ヶ月ちょっと戦って、講和となったもので、小田原城とは異なり、城は落ちなかった。家康が大坂に着陣してからは1ヶ月の包囲戦である。豊臣方は、敵方の大坂での現地調達を妨げるために、兵粮を買い占めたらしく、一時的な効果を上げたようである。改めて大坂城の堀を埋め、野戦にもちこんだ夏の陣は、3日で片がついてしまった。家康が駿府を出てから、およそ1ヶ月である。『駿河土産』によると、大坂夏の陣のとき、権現様は「秀頼討伐なんて腰兵粮で十分」と余裕だったという。もっとも、家臣たちは内心では「冬の陣のときは、100日もかかったのになあ」と訝っていたようだ。現代的な意味での補給体制は整わなかったが、大動員は何度でもできた。このこと自体をどう解釈すればいいのか、私には答えようがない。なお、関ヶ原のときは、会津征伐のために家康が出陣してから、西軍に勝利するまで3ヶ月かかっている。その後にも島原の乱というのがあった。これは攻囲戦になり、原城兵糧攻めにしたわけである。兵糧攻めということになると、コリャもう、作戦の本体がそれであるわけで、武士の蛮勇は最後の突撃だけである。蛮勇なくして戦闘のしようもないとは思われるけれど、小田原攻めも原城攻略も、包囲戦に入ってからの本質は兵糧攻めなのである。これは背後から補給の見込みが立つ分には、可能な戦略なのである。

一方で、カエサルのアレシア包囲戦のように、包囲陣地の中の兵粮は30日分、さらに外から敵の解囲軍が駆け付けるという状況になると、むずかしい判断を迫られることになる。このときはカエサルが勝って、ウェルキンゲトリクスを降した。余談ながら、知人の画家がフランスでジェゼケル氏という人と結婚されてパリで暮らしているが、このジェゼケル氏、もとをただせばケルトの王に由来する名字なのだという。当然、ウェルキンゲトリクスの話になったが、どうもこのジェゼケルさん、語源の方は定かではないらしい。なお、フランスの話ついでに、かつて西ローマ時代に当時ナルボと呼ばれた今のナルボンヌが西ゴートに包囲されたとき、ローマのリトリウス軍は、各人2ブッシェルの小麦を馬に積んで進撃したという話がある。これによって市民は飢えから解放され、やがて北方から「最後のローマ人」といわれたフラウィウス・アエティウス(カタラウヌムでアッティラをやぶったローマの将軍)が駆けつけて攻囲軍をやぶり、今度は西ゴートがトロサに籠城する羽目に陥った。西ゴートの兵粮は尽き、あわや全滅寸前というところであったけれど、リトリウスは軽率にも陣頭に立って戦って捕虜となり、結句、ローマ軍とフン族の傭兵部隊は壊滅ということになったのである。このときにやぶれていたら、後年の西ゴート王国はなかったわけである。

話を『戦国の軍隊』に戻そう。西股氏は、北条氏康が第二次国府台合戦で補給を度外視して戦勝を得たのは、機動作戦をとったためであると説明されている。3日程度の短期戦の場合、腰兵粮で何とかなったのである。長篠合戦にしても、西股氏は、兵力差は倍ながら、信長が勝利した理由を作戦の優秀さに求めている。ここでは補給ではなく、作戦が重要視されているのである。けれど、つまるところそれは、大がかりな補給を必要としない作戦だったということになる。一方、小田原攻めの場合、北条の主力が本城に集まってしまい、周辺地域は次々と秀吉の連合軍に制圧されてしまったので、個々の作戦の効用もしかとは確かめられない。房総あたりを攻めたときには、あまりに歯ごたえがないので、秀吉も「こんなのは戦功と認めない」と言っている。局地戦の戦術についていささか論評することはできるけれど、問題は戦略のレベルに格上げされざるを得ない。そこで、長期戦に伴う補給問題というのが深刻になるのはもっともなことではある。補給の限界が作戦の限界でもあって、どんなに素晴らしい作戦を思いついても、補給が追いつかなければ実現することはできない。ゆえに、成功した作戦というのは、あくまでも補給能力の限度内で実行された作戦であるということになる。それは短期戦でも長期戦でも同様であろう。西股氏は、『家忠日記』を引いて、小牧・長久手の戦いでの家康軍と、小田原戦役における秀吉軍の兵粮事情を比較することで、秀吉軍の勝因をプロの武集団の精強さにあると考えた。だとすると、小牧・長久手で数に勝る秀吉軍が、少数の家康軍を撃破できなかったのはなぜかというような問題も問われなくてはならない。なるほど、物量作戦だけで勝敗が決するというのは早計のようだけれど、そんなものに頼らずとも、秀吉軍には最強のイッちゃったマッド軍団がいたはずである。雑兵が逃亡しようが何しようが、小田原戦のように勝てるはずではなかったのか? おかしな話である。

一方、家康軍はどのようにして秀吉軍の攻撃をしのいだのであろうか。その点、小牧・長久手の戦いが局所戦に終わり、あちこちで反秀吉包囲網が攻勢に出ていたから、最終的な決戦に至らなかったということも考慮しなくてはならないのであろう。秀吉得意の物量作戦は不発に終わったのである。局所戦については家康の戦術が秀でていたのであろうし、戦略面では反秀吉包囲網が機能したことを評価しなくてはならない。秀吉は四国や紀州からも本拠地を脅かされ、前線を離れなくてはならなかったのである。信玄や本願寺顕如による信長包囲網のようなものである。つまりは作戦勝ちである。小田原北条氏は、そのような有効な戦略をとることができなかった。このことは問題とされなくてはならない。

けっきょく、秀吉は、小牧・長久手の戦いでは家康を屈服させることができず、対して小田原の役では北条氏を降すことができた。いずれも秀吉は物量作戦を展開したが、結果は真逆に終わった。なるほど、兵の多寡だけが勝敗をわけるものではないであろうけれど、もし作戦を度外視すれば、この結果、西股氏の論理でいくと、最強なのは信長・秀吉軍ではなくて、家康軍だということになるのではなかろうか。これでは『甲陽軍鑑』とほとんど同じ結論である。そうでないとしたら、たんなる武士の蛮勇が、こうした大名間戦争の勝敗をわける決定因だという考えを改めるほかはない。蛮勇以上に戦略の有効性をどう評価するのかという視点が、最後の最後で脱落しているのは、西股氏にしては不思議なことである。しかし、それには理由がある。補給のままならない軍隊に戦略があっても、それは絵に描いた餅である。つまり、ここでは作戦と補給は一体のものとして捉えられているのである。西股氏は、「(秀吉は)決して万全の補給体制など構築できなかったにもかかわらず、天下を統一できたのである」として「では、秀吉が全国統一をはたしえた理由、つまり秀吉軍の強さの秘密は何だったのだろうか」*70という問いを立て、腕っぷしの強い猛将や、その旗下にいた個人技に長けた蛮勇の重装歩兵の突破力に解決を見いだした。西股氏はそのような武将の例として、小牧・長久手で戦死した池田恒興を挙げておられるが、残念ながら、かの愛すべき乱暴者・森長可は漏れている。これも口達者な信長家の空言といわれればそれまでだが、槍を振るって一向一揆を27人殺しただの(もっとも、『甲陽軍鑑』には長刀一つで数百人を押しとどめて70人くらい斬ったつわものも登場するから、いい勝負である)、高遠城で敵兵の返り血に染まって戦い続けただの、川中島に入部してから芋川一揆を女こどもまで大虐殺しただの、ムチャクチャなことをやらかしている。さすがにこれは怖い。行動が機敏で妙に適確なのは、さすが信長の家来である。この行動力は只者ではない。どちらかというと理論派で自分のやり方を通したがる長野県人からすると、もっとも苦手なタイプである。そうしたわけで、北信州の人は森にはなつかなかったらしく、農民から一向一揆まで反旗をひるがえす羽目に陥ったようである。事前の準備がいささかお粗末だったらしく、数日で壊滅させられた。このようなわけで、武将の個人的な蛮勇がとてつもない威力を発揮したのも、一定の事実であろうということは思うけれど、それが家康軍に通用しなかったのはどうしてなのかという疑問も、当然に出てくるわけである。『家忠日記』の記事からすると、家康軍の補給が足りていたことが勝因なのだろうか? だとしたら逆に、小田原で秀吉が勝てたということは、秀吉軍の兵粮は足りていたのではないかということになるような気もしてくるのだが、いかかであろうか? むろん、これは論理的に後件肯定の誤謬ではあるけれど。

しかしこの点、軍法を強調する『軍鑑』も似たかよったかで、小牧では、徳川勢は10分の1の軍勢で秀吉軍をやぶって勝利したと書いている。家康がそれでも勝てると踏んだのは、前年に家康衆の酒井左衛門〔忠次〕が尾州羽黒山で森に勝っていたからだと述べている(品第59)。森のヤンチャ伝説も形なしである。それにしても、ずいぶんザックリな書き方である。なお、この森、秀吉にあてた遺言もムチャクチャで、「こいつ、アタマおかしんぢゃね?」と思われたのか、秀吉も読まなかったことにしてしまった。かなりウケることが書いてあるので、興味のある人は調べてみるがよろしかろう。

 

19. けっきょく、小田原を力攻めにはしなかった

しかしながら、小牧・長久手の戦いは度外視するとして、小田原の役にかんしては、次のように考えることもできる。かつて、すぐれた軍法を有していたにもかかわらず、武田・上杉の両雄は、補給の限界から作戦の遂行ということがままならず、小田原からの撤退を余儀なくされた。同じことが秀吉軍について言えるにもかかわらず、秀吉は小田原を開城させることに成功している。だとすれば、この膠着状態を打破することができたのは、秀吉軍に、作戦の優秀性や補給力以外に何らかの切り札があったからに違いない、と。作戦の限界が補給の限界であるとするならば、秀吉は小田原を包囲したとしても、最終的には補給が尽きて撤退せざるを得ない。これでは、武田・上杉の二の舞である。地方大名の補給力にはおのずから限界もあって、なかなか互いを殲滅するのはむずかしかった。問題は、秀吉の補給力をどう評価するかということにかかっているが、西股氏はこれをまったく評価しないので、秀吉の勝因を〈補給=作戦〉路線には見いださなかった。

そこで西股氏は、山中城攻略の際に威力を発揮した士分からなる重装歩兵の蛮勇に着目したのであるが、この山中城にしても、たかだか数千の敵を相手に、主将の秀次は力攻めを仕掛けて多大な損害を出している。それでも城は落とせたのである。おまけに戦いは半日の短期戦で、少ない敵に対して無理な攻撃を仕掛けて秀吉の宿将まで死なせてしまった。事実だけ見れば、ナンダコリャ、って話である。西股氏からすると、北条氏側の少数ながら効果的な火力運用が奏功したものらしい。さらに秀吉軍は、圧倒的な兵力と火力をもってしても小田原城の惣構を突破できず、不本意な持久戦に持ち込まれて兵粮不足に陥った、とする*71

しかし、山中城攻略の決め手が、秀吉側が育成した精強な人殺し軍団の突破力であったという説明はそれなりに事実であろうけれども、七万人がよってたかって三千かそこらの北条勢を倒したというだけの話で、それにしても小田原本城は抜けなかったのであるから、説得力は薄い。わざわざ大軍を動員した秀吉が、そんなマッドな個人技集団に頼っていたのか、どうもよくわからない。

なお、この山中城の戦いの直前、城将の松田康長は箱根神社宛に「秀吉軍は兵粮が不足していて、山でトコロを掘って食べている。米一升でビタ銭100文の高値で売られていたが、それすらもう買えない。今は汁椀一杯10銭の雑炊売りだけ。これでは長陣は無理だろう」というようなことを書き送っている。北条氏政もこの情報を信じて、味方の将に伝えているけれど、西股氏は、このネタは真実であったと見ている。

 

(…)これを秀吉が相手を油断させるために謀略情報を流していただとか、欺騙工作を行っていただとか評している方もあるようだが、はたしてそのように考えてよいものだろうか。*72

 

この情報は、松田が敵方の雑兵から得たことになっているが、一方の藤木氏は、

 

結果から見れば、この雑兵は徳川方が放った忍びらしく、北条方の油断を誘う作り話にすぎなかった。しかし、こんな偽の飢餓情報は早くから流され、山中城兵はこれをほとんど信じかけていた。陣中の飢餓も兵粮売りも雑炊売りも、戦場の常で、虚構とは思えなかったのであろう。*73

 

と、述べており、雑兵の兵粮不足はよくある話という点では一致しているけれど、秀吉軍の小田原陣中での様子を正確に伝えたものかどうかについては、意見の相違があるようである。いずれにしても、秀吉が、長期滞陣における兵粮不足という常識を覆して16世紀の世界に例のない完璧な補給を実現するという偉業を達成し得たのか否か、その前に行なわれた九州征伐と合わせて検討してみる価値はあるであろう。もっとも、そのような完璧な補給体制などなかったという点で、私は一概に西股氏の所説に異を唱えるものではない。けれど、小田原攻めから大坂の陣まで、当時の日本には、大混乱を引き起こさずに大動員を可能とする程度の補給体制があったと考えた方がスッキリするような気がしている。もちろん、民衆はいろいろと迷惑を蒙ったことであろうし、その意味で補給が滞らなかったということが立派なことであったと言うつもりはないし、具体的にどんな補給手段が講じられていたのか、その点が明らかになったわけでもない。そのように考えると、コロナ対策が不徹底なものであったにもかかわらず、なぜか致死率が低く抑えられているわが国の不可解な状況と同じで、いまだ真相が解き明かされたとは言いがたいものがある。その意味では、西股氏の問題提起は重要なものであったと思うのである。

 

20. 本能寺の変はなぜ起きたか

さて、最後に西股氏は、異常な淘汰圧の働いた織田家中にあっては、機を見るに敏な野心家が立身出世を遂げ、しまいには明智なんどというファッキン・スマート(クソ優秀)な武将が現れ、勝機ありと見るや、それだけの理由で信長を殺っちまったと書いている。要するに、怨恨とか理想とか、そんな動機なんかいらないのである。天下が取れると思ったから、謀叛しちまったというわけだ*74織田家中にはそういう軍事的才能と謀才をそなえた、上昇志向のカタマリのような危険な連中がゴロゴロしていたというのである。「信長のような経営をすると、部下にタマとられるからやめたほうがええで?」と、西股氏も注意喚起しているくらいである。しかし、光秀が危険人物だったことについては、フロイスの証言が引かれているけれど、四国問題における信長の場当たり的なやり口が、この時期の光秀の地位を危ういものにしていたことも一つの事実であるし、信長が光秀に暴力を振るったということを書いているのも当のフロイスである。怨恨がなかったとも言い切れない。いずれにしても憶測の域をでないことではあるけれど、ついでながら記しておくと、ナント、『甲陽軍鑑』には、武田氏滅亡の直前、甲州征伐が始まった天正10年の2月に、光秀から勝頼に謀叛の誘いがあったが、勝頼は呼応しなかったというようなことが書かれている*75。さすがに誰も取り上げないような奇説であるけれど、書いてあるものはしょうがない。

結句、信長は討たれ、やがて徳川様の世となるのであるけれど、『軍鑑』を書き継いだとされる高坂弾正の甥・春日惣次郎は最後に「信長のマネはしちゃイカン」と批判を加えてしめくくっている。曰く、信長は、代替わりして武道の衰えた上方の国々を支配して急速に大身になった。数々の戦いに勝ったけれど、少々の不覚は気にせずに、反省をしなかった。こういう態度は感心しない、云々と。信長没後3年、天正十三年三月三日と記す。

*1:西股総生『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』、学研パブリッシング、2012年、7頁。

*2:西股、同書、7頁。

*3:西股、同書、239頁。

*4:甲陽軍鑑』品第十四。

*5:甲陽軍鑑』品第三十七。

*6:参謀本部第四部編『日本戦史』「桶狭間役」、元真社、1893年、9頁。

*7:西股、同書、136~137頁。

*8:西股、同書、137~138頁。

*9:西股、同書、138~140頁。

*10:慧文社史料室編『山本勘助「兵法秘伝書」』、慧文社、2007年、71頁。

*11:『南山剳記』、2019年11月8日記事、web。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2019/11/08/101132

*12:西股、同書、146~147頁。

*13:たとえば、西股、同書、114頁に、元亀3年(1572)の北条氏政による宮城四郎兵衛泰業宛の「北条家着到定書」などが挙げられている。

*14:西股、同書、135頁。

*15:網野善彦『無縁・公界・楽 中世日本の自由と平和』平凡社、1987年、5頁。

*16:網野、同書、129~130頁。

*17:網野、同書、125頁。

*18:網野、同書、125~126頁。

*19:『新しい歴史学のために』209号、1993年。網野善彦「悪党と海賊」(『悪党と海賊――中世日本の社会と政治』所収)、法政大学出版局、1995年、363頁(初出は『大谷学報』第73巻第2号、1994年1月)。

*20:網野、同書、365~366頁。

*21:網野、同書、367頁。

*22:網野、同書、367頁。

*23:貨幣と〈悪〉の結びつき、農民と国人の結合によると考えられてきた一向一揆が都市民に支えられたことについては、網野の同書369~370頁を見よ。

*24:網野、同書、370頁。

*25:網野、同書、366頁。なお、女性の名は「得万女」と言った。これが遊女につながるというのは、網野氏の推測であって、今のところ確認された事実ではない。

*26:『南山剳記』、2019年9月13日記事、web。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2019/09/13/161343

*27:平井上総『兵農分離はあったのか』、平凡社、2017年、190頁。

*28:マインドアサシンかほる』説教その1②(web。2020年2月28日記事。https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/02/28/162029)。

*29:柴辻俊六『戦国期武田氏領の研究――軍役・諸役・文書』、勉誠出版、2019年、112頁。

*30:柴辻、同書、113~114頁。

*31:西股、前掲書、115~117頁。

*32:柴辻、前掲書、114~115頁。平山優氏、則竹雄一氏の研究による。

*33:平井、前掲書、70~72頁。もっとも、奉公人層については、給地を受けていたのか、戦国大名の蔵米を受けていたのか、同書の253~254頁を見るとよくわからなくなる。

*34:西股、前掲書、176~180頁。

*35:西股、同書、185~189頁。

*36:西股、同書、156頁。

*37:慧文社史料室編、前掲書、23頁。

*38:西脇、前掲書、239~240頁。

*39:西脇、同書、240頁。

*40:マイケル・E・ハスキュー/クリステル・ヨルゲンセン/クリス・マクナブ/エリック・ニデロスト/ロブ・S・ライス『戦闘技術の歴史5 東洋編』、杉山清彦監修、徳永優子・中村佐千江訳、創元社、2016年、68頁。

*41:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、同書、68頁。

*42:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、同書、123~124頁。

*43:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、同書、123~124頁。

*44:西股、前掲書、166頁。

*45:西股、同書、169頁。

*46:西股、同書、168頁。

*47:ハスキュー・ヨンゲルセン・マクナブ・ニデロスト・ライス、前掲書、277~278頁。

*48:西股、前掲書、167~168頁。

*49:参謀本部第四部編、前掲書、1頁。なお、句読点は撰者が補った。

*50:甲陽軍鑑』品第三十七。

*51:甲陽軍鑑』品第五十四。

*52:甲陽軍鑑』品第五十三。

*53:参謀本部第四部編、同書、9頁。なお、句読点は撰者が補った。

*54:参謀本部第四部編『日本戦史』「桶狭間役補伝」、元真社、1893年、5頁。

*55:甲陽軍鑑』品第四十上。

*56:西股、同書、244~245頁。

*57:西股、同書、241頁。

*58:西股、同書、244頁。

*59:西股、同書、183~184頁。

*60:西股、同書、250頁。

*61:西股、同書、251~252頁。

*62:西股、同書、209~210頁。

*63:藤木久志『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』、朝日新聞社、2005年、123~124頁。

*64:藤木、同書、140頁。

*65:藤木、同書、55~56頁。

*66:江畑謙介『軍事とロジスティクス』、朝日新聞社、2008年、19~22頁。

*67:江畑、同書、15頁。

*68:西股、前掲書、211頁。

*69:西股、同書、212頁。

*70:西股、同書、223~224頁。

*71:西股、同書、241頁。

*72:西股、同書、209頁。

*73:藤木、前掲書、139頁。

*74:西股、同書、247~248頁。

*75:甲陽軍鑑』品第五十八。

働かない(トム・ルッツ)

働かない

トム・ルッツ『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』、小澤英実・篠儀直子訳、青土社、2006年

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【服部 洋介・撰】

 

書誌

Doing Nothing
A HISTORY OF LOAFFRS, LOUNGERS, SLACKERS, AND BUMS IN AMERICA
BY TOM LUTZ
COPYRIGHT Ⓒ 2006 TOM LUTZ

 

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

 

  

解題

 著者のトム・ルッツは、1953年生まれ、専攻はアメリカ文学・文化史。社会学や心理学を文学と融合させた独自の研究領域を展開し、スタンフォード大学アイオワ大学、カリフォルニア大学で文学、創作等を教えるいっぽう、脚本家としても活躍していると、見返しにある。この人には18歳になる息子がいて、実家に転がり込んできて、就職活動もテキトー、家ン中でブラブラしておったのであるけれど、最初は見守っていたルッツ氏、しまいにはどうしようもなくイラッときちまったようで、ついにはキレた。

かくいうルッツ氏も、テメエの親父にさんざん「無駄なことしやがって」と人生を否定されてきたから、息子の気持ちがわからないはずもない。にもかかわらず、ナンでこんなに腹が立つんだろう、チキショウメってことで、怠け者の歴史について調べ始めたというわけだ。人はなるべく楽な仕事に就きたいと願っているけれど、人が楽してるのはナンでか腹が立つ。あるいは、働きたくないのはやまやまではあるけれど、他人が自分よりも真面目に働いているように見えて、ついその罪悪感からすすんで過重な労働に走ってしまうものであるらしい。正直、労働なんざ1日4時間で結構、というのがおおかたの人の本音であろうけど、いざ「労働時間短縮」などと言われると、途端に文句が出るのは不思議なことである。

ところで、かのバートランド・ラッセルも、1日の労働は4時間で十分と言っていた。その意味では彼も立派な〈怠け者〉のひとりであった。しかしおどろくなかれ、本書では、過去に1日3時間労働を唱えた知識人がいたことが言及される。そうなってくると、「いやいや、せめて4時間は働きますよ」と愛想の一つも言いたくなるものである。

ところで、この原稿を書いている2020年3月23日現在、世界中に新型コロナウイルスというものが蔓延し、「第二次世界大戦以来の惨禍」といわれ、欧米あたりはすっかり恐慌状態に陥っている。ところがいかなることか、例のクルーズ船の入港以来、曖昧な対策しかとらなかったにもかかわらず、わが国においては、いまだ緊急事態宣言も行われず、外出禁止令の発令という事態にも陥ってはいない。理由のほどは不明ながら、ほとんど奇跡的なことである。いずれにしても、この先、爆発的な感染拡大が生じないことを祈るばかりであるけれど、時間の問題という見方もある。すでに社会的機能は制限され、経済活動は抑えられている。仕事の休止に追い込まれてしまった人にとって、もちろんこれは死活問題であるけれど、一方で、かえって仕事に追い回されなくなって一息つけると安堵する人がいるのは皮肉なことである。もちろん、このままでは消費経済は立ち行かぬであろうし、子どもの学校や高齢者施設の問題もある。ヨーロッパ並みに事態が悪化してしまえば労働禁止ということになり、必需品の調達もままならなくなるであろうから、こういった小休止にも限度はある。そのようなことを度外視すれば、本来、ノンビリと働くというのは、悪くない話であって、このくらいの仕事量で暮らせるような経済社会であることは、労働者にとっては一つの理想である。しかし、どれだけモノやコトを消費したかの規模の大小で経済発展の度合いが計られるような社会であるから、消費と雇用の関係は不可分のものとなり、いまや濫費もあながち無駄遣いとは見なされない。しかし、限りある実物資源の蕩尽による永遠の経済成長などという〈おとぎ話〉はもはや許されそうにはないので、いたずらに資源を浪費しないような形で無駄遣いを継続しようという、いわば持続可能な無駄遣い社会を模索しなくてはならなくなった。どのみち当面、仕事は減りそうにない。

ところで、ラッセルが4時間労働ということを言い出したのも、もとはと言えば、戦時下の経験によるもので、若者が兵隊にとられてドンパチやっているにもかかわらず、英国経済が回ってしまうという衝撃の事実があったからにほかならない。皮肉なことに、米国の国家安全保障会議第二次世界大戦の教訓としてこのことを学んでいる。もっとも、彼らは労働の効率化によって高い生活水準を維持するとともに、余剰生産力を軍事力の拡張に回すという、軍事ケインズ主義的な公共政策によって、いわば〈永続的な経済成長〉ということを目論んだのであり、労働時間を短縮させようとか、無駄な消費を合理化しようとか、そういうことを企図したものではない。枢軸国が軍事ケインズ主義によって大恐慌から立ち直ったのは、良くも悪くも一つの教訓であって、わが国も高橋是清以来、軍拡を含めたケインズ路線で景気回復を遂げてきたのではあったけれど、こんにちの感覚からすればトンデモないことである。「日本が戦争に突入しようとした目的は、1000万~1200万人の失業者が生まれることを恐れたからだ」云々というマッカーサーの証言は、このことであって、どういうことか、戦争をすれば失業からは逃れられるというのである。

軍事ケインズ主義によって、日本では重工業が一気に発達し、失業減という意味では好況に沸いたのであるけれど、むろん、資源はよそからパクる必要があったから、キレた国際社会から「海外から撤兵しろ、経済制裁だ」ということになれば、資源確保のために戦わなくてはならない。じっさい戦争が始まってしまうと、生活品は不足、仕事をしても欠乏から逃れられないということになった。このようなことが持続可能なのは、あくまでも米国のような莫大な資源と巨大な生産力を有する場合に限られるし、そのような国と本気の戦争ということになれば、コテンパンにされて国富を台無しにしてしまうおそれもあるため、高度国防国家建設という永田構想というのも、あるいは、米国に対抗する国防力を身につけるまで戦争を回避すると言うのは表向きのこと、結果的に雇用政策として機能したのかもしれない。

このように、軍拡と労働ということは深く結びついているのだけれど、これというのも、軍拡が公共事業の側面をもっていることに由来するものであった。さすがにそれはマズイ。そこで、その今日版として、赤字だろうと何だろうと、人びとのためにバンバン財政支出せよという〈反緊縮経済論〉という考え方が登場した。バーニー・サンダース氏は、この路線の人であるが、じつのところ、アベノミクスにも強い示唆を与えた論でもであった。この論に属する〈反緊縮三派〉とされるものに、ニューケインジアン左派、 MMT、そして信用創造廃止派とがある、といわれる*1松尾匡氏は「反緊縮経済論に共通する常識的見解」を次のようにまとめている。 

 

(…)人間の意識や制度から独立した客観法則としては、経済は次のように成り立っている。おおまかに把握するため、経済主体を、政府と中央銀行を合わせた「統合政府」と「民間」とにまとめて考えると、統合政府は公共の事のために通貨を作って民間に支出して財やサービスを買っている。しかしそれが出すぎて民間に購買力が溜まりすぎると、総需要が総供給能力を上回ってインフレがひどくなってしまう。そこで、民間から購買力を取り去って総需要を抑制し、インフレをコントロールするために租税が機能している。国債も、統合政府として見ると、正味民間との間でやりとりしているのは、利子率の調整のために機能している。

それゆえ、政府の収支のバランスをつけること自体に意味はない。失業が出ないよう、インフレが悪化しないよう、総供給能力と総需要のバランスを維持できていれば社会の再生産が維持される。総需要が総供給能力を下回って失業がある間は、統合政府が財やサービスを買うために民間に出す通貨が、租税で民間から吸収する通貨よりも上回ってこそ、総需要を高めて失業を解消することができるし、それによってインフレが悪化することはない。(外国を捨象すれば)政府と民間の間の貸しと借りは裏腹だから、民間の貯蓄投資バランスが貯蓄超過(貸し)なら、政府は財政赤字(借り)になるのは必然である。*2

 

しかしまあ、こうなるともう、無尽講である。この無尽のシステムによって、公共にとって必要なサービスを調達することが、政府にとっても国民にとっても是非とも必要なことなのであるけれど、それで必要なサービスをまかなうことができたならば、あとは失業対策などと余計なことはせんと、余剰生産力を遊ばせておいたらなんでアカンのか、疑問は深まるばかりであるが、私の理解を越えたことであるので、これを読んで、こうしたことに興味をもつ若い人があらわれ、労働の呪縛から人類を解き放つことを願うばかりである。

とはいえ、やるべき仕事などというのは、早々なくなるものでもない。もし、失業者が出て困るほどの余剰生産力があるならば、貧窮している国のために、その国で必要とされている仕事に精を出すとか、やらなアカンことはいくらでもある。国内でも人手の足りないところはいくらでもある。医療や介護、育児で人が足らんというのなら、私たちはある種の仕事を擲ってでも、そうしたことに労働力を投入するのが先決であって、余計な消費(これを〈不可欠な不足〉などという)を生み出して労働力をつぎ込んでいる場合でもないように思われる。今ある必要な仕事を手分けしてやればエエやんけ、というわけであるが、なかなかそうはならない。ふつう、このようなことは、介護職や保育士の賃金を上げさえすれば自然に解決するように思われているが、要するに、カネが動かなければ、人というのは、やらなアカンことがあってもやろうとはしないからである。カネさえ出回れば失業がなくなり、賃金収入が増えて消費も活性化する、企業の業績も上向く、というのが、世界的に行われた金融緩和のねらいであったが、日本ではまず大企業にカネを入れるということが重視され、結果、それがあらぬ方向に使われたため、企業の業績は上向いたが、労働者の実質賃金は変わらず、結果、株価ほどに消費は伸びなかった。また、先に書いたように、介護のような分野にこそ人もカネも入用なのだが、介護士の給料が上がるのは結構なことながら、この分野に投じられる社会保障費の支出ということが、消費増税となって有効消費を相殺するものであるから、皮肉な仕組みである。どうにもままならない。信用創造廃止派は、これというのも、マネーが私物化されているためだと考え、公共目的の貨幣システムの創設ということを提唱している。松尾教授によると、これは「貨幣発行と投資を、利潤目的で私的 になされるものから、公共的になされるものへ社会化する志向」であり、「設備投資財生産とそのための資源配分はマクロには抑制されなければなら」ず、そのことによって「労働などの生産資源配分を、高齢化などへの対応を中心とした部門へと公的に振り替えることを目指す」ものと解釈している*3。負債にもとづくマネーの創造をやめることで、政府が収支のバランスを気にすることなく、公的マネーの出し入れをおこなうことができるようになるというのであろう。

介護のような労働集約型の産業は、なかなか利益に結びつかないものである。そこで海外から労働力を移入して、労働量の補填と社会福祉分野のコストカットを同時に進めようという考え方が定着しつつある。わが国にとってはありがたい話ながら、諸外国の若い人からすれば、日本で働く前に、それぞれのお国の発展のために、もっとナンかやることがありそうなものだと思われなくもない。しかし、特に学歴を要さないような仕事であっても、出身国の公務員のウン倍の初任給が得られるため、大学を出たような優秀な人材であっても、日本において高卒の仕事で雇われる方が、よほど効率的に稼ぐことができる。これは貧富の差があるからこそ可能なことであって、本来、望ましいことなのかどうなのか、世界全体が豊かになる過程でやむを得ないことなのか、考慮を要するところであろう。なお、日本人が海外で働く場合は事情が逆になる。たとえばタイのように、国内雇用を守るために、日本人が現地人と同じ給料で働くことを禁じている国もある。日本人には高給を支払わなくてはならず、このようにコスト圧力をかけることで、なるべく現地の人を雇わせるように定めているのである。

 そう考えると、世界はまだまだ貧しく、怠けるなどということはトンデモない話のように聞こえるけれど、ラッセルからすれば、それは人々の労働が足りないからというよりは、労働の仕方や労働力の配分方式が誤っているためではないかということになる。あまりイメージはよくないが、恐慌下や戦時下のような集産体制をとれば、労働など1日4時間で十分というのが、ラッセルの見立てであったと思われる。ところで、じっさいの戦時下経済などというものは、日本にあっては、所得が倍増しても生活必需品は不足状態、とりあえず暮らせるという程度のものであったから、それで人間が幸福であるということはできない。たとえ労働時間が短縮されたとしても、自由な消費もままならない社会が招来されることを、多くの人は望まないであろう。ラッセル自身も、それで上等な葉巻が吸えなくなるような社会ではアカンと、別のところで書いている。労働時間は減らしたい、だけど贅沢もやめられない。そこそこに贅沢(「メチャクチャに贅沢」は、この際ご遠慮いただきたい)でいて、なおかつ仕事は少ない、そういう方向に社会が進展することが望ましいのではあるけれど、何もかもが矛盾なく両立するということはないであろうから、技術の革新が望めない限りは、何かを犠牲にせざるを得ない。

しかし、失業といえば何か恐ろしいことのようではあるけれど、社会全体からすれば、仕事をしたくても仕事がないというのは、要するに、差し当たってしなくてはならない仕事がないからこそのことであるように見えるものでもあるから、そのような意味で人間が働かなくてもよいということになれば、まこと結構なことである。じっさい、ランズバーグは次のように言っている。

 

ジャーナリストは失業率を経済全体の良し悪しを表わす指標に使いたがる。だが失業をめぐる議論においては、ふつう、失業が人々の望む状態であるという事実が見過ごされている。余暇を何もせずにのんびりと、あるいは好きなことをして過ごすのは、一般に好ましいこととされている。しかし、それが「失業」という名で呼ばれるとなると、突然、悪者のように聞こえる。*4

 

私たちはみな、週に八〇時間、労働搾取型工場で汗を流していた一〇〇年前の先祖に比べれば半失業状態なのだ。だが、先祖と入れ替わりたいと思う者はいないだろう。このように考えると、失業率が経済的福利の物差しとしては不完全だという警告の正しいことがわかる。

二〇世紀後半に生きる私たちの労働が祖父の時代よりも少ないのは、私たちの方が彼らよりも豊かだからである。雇用の減少が、時代が良くなったことを意味する可能性もある。(…)悪い時代に嫌な仕事にしがみついていた労働者も、時代が良くなれば、給与外の所得が増えたために、あるいはもっと良い仕事につくチャンスがあると思って、自発的に失業するかもしれない。*5

 

ところでラッセルは、AIに仕事を奪われるといって騒然となっている現代の人たちを予見するかのように、次のようなことを書いている。

 

「創世記」では、労働は、アダムが罪を犯したためにその子孫に運命づけられた呪いということになっているが、現代の世界では、それはひとつの祝福のようになって、その総量も決して減殺されてはならないものとされている。*6

 

ラッセルによれば、もし労働者が働くことを生産の〈手段〉としてではなく〈目的〉そのものとみなすならば、一定数のトラクターをより少ない労働力で生産できるための工夫は彼らの敵意をかきたてるであろう、という。それは失業を誘発し、生計を失う危険性を増大させるからだ。しかし、生計も何も、何でもカンでも機械まかせでまかなわれ、社会にはもう人の携わる仕事などないのだから、最終的には仕事をする必要性すらないのではないかという議論は、おそらく通用しないように思われる。たしかに仕事は必要ないが、私たちはカネでモノを買って暮らしている。そのカネときたら、労働と引き換えに手に入れるものと決まっている。仕方ないから、次の労働を考えようということになるのであろうか。

その労働にしたところで、カネになる労働とそうでもない労働があって、社会が必要とする労働であっても、対価が低く抑えられているものもある。カネがないと暮らせないから、社会的課題を解決するよりも、まずはカネという話にもなるのである。これは江戸時代の農民が現金収入を目当てに商品作物の栽培に手を出して幕府から怒られたのと同じで、農家としちゃカネがなくては肥料も買えないし、コメは年貢に取られて蓄財ということもままならぬから、カネ目当ての作付けということも理にかなったことではあった。けれど、ひとたび飢饉ということになれば、他国からコメの支援があるわけでもなし、カネ目当ての産業ばかりにふけっていては国家の害になると松平定信あたりは考えたのであろう。植民地におけるプランテーション経済と同じである。こんにちのわが国は、かような農本主義をとってはおらず、食糧は他国まかせ、カネになりにくい産業もすべて諸外国に肩代わりしてもらっているから、頼りになるのはカネばかり、円が高すぎても安すぎても困ったことになるが、とにかくマネーを生み出し続けることが肝要、これからは投資で生きようなどという話にもなるのである。もっとも、それで儲かったところで、ご親切にも誰かの仕事や、のちのち返すべき負債を増やしてやっているようで、気が進まないところもある。まわりまわって自分の仕事が増えて泣きを見ないように祈るばかりである。

現代のマネーは負債をもとに創造されているから、自分では借金をせず、他人にどんどん借金させないことには、マネーは増えない。借金を返そうとする分だけ労働が必要になるため、金融資産の総量と労働の総量は、相関している。ある意味、この仕組みで失業が解消されることになるのだけれど、このようにしてマネーと消費が結びついた高度消費社会の経済システムにあっては、〈働く〉ということを「人間、額に汗して働くのは当たり前」というような、素朴な労働倫理の問題に矮小化して論じても片落ちの謗りを免れ得まい。そうでなくて、われわれはどんどんと仕事を増やされ、何かしら働くように誘導されているのである。仕事量、すなわちカネの量が、労働力の増加スピードを追い越してしまったら、ちょっとした問題が起こる。もっとも、失業率は下がるので、不安な労働者たちは喜ぶかもしれない。

長期的に見れば、貨幣価値は低減するようにできているから、物価が上がっても「ちょこっと売ればガッポリもうかりまっせ」なんてのは、カネの値打ちが下がっているだけのことで、実質賃金はそうそう上昇しない(給料の額面がちょこっと上がってなんとなく納得していてはアカンのである)。われわれの預貯金は目減りして、将来的に購入できるサービス量は、現在購入できるそれを下回ることになるであろう。カネは今つかっちまうほうがお得なのである。マネーシステムに手を加えずにこれらの問題を解決するには、何といっても技術革新が必要になる。これにはいささか時間を要するが、すぐれたサービスをかぎりなく安価に使用できるようになってはじめて、私たちは長時間の労働から解放されることになるのである。そうしたわけで、私たち全員がめでたく失業するためにも、ロボット技術の進歩ということは不可欠の要件となるであろう。ただ、すべてのサービスが無料化されるところまで進展してしまうと、今度は企業が儲からない。そんなこんなで、20世紀にあっては、機械技術が進歩しても、思ったほどに労働は減らなかった。労働が減ること、つまり〈怠ける〉ことはアカンという強迫観念が邪魔をして、働くこと自体が自己目的化してしまっているのではないか、というような指摘もあった。ラッセルによると、問題はいわゆる中部ヨーロッパ以北を席巻した勤労精神であった。

 

北ヨーロッパの人たちは、仕事は美徳という信条が身にしみついたために、今も南ヨーロッパにかろうじて残っている優美さを失ってしまった。北ヨーロッパ人の勤労第一主義の信条によれば、重要なのは、ものを作る時の経過や仕方ではなくて、結果としての産物それ自体ということになる。われわれはけっして美しいとは言えない家を建て、その中でただ栄養をつける食物をとり、愛情もなしに子供を作っては、彼らの自発性と優美さを破壊する教育にゆだねる。*7

 

じつのところ、産業の機械化は、製品を効率よく作ることには寄与したが、人々を労働から解放することを目的としているわけではなかった。おおむね、20世紀を通じてはそうであった。もっとも、先に書いたように、国債の借用書を通貨として使っているようなマネーシステムが通用しているかぎり、われわれは労働してマネーを得、税金をバンバン納めて国の借金を返済せずには済まされない。すべての必要が満たされたからと言って、借金が自然消滅するわけではないから、債権者(じつはわれわれである)が徳政令に応じないかぎりは、労働に終わりはないのである。そのへんの問題をどうするかはともあれ、ひとまずラッセルは、機械文明のさらなる活用によって、人類を労働そのものから解放することを主張する。さすれば、アングロサクソン資本主義における、上のような事態は回避されると、彼は考えた。

 

このような事態は人間が機械化されるにつれて、避けられない不幸であろうか。私はそうは思わない。われわれは今までにあまりにも仕事にふりまわされてきて、肉体的および知的労働の束縛からの解放の手段として機械を十分に活用してこなかった。われわれはその気になれば、もっと余暇を持てる。われわれはその気になれば、われわれの子供たちを、組織の中の便利な歯車にしてしまわないで、彼らの衝動を芸術的に表現できるように教育することもできるはずである。われわれがそうしないのは、われわれは美よりも力に愛着するからである。しかし、ひたすら力のみを追い求めることが、幸福になる最良の策であろうか。人間性にはほかにいろいろな要素があり、それらは少なくとも同等に尊重すべき価値を持っている。機械時代が人間性の他の諸要素にも然るべき位置を与えるようになるまでは、新しい文明は本当に健全だとは言えない。*8

 

ロボット時代になっても、マネーがなければ食料も買えないなどという状態が続くならば、まるで意味がない。現代の経済社会においては、たとえ生産過剰に陥ったとしても、カネがない人に食料を配ってしまっては、生産コストを取り返すことができないから、早々に赤字である。もっとも、食品メーカーはわりあい気楽で、コンビニなりに商品を納品しちまえば、あとは消費者が買おうが買うまいが関係ない。食べ物が余っても、儲けは確保することができる。こんにち、食料の3分の1が廃棄の運命をたどることになっているけれど、そうであれば、本来、労働も3分の1で済むはずである。こうしたことを生産と情報技術、そしてロジスティクスを結びつけて解決しようという試みが出始めているけれど、そのような意味での労働の組織化、労働の削減ということは、やがて可能となるであろう。ただし、消費経済のモデルにおいて、それは必ずしもメーカーに利益をもたらさない。ますます失業が促進されるのではないかとも考えられるけれど、そのようにして削減された労働を補わなくてはならない理由が他にあるとしたら、それはとりもなおさず、カネである。ロボット時代においては、人はそもそもすべき労働をもたないし、したがって追求すべき利潤もないのであるけれど、カネの問題だけは悩ましい。もはや労働する必要はないけれど、マネーを通用させるために労働の撤廃はまかりならんということになると、私たちはカネを手に入れるために、何はともあれ労働しなくてはならないということになるのであろうか。

さて、経済が十分に組織化されていないことからくる労働の無駄遣い、あるいは生産物の無駄遣いという問題について触れたけれど、すでにこのことは、ラッセルの時代から指摘されていた。彼の時代、すでにアメリカでは食品ロスの問題が深刻化していたのである。

 

頭が正常な人たちは、生産過剰による失業は、長時間かけて解決さるべきだと言うが、経済の機構を再び正常にもどすには、個々の経済活動が常に利潤を生まねばならぬという要請を捨てることが不可欠である。アメリカの西部やカナダでは、食料が腐っているのに、世界中の工業地帯では、飢えた失業者の群れがひしめいている。もしあまった食料が飢えた人々に届けられ、彼らがアメリカ西部の農民の需要を満たしうる労働に従事するならば、個々の資本家が利潤をあげなくとも、世界は全体としてずっと豊かになる。個人的利潤という動機が今では通用しないことは明らかであり、世界の経済状態を回復しうるものは、組織化された社会の努力だけである。*9

 

なるほど、企業というのは資本家が利潤を上げるためのものではなく、社会に必要なモノをキチンと生産するために営まれるべきものであるという考え方である。ただし、当時の情報技術やロジスティクスでは、真にモノを必要とする人たちに、いかにして必要なモノを供給するか、その実現可能な方式については、人類の知恵を結集しても創案不可能だと考えられていた。貨幣経済というものも、その高い流動性のゆえに、物々交換ではなしえなかった流通の革新ということに寄与し、世界全体が豊かになることに確かに貢献したであろうと考えられるけれど、同時にそこには、世界が豊かになることを阻害する構造的な問題が内在しているもののようでもある。人類全員を養うに足る生産量があっても、カネのないところにモノは行きわたらないからである。

ロボット技術さえ完璧なものになれば、労働自体が消滅し、個人の利潤追求という考え方も疑わしいものとなろう。労働=カネに追い回されなくてすむのだから、技術の進歩と労働の組織化によって、十分な物資が世界のすみずみにまで行き届くであろうという、希望的観測もある。それでは個人の利潤追求はどうなるんだとおさまりのつかない人もいることであろうけれど、このコロナ騒ぎを見ていると、組織化されない労働に依存して、今後も経済をカネ次第にしておくのは、いささか不安なものだと思わされなくもない。

今般のコロナ禍に際しては、期せずして労働の量であるとか、その形態といったことについて考えさせられることが多々あって、まこと皮肉なこととしかいいようがないが、これを機に、経済や教育のIT化、テレワーク化、あるいはベーシック・インカム導入の是非といった方向に大きく議論が進むものと想像されるから、日本社会にとっても一つの転機となることであろう。当初、株価は暴落と反発を経て、米国の対策への不信という形でかえって日本株が値上がりを見せるなどの乱高下をくりかえしているが、これというのも、当初の円高から一転して円安基調の流れがあらわれたこと、日銀による日本株の買い支え期待が背景にあるものと考えられている。そうでなくても、アベノミクスを通じて日銀はETFで年間6兆円を投じて企業株の買い支えを続け、今やその保有額は26兆円に達している。GPIFも基本ポートフォリオにおける国内株式の構成比率を目標値25%に設定して、公的年金をつぎこんだ。われわれの年金資産で株価を支えてきたわけである。日本国民の資産はおそるべしである。今やコロナで企業がつぶれないようにと、政府も国民もいろいろと気をもんでいるけれど、このような事態に至らずとも、企業がつぶれたらアカンなんてのはわかりきったことであって、政府は企業がつぶれないように、国民に代わってバンバンと金を入れたきたのである。

つまり、われわれにとって、この国に必要な企業(何が必要で何が不必要かは必ずしも明確ではないけれど)をつぶしてはならない、などというのは言わずもがなのことであって、このような隠れ社会主義に手を染めるくらいなら、いっそ堂々と社会主義にしたらよいではないか、などと考えるのも一興ではある。多くの平凡な人からすれば、路頭に迷いかねない危険にさらされながら生きるよりは、絶対につぶれない会社でほどほどの人生を送ることができれば、今日日、御の字である。そのように考えると、企業活動は大いに組織化できるであろうから、ラッセルを信じるならば、1日4時間労働ということも可能になるのであろう。残りの4時間をまるまる余暇にあてるか、あるいは自由に業を興して、やりたいような経済活動(芸術活動でもスポーツでも何でもよろしい)にいそしむかは、個々人の自由に任せてよい。なお、芸術家やスポーツ選手が1日4時間の活動でどれだけの技術を維持できるか、それは心もとないかぎりである。ただし、この際、かれらの技量がディレッタントのレベルにとどまったとしても、私は苦しからず思う。すでに『音楽と教育——社会学的アプローチ*10社会とつながる芸術家*11の剳記で書いたように、エキスパート教育を放棄した音楽大学もあるくらいで、音楽家なりスポーツ選手なりを必ずしも単なるその道の専門家としてのみ評価する必要はないのである。ただ、やる人にしても観る人にしても、不満な人はいるだろうけれどもね。

 けれど、そのようなことも含めて、社会にとって不可欠と思われる4時間の義務的な〈組織労働〉を人々にどう割り当てるかということになると、これはむずかしい問題である。社会主義の方式をとるならば、少なくともこれは、経済活動の自由とか、職業選択の自由という考え方がスンナリあてはまるようなものではないからである。たとえば、社会においてラーメン屋の数がいくつ必要で、それらのラーメン屋にどれだけの多様性をもたせるか、などといった設計は、甚だ困難を伴うものである。官の命令で、不味い店主を解任して別の仕事に異動させ、新しい店主を選任するなどというのも、いささか乱暴な気もする(もっとも、現下の経済体制でも結果的に同じ成り行きとなることであろうけれど)。もっとも、情熱のある人は、これとは別に自由な経済活動の範囲内でこれを行なうのもよいであろうけれど、往々にして、そういうものが官許のラーメン屋のクオリティをしのいでしまうため、結局、自由主義経済でいいんじゃないのという話にもなるのである。けっきょく、十分に経済が組織化された社会において人びとが安逸な生活を送れるようになれば、次はもっと刺激的な経済活動に乗り出そうというのはありそうな話であるから、一考すべきことではある。ラッセルは全体主義国家を敵視していたが、文化的自由を認めながらも政治的統一ということには固執していた。戦争を経験した世代だからこそと言えるのかもしれない。一方で、本書でも引かれるように、ケロッグ社のような方式で、生産組織を何かしら合理化することによって、より多くの人を雇用し、応分の給料を支払い、かつ労働時間を引き下げるといったことが可能となるならば、経済活動の自由を保障しながら、労働時間を短縮することも可能となるのかもしれない。私たちにとっては、そのほうがスンナリと飲み込めるものであろう。そのためには、過剰な労働を生み出す過剰な消費についても一考されなくてはならないであろうけれども。

失業を補うために消費を推奨するなら、他に何かもっと必要なモノでも作ればいいんじゃないの、という素朴な問いもある。それが軍備だという考え方はこの際、除外するとして、もう少しマシなものはないだろうか。松平定信という人は、贅沢な自由な社会というよりは、とにかく安定した社会ということを重要視したもののようであるから、つまらん倹約令を出して、今も昔も「田沼の方がよかったんじゃないの?」という評価をする人がいる。もっとも、研究が進むにつれて、存外、重商主義といわれた田沼と変わらんこともわかってきたらしい。天明の大飢饉に際して自藩からは一人の餓死者も出さなかったというのは言い伝えであろうけれど、かつては日本でもヨーロッパでも、何はなくとも春に餓死者が急増し、冬を越すのに一苦労であったことが知られているから、そうしたことをよくよく考えておくことも大事なことである。そのような状況が一段落するのは、日本では江戸時代に入ってからのことであるけれど、火山噴火や異常気象などが起こると、たちまちにして大飢饉ということになった。何もないところで質素倹約では、生きている甲斐もないけれど、死んじまったら元も子もない。今般のコロナ騒ぎ、中国人は政府の宣伝にビビって経済活動がどうなろうと、命には代えられないと自宅に引きこもったというけれど、「中国らしいよな」と、対岸の火事見物をきめこんでいた欧米各国も、今や外出禁止にロックダウンである。目下、生活に直結する経済活動を除いては、すべて営業禁止ということになってしまった。わが国にはこれから地震も来ることであるし、本来、よくよく経済のありようについては検討を加えておかねばならぬところである。経済の本質は生産ではなく消費にありといわれるけれど、コロナのオーバーシュートが起これば、消費云々ではなく、生産自体がストップする可能性もあるから、いよいよ〈真の欠乏〉が到来することになる。この先、医療崩壊、国境封鎖、必要物資の囲い込みというようなことになるくらいなら、平素、人びとが飛びつきそうな消費をいたずらに拡大するよりは、ECMO(人工肺)でも作って備蓄しとけということにもなるのであろう。貧困国がえらいことになるって話なら、ふだんから貧困国の物資をまかなう仕事もあるだろうと言いたいが、そういうのは〈仕事〉とは言わないらしい。なぜかというと、支払いを受けることができないからである。ナンのために働いているんだろうなって話ではあるけれど、無償の仕事は、寄付とボランティアに頼るほかないのが実情である。

じっさい、労働禁止、生産停止の危険性も高まりつつあるこの頃、上のようなことは、わが国でも他人事ではなくなろうとしている。災害は滅多に訪れない。けれど、たまにはやってくる。そのようなリスクをどう評価するかは、むずかしい。この騒ぎのために景気の落ち込みを批判された与党は、コロナウイルス大流行はまさかの不測事態である旨、国会で答弁したけれど、野党は、そういうことも含めて消費増税の影響を考えるのは当然のことだとかみついた。この理屈でいくと、気象庁が切迫性の高まりを訴えている首都直下地震南海トラフ巨大地震の恐れがあるこの列島で五輪を開くことの可否も問われようし(そのことが免責されるか否かについては、すでに『メタロギコン』の剳記で問うた)*12、このような緊急時にまっさきに食い詰めるであろう職業には最初から就くべきではないというような話にもなりかねない。もっとも、そうなっても経済が落ち込まないように、そもそもからして消費増税などすべきではないのだという論旨なのであろうけれど、早い話がコロナなどあろうとなかろうと、消費増税はアカンということなのである。それならそれで筋も通っているのかもしれないが、緊急時にわりを食う種類の職業が現にあるということも、経済社会の課題として考慮しておく必要はあるのであろう。

グローバルに展開しているような企業は、過去30年の経験から、人やモノの国際的な移動がストップした場合を想定して、ある程度の対策を講じていることであろうけれど、たとえば、今般、官から名指しで営業自粛を要請されたライブハウスや飲食店はどうしたものであろうか。イギリス人はパブに通うために生きているし、イタリア人はカルチョのために生きている。これらの産業がつぶれては困るということであれば、われわれは、それらがつぶれないようにするほかないであろうし、騒動が終息したのちは、いち早く再開できるような仕組みを考えなくてはなるまい。ライブハウスの人たちが言っているように、補償さえ確約してくれれば、いつハコを閉めても苦しからずである。もう少しインセンティヴが働けば、すすんで自粛に協力しようという人も出てくるであろうけれど、「自粛した方が得でっせ」というモデルを示すのはなかなか容易ではない。また、今日日、津波や大雨のときの避難勧告は「もし災害が起こらないとしても、ためらいなく発表すべし」と容認されるようになっているけれど、なにぶん新型コロナウイルスの流行は初めての事態であるから、いわゆる「自粛要請」というものも、いちど惨禍を経験しない限りはスンナリ受け入れられそうにない。むずかしい問題ではある。反緊縮派であれば、バンバン財政支出する腕の見せどころである。

もちろん、迷惑をこうむっているのはライブやカルチョに従事する人ばかりではないであろうから、あらゆる産業が社会のために必要であるというならば、同様にその従事者を扶持することを考えなくてはならない。このことから考えると、平時であろうと緊急時であろうと、それらの仕事が不可欠だというのならば、みんなで協力して、最初からつぶれないようにやっていこうという考えが出てきても不思議ではない。しかし、実際は大して必要でもない仕事や、似たか寄ったかの企業が多々あるので、競争で淘汰されるというのが実情のようである。淘汰された側は深刻なことに陥ってしまうのであるけれど、たいていの場合、より優れた企業やサービスが生み出されて社会や消費者の便益が拡大されるから、競争を阻害すべきではない、という結論に落ち着く。その興亡劇に自分自身が巻き込まれない限りは、という留保つきではあるけれど。私なんかは、逆に人が寄り付かないような店に入ってみたくなるものだけれどもね。

 消費経済というものが進展すると、何かのはずみで消費がなくなると労働力は余り、逆に消費が拡大することで人手不足などということも出てくる。少子高齢化ということもかかわってくるから、無駄な消費で仕事を増やしている場合なのかどうなのか、問題と言えば問題である。だからこそ、消費によってカネを増殖させようという考え方も出てくるのであろう。カネというのは便利なもので、カネさえあれば、人やモノが国境を越えて入ってくる(もちろん、日本に来た方が稼げるという見込みがある場合に限られるけれど)。そのような形で、労働時間の短縮と、生産量の増進ということを実現することも可能であろうけれど、むろん、安価な労働力の移入による人件費の削減とあわせて、機械化の進展ということも求められるであろう。もしカネが万能ということであるならば、日本は対外的には債権国であるから、これからはいっそ投資で生きていくという考え方もできなくはない。もちろん、コロナのようなことが起こると、思わぬ被害をこうむることにもなろうから、株もよいが、資産構成における現金比率もある程度に保っておくことも必要ではある。手元流動性を軽んじると、エンロンが破綻したときに給与の一部をストック・オプションでもらっていた社員たちのように、とんでもないことにもなりかねない。

しかし、カネさえあればどうにかなるというのは、それほど自明のことなのであろうか。潤沢なカネの背後に借金ありである。米国の好景気を演出してきたのは、低金利のアブないカネである。ちょっとアカン企業にもジャブジャブ貸してきたから、ひとつのバブルである。あんまり簡単に借金ができるようになると、仕事は増えるが、有効需要が失われた際に生産過剰に陥ることにもなる。それが今般のコロナ問題に際して、裏目に出てしまったということであろう。今回は金融恐慌ではなく、実物経済の冷え込みからくる恐慌であるから、仕事もできず、借金を返すところではない。個々の人たちの救済ということについては、経済活動の自粛を余儀なくされた従業員1000人に、NBAの選手がドンと1000万円を寄贈するという美談もあった。なるほど、現金収入が途絶えて生活に困る人も出るであろうから、カネさえ配ればどうにか助かるという人も出てくるであろう。出前などが機能している限りは、配られたカネでどうにか暮らしていくことはできる。一方で、どれだけカネを積んでもいかんともしがたいものもある。たとえば、マスクなどというのは、どれだけカネがあっても、ないものはないから、買えない。それこそ〈真の欠乏〉である。しかし、カネを出してマスク工場を建てるなどということは、感染の蔓延していない地域であれば可能な方策と言えるのかもしれない。もちろん、ラッセルが言うように、個人の利潤追求の視点でこのようなことを行なうのは、むずかしい。コロナが収まってしまえば、マスク工場など不要のものとなってしまうからだ。しかし、このことからもわかるように、カネは、新たな労働を生み出すという機能をもっていて、「カネさえあれば豊かに暮らせる」と思いこんでいる人がいるうちは、イッチョ働いてやってもいいという人も出てくるものである。このようにして膨張するマネーこそが、近代以降の工業社会を大きく推進させた旗振り役であったのだ。このことをベルナルド・リエターは、こう書いている。

 

現在のお金のシステムは、近代工業時代の世界観から無意識のうちに私たちが引き継いでいるものだが、それは現在でも社会に君臨しながら、時代の支配的な感情と価値観とを設計し推進する最高実力者としてふるまっている。(…)また、この通貨は、使用者間で「協調」より「競争」を促進するように設計されている。お金はまた、工業社会の旗印である。「永続的な経済成長」を可能にした影の功労者であり、エンジンでもあった。そして、このマネーシステムにおいては個人が財産の蓄積(富の貯蓄)を奨励し、それに従わない人々は懲らしめられるようになっている。*13

 

要するにカネというものは、それがいたずらに労働を増やす原因となるか、十分に足りているモノが、それを必要としている人のところへと行きわたらないことの原因にならない限りはナンてことのないシロモノなのであるけれど、短所であれ、その機能を全否定してしまうと、カネのもつ利点というものも同時に消滅してしまうもののようである。先にも書いたように、ラッセルからすれば、食料が大量に余っているのに、それをみすみす腐らせて、貧しい人を飢えさせるなどというのは、カネになるかならないかのせいか知らんが、ナンかアタマおかしいんじゃないのってことになるのだけれど、当面わたしたちは、カネのもつ長所を有効に活用し、短所をなるべく抑えるという仕方をもってこれに当たるほかないもののようである。となれば必然、労働の問題も考えざるを得なくなるのは、自然な帰結のように思われる。

そう考えてみると、必要なモノが足りない大変なときこそ、何か仕事があるのではないか、という問いは一考に値するものである。今こそ、必要なモノを、それを必要とする人のもとへ届けるべきである。今回の場合、とりもなおさず、それはマスクである。ところが、手仕事でチョコチョコ作るくらいのことはできるが、業としておこなうということになれば、本業のマスク会社を除けば、小さな手袋メーカーが技術転用で製作するのがせいぜい、これから政府の声掛かりで、異業種の企業が名乗りを挙げてくることであろうが、本職のメーカーからすれば、コロナが収まってしまえば不要になる設備に自腹は切れない。先に書いたとおりである。人々にとって必要なモノを作るのが仕事といえばそうだけれど、企業も生き残らなくてはならない、カネを稼ぐ方が先決である。それこそ、「マスク増産しますけど、見返りはもらえるんでしょうな?」ということである。というわけで、補助金が約束されたからこその増産体制確立ということなのであろうけれど、実のところ、国と企業なんてのは平素からもちつもたれつ、だからしてわが国では自国民に背を向けるグローバル企業なんてのがあらわれにくいのかも知れないが、米国ではそのことが顕在化して、もはやグローバル企業は自国民の敵とまで言われるようになった。そのことが、アメリカン・ファーストのトランプの台頭を許すことにもつながった。

さて、カネと労働の関係について、営業自粛のインセンティヴとして、休業した人たちが生活に困らないように現金を配るという設定で考えてみよう。現段階では、食品メーカーやお百姓などは休業しないので、食料をはじめ、必需品に困ることはない、と仮定するならば、休業した人たちが収入の補償を受け取れば、食べるのに困ることはないであろう。となると、足りないのはマスクとアルコールだけで、他に仕事といえば、医療や介護、けれど後者は被介護者との濃厚接触にあたるから、やりたくてもすることはできない。無資格の者が医療従事者になることもできないが、今後は准看護師ならぬ、准医師のような制度を用意しておく必要があるかもしれない(イタリアでは医師の資格を緩和して対応しているようである)。一方、Youtubeのサーバーがパンクしているという話もあるから、IT企業なども人手が足りないところかもしれないが、ある意味、こういうときはユーチューバーも必需産業のように思えてくるから不思議なものである。クソジャリどもが外出禁止命令も聞かず、やたら出歩いて困る諸外国では、まこと重宝されている。結果、わが国では、これらの自粛によって家計の9%程度が圧縮されることになるわけだが、「仕事がない」というのは、この意味では「カネを使う人がいない」ということと同値である。皮肉な話だが、カネさえ使わなければ、労働は減るということのようである。しかし、仕事を自粛した人にカネを配っても、労働は増えない。食品メーカーの仕事は、コロナの前と後で変わることはない(事態が進行すれば、自炊できない人の需要で、外食産業が休業した分、フードデリバリー等の発注が増えることはあるかもしれないし、さらに進めば食品メーカーも営業自粛に追い込まれるかもしれないけれど)。ただ、カネを配らなければ、収入の途絶えた人は飢えてしまうし、腹を空かせた人が食品を買うこともできないため、食品メーカーの仕事自体も減ってしまうであろう。そうなれば、必要なモノを生産する能力があったとしても、メーカーはそれを生産することはない(マスクと同じである)。まさにラッセルが危惧したとおりになってしまう。

この場合は、コロナという問題があらわになっているけれど、おそらく、コロナがなくてもこういったことはすでに世界中で起きているのではないかと思われる。コロナだからこそ、政府のカネ対策も大きく取り上げられるけれど、ふだんから潰れそうな会社はいくらでもあるし、非自発的失業者や貧困者も多数いるわけである。ただカネがないばかりに、みな困っている。これは金融の問題である。もっとも、本当の意味での失業というのは別にあって、労働する人はいるけれど、生産の手段を欠くという、〈真の欠乏〉である。どちらかといえば後者のほうが深刻な欠乏といえるのかもしれないが、前者の欠乏も問題なしとはいえない。たとえば、かつての日本では、飢饉ともなれば、食い詰めた人が富裕者の下人となって扶養を受け、どうにか生き延びるということが頻繁にくり返された。戦争でとっ捕まった人も下人として売り払われて、主人のもとで耕作などに従事した。これは前者の例で、ラッセル風に言えば、労働の組織化と生産物の配分方式が不合理だったゆえの悲劇ということになる。今ではこのようなことは許されないから、こうした欠乏から他者に隷属するような人があらわれてはなるまいが、これは、カネさえあればどうにかなる種の欠乏である。一方、かつて九州あたりでより深刻な飢饉があった際、戦場で乱捕りした人たちを売り払おうにも、耕す畑もなく、誰も下人を買っても扶持できなかったから、国内では買い手がつかず、海外で使役するためにポルトガル商人に二束三文で売り払われた。それはそれでなおさら悪い話であった。こうなると、金融というよりは実物の問題である。もっとも、コロナの問題も、金融から財政の問題へ、そしていよいよ実物生産の問題へと進展しつつあるように思われる。その点は、非常の事態と言える。

ところで、前者の欠乏については、こんな話がある。金融市場というのは、今やグローバルカジノもいいところ、取引の98%が投機目的だと、リエターは言った*14。相場師からすれば、値動きのないところで儲けるなんてことはおぼつかないから、マーケットに波乱の一つも起きてくれなきゃアカンのかも知れないが、リエターに言わせれば、このような人びとは「不安定性を好む人々」である。このような人びとが活動することで通貨危機が演出されてきた、というのである。「誰もが、恐ろしくて口に出せない問いがある。「次の犠牲は誰なのだ? ラテンアメリカ? 西ヨーロッパか、それとも中国? 世界一の債務国である米国がターゲットになるのはいつなのか? もしそうなったらどうなるのか?」」*15。これはアジア通貨危機のことをいっているのだが、通貨の下落であれ、株式の暴落であれ、基本、そのような恐慌に発する欠乏が起こらないような経済の仕組みを作ってしまうほうが、よほど平和的である。本書でも、労働時間短縮を勝ち得たはずの労働者が、再び8時間に戻ってゆくといった事例が述べられているけれど、これは恐慌による失業をおそれた労働者たちの、いわば〈労働囲い込み〉というべき事態が起こったからのようである。失業した人と仕事を分け合えば、自分の分け前が減ってしまうという感じを受けるからであろう。この場合の分け前というのは、要するにカネである。ケロッグ社は大恐慌に際して労働時間を6時間に短縮して、失業者を雇い入れて3シフト制から4シフト制に切り替え、カネも応分に支払った。それでも第二次世界大戦が終わると、労働者はなんだかんだで8時間労働に戻ってしまったのである。著者は、ベンジャミン・ハニカットを引きながら、ケロッグ社が消費社会の進展に抗えなかったこと、労働者が自身の特権的感情を喪失したくなかったことを原因として挙げている。たしかに、われわれが多少のわがままを言えるのは、「俺はこんなに働いてるんだ。まだナニかあんのか?」という感じをアピールするときにかぎられるから、この感情はわりあい理解できるものである。愚かな話だが、よほどがんばっていないと、他人からあれこれといらん指図を受けることにもなりかねないので、自分の仕事を手放さないということは、保身の手段でもある。今般のコロナ禍でも、トランプ氏の経済対策が不発の場合、米国の失業率は30%に達するという試算があるようである。こんなときこそがんばらなアカンのに、「えっ、俺ら仕事せんでエエのんか? 仕事ないんか?」って話である。ナニかあっても生活に困らない社会を作ることが文明の進歩というように思われるのだが、もはや不可解としかいいようがない。 

カネがなければ仕事もない。そいつは知らないうちに、われわれの頭の上を飛び越えて、どこかに行っちまっているのである。もはやカネはジャブジャブの状態だが、どういうわけか、俺らの手元にカネはない。もっとも、タンスに預金はあるけれど、それは虎の子、景気のために吐き出せと言ってもなかなか吐き出せるものでもない。しかし、てっとり早いことに、それは、金融市場にある。そこで、かつてビル・クリントンの選挙運動を指揮したジェームズ・カービルは、こう言った。

 

以前私は、もし生まれ変われたら、大統領かローマ教皇になりたいと思っていた。今は金融市場に生まれ変わりたいと思う。なぜなら、誰をも脅かすことができるのだから。*16

 

まったく、ジョージ・ソロスのような奴である。しかしソロスには、いささか正義心や理念というものもあって、例の悪名高いポンド売りにしても、英国財務省のメンツはつぶれたが、英国経済は立ち直った(もっとも、これは結果論であった)。この場合の「立ち直る」というのは、物価上昇や失業率の改善、経済成長ということをいうわけだが、アベノミクスと同じで、つまりは通貨安の結果にすぎない。結果、英国が欧州為替相場カニズムからの脱退を余儀なくされ、同国が英国病を脱するきっかけになったというのは皮肉なことであるけれど、要するに、これはカネと仕事が増えただけのことである。一方のリエターは、当の欧州通貨単位(ECU)の設計者であったから、暴力化する金融市場をナンとかせんと、「不可欠な不足」*17が永続的に作り出されてしまうと警鐘を鳴らしていた。当然、終わりなき経済成長を要求する現行のマネーシステムからすると、欧州為替相場カニズムなんてのは、不況を永続化させるだけのシステムということになるのかもしれない。〈国際金融のトリレンマ〉によって、EU圏の失業率は依然、高い水準にとどまりつづけている。このあたりは、カネと仕事をどうとらえるかという問題にもかかっており、なかなか哲学的だ。ただ、一概にカネが悪いと言うつもりはない。カネがもらえるのはよいことと思いこむことで、われわれは今後も未知の労働に駆り立てられるわけだけれど、結果的にそれが世界をよりよい場所に作り替えることになるかも知れないからだ。目的がそれなら、最初から自由に任せないで、組織的かつ効率的にやれよとラッセルは言うであろう。カネでだまして労働させるのは、まわりくどいし、もうかるのも一部の奴らと決まり切っているからだ。もっとも、富裕層が一度にカネをぜんぶ吐き出しても、カネの利点が失われるだけで、物事は大して変わらないような気もする。カネは貧富の差がないところでは大して機能しないからだ。だったら、善い目的のために効果的にカネを使ってもらった方がてっとり早い気もするが、あまり期待できそうにない。かつて、ビル・ゲイツがそんなことに自信を示していたが、どうであろうか。

そしてもう一点、興味深いことがある。ソロスの念願とするポパー流の〈開かれた社会〉〔open society〕は、クリントン政権の目指すそれでもあったであろうけれど、〈国際金融のトリレンマ〉の応用ヴァージョンである〈世界経済の政治的トリレンマ〉という仮説が正しければ、グローバル化の進展と国家主権、民主主義の三極は両立しないということになるから、なかなか意味深である。どれか一つを放棄すれば他の二つが成り立つ。EUは国家主権を縮小して、グローバル化と民主主義をとった。他方、グローバル化を阻害するのは国家主権と民主主義だと言われているから、まわりまわってヒラリーがトランプに負けちまったのも、このあたりに要因があるのかもしれない。

 なお、本書は、労働倫理の時代的な移り変わりを社会学的に考察したものであって、今さらながらで恐縮であるが、労働時間短縮のための処方箋ではない。けれど興味深いことに、人々が労働というものをどのように捉えてきたのか、中にはおとろくべき記述もあって面白い。かつて他のアジア諸民族と同じように、わりあい勝手気ままにやっていた日本人は、アングロサクソンを見習って規律というものを重視して、工業化に邁進してきたのであるけれど、当のアングロサクソン労働者も、19世紀のはじめはずいぶんと気ままだったらしく、まったく江戸あたりにいる酒浸りのダメ職人のような体たらくであった。仕事なんてのは、せいぜいそんなものだったのである。その後、このダメな生活を守るための一揆が引き起こされ、死人まで出して鎮圧されるわけであるけれど、面白いことに、20世紀はじめの日本を見たラッセルは「日本ではアメリカほど労働争議が弾圧されていない」と言っている。いささか意外なことではある。

また、米国で社会保障制度を縮小した張本人としてクリントン政権が名指しで登場するけれど、こうしたことは先んじて英国で問題になったことどもであって、サッチャー以降、福祉国家モデルの縮小、ケインズ型の財政支出による完全雇用モデルの廃止というようなことが順次進展し、めぐりめぐって21世紀では日本における問題となった。ブレア政権でも、母子家庭における低所得の母親に対して就労を促進する支援策がとられたけれど、このことは、本書で扱われるクリントン政権の事例にも通じるものである。金がないなら、家庭で子育てをするよりも、外に出て働け、というわけである。そのためには保育所もバンバン作りまっせという話なのだけれど、要するにこれは、フルタイムで働かないと、ひとり親家庭の子どもは貧困に陥ってしまうし、金銭給付だけでものごとを解決しようとすると、福祉依存や差別といった社会的排除を助長してしまうからという考え方に出るものである。つまるところ、福祉国家モデルが英国の経済的競争力を低下させ、好き勝手に離婚しても社会保障で子どもを養えるとたかをくくった連中のモラル低下を招いている云々という批判などと相まって*18、国民はマネー稼ぎに全員参加、自立せよ、ということになったのである。もちろん、この考え方に問題なしとはしないけれど、いずれにしても、子どもを貧困のサイクルから守るということを最優先した結果、このような考え方に到達したもののようである。参考までに書いておく。

 縷々書いたけれど、20日から23日まで、わが国では3月の三連休ということで、これまで自粛自粛でウンザリさせられてきた人たちが鬱憤晴らしに動き出すような事態(いわゆる〈コロナ疲れ〉に〈コロナ慣れ〉)も見られた。これも致し方ない人のさがである。その前に出された専門家会議の自粛緩和のすすめを人々が拡大解釈したもののようであるけれど、コリャしゃあないなと、そのときは、政府も専門家も人々の反発を恐れてたしなめることはしなかった。2週間後にオーバーシュートなどということにならないことを祈るばかりである。けれど、コロナで死なずとも経済苦で死ぬという人も出るであろうから、私はためしに大いに浪費してみることにした。それが真にカネを必要としている人のところへ行きわたるかと言えば甚だ疑問であるけれど、経済という語は本来、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」の意味であるから、経済活動の本旨というのは、必要なものを必要なところへ届ける活動ということになるのであろう。これで物流が止まったら何をほざいてもどうしようもないけれど、カネがあるとかないとかいうことではなくて、必要なものを十分に行きわたらせることのできる社会的な能力をそなえるということが、本来、経済社会というもののあるべき姿であろう、と思うところもあるのである。という意味で、みなが本当に必要だと思うお店には、たとえそのサービスを利用しなくても、サービスを受けたような気になってお金を置いていったらどうであろうか。これはつまり、働かない人に対価を支払うということであるけれど、誰かが損をしても、別の誰かが便益を得るならば、そいつは経済学的にはトントンである。みんなでやれば、カネは回る。真の意味での無尽である。ちょっとひどい話ではあるけれど、ランズバーグはこんなことを言った。もし、無駄なシャワーがでないようにする特定の蛇口を使用するよう定めたシャワー用蛇口法案について、この法案が「利己的な個人が他人にコストを押しつけるのを禁じた法律」なのだと考えるなら、それは間違った経済学の餌食になることである。曰く「無駄なシャワーを使えば、水の価格上昇を通じて他の使用者に迷惑を及ぼすことは事実だが、他の使用者が受ける被害とちょうど同じ分だけ供給者を助けていることも事実」なのである*19。誰かが損をしても、ほかの誰かが得をするならば、便益の総計は同じである。しかし、金も払わずに過重な負担を出品者に強いる楽天の送料無料サービス化であるとか、反対に、これまでと同じ運賃はとるけれど、激増するネットショッピングの翌日配達サービスはお断りなどという事例はどう考えればよいのだろうか。「経済学に倫理はない」とランズバーグは言ったけれど、これ以上の労働や負担は、正直ご勘弁である。仕事がないならないで、それでよい。サービスの総量を減らして生活を成り立たせること、つまりは、働かない人にもお金を払うということは、案外、意味深な問いなのである。

 

所蔵館

市立長野図書館

 

関連項目

グレン・カールーザース「社会とつながる音楽家」
ジョン・H・ミュラー「音楽と教育――社会学的アプローチ」
バートランド・ラッセル『人生についての断章』

 

 

本文

 

p.13~17 怠け者を見ると、なぜか腹が立つ

1970年頃には、大半の人間は、両親に反抗するのは頭がからっぽではない証拠ぐらいには思っていたが、2001年の今では、息子が私との共同生活を望んだのは、30年前に私がやっきになって両親から逃れようとしたのと同じくらいありふれたことである。同居生活をしてすぐにジェネレーション・ギャップとよく似たものがあらわれてきたのは悔しながら事実であって、息子はスラッカー〔怠け者〕になってしまったのかとショックだった。私はあまりに怒りすぎており、息子の置かれている状況に思い至ることもできなかったが、このことが最大のおどろきだった。私自身、癇癪持ちの父親の激怒をかわしながら成人したので、子どもに即座に怒りをぶつけるようなことはしてこなかったが、息子が来る日も来る日もカウチに寝そべっている光景が、自分を怒り狂わせると知ってショックを受けた。この怒りはなぜ生まれるのか? 息子が時間を無駄にしているのがなんだというのだろうか? 私が大学に入る前までの期間だってすべて無駄だったと言えるし、事実、私の父親はそう主張していた。今や世間は変わったし、やり直しのチャンスはいくらでもある。そう自分に言い聞かせ続けても、どうして自分が怒っているのか、納得がいかなかった。息子が35歳で、ソファーの上に大の字になっているのならともかく、まだ18歳。怠慢さが誘発する感情のなかで、怒りはもっとも共通するものの一つだろう。

 

p.18~19 生活保護制度への怒り

スラッカーへの怒りとしては、ここ12年ほどのあいだに激化していった社会保障制度への怒りが挙げられる。その一部には、「生活保護制度の女王(ウェルフェア・クイーン)」への憤りがある。1995年、ミズーリ州上院議員ジョン・アッシュクロフトは、ヘリテージ財団での演説で、生活保護で暮らしている一家で娘が犠牲になった事件について触れた。娘が泣き叫ぶのにうんざりした母親が娘に満足な食事を与えなかったというもの。しかし、アッシュクロフトが怒ったのはそこではなくて、この女性がただ生活保護の小切手を増やすためだけに子どもを産んだことで、彼は母親の出産をそう捉えていた。こうした話は、社会福祉制度への異議を唱える扇動家たちが、ここ半世紀以上にわたって利用してきた古典的神話の一つ。ジョージ・フォレスによる「怠け者の生活保護受給者(ウェルフェア・ローファー)」攻撃や、扶養児童への経済支援プログラムは「乱れた性行為へのご褒美」だというレスター・マドックス、社会保障制度は子どもたちに「働かず、所得をもたず、読み書きを習わず、ぶらぶらして生活保護の小切手を待つこと」を教えたというニュート・キングリッチの主張なども同様。多くのメーリングリストやブログの投稿も、生活保護の不正受給を悩みの種にしている。その一例にこんなのがある。

 

(…)社会を支えているのは労働……つらい労働なのだ。だから、怠け者の生活保護受給者たちよ、掃き溜めから出て、仕事を持ちなさい。恨み辛みを言うのはやめ、君たちを養う税金のためにせっせと働いている私や他の人々を当てにするのもやめなさい。私のように、額に汗して自分自身の食い扶持を稼いだらどうだ。仕事をしろ! 私は真剣に怒っている!(19頁)

 

p.19~20 社会的労働のみが労働というクリントン政権

この種の怒りは、議会闘争へと流れ込み、1990年代には多数の「勤労福祉制度」や「賃金福祉制度」法案が提出され、そのなかでビル・クリントンは「1996年の福祉改革」と呼ばれる法案を導入、「社会福祉制度の終焉は誰もが知るとおりだ」と言った。同年に「個人責任・就労機会調停法」として成立。そもそもこの名称が問題の核心をついている。

 

(…)つまりアメリカでは、労働とはただの機会ではなく、私たち個人の責任であり、恐らく私たちの最も重要な道徳規範なのだ。一九七〇年代後半には、家庭で子育てをする女性を「働いていない」とほのめかそうものなら、人々は逆上しただろう。彼女の労働は支払われていないだけであり、家事はけっして終わることがない、とフェミニストと伝統主義者たちの見解はこの点で一致していた。ところが一九九〇年代に入ると、社会福祉論争が示唆するところはこれとは正反対になった。何人かの子供を養育しながら家にいる女性が、公的支援を受けているとすれば、彼女はずるい人間であり、スラッカーなのだ。彼女は家の外に出て働かなくてはならない。たとえそれがファースト・フードの接客であっても、自尊心を持ち、子供に正しい見本を示すために(これに反対する勢力は、同情や歴史的展望のなさや、社会保障制度の解体をめぐる無情な政治操作に対し、昔も今も憤っている。社会保障制度は一九三〇年代の悲惨な貧困状況を受けて発足し、一九六〇年代の貧困撲滅運動のなかで進展してきたものだ。ダニエル・パトリック・モイニハン上院議員は一九九六年の制定法について「南北戦争以降でもっとも残忍非道な法律である。この制定に関わった人間には、墓まで恥辱がついてまわるだろう」と述べている)。(20頁)

 

p.20~21 労働の価値というけれど、マックジョブはそれに反した労働なのでは?

職を持っていると証明できなければ、社会計画の「セーフティ・ネット」に近づくことも許されないという社会福祉の姿は、私たちの労働に対する信念がいかに矛盾したものかをはっきりと示している。私たちはすべての人間が働くようにと主張する――最近の研究が示すところによれば、勤労福祉制度は青少年の犯罪を増加させ、学校の成績を低下させるなど、家庭にとっては悪影響をもたらすというにもかかわらず。また私たちは、経済の底辺にいる人々の大半に与えられている職では、生活費も稼げないと知っているにもかかわらず。そして最低賃金の値上げに対しては、揺るがぬ抵抗が(政治の同じ方面から)あるにもかかわらず。ほとんどの人々、こういった法律の制定を推進した多くの人々ですら、安月給の仕事はする価値のないもの、自己実現やモラル育成の手段としては程遠いものだと感づいている。(20~21頁)

 

スラッカー的人物の代表であるジェネレーションXの作家ダグラス・クーブランドは、このような仕事を「マックジョブ」と呼んだ。幸運にもこうした職に就かなくてもよい階級にいる人々にとって、それはキャリアの失敗を意味する記号の原型。「ご一緒にポテトはいかがですか?」と冗談を言って笑えるのは、バーガー・キングで働いていないときだけ。映画『アメリカン・ビューティ』(1999)でホワイトカラーの職を失った中流階級の男性がファーストフード店のドライブスルーで働く。主人公は「以前よりも幸せ」だというけれど、私たちには、それは映画監督の現代をとらえたジョークであると同時に、誇張された社会抗議や、敗北の告白でもあることがわかる。自動でポテトを上げる機械を見つめている仕事は、私たちが労働の価値について話すときに、労働という言葉が意味するものとはかけはなれているけれど、賃金保障制度の支持者たちや社会福祉への反対勢力は、こうした仕事を善い営みだと信じ込ませようとする。ただし、自分たちがやるのでなければ、という括弧づきで。

 

p.21 労働自体を愛しているというのは感覚的におかしい

「労働の価値」とはある意味、矛盾した言い回しである。遊びや余暇とは反対に、労働とはそれ自体が目的なのではなく、何かの手段としておこなわれる。バスケットボールをするのは私たちにとって遊びだが、NBAの選手ならばそれは仕事である。私たちは気晴らしに庭を耕すこともあるが、ロサンゼルスの農園労働移民にとってそれは仕事である。この等式の両者にとって、その活動は楽しみにもなれば、避けがたい苦痛や不満にもなる。だが、たとえ農園労働者やNBA選手がその仕事を愛していたとしても、必ずしも労働の側面を愛しているわけではない。どんな活動でもそれを手段として、つまり生計手段や義務としてとらえれば、その価値を高めも損ないもする(例えば「プロ芸術家」、「セックス・ワーカー」、「プロ学生といったレッテルの違いについて考えてみてほしい」)。だが、一七〇六年にジョン・ロックが言ったように「労働のための労働はその本質に反する」し、あるいは一世紀のちのジェレミーベンサムが言ったように「適正な感覚に鑑みれば、「労働への愛」とは矛盾した言葉である」。私たちは給与をもたらす活動を愛するだろうし、生活のためにバスケットをしなくてはいけない状況を幸運だと感じるかもしれないが、私たちが愛しているのはゲームや金銭であって、「労働」ではないのである。(21~22頁)

 

p.167~168 産業化以前の労働形態は残存していた

マルクスとラファルグが記述していたのは、前世紀に決定的な変貌を遂げた産業社会の仕事場についてである。今日のイメージでは、子供時代の早期に始まり、早すぎる死までつづく、過酷で、途切れることのない、殺人的な、煤まみれの労働という地獄絵図。当時の調査記録などに記述されているもの。しかし、産業化以前の労働の世界から、水力あるいは蒸気を動力とする工場の世界へという変容は、この世紀をとおしてゆるやかに、また中途半端に進んだため、様々な妥協や反発を引き起こし、労働者たちは工場側が押しつけようとする過度に管理された労働スケジュールを受けいれようとはしなかった。

 

(…)農業労働や職人的な仕事からなる産業化以前の世界は、歴史家E・P・トンプソンが言う「集中した労働と無為に過ごす時間とが交互に繰り返すこと」から構造化され、それは「人々が自分たちの労働生活の主導権を握っている場のどこにでもあった」。というのも、その理由は、輸送と市場の関係がまだ不規則だったことや、農業労働のもつ性質にある。農業労働は季節により変化し、雨に妨げられ、雨の予測に背中を押されと、制御不可能な自然のプロセスに左右された、長くしみついた文化的慣習の力が働きつづけたため、非連続な作業から工場での規則化された労働への移行は、けっして滑らかには進まなかった。労働者たちは、自分たちの労働生活の主導権をやすやすとは引き渡したりしなかったのだ。(167~168頁)

 

p.168~169 19世紀の労働者はかなり好き勝手だった

1887年、ニューヨークのある葉巻製造業者が、自分のところで働く労働者がシフト制をとれないことを『ニューヨーク・ヘラルド』紙上でぼやいていた。彼らはいつも、朝、作業場に降りてきて葉巻を2、3本つくると、それから酒場でトランプやゲームに興じていたという。気が向くと戻ってきて、さらに数本の葉巻をつくり、それからまた酒場へ行くので、結局、1日に2、3時間しか働いていないという。これはラファルグが法律で定めるべきと考えていた1日の労働時間とちょうど同じである。実際、ミルウォーキー州の葉巻職人たちは、1882年にストライキに入ったが、その目的は、いつでも工場長の許可なく工場を離れる権利を保持することだった。

 

ここからわかるように、葉巻職人たちはいかにもアメリカらしい製造業労働者だった。彼らはフランクリンが推奨し、また産業経済が支援しつつ押しつけようとする、規律正しい労働習慣なるものを拒否した。十九世紀をとおして、産業家たちは労働者の怠惰と反抗とみなせるものを声高に訴えた。ある製造業者の主張によれば、「月曜日は」いつも「浮かれ騒ぎ」で締めくくるか、週末の深酒からの回復にあてられる。給料日の土曜は、ビールを積んだ荷馬車が工場を訪れ、それから三日間の浮かれ騒ぎの始まりだ。結果として四日の労働日も名目だけで、つねに飲酒をともなうものとなった。仕事中に「ちょっと一杯」で休息をとるのはよくあることで、労働者たちは作業場を自由に出たり入ったりした。一八四六年、あるイギリス出身の家具職人は、本国に宛てた手紙のなかで、アメリカ人の仕事仲間は好き勝手に「まるで暗黙の了解でもあるかのように……仕事をいっせいに中断する」のがしょっちゅうで、見習いたちはよく「ワイン、ブランデー、ビスケット、チーズ」を買いにやらされると述べている。食事や軽食、飲酒、または新聞を仲間に読み聞かせるときに、仕事が中断するのは日常茶飯事だった。仕事に来る時間も切り上げる時間もまちまちで、その一身上の理由もまた、まちまちだった。(168~169頁)

 

p.170~176 ラッダイト運動から1886年の敗北まで

まっ昼間からの飲酒休憩をやめさせようとする経営者側の試みは、決まってストライキや、暴動というかたちで抵抗を受けた。このような組織化されない自然発生的な作業停止は、一世紀が経過するうちに、組織化され、特定の工場や職種の労働者たちを団結させた。労働者たちは、彼らが産業主義の害悪とみなしたものに対して抵抗、その最も劇的な例が、ラッダイトによる「紡織機」すなわち動力織機の破壊。ラッダイトとは、新式の紡織機が自分たちをお払い箱にすると確信した1810年代の紡績工たちのことで、実際、それは真実だった。ラッダイトたちは夜中に徘徊して工場を襲撃、産業階級に恐怖の念を引き起こした。このような産業破壊活動はアメリカではそれほど顕著ではなかったが、労働者ストライキが広範囲に生じることになった。しかしながら、労働組合主義者たちが何をしたところで、最終的に労働者の生活が産業的な変容を遂げていくのは止められなかった。工業機械台数は増えたか、労働者数は伸びなくなった。加速しつづける生産ペースと、それにともなう疲労によって、労働者の死傷事故が一世紀にわたって増え続けた。ストライキ自体でも死者が出ることになり、合衆国の歴史には、血塗られた労働闘争が刻まれた。

そして、労働者は敗残者となった。十九世紀の雇用者たちは、ストライキアジテーションにもかかわらず、規律訓練によって労働習慣を作り上げ、それを規則化することに成功したのである。十九世紀初頭の工場労働者が享受した自由な勤務時間、気が向いたら好きな時にぶらぶら出歩き、ラム酒を一杯ひっかけるという自由な勤務時間は、もう二度と――ドットコム企業が娯楽室を盛んに設置した一九九〇年代においてさえ――労働者たちに戻ることはなかった。(173頁)

 

労働運動の主要な訴えは、一世紀を経るうちに、労働者たちが就業時間を自己管理することから、拘束時間そのものの削減へと移っていく。1日10時間、8時間、そして短命に終わったが6時間労働を求める運動に展開していく。1840年、ビューレン大統領は、連邦政府で働く者すべてに対し、1日10時間労働を命じたが、それはやがて8時間に短縮された。8時間労働運動は当初は成功したように見えた。グラント大統領は、時間短縮の制度化にともない、減給されてはならないと布告した。

 

しかし、この短縮も長くは続かなかった。一八七〇年代の工業不景気や、組合を持たない廉価な移民たちの労働力、そして雇用側からの絶えざる反発により、一八七〇年代の終わりまでに、ほとんどの職種が十時間労働に戻ることになった。そして一八八六年のメイデーに始まるシカゴのマコーミック・ハーヴェスター・マシーン社での八時間労働ストライキ、ここから時間短縮運動は新局面を迎えた。二日後の五月三日、アメリカでもっとも有名な労働争議のひとつである死亡事故が起きる。サウスサイドにあるマコーミックの芝刈り機工場で、ストライキ阻止の実力行使の最中に、二名の労働者が警官隊により殺されたのだ。その翌日には有名なヘイマーケット事件が起きる。これは当初、前日の警官隊の暴挙に対する平和的な抗議運動であった。だが、おそらく警官隊、あるいは労働者が鉄パイプ爆弾を爆破させ、七名の警官が死亡し、警官隊が群衆に発砲したため、四名のデモ参加者が死亡した。八名の労働組合委員が無政府主義者であるとして裁判にかけられ、証拠不十分のまま七名が有罪判決を受け、四名が絞首刑に処せられた。この後、世論は混乱し、過激な労働闘争から脱落する労働者も増え、約半世紀にわたって、八時間労働の適用は下火になった。連邦政府によって、(ほとんど)すべての労働者に対して八時間労働が正式に適用されたのは、ようやく一九三八年になってからのことだった。(175~176頁)

 

p.176 失業率を下げるための短時間労働

労働時間短縮の根本的理由は、つねに労働者の余暇を楽しむ権利に基づいていたが、次第に失業率に歯止めをかけるという主張もその理由のうちに含まれるようになる。例えば、一九三〇年代にジョン・メイナード・ケインズは、不況期には雇用機会を最大限にするため、ひとりあたりの労働を三時間にすることを主張している。一九三〇年、ミシガン州バトルクリークのケロッグ工場では、より多くの人々に働き口を与えるため、八時間ずつの三交代シフトから六時間ずつの四交代シフトに切り替え、これは一九四〇年代の戦需景気までつづけられた。戦争が終わると、六時間制を維持した労働者もいたが、徐々に様々な部門の労働者たちが、ときに圧力を受けながら、八時間労働制に戻りたいという意志を表明するようになる。一九八五年には、ケロッグ社のなかで最後まで六時間労働で踏ん張っていた労働者たちも、あめとむちと圧力を与えられ、八時間労働に切り替えた。(176頁)

 

p.176~177 三時間労働の要求

歴史家のベンジャミン・ハニカットによれば、大恐慌前の100年間において、労働争議の中心には、労働時間を延長したい雇用主の欲望と、自由な時間への労働者たちの欲望が拮抗していたといい、労働者たちはほぼ一様に、「自由な時間」の増加を、可能なもの、望ましいもの、経済成長の自然な帰結と見なしていた。1933年、世界産業労働組合のラルフ・チャップリンゼネストを呼びかけ、いかなる労働者も、日に2時間45分ないし3時間の苦役につくべきではないと主張した。チャップリンの第一の目標は、労働者の搾取を阻止し、資本家階級を餓死させることだったが、結果的に労働時間短縮の要求という付加価値がついた。余暇を欲したのは労働者だけではなく、ジョン・ステュアート・ミルら多くの経済学者も同じ目標を有していて、継続的な生産性を得るためには、ゆくゆくは労働者ひとりあたりの労働時間を減少させていかなければならないと論じた。ミルが期待したのは、その結果、労働者が「心身に対する充分な余暇をもち、自由に生活の恩恵を享受する」ことだった。ここではキケロのいう「余暇(オティウム)」が誰もが手に入れることのできる民主的なものにされている。

 

p.177~179 三時間労働の世界

トマス・モアの『ユートピア』(1516)は6時間労働、ウィリアム・ディーン・ハウエルズの『アルトゥリアからの旅人』(1894)などは3時間労働を打ち出していた。

 

ポール・ラファルグや世界産業労働組合と同じように、ハウエルズも、平等とは社会の全域に仕事の負荷を均等にすることであり、そうすればひとりあたりの労働時間を一日平均三時間に削減できるはずだと考えていた。一日の労働が十二時間であれ、十時間や八時間であれ、それは労働者の暮らしではなく、働かない有閑階級の人々の暮らしを支えるために必要なものにすぎない。ハウエルズ、ベラミー、ジェロームユートピアのなかで、怠ける権利とは、勤労の義務と同様に、社会全体で分かち合われているだろう。なにしろユートピアは三時間労働の国だ。万人のためのスラッカーの王国とは、近代化の果てにある、甘い果実であるだろう。(178~179頁)

 

p.179 大恐慌の影響で無職は罪悪視されるようになる

ところが20世紀になると、勃興する消費主義と大恐慌の影響とで、労働時間短縮のアジテーションはかき消され、ハニカットによれば、ケロッグの労働者たちは長時間労働に戻ることを決めたが、そこには複雑な理由があり、そのすべてが経済的な私欲と結ばれていたわけではなかった。労働にイデオロギー的な価値が失われた社会において、労働者がその特権に対する喪失感を抱いたことが原因であるとハニカットは言う。

 

そしてこの情感ゆえに、ケロッグ社の男性労働者たちのあいだでは、増えつつあった余暇が「女々しい男」や「若い娘」のためのものと見られたのだと。さらに大恐慌によって、人々はあらゆる形態の無職を、ひとしく経済発展の成果と考えるのではなく、一週間に四十時間、あるいはそれ以上の「フルタイム労働」こそ、経済成長の真の原動力であり、そして経済成長こそ究極の目標であると考え始めた。ケロッグの計画の失敗は、こうした世論や要求が、労働時間の短縮に打ち勝ちはじめたあらわれであり、ハニカットはこれを文化の悲劇とみなして、ラファルグとさほど変わらぬ労働観を提示するにいたる。(179頁)

 

p.179~180 短時間労働の言説は敗北を喫した

ハニカットは言う。

 

産業化という病に対する伝統的な労働者階級の治療法であった「労働時間の革新的な短縮」は、もはや言論のうえではほぼ負けを喫している。いまや事実上、労働の支配は問題にされず、ほぼ難航〔ママ〕不落のものとなっている。こうして仕事とは、世俗の宗教や、将来有望な人間のアイデンティティ、救済、目的や方向性、共同体、そして人生の混沌から意味をもたらす「勤勉」の価値を、単純にかつ心の底から信じる人々にとっての手段となる。仕事が生活の中心となることにいまなお懐疑的な少数派は異端者の烙印を押される。そして「娯楽」や科学技術のおもちゃのない、労働と消費以外の時間とは、誰も足を踏み入れたことのない、新たな荒野なのである。(179~180頁)*20

 

p.469~172 新宿ゴールデン街でフリーターについて尋ねてみた

東京の新宿ゴールデン街は、数十年のあいだ日本のスラッカーたちの聖地だった。1960年代までには、賃料の安さから、娼婦や、芸術家、知識人、この辺りの商売に携わる主流を逸れた人々といった雑多な住民を惹きつけ、東京の社会的・政治的・芸術的ラディカリズムの中心になった。それゆえ、日本のスラッカーの中心地にもなっていた。西へ数ブロック行くと、新宿特融の超現代的ショッピングネオンが、ほとんど労働倫理への献身を叫んでいるかのようにきらびやかな祭典を繰り広げている。それとは対照的に、ゴールデン街は、昼はほとんど古風な趣きに、そして夜にはわずかに威嚇的に見える。ガイドブックは、常連や近隣の住民たちのバーであり、西洋人はそう歓迎されるわけではないと警告している。私は「オレンジ」というバーに入って、そこでバーテンダーをしている日本人の女優の卵に「フリーター」のことを尋ねた。日本の開放的なスラッカーのサブカルチャーの構成員で、多くは男性の若者たちのこと〔後述のJIL調査によれば六割が女性〕。フリーターとは、ドイツ語の「frei」と「arbeiter」、すなわち「フリー」と「働くこと」を縮めた言葉だといわれる。それは恐ろしい短縮で、アウシュビッツの入口には「Arbeit Macht Frei」〔働けば自由になれる〕と読める鉄の唐草模様への言及になっているからだ(言うまでもなく、1920年代にヒトラーが政権を獲得していくうえで、ドイツの無職の若者たちが重要な役割を担っていたし、もっと最近ではヨーロッパで頻発した、無職のスキンヘッドたちによる移民殴打事件もある)。フリーターは日本のジャーナリズムやアカデミックな記事で取り上げられ、その内容は、価値観や、社会的連帯、孝行心、義務の衰退を嘆くものだった。アメリカの場合と同じく、大衆文化や、裕福さによってフリーターが生まれたという意見で多くの記事が一致している。アメリカとくらべて親のしつけの悪さが引き合いに出される頻度は低く、経済的な不景気が言及されることのほうが多い。日本の多くの論説委員にとって、この問題は深刻なもので、そのひとりは、「若者の全体数は低下し続けているにもかかわらず、彼らがフルタイムで働くことを拒否することは、社会に悪影響を及ぼす」(472頁)と指摘し、多くの人は、フリーターをたんに「パラサイト」と呼ぶ。

 

p.472~473 フリーターの分類

バーテンダーの女性は、フリーターには3種類あるという。「ただ怠けている人」「引きこもり」(ここではパラサイトシングルのことで、その後、ヒキコモリとは、広場恐怖症になったことを表わすことの方が多いことがわかってきた)、三つ目が、「夢」を持っている人だという。「夢」はそれぞれだが、より多くの場合、芸術的な達成と関係があると彼女は思っていた。「君はフリーターか」と尋ねると、彼女は否定して、私は働いているし、両親とも住んでいないと言う。「でも、君には夢があるんでしょ?」と聞くと、うん、と言って、夢は映画女優になることだが、差し当たっては、自活するために一生懸命働かないと、と真剣に言った。彼女は自分をフリーターとは見なしていなかったが、経済学者の意見は違っていて、日本労働研究機構研究書(JIL)〔現在の独立行政法人労働政策研究・研修機構〕がまとめた報告書によれば、フリーターの定義は、パートタイム、あるいは本職ではない仕事(「アルバイト」)だけを最長5年間続ける18歳から35歳まで労働者となっている。その三分類は、正規雇用を得ようとして挫折して非雇用のままとなっている「やむをえず型」、直近の未来に展望がない「モラトリアム型」、そして芸能界などの専門職で働きたいという「夢追求型」。その3分の2は実家にいる。バーテンダーは、夢を持たない人を臆病者、怠け者、やる気のない人、やる気がなくかつ親からの援助もない人に分類していたが、JILは、三分類を横断して、親からの援助と、やる気があることを前提にしている。

 

p.473~474 フリーターはサラリーマン文化の脅威だ

フリーターたちの周囲を取りまく危機の感覚とは、経済的な現実に基づくものではない。平日四・九時間労働していることを考えればわかるとおり、フリーターたちは「路上で」暮らす結果にはいたらないし、彼らは社会を混乱させはしない——日本人の労働に対する価値観を除いては。文化的理想とされていた「サラリーマン」は、「灰色の服を着た男」のようなもの、善いことというより悪いことを象徴する人物へと推移していった。そしてフリーターは、ローファーやラウンジャーやスラッカーたちのように、一般に広く受け入れられている労働倫理の拒絶、サラリーマン的理想の拒絶としての役目を果たしているのだ。(473~474頁)

 

p.474 フリーターをやってみた感想

文部省〔現在の文部科学省〕は、1996年から98年のあいだに高校を卒業した者を対象に、より広範な調査を実施した。フリーターの27%は「本当にやりたいことがわからなかったため」、21%が「(正規の職に就く以外に)やりたいことがあり、自分たちの雇用形態を後悔していなかった」、16%が「(将来について)もっと真剣に考えていればよかった」、14%が「自由にやりたいことができ、正規の就職をしなくてよかったと思っている」。

 

p.474~475 フリーターたちはよく働いているのでは?

(…)結局のところ、フリーターたちもまた、アメリカのスラッカーに類似していることがわかる――つまり、彼らは怠け者のアイデンティティよりもそのポーズを多く有するという点において。こうした調査に登場するフリーターたちは、自分たちのライフワークが見つからなかったかもしれないが、ずいぶんとよく働いている。あるロックバンドでベーシストをするオガワヨシノリは、クリーニング店で働く。十時から六時までを週五日間、これは法定の週四十時間を少し下回る程度だ。一時雇用の形態は彼に合っている、というのも、彼は七年前に高等専門学校を卒業してから、いまも父親の扶養で健康保険に入っている。つまりは有給休暇もないから、結局は正社員と同じぐらいの時間を、それより安い給料で働くことになる。だが彼は、ミュージシャンの仕事やレコーディングのために時間をつくれる自由や、ミュージシャンとして以外には、職業的なプレッシャーや不安がないことを気に入っている。言い換えると、彼の労働からの自由とは、その多くが錯覚である。だがそれは、彼やその仲間たちにとっては、機会を選び取る感覚を形成するのに役立っている。と同時に、それが親たちや、労働関係機関に勤める公務員たちや、論説委員たちのあいだに文化的な危機感を形成しているのである。(474~475頁)

 

p.475 働くより怠けるほうがよい

人々が懸念することのひとつは、伝統的価値観の喪失である。一九七二年の学生を対象にした国際比較調査では、人生の目標に「働きがいのある仕事」をと答えた学生の割合は、イギリスが十三パーセント、日本が二十八パーセントだったのに対し、アメリカとフランスではたったの九パーセントだった。また一九七五年の別の調査では、日本とアメリカで「怠けて時間を無駄にするよりも、働く方を選びますか?」と質問をしたところ、怠ける方を選んだアメリカの高校生・大学生は日本の三倍以上であり、日本の学生たちの九十パーセントは働くほうを選んだ。だがその後の調査が示すとおり、一九八〇年代の後半までには、こうした国ごとの差異はすでに消滅していた。(475頁)

 

p.475~477 勤労観が強固な社会でスラッカーの文化が活性化

怠け者の増加という危機が差し迫っていたのと同時に、「カロウシ(過労死)」が蔓延しているのではないかと考える者たちもいた。最初の例は1969年。1989年には川人博が率いる弁護士や医者たちのグループが過労死ホットラインを開設。心臓発作や脳卒中がほとんどだった。長谷川吉則博士によれば、犠牲者のほとんどが、時には週百時間におよぶ時間外労働に対して一切の報酬を受けていなかったこと、彼らは「侍のような誇り」から絶え間なく働きつづけたことを主張する。ところが、報道や文化的な論評の内容では、過労死の懸念よりフリーターへの懸念のほうがはるかに多かった。日本の根強い勤労主義は有名で、過労死の原因でもあれば、戦後復興の要因ともなった。忠節心や勤勉さ、協調性、忍耐強さなどは高く評価されたが、こうした背景を見れば、フリーターが、これほど影響力ある文化的造型になったのもなんら不思議ではない。どんな労働観もスラッカーを必要とし、産業的な労働のあるところどこにでも現れる。勤労観が強固なほど、スラッカーの文化は活気づく。日本は、西洋と同じく、その両方が突出している。

 

p.477~478 自分は怠けても他人が怠けるのはダメ

最近、ある家ぐるみのパーティーに出たとき、私は両親の世代の男性と雑談をした。華々しい職歴の人で、引退後は公務員の職を得て、楽で給料がよい、やるべきことは1時間半で終わる仕事だと断言した。週8時間程度の労働でフルタイムの給料をもらう。素晴らしい首尾の良さだと感じている。ところが、私がスラッカーの歴史を書いていると知ると、彼は辺りを見回して人に聞かれていないことを確認すると、言っちゃいけないことではあるけれど、スラッカーのことを書くなら、怠け者の黒人のことを書かなきゃならん、と言ってきた。

ああ、こうした態度のなんと永遠なることよ! 週七時間半の労働でフルタイムの給料を得ていると自慢した男が、いたって真面目に、他人の乏しい勤労意欲に文句を言うのである。彼の発言はいっぽうで完全に人種差別であるが、人種差別だけでは充分な説明にはならない。それは単純に労働倫理が機能するときの仕組みである。労働倫理の最も声高な擁護者が、そのもっとも無頓着な冒涜者となることは多い。社会学的調査には、労働倫理には人種ごとに固定観念があるという根拠となるようなものはまったく存在しない――ここ三十年にわたる二十一の主要な調査を概観しても、出世のためには懸命に働かなくてはならないという信念に、アフリカ系アメリカ人・ヨーロッパ系アメリカ人・アジア系アメリカ人のあいだで目立った違いはまったくない。(478頁)

 

p.478~480 労働倫理は現実を反映していない

最終的に、労働倫理は、現実とはほとんど関係がなく、ただ、私たちやほかの人々が日々をどう暮らしているかから生じる態度や感情で、誰が、誰をどんな瞬間に見ているのか、それ次第。私のコミューン暮らしの経験では、2人で仕事の半分を分担すると、私は3分の2を負担したように考えるようになるということがわかった。反対に、他人は私の3分の1しか仕事をしていないと思いこむようになる。自分自身が怠けているとき、何もしないで何かを得るという考えの周囲には、罪悪感や喜びが生じるいっぽう、他人が怠けているときには、笑いや嫉妬や怒りの感情が引き起こされる。私たちのほとんどがその両方の自己イメージを抱いている。ほかの人々は私たちよりも真面目に働いていると確信するのと同時に、自分はほかの人々よりも真面目に働いていると確信する傾向がある。スラッカーの歴史とは、働くことに対する嫌悪や、働くことから逃れる幻想の歴史(であるとともに、実際にそこから逃れた人々に向けた罵詈雑言の歴史)であるだけでなく、複雑に捻じれた認識の歴史である。

 

(…)ある男の税金を啜る「生活保護制度の女王(ウェルフェア・クイーン)」は、また別の誰かにとっては奮闘する母親である。ある男のスラッカーの息子は、やがてアーティストになるときに備えているところかもしれず、また別の息子は、クリス・デイヴィスの父が言ったようにただ単純に「使えないやつ」なのかもしれない。だがどちらの父親も、それを判断する最適な立場にいる人間ではないだろうし、どちらの父親もたいていはスラッカーではない。父親たちやほかの人々は、私たち皆に向かって鏡を掲げることがある。だがそのときスラッカーたちは、鏡に映る自分の姿を、うまく捉えることができないのである。(480頁)

 

p.479~480 休暇病もあらわれた

私たちは1日何時間もテレビを見ているスラッカー民族で、1950年以来、カウチポテト化した世界を生きていて、それ以前の1920年代にはラジオをめぐって同じ議論が交わされていた。18世紀に小説が人気を集めたときには、モラリストたちは、努力や奮闘という既存の美徳が、子供だましの絵空事の無為な消費によって追い払われてしまうのではないかと心配した。正反対の議論もあって、いわく、

 

(…)私たちはあまりに忙し過ぎるからスローダウンするべきだ、仕事にあまりにも多くの時間や心配や精力を注ぎすぎている、給料よりも週の労働時間が上がる方が早いなんて馬鹿げた忙しさは前代未聞だ、等々。いまの私たちはリラックスするべき時間にもジムで猛然とワークアウトをし、気晴らしのためのスポーツも達成や努力としてとらえ、けっしてスローダウンしないという人々もいる(私たちに認められた最小限の自由時間すら楽しめなくなっているかのように、ある研究者が「休暇病」――与えられた休暇時間に具合が悪くなる傾向――の増えつつあることを示している)。(479~480頁)

 

p.481~482 執筆のプレッシャー

また私にとって、本書の執筆に向かうのには非常な困難が伴ったことも告白しなくてはならない。資料調査はいつでも楽しい作業だったが、そのあとの執筆という難局に差しかかると、私はただぐすぐすしつづけた。それはあたかも、スラッカー主義には伝染性があり、私自身が重症で倒れたかのようだった。ためしに私の編集者に、エージェントに、妻に聞いてみるだけでいい。少なくとも最初のふたりは、私が死んでしまったのではないかと不安がり、妻のほうは、私が長引く植物状態にでもいるのだろうと見ていた。まったく進展のない状態が何ヶ月もつづき、代わりに時間が掛かるだけの無益な計画に取り組んだ。それもひとえに、いわゆる筆をとること、つまりキーボードに指を置くことから逃れるため、執筆を先送りしようとしてのことだ。

けれども、このときの私は、小説を書こうとしていた若い頃と違って、書いていない状態を楽しむことができず、得意がることもできず、ホイットマンが言ったような楽しいぶらつきへと魂を招くこともできなかった。私はただ、その役柄に何のユーモアも、何の楽しみも見いだすことができなかった。歳を取りすぎたんだろう、と思った。あるいは、幻想から醒め、現実的になりすぎてしまったのだろうと。(…)いずれにせよ、そのプレッシャーは、最終的に書くことを余儀なくされるか、完全に頭がおかしくなってしまうか、そのいずれかにいたるまで、日に日に重くのしかかっていた。(481~482頁)

*1:松尾匡『反緊縮三派の議論の整理』(学術コンファレンス 「長期停滞・低金利下の財政・金融政策: MMTは経済理論を救うか?」配布資料、2020年1月31日開催、主催/日本金融学会機関誌『金融経済研究』・ 慶応義塾大学経済学部・ 慶応義塾大学経済研究所)、1頁、2020年。

*2:松尾、同書、3~4頁。

*3:松尾、同書、6頁。

*4:ティーヴン・ランズバーグ『ランチタイムの経済学』佐和隆光監訳、吉田利子訳、ダイヤモンド社、1995年、181頁。

*5:ランズバーグ、同書、181~182頁。

*6:バートランド・ラッセル『ヒューマン・ソサエティ――倫理学から政治学へ』、勝部真長・長谷川鑛平訳、玉川大学出版部、1981年、56頁

*7:バートランド・ラッセル『人生についての断章』、ハリィ・ルージャ編、中野好之・太田喜一郎訳、みすず書房、1979年、22頁。

*8:ラッセル、同書、23頁。

*9:ラッセル、同書、71頁。

*10:『南山剳記』、2020年2月5日記事、web(https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/02/05/160334)。

*11:『南山剳記』、2020年2月7日記事、web(https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/02/07/211844)。

*12:『南山剳記』、2020年1月3日記事、web(https://nanzan-bunko.hatenablog.com/entry/2020/01/03/225056?_ga=2.203533648.1921663816.1578055817-1803839563.1481601444)。

*13:ベルナルド・リエター『マネー崩壊――新しいコミュニティ通貨の誕生』、小林一紀・福元初男訳、日本経済評論社、2000年、11頁。

*14:リエター、同書、26頁。

*15:リエター、同書、42頁。

*16:リエター、同書、10~11頁。

*17:リエター、同書、69頁。

*18:所道彦『ブレア政権の子育て支援策の展開と到達点』(国立社会保障・人口問題研究所『海外社会保障研究. 2007 (Autumn) (160)』所収)、88~89頁。

*19:ランズバーグ、前掲書、314頁。

*20:私註:出典はベンジャミン・ハニカット『ケロッグの6時間労働』(“Kellogg’s Six-Hour Day”, Philadelphia: Temple University Press, 1996.)であろう。なお、邦訳本の事項検索からハニカットの名前は欠落しているが、参考文献には同書が挙げられている。

マインドアサシンかほる 説法その1⑧(服部 洋介)

マインドアサシンかほる 説法その1(⑧)

服部洋介『マインドアサシンかほる』説法その1(気がふれ茶った会 編『気がふれ茶った会』第1号)、気がふれ茶った会、1995年

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【服部 洋介・撰】

 

解説

すでにご存じの通り、かれこれ25年前、18歳のときにものした、ちょっとアレな漫画。WHOが新型コロナウイルのパンデミックを宣言し、世情騒然のさなか、まことバカバカしくて恐縮だが、せいぜい笑って憂さ晴らししていただきたいと願うばかりである。

関連項目

マインドアサシンかほる 説法その1(①)
マインドアサシンかほる 説法その1(②)
マインドアサシンかほる 説法その1(③)
マインドアサシンかほる 説法その1(④)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑤)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑥)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑦)

 

前回までのあらすじ

稲荷教団の支配下に入っちまった日本。あわてて国外逃亡しようとした村川氏であったが、某Yに発見され、命の危機に。追い詰められた村川氏は、マインドアサシンとして立ち上がることを決意する。それはそうとして、某Yに半殺しにされたヤクザ・宮尾会は……。

 

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某Yに半殺しにされたはずの宮尾、案外気楽に養生していた

 

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そこへ訪ねてきた制服姿の男。ポストマンか?

 

じつはこの男、郵便局員ではなく、新鮮組なる組織で3番隊の隊長をしていたセイメイという者だということが明らかにされるのであるけれど、以下、わりとクドクドと宮尾とセイメイの益体もない過去のエピソードが語られるので、省略させていただきたい。要するに、宮尾ってのは新鮮組の局長だったという設定で、ナンとなくお察しの通り、ここでも執拗に『るろうに剣心』のパロディがくりひろげられてゐるのである。

 

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1995年当時の円相場がしのばれるエピソードである

 

漫画の中では、宮尾は自前の流派剣術を駆使して、牙突なんかをくりだしてみせるのであるけれど、『るろうに剣心』によれば、牙突ってのは、新撰組の3番隊長であった斎藤一の必殺技ということになっている。その斎藤、局長の近ドーが官軍に降ったのちは、会津様にしたがって戦い、のちに藤田五郎なんどと名乗って警視庁に入り、西南戦争を戦うのであるけれど、そういうわけで、セイメイも官憲の服装をしているのである。髪型まで斎トーのパロディである。

さて、そのセイメイ、じつはすでに某Yさんに降っており、手下として宮尾のタマをとりにきたことが判明、「悪即斬」とばかりに、問答無用の斬り合いということになった。

 

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結局、いつものように暴力で解決だ

 

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あっさり1コマで斬られた

 

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こういうところだけ北斗のケンシロウのパクリ

 

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何度も見てきたようなシーンである

 

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めでたくヤクザ稼業に復帰した宮尾

 

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そこにどこかでみた顔が駆け込んできた

 

ヤクザの事務所に駆け込んできた村川氏。どうやら、マインドアサシン作戦は不発に終わったらしい。なお、この「たちけてー」というのを、私の創案になるものと思いこんでいる人が多々おられるが、これはもちろん、水木しげる先生のパクリである。あしからず。

 

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村川氏を追撃してきた某Yと偶発遭遇だ

 

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期せずして某Yと再戦することになったヤクザ

 

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無節操に話の舞台が変わるのが、この漫画の特徴だ

 

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マルはインドで修行をしていたもののようである

 

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何に目覚めたというのか、マルよ

 

なにやら深遠な修行を続ける、マル。しかし、背後には、某Yに謀反を企ててブッとばされたアサシンのタケシの姿が……。次回!

 

マインドアサシンかほる 説法その1⑦(服部 洋介)

マインドアサシンかほる 説法その1(⑦)
服部洋介『マインドアサシンかほる』説法その1(気がふれ茶った会 編『気がふれ茶った会』第1号)、気がふれ茶った会、1995年

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【服部 洋介・撰】

 

解説

すでにご存じの通り、かれこれ25年前、18歳のときにものした、ちょっとアレな漫画。理解のむずかしいところは都度、解説することとして、ひとまずお読みいただきたい。

 

関連項目

マインドアサシンかほる 説法その1(①)
マインドアサシンかほる 説法その1(②)
マインドアサシンかほる 説法その1(③)
マインドアサシンかほる 説法その1(④)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑤)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑥)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑧)

 

前回までのあらすじ

日本征服を企てる稲荷教団に対して反旗を翻したヤクザの宮尾会と、暗黒歌道のマルサン。ところが、アサシンのタケシとドイツ騎士団の矢野右京に秒殺され……。自分たちのあまりの強さに驚いたアサシンとドイツ騎士団、もしかして、稲荷教団に勝てるのではないかと思いこみ、謀反に及ぶのだったが……。

 

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謀反を決意する二人。

 

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まさに下克上である。

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案の定、瞬殺された。

 

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すべては夢だと自分に言い聞かせる、山田。

 

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某Yの天下である。

 

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ところで、村川氏はスーツケースを片手に道を急いでいた。

 

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しかし、すぐに某Yに発見されてしまった。

 

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死の宣告だ。

 

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ついに立ち向かう決心をした村川氏。

 

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村川氏、いよいよ反撃だ。

 

黒い手袋をはめただけでマインドアサシンになれるなら、わが日本国はマインドアサシンだらけになっていることであろう。なお、ネタ元はご存じの通り、かずはじめ先生の『MIND ASSASSIN』(主に『週刊少年ジャンプ』に掲載。集英社、1994年~1995年)である。私にパクられるほどの名作漫画ではあったけれど、巷間もっぱら、打ち切りにされちまったものと噂されている。

マインドアサシンかほる 説法その1⑥(服部 洋介)

マインドアサシンかほる 説法その1(⑥)

服部洋介『マインドアサシンかほる』説法その1(気がふれ茶った会 編『気がふれ茶った会』第1号)、気がふれ茶った会、1995年

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

解説

すでに縷々述べ来ったように、25年ほど昔、18歳の砌にものした、世にもくだらなすぎる漫画。しかし、随所に当時の世相を偲ばせるアレコレが活写されており、100年もすれば案外と貴重な史料になるのではないかと思われるが、時事を茶化したようなろくでもないジョークも少なからず含まれており、若気の至りというほかない。もっとも、100年もすれば、そういう部分の史料価値の方がより高くなるのではないかという気がしないでもないが、現段階では炎上の危険性の方が高いので、そのような箇所は墨塗とする次第である。あしからず。

 

関連項目

マインドアサシンかほる 説法その1(①)
マインドアサシンかほる 説法その1(②)
マインドアサシンかほる 説法その1(③)
マインドアサシンかほる 説法その1(④)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑤)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑦) 

 

前回までのあらすじ

日本の悪者どもの頂点に君臨する、どう考えてもまっとうなお稲荷さんとは思えない、ナントカ派・稲荷教団の某Yさん。その独裁体制を打破しようとしてヤクザの宮尾会と暗黒歌道のマルサンが、ついに某Yに反旗を翻した。自前の流派剣術で某Yに挑む宮尾会だが……。

 

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るろうに剣心』によると、正しくは「戦術の天才・土方歳三の考案した平刺突」であるらしい

 

このあたりは、『るろ剣』に対するオマージュというよりは、もはや愚弄の域に達しておって、まこと恐縮である。のちにものした『SHIMOYAN物語』という漫画には、「飛天御剣流」ならぬ「シュマルカル天御剣流」なる最強の流派が登場するが、どっちにしても和月先生のお叱りを蒙ることに変わりはない。

 

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しかし、秒でかわされた平牙突

 

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あくまでも決戦志向を放棄しないヤクザ。

 

なお、この二刀流、作者の創案になるものではなくて、あくまでも宮尾氏が編み出されたものである。念のため。

 

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しかし、まったく歯が立たない二刀流。

 

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ヤクザを助太刀しようとする暗黒歌道だが……。

 

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あえなく持病で自滅した。

 

この耳慣れない症例は何かというと、その出典は、X JAPANのアルバム『ART OF LIFE』に寄せた市川哲史のライナーノーツの次のような一文にある。

 

そもそもこの大作の誕生の契機となったのは、89年11月22日、渋谷公会堂ライヴ終了後の楽屋でYOSHIKIが、「過労性神経循環無力症」によって倒れた事件だ。*1

 

今般の新型コロナウイルス騒動では、音楽イベントの自粛を呼びかけてホリエモンから「大御所ミュージシャンによる圧力だ」と批判を受けたYOSHIKIであるけれど、じつは暗黒歌道のマルサンのビジュアル的なモデルはYOSHIKIだったということが、このような史料によって実証されちまうのである。

 

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ターゲットをより弱そうな奴らに切り替える、ヤクザ。

 

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抗戦意欲旺盛なアサシンとドイツ騎士団

 

 

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どれだけ好きなんだ、そのたとえ。

 

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またしてもマルの叫びは墨塗だ。

 

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自信とは裏腹に、一瞬で返り討ちだ。

 

なお、矢野右京大夫が発した「ファイエル」という文句であるが、どうもこれはドイツ語「Feuer」、英語でいうところの「fire」であるらしく、長らく私のまちがったドイツ語観によるものと思いこんできたが、かえりみるに、どうもこれは『銀河英雄伝説』に由来するものであるらしい。念のためにググってみると、「ファイエル」とは銀河帝国公用語で、砲撃の際に用いられる用いられる号令であるとのことである(『ニコニコ大百科』)。なお、当該ドイツ語の正しい発音は「ファイエル」ではなく、「フォイアー」なのではないかという暇な議論も見られるけれど、こんなどうでもいい雑知識を調べるにも、当時であれば、わざわざ木村・相良版のドイツ語辞典を引っ張り出してこなくてはならなかったことを思えば、この25年の技術的進歩には、隔世の感すら抱かしめるものがある。なにしろ、当時はといえば、つなぎっぱなしのインターネットなんてものはなく、会員制のパソコン通信しかなかったのであるから。

さて、そもそも当時、パソコンなどというものをもっていたのは、一部のコアな理工系男子ばかりで、パンピーワープロとパソコンの何が違うのか、それすらイマイチよくわかっていなかった。矢野右京大夫のモデルになった矢野氏も早くからパソコンを使いこなしておられたが、当時のパソコンなんてのは、まずDOS画面から立ち上がるわけで、アイコンなんてものは必ずしもついてはいなかった。で、その矢野氏のお宅に遊びに行くと、アニメ版『銀英伝』(おそらくレーザーディスク)や、第二次世界大戦の実録映画を観るのが恒例行事となっており、そこで「ファイエル」を刷り込まれてしまった可能性が高い。

なお、この漫画が世に出た1995年に「Windows95」が発売され、世の愚か者が争ってこれを買い求めたのであるけれど、多くの人にとっては、結局のところ、パソコンとは、「メールができるワープロ」程度のものにすぎなかった。ビル・ゲイツはコンピュータ普及の先にコミュニケーションの無料化、つまり常時接続のインターネットの普及ということを想定していたようであるけれど、日本におけるブロードバンドの普及は20世紀末を待たなくてはならなかったから、当時の私などは、インターネットを無料開放していたコンピュータ専門学校のエントランスホールへ行って、そこに設置されていたパソコンでインターネットのやり方を覚えたくらいである。もっとも、大学にはネットのつながるパソコンもあったけれど、登録制になっていて、他学の人と健全なメールのやり取りをするのが関の山、あまり気が進まなかった。

ところで、日本のブロードバンド発祥の地はどこかというと、意外や意外、長野市川中島であるといわれている。これは、国内初となる商用ADSLインターネット接続サービスとして注目を集めたが、これを可能としたのは、川中島町有線放送の農村有線放送電話網を使うという裏技であった。しかし、これには事情があって、実験を担当した信州大学名誉教授の中村八束博士によると、ADSLの普及ということにかんしては、ISDNを掲げるNTTとの激しい攻防があって、ずいぶんとやりあったようである。一方で博士は、大学には早くから光ファイバーを入れており、企業や家庭向けにはADSLを普及させるという構想をもっていた。その後、ADSLを通じて高速インターネットがどのようなものであるかが広く知られることによって、ADSLを通り越して、世間は急速に光回線に切り替わるようになって今日に至るのであるけれど、それが定着するまでには熾烈な戦いがあったのである。もっとも、光を導入して以後のNTTの回線の引き方などは理にかなったものであって、さすがと思わせるところがあったと博士は回顧しておられた。*2

なお博士は、PC98とコンパチをめぐる抗争にも関与しており、「黒船襲来」「最初の黒船は信州大に上陸」と雑誌に書かれちまったとの由である。そのころ博士は、キャンパスネットの構築にかかっていて、日立のHネットや富士通のFネットとも抗争をくりひろげていた。博士によると、「インターネットを入れたのも信州大学が一番早かったと思う」との由である。当時は、学生がキャンパスの地下に潜って線を引いていたという。*3

なお、伊那や川中島におけるブロードバンド実験に手腕を発揮したのは、ポーランドxDSLを学んだ平宮康広氏であって、2000年には信州大学工学部の非常勤講師となっている。このときの世話教授が中村博士で、NTT回線を使ったxDSL実験を断られたため、農村有線を紹介してほしいと平宮氏から依頼されたのがきっかけであったようである。2001年、ソフトバンクBBの技術本部長に就任、以後2005年まで、いわゆる「Yahoo! BB」網の設計・構築を主導されたとのことである。

ちなみに、中村博士は母校のOBであって、たしか、私が高校一年生のときに、「最年少で大学教授になった数学者」という触れ込みで、母校に講演に来られたのを記憶している。後年、博士にお会いした際に確認したところ、講演のことはよく覚えておられた。なつかしく思い出される事どもである。

 

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暗黒歌道も瞬殺だ。

 

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無理もない感想だ。

 

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よくあるバイアスである。

 

ヘンな自信をつけてしまったアサシンとドイツ騎士団。稲荷教団に対して下克上をしかけようと目論むが……。結果は次回!(見なくてもわかるような気がするけれど) 

*1:市川哲史X JAPANART OF LIFE』付属のライナーノーツより、1993年。

*2:中村八束、インタビュー、2014年4月8日。

*3:中村、同上。

マインドアサシンかほる 説法その1⑤(服部 洋介)

マインドアサシンかほる 説法その1(⑤)

服部洋介『マインドアサシンかほる』説法その1(気がふれ茶った会 編『気がふれ茶った会』第1号)、気がふれ茶った会、1995年

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【服部 洋介・撰】

 

解説

すでに①~④の記事で述べたとおり、25年ほど前、18歳の時分に描いた、世にもくだらねー漫画。今回から、いよいよ話が進展して、悪者たちの抗争がくりひろげられるわけであるが、読めばわかることなので、特に解説すべきことはない。なお、文中、特段に不適切な箇所は墨塗にした。

 

関連項目

マインドアサシンかほる 説法その1(①)
マインドアサシンかほる 説法その1(②)
マインドアサシンかほる 説法その1(③)
マインドアサシンかほる 説法その1(④)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑥)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑦) 

 

前回までのあらすじ

日本悪者連盟の懇親会に先立ち、お食事係の林さんが暗殺された。下手人探索のために臨時総会が開かれることになったのだが……。メンバーは暗黒歌道、ヤクザ、暗黒音楽協会、ドイツ騎士団にアサシンとかなりイッちゃった顔ぶれだが、それだけではないという話になり……。

 

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まだ出席者がいると聞いておどろくマルサン。

 

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その上、どれだけの悪者が登場するというのか?

 

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なお、伏見稲荷大社とは一切関係ありませぬ。

 

ところで、戦前にはキツネやミイサンなど、得体の知れないあやしーのを神サンと拝んで信者を集めた民間宗教団体がかなりあって、官幣大社なんどに行ってもナンの話も聞いてもらえない庶民たちが、現世利益を求めてワンサカと集まってきたという話である。その結果、一見、お稲荷さんみたいな社がアッチコッチにできて、そのまま今日も残っているものがあるようである。

ところで、自分でも民間の新興宗教団体に潜入して、先生の助手なんかしておった赤松啓介の書いたものによると、昭和の初め頃、生駒山付近の行場に、正一位の上に「最上位〇〇稲荷」というのがあってびっくりした、という。聞いてみたら、それはエライお稲荷さんで、正一位の上の「最上位」をもらったものだという。誰にどこからもらったのかと聞くと、「先生がもろてきはりました」という。気をつけて見ていると、大阪、神戸あたりにもときどき「最上位」稲荷大明神があるが、さすがにまだ珍しいという。一般にお稲荷さんは「正一位」と決まっているが、あれにも正と権、あるいはニセがあるそうだからややこしいとのことで、「正」というのは伏見の稲荷大社で位記をもらった神サン、それがないのが自称の「権」だというのだが、赤松曰く「位記をもらったというのも怪しいもので、同大社の記帳に書くと承認ということらしい」*1。もっとも、最上稲荷については、むしろ岡山の最上稲荷山妙教寺日蓮宗)にヒントを得たもののようにも思われるが、どうであろうか。ただ、赤松は播州の生まれであり、備中の妙教寺のことはよく知っていたものと思われるから、この見方は当たらないのかもしれない。

なお、この件、『民衆宗教史叢書』というシリーズの第30巻にあたる「憑霊信仰」(小松和彦編、雄山閣、1992年)という本に収められている「カミ、つきもの、ヒト : 島原半島民間信仰をめぐって」(石毛直道松原正毅・ 石森秀三・ 鷹巣和則)という論文に具体的な記述があって、そこらのおキツネさんにどないやって位をとってくるのか、そのへんのことを調べて書いてある。野狐がどうやってお稲荷さんになるのか、まこと興味深い。

と書いてしまうと、某Yさんもあながち伏見稲荷と無関係とはいえないように見えるかもしれないけれど、そのへんの謎は、漫画を読み進めることで、氷解するであろう。たぶんね。

 

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狼狽する悪者たち。

 

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稲荷教団は、国家レベルの実力組織らしい。

 

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すでに某Yの旗下に入ったらしいドイツ騎士団

 

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あまり不条理な殺害理由だ。

 

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そのフランスの人、どこの誰なのか、私も知らない。

 

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ほとんど狂気の沙汰である。

 

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た、たしかに……。

 

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暗黒歌道すらビビる恐ろしさだ。

 

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稲荷教団に異見つかまつるヤクザ。

 

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やはり暴力で解決だ。

 

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まさかの「微笑み三年殺し」か!?

 

極悪宮尾会と稲荷教団の全面抗争、勝負は見えているような気もするが、多少の意地は見せてほしいところである。次回へ続く。

*1:赤松啓介『宗教と性の民俗学明石書店、1995年、99頁

マインドアサシンかほる 説法その1(④)(服部洋介)

マインドアサシンかほる 説法その1(④)

服部洋介『マインドアサシンかほる』説法その1(気がふれ茶った会 編『気がふれ茶った会』第1号)、気がふれ茶った会、1995年

剳記一覧 :: 南山剳記

 

【服部 洋介・撰】

 

解説

くりかえしになるが、かれこれ25年ほど前、18歳のときにものした、世にもくだらねー漫画。詳しいことはすでにシリーズの①、②、③の記事であらかた書いたので、これ以上、述べることは、今のところはあまりない。しかし、アホだな、これ。

 

関連項目

マインドアサシンかほる 説法その1(①)
マインドアサシンかほる 説法その1(②)
マインドアサシンかほる 説法その1(③)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑤)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑥)
マインドアサシンかほる 説法その1(⑦)

 

前回までのあらすじ

賭け連歌で一儲けしようと目論んだ村川氏。暗黒歌道の総帥・マルサンに依頼してヤクザの宮尾会と連歌バトルをくりひろげるも、結局は暴力で解決することに……。マルサンVS宮尾の一騎討ち、勝負の行方は……?

 

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と、そこに、争いはやめたまへと言い出す人が。

 

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しかし、問答無用で殺されてしまった。

 

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すると今度は、集団でやめろと歌い出した。

 

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指揮者がナンか講釈を垂れ始めた。

 

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顔見知りか?

 

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この経歴はすごいのか、すごくないのか……。

 

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一応、用件を聞くヤクザ。

 

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懇親会の献立についての相談らしい。

 

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めずらしくマトモなことを言い出すマルサン。

 

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ナンか言い分があるらしい。

 

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まさかの料理人殺害で、緊急会議開催ということになった。

 

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どういう集まりなんだ、これ。

 

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メンバーは例の3人らしい。

 

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まだいるのか。

 

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この人たち、大丈夫なのか!?

 

なお、矢野右京の「右京」は、杉下右京の「右京」ではなくて、矢野右京大夫の「右京」であることは、マニアの間ではほぼ常識である。ついでながら、武田信玄の「玄」の字は、臨済義玄と関山慧玄の「玄」からとったと『甲陽軍鑑』の第4品に書かれておる。どうでもエエことやねんけどね。

次回、史上最凶の悪者が登場、日本悪者連盟臨時総会が阿鼻叫喚の巷に!